舊五代史

唐書二十四: 末帝本紀下

清泰三年春正月辛卯の朔、帝は文明殿に御して朝賀を受け、仗衛は定式の如し。乙未、百濟は使いを遣わして方物を献ず。戊戌、龍門の佛寺に幸して雪を祈る。癸卯、給事中・充樞密院直學士呂琦を以て端明殿學士と為す。六軍諸衛判官・尚書工部郎中薛文遇を以て樞密院直學士と為す。乙巳、上元の夜、京城に燈を張るに因り、帝は微行し、酒を趙延壽の第に置く。丁未、皇子河南尹・判六軍諸衛事重美を雍王に封ず。己未、前司農卿王彥鎔を以て太僕卿と為す。

二月戊辰、吐渾寧朔兩府留後李可久に檢校司徒しとを加ふ。可久は本姓白氏、前朝にて姓を賜はる。庚午、監修國史姚顗、史官張昭遠・李祥・吳承範等、撰修せる『明宗實錄』三十卷を上る。(『五代會要』に曰く、同修撰官中書舍人張昭遠・李祥、直館左拾遺吳承範、右拾遺楊昭儉等、各頒賚差有り。)大理卿竇維を以て光祿卿と為し、前許州節度判官張登を以て大理卿と為す。丁丑、太常卿李鈴を以て兵部尚書と為し、兵部尚書梁文矩を以て太常卿と為す。庚辰、前鄜州節度使皇甫立を以て潞州節度使と為す。辛巳、前均州刺史仇暉を以て左威衛上將軍と為し、保順軍節度使鮑君福に檢校太尉・同平章事を加ふ。丁亥、昭義節度使安元信卒するを以て朝を廃す。

三月庚子、中書門下奏す、「閣門の分析する内外官の辞見謝の規例に準ずるに、諸州の判官・軍將進奉の闕に到るは、旧例は門見門辞す。今後は隻だ朝見を令し、旧に依り門辞す。新に除する諸道の判官・書記以下は中謝の例無く、並びに謝を放ち辞を放つ。得替して京に到るは見る例無し。今後は両使判官は中謝を許し、任に赴くは即ち門辞す。其の書記以下は並びに旧例に依る。朝臣文は五品・武は四品以上は旧例中謝す。其の以下は対謝の例無し。今は天成四年正月の敕に依り、凡そ升朝官は並びに中謝を許すことを請ふ。諸道の都押衙・馬歩都指揮・虞候・鎮將・諸色場院は、謝辞の例無く、並びに榜子を進めて謝を放ち辞を放つ。得替して闕に到るは、入見の例無し。京中の塩曲税官・両官巡は即ち中謝を許す。新に除する令・録は並びに中謝し、次日に門辞し、兼ねて口敕有りて誡励す。文武両班の差す所の弔祭使及び廟祠祭を告ぐるは、隻だ正衙に辞し、内殿に赴かず。諸道の進奏官の闕に到るは、見、假を得、榜子を進めて門辞す。」と。之に従ふ。辛丑、権知福建節度使王昶奏す、節度使王延鈞は去年十月十四日に卒すと。是の時、延鈞父子は閩嶺に僭窃すと雖も、猶朝廷に藩を称す。故に是の奏有り。甲辰、右神武統軍楊漢章を以て彰武軍節度使と為す。丙午、翰林學士・禮部侍郎馬裔孫を以て中書侍郎・同平章事と為す。丁巳、端明殿學士呂琦を以て御史中丞と為す。(案ずるに『通鑒』に、呂琦は李崧と契丹と和親するの策を建つ。薛文遇に沮まれて、御史中丞に改む。蓋し之を疏んずるなり。)戊午、御史中丞盧損は責めて右讚善大夫を授け、知雑侍御史韋税は責めて太僕寺丞を授け、侍御史魏遜は責めて太府寺主簿を授け、侍御史王嶽は責めて司農寺主簿を授く。初め、延州保安鎮将白文審は兵の岐下に興るを聞き、専ら郡人趙思謙等十餘人を殺す。已に其の罪を伏す。復た台に下して追ひ係へ推鞫す。未だ竟はざるに、去年五月十二日の德音に会す。十悪五逆・放火殺人の外は並びに放つ。盧損は輕易に即ち械を破りて文審を釋す。帝大いに怒り、文審を収めて之を誅す。台司は德音を奉じて釋放すと称し、追ひて祗證を領するを得ず。中書詰めて云く、德音に「枝蔓を追窮せざるに在り」と言ひ、「祗證を追領するを得ず」の六字無しと。敕語を擅に改む。大理は失出の罪人を論ずるを断ず。故に是の命有り。是の月、蛇鼠師子門外に闘ふ。鼠生きて蛇死す。

夏四月己未の朔、左衛上將軍王景戡を以て左神武統軍と為し、右領軍上將軍李頃を以て華清宮使と為す。戊辰、太子詹事盧演を以て工部尚書致仕と為す。辛未、中書舍人・史館修撰張昭遠を以て禮部侍郎と為し、前滄州節度使李金全を以て右領軍上將軍と為す。是の月、熊京城に入りて人を捕ふ。

五月辛卯、河東節度使・兼大同彰國振武威塞等軍蕃漢馬歩総管・檢校太師・兼中書令・駙馬都尉石敬瑭を以て鄆州節度使と為し、趙國公に進封す。河陽節度使・充侍衛馬歩軍都指揮使宋審虔を以て河東節度使と為す。甲午、前晉州節度使・大同彰國振武威塞等軍蕃漢副総管張敬達を以て西北面蕃漢馬歩都部署を充て、副総管を落とす。乙未、詔す、「諸州の両使判官・畿赤令に闕有らば、省郎・遺補・丞博・少列宮僚を取り、選択して擢任す。」と。忠正軍節度使・侍衛歩軍都指揮使張彥琪を以て河陽節度使と為し、侍衛馬軍都指揮使を充つ。彰聖都指揮使・饒州刺史符彥饒を以て忠正軍節度使と為し、侍衛歩軍都指揮使を充つ。丙申、雍王重美と汴州節度使範延光と結婚するに、詔して兗王從溫に之を主たしむ。丁酉、國子祭酒馬縞卒するを以て朝を廃す。

戊戌の日、昭義軍より奏上あり、河東節度使石敬瑭叛く。鴻臚卿兼通事舍人、判四方館の王景崇を衛尉卿と為し、引進使を充てる。壬寅の日、石敬瑭の官爵を削奪し、直ちに張敬達に進軍して攻討せしむ。乙卯の日、晉州節度使張敬達を太原四面兵馬都部署と為し、尋いで招討使に改む。河陽節度使、侍衛馬軍都指揮使張彦琪を太原四面馬歩軍都指揮使と為す。邢州節度使安審琦を太原四面馬軍都指揮使と為す。陝州節度使相裏金を太原四面歩軍都指揮使と為す。右監門上將軍武廷翰を壕寨使と為す。丙辰の日、定州節度使楊光遠を太原四面兵馬副部署、兼馬歩都虞候と為し、尋いで太原四面副招討使に改め、都虞候は元の如し。前彰武軍節度使高行周を太原四面招撫兼排陣使と為す。初め、帝は河東に異志あるを疑い、近臣と語りその事に及ぶ。帝曰く「石郎は朕に近親、不疑の地に在り、流言毀誉、朕心自ら明らかなり。万一歓を失せば、如何にして和解せん」と。左右皆対へず。翌日、石敬瑭を鄆州に移さんと欲す。房暠等堅く言う不可と。司天監趙延乂も亦星辰失度を言い、特に安静を宜しくすと。是に由りて稍々其事を緩む。会に薛文遇独り禁中に宿す。帝之を召し、太原の事を諭す。文遇奏して曰く「臣聞く、道に作舍すれば三年成らずと。国家の利害、宸旨を断ずるに、臣の料るに、石敬瑭は除くも亦叛き、除かざるも亦叛く。先事に之を図るに如かず」と。帝喜びて曰く「卿の此の言を聞き、吾が憤気を豁く」と。是に先立ち、或る人の言あり、国家明年賢佐を得て主謀し、天下を平定すべしと。帝の意も亦賢佐なる者は文遇に属するを疑い、即ち手書して除目を下し、子夜に学士院をして制を草せしむ。翌日、制を宣するの際、両班色を失う。六七日を居て、敬瑭上章して云く「明宗の社稷、陛下之を纂承す。未だ輿情に契はず、宜しく令辟を推すべし。許王は先朝の血緒、皇闈に徳を養う。儻し当璧の言に循はば、鬩牆の議を負うを免れん」と。帝奏を覧て悦ばず、手を攘げて地に抵つ。馬裔孫を召し詔を草して報じて曰く「父に社稷有れば、之を子に伝う。君に禍難有れば、之を親に倚る。卿は鄂王に於て、故に疏遠に非ず。往歳衛州の事、天下皆知る。今朝許王の言、人誰か肯て信ぜん。英賢事を立つるも、安んか斯くの如くせん」と云う。

戊申の日、張敬達奏上す、西北面先鋒都指揮使安審信、雄義左第二指揮二百二十七騎を率い、並びに部下共に五百騎、百井を剽劫し、叛いて太原に入る。又奏上す、大軍已に太原城下に至ると。詔して安審信及び雄義兵士の妻男を並びに処斬し、家産を没官す。先に、雄義都は伏州に屯戍す。其の指揮使安元信、伏州刺史張朗を謀殺せんとす。事泄れ、戍兵自ら潰え、安審信の軍に奔る。審信之と太原に入る。太常奏上す、河南府東に於て権りに宣憲太后の寢宮を立つ。之に従う。己酉の日、振武節度使安叔千奏上す、西北界巡検使安重栄、戍兵五百騎を駆掠し、叛いて太原に入る。新たに授かる河東節度使宋審虔を宣州節度使と為し、侍衛馬軍都指揮使を充てる。壬子の日、鄴都屯駐捧聖都虞候張令昭、節度使劉延皓を逐い、城を拠りて叛く。翌日、令昭、副使辺仁嗣以下を召し、逼りて節旄を奏請せしむ。

六月辛酉の日、天雄軍節度使劉延皓、官爵を削奪され、私第に帰るを勒す。癸亥の日、天雄軍守禦、右捧聖第二軍都虞候張令昭を検校司空しくう、行右千牛将軍と為し、権りに天雄軍府事を知る。丙寅の日、敷政殿に御し、工部尚書崔居儉を遣わし、宣憲皇太后の宝冊を寢宮に奉ず。時に陵園は河東に在り、適た兵興に会う。故に権りに京城に於て寢宮を修奉し、諡を上ぐ。己巳の日、西上閣門副使、少府監兼通事舍人劉頎を鴻臚卿と為し、職は元の如し。庚午の日、詔して曰く「時雨稍々愆り、頗る農稼を傷つ。朝臣を分命して祈祷せしむ」と。辛未の日、工部尚書致仕の許寂卒す。権りに魏府事を知る右千牛将軍張令昭を斉州防禦使と為す。捧聖右第三指揮使邢立を徳州刺史と為す。捧聖第五指揮使康福進を鄚州刺史と為す。甲戌の日、汴州節度使範延光を天雄軍四面招討使と為し、行府事を知らしむ。丙子の日、西京留守李周を天雄軍四面副招討使兼兵馬都監と為す。詔して河東の将佐節度判官趙瑩以下十四人並びに家産を籍没す。

秋七月戊子の日、範延光奏上す、軍を領して鄴都に至り城を攻む。己丑の日、右衛上将軍石重英、皇城副使石重裔を誅す。皆敬瑭の子なり。時に重英等は民家の井中に匿る。獲て之を誅し、並びに匿ましむる所の家を族す。奚の首領達剌幹、通事介老を遣わし奏す、奚王李素姑、謀りて叛き契丹に入らんとす。已に処斬訖り、達剌幹権りに本部落事を知ると。辛卯の日、沂州より奏す、都指揮使石敬徳を誅し、並びに其の家を族す。敬瑭の弟なり。乙未の日、前彰武軍節度使高行周を潞州節度使と為し、太原四面招撫排陣使を充てる。潞州節度使皇甫立を華州節度使と為す。丁酉の日、雲州節度使沙彦珣奏す、此の月二日の夜、歩軍指揮使桑遷乱を作し、兵を以て子城を囲む。彦珣囲を突きて城を出で、西山に就き雷公口に拠る。三日、兵士を招集し城に入り乱軍を誅す。軍城元の如し。辛丑の日、将作監丞、介国公宇文頡を汝州襄城令と為す。乙巳の日、衛尉卿聶延祚を太子賓客と為す。戊申の日、範延光奏す、此の月二十一日鄴都を収復す。群臣賀す。己酉の日、礼部侍郎張昭遠を御史中丞と為す。御史中丞呂琦を礼部侍郎と為し、端明殿学士を充てる。庚戌の日、中書奏す「劉延皓の賓佐等、帥臣既に已に削奪せらる。其の行軍司馬李延筠、副使辺仁嗣以下、望むらくは命じて田里に帰らしめん」と。奏入る。帝大いに怒り、詔して大理に曰く「帥臣守を失い、已に行う削奪。其の僚佐当に何の罪を合すべき」と。既にして竟に中書の奏する所に依う。壬子の日、詔して範延光に張令昭の部下五指揮及び忠鋭、忠粛の両指揮を誅せしむ。継いで範延光奏す、兵を追い遣わし張令昭の部下の敗兵を襲いて邢州沙河に至り、首級三百を斬り、並びに張令昭、邢立、李貴等の首級を献ず。又奏す、張令昭の同悪捧聖指揮使米全以下諸指揮使都頭凡そ十三人を獲、並びに府門に於て磔く。癸丑の日、左衛上将軍仇暉卒す。洺州より奏す、魏府に乱を作す捧聖指揮使馬彦柔以下五十八人を擒獲す。邢、磁州相次いで乱兵を擒獲し、並びに京師に送る。彰聖指揮使張万迪、部下を以て五百騎叛きて太原に入る。詔して家屬を懐州の本営に於て誅す。

八月戊午、契丹は使者摩哩を遣わして入朝す。己未、汴州節度使範延光を以て天雄軍節度使・守太傅・兼中書令と為す。西京留守李周を以て汴州節度使・檢校太尉・同平章事と為す。癸亥、應州奏す、契丹三千騎城に迫る。詔して端明殿學士呂琦をして河東の忻・代諸屯戍所に往きて軍を犒わしむ。左龍武大將軍袁義を以て右監門上將軍と為し、振武軍節度使安叔千を以て代北兵馬都部署を充てる。己巳、雲州の沙彥珣奏す、供奉官李讓勳夏衣を送りて州に到り、酒を縦にして軍都行を淩轢し、兵馬都監張思殷・都指揮使黨行進を劫殺す。其の李讓勳は已に処斬を訖えり。張敬達奏す、五龍橋を造りて太原城を攻むる次第。戊寅、鎮州節度使董溫琪を以て東北面副招討使を充てる。己卯、洺州野繭二十斤を献ず。辛巳、張敬達奏す、賊城內より騎軍三十隊・歩卒三千人を出だして長連城を衝き、高行周襲撃して壕に殺し入れ、溺死者大半、賊将安小喜以下百餘人を擒え、甲馬一百八十匹を得たり。

九月甲辰、張敬達奏す、此の月十五日、契丹と太原城下に戦い、王師敗績す。時に契丹主自ら部族を率いて太原を援け来たり、高行周・符彥卿左右廂の騎軍を率いて出でて鬥う。蕃軍引き退く。巳時の後、蕃軍復た列を成す。張敬達・楊光遠・安審琦等賊城の西北に陣し、山に倚りて横陣し、諸将奮撃す。蕃軍屢卻す。晡に至り、我が騎軍将に陣を移さんとす。蕃軍山の如くにして進み、王師大敗し、兵仗を投じ相藉りて死する者山積す。是の夕、余眾を収合し、晉祠南の晉安寨に保つ。蕃軍塹を為して之を囲み、是より音聞阻絶す。朝廷大いに恐る。是の日、侍衛歩軍都指揮使符彥饒を遣わし兵を率いて河陽に屯せしむ。詔して範延光に兵を率いて青山路より榆次に趨らしむ。詔して幽州の趙德鈞に飛狐路より出でて敵軍の後を衝かしむ。輝州防禦使潘環に防戍軍を合して慈・隰より出でて張敬達を援けしむ。前絳州刺史韓彥惲を以て太子賓客と為す。契丹主帳を柳林に移す。乙巳、詔して二十二日に北面軍前に幸するを取る。戊申、帝京師を発し、路徽陵を経る。帝親しく行き謁奠す。夕べ河陽に次ぐ。群臣を召して進取を議す。盧文紀帝を勧めて河橋に駐らしむ。庚戌、樞密使趙延寿先だ潞州に赴く。辛亥、懷州に幸す。吏部侍郎龍敏を召して機事を訪う。敏帝を勧めて東丹王讚華を立てて契丹主と為し、兵を以て援送して蕃に入らしめば、則ち契丹主後顧の患ありて、久しく漢地に駐まらざるべしと。帝深く然りと為すも、竟に其の謀を行わず。(《遼史・義宗傳》に云く、「倍(東丹王)異国に在りと雖も、常に其の親を思い、問安の使絶えず。後、明宗の養子從珂其の君をしいし自立す。倍密かに太宗に報じて曰く『從珂君を弑す、盍ぞ之を討たざる!』と。」是れ東丹王実に兵端を啓く。唐の君臣或いは其の陰謀を知る、故に龍敏の説行われず。)帝是より酣飲悲歌し、形神惨沮す。臣下其の親征を勧むれば、則ち曰く「卿輩石郎を説く勿れ、我が心膽をして地に墮ちしむるを!」其の怯憊此の如し。

冬十月丁巳の夜、彗星虚危に出で、長さ尺餘。壬戌、詔して天下に馬を括り、又詔して民十戸に兵一人を出ださしめ、器甲は自ら備えしむ。(《契丹國志》:唐民を発して兵と為し、毎七戸に征夫一人を出だし、自ら鎧仗を備う。之を「義軍」と謂う。凡そ馬二千餘匹を得、征夫五千人、民間大いに擾る。)戊辰、代州刺史張朗を超授して檢校太保と為す。其の屢ひ敵眾を殺すを以ての故に、是の命を以て之を獎す。癸酉、幽州の趙德鈞本軍三千騎を以て鎮州の董溫琪とともに吳兒穀より潞州に趨る。

十一月戊子、趙德鈞を以て諸道行營都統と為し、趙延壽を以て河東道南面行營招討使と為し、劉延朗之を副う。庚寅、範延光を以て河東道東南面行營招討使と為し、李周之を副う。帝呂琦嘗て幽州幕を佐けしを以て、乃ち命じて都統の官告を齎し以て德鈞に賜い、兼ねて軍士を犒わしむ。琦至り、従容として帝の委任の意を宣ぶ。德鈞曰く「既に兵を以て相委ぬ、焉んぞ死を惜しまんや」と。德鈞志は範延光軍を併せんに在り、奏請して延光と会合せんことを請う。帝詔を以て延光に諭すも、延光従わず。丁酉、延州上言す、節度使楊漢章部眾の為す所に殺さる。前坊州刺史劉景嚴を以て延州留後と為す。庚子、趙德鈞奏す、大軍團柏穀に至り、前鋒蕃軍五百騎を殺す。範延光奏す、軍榆次に至り、蕃軍退きて河東川界に入る。潘環奏す、隰州蕃軍を逐退す。壬寅、趙德鈞奏す、軍穀口を出づ。蕃軍漸く退く。契丹主見えず柳林寨に駐る。時に德鈞累奏して延壽に鎮州の節制を授けんことを乞う。帝怒りて曰く「德鈞父子堅く鎮州を要す。苟くも能く蕃戎を逐退せば、予が位に代わらんことを要するも、亦甘心せん。若し寇を玩び君を要せば、但だ犬兔俱に斃るるを恐るるのみ」と。德鈞之を聞きて悦ばず。

閏月丙辰、日南至す。群臣行宮に於いて賀を称す。帝曰く「晉安寨内の将士、応に家国を思うべし」と。因りて泣下ること久し。丁巳、岢嵐軍を以て勝州と為す。辛酉、右龍武統軍李從昶を以て左龍武統軍と為し、前邠州節度使楊思権を以て右龍武統軍と為す。壬戌、丹州刺史康承詢任を停め、鄧州に配流す。時に承詢詔を奉じて義軍を率いて延州に赴かんとす。義軍乱る。承詢鄜州に奔る。故に是の責有り。甲子、太原行營副招討使楊光遠招討使張敬達を晉安寨に於いて殺し、兵を以て契丹に降る。時に契丹寨を囲み、十一月以後より芻糧乏絶し、軍士居屋の茅を毀ち、馬糞を淘ぎ、鬆甗を削りて以て秣飼に供す。馬尾鬛相食して俱に尽く。楊光遠敬達に謂いて曰く「少時人馬俱に尽きん。奮いて命を血戦に投ずるに如かず。十に三四を得るも、猶お坐して其の弊を受くるに勝れり」と。敬達曰く「更に少しく之を待て」と。一日、光遠敬達の無備を伺い、遂に之を殺し、諸将とともに契丹に降る。時に馬猶お五千匹有り。戎王漢軍を石敬瑭に与え、其の馬及び甲仗は即ち齎して塞を出だし驅る。丁卯、戎王石敬瑭を立てて大晉皇帝と為し、父子の国を約し、元を改めて天福と為す。戎王晉高祖こうそとともに南行す。趙德鈞父子諸将とともに團柏穀より南に奔る。王師蕃騎の為す所に蹙られ、戈を投じ甲を棄て、自ら相騰踐し、岩穀に擠まるる者勝げて紀す可からず。

己巳(の日)、帝(末帝)は晋安寨が敵に陥落せられたと聞き、行幸を河陽に移すことを詔した。時に議するに、魏府の軍は尚ほ全く、契丹は必ずや山東を憚り、敢えて南下せず、車駕は鄴城ぎょうじょうに幸すべしと。帝は李崧が範延光と善しとするを以て、召し入れて謀らしむ。薛文遇は知らずして継いで至る。帝は色を変え、崧は文遇の足を躡む。乃ち出づ。帝曰く、「我此の物を見れば肉顫る。適に刀を抽いて之を刺さむと擬す」と。崧曰く、「文遇は小人にして、大事を誤らしむ。之を刺せば醜を益す」と。崧因りて帝に京に帰ることを請う。壬申(の日)、車駕河陽に至る。甲戌(の日)、晋高祖と契丹と潞州に至る。契丹は蕃将大相温に五千騎を率いさせ、晋高祖を送りて南行せしむ。丁丑(の日)、車駕河陽より至る。時に左右帝に勧めて河陽を固守せしむ。数日居るに、符彦饒・張彦琪至り、帝に城守すべからざるを奏す。是日の晩、東上門に至る。小黄門路に於いて鞘を鳴らすも、索然として声無し。己卯(の日)、帝は馬軍都指揮使宋審虔に千余騎を率いさせて白馬坂に至らしめ、陣地を踏むと言わしむ。時に諸将審虔に謂いて曰く、「何の地か交戦に堪えざらん、誰か肯て此に立たんや」と。審虔乃ち帝に還宮を請う。庚辰(の日)、晋高祖河陽に至る。辛巳辰の時、帝は挙族して皇太后曹氏とともに元武楼に於いて自ら燔す。晋高祖洛に入り、火中に帝の燼骨を得る。来年三月、徽陵の封中に葬ることを詔す。帝在位合わせて二年、年五十二。

史臣曰く、末帝は神武の才を負い、人君の量有り。戈を尋ねて阼を践むに由り、徳に慚ずる応に深し。寧に当たりて尊に居るに及び、政経未だ失わず。属に天命祐せず、人謀臧ならず、坐して焚如を俟つ。良に悲しむべし。夫れ金甲を河壖の際に衽し、眺楼を梁壘の時に斧るを稽うれば、出没神の如し。何ぞ其れ勇なるや。革輅を覃懷の日に駐め、羽書を汾晋の辰に絶つに及んで、涕淚襟に沾う。何ぞ其れ怯なるや。是れ時に来たれば、雕虎も以て風を生ずべく、運の去らんには、応龍も免れずして醢と為るを知る。則ち項籍帳下に悲歌する、虚しからざるなり。