二月庚午、定州節度使兗王從溫は鎮を兗州に移す。振武軍節度使楊檀は鎮を定州に移し、兼ねて北面行營馬步都虞候と為す。甲戌、定州節度使李周を以て京兆尹と為し、西京留守を充てる。枢密使・天雄軍節度使範延光を以て檢校太師・兼中書令と為し、汴州節度使を充てる。皇子鎮州節度使兼河南尹・判六軍諸衛事・左右街坊使重美に檢校太尉・同平章事を加え、天雄軍節度使を充て、余は故の如し。辛巳、右諫議大夫盧損を以て御史中丞と為し、御史中丞張鵬を以て刑部侍郎と為す。壬午、寧遠軍節度使馬存に兼侍中を加え、鎮南軍節度使馬希振に兼中書令を加う。詔して順義軍節度使姚彦璋に兼侍中を加う。己丑、宰臣盧文紀等、皇妣魯國太夫人の尊諡を上る、曰く宣憲皇太后、日を択び冊命せんことを請う。之に従う。
三月戊戌、故太子太保趙鳳に太傅を贈る。辛丑、前汴州節度使趙延壽を以て許州節度使兼枢密使と為す。夏州行軍司馬李彝殷を以て本州節度使と為す、兄彝超卒する故なり。癸卯、靜海軍節度使・檢校太師・兼中書令・安南都護錢元球を以て留守太保と為し、余は故の如し。丙午、給事中趙光輔を以て右散騎常侍と為す。戊申、皇妹魏國夫人石氏を晉國長公主に封じ、齊國公主趙氏を燕國長公主に封ず。己酉、有司上言す「宣憲皇后は山陵に及ばず、旧陵の所に権に廟を建つ」と。之に従う。辛亥、功德使奏す「每年の誕節、諸州府僧道を奏薦す。其の僧尼は講論科・講経科・表白科・文章應製科・持念科・禅科・聲讚科を立てんと欲し、道士は経法科・講論科・文章應製科・表白科・聲讚科・焚修科を立てんと欲し、以て其の能否を試む」と。之に従う。丙辰、右龍武統軍李德充を以て涇州節度使と為す。庚申、鎮州節度使・知軍府事董溫琪を以て鎮州節度使・檢校太保と為す。壬戌、左右彰聖都指揮使・富州刺史安審琦に楚州順化軍節度使を領せしめ、軍職は故の如し。審琦は閔帝の命を受けて西征し、鳳翔に至りて降る、故に是の命有り。
是の月、太常丞史在德上疏して事を言う。其の略は曰く「朝廷人を用うるに、率多く濫進す。武士と称する者は、計策に閑ならず、堅を被り鋭を執ると雖も、戦えば甲を棄て、窮すれば軍に背く。文士と称する者は、藝能に鮮しく、多く士行無し、策謀を問えば則ち口を杜み、文字を作れば則ち人に倩う。所謂虚に具員を設け、枉く國力を耗す。陛下の惟新の運に逢い、是れ文明弊を革むる秋なり。臣請う、内外の管する所の軍人に応じ、凡そ衣甲に勝つ者は、宣して本部の大将に下し、一一武藝の短長、権謀の深浅を考試せしめよ。下位に居りて将才ある者は便ち抜きて大将と為し、上位に居りて将略無き者は之を下軍に移せ。其の東班の臣僚は、内より策題を出し、中書に下して宰臣に麵試せしめよ。下位に大才ある者は便ち抜きて大位に居らしめ、大位に処りて大才無き者は即ち之を下僚に移せ」と。其の疏は大約此の如し。盧文紀等其の奏を見て悦ばず、班行も亦多く憤悱す。故に諫官劉濤・楊昭儉等上疏し、在德の疏を出し、可否の宣行を辨ぜんことを請う。中書覆奏も亦其の錯誤を駁す。帝学士馬裔孫を召して謂いて曰く「史在德の語は太だ凶し、其の実容れ難し。朕天下に臨む初め、言路を開くを須う。若し朝士言を以て罪を獲ば、誰か敢えて言わん。爾朕に代わりて詔を作れ、在德の罪を加うること無かれ」と。詔して曰く。
左補闕劉濤等奏す、太常丞史在德の上る所の章疏、中書門下駁奏す、未だ宣諭を奉ぜず、特に行い施行し、分明に黜陟せんことを乞う。
朕常に貞觀の故事を覧るに、太宗の治理を見る。貞觀の升平の運を以てす。太宗は明聖の君、野に遺賢無く、朝に闕政無く、善を尽くし美を尽くし、名うるを得ず。而るに陝縣丞皇甫德參輒ち封章を上り、恣に訕謗を行う。人臣の礼無く、罪誅に容れず。文貞の彌縫に頼り、德參の狂瞽を恕す。魏征太宗に奏して曰く「陛下得失を聞かんと思わば、只其の陳する所を恣にすべし。若し言う所中らずと雖も、亦何ぞ國家に損せん」と。朕之を思う毎に、誠に要言なり。遂に下情上達を得、德盛んにして業隆し、太宗の道彌光り、文貞の節斯に著わる。朕寡昧を惟み、宗祧を奉ずるを獲、業業兢兢として、克く荷わざるを懼る。古道に率循し、時材を簡拔せんと欲して思う。忠を懐き直を抱くの人には虚心渴見し、便佞詭隨の説には耳を杜ぎて聞くを悪む。史在德の近く献陳する所、誠に避忌無し。中書は文字の紕繆を以てし、類を比して僭差し、人名を改易し、廟諱に触犯すとし、憲法に帰し、以て戒懲を示さんことを請う。蓋し中書既に委ねて参詳す、事理を尽くすに合う。朕前緒を纘承し、将来を誘勸す。多言数窮は、聖祖の戒むる所と雖も、千慮一得は、愚者の従う可きを冀う。文貞の言に因りて覧るに、遂に在德の罪を寬め、已に停寢を令し、宣行を遣さず。
劉濤等官は諫垣に列し、宜しく讜議を陳べく、短長の理を定め、以て黜陟の文を行わんことを請う。昔魏征は則ち德參を賞せんことを請い、今濤等は在德を黜せんことを請う。事同じくして言異なり、何ぞ相い遠きや。将に允俞を議せんとし、開納を虧かすを恐る。方に朝廷粗理し、俊乂畢臻す。一の在德を留むるも多きと為すに足らず、一の在德を去るも少しと為すに足らず。苟くも懲勸す可くば、朕何をか憂えん。但だ情の傾輸に在るを縁り、理黜責に難し。濤等の敷奏、朕も亦優容す。宜しく含宏を体し、竭進を思いて勉めよ。凡そ百の下に在る者は、悉く朕の言を聴け。
五月丙申、新州・振武が奏上する、契丹が境を寇す。乙巳、詔する。「天下の現に禁ずる囚徒で、五月十二日以前の者、十悪五逆・放火して舎を焼く・仗を把って人を殺す・官典が贓を犯す・印信を行い偽る・毒薬を合わせ造る並びに現に省銭を欠く者を除き、罪の軽重を問わず、一切釈放する。」庚戌、宝装の龍鳳を彫鏤刺作組織した物を貢奉することを得ざることを詔する。中書が奏上する。「勅に準ずれば、凡そ廟諱は但だ正文を回避し、その偏旁の文字は点画を減少するに在らず。今、定州節度使楊檀・檀州・金壇等の名は、情を酌み宜を制し、並びに改むることを請う。その表章文案の偏旁の字に点画を闕くこと、凡そ臣僚の名に偏旁に渉るものも、亦改名を請う。」詔して曰く。「偏旁の文字は、音韻懸殊なり、正呼を避くるに止め、全く改むるに宜しからず。楊檀に名を光遠と賜い、余は旧に依れ。」甲寅、戸部侍郎楊凝式を秘書監とし、尚書礼部侍郎盧導を尚書右丞とし、尚書右丞鄭韜光を尚書左丞とする。丙辰、端明殿学士李専美を兵部侍郎とし、端明殿学士李崧を戸部侍郎とし、翰林学士馬裔孫を礼部侍郎とし、礼部郎中で枢密院直学士を充てる呂琦を給事中とし、並びに職を充てることは故の如し。太子少保致仕の任圜に尚書右僕射を贈る。順化軍節度使兼彰聖都指揮使・北面行営排陣使安審琦を邢州節度使とする。庚申、兵部尚書李鈴を太常卿とし、礼部尚書王権を戸部尚書とし、太常卿李懌を礼部尚書とする。癸亥、六軍諸衛判官・給事中張允を右散騎常侍とする。
六月甲子朔、新州が上言する、契丹が寇す。乙丑、有司が上言する、宣憲皇太后の陵は順従を以て名と為すことを請う、これを従う。振武が奏上する、契丹の二万騎が黒榆林に在り。丁卯、太子少保致仕の朱漢賓の卒のため朝を廃す。壬申、史官に命じて明宗実録を修撰せしむ。契丹が応州を寇す。新州節度使楊漢賓を同州節度使とし、前晋州節度使翟璋を新州節度使とする。庚辰、北面招討使趙徳鈞が奏上する、行営馬歩軍都虞候・定州節度使楊光遠、行営排陣使・邢州節度使安審琦が本軍を帥いて易州に至り、今進軍して契丹を追襲せんと次す。河東節度使石敬瑭が奏上する、辺軍が芻糧に乏しく、その安重栄の巡辺兵士を振武に移して糧に就かせんと欲す。これを従う。尋いで又奏上する、懐・孟の租税は、忻・代州において輸納するよう指揮を請う。朝廷は辺儲が給せざるを以て、詔して河東の戸民で粟を積む処は、事を量りて抄借せしめ、仍って鎮州において絹五万匹を支払い、河東に送って博采の直に充てしむ。是の月、北面転運副使劉福が鎮州の百姓の車子一千五百乗を配し、糧を運んで代州に至る。時に水旱で民飢え、河北諸州は飛挽に困しみ、逃潰する者甚だ衆く、軍前の使者継いて至り、糧運を督促す、是によりて生靈怨み諮る。辛巳、諸州府に医博士を置くことを詔する。丙戌、前許州節度使李従昶を右龍武統軍とし、前彰国軍節度使沙彦珣を右神武統軍とする。
詔して曰く、「卿らは世を救う英才、時を鎮める碩徳であり、あるいは興王の日に締構し、あるいは纘聖の時に経綸し、塩梅の任は共に崇く、薬石の言は並びに切実である。延英の制を復することを請い、議政の規を伸ばそうとする。況や列聖の遺芳、皇朝の盛事であり、征引を詳らかにするに、誠に歎賞に値する。恭しく惟うに、五日起居は先皇の垂範であり、百僚が皆退くのを待ち、四輔を召して独り昇殿させ、温顔をもって接し、その理道を詢ねられた。この時の事を行う意図も、昔の延英の流れである。朕は嗣承を得て、切に遵守を思い、その美を成し、兼行を損なわない。五日起居は、なお従前のままとする。尋常の公事も、便りに奏聞してよい。あるいは事が機宜に属し、理として秘密とすべきならば、事の緊慢を量り、隔日に限らず、当日でも閣門に祗候し、榜子を具して奏聞する。面と向かって敷陳することを請えば、即ち侍臣を全て退け、便殿に端居し、高議を聞いて虚懐を慰める。朕が卿らに会いたい時も、その時に宣召する。ただ致理の実を務めることができれば、何ぞ必ずしも延英の名に拘る必要があろうか。事があれば討論に足り、言があれば陳述に足る。宜しく心を沃やすことを務めとし、逆耳を憂いとすべきではない。謀猷を尽くし、寡昧を補え」と。帝は仁恕の性で、聞き入れ倦むことなく、嘗て朝会の際に盧文紀らに謂って曰く、「朕が藩にいた時、人々は唐代の君主が端拱して天下が治まったと言った。外は将校に頼り、内は謀臣に倚っていたから、端拱して事が弁じたのである。朕は先朝の鴻業を荷い、卿らは先朝の旧臣である。毎回相見える度に、承奉を除けば、少しも社稷の大計を一言も救うことがなく、朕の寡昧を坐視するのは、宗社をどうするつもりか」と。文紀らは咎を引き謝罪し、延英の故事を奏したので、この詔があった。
八月庚午、滑州節度使高允韜卒す。壬申、右衛上將軍王景戡を左衛上將軍とし、右神武統軍婁継英を右衛上將軍とする。己卯、西上閣門使・行少府少監兼通事舍人蘇継顔を司農卿とし、職は元の如し。辛巳、権知雲州・右神武統軍沙彦珣を雲州節度使とする。鄴都の殺人賊陳延嗣並びに母・妹・妻らを棄市に処す。延嗣は父子相承け、その妹・妻と共に諸州郡で人を誘い殺し、その財を奪い、前後殺された者は数百人に及び、ここに至って事が露顕し誅された。癸未、前潞州行軍司馬陳元を将作監とする。元は医術に長じていたので、この命があった。丁亥、洺州団練使李彦舜を義武軍節度使・検校太傅とする。太原より奏す、達靼部族を霊邱に安置す。己丑、太子少保致仕戴思遠卒すにより朝を廃す。庚寅、前兗州節度使楊漢章を左神武統軍とし、前邢州節度使康思立を右神武統軍とする。潞州より奏す、前雲州節度使安重霸卒す。
九月己亥、河陽節度使・侍衛馬軍都指揮使安従進を襄州節度使とし、襄州節度使趙在礼を宋州節度使とする。癸卯、忠正軍節度使・侍衛歩軍都指揮使宋審虔を河陽節度使とし、軍を典するは元の如し。己酉、礼部貢院奏す、「進士は夜試を請い、童子は従前通り表薦し、明算道挙を再び置く。挙人落第後、別に文解を取る。五科の試紙は、中書の印を用いず、本司の印を用いる」と。並びに従う。宣徽南院使房暠を刑部尚書とし、枢密使を充てる。宣徽北院使・枢密副使充てる劉延朗を宣徽南院使とし、枢密副使を充てる。丙辰、左僕射李愚卒すにより朝を廃す。
冬十月丁卯、崇道宮・甘泉亭に幸す。己巳、左衛上將軍李頃を左領軍上將軍とする。北面行営総管石敬瑭奏す、代州より帰鎮す。庚午、晋州節度使張温卒すにより朝を廃す。甲戌、趙延寿・張延朗の第に幸す。丁丑、端明殿学士・兵部侍郎李専美を秘書監とし、宣徽北院使を充てる。庚寅、左諫議大夫唐汭を左散騎常侍とする。
十一月庚子、左驍衛上將軍郝瓊を左金吾上將軍とし、光禄卿王玟を太子賓客とする。徐州節度使張敬達を晋州節度使とし、前の如く大同・振武・威塞・彰国等軍兵馬副総管を充てる。丁未、秘書少監丁済を太子詹事とする。乙卯、前金州防禦使馬全節を滄州留後とする。(『通鑒』:劉延朗は全節を絳州刺史に除こうとしたが、群議沸騰した。帝がこれを聞き、横海留後とした。)渤海国使いを遣わし朝貢す。
十二月戊辰、鉛銭の使用を禁ず。壬申、中書侍郎兼兵部尚書・充樞密使韓昭裔を以て檢校司空・同平章事と為し、河中節度使を充てる。甲戌、宗正少卿李延祚を以て將作監致仕と為す。丁丑、故武安軍州節度使・累贈太傅劉建峰に太尉を贈る、湖南の請いに従うなり。戊寅、太常奏す:「来年正月一日上辛、昊天上帝を圓丘に祀る、礼に依れば大祠は朝せず。」詔して曰く:「祀事は質明の前に在り、儀仗は日出の後に在り、事相妨げず、宜しく常年の如く朝を受くべし。」壬午、翰林學士承旨・戶部侍郎程遂を以て兵部侍郎と為す;翰林學士・工部侍郎崔棁を以て戶部侍郎と為す;翰林學士・中書舍人和凝を以て工部侍郎と為し、並びに前の如く職を充つ。乙酉、前秘書監楊凝式を以て兵部侍郎と為す。己丑、前同州節度使馮道を以て司空と為し、尚書右僕射劉煦を以て左僕射と為し、太子少師盧質を以て右僕射と為し、兵部侍郎馬縞を兼ねて國子祭酒と為す。