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舊五代史
唐書二十二: 末帝本紀上
末帝、諱は從珂、本姓は王氏、鎮州の人なり。母は宣憲皇后魏氏、光啓元年(歳は乙巳)正月二十三日に、帝を平山に生む。景福年中、明宗が武皇の騎将として、地を略して平山に至り、魏氏に遇い、これを擄う。帝は時に十余歳、明宗これを養いて己が子とす。小字は二十三。帝は幼にして謹重寡言、壮に及び、長さ七尺余、頤は方にして体は大、材貌雄偉、驍果を以て称せられ、明宗は甚だこれを愛す。太原に在りし時、嘗て石敬瑭と因みに球を撃つて共に趙襄子の廟に入り、その塑像を見るに、屹然として起立す。帝はこれを秘し、私心自ら負う。明宗に従いて征討するに及び、力戦を以て知名たり。莊宗嘗て曰く、「阿三は惟だ我と歯を同じくするのみならず、敢戦も亦た相類す」と。莊宗が梁軍と胡柳陂に戦う時、両軍倶に撓く。帝は莊宗を衛して土山を奪い、驍陣を摧き、その軍復た振るう。時に明宗は先に河を渡る。莊宗悦ばず、明宗に謂いて曰く、「公は当に吾が為に死すべし、河を渡りて安くにか往かん」と。明宗は罪を待つ。莊宗は帝が戦に従い功有るを以て、ここに慍を解く。
天祐十八年、莊宗は河上に営し、鎮州を討たんことを議す。留守符存審は徳勝寨に在りて未だ行かず。梁人は莊宗已に北せりと謂い、乃ち衆を悉くして徳勝を攻む。莊宗は明宗・存審を命じて両翼と為し以てこれに抗せしめ、自ら中軍を以て前進す。梁軍退却す。帝は十数騎を以て梁軍に雑じつつ退き、壘門に至りて大呼し、数級を斬首し、その望櫓を斧いて還る。莊宗大いに噱いて曰く、「壮なるかな、阿三」と。酒一器を賜う。
同光元年四月、明宗に従いて鄆州を襲い破る。九月、莊宗は中都にて梁将王彥章を敗り、急ぎ汴州に趨く。明宗は前軍を将い、帝は勁騎を率いて従い、昼夜兼行し、率先して汴城を下す。莊宗は明宗を労して曰く、「唐の社稷を復するは、卿父子の功なり」と。
二年、帝を以て衛州刺史と為す。時に王安節なる者有り。昭宗朝の相杜譲能の宅吏なり。安節は少くして善く賈い、奇士より相術を得たり。事に因りて私邸にて帝を見、退いて人に謂いて曰く、「真に北方天王の相なり。位は当に天子と為るべし。終わりは則ち我知る莫し」と。
三年、明宗は詔を奉じて北に契丹を禦ぐ。家が太原に在るを以て、表して帝を北京内衙指揮使と為す。莊宗悦ばず、帝を以て突騎都指揮使と為し、石門に遣わして戍らしむ。
四年、魏州に軍乱有り。明宗は洛に赴く。時に帝は横水に在り、部下の軍士を率いて曲陽・孟県より常山に趨き、王建立と会し、倍道兼行し、河を渡りて南し、ここに由りて明宗の軍声大いに振るう。
天成初年、帝を以て河中節度使と為す。明年二月、検校太保・同平章事を加う。十一月、検校太傅を加う。長興元年、検校太尉を加う。先に、帝と枢密使安重誨が常山に在りし時、杯盤に因りて失意し、帝は拳を以て重誨の脳を撃ち、その櫛に中たり。走りて免るるを得たり。帝は悔謝すと雖も、然れども重誨は終にこれを銜む。帝が河中を鎮するに及び、重誨はその出入時ならざるを知り、因みに矯って中旨を宣し、牙将楊彦温に命じて、出でて郭を遇えば則ち門を閉じて納れざらしむ。是の歳四月五日、帝は黄龍庄にて馬を閲す。彦温は城を閉じて帝を拒ぐ。帝は難を聞きて遽かに還り、使いを遣わしてその故を問わしむ。彦温曰く、「但だ相公の入朝を請う。此の城は入るべからず」と。帝は虞郷に止まりて以て聞かしむ。明宗は詔して帝に帰闕せしむ。薬彦稠を遣わして兵を将い彦温を討たしめ、生け捕りにして致すことを令し、面を要して鞫問せしむ。十一月城を収む。彦温は已に死す。明宗は彦稠が彦温を生け捕りにして致す能わざるを以て、之を甚だ怒る。後数日、安重誨は帝の失守を以て、宰相を諷して論奏して法を行わしむ。明宗悦ばず。重誨又自ら論奏す。明宗曰く、「朕が小将校たりし時、家は徒に衣食足らず、この児の石灰を荷い、馬糞を収めて存養するに頼り、以て今貴きこと天子と為るに至る。而るに一児を庇う能わず。卿朝典を行わんと欲す。朕その意を未だ曉らず。卿等は速やかに退き、他に私第に閑坐すべし」と。遂に詔して清化里の第に帰らしめ、朝請に預からしめず。帝は尚お重誨の多方危く陥れんことを懼れ、但だ日々に仏書を諷し陰に禱るのみ。
二年、安重誨罪を得る。帝は即ち左衛大将軍を授かる。未だ幾ばくもなく、復た検校太傅・同平章事・行京兆尹を加えられ、西京留守を充つ。三年、位を進めて太尉と為し、鳳翔節度使に移る。四年五月、潞王に封ぜらる。
閔帝即位し、兼侍中を加う。既にして帝の子重吉は亳州に出で刺し、女尼は宮に入る。帝方に不測を憂う。応順元年二月、帝を移して太原を鎮せしむ。是の時制書を降さず、唯だ宣を以て授くるのみ。帝これを聞き、賓佐将吏を召して以てこれを謀る。皆曰く、「主上年幼、未だ庶事に親しまず、軍国の大政悉く朱宏昭等に委ぬ。王必ず保全の理無し」と。判官馬裔孫曰く、「君命召さば、駕を俟たずして行く。諸君の凶言は、令図に非ず」と。是の夜、帝は李専美に令して檄を草し諸道に援を求め、君側の罪を誅せんと欲す。朝廷は王思同を命じて師を率いて来たり討つ。三月十五日、外兵大いに集まる。(『九国誌・李彦琦伝』:潞王岐下を守る。諸道の将急にその壘を攻む。彦琦時に囲中に在り、家財を罄して以て軍用に給す。)十六日、大将衆を督いて外城を攻む。帝は城に登り垂泣し、外に諭して曰く、「我年未だ二十ならずして先帝に従い征伐し、生を出で死に入り、金瘡身に満つ。社稷を樹立するを得たり。軍士我に従いて陣に登る者多し。今朝廷賊臣を信任し、骨肉を残害す。且つ我何の罪か有らん」と。因りて慟哭す。聞く者之を哀しむ。時に羽林都指揮使楊思権衆に謂いて曰く、「大相公は吾が主なり」と。遂に軍を引き西門より入る。厳衛都指揮使尹暉も亦た軍を引き東門より入る。外軍悉く潰く。十七日、居民の家財を率いて以て軍士を賞す。是の日、帝は衆を整えて東す。二十日、長安に次ぐ。副留守劉遂雍城を以て降る。京兆居民の家財を率いて軍を犒う。二十三日、霊口に次ぎ、王思同を誅す。二十四日、華州に次ぎ、薬彦稠を収めて獄に繫ぐ。二十五日、閿郷に次ぎ、王仲皋父子迎謁す。命じてこれを誅す。二十六日、霊宝に次ぎ、河中節度使安彦威来たり降る。罪を待つ。これを宥し、帰鎮せしむ。陝州節度使康思立奉迎す。二十七日、陝州に次ぎ、令を下して京城に告諭す。二十八日、康義誠軍前の兵士相継いで来たり降る。義誠は軍門に詣でて罪を請う。帝これを宥す。駕下の諸軍畢く至る。宣徽南院使孟漢瓊を路左に誅す。是の夜、閔帝は帳下の親騎百余を以て元武門より出で去る。
夏四月壬申の日、帝は蔣橋に至る。文武百官が列を整えて奉迎する。教旨に、未だ梓宮を拝せざるを以て、相見うべからず、至徳宮に会するを俟つべしと。時に六軍の勲臣及び節将・内職は累表を以て進むを勧む。この日、帝は入りて太后・太妃に謁し、西宮に至り、梓宮に伏して慟哭す。宰相と百僚は列をなして見え、拝を致す。帝は拝を答う。馮道らは箋を上りて進むを勧む。帝立ちて群臣に謂いて曰く、「予がこの行、事やむを得ざるに非ず。主上の闕に帰り、園陵の礼終わるを俟ち、藩服を守るに退かん。諸公の言、遽にここに及ぶは、まことに謂れ無し」と。衛州刺史王宏贄奏す、閔帝は前月二十九日に州に至れりと。癸酉、皇太后、令を下して閔帝を鄂王に降す。また、太后の令に曰く、「先皇帝、天眷を誕膺し、帝図を光紹し、明誠は三霊に動き、徳沢は四海に被る。方に革を偃がんことを期し、遽かに弓を遺すを歎く。少主の祧を承くるより、奸臣の命を擅にするが為に、骨肉を離間し、磐維を猜忌し、既に藩垣を輒ち易え、復た兵甲を驟に興す。遂に社稷を軽く離れ、軍民を大いに撓し、万世の鴻基、将に地に墜んとす。皇長子潞王従珂、位は塚嗣に居り、徳は衝年に茂り、乃武乃文、惟忠惟孝なり。前朝、多難を廓清するに、戦伐の大功有り;丕図を纘紹するに、夾輔の盛業有り。今、宗祧の祀に乏しく、園寢に期有るを以て、須らく親賢に委ね、監撫に居らしめ、万機の壅滞を免れ、兆庶の推崇を慰むべし。今月四日より軍国事を知ることを起すべく、権に書詔印を以て施行すべし」と。この日、監国は至徳宮に在り、宰臣馮道らは百官を率いて宮門に班し、罪を待つ。帝、庭に出でて曰く、「相公諸人、何の罪か有らん、請う復位せよ」と。乃ち退く。甲戌、太后の令に曰く、「先皇帝、風を櫛ぎ雨を沐し、華夷を平定し、洪業を艱難に嗣ぎ、蒼生を富庶に致す。鄂王位を嗣ぎ、奸臣権を弄び、福を作し威を作し、誠ならず信ならず、骨肉を離間し、磐維を猜忌す。鄂王、宗祧を軽く捨て、負荷に克たず、洪基大宝、危うきこと綴旒の若し。須らく長君を立て、以て丕構を紹ぐべし。皇長子潞王従珂、日に孝敬に躋り、天に聰明を縦し、神武の英姿有り、寛仁の偉略有り。先朝、草昧を経綸し、寰区を廓静するに、辛勤は百戦の労有り、忠貞は一統の運を賛す。臣誠子道、古を冠ち今を超ゆ。而して又克己民を化し、推心士を撫し、率土の謳歌属する有り、上蒼の眷命臨む攸り。一日万機、暫くも曠くすべからず;九州四海、帰する無くんばあるべからず。況んや山に因るに期有り、同軌これに至る。永く嗣守を言い、元良に属任す。宜しく即ち皇帝位に即くべし」と。
乙亥、監国は西宮に赴き、柩前に告奠し即位す。摂中書令李愚、冊書を宣す。曰く、
応順元年歳次甲午、四月庚午朔、六日乙亥、文武百僚、特進・守司空兼門下侍郎・同中書門下平章事・充太微宮使・弘文館大学士・上柱国・始平郡公・食邑二千五百戸臣馮道等九千五百九十三人上言す。帝王の興運、天地と符を同じくし、河は図を出だし洛は書を出だし、雲は龍に従い風は虎に従う。八表を恢張し、兆民を覆育し、大定の基を立て、無疆の祚を保たざるは莫し。人謡再び洽く、天命顕に帰す。須らく宸極の尊に登り、以て祖宗の祀を奉ずべし。伏して惟うに、皇帝陛下は、天資仁智、神機権を助け、多難の時に莊宗に奉じ、四征の際に先帝に従い、凡そ決勝に当たり、成功せざるは無し。皇綱を正すに及び、毎に師律を厳にし、国家の志大なるを為し、臣子の道全きを守る。遺弓を泣くより、常に易月を悲しみ、同軌を期し、親しく因山に赴かんと欲す。而して鄂王祧を承くるより、奸臣命を擅にし、神祇の饗に乏しきを致し、朝野を激して心を帰せしむ。屈する者を伸ばし、否なる者を泰ならしめ、人情大いに順い、天象至って明らかなり。東井を聚めて祥を呈し、北辰を拱して運に応ず。ここに由りて文武百辟、嶽牧群賢、比屋の倫に至るまで、尽く当陽の位を祝す。今則ち太后の慈旨を承け、先朝の遠図を守り、四海九州を撫し、千齢万祀を享けんとす。臣等大願に勝えず、謹んで宝冊を上り、太后の令に稟り、皇帝の践祚を奉ず。臣等誠に慶び誠に忭ぶ。謹んで言す。
帝は殿の東楹に就き群臣の賀称を受く。先に、帝の鳳翔に在りし日、瞽者張濛有り、自ら術数を知ると言い、太白山神に事え、その神祠は即ち元魏の時の崔浩の廟なり。時の否泰、人の休咎、濛神に告ぐれば、即ち吉凶の言を伝う。帝の親校房暠、酷くこれを信ず。一日、濛府に至り、帝の語声を聞き、駭然として曰く、「人臣に非ず」と。暠その事を詢うれば、即ち神語を伝えて曰く、「三珠並びに一珠、驢馬人に駆るる無く、歳月甲庚午、中興戊己土」と。暠解釈を請う。曰く、「神の言、予知らず」と。長興四年五月、府廨の諸門故無くして自ら動く。人頗る駭異す。暠を遣わして濛に問わしむ。濛曰く、「衙署の小異、怪しむ勿れ。三日を出でずして、当に恩命有らん」と。この夜、報至り、潞王に封ず。及び帝、河東に移鎮するに及び、甚だ懼れ、濛に問う。濛曰く、「王、患無きを保つ」と。王思同の兵至る。又これを詰む。濛曰く、「王に天下有り。独力を能わず。朝廷の兵来たりて王を迎うるなり。王若し臣を疑わば、臣唯一子有り。請う王に之を麾下に致し、以て臣が心を質せん」と。帝乃ち濛をして館驛巡官を摂せしむ。ここに至り、帝冊を受く。冊に曰く、「維れ応順元年歳次甲午、四月庚午朔」と。帝、顧みて房暠に曰く、「張濛の神言に甲庚午と有り。亦た異ならずや」と。帝、暠に命じて術士と共に三珠一珠の事を解かしむ。言う、「三珠は三帝なり。驢馬人に駆るる無きは、位を失うなり」と。帝即位の後、濛を以て将作少監同正と為し、仍て金紫を賜いて以てこれに酬う。帝初め潞王に封ぜらる。言事者云う、「潞の字、一足已に洛に入れり」と。又、帝の鳳翔に在りし日、何叟という者あり。年七十を踰え、暴卒す。陰官に会い、几に憑りて叟に告げて曰く、「我に代わりて潞王に言え。来年三月、当に天子と為り、二十三年」と。叟既に蘇り、懼れて敢えて言わず。一月を踰えて復た卒す。陰官見てこれを叱して曰く、「安んぞ吾が旨に違い、その事を達せずして、再び汝を還さん」と。退きて廊廡の下の簿書を見る。以て主者に問う。曰く、「朝代将に易らんとす。此れ即ち人爵を升降するの籍なり」と。蘇るに及び、帝の親校劉延朗に詣りてこれを告ぐ。帝召してこれを問う。叟曰く、「請うこれを質せよ。この言徴無くば、これを戮すも可なり」と。後人云う、「二十三は蓋し帝の小字なり」と。又、石壕の人胡杲通、天文に善くす。帝召してこれを問う。曰く、「王貴いこと言うべからず。若し挙動せば、宜しく乙未の年を以てすべし」と。兵を挙ぐるに及び、又これを問う。杲通曰く、「今歳は篰首なり。王者は功を建て事を立つるに宜しからず。若し来歳の入朝を俟たば、則ち福祚永遠ならん」と。その後皆験す。夫れ是の如くんば、則ち大宝の位には必ず冥数有り。軽く道うべけんや。
丙子の日、詔して河南府に命じ、京城の居民の財を率いて賞軍を助けしむ。丁丑の日、また詔して居民の五箇月分の房課を預借し、士庶を問わず、一概に施行す。帝は素より財を軽んじ施すを好み、岐下に在りて諸軍に推戴せられし時、軍士に告げて曰く「洛に入り候えば、人ごとに百千を賞せん」と。ここに至り、府蔵空匱なるを以て、ここに配率の令あり、京城の庶士自ら縊死する者相継ぐ。己卯の日、衛州奏す、今月九日鄂王薨ずと。庚辰の日、宰臣劉煦を以て三司を判ぜしむ。辛巳の日、邢州奏す、磁州刺史宋令詢自経して卒すと。令詢は、鄂王藩に在りし時の都押牙なり、故にここに至る。甲申の日、帝は鄂王の薨去を以て、内園にて行服し、群臣奉慰す。癸未の日、太后・太妃宮中の衣服器用を出だし、以て賞軍を助く。
乙酉の日、帝は袞冕を服し明堂殿に御し、文武百僚朝服を着して就位し、制を宣して応順元年を改め清泰元年と為し、大赦天下し、常赦に原らざる者も咸く赦除す。丁亥の日、宣徽北院使郝瓊を以て宣徽南院使と為し、権に枢密院を判ぜしむ。前三司使王玫を以て宣徽北院使と為す。随駕牙将宋審虔を以て皇城使と為し、劉延朗を以て庄宅使と為す。鳳翔節度判官韓昭裔を左諫議大夫と為し、端明殿学士を充てしむ。観察判官馬裔孫を翰林学士と為す。掌書記李専美を枢密院直学士と為す。戊子の日、侍衛親軍都指揮使康義誠誅せらる。是の日、詔して曰く「枢密使朱宏昭・馮贇・宣徽南院使孟漢瓊・西京留守王思同・前邠州節度使薬彦稠、共に相朋び煽り、妄りに干戈を挙げ、互いに離間の謀を興こし、幾くにか傾亡の禍を構えんとす。宜しく顕戮を行い、以て群情を快くすべし。仍て官爵を削奪す」と云う。
庚寅の日、鳳翔奏す、西川の孟知祥大蜀を僭称し、年号明德とすと。有司上言す「皇帝は五月朔日に明堂殿に御し朝を受く。三日は夏至、皇地祇を祀る。前二日に献祖室に奏告し、坐せず。正旦冬至に比すれど、是の日に祀事あれば、則ち次日に朝を受く。今祀は五鼓前、質明に礼華を行い、御殿は旦後なり。請う比例にて之を行わん」と。詔して曰く「日出でて御殿す、祀事を挙ぐるも妨げなし。宜しく常年の例に依うべし」と。史館奏す「凡そ書詔及び処分の公事、臣下の奏議、近臣に令して録し当館に付せんことを望む」と。詔して端明殿学士韓昭裔・枢密直学士李専美に録送せしむ。辛卯の日、左諫議大夫盧損を以て右散騎常侍と為す。壬辰の日、詔して禁軍及び鳳翔城下にて帰命したる将校に銭帛を賜うこと各差あり。初め、帝岐下を離るる時、諸軍皆不次の賞を望み、京師に従い至るも、望む所に満たず、相与に謡して曰く「生菩薩を去り却し、一条の鉄を扶け起す」と。其の厭くこと無き此の如し。丙申の日、明宗皇帝を徽陵に葬る。丁酉の日、神主を太廟に奉る。戊戌の日、山陵使・司空兼門下侍郎・平章事馮道上表して政を納る。允さず。
五月庚子朔、文明殿に御し朝賀を受く。乙巳の日、左龍武指揮使安審琦を以て左右捧聖都指揮使と為し、右千牛上將軍符彦饒を以て左右厳衛都指揮使と為す。丙午の日、端明殿学士韓昭允を以て枢密使と為す。庄宅使劉延朗を以て枢密副使と為す。権知枢密事房暠を以て宣徽北院使と為す。成徳軍節度使・大同彰国振武威塞等軍蕃漢馬歩都部署・検校太尉・兼中書令・駙馬都尉石敬瑭を以て北京留守・河東節度使と為し、検校太師・兼中書令を加え、都部署は故の如し。汴州節度使・検校太師・兼侍中・駙馬都尉趙延寿を進めて魯国公に封ず。
戊申の日、中書門下奏す、太常礼院の状に、明宗を今月二十日に祔廟せんとす、宰臣太尉を摂りて行事す。馮道仮中の縁、李愚十八日私忌、致斎内に在り、劉煦また判三司を奏して祀事を免ず。詔して礼官に参酌せしむ。有司上言す「李愚私忌、致斎内に在り。諸私忌日、大朝会入閣宣召に遇えば、皆朝参に赴く。今祔廟の事大なり、忌日は私に属す。請う大朝会宣召の例に比せん」と。之に従う。陝府節度使康思立を以て邢州節度使と為し、同州節度使安重覇を以て西京留守と為し、羽林右第一軍都指揮使・春州刺史楊思権を以て邠州節度使と為す。己酉の日、左監門衛将軍孔知鄴・右驍衛将軍華光裔並びに現任を勒停す。時に知鄴を差し応州に告廟せしむるも、疾を称して命を辞し、光裔を改めて差すも、復た馬墜ちて足を傷つと称す。故に俱に之を罷む。
庚戌の日、司空兼門下侍郎・平章事馮道を以て検校太尉・同平章事と為し、同州節度使を充てしむ。天雄軍節度使範延光を以て枢密使と為し、斉国公に封ず。鄆州節度使李従厳を以て鳳翔節度使と為す。辛亥の日、厳衛都指揮使尹暉を以て斉州防禦使と為す。甲寅の日、侍衛馬軍都指揮・順化軍節度使安従進を以て河陽節度使と為し、典軍は故の如し。太常卿盧文紀奏す「明宗一室の酌献舞曲、請う名を《雍熙之舞》とせん」と。之に従う。丁巳の日、皇子銀青光禄大夫・検校工部尚書重美を以て検校司徒・守左衛上将軍と為す。是より、諸道節度使・刺史・文武臣僚、相継いで検校官を加え、或いは階爵封邑を加う。帝の位に登りて覃慶するを以てなり。戊午の日、隴州防禦使相里金を以て陝州節度使と為す。初め、帝檄書を以て藩隣に告ぐるも、惟だ金は判官薛文遇を遣わし往来して事を計わしむ。故に節鎮を以て之を奨む。宣徽北院使・検校工部尚書房暠に検校司空を加え、行左威衛大将軍と為し、使は故の如し。枢密使・左諫議大夫韓昭裔を以て刑部尚書と為し、使は故の如し。
己未(の日)、太白星が昼間に見えた。枢密副使劉延朗を左領軍大将軍とし、職はもとのままとした。庚申(の日)、左僕射・門下侍郎・平章事・監修国史李愚に特進を加え、太微宮使・宏文館大学士を充て、その他の官職はもとのままとした。中書侍郎・兼吏部尚書・同平章事・集賢院大学士・判三司劉煦に門下侍郎・兼吏部尚書・平章事・監修国史・判三司を加えた。癸亥(の日)、秦州が奏上したところによれば、西川の孟知祥が軍を出して成州を迫り陥落させた。宣徽南院使・右驍衛大将軍郝瓊を左驍衛上将軍とし、職はもとのままとした。前義州刺史張承祐を武勝軍留後とした。戊辰(の日)、前右龍武統軍王景戡を右驍衛上将軍とした。
六月庚午朔(一日)、侍衛捧聖軍を彰聖と改め、厳衛軍を寧衛と改めた。壬申(三日)、呉嶽成徳公を霊応王に封じ、礼秩は五嶽と同じとした。帝が挙兵した初め、使者を遣わして呉嶽に祭祀して加護を求め、帝位に即いたので、このような報いがあった。幽州節度使趙徳鈞を北平王に進封し、青州節度使房知温を東平王に進封した。癸酉(四日)、前鄜州節度使索自通を右龍武統軍とした。甲戌(五日)、皇子左衛上将軍重美に検校太保・同平章事を加え、鎮州節度使兼河南尹、判六軍諸衛事を充てた。丁丑(八日)、詔して天下の現に禁錮されている罪人について、所在の長吏に委ねて自ら慮問し、速やかに疏決するよう命じた。庚辰(十一日)、至徳宮に行幸し、ついで房知温、安元信、範延光、索自通、李従敏の邸宅に行幸した。壬午(十三日)、検校太子太傅致仕王建立を検校太尉・兼侍中・鄆州節度使とした。前宋州節度使安元信を検校太尉・兼侍中・潞州節度使とした。
癸未(十四日)、三司使劉煦が奏上した。「天下の戸民は、天成二年に秋夏の田税を括定して以来、今に至るまで八年になる。近ごろ相次いで百姓が宮闕に訴えて田が均しくないといい、累次にわたり蠲放を行ったため、次第に税額を失いつつある。朝臣を差し向けて一通り検視させたい。」返答がなかった。甲申(十五日)、帝は故皇子亳州刺史重吉と皇長女尼恵明大師幼澄のために哀悼の礼を行い喪服を着け、群臣は閣門に詣でて慰めを奉った。帝が挙兵した初め、重吉と幼澄はともに閔帝に害された。乙酉(十六日)、戸部侍郎韓彦惲を絳州刺史とし、左武衛上将軍李粛を単州刺史とした。丙戌(十七日)、襄州節度使趙在礼に同平章事を加えた。甲午(二十五日)、武勝軍留後張承祐を華州節度使とした。皇城使宋審虔を寿州節度使とし、侍衛歩軍都指揮使を充てた。右衛上将軍劉仲殷を宋州節度使とした。侍衛歩軍都指揮使・寿州節度使皇甫遇を鄧州節度使とした。前華州節度使華温琪を太子太傅致仕とした。丁酉(二十八日)、左神武統軍周知裕が卒去した。太傅を追贈した。この月、京師は大旱となり、暑さが甚だしく、暑気に当たって死んだ者が百余人に及んだ。
秋七月庚子(二日)、太子少保致仕崔沂が卒去した。癸卯(五日)、鳳翔が偽蜀の孟知祥からの書状を進上した。「大蜀皇帝、大唐皇帝に書を献ず」と称し、かつ「群情に迫られ、今年四月十二日に皇帝の位に即いた」などと述べていた。帝は返答しなかった。前武州刺史鄭琮を右衛上将軍とした。甲辰(六日)、龍門の仏寺に行幸して雨を祈った。乙巳(七日)、皇子故亳州団練使重吉に太尉を追贈し、なお宋州に廟を置いた。丁未(九日)、鳳翔節度使李従厳を西平王に封じた。この日、宰臣李愚と劉煦が公事を論じる中で、政事堂において互いに罵り合い、その言葉は甚だ卑わいであった。帝は枢密副使劉延朗に宣諭させて言った。「卿らは輔弼の臣である。このようであるべきではない。今後は再びこのようなことがあってはならない。」辛亥(十三日)、太常卿盧文紀を中書侍郎・平章事とした。この日、中書門下が三度上章して中宮(皇后)の冊立を請い、許された。丁巳(十九日)、制を下して沛国夫人劉氏を皇后に立てた。庚申(二十二日)、太子少傅陳皐が卒去した。乙丑(二十七日)、史官張昭遠が撰した荘宗朝列伝三十巻を上進した。
八月庚午(三日)、詔して長興四年十二月以前の天下の未納残税を蠲放した。辛未(四日)、前尚書左丞姚顗を中書侍郎・平章事とした。詔して、かつて御署官を受けた者は、逐次摂任したのを一任の正官と同一とみなし、期限に従って赴選させるべきであると定めた。荊南が奏上したところによれば、偽蜀の孟知祥が卒去し、その子の昶が偽位を嗣いだ。壬申(五日)、尚書礼部侍郎鄭韜光を刑部侍郎とし、前工部侍郎楊凝式を礼部侍郎とした。甲戌(七日)、前金州防禦使婁継英を右神武統軍とし、右神武統軍高允貞を左神武統軍とした。乙亥(八日)、翰林学士承旨・工部尚書・知制誥李懌を太常卿とした。翰林学士・戸部侍郎・知制誥程遜を学士承旨とした。甲申(十七日)、兵部侍郎龍敏を吏部侍郎とし、秘書監崔居儉を工部尚書とした。乙酉(十八日)、右武衛上将軍張継祚を右衛上将軍とした。右驍衛上将軍王景戡を左衛上将軍とした。右領衛上将軍劉衛を左武衛上将軍とした。右千牛上将軍王陟を右領軍上将軍とした。司農卿兼通事舎人・判四方館事王景崇を鴻臚卿とし、もとのまま通事舎人・判四方館とした。丁亥(二十日)、右龍武統軍索自通が卒去した。辛卯(二十四日)、礼部尚書致仕李光憲が卒去した。甲午(二十七日)、太子少傅盧質を太子少師とした。乙未(二十八日)、前邢州節度使趙鳳を太子太保とした。詔して「文武百官の差使は、倫次に依るべきことを令とし、中書に簿を置き、重複してはならない。もし当該使者が自ら用事があるか、あるいは行きたくない場合は、簿に注して一使に充当する。長興三年正月以後にすでに奉使した者は、簿の首とし、以後に差される者は、次第に注する」とした。有司が上言した。「皇后が冊を受けるに際し、内外の命婦が上箋しても答教はありません。」許された。丙申(二十九日)、文明殿に御して皇后を冊立し、使に太尉を摂行させる宰臣盧文紀、使副に司徒を摂行させる右諫議大夫盧損を皇后の宮に遣わし、礼が終わると、恩賜に差等があった。
九月己亥、長雨のため、朝臣を分命して都城の諸門を営み、宗廟社稷に告ぐ。辛丑、夜に星あり、五斗器の如く、西南に流れ、尾跡長さ数丈、屈曲して龍形の如し。また衆星乱れ流れ、数うるに勝えず。京師大雨、雹は弾丸の如し。曹州刺史薬縦之卒す。甲辰、霖雨甚だしきを以て、詔して都下の諸獄は御史台に委ねて憲録問し、諸州県は判官令録を差して自ら録問し、時に疏理せしむ。壬子、中書門下、長興三年の勅を行い、常年に挙人を薦送する時、州郡郷飲酒を行うに当たり、太常に帖して儀注を草定し奏聞せしむ。甲寅、前潞州節度使・検校太尉・同平章事盧文進を以て安州節度使と為す。己未、雲州奏す、契丹境を寇す。
冬十月辛未、雉金色有り、中書政事堂に止まる。中書門下奏す:「正月二十三日皇帝誕慶日を以て千春節と為さんことを請う。」之に従う。戊寅、宰臣李愚・劉煦相を罷め、愚を以て左僕射を守らしめ、煦を以て右僕射を守らしむ。契丹雲・応州を寇す。詔して河東節度使石敬瑭に兵を率い代州に屯せしむ。戊子、宰臣姚顗奏す:「吏部三銓、近年並びに一司と為る。望むらくは旧に依り分銓せしめん。」之に従う。辛卯、左衛上將軍李宏元卒すを以て朝を廃し、司徒を贈る。癸巳、礼部郎中・知制誥呂琦を以て本官を守らしめ、枢密院直学士を充てしむ。
十一月辛丑、刑部侍郎鄭韜光を以て尚書右丞と為し、光禄少卿烏昭遠を以て少府監と為す。秦州節度使張延郎奏す、師を率いて蜀を伐つ。中書門下奏す:「二十六日は明宗忌、陛下初めて忌辰に遇う、常歳に同じからず。忌辰の前後各一日朝に坐せざることを請う。」之に従う。御史台奏す:「前任の節度使・刺史・行軍副使は、毎日便殿に起居すと雖も、五日起居に遇う毎に、亦た班に綴わるべし。」之に従う。丙午、前興州刺史馮暉を以て同州衙前に配し安置す。暉は興州刺史たり、乾渠に屯す。蜀人来り侵す。暉屯所より自ら鳳翔に奔帰す。故に是の責有り。丁未、詔して振武・新州・河東西北辺、契丹蹂躙を経たる処は、三年の両税差配を放免す。時に契丹初めて退く故なり。癸丑、前華州節度使王万栄を以て左驍衛上將軍と為し致仕せしむ。甲寅、振武節度使楊光遠を以て大同・彰国・振武・威塞等軍兵馬都虞候を充てしめ、前右金吾大将軍穆延暉を以て右武衛上將軍と為す。壬戌、礼部侍郎楊凝式を以て戸部侍郎と為す。甲子、中書舎人盧導を以て礼部侍郎と為す。
十二月丁卯朔、詔して本朝諸帝の陵寢を修奉す。己巳、北面馬軍都指揮使・易州刺史安叔千を以て安北都護・振武節度使と為し、斉州防禦使尹暉を以て彰国軍節度使と為す。庚午、詔して庶人従栄を葬る。有司上言す:「貞観中の庶人承乾に依り、公礼を以て葬らん。」之に従う。乙亥、秦州節度使張延朗を以て中書侍郎・同平章事・三司を判せしめ、中書侍郎・平章事盧文紀を以て門下侍郎・平章事・国史監修と為し、中書侍郎・平章事姚顗を以て集賢院大学士を兼ねしめ、前邠州節度使康福を以て秦州節度使と為す。丙戌、夜に白気有り、東西天に亙る。庚寅、龍門に幸して雪を祈る。九月より是に至るまで雨雪無き故なり。