舊五代史

唐書二十: 明宗本紀十

長興四年春正月戊寅朔、帝は明堂殿に御して朝賀を受け、仗衛は定式の如し。この日雪は尺に盈つ。戊子、秦王從榮に守尚書令しょうしょれい・兼侍中を加え、前の如く河南尹とし、六軍諸衛事を判ず。庚寅、端明殿學士・尚書兵部侍郎劉煦を以て中書侍郎・平章事となす。甲午、正衙に命使して故福慶長公主孟氏を冊して晉國雍順長公主と為し、太常卿崔居儉を遣わして西川に赴き冊禮を行わしむ。突厥内附す。庚子、前河東節度使李從溫を以て鄆州節度使となす。

二月癸丑朔、帝は便殿にて範延光に内外の現管馬数を問う。対えて曰く「三万五千匹」。帝歎じて曰く「太祖が太願に在りし時、騎軍は七千に過ぎず、先皇は始めより終わりまで馬やっと万に及べり。今鉄馬此くの如く有りながら、九州を混一せしむる能わざるは、吾が士を養い将を練るの至らざるなり。吾は老いたり、馬を将に奈何せん」。延光奏して曰く「臣毎に之を思うに、国家の養う馬余りに多し。試みに一騎士の費を計れば、歩軍五人を贍うべし。三万五千騎は十五万歩軍に抵る。既に施す所無く、虚しく国力を耗す。臣は日久しく継ぐこと難からんことを恐る」。帝曰く「誠に卿の言の如し。騎士を肥やして吾が民を瘠ます、何の益かあらん」。丁巳、虔州節度使・検校太尉・兼侍中馬希振を以て洪州節度使となす。鄂州節度使馬希広を以て検校太尉・同平章事と為し、桂州節度使を充てしむ。盧州節度使兼武安軍副使姚彥章を以て検校太尉・同平章事となす。静江節度副使馬希範を以て鄂州節度使となす。故潞州節度使・検校太保康君立に太傅を贈る。己未、宋州節度使安元信に兼侍中を加う。濮州より重修河堤図を進む。沿河の地名、歴歴として数うべし。帝之を覧て愀然として曰く「吾は先朝を佐けて天下を定む。此の堤塢の間、小大数百戦せり」。又た一邱を指して曰く「此れ吾が擐甲の台なり。時事は昨の如く、奄忽として一紀、人をして悲歎せしむるのみ」。癸亥、西川節度使孟知祥を以て剣南東・西両川節度使と為し、しょく王に封ず。三司奏す「当省に諸道塩鉄転運使衙職員の都押衙・正押衙・同押衙・通引・衙前虞候・子弟有り。今三司職名に列せんと欲す」。之に従う。庚午、御史中丞崔衍を以て兵部侍郎と為し、右諫議大夫龍敏を以て御史中丞となす。

三月己卯、龍門に幸す。延州節度使安從進奏す、夏州節度使李仁福卒す。其の子彝超自ら留後を称すと。甲申、鎮州奏す、行軍司馬趙瑰・節度判官陸浣・元従押衙高知柔等並びに市に棄つ。賂を受け法を枉げて人を殺すに坐すなり。節度使李從敏は一季の俸を罰せらる。乙酉、西川節度副使・知武泰軍節度兵馬留後趙季良を以て検校太保・黔南節度使となす。西川諸軍馬歩都指揮使・知武信軍節度兵馬留後李仁罕を以て検校太傅・遂州節度使となす。西川左廂馬歩指揮使・知保寧軍節度兵馬留後趙廷隱を以て検校太保・閬州節度使となす。西川右廂馬歩都指揮使・知寧江軍兵馬留後張知業を以て検校司徒しと・夔州節度使となす。西川衙内馬歩都指揮使・知昭武軍兵馬留後李肇を以て検校太保・利州節度使となす。孟知祥の請いに従うなり。丙戌、宰相李愚に絹百匹・銭十万・鋪陳物一十三件を賜う。時に愚病む。帝近臣翟光鄴をして宣問せしむ。居る寝室、蕭然として四壁、病榻弊氈のみ。光鄴其の事を具に言う。故に是の賜有り。戊子、延州節度使安從進を以て夏州留後と為し、夏州左都押衙・四州防遏使李彝超を以て延州留後となす。仍って邠州節度使薬彥稠・宮苑使安重益に命じ師を帥いて從進を援送し鎮に赴かしむ。左衛上将軍盧文進を以て潞州節度使と為し、右龍武統軍張温を以て雲州節度使となす。庚寅、鳳翔行軍司馬李彥琮を以て塩州防禦使となす。時に範延光等奏し、夏州の師に因りて塩州を製置せんことを請う。故に是の命有り。癸巳、右威衛上将軍安重を以て同州節度使となす。己亥、左龍武統軍符彥超を以て安州節度使となす。詔して京兆・秦・岐・邠・涇・延・慶・同・華・興元の十州の長興元年二年に係る夏秋税物及び営田庄宅務課利を除放す。其の曾て輦運して軍糧料を供せしを以てなり。甲辰、故晉國夫人夏氏を追冊して皇后と為す。有司諡を上りて昭懿と曰す。之に従う。

夏四月戊申、李彝超奏す「詔を奉じて延州留後を除せられ、已に恩命を受けて訖る。三軍百姓擁隔し、未だ赴任に遂げず」。帝閣門使蘇繼顏を遣わし詔を齎して彝超の赴任を促さしむ。癸丑、刑部侍郎劉讚を以て秘書監・秦王傅となす。甲寅、前鄧州節度使梁漢顒は太子少師を以て致仕し、太子賓客裴皞は兵部尚書を以て致仕す。戊午、昭宗皇后何氏を追冊して宣穆皇后と為し、太廟に祔饗す。百僚名を進めて奉慰し、朝を三日廃す。己巳、左散騎常侍さんきじょうじ任讚を以て戸部侍郎と為し、吏部侍郎薬縱之を以て曹州刺史となす。癸酉、延州奏す、蕃部餉運及び攻城の具を劫掠し、蘆関を守る兵士は退きて金明鎮を守ると。

五月丙子朔(一日)、帝は文明殿に御して朝を受く。戊寅(三日)、皇子鳳翔節度使従珂は潞王に封ぜらる。新たに戸部侍郎に授けられた任讚は刑部侍郎に改めらる。讚は授けられた官が丁憂(父母の喪)の欠員であると訴えたため、故に改正せしむ。皇子従益は許王に封ぜられ、鄆州節度使李従温は兗王に封ぜられ、河中節度使李従璋は洋王に封ぜられ、鎮州節度使李従敏は涇王に封ぜらる。甲申(九日)、帝は九曲池にて避暑し、やがて楼に登る。風毒が暴かに起こり、聖体に不(御不例)あり、翌日にて癒ゆ。(《北夢瑣言》に云う:上、聖体乖和(不調)なり。馮道、寢膳の間に對し、動もすれば調衛を思ひ、因りて御前の果実を指して曰く、「桃を食して康ならざるが如く、翌日李を見て戒めを思ふ可し」と。初め、上、李を食して因り、暴かに風虚の疾を得たり。馮道、敢えて斥言せず、因りて奏事を以て上意を諷悟せしむ。)丙戌(十一日)、契丹、使いを遣わして朝貢す。丁酉(二十二日)、安従進奏す、大軍已に夏州に至り、城を攻む、其の命を受けざるを以てなりと。庚子(二十五日)、霊武留後張希崇を以て本州節度使と為す。辛丑(二十六日)、故夏州節度使・朔方郡王李仁福を追封して虢王と為す。壬寅(二十七日)、前晋州留後薄文を以て本州節度使と為す。

六月丙午朔(一日)、文武百僚・宰臣馮道等、章を拝し、尊號内に「廣運法天」の四字を加ふることを請ふ。凡そ三章を拝し、詔して之を允す。詔す、宮西の新園は宜しく永芳園と名づくべく、其の間の新殿は宜しく和慶殿と名づくべしと。丙辰(十一日)、秦王従栄、食邑を加へられて萬戸に至り、實封二千戸と為る。丁巳(十二日)、右ぎょう衛上將軍李従昶を以て左龍武統軍と為し、前邢州節度使高允韜を以て右龍武統軍と為し、右驍衛上將軍羅周敬を以て左羽林統軍と為し、右監門上將軍婁継英を以て金州刺史と為す。戊午(十三日)、宋王従厚、食邑を加へられて萬戸に至り、實封一千戸と為る。壬戌(十七日)、前涇州節度使李金全を以て滄州節度使と為す。癸亥(十八日)、詔して御史中丞龍敏等に《大中統類》を詳定せしむ。甲子(十九日)、第十四女を封じて壽安公主と為し、第十五女を封じて永樂公主と為す。戊辰(二十三日)、前利州節度使孫漢韶を以て洋州節度使と為す。壬申(二十七日)、永寧軍節度使・容州管内観察使・檢校太尉・兼侍中馬存、食邑實封を加へらる。甲戌(二十九日)、帝、復た不豫なり。

秋七月丁丑(二日)、著作佐郎尹拙を以て左拾遺・直史館と為す。國朝の舊制、皆畿赤の尉を以て史館に直らしむ。今、諫官を用ふるは拙より始まる。監修李愚の奏に従ふなり。己卯(四日)、東嶽三郎神に威雄大將軍を贈る。初め、帝不豫なりしに、前淄州刺史劉遂清、泰山の僧一人を薦む。雲く、善く醫すと。召見するに及んで、乃ち庸僧なるのみ。方藥を問ふに、僧曰く、「醫をたくみせず。嘗て泰山の中にて親しく嶽神を睹たり。僧に謂ひて曰く、『吾が第三子、威靈愛す可し。而れども未だ爵秩有らず。師、吾が為に之を請へ』と」と。宮中其の事をあやしむ。故に是の命有り。識者、遂清の妖佞を嫉む。詔す、應に台官出行するは、須らく人をして訶引せしめ、軍巡職掌等をして規避せしむべしと。壬午(七日)、詔して安従進に班師せしむ。時に王師、夏州を攻めて功無き故なり。乙酉(十日)、許州節度使孟鵠卒するを以て朝を廃し、太傅を贈る。詔して在京諸軍の将校に優給を賜ふこと差等有り。時に帝疾未だ痊えず、軍士に流言有る故なり。丁亥(十二日)、両浙節度使・檢校太傅・守中書令錢元瓘を封じて呉王と為す。

八月戊申(四日)、帝、袞冕を被り、明堂殿に御して冊を受け、徽號を聖明神武廣運法天文德恭孝皇帝と曰ふ。禮畢りて、大赦天下を製し、常赦のゆるさざる所の者も咸く赦除す。己酉(五日)、侍衛諸軍に優給を賜ふこと差等有り。時に月内再び頒給有り。茲より府藏に餘積無し。辛亥(七日)、晋州節度使薄文卒するを以て朝を廃す。丁巳(十三日)、右龍武統軍李従昶を以て許州節度使と為す。戊午(十四日)、秘書監高輅卒するを以て朝を廃す。辛酉(十七日)、太子太師を以て致仕したる符習卒するを以て朝を廃し、太師を贈る。辛未(二十七日)、秦王従栄は本官を以て天下兵馬大元帥を充て、食邑萬戸、實封三千戸を加へらる。右羽林統軍翟璋を以て晋州節度使と為す。太子賓客馬鎬を以て戸部侍郎と為す。壬申(二十八日)、至德宮に幸す。

九月甲戌(一日)、戸部尚書李鈴を以て兵部尚書と為し、前戸部尚書韓彥惲を以て戸部尚書と為す。丙子(三日)、至德宮に幸す。戊寅(五日)、樞密使範延光・趙延壽並びに兼侍中を加へられ、前に依りて使を充つ。中書奏す、「元帥の儀注、諸道節度使以下兵権を帯ぶる者は、階下に具して軍禮を以て參見す。其の使相を帯ぶる者は、初見も亦た一度公禮を展ぶ。天下の軍務公事は、元帥府行帖を以て指揮し、其の六軍諸衛事を判ずるは則ち公牒を以て往來す。其の官屬軍職は、元帥府に委ねて奏請せしむ」と。之に従ふ。癸未(十日)、兵部侍郎盧詹を以て吏部侍郎と為す。丙戌(十三日)、宰臣馮道に左僕射を加へ、李愚に吏部尚書を加へ、劉煦に刑部尚書を加ふ。戊子(十五日)、河陽節度使兼侍衛親軍都指揮使康義誠・山南西道節度使檢校太傅張虔釗並びに同平章事を加へらる。宣徽南院使・判三司馮贇は前に依りて檢校太傅・同中書門下二品と為し、三司使を充つ。贇の亡父の名は章なり。故に平章事を改めて同二品と為す。壬戌(十九日)、永寧公主石氏は進封されて魏國公主と為り、興平公主趙氏は進封されて齊國公主と為る。皇孫重光・重哲並びに銀青光祿大夫・檢校工部尚書を授けらる。秦王・宋王の子なり。前洋州節度使梁漢顒は太子少傅を以て致仕す。丁酉(二十四日)、右龍武統軍高允韜を以て滑州節度使と為し、韶州刺史・檢校司空しくう王萬榮を以て華州節度使と為す。萬榮は王妃の父なり。戊戌(二十五日)、樞密使趙延壽を以て汴州節度使と為し、襄州節度使朱宏昭を以て檢校太尉・同平章事と為し、樞密使を充つ。時に範延光・趙延壽相継ぎて樞密の務を辭退し、朱宏昭に樞密の命有るに及び、又た面して辭訴す。帝之を叱して曰く、「爾輩皆朕が左右を離れんと欲す。眼前に在るを懼る。素より爾輩を養ふ、将に何を用ゐん」と。宏昭退きて謝し、復た敢へて言はず。吏部侍郎張文寶卒す。庚子(二十七日)、清海軍節度使錢元璹に檢校太傅・同平章事を加ふ。中呉・建武等軍節度使錢元尞に檢校太師・兼中書令を加ふ。前滑州節度使李讚華を以て遙領して虔州節度使と為す。辛丑(二十八日)、詔す、天下兵馬大元帥・秦王従栄の班は宜しく宰臣の上に在るべしと。(《五代會要》:秦王従栄に兼中書令を加ふ。宰臣と分班し左右に定位し、及び天下兵馬元帥と為る。敕して曰く、「秦王、位将相に隆く、望磐維に重し。委任既に崇く、等威合まさに異なるべし。班位は宜しく宰臣の上に在るべし」と。)壬寅(二十九日)、北面行營都指揮使・易州刺史楊檀を以て振武軍節度使と為す。

冬十月丙午、前同州節度使趙在禮を以て襄州節度使と為す。丁未、前滑州節度使張敬詢卒すに因りて朝を廃す。刑部侍郎任讚を以て兵部侍郎と為し、元帥府判官を充てる。戊午、前鳳翔節度使孫嶽を以て三司使と為す。庚申、枢密使範延光を以て鎮州節度使と為し、三司使馮贇を以て枢密使と為す。辛酉、前潞州節度使李承約を以て左龍武統軍と為し、前威塞軍節度使王景戡を以て右龍武統軍と為し、左驍衛上將軍安崇阮を以て左神武統軍と為し、右監門上將軍高允貞を以て右神武統軍と為す。壬戌、権知夏州事・検校司空李彝超を以て夏州節度使・検校司徒と為す。丙寅、詔して在朝の文武臣僚並びに加恩を与う、冊を受け尊号を奉るに因るなり。戊辰、前安州節度使楊漢章を以て兗州節度使と為し、前雲州節度使張敬達を以て徐州節度使と為す。庚午、前兗州節度使張延朗を以て秦州節度使と為す。壬申、秦州節度使劉仲殷を移して宋州に鎮せしむ。

十一月丙子、前滄州節度使盧質を以て右僕射と為す。庚辰、慎州懐化軍を改めて昭化軍と為し、洮州を升めて保順軍と為す。辛巳、保大軍節度使・検校太尉鮑君福を以て保順軍節度・洮鄯等州観察等使と為し、彰義軍節度使・検校太尉・同平章事杜建徽を以て昭化軍節度・慎瑞司等州観察使と為す。乙酉、前汴州節度使李従厳を以て鄆州節度使と為し、鄆州節度使李従温を以て定州節度使と為す。丙戌、新たに授けられたる右僕射盧質奏す、「臣官を忝く除せられ、省に赴き事を上ぐるに合う。若し旧例に準ずれば、左右僕射の上事儀注は費うところ極めて多し。権に従い務めを簡にせんと欲し、隻だ尚書丞・郎の上事例を取る。南省の属僚及び両省の官を集めて送るに止め、また敢えて往例を援き、官用を費やすこと輒ちせず。自ら力に量りて排比す。兼ねて敢えて臣より前規を隳廃せず、他時に任せて旧制を行わしむ。」之に従う。

戊子、帝豫せず。己丑、大いに漸く、広寿殿より移りて雍和殿に居す。是の夜四鼓の後、帝自ら御榻より蹶然として興き、漏を知る宮女を顧みて曰く、「今夜の漏幾何ぞ。」対えて曰く、「四更なり。」因りて奏して曰く、「官家(天子)事を省みますか。」帝曰く、「省む。」因りて肺の如き肉片数片を唾出し、便溺升余す。六宮皆至り、慶躍して奏して曰く、「官家今日実に還魂せられたり。」已に食一器を進め、侍医湯膳を進む。曙に至り、帝小康なり。壬辰、天下兵馬大元帥・守尚書令・兼侍中・秦王従栄兵を領して天津橋に陣し、内より禁軍を出して之を拒ぐ。従栄敗れて河南府に奔り、害に遇う。帝之を聞き、悲駭し、幾たびか御榻より落ちんとし、気絶して蘇ること再びす。是より豫せざること加わる。癸巳、馮道百僚を率い帝に雍和殿に見ゆ。帝雨泣して哽噎し、曰く、「吾が家事此の若きは、卿等に見るを慚ず。」百僚皆泣下し襟を沾す。甲午、宰臣・枢密使に御衣玉帯を賜い、康義誠已下錦帛鞍馬差有り。宣徽使孟漢瓊を遣わし鄴都に於て宋王を召す。乙未、三司使孫嶽乱兵に害せらるるに因り朝を廃す。丁酉、秦王府官属を敕す。諮議参軍高輦已に処斬せられたるを除く外、元帥府判官・兵部侍郎任讚は武州に配し、秘書監兼秦王傅劉讚は嵐州に配し、河南少尹劉陟は均州に配し、並びに長流の百姓と為す。縦え恩赦に逢うも、放還に在らず。河南少尹李蕘は石州に配し、河南府判官司徒詡は寧州に配し、秦王友蘇瓚は萊州に配し、記室参軍魚崇遠は慶州に配し、河南府推官王説は隨州に配し、並びに長流の百姓と為す。河南府推官尹諲、六軍巡官董裔・張九思、河南府巡官張沆・李潮・江文蔚は並びに勒して田里に帰らしむ。応に長流の人並びに名を除く。六軍判官・殿中監王居敏は責めて復州司馬を授け、六軍推官郭晙は責めて坊州司戸を授け、並びに員外に置き、所在馳驛して発遣す。時に宰相・枢密使共に任讚等已下の罪を議す。馮道等曰く、「任讚前だ班行に在り、比に従栄と旧無し。官を除して月余に及ばず、便ち此の禍に逢う。王居敏・司徒詡は疾病に因り仮を請い、将に半年に近し。近日の事は、計りて謀を同じくせず。従栄の款昵する者は高輦・劉陟・王説の三人なり。昨従栄兵を称し闕を指すの際、沿路隻だ劉陟・高輦と並轡して耳語し、天津橋南に至り、日影を指して諸判官に謂いて曰く、『明日今の如くんば、已に王居敏を誅せり。』と。則ち其の冗泛の徒は、一例に従坐すべからざるを知る。」朱宏昭は意任讚已下を尽く誅せんと欲す。馮贇力之を争うに乃ち已む。戊戌、帝大内の雍和殿に崩ず。寿六十七。

十二月癸卯朔、梓宮を二儀殿に遷す。宋王従厚鄴都より至る。是日哀を発し、百僚位に縞素す。中書侍郎・平章事劉煦遺製を宣し、宋王従厚柩前に於て即皇帝位す。服紀は日を以て月に易え、一に旧制の如しと云う。明年四月、太常卿盧文紀上諡議して聖智仁徳欽孝皇帝と曰い、廟号明宗とす。宰臣馮道議して「聖智仁徳」の四字を改め、聖徳和武欽孝皇帝と為さんことを請う。宰臣劉煦諡冊文を撰し、宰臣李愚哀冊文を撰す。是の月二十七日徽陵に葬る。

史臣曰く、明宗戦伐の勲は、佐命に高きと雖も、潜躍の事は、本より心に経ず。会う王室の多艱に、属す神器の自ら至るに。諒に天の讚に由る、人謀に出ずるに非ず。及び応運して君臨し、能く王化を行うに力を尽くす。政皆中道、時亦小康、近代已来、亦た宗とすべし。倘使はば重誨に房・杜の術有り、従栄に啓・誦の賢有らば、則ち宗祧未だ危亡に至らず、載祀或いは綿遠を期せん。惜しいかな、君親は輔う可く、臣子は才に非ず。遽に烝嘗を泯し、良く深く歎ず可し。