舊五代史

唐書十九: 明宗本紀九

長興三年春正月癸未朔、帝は明堂殿に御して朝賀を受け、仗衛は定式の如し。丁亥、陝州節度使安從進は鎮を延州に移す。己丑、邠州節度使薬彦稠・霊武節度使康福を遣わし、歩騎七千を率いて方渠に往き、叛く党項を討たしむ。庚寅、前北京副留守呂夢奇を以て戸部侍郎となす。辛卯、前彰国軍留後孫漢韶を以て利州節度使とし、西面行営副部署兼歩軍都指揮使を充てしむ。庚子、契丹は使いを遣わして朝貢す。辛丑、秦王従栄に開府儀同三司・兼中書令を加う。戊申、詔して選人の文解が式様に合わざるは、罪は発解の官吏にあり、挙人落第の者は、次年文解を取ることを免ず、とす。中書門下奏す:「親王の官が兼侍中・中書令に至れば、則ち見任の宰臣と分班して定位せしめ、宰臣は左に居り、諸親王は右に居らしむべし。もし親王及び諸使が侍中・中書令を守るも、亦た分行して右に居らしめ、其の余の使相は旧に依るべし」と。之に従う。渤海・回鶻・吐蕃は使いを遣わして朝貢す。大理正張居録上言す:「頒布する所の諸州の新定格式・律令は、請うらくは逐処に各法直官一人を差し、専ら検討を掌らしむべし」と。之に従う。

二月乙卯、制して晋国夫人夏氏を追冊して皇后とす。丙辰、龍門に幸す。詔して故皇城使李従璨に太保を贈ることを可とす。詔して選門官を出だし、罷任の後周年にして方ちに擬議を許し、自ら所司に於いて状を投じて磨勘し中書に送らしむ。又詔して城南の稻田務を罷め、其の費する所多くして収むる所少きを以て、其の水利を復し、民間の碾磑に資さんが故なり。秦州奏す:「州界の三県の外、別に一十一鎮の人戸あり、鎮将の征科に係る。其の便に随わんと欲し、宜しく隴城・天水の二県を復置して之に隷せしむべし」と。詔して之に従う。甲子、至徳宮に幸す。右衛大将軍高居貞を以て右監門衛上将軍となす。庚午、前華州節度使李従昶を以て左ぎょう衛大将軍とし、前夔州節度使安崇阮を以て右驍衛大将軍とし、前新州節度使翟璋を以て右領軍上将軍とし、右領軍上将軍羅周敬を以て右威衛上将軍となす。辛未、中書奏す:「石経の文字に依りて《九経》の印板を刻すことを請う」と。之に従う。甲戌、霊武奏す、都指揮使許審環等謀反を企て誅せらる、と。薬彦稠奏す、党項の阿埋等十族を誅し、康福と共に白魚谷に入り叛党を追襲し、大首領六人・諸羌二千余人・孳畜数千、及び先に劫掠せし回鶻の物貨を獲たり、と。詔して彦稠の軍士、獲たる所のものは並びに自ら収めしめ、箕斂することを得ざらしむ。己卯、前河中節度使索自通を以て鄜州節度使となす。懐化軍節度使李賛華、契丹の地図を進む。詔して司天台に、密奏を中外に留むるを除き、応に奏する所の暦象・雲物・水旱、及び十曜の細行・諸州の災祥は、宜しく並びに史館に報じ、以て編修に備うべし。壬午、薬彦稠、回鶻可汗の先に送れる秦王の金装胡録(鞍具の一種)を進む。党項に掠められしもの、是に至りて之を得て以て献ず。帝曰く:「先に詔して獲たる所のものは軍士に自ら収めしむとす。今何ぞ進むるや」と。彦稠に却って獲たる者に与えしむ。

三月甲申、契丹は使いを遣わして朝貢す。霊武の軍将裴昭隠等二人と進奏官阮順之、官馬一匹を隠す。有司罪を論じて法に抵るに合うとす。帝曰く:「一馬を以て三人の命を殺すべからず」と。笞して之を釈す。丙申、西京奏す、百姓侯可洪、楊広城内に於いて掘り得たる宿蔵の玉四団を進納す、と。可洪に二百緡・絹二百匹を賜う。庚子、前鄜州節度使孫璋卒するに因り朝を廃す。癸卯、帝顧みて宰臣に謂ひて曰く:「春雨稍々多く、久しく晴霽せず。何ぞや」と。馮道対えて曰く:「水旱沴を作すは、天の常道と雖も、然れども季春にして秋令を行ふは、臣が罪なり。更に望むらくは陛下広く恩宥を敷き、久雨も聖政に妨げ無からしめんことを」と。丁未、神捷・神威・雄武・広捷已下の指揮を以て左右羽林軍と改め、四十指揮を置き、毎に十指揮を立てて一軍と為し、軍に都指揮使一人を置く。庚戌、帝近郊に於いて稼を観る。民に父子三人同しく犁を挽きて耕す者有り。帝之を閔み、耕牛三頭を賜う。高麗国は使いを遣わして朝貢す。右領軍上将軍翟璋を以て右羽林統軍とし、前安州留後周知裕を以て左神武統軍となす。

夏四月甲寅、詔して諸道節度使、未だ使相を帯びず及び防禦使・團練使・刺史、班位は檢校官の高き者を上とすべし、もし檢校官同じきは、先に授けられたる者を上とし、前資は見任の下に在るべしと。新羅王金溥、使いを遣わして方物を貢ぐ。戊午、中書奏す:「勅に準じて三京・諸道州府の地望次第を重ねて定むる者。旧制は王者の都する所の地を上とす、今洛陽らくように都す、請うらくは河南道を上とし、關內道を第二とし、河東道を第三とし、余は旧制に依らん。其の五府は、『十道図』に按ずるに、鳳翔を首とし、河中・成都・江陵・興元を次とす。中興の初め、魏州を升めて興唐府とし、鎮州を升めて真定府とす、望むらくは二府を升めて五府の上に在らしめ、合せて七州と為し、余は旧制に依らん。又天下旧に八大都督ととく府有り、霊州を首とし、陝・幽・魏・揚・潞・鎮・徐を次とす、其の魏・鎮は已に升めて七府と為し具に員内に備わる、相次いで越・杭・福・潭等の州を升めて都督と為す、望むらくは十大都督府を以て額と為し、仍って升降の次第に拠り、陝を首とし、余は旧制に依らん。『十道図』に大都護有り、請うらくは安東大都護を以て首とせん。防禦使・團練使等、自ら来た升降極めて多し、今具に見在する其の員を以て新たに定むる『十道図』に次第を以て定めんと。」之に従う。契丹累ねて使いを遣わして則剌・惕隠等の帰還を求め、幽州趙徳鈞奏請して允可せざるを請う。帝侍臣に顧問す、亦た与うべからずと為す。帝の意は之を帰さんと欲す、会に冀州刺史楊檀郡を罷めて闕に至る、帝其事を問う、奏して曰く:「此の輩来たりて王都を援け、社稷を危うくせんと謀る、陛下寛慈にして、其の生命を貸す。苟くも若し之を帰さば、必ず復た南に向かって箭を放たん、既に中国の事情を知り、患ひ深し。」帝之を然りとす。既にして隻に則骨舎利を遣わし来使に随いて蕃に帰らしむ、全く其の請を拒まんと欲せざるなり。詔して皇后曹氏の曾祖父母已下を贈りて太傅・太尉・太師・国夫人と為し、淑妃王氏の曾祖父母已下を贈りて太子太保・太傅・太師・国夫人と為す。壬戌、前枢密使・驃騎大将軍馬紹宏卒す。癸亥、懐化軍節度使李賛華を以て滑州節度使と為す。初め、帝賛華を以て藩鎮と為さんと欲す、範延光等奏し、以て不可と為す。帝曰く:「吾其の先人と約して兄弟と為り、故に賛華来たりて附く。吾老いたり、倘ひ後世に文を守るの主有らば、則ち此の輩招くも亦来らず。」是に由りて近臣抗議する能わず。甲子、太子賓客蕭遽を以て戸部尚書と為し致仕せしむ。乙丑、天雄軍節度使・宋王従厚を以て中書令を兼ねしむ。辛未、幽州節度使趙徳鈞を以て中書令を兼ねしむ。

五月壬午朔、帝文明殿に御し朝を受く。詔して網羅・弾射・弋獵を禁ず。丁亥、二王の後たる前詹事府司直楊延紹を以て右賛善大夫と為し、仍って襲封して酅国公と為し、食邑二千戸。丁酉、太子太師致仕孔某卒す、朝を廃す。興元奏す、東・西両川各挙兵して相持ちすと。甲辰、文宣王四十三代孫曲阜県主簿孔仁玉を以て兗州龔邱令と為し、文宣公を襲封せしむ。戊申、襄州奏す、漢江大いに漲り、水州城に入り、民の廬舎を壊すと。枢密使奏す:「近く両川の悪を交えるを知る、若し一賊をして両川を兼有せしむれば、衆を撫で険を守り、恐らく討除し難からん、王思同をして興元の師を以て便に伺い進取せしめんと欲す。」詔して之に従う。

六月壬子朔、幽州趙徳鈞奏す:「新たに東南河を開き、王馬口より淤口に至る、長さ一百六十五里、闊さ六十五歩、深さ一丈二尺、以て漕運を通じ、舟千石に勝ち、図を画きて以て献ず。」甲寅、権知高麗国事王建を以て検校太保と為し、高麗国王に封ず。丁巳、衛州奏す、河水堤を壊し、東北に流れて御河に入ると。戊午、荊南奏す:「東川董璋兵を領して漢州に至り、西川孟知祥兵を出して逆戦し、璋大いに敗れ、部下の人二十余を得て、東川城に走り入り、尋で前陵州刺史王暉に殺され、孟知祥已に梓州に入る。」辛酉、範延光奏して曰く:「孟知祥両川を兼有す、彼の軍衆皆我が将士なり、其の外朝廷の形勢を仮りて以て之を制するを料る、然れども陛下苟くも屈意して招携せざれば、彼亦由りて面を革むること無からん。」帝曰く:「知祥予が故人なり、賊臣の間諜を以て、故に茲に阻隔す、今因りて之を撫せば、何の屈意か有らん!」是に由りて供奉官李瑰を遣わし西川に使いせしめ、詔を齎して以て知祥に賜う。詔して霖雨旬を積み、久しく未だ晴霽せず、京城諸司の係囚、並びに宜しく釈放すべしと。甲子、大雨未だ止まずを以て、朝参を両日放つ。洛水漲ぎ泛び二丈、廬舎居民に溺死する者有り。前濮州刺史武延翰を以て右領軍上将軍と為し、前階州刺史王宏贄を以て左千牛上将軍と為す。金・徐・安・潁等州大水、鎮州旱。詔して応に水旱の州郡、各使いを遣わし人を存問せしむ。

秋七月辛巳朔、天下兵馬元帥・尚父・呉越国王銭鏐の薨ずるを以て、朝を三日廃す。丙戌、詔して諸軍に救接銭を賜うこと差有り。戊子、正衙に使いを命じ冊して高麗国王王建と為す。霊武奏す、夏州界の党項七百騎侵擾し、当道師を出して之を撃破し、五十騎を生擒し、賀蘭山下に追うと。己丑、両浙節度使銭元尞起復し、守尚書令しょうしょれいを加う。青州節度使王晏球中書令を兼ねて加う。秦・鳳・兗・宋・亳・潁・鄧大水、邑屋を漂し、苗稼を損ず。夔州赤甲山崩る。壬辰、前太僕卿鄭繢を以て鴻臚卿と為し、前兗州行軍司馬李鈴を以て戸部尚書と為す。乙未、福建節度使王延鈞絹表を進めて云く:「呉越王銭鏐薨ず、臣を封じて呉越王と為さんことを乞う。湖南馬殷の官は是れ尚書令なり、殷薨ず、請うらくは臣に尚書令を授けよ。」報えず。戊戌、太子賓客李光憲礼部尚書を以て致仕す。己亥、前霊武節度使康福を以て涇州節度使と為す。幽州衙将潘杲上言し、故使劉仁恭の大安山に銭を蔵むる所を知ると、枢密院人を差し監して往きて之を発せしむ、竟に得る所無し。皇子西京留守・京兆尹従珂を以て鳳翔節度使と為す。鳳州武興軍節制を廃して防禦使と為し、並びに管する所の興・文二州並びに旧に依りて興元府に隷せしむ。丁未、門下侍郎兼吏部尚書・同平章事・監修国史趙鳳を以て検校太傅・同平章事と為し、充てて邢州節度使とす。詔して諸州府水に遭える人戸に各麦種を支借し及び等第に賑貸せしむ。

八月辛亥、青州節度使王晏球卒す、朝を二日廃す。利州節度使孫漢韶を以て西面行営招討使を兼ねしむ。甲寅、前振武節度使張万進を以て鄧州節度使と為す。己未、鄆州節度使房知温を以て中書令を兼ねしめ、移鎮して青州とす。丙寅、宰臣李愚を以て門下侍郎・平章事・監修国史と為す。己亥、湖南節度使馬希声の卒するを以て朝を廃す。己卯、吐蕃使いを遣わし朝貢す。

九月壬午、鎮南軍節度使・検校太尉馬希範を湖南節度使・検校太尉・兼侍中とする。甲申、荊南節度使・検校太傅・兼中書令高従誨に検校太尉・兼中書令を加える。壬辰、供奉官李瑰が西川より帰還す。節度使孟知祥が別表を奉り隔絶の由を陳述し、併せて物を進め、先に賜わった金器等を賜う。瑰は知祥の甥なり、母はしょくに在り、故に今瑰をして往かしむ。瑰、蜀に至り、朝廷の厚遇の意を詳しく述ぶ。知祥、初めの如く藩として称し、福慶長公主が今年正月十二日に薨じたるを奏す。又、五月三日に漢州において東川董璋の軍を大破し、東川を収下せしことを奏す。又、功を立てた将校趙季良等五人を表し、節鉞を授けんことを請う。管内の刺史・令録以下の官は、墨製をもって補授することを許さんことを請う。帝、閣門使劉政恩を遣わし西川宣諭使を充てしむ。乙巳、契丹、使いを遣わし幽州より馬を進む。秦州地震す。

冬十月己酉朔、再び供奉官李瑰を遣わし西川に使せしめ、兼ねて故福慶長公主の祭贈絹三千匹を押賜し、併せて知祥に玉帯を賜う。先に、両川は隔遠にして、朝廷の兵士三万人に下らざるも、是に至り、知祥上表して兵士の家眷を川に入れ遣わさんことを請う。詔を下して報じ、允さず。知祥の奏する両川管内の文武将吏、権に行いに墨製をもって除補し訖りて奏することを許さんことを請うるは、詔して之を許す。知祥の奏する功を立てた大将趙季良等五人に正しく節鉞を授くるは、続いて処分有らん。襄州奏す、漢水溢れ、民の廬舎を壊す。癸丑、太常卿劉嶽卒すに因り朝を廃す。己未、兵部侍郎張文宝を吏部侍郎とし、戸部侍郎薬縦之を兵部侍郎とする。庚申、至徳宮に幸し、因りて石敬瑭・李従昶・李従敏の第に幸す。壬申、大理少卿康澄上疏して曰く、「臣聞く、安危得失、治乱興亡は、誠に天時に係わらず、固より地利によるに非ず、童謡は禍福の本に非ず、妖祥豈に隆替の源ならんや。故に雊雉鼎に昇り桑穀朝に生ずるも、殷宗の盛を止むること能わず。神馬長嘶し玉亀兆を告ぐるも、晋祚の長を延ばすこと能わず。是を知る、国家に懼るるに足らざる者五有り、深く畏るべき者六有り。陰陽調わざるは懼るるに足らず、三辰行いを失うは懼るるに足らず、小人訛言するは懼るるに足らず、山崩れ川涸るるは懼るるに足らず、蟊賊稼を傷つくるは懼るるに足らず、此れ懼るるに足らざる者五なり。賢人匿れ蔵るるは深く畏るべく、四民業を遷すは深く畏るべく、上下相い徇うは深く畏るべく、廉恥の道消ゆるは深く畏るべく、毀誉真を乱すは深く畏るべく、直言蔑ろに聞こゆるは深く畏るべく、此れ深く畏るべき者六なり。伏して惟うに、陛下万国に尊臨し、八紘を奄有し、三季の澆風を蕩し、百王の旧典を振い、四科を設けて俊彦を羅し、二柄を提げて英雄を禦す。故に不軌不物の徒、皆思うに面を革めんとし、無礼無儀の輩、相率いて心を悛めんとす。然れども懼るるに足らざる者は、願わくは陛下存して論ずること勿れ。深く畏るべき者は、願わくは陛下修めて忒すること靡かれ。加うるに三綱五常の教を崇め、六府三事の歌を敷かば、則ち鴻基は五岳と高さを争い、盛業は磐石と共に永く固からん。」優詔を下して之を奨む。澄の言う可畏六事は、実に当時の病に中り、識者之を許す。癸酉、湖南馬希範・荊南高従誨並びに銀及び茶を進め、戦馬を賜わんことを乞う。帝其の直を還し、各馬を賜うこと差有り。丁丑、帝範延光に謂いて曰く、「聞く所に依れば、禁軍の戍守は、多く藩臣の命を稟けず、緩急如何にせんとして駆使せん。」延光曰く、「承前、禁軍出戍すれば、便ち逐処の守臣に管轄断決せしむ、簡易に近似す。」帝曰く、「速やかに宣命を以て条挙せしめよ。」

十一月辛巳、三司使・左武衛大将軍孟鵠を許州節度使とし、前許州節度使馮贇を宣徽使・判三司とし、宣徽北院使孟漢瓊を判院事とする。壬午、史館奏す、「宣宗已下四廟に未だ実録有らず、請うらくは両浙・荊湖に下し野史及び除目報状を購募せしめよ。」之に従う。癸未、左僕射致仕鄭玨卒すに因り朝を廃す。丁亥、河陽節度使兼六軍諸衛副使石敬瑭を河東節度使とし、兼ねて大同・彰国・振武・威塞等軍蕃漢馬歩総管とする。時に契丹の帳族雲州の境上に在り、群臣と議し威望の大臣を択び以て北方を制せんとす、故に是の命有り。己丑、枢密使趙延寿に同平章事を加う。詔して在京の臣僚、賀長至の馬及び諸物を進奉することを得ざるを命ず。甲午、日南至す、帝文明殿に御し朝賀を受く。己亥、河中節度使李従璋に検校太傅を加う。右散騎常侍さんきじょうじ楊凝式を工部侍郎とする。庚子、秘書監盧文紀を工部尚書とし、工部尚書崔居儉を太常卿とし、工部侍郎鄭韜光を礼部侍郎とする。乙巳、雲州奏す、契丹主黒榆林南捺剌泊に在り攻城の具を造る。帝使いを遣わし契丹主に銀器彩帛を賜う。

十二月戊申朔、供奉官丁延徽・倉官田継勳並びに市に棄つ、坐すところ倉粟数百斛を擅に出だしたる故なり。教坊の伶官敬新磨、賄を受け、人の告ぐる有り。帝御史台に令し其の銭を徴還せしめて後に之を撻つ。癸丑、龍門に幸し、伊水石堰を修むるを観、丁夫に酒食を賜う。後数日、有司奏す、「丁夫の役限十五日已に満つ、工未だ畢らず、請うらくは更に五日役せしめよ。」帝曰く、「惟に時寒きのみならず、且つ小民に信を失うべからず。」即ち其の役を止む。甲寅、太子賓客帰藹卒すに因り朝を廃す。戊午、前宣徽使朱宏昭を襄州節度使とす。康義誠を河陽節度使とし、侍衛親軍馬歩軍都指揮使を充てしむ。壬戌、吏部侍郎姚顗を尚書左丞とし、尚書左丞王権を礼部尚書とし、兵部侍郎薬縦之を吏部侍郎とし、翰林学士・中書舎人程遜を戸部侍郎とし、前の如く職を充つ。戊辰、帝近郊に畋し、奔鹿を射て中つ。是の冬雪無し。