二月乙巳、王晏球が奏す、此の月三日定州を収復し、王都の首級を獲、契丹の托諾等二千余人を生擒す。百僚賀を称し畢りて、乃ち詔して今月二十四日に車駕東京に還るを取る。辛亥、北面行営招討使・宋州節度使王晏球を以て鄆州節度使と為し、兼侍中を加ふ。北面行営副招討使・滄州節度使李從敏を以て定州節度使と為す。北面行営兵馬都監・鄭州防禦使張虔釗を以て滄州節度使と為す。幽州節度使趙德鈞に兼侍中を加ふ。乙卯、枢密使趙敬怡を以て権知汴州軍州事と為す。丙辰、邢州が奏す、定州より送到の偽太子李継陶、已に処置を畢れり。辛酉、帝は咸安楼に御し定州の俘馘を受け、百官列に就き、露布を楼前に宣す。礼畢りて、王都の首級を以て太社に献ず。王都の男四人・弟一人、禿餒父子二人、並びに市にて磔く。(『五代会要』に曰く、尚書兵部楼前にて露布を宣し、宣し畢りて、尚書刑部侍郎張文宝奏して曰く、「逆賊王都の首級は請ふ所司に付せん。」大理卿蕭希甫之を受け出で、郊社に献ず。其の王都の男並びに蕃将等は開封橋にて磔く。)時に露布の文、制勅の体に類す。蓋し筆を執る者の誤り、頗る識者の嗤ふ所と為る。枢密使趙敬怡卒す。太傅を贈る。端明殿学士趙鳳を以て権知汴州軍州事と為す。甲子、車駕汴州を発つ。丙寅、鄭州に至る。左僕射致仕鄭玨に銭二十万を賜ふ。丁卯、宰相崔協卒す。詔して尚書右僕射を贈る。東都留守・太子少傅李琪等奉り、偃師県に至り奉迎す。時に琪の奏章中に「契丹の凶党を敗り、真定の逆城を破る」の言有り。詔して曰く、「契丹は即ち凶党と為るも、真定は逆城に非ず。李琪一月の俸を罰す。」庚午、車駕汴州より至る。
三月甲戌、馮道表を進め相を命ずるを乞ふ。丙戌、詔して皇城使李從璨を貶授し房州司戸参軍と為し、仍て尽命を令す。從璨は帝の諸子なり。先づ是に、帝汴州に巡幸し、從璨を留めて以て大内を警せしむ。從璨因りて会節園に遊び、酒酣にて、戯れに御榻に登る。安重誨之を奏す。故に法に置く焉。壬辰、中書奏す、「今後群臣内に覲省を乞ひ仮る者有らば、請ふ量りに茶薬を賜はんことを。」之に従ふ。乙未、前鄆州節度使符習を以て汴州節度使と為す。丙申、詔して鄴都・幽・鎮・滄・邢・易・定等州管内の百姓、正税の外、諸色の差配を放免す。王都を討つ役、挽運の労有るを以てなり。
夏四月庚子朔、鉄鑞銭を禁ず。壬寅、広寿殿を重修し成る。有司丹漆金碧を以て之を飾るを請ふ。帝曰く、「此の殿焚経れり、修せざる可からず。但だ宏壮を務め、華侈を労せず。」湖南奏す、石首鎮に於て荊南の賊軍を敗る。詔して辺に沿ひ場を置き馬を買ひ、蕃部の直に闕下に至るを許さず。先づ是に、党項諸蕃凡そ将に到る馬、駑良無く並びに上進と雲ふ。国家其の価を約して以て之に給ふと雖も、及び其の館穀錫賚を計れば、費ふ所勝げて紀す可からず。計司中華を耗蠹すと為し、遂に之を止む。壬子、皇子北京留守・河東節度使從榮を以て河南尹・判六軍諸衛事と為す。皇子河南尹・判六軍諸衛事從厚を以て北京留守と為す。河陽節度使趙延寿を以て宋州節度使と為す。侍衛親軍都指揮使・鎮南軍節度使康義誠を以て河陽節度使と為す。契丹雲州を寇す。癸丑、契丹捺括梅裏等を遣はし来朝貢し、禿餒等の骸骨を取ると称し、並びに北市に斬る。甲寅、端明殿学士趙鳳を以て門下侍郎兼工部尚書・平章事と為す。丙辰、諫議大夫致仕・襲文宣公孔邈卒す。庚申、王建立・孔循に中書直省吏を帯びて藩に帰らしめ、並びに追ひ回す。壬戌、幽州節度使趙德鈞に北面行営招討使を兼ねしむ。鎮州節度使範延光に検校太傅を加ふ。戊辰、中書奏す、「五月一日、応に在京九品已上の官、及び諸道の進奉使は、請ふ貞元七年の勅に準じ、位に就き起居し、永く恒式と為さんことを。」之に従ふ。
五月己巳朔、帝は文明殿に御し朝を受く。丙子、夔州節度使西方鄴卒するに因り朝を輟む。丁丑、大理卿李保殷卒す。己卯、忠武軍節度使索自通を以て京兆尹・充西京留守と為す。左威衛上將軍朱漢賓を以て潞州節度使と為す。乙酉、黔州節度使安崇阮を以て夔州節度使と為す。左驍衛上將軍張溫を以て洋州節度使と為す。黔州留後楊漢賓を以て本州節度使と為す。中書奏す、「太常寺少帝の諡を昭宣光烈孝皇帝と定め、廟号を景宗とす。伏して惟ふに少帝今廟に入らず、宗を言ひ難し。只だ昭宣光烈孝皇帝と雲ふ。」之に従ふ。丁亥、鳳州武興軍留後陳皋を以て武興軍節度使と為す。新州威塞軍留後翟璋を以て威塞軍節度使と為す。壬辰、権知尚書右丞崔居儉を以て尚書右丞と為す。詔して天下の廨宇を葺はしむ。丙申、襄州奏す、荊南の高從誨帰順を乞ふ。雲州奏す、契丹塞を犯す。
六月辛丑の日、左散騎常侍姚顗を兵部侍郎に任ず。壬寅の日、夔州節度使楊漢章を雲州に移鎮させ、北京馬歩軍都指揮使兼欽州刺史張敬達を鳳州節度使に任ず。癸卯の日、前西京副留守事張遵誨を行衛尉事とし、客省使を充てる。国子博士田敏、四郊の祠祭斎室を修繕することを請う。丙午の日、沂州刺史張万進を安北都護とし、振武軍節度使を充てる。戊申の日、宿州団練使康思立を利州節度使に任ず。登州刺史孫元、停任。在任中に名目のない賦課徴発を行った罪による。詔して、鄴都を旧に従って魏府とす。魏府・汴州・益州の宮殿の鴟尾は悉く取り除き、節度使に賜って衙署とせしむ。辛亥の日、権知朔方軍留後・定難軍都知兵馬使韓澄を朔方留後に任ず。癸丑の日、前潞州節度使符彦超を左驍衛上将軍に任ず。詔す:「諸道の節度使行軍司馬は、名位は高しといえども、帥臣在らざる時は、その州の事は節度副使に委ねて権知せしむべし」。また詔す:「藩郡が賓幕及び主事親従者を請うる者は、悉くその名を聞かしむべし」。丙辰の日、権知荊南軍府事高従誨、上章して罪を首とし、職貢を修めることを乞い、なお銀三千両を進めて罪を贖う。壬戌の日、至徳宮に幸す。詔す:「京城の空地は、人に課して蓋造せしむ。力なき者は、人に請射して営構することを許す」。
秋七月庚午の日、前西京留守判官張鎛を司農卿に任ず。壬申の日、前左金吾上将軍毛璋を貶して儒州長流百姓とし、尋いで自尽を賜う。藩鎮において陰に奸謀を蓄えし故なり。甲戌の日、御史中丞呂夢奇を責授して太子右賛善大夫とす。かつて毛璋に馬を借りし罪による。己卯の日、工部侍郎任賛を左散騎常侍に任じ、枢密直学士・左諫議大夫・充匭使閻至を工部侍郎として職を充てしむ。遂州、嘉禾を進む。一茎九穂なり。壬午の日、給事中・判大理卿事許光義を御史中丞に任ず。史館上言す:「編修する所の荘宗一朝の事跡は、名を実録と為さんと欲し、太祖・献祖・懿祖は名を紀年録と為さんとす」。これに従う。甲申の日、前荊南行軍司馬・検校太傅高従誨を起復し、検校太傅・兼侍中を授け、荊南節度使を充てしむ。丙戌の日、涇州節度使李従昶を華州に移鎮させ、冀州刺史李金全を涇州節度使に任ず。戊子の日、中書奏す:「今後新たに及第した挙人で、かつて正官及び御署を授かった者は、前任の資序に約し、一官を除することを欲す」。これに従う。壬辰の日、詔して来年二月二十一日に南郊にて事有らんことを取る。
八月丁酉朔、大理正路阮奏す:「窃かに見るに、春秋に文宣王に釈奠す。而るに武成王廟は久しく時祭を曠うす。常祀を復することを請う」。これに従う。戊戌の日、中書奏す:「太子少傅李琪の撰進したる『霍彦威神道碑』の文、真偽を分かたず、功名を混ぜたり。改撰せしむることを望む」。これに従う。琪は梁の故相、私懐に感遇を懐き、彦威の梁に歴任したるを叙し、偽梁と言わんと欲せざる故なり。辛丑の日、詔す:「乱離已来、天下諸軍の掠めたる生口に、主識認有るは、即ち勒してこれを還すべし」。前清河県令・襲酅国公・食邑三千戸楊仁矩を秘書丞に任ず。御史台奏す:「主簿朱穎は前中丞の奏請に係る。聴罷任に随うべし」。詔して曰く:「主簿は既に正秩たり。況んや選門に入り、顕に朝恩より出ず。考限を終うすべし。宜しく旧に従って官を守らしむべし」。甲辰の日、宰臣馮道を南郊大礼使とし、兵部尚書盧質を礼儀使とし、御史中丞許光義を儀仗使とし、兵部侍郎姚顗を鹵簿使とし、河南尹従栄を橋道頓遞使とし、客省使・衛尉卿張遵誨を修装法物使とす。乙巳の日、黒水朝貢使郭済等、属を率いて来朝す。帰徳司戈を授け、蕃に放還す。丁未の日、翰林学士承旨・礼部侍郎・知制誥李愚を兵部侍郎とし、職は旧の如し。中書舎人盧詹を礼部侍郎に任じ、兵部侍郎裴皞を太子賓客に任ず。吐渾首領念公山、来朝貢す。戊申の日、帝、袞冕を服し、文明殿に御し、昭宣光烈孝皇帝を追冊す。庚戌の日、宰臣・監修国史趙鳳に兼ねて集賢院事を判せしめ、左散騎常侍任賛に大理卿事を判せしむ。己未の日、高麗王王建、使いを遣わして方物を貢ぐ。辛酉の日、詔す:「往例に準じ、節度使が平章事・侍中・中書令を帯びるは、並びに勅牒に銜を列ね、側に『使』の字を書す。今、錢鏐は元帥・尚父たり。使相と名を殊にす。馬殷は太師・尚書令を守る。是れ南省の官資たり。勅尾に署するに合わず。今後は勅牒内に並び落下すべし」。乙卯の日、党項首領、朝貢す。甲子の日、金真観に幸す。建法大師に改めて賜い、紫尼智願を円恵大師に賜う。即ち武皇の夫人陳氏なり。丙寅の日、達靼、来朝貢す。京城内に南州・北州有り。乃ち張全義の光啓中に築く所なり。是に至り、詔して人に街巷に依りて城濠を請射し、平填して任使し、屋宇を蓋造することを許す。
九月丁卯、中書が奏上して言う、「宗正寺の申し立てによれば、懿祖の永興陵・獻祖の長寧陵・太祖の建極陵はすべて代州雁門縣にあり、皇帝が追尊した四廟は應州金城縣にある」と。詔して、「應州を望州に昇格させ、金城・雁門をともに望縣に昇格させる」と。辛酉、太常博士段顒が奏上して言う、「謹んで見るに、大祠には宰相を行事に差し、中祠には卿監を行事に差し、小祠は太祝・奉禮に委ね、官を差さないが、今後は五品官を行事に差すことを請う」と。これに従う。癸巳、制して天下兵馬元帥・尚父・吳越國王錢鏐は元帥・尚父・吳越國王を落とし、太師を授けて致仕させ、無礼を責める。先に、上將軍烏昭遇が両浙に使いし、朝廷の事を密かに呉人に伝え、さらに鏐を殿下と称し、自ら臣と称し、鏐に謁して拝蹈の礼を行った。戻った時、副使劉玫がその事を詳しく述べたので、鏐の官爵を停めて削り、致仕させた。烏昭遇は御史台に下し、まもなく自尽を賜う。後に浙中から使いして戻った者が、昭遇に鏐に臣と称した事はなく、玫に誣告されたと述べ、人々は甚だ冤罪とみなす。乙未、詔して諸道に両浙綱運進奉使を厳しく取り調べさせ、ともに巡獄に下す。
冬十月丙申朔、吏部の三銓を一銓に併合し、本司の官員に同商量注擬させ、連署して申奏せしめ、なお私第で官を注擬することを許さず。戊戌、襄州兵馬都監・守磁州刺史康福を朔方・河西等節度使、霊・威・雄・警・涼等州観察使とする。時に朔方の将吏が朝廷に帥を請うたので、福を命じて鎮守せしむ。庚子、右金吾上將軍史敬鎔を左金吾上將軍とし、左驍衛上將軍符彥超を右金吾上將軍とし、前黔州節度使李承約を右驍衛上將軍とし、雲州節度使張敬詢を左驍衛上將軍とし、前華州節度使王景戡を右驍衛上將軍とする。癸卯、太常少卿蕭願を責めて太子洗馬に授け、緋を奪う。願が南郊行事に際し、祠官とともに飲み、詰旦になってもなお酔って礼を行えず、御史に弾劾されたため。詔して新たに朔方節度使に任じた康福に兵一万を率いて鎮に赴かしむ。己酉、制して故荊南節度使高季興の官爵を復す。辛亥、閬州を保寧軍に昇格させる。壬子、内客省使・左衛大將軍李仁矩を閬州節度使とする。七星亭に幸す。丙辰、夏州が白鷹を進貢す。重誨が奏して言う、「夏州が詔に違えて進貢したので、臣は止め約束した」と。帝が言う、「善し」と。朝を退き、帝は密かに左右に命じて進めしむ。この日、龍門に幸す。
十一月丁卯、洛州の水が暴漲し、居民の垣舍を壊す。戊辰、刑部侍郎張文寶を右散騎常侍とする。己巳、尚書右丞李光序を刑部侍郎とする。癸酉、曹州濟陰縣を次赤に昇格させる。昭宣光烈孝皇帝の溫陵があるため。甲戌、奉國軍節度使王延稟に兼侍中を加える。福建節度使王延鈞の請いに従う。車駕が近郊に出で、夏州の進めた白鷹を試し、左右に戒めて重誨に知らせしめず。己卯、日南至、帝が文明殿に御し朝賀を受ける。癸未、秘書少監於嶠を振武に配流して長流百姓とし、永く任用せず。宰臣趙鳳に誣奏されたため。史官張昭遠らが新たに修撰した獻祖・懿祖・太祖『紀年録』合わせて二十巻・『莊宗実録』三十巻を上る。器帛を賜うこと差等あり。
十二月丁酉、霊武の康福が奏上して言う、「方渠において野利・大蟲の両族三百余帳を破り、牛羊三万を獲たり」と。戊戌、詔して、「官を授け及び封贈官誥・挙人の冬集等に要する費用の物は、すべて官が支弁す」と。壬戌、中書が奏上して言う、「今後、宰臣が致斎の内は、押班せず、印を知らず、内殿起居に赴かず。或いは国忌に遇い、行事官がすでに誓戒を受けたならば、行香に赴かず、ともに刑殺の公事を奏せず。大祠の致斎の内は、宴を開かず。大忌の前日に遇うごとに、坐朝せず」と。これに従う。