三月丁卯、会節園に幸し、遂に河南府に幸す。霊武奏す、蕃賊二千人を殺戮すと。壬申、鳳翔節度使李従厳、岐国公に進封し、汴州に移鎮す。甲戌、延州節度使高允韜、邢州に移鎮す。丙子、宣徽使朱宏昭を以て鳳翔節度使と為す。潞州節度使朱漢賓に検校太傅を加え、晉州に移鎮す。徐州節度使房知温、鄆州に移鎮す。鄆州節度使王晏球、青州に移鎮す。宰臣馮道、百僚を率いて表を拝し、尊号を上ぐることを請う。曰く聖明神武文徳恭孝皇帝。詔して報い允さず。壬午、許州節度使孔循、滄州に移鎮す。陝州節度使張延朗、許州に移鎮し、検校太傅を加う。滄州節度使張虔釗、徐州に移鎮し、検校太保を加う。癸未、詔して右散騎常侍・集賢殿學士・判院事蕭希甫を貶して嵐州司戸参軍と為し、仍って馳驛にて発遣す。誣告の罪に坐すなり。宰臣馮道等、再び尊号を上ぐることを請う。詔して之を允す。丙戌、侍衛親軍馬歩軍都指揮使・河陽節度使康義誠を以て襄州節度使・検校太傅と為す。左武衛上将軍劉彦琮を以て陝州節度使・検校太保と為す。庚寅、制す。淑妃曹氏を立てて皇后と為すべし。仍って日を択び冊命せしむ。
夏四月甲午朔、國子司業張溥奏す、八館を復して以て生徒を広めんことを請う。『六典』に按ずるに、監に六学有り。国子・太学・四門・律学・書学・算学是なり。而るに溥雲う八館と、謬りなり。丁酉、前汴州節度使・検校太尉・兼侍中符習に太子太師を加えて致仕せしめ、衛国公に進封す。戊戌、遂州節度使夏魯奇に同平章事を加う。皇子河中節度使従珂、位を進めて検校太尉と為し、開国公に封ず。是より諸道の節鎮皆次第に恩を加う。郊禋の覃慶沢に因る故なり。己亥、会節園に幸す。壬寅、樞密使安重誨を以て留守・太尉・兼中書令と為し、使は故の如し。青州節度使王建立に侍中を加え、潞州に移鎮す。皇子河中節度使従珂奏す、「臣今月五日、黄龍荘にて馬を閲す。衙内指揮使楊彦温、城に拠りて叛く。臣尋時に詰問す。宣命を奉ずと称す。臣見在虞郷県。」帝、西京留守索自通・侍衛歩軍都指揮使薬彦稠等を遣わして之を攻めしむ。仍って彦温に絳州刺史を授け、誘いて之を擒えんことを冀う。詔して従珂を闕に赴かしむ。丁未、戸部尚書李鈴を以て兗州行軍司馬と為す。淮南の覘人を引きて安重誨に宝帯を貽すに坐す。戊申、宰臣馮道に右僕射を加え、趙鳳に吏部尚書を加う。乙酉、左龍武統軍劉君鐸卒するを以て朝を廃す。
癸丑の日、索自通・薬彦稠らが奏上し、河中を収復し、楊彦温を斬り、その首を伝送して献上した。初め、彦稠が出師する際、帝はこれを戒めて言った、「朕のために彦温を生け捕りにせよ、朕自ら訊問しよう」と。城を収めた時、斬首して首を伝送したので、帝は彦稠らを怒った。当時の議論は皆、安重誨が国権を弄び、従栄ら諸王は敬事する暇もないのに、ただ従珂の威名を忌み、毎度帝の前でその短所をしばしば言い、巧みに窺図を作り、傾き陥れることを冀ったという。彦温が誅された後、従珂は清化里の邸に帰った。重誨は馮道らに言った、「蒲帥(従珂)が守りを失った、帥を責める義は、法としてどうあるべきか」。翌日、道らが奏上した、「朝典を行うべきです」。帝は悦ばず、趙鳳が強く奏上した、「故事に帥を責める義があり、それによって藩守を激励するのです」。帝は言った、「皆、公らの本意ではない」。数日後、帝が中興殿で宰臣に会うと、趙鳳は重誨の意を承け、また再び論列したが、帝は黙然とした。翌日、重誨がまた自ら論奏すると、帝は極言してこれを拒み、その語は『末帝紀』にある。帝はまた言った、「卿はどう処置しようというのか」。重誨は言った、「陛下の父子の間のこと、臣は言うべきではありません、一切聖旨に従います」。帝は言った、「彼の私邸で閑坐しているだけなら、何ぞ奏する煩わしさがあろうか」。そこで止んだ。以前の邢州節度使・検校司徒李従温を左武衛上将軍とした。丙辰の日、西京留守・検校司徒索自通を河中節度使とした。丁巳の日、雲州が奏上した、契丹を掩襲し、頭口(家畜)を数万計り獲たと。
臣ら聞く、天は高さを称えずして体は尊く、地は厚さを矜らずして形は大なり、厚くして載せざるものなく、高くして覆わざるものなし。四時はその内を行き、万物はその間に生じ、神祇の霊を総べ、帝王の運に叶う。日出でて星辰自ら戢み、龍飛びて雷雨皆行く、元気和して天下和し、庶事正しくして天下正し。
伏して惟うに、皇帝陛下は、天より一徳を授かり、時に多くの艱難を歴られた。太祖を翊けて邦を興し、先皇を佐けて難を定め、嗣昭を潞の困苦より拯い、徳威を燕の危険より救い、思遠を遏めて鄴都を全うし、彦章を誅して梁苑を下す。再造の業を成し、四征の功による。鴻図を纂ぎてより、毎に皇化を敷く。内庫を去りて庖膳を省み、宮人を出して伶官を減じ、宝玉の珍を軽んじ、鷹鸇の貢を却ける。淳風既に洽く、嘉瑞自ら臻る。故に登極の前は、人皆足らず、改元の後は、時に便ち年有り。遐荒は旋く戎王に斃れ、重訳は径ちに蛮子より来たり、東巡して守殷殪れ、北討して王都殲び、契丹を破って燕・趙憂い無く、霊武を控えて瓜・沙並びに復す。
伏して惟うに、皇帝陛下は、堯・舜の至道を体し、太虚の日月を法とし、威は夷狄に及び、恩は虫魚に及ぶ。国を奉ずる者は継ぎて栄寵を加え、天に違う者は咸誅鋤に就く。典礼は告成の後に当たり、夙夜即位の初めを思い、千秋万歳、永く車書を混しくせん。
宰臣馮道の辞である。庚申の日、左多吾上将軍史敬熔を鄧州節度使とし、右金吾上将軍符彦超を兗州節度使とし、驍衛上将軍張敬詢を滑州節度使とし、閬州防禦使孫嶽を鳳州節度使とした。詔して鳳翔管内の応州を匡州と改め、信州を晏州と改め、新州管内の武州を毅州と改める。
五月乙丑の日、鄭州防禦使張進・副使鹹継威を並びに停任とした。城中の居人を盗掠した故である。丙寅の日、少府監韋肅を洺州刺史とし、潞州節度使王建立を太傅として致仕させた。建立は平素より安重誨と協わず、その入朝に因り、乃ち建立が自鎮より帰朝する時鄴都を過ぎ、日に扇動の言有りと言い、これを以て罪としたので、致仕を命じたのである。丁卯の日、以前の興元節度使劉仲殷を権知潞州軍州事とした。戊辰の日、安州節度使高行珪の卒に因り朝を輟めた。有司が上言した、「皇后が冊を受けるに、内外の命婦は並びに奉賀すべきです。今、命婦が準例に上表して称賀するものありません。中書門下が奏上するに、諸道節度使はただ進表して皇帝に上言し、外命婦は皇后に賀箋表を上り、進呈が終われば、報いは無い。皇親の慶賀及び起居の章表は、内中に進呈した後、ただ来使に宣示するのみで、並びに答復すべきではない」。これを従う。壬申の日、権知昭義軍軍州事劉仲殷を潞州節度使・検校太傅とした。丁丑の日、帝が軒に臨み、使を命じて淑妃曹氏を冊し皇后とした。礼院が上言した、百官が皇后に上疏するには「皇后殿下」と言い、及び六宮及び率土の婦人の慶賀はただ「殿下」と呼び、「皇后」とは言わない。中書が覆奏した、もしただ「殿下」と呼ぶならば、皇太子と区別が無くなる恐れがある、凡そ中宮への表章は「皇后殿下」と呼び、もし文字に形さないならば、尋常はただ「皇后」と呼ぶ。これを従う。癸未の日、太子少傅蕭頃が卒し、朝を廃した。甲申の日、回鶻可汗仁裕が使いを遣わして方物を貢いだ。辛卯の日、翰林承旨・兵部侍郎李愚を太常卿とした。壬辰の日、以前の滑州節度使李従璋を左驍衛上将軍とした。
六月丁酉、護駕馬軍都指揮使・貴州刺史の安従進を宣州節度使とし、護駕馬軍都指揮使を充てる。護駕歩軍都指揮使・澄州刺史の薬彦稠を寿州節度使兼護駕歩軍都指揮使とする。甲辰、皇城使の安崇緒を河陽留後とする。崇緒は重誨の子なり。鳳翔より奏す、「管下の良・晏・匡の三州はともに属県なく、請うらくは改めて県となすべし」と。これを聴く。なお旧のごとく軍鎮となす。前振武節度使の安金全卒す。壬子、中書門下より奏す、「詳覆して礼部院の今年及第進士李飛・樊吉・夏侯珙・呉沺・王徳柔・李穀ら六人に至る。及第を放つことを望む。その盧価ら七人及び賓貢の鄭樸は、望むらくは将来就試を許すべし。知貢挙の張文宝は試士精当を得ず、一季の俸を罰することを望む」と。これを聴く。丁巳、皇子北京留守・河東節度使の従厚を鎮州に移領せしめ、左武衛上将軍の李従温を許州節度使とする。
秋七月甲子、宣徽南院使・行右衛上将軍・判三司の馮贇を北京留守・太原尹とする。己巳、鄧州節度使の史敬鎔卒すにより朝を廃す。甲戌、左威衛上将軍の梁漢顒を鄧州節度使とし、前兗州節度使の趙在礼を左驍衛上将軍とする。庚辰、奉国軍節度使兼威武軍節度副使・検校太尉・兼侍中の王延稟に兼中書令を加う。詔す、「諸州の得替防禦・団練使・刺史は並びに班行に比擬すべし。もし員闕なきは、常参官に随い逐日立班すべし」と。新例なり。辛巳、詔して年少の宮人及び西川の宮人を揀び、並びにその家に還す。家に帰すべきなき者は、その適うところに任す。甲申、前斉州防禦使の孫璋を鄜州節度使とする。戊子、右散騎常侍の陸崇卒すにより朝を廃す。崇は福建冊使たり、明州にて卒す。兵部尚書を贈る。宿州より白兔を進む。安重誨その使に謂いて曰く、「豊年は上瑞たり。兔は狡性を懐く。白と雖も何を為さん」と。命じて退帰せしむ。
八月甲午、前鄧州節度使の盧文進を左衛上将軍とする。北京より奏す、吐渾千余帳内附し、天池川に安置す。在京の百司が州県の税戸を影射することを禁ず。乙未、捧聖軍使の李行徳・十将の張儉・告密人の辺彦温を並びに族誅す。安重誨が私に兵仗を市うと誣告したる故なり。前許州節度使の張延朗を検校太傅・行兵部尚書とし、三司使を充てる。三司に使額あるは、延朗より始まる。初め、中書覆奏して、延朗に諸道塩鉄転運等使を授け、兼ねて戸部度支事を判せしむ。奏入る。宣旨に曰く、「会計の司は国朝の重事たり。将にその事額を総成せんとし、俾く近臣に専委せんとす。貴ぶは一時の便、何ぞ往例に循らん。兼ねて内職を移すは、新規を示すべし。張延朗は三司使を充つべく、班は宣徽使の下に在るべし」と。癸卯、北京より奏す、生吐渾内附し、嵐州に族帳を安んぜんと欲す。都官員外郎・知制誥の張昭遠奏す、「国朝の旧例に依り、郎官・御史を選び天下に分行し、風俗を宣問し、利を興し害を除かんことを請う」と。報えず。
壬寅、皇子河南尹・判六軍諸衛事の従栄を秦王に封じ、なお司をして日を択び冊命せしむ。戊申、兗州より奏す、「淮南海州都指揮使の王伝拯、本州刺史の陳宣を殺し、州城を焚焼し、所部の兵士及び家口五千人を率いて帰国し、沂州に至る」と。帝、使を遣わしてこれを慰納す。庚戌、正衙にて使を命じ福慶長公主孟氏を冊す。前雄武軍節度使の王思同を左武衛上将軍とし、前鳳州節度使の陳皋を右威衛上将軍とする。壬子、正衙にて使を命じ太原に赴き、永寧公主石氏を冊す。乙卯、左監門衛上将軍の陳延福卒すにより朝を廃す。丙辰、皇子鎮州節度使の従厚を宋王に封じ、なお日を択び冊命せしむ。
九月乙丑、階州刺史の王宏贄上言す、「一州の主客戶やっと千戸に及び、県局無し。臣今新舊の主客を検括して已に三千二百に及びぬ。旧額に依り将利・福津の二県を立て、令佐を置かんことを請う」と。これを聴く。丁丑、詔して天下の諸州府に、紫衣を著せる官員を奏薦して州県官とすべからず。戊寅、尚書右丞を正四品に昇む。癸未、利・閬・遂の三州より奏す、東川節度使の董璋謀叛し、西川の孟知祥と結連すと。甲申、鎮州節度使の範延光を検校太傅・守刑部尚書とし、枢密使を充てる。利州・閬州、東川の檄書を進納し、兵を将いて利・閬を撃たんとし、朝廷に間諜するを責むるを以て名とすと言う。乙酉、左驍衛上将軍の趙在礼を同州節度使兼四面行営馬歩軍都指揮使とする。枢密院直学士・守工部侍郎の閻至、枢密院直学士・守尚書右丞の史圭、並びに戸部侍郎に転じ、前のごとく職を充つ。翰林学士・守戸部侍郎の李懌を尚書右丞とし、翰林学士・戸部侍郎の劉煦を兵部侍郎とし、翰林学士・中書舎人の竇夢征を工部侍郎とし、前のごとく職を充つ。中書舎人の劉讚を御史中丞とし、御史中丞の許光義を兵部侍郎とし、兵部侍郎の姚顗を吏部侍郎とする。丙戌、詔して東川節度使の董璋は在身の官爵を削奪すべく、なお兵を征して進討す。丁亥、西川節度使の孟知祥を兼ねて西南面供饋使とし、天雄軍節度使の石敬瑭を兼ねて東川行営都招討使とし、遂州節度使の夏魯奇を兼ねて東川行営招討副使とする。庚寅、右衛上将軍の王思同を京兆尹とし、西京留守兼西南行営馬歩都虞候を充てる。
冬十月壬辰、太子少傅李琪の卒により朝を廃す。癸巳、鄜州節度使米君立の卒により朝を廃す。詔して曰く、「凡そ賻贈の布帛は、段と言い端匹と言わず、段は二丈なり、宜しく三司に此れに依りて給付せしむべし」と。甲午、正衙に命使して興平公主を宋州節度使・駙馬都尉趙延寿の私第に冊す。己亥、左驍衛上將軍李從璋を以て陝州節度使と為し、陝州節度使劉彥琮を移鎮して邠州とす。尚書博士田敏、旧典に依りて氷を蔵し・氷を頒ち、以て陰陽の愆伏の沴を銷さんことを請う。詔して之に従う。乙巳、供奉官張仁暉、利州より回り、董璋が閬州を攻め陥とし、節度使李仁矩が挙家害に遇えりと奏す。丁未、宮苑使董光業並びに妻子を都市に斬る。璋の子なり。辛亥、武安軍節度副使・洪鄂道行營副都統・檢校太尉馬希聲を以て武安軍節度使と為し、兼侍中を加う。時に湖南の馬殷奏し、久しく病みて軍政に任ぜず、男希声を以て帥と為さんことを乞う。故に是の命有り。中書奏す、「吏部流内銓諸色選人の試むる判両節、其の等第を定むることを委ねんと欲す。文優なる者は一資を超え、其次は次資、又其次は以て同類とし、道理全く疎なる者は同類中少人戸の処に注擬す」と。之に従う。
十一月庚申朔、帝文明殿に御し、皇子秦王を冊す。仗衛楽懸儀の如し。甲子、正衙に命使して皇子宋王を鎮州に冊す。是の日、龍門に幸す。翌日、馮道奏して曰く、「陛下宮中に事無く、近郊に遊幸するは則ち可なり。若し山険を渉歴せば、万一馬足蹉跌せば、則ち臣下の憂を貽さん。臣聞く、千金の子は堂に坐して垂れず、百金の子は衡に立して倚らざると。況んや貴きこと天子と為りて、豈に自ら軽んずべけんや」と。帝容を斂めて之に謝す。退きて小黄門をして中書に至り、道に垂堂・倚衡の義を問わしむ。道因りて注解を以て聞こえしむ。帝深く之を納る。己巳、故太子少保致仕封舜卿に太子少傅を贈る。庚午、応州節度使張敬達を移鎮して雲州とし、捧聖都指揮使・守恩州刺史沙彦詢を以て応州節度使と為す。潁州団練使高行周を以て安北都護と為し、振武節度使を充てしむ。壬申、黔南節度使楊漢章、城を棄てて忠州に奔る。董璋に攻めらるるが故なり。乙亥、西川節度使孟知祥の官爵を削奪するを製す。其の董璋と同く叛くを以てなり。丙子、前同州節度使羅周敬を以て左監門上將軍と為す。丁丑、故兵部侍郎許光義に礼部尚書を加贈す。辛巳、西面軍前奏す、今月十三日、階州刺史王宏贄・瀘州刺史馮暉、利州より山路を取りて劍門関外より倒下し、董璋の関を守る兵士三千余人を殺敗し、劍州を収復せりと。甲申、日南至す。帝文明殿に御し朝賀を受く。丙戌、給事中鄭韜光を以て左散騎常侍と為す。青州奏す、登州の状を得たり、契丹阿保機の男東丹王突欲、海を越えて来り国に帰せりと。
十二月乙未、荊南奏す、湖南節度使・楚國王馬殷薨ずと。三日朝を廃す。庚子、前襄州節度使安元信を以て宋州節度使と為す。辛丑、苑中に幸す。丁未、二王後の秘書丞・襲酅國公楊仁矩の卒により朝を輟み、工部郎中を贈る。庚戌、湖南節度使馬希声を起復し、兼中書令を加う。壬子、枢密院直学士・戸部侍郎閻至を以て沢州刺史と為し、枢密使直学士・戸部侍郎史圭を貝州刺史と為す。甲寅、枢密使安重誨を遣わして西面軍前に赴かしむ。時に帝、蜀路険阻にして進兵艱難、潼関已西は物価甚だ賤く、百姓の運びて利州に至るや、率ね一斛も一斗を得ずと為すを以て、侍臣に謂ひて曰く、「関西労擾にして未だ成功無し。誰か吾が事を弁ぜん者あらん。朕須らく自ら行かん」と。安重誨曰く、「此れ臣が責なり。臣請う行かん」と。帝之を許す。言ひ訖りて辞し、翌日遂に行く。甲寅、故西川兵馬都監・泗州防禦使李厳に太傅を贈る。丙辰、車駕西山に畋す。臘なり。丁巳、回鶻使いを遣わし来朝貢す。戊午、故荊南節度使・檢校太尉・兼尚書令・南平王高季興に太尉を贈る。