舊五代史

唐書十三: 明宗本紀三

天成元年秋八月乙酉朔、日食あり。有司上言す、「莊宗廟室の酌獻に、武成の舞を奏するを請う」と。之に従う。鄆州節度使霍彦威、青州に移鎮す。丁亥、莊宗の神主を廟に祔す。有司、懿祖室を祧するを請う。之に従う。詔す、「陵州・合州に長流の百姓豆盧革・韋説等は、並びに長流の後より、縦ひ恩赦に逢ふも、原宥の限に在らざるべし。豆盧升・韋濤は仍ほ前に受けたる官秩を削除す」と。壬辰、久雨を以て、百僚の朝参を放ち、天下に係囚を疏理するを詔す。甲午、汴州奏す、旧管の曹州を乞ひて却って当道に帰するを。之に従う。是の日、詔して曰く、「承前、使府の判官を奏請するは、率ね皆府に随ひて除移停罷す。近年の流例、前規に異なり、使府已に除移すと雖も、判官は元より旧職に安んず。今より後起す、若し是れ朝廷の除授する者は、即ち使府の除移を計はず、若し是れ使府の奏請する者は、即ち皆府に随ひて移罷す。旧例、藩侯平章事を帯ぶる者の奏請する判官は、殿中已上は緋を奏するを許し、中丞已上は紫を奏するを許す。今、平章事を帯ばざるも亦た平章事を帯ぶる事例に同じく処分するを許す。防禦・團練使の判官を奏請するが如きは、員外郎已下は奏緋の限に在らず。其の奏する判官・州県官は、並びに歴任の告身を将て奏に随ひ京に至るべし。若し未だ官無く、仮りに試攝と称するも、亦た奏状内に分明に署出すべし。藩鎮留後・権知軍州事の如きは、並びに判官を奏請する限に在らず。刺史、州県官を奏せんと要すれば、須らく本道に申し、表章を請ひ発すべく、自ら奏すべからず。近日、州使の従事を奏請するは、本より官緒無く、虚銜を妄りに結び、職位の高卑を計はず、多くは朱紫を兼ぬるを請ふ。惟だ紊亂するのみならず、実に撓求を啓く。宜しく諸道州府に令し、切に敕命に準じて処分すべし」と。

丁酉、内より象笏三十四面を出だし、笏無き百官に賜ふ。己亥、帝文明殿に御し、百官入閣す。月望は月朔の儀の如し、新例に従ふなり。荊南の高季興上言す、峡内三州に、朝廷刺史を除かざるを請ふ。幽州奏す、契丹辺を寇すと。斉州防禦使安審通に師を率ひて之を禦せしむるを詔す。辛丑、前青州節度使符習を以て鄆州節度使と為し、前華州節度使史敬熔を以て安州節度使と為す。乙巳、銭を熔かして器と為すを禁じ、仍ほ生銅器の価を斤二百、熟銅器を斤四百と估定す。省価に違ひ買賣する者は、銭を盗鑄するを以て論ず。丁未、枢密使院条奏す、「諸道節度使・刺史の内、詔条を守らず、公行科斂する者有らば、須らく止絶を行ふべし。州使の納むる所の軍糧は、更に加耗を邀ふるを得ず。節度使・刺史の置く所の牙隊は、軍都の内に抽取するを許し、便ち省司の衣糧を給す。況んや人数已に多し。訪問するに尚ほ招致有り。諸邑人多くは罪に抵り亡命する有り、便ち州府に投名して使下の元随と為し、職務を邀求し、平人を凌壓す。及び有力の戸人は、諸処に行賂し、事務を希求す。亦た州使有りて、修葺城池廨宇と仮称し、人に科賦し、及び私宅を営む。諸県鎮の受くる所の州使の文符は、人戸を科斂することに渉るは、稟受するを得ず。州府は行人の物色を賒買し、兼ねて科率を行ふこと無かれ。已前の条件、州使敢へて犯違せば、人の陳告を許し、勘詰虚しからざれば、量りて獎賞を行ふ。宜しく三京・諸道州府に令し、此に準じて処分すべし」と。

新たに授けられた青州節度使霍彦威奏す、新たに登州刺史王公儼及び同謀拒命の指揮使李謹・王居厚等八人を処斬し畢れりと。初め、同光中、符習青州節度使と為り、宦官楊希望監軍と為り、軍政を専製す。趙在禮の魏州に拠るに、習詔を奉じ本軍を以て進討す。俄にして帝乱軍に劫はる。習即ち罷めて帰る。希望兵を遣はし之を邀ふ。習懼れて還る。滑州に至り、帝人を遣はし之を招く。習至り、乃ち帝に従ひ汴に入る。希望魏軍の乱るるを聞き、兵を遣はし習の家を囲み守り、尽く之を殺さんと欲す。公儼素より希望の獎愛を受け、希望に謂ひて曰く、「内侍宜しく腹心の兵を分ち、四面の守陴者を監せば、則ち誰か敢へて異図せん」と。希望之に従ふ。公儼其の無備に乗じ、希望の第を囲み、擒へて之を殺す。公儼遂に州将李謹等と謀り州城を拠り、以て符節を邀はんとす。即ち軍府に令し飛章を以て己を留め、兼ねて符習鎮に在り、人其の政を便とせずと揚言す。帝乃ち公儼を除して登州刺史と為す。公儼時に赴任せず。即ち霍彦威を以て符習に代へ、兵を淄州に聚め、以て進取を図る。彦威淄州に至り、詔使の青州に至り告諭するに会ふ。公儼即ち赴く所の任に赴く。彦威其の初心を懲らし、人を遣はし公儼を北海県に於て擒へ、同黨とともに州東に斬る。(《通鑒》:彦威兵を淄州に聚め、以て進取を図る。公儼懼る。乙未、始めて之に官す。丁酉、彦威青州に至り、追ひて之を擒ふ。)有司上言す、「莊宗廟に祔し、懿祖祧遷す。例に準じ故を捨て新を諱す。懿祖は例として諱せず、忌日香を行はず」と。之に従う。壬子、襄州節度使劉訓に検校太傅を加ふ。偽しょくの右僕射・中書侍郎・平章事・趙国公張格を以て太子賓客と為し、三司副使を充てしむ。任圜の請に従ふなり。

九月乙卯朔(一日)、汴州扶溝縣を許州に復して隷せしむる詔を下す。前絳州刺史婁繼英を冀州刺史と為し、北面水陸轉運製置使を充てる。己未(五日)、至德宮に幸し、遂に前隰州刺史袁建豐の第に幸す。帝嘗て太原内牙親将たりし時、建豐は副将たり、是に至り建豐は風疾に沈痾し、故に親しく其の第に幸して之を撫す。庚申(六日)、都官郎中庾傳美を三州搜訪圖籍使に充てる。傳美は蜀王衍の旧僚にして、家は成都に在り、帰計に便なり、且つ成都には本朝の実録を具すと言ふ。傳美の使より回りし時、得たる所は僅かに九朝実録及び残欠雑旧のみ。癸亥(九日)、応聖節、百官は敬愛寺に於いて斎を設け、緇黄の衆を中興殿に召して講論せしむ、是れ近年の例なり。戊辰(十四日)、偽蜀の検校太師・兼中書令・右金吾街使張貽範を兵部尚書として致仕せしむ。都官員外郎於鄴、指揮を奏請し、契券を書かずして輒ち良人を売ることを得ざらしむ、之に従ふ。癸酉(十九日)、天策上将軍・湖南節度使・開府儀同三司・守太師・兼尚書令しょうしょれい・楚王馬殷に検校太師・守尚書令を加ふ。両浙節度留後・静海軍節度・嶺南西道観察処置等使・検校太尉・兼中書令銭元瓘に食邑を加ふ。中呉建武等軍節度・嶺南東道観察処置等使・検校太尉・兼中書令銭元尞に開府の階を加へ、食邑を進む。甲戌(二十日)、前代州刺史馬溉を左衛上将軍として致仕せしむ。己卯(二十五日)、光禄卿羅周敬を右金吾衛大将軍と為し、街使を充てる。辛巳(二十七日)、前復州刺史袁{山義}を唐州刺史と為す。詔して曰く、「鳳翔節度使李厳は、世に宗属を聯ね、任は藩宣に重し、慶善に称有り、忠勤顕著なり。既に維城の列に在り、宜しく定体の文を新たにすべし。是れ寵光を降し、以て惇叙を隆くし、成家の美を煥かにせしめ、猶子の親を貴び崇む。宜しく本名の上に『従』の字を加へよ」。癸未(二十九日)、文武百官張全義の私第柩前に至り、班を立てて辞す、来月二日に葬らんとする故なり。

冬十月甲申朔(一日)、文武百官に冬服の綿帛を賜ふこと差有るの詔を下す。近年の例、十月寒の初めに、天子は近侍執政の大臣に冬服を賜ふ。帝判三司任圜に顧みて謂ひて曰く、「百官には散ぜざるか」。圜奏して曰く、「臣聞く、本朝春冬の服を給すること、遍く百官に及ぶと。喪乱已来、軍旅に急にして、人君の賜ふ所、周給する能はず。今は止だ近臣のみ、外臣には賜ふ所無し」。帝曰く、「外臣も亦吾が臣なり、卿宜しく計度すべし」。圜遂に安重誨と品秩の差に拠り、以て春冬の賜を定め、其の後遂に以て常と為す。右拾遺曹琮上疏す、内一件、「百官朔望に入閣し、及び五日内殿に起居するに、三署寺監の官に許し、輪次して封事を転奏せしむるを請ふ」。之に従ふ。刑部員外郎孔荘上言す、「兵興已来、法制一ならず、諸道州県の常行する枷杖、多く格律に依らず、旧制を以て曉諭し、改めて之を正すを請ふ」。丙戌(三日)、吏部侍郎盧文紀上言す、「内外の文武臣僚、毎歳有司明らかに考校を定め、将相は御筆を回らし、以て黜陟を行ふを請ふ」。疏を中書門下に下し商量せしめ、宰臣奏請して施行す、之に従ふ。丁亥(四日)、雲南巂州山後両林百蛮都鬼主・右武衛大将軍李卑晚、大鬼主傳能・何華等を遣はして来朝貢す、帝文明殿に御して之に対し、百官賀す。庚寅(七日)、客省使李厳に泗州防禦使を領せしめ、河中節度副使李鈴を太子賓客と為す。壬辰(九日)、邠州節度使毛璋を移して潞州に鎮せしむ。巴州嘉禾合穗を進む。甲午(十一日)、前隰州刺史袁建豐に遙かに洪州節度使を領せしむ。

庚子(十七日)、幽州奏す、契丹平州守将偽署幽州節度使盧文進、戸口を率ひて帰順す、百官賀す。辛丑(十八日)、契丹使いを遣はして来り告哀し、国主安巴堅(阿保機)今年七月二十七日に卒すと言ふ。詔して曰く、「朕近く皇図を纘ぎ、恭しく帝道を修め、務めて夷夏を安んじ、貴ぶに雍熙を洽はしむ。契丹王は世に歓盟に預り、礼聘問を交はす、遽に凶訃を聞き、倍く悲懷を軫む。今月十九日の朝参を輟むべし」。丙午(二十三日)、巂州山後両林・百蛮都鬼主李卑晚を寧遠将軍と為し、大渡河山前邛川六姓都鬼主・懐安郡王勿鄧摽莎を定遠将軍と為す。丁未(二十四日)、幽州奏す、盧文進の率ひし降戸の孳畜人口は平州の西に在り、首尾約七十里。庚戌(二十七日)、吏部侍郎盧文紀を御史中丞と為す、是れ時御史大夫李琪三たび表を上りて任を解かんことを求むる故なり。兵部侍郎劉嶽を吏部侍郎と為し、戸部侍郎・端明殿学士充の馮道を兵部侍郎と為し、中書舎人・端明殿学士充の趙鳳を戸部侍郎と為し、並びに前の如く職を充つ。壬子(二十九日)、静江軍節度使・桂州管内観察使・検校太師・兼中書令・扶風郡王馬賨に食邑実封を加へ、澧郎観察使・検校太傅・兼侍中馬希振に検校太尉を加ふ。盧文進幽州に至り、軍吏を遣はして表を奉り来上す。

十一月戊午(五日)、滄州留後王景戡を邢州節度使と為す。青州奏す、登州の状申を得、契丹先づ渤海国を攻逼し、安巴堅(阿保機)身死してより、既に抽退すと雖も、尚ほ兵馬を渤海扶余城に留む。今渤海王の弟兵馬を領ひて扶余城内の契丹を攻囲すと。己未(六日)、翰林学士・尚書・戸部郎中・知制誥劉句を中書舎人と為し職を充つ。辛酉(八日)、前秘書少監温輦を太子詹事と為す。壬戌(九日)、前房州刺史朱罕を潁州団練使と為す。是の日、詔して曰く、「応に今日已前に修蓋得たる寺院は、毀廢せしむる無かれ。此れ已後より、輒ち建造有るを得ず。如し願ひて僧門に在らんと要せば、並びに須らく官壇にて戒を受け、衷私に剃度するを得ず」。癸丑(誤記か、十一月に癸丑無し。前後の干支より癸亥(十日)か)、日南至(冬至)、帝文明殿に御して朝賀を受け、仗衛は式の如し。礼部侍郎裴皞上言す、「諸州刺史三考を経て方に替移を請ふべし」。詔して曰く、「政声有る者は就て恩沢を加へ、課最無き者は即便に替移す」。密州芝草を献ず。庚午(十七日)、河陽節度使夏魯奇を移して許州に鎮せしめ、留後梁漢顒を邠州節度使と為す。淮南楊溥使いを遣はして貢獻し、登極を賀す。乙亥(二十二日)、前振武留後張温を利州昭武軍留後と為し、果州刺史孫鐸を漢州刺史と為し、西川馬歩軍都指揮使を充てる。壬午(二十九日)、静海軍節度・安南管内観察等使・検校太尉・兼侍中銭元球に開府の階を加へ、食邑を進む。癸未(三十日)、鎮州奏す、詔に準ひ盧文進の率ひし帰業戸口に対し、租税を蠲放すること三年、仍て毎口に糧五斗を給す。

十二月戊子の日、盧文進および将吏四百人が謁見し、鞍馬・玉帯・衣被・器玩・銭帛を差等を付けて賜う。詔して曰く、「朕は中興の宝祚を継ぎ、皇綱を復正す。万国は駢羅し、ことごとく照臨の内に在り、八紘は遼敻にして、咸く覆載の間に居る。況んや彼の雲南は、素より正朔に帰し、偽蜀を平げてより、旧恩を錫せんと思ふに、眷顧すること深しと雖も、覃恩を霈ふする暇未だあらず。百蛮の都首領李卑晚・六姓蛮の都首領勿鄧摽莎等は、天資智勇にして、世に忠勤を稟け、梯航の道路纔に通ずるや、琛贐の貢輸已に至る。其の種落を率ひ、乃ち悃誠を竭くし、向化の心を備へ、来庭の意を深く奨す。今則ち各に国寵を頒ち、別に王封を進む。其の巂州刺史李及・大鬼主離吠等は、或は遙かに表函を貢し、或は躬ら朝闕に趨く、亦た宜しく特しく官資を授け、各に階秩を遷すべし。信義を勉めて敦くし、冊書を墜すこと無く、爾に金石の堅きを示し、我が山河の誓ひを保て。休命を欽承し、永く其の終を保て」と。壬辰の日、帝近郊に狩す、臘の故なり。甲午の日、契丹の盧龍軍節度使盧文進を以て検校太尉・同平章事と為し、滑州節度使を充てる。戊戌の日、鑞銭を厳禁せんことを詔す。庚子の日、皇第二子金紫光禄大夫・検校司徒しと従栄を検校太保・同平章事・天雄軍節度使・鄴都留守と為すことを可す。武安軍馬歩軍都指揮使馬希範を以て澧州刺史と為し、鉄林都知兵馬馬希杲を以て衡州刺史と為す。壬寅の日、潁州刺史孫嶽に検校太保を加ふ、能政を奨むるなり。

丙午の日、中書門下奏す、「故事に、藩鎮の節度・観察使平章事を帯ぶるは、都堂に上事し石に刊し壁に記すに、礼銭三十貫を納るるを合し、以て中書及び両省の公使に充つ。今は各に礼銭五百千を納れ、中書に石亭子を立て、宰臣使相の官氏・授上の年月を鐫勒し、余りは中書及び両省の公署部堂の什物を修葺するに充てんと欲す」と。之に従ふ。

庚戌の日、御史台奏す、「京城の坊市の士庶工商の家に、婢僕自経し井に投じ、非理に物故する者有り。近者已来、凡そ死亡は、皆是れ台司の左右巡挙勘検す。施行已久し、仍恐らくは、所差の人吏及び街市の胥徒、民家に同じくし、事に因り邀脅するを。臣故事を詢訪すに、凡そ京城の民庶の家の死喪は府県に委せて検挙し、軍家は軍巡に委せ、商旅は戸部に委す。然れども諸司検挙の後、事由を具して台に申す。其の間或は枉濫の情故有らば、台司訪聞し、即ち挙勘を行ふ。是の如きは文武両班の官吏の家、即ち是れ台司検挙す。臣請ふ、自今已後、並びに故事に準ひて施行せんと」と。詔して曰く、「今後文武両班及び諸道の商旅、凡そ喪亡有らば、即ち台司の奏する所に準ひて施行せよ。其の坊市の民庶軍士の家、凡そ死喪及び婢僕の非理に物故するは、台司の奏に依り、府県・軍巡に委せて同く検挙すべし。仍て其の吏卒をして、物故の家に於て妄りに邀脅することを得ざらしむ。或は恐らくは暑月屍柩停め難く、若し申聞検挙を待たば、邀脅無きと雖も、亦須らく時日を経ん。今後は本家に仰せて四鄰を喚び検察せしめ、若し他故無くば、逐便葬埋せしむべし。如し後に別に枉濫を聞き、妄りに保証せば、官中訪知し、勘詰虚しからざれば、本戸の鄰保並びに科罪を行ふべし。如し諸道州府の坊市の死喪、分巡院を取って検挙するを聞くに、頗る淹停を致し、人多く流怨す。亦た京城の事例に約して処分するを仰ぐ」と。