丁酉、内より象笏三十四面を出だし、笏無き百官に賜ふ。己亥、帝文明殿に御し、百官入閣す。月望は月朔の儀の如し、新例に従ふなり。荊南の高季興上言す、峡内三州に、朝廷刺史を除かざるを請ふ。幽州奏す、契丹辺を寇すと。斉州防禦使安審通に師を率ひて之を禦せしむるを詔す。辛丑、前青州節度使符習を以て鄆州節度使と為し、前華州節度使史敬熔を以て安州節度使と為す。乙巳、銭を熔かして器と為すを禁じ、仍ほ生銅器の価を斤二百、熟銅器を斤四百と估定す。省価に違ひ買賣する者は、銭を盗鑄するを以て論ず。丁未、枢密使院条奏す、「諸道節度使・刺史の内、詔条を守らず、公行科斂する者有らば、須らく止絶を行ふべし。州使の納むる所の軍糧は、更に加耗を邀ふるを得ず。節度使・刺史の置く所の牙隊は、軍都の内に抽取するを許し、便ち省司の衣糧を給す。況んや人数已に多し。訪問するに尚ほ招致有り。諸邑人多くは罪に抵り亡命する有り、便ち州府に投名して使下の元随と為し、職務を邀求し、平人を凌壓す。及び有力の戸人は、諸処に行賂し、事務を希求す。亦た州使有りて、修葺城池廨宇と仮称し、人に科賦し、及び私宅を営む。諸県鎮の受くる所の州使の文符は、人戸を科斂することに渉るは、稟受するを得ず。州府は行人の物色を賒買し、兼ねて科率を行ふこと無かれ。已前の条件、州使敢へて犯違せば、人の陳告を許し、勘詰虚しからざれば、量りて獎賞を行ふ。宜しく三京・諸道州府に令し、此に準じて処分すべし」と。
新たに授けられた青州節度使霍彦威奏す、新たに登州刺史王公儼及び同謀拒命の指揮使李謹・王居厚等八人を処斬し畢れりと。初め、同光中、符習青州節度使と為り、宦官楊希望監軍と為り、軍政を専製す。趙在禮の魏州に拠るに、習詔を奉じ本軍を以て進討す。俄にして帝乱軍に劫はる。習即ち罷めて帰る。希望兵を遣はし之を邀ふ。習懼れて還る。滑州に至り、帝人を遣はし之を招く。習至り、乃ち帝に従ひ汴に入る。希望魏軍の乱るるを聞き、兵を遣はし習の家を囲み守り、尽く之を殺さんと欲す。公儼素より希望の獎愛を受け、希望に謂ひて曰く、「内侍宜しく腹心の兵を分ち、四面の守陴者を監せば、則ち誰か敢へて異図せん」と。希望之に従ふ。公儼其の無備に乗じ、希望の第を囲み、擒へて之を殺す。公儼遂に州将李謹等と謀り州城を拠り、以て符節を邀はんとす。即ち軍府に令し飛章を以て己を留め、兼ねて符習鎮に在り、人其の政を便とせずと揚言す。帝乃ち公儼を除して登州刺史と為す。公儼時に赴任せず。即ち霍彦威を以て符習に代へ、兵を淄州に聚め、以て進取を図る。彦威淄州に至り、詔使の青州に至り告諭するに会ふ。公儼即ち赴く所の任に赴く。彦威其の初心を懲らし、人を遣はし公儼を北海県に於て擒へ、同黨とともに州東に斬る。(《通鑒》:彦威兵を淄州に聚め、以て進取を図る。公儼懼る。乙未、始めて之に官す。丁酉、彦威青州に至り、追ひて之を擒ふ。)有司上言す、「莊宗廟に祔し、懿祖祧遷す。例に準じ故を捨て新を諱す。懿祖は例として諱せず、忌日香を行はず」と。之に従う。壬子、襄州節度使劉訓に検校太傅を加ふ。偽蜀の右僕射・中書侍郎・平章事・趙国公張格を以て太子賓客と為し、三司副使を充てしむ。任圜の請に従ふなり。
九月乙卯朔(一日)、汴州扶溝縣を許州に復して隷せしむる詔を下す。前絳州刺史婁繼英を冀州刺史と為し、北面水陸轉運製置使を充てる。己未(五日)、至德宮に幸し、遂に前隰州刺史袁建豐の第に幸す。帝嘗て太原内牙親将たりし時、建豐は副将たり、是に至り建豐は風疾に沈痾し、故に親しく其の第に幸して之を撫す。庚申(六日)、都官郎中庾傳美を三州搜訪圖籍使に充てる。傳美は蜀王衍の旧僚にして、家は成都に在り、帰計に便なり、且つ成都には本朝の実録を具すと言ふ。傳美の使より回りし時、得たる所は僅かに九朝実録及び残欠雑旧のみ。癸亥(九日)、応聖節、百官は敬愛寺に於いて斎を設け、緇黄の衆を中興殿に召して講論せしむ、是れ近年の例なり。戊辰(十四日)、偽蜀の検校太師・兼中書令・右金吾街使張貽範を兵部尚書として致仕せしむ。都官員外郎於鄴、指揮を奏請し、契券を書かずして輒ち良人を売ることを得ざらしむ、之に従ふ。癸酉(十九日)、天策上将軍・湖南節度使・開府儀同三司・守太師・兼尚書令・楚王馬殷に検校太師・守尚書令を加ふ。両浙節度留後・静海軍節度・嶺南西道観察処置等使・検校太尉・兼中書令銭元瓘に食邑を加ふ。中呉建武等軍節度・嶺南東道観察処置等使・検校太尉・兼中書令銭元尞に開府の階を加へ、食邑を進む。甲戌(二十日)、前代州刺史馬溉を左衛上将軍として致仕せしむ。己卯(二十五日)、光禄卿羅周敬を右金吾衛大将軍と為し、街使を充てる。辛巳(二十七日)、前復州刺史袁{山義}を唐州刺史と為す。詔して曰く、「鳳翔節度使李厳は、世に宗属を聯ね、任は藩宣に重し、慶善に称有り、忠勤顕著なり。既に維城の列に在り、宜しく定体の文を新たにすべし。是れ寵光を降し、以て惇叙を隆くし、成家の美を煥かにせしめ、猶子の親を貴び崇む。宜しく本名の上に『従』の字を加へよ」。癸未(二十九日)、文武百官張全義の私第柩前に至り、班を立てて辞す、来月二日に葬らんとする故なり。
冬十月甲申朔(一日)、文武百官に冬服の綿帛を賜ふこと差有るの詔を下す。近年の例、十月寒の初めに、天子は近侍執政の大臣に冬服を賜ふ。帝判三司任圜に顧みて謂ひて曰く、「百官には散ぜざるか」。圜奏して曰く、「臣聞く、本朝春冬の服を給すること、遍く百官に及ぶと。喪乱已来、軍旅に急にして、人君の賜ふ所、周給する能はず。今は止だ近臣のみ、外臣には賜ふ所無し」。帝曰く、「外臣も亦吾が臣なり、卿宜しく計度すべし」。圜遂に安重誨と品秩の差に拠り、以て春冬の賜を定め、其の後遂に以て常と為す。右拾遺曹琮上疏す、内一件、「百官朔望に入閣し、及び五日内殿に起居するに、三署寺監の官に許し、輪次して封事を転奏せしむるを請ふ」。之に従ふ。刑部員外郎孔荘上言す、「兵興已来、法制一ならず、諸道州県の常行する枷杖、多く格律に依らず、旧制を以て曉諭し、改めて之を正すを請ふ」。丙戌(三日)、吏部侍郎盧文紀上言す、「内外の文武臣僚、毎歳有司明らかに考校を定め、将相は御筆を回らし、以て黜陟を行ふを請ふ」。疏を中書門下に下し商量せしめ、宰臣奏請して施行す、之に従ふ。丁亥(四日)、雲南巂州山後両林百蛮都鬼主・右武衛大将軍李卑晚、大鬼主傳能・何華等を遣はして来朝貢す、帝文明殿に御して之に対し、百官賀す。庚寅(七日)、客省使李厳に泗州防禦使を領せしめ、河中節度副使李鈴を太子賓客と為す。壬辰(九日)、邠州節度使毛璋を移して潞州に鎮せしむ。巴州嘉禾合穗を進む。甲午(十一日)、前隰州刺史袁建豐に遙かに洪州節度使を領せしむ。
庚子(十七日)、幽州奏す、契丹平州守将偽署幽州節度使盧文進、戸口を率ひて帰順す、百官賀す。辛丑(十八日)、契丹使いを遣はして来り告哀し、国主安巴堅(阿保機)今年七月二十七日に卒すと言ふ。詔して曰く、「朕近く皇図を纘ぎ、恭しく帝道を修め、務めて夷夏を安んじ、貴ぶに雍熙を洽はしむ。契丹王は世に歓盟に預り、礼聘問を交はす、遽に凶訃を聞き、倍く悲懷を軫む。今月十九日の朝参を輟むべし」。丙午(二十三日)、巂州山後両林・百蛮都鬼主李卑晚を寧遠将軍と為し、大渡河山前邛川六姓都鬼主・懐安郡王勿鄧摽莎を定遠将軍と為す。丁未(二十四日)、幽州奏す、盧文進の率ひし降戸の孳畜人口は平州の西に在り、首尾約七十里。庚戌(二十七日)、吏部侍郎盧文紀を御史中丞と為す、是れ時御史大夫李琪三たび表を上りて任を解かんことを求むる故なり。兵部侍郎劉嶽を吏部侍郎と為し、戸部侍郎・端明殿学士充の馮道を兵部侍郎と為し、中書舎人・端明殿学士充の趙鳳を戸部侍郎と為し、並びに前の如く職を充つ。壬子(二十九日)、静江軍節度使・桂州管内観察使・検校太師・兼中書令・扶風郡王馬賨に食邑実封を加へ、澧郎観察使・検校太傅・兼侍中馬希振に検校太尉を加ふ。盧文進幽州に至り、軍吏を遣はして表を奉り来上す。
丙午の日、中書門下奏す、「故事に、藩鎮の節度・観察使平章事を帯ぶるは、都堂に上事し石に刊し壁に記すに、礼銭三十貫を納るるを合し、以て中書及び両省の公使に充つ。今は各に礼銭五百千を納れ、中書に石亭子を立て、宰臣使相の官氏・授上の年月を鐫勒し、余りは中書及び両省の公署部堂の什物を修葺するに充てんと欲す」と。之に従ふ。
庚戌の日、御史台奏す、「京城の坊市の士庶工商の家に、婢僕自経し井に投じ、非理に物故する者有り。近者已来、凡そ死亡は、皆是れ台司の左右巡挙勘検す。施行已久し、仍恐らくは、所差の人吏及び街市の胥徒、民家に同じくし、事に因り邀脅するを。臣故事を詢訪すに、凡そ京城の民庶の家の死喪は府県に委せて検挙し、軍家は軍巡に委せ、商旅は戸部に委す。然れども諸司検挙の後、事由を具して台に申す。其の間或は枉濫の情故有らば、台司訪聞し、即ち挙勘を行ふ。是の如きは文武両班の官吏の家、即ち是れ台司検挙す。臣請ふ、自今已後、並びに故事に準ひて施行せんと」と。詔して曰く、「今後文武両班及び諸道の商旅、凡そ喪亡有らば、即ち台司の奏する所に準ひて施行せよ。其の坊市の民庶軍士の家、凡そ死喪及び婢僕の非理に物故するは、台司の奏に依り、府県・軍巡に委せて同く検挙すべし。仍て其の吏卒をして、物故の家に於て妄りに邀脅することを得ざらしむ。或は恐らくは暑月屍柩停め難く、若し申聞検挙を待たば、邀脅無きと雖も、亦須らく時日を経ん。今後は本家に仰せて四鄰を喚び検察せしめ、若し他故無くば、逐便葬埋せしむべし。如し後に別に枉濫を聞き、妄りに保証せば、官中訪知し、勘詰虚しからざれば、本戸の鄰保並びに科罪を行ふべし。如し諸道州府の坊市の死喪、分巡院を取って検挙するを聞くに、頗る淹停を致し、人多く流怨す。亦た京城の事例に約して処分するを仰ぐ」と。