舊五代史

唐書十二: 明宗本紀二

天成元年夏四月丙午、帝は興聖宮より西宮に赴き、文武の百官は位に縞素を着し、帝は斬衰を服し、親しく攢を奉じ、塗に奠を設け、哭して哀しみを尽くし、乃ち柩前に於いて皇帝の位に即く。百官は吉服に易えて位に班し、帝は袞冕を御して冊を受け終わり、百官賀す。丁未、群官は縞素を着して西宮に赴き臨む。枢密使安重誨を以て検校司空しくう、守左領軍大将軍と為し、前の如く枢密使を充てる。宰臣豆盧革等三たび表を上りて聴政を請う、之に従う。使を遣わし諸道及び淮南に往きて哀を告げしむ。辛亥、帝始めて中興殿に於いて政を聴く。壬子、西南面副招討使・工部尚書任圜、歩騎二万六千人を率いて入見す。甲寅、帝は文明殿に御して朝を受く。制して同光四年を改めて天成元年と為し、天下に大赦す。後宮の内職は量りて百人を留め、内官三十人、教坊百人、鷹坊二十人、御厨五十人とし、其の余は任せて所適に従わしむ。諸司使務に名有りて実無き者は並びに停む。諸軍を分遣して近畿に就食せしめ、以て饋送の労を減ず。秋夏の税子、毎斗先に省耗一升有り、今後は正数のみを納め、其の省耗は停むべし。天下の節度・防禦使、正・至・端午・降誕の四節を除き、事を量りて進奉し、情を達するのみとし、自ら州府に於いて円融し、百姓を科斂することを得ず。其の刺史は四節に遇うと雖も、貢奉に在らず。諸州の雑税は、宜しく合税物色の名目を定め、商旅を邀難することを得ず。租庸司先に係省の銭物を将て、人と回図するは、宜しく底を尽くして収納せしめ、以て幸門を塞ぐべしと云う。乙卯、渤海国王大諲譔、使を遣わし朝貢す。是の月、北京副留守・知留守事張憲に死を賜う、其の失守を以ての故なり。

五月丙辰朔、帝は朝を視ず、西宮に臨む。宰相豆盧革は位を進めて左僕射と為し、韋説は位を進めて門下侍郎兼戸部尚書・監修国史と為し、並びに旧の如く平章事たり。兗州節度使・検校太傅朱守殷に同平章事を加え、河南尹を充て、六軍諸衛事を判ず。滄州節度使・検校太傅安元信に同平章事を加え、鎮を移して徐州と為す。邠州節度使・検校太保毛璋に同平章事を加う。太子賓客鄭玨を以て中書侍郎兼刑部尚書・同中書門下平章事と為す。工部尚書任圜を以て中書侍郎兼工部尚書・同中書門下平章事・判三司と為す。徐州節度使李紹真・貝州刺史李紹英・齊州防禦使李紹虔・河陽節度使李紹奇・洺州刺史李紹能等上言す、前朝寵賜の姓名、今旧に還ることを乞う。内に李紹虔上言す、「臣本姓は王、後に杜氏に移り、前朝に蒙りて今の姓名を賜う、本姓に復することを乞う」と。詔して並びに之を可とす。李紹真は復た霍彥威と曰い、李紹英は復た房知溫と曰い、李紹虔は復た王晏球と曰い、李紹奇は復た夏魯奇と曰い、李紹能は復た米君立と曰う。青州節度使・検校太傅・同平章事符習に兼侍中を加う。徐州節度使・検校太傅霍彥威に兼侍中を加え、鎮を移して鄆州と為す。丁巳、初めて文武の百官に詔す、正衙常参の外、五日一度内殿に起居す。(《五代会要》に載す、天成元年五月三日の勅:今後宰臣文武百官、常朝を除く外、五日毎に一度内に入り起居す。其の中書は時に急切の公事有れば延英を開くことを請う、此の限りに在らず。)麟州奏す、指揮使張延寵乱を作し、市民を焚剽す、已に殺戮終わりしと。

戊午、河陽節度使夏魯奇に検校太傅を加う。貝州刺史房知溫を以て兗州節度使と為す。齊州防禦使王晏球を以て宋州節度使と為す。洺州刺史米君立を以て邢州節度使と為す。己未、文武の百官に各一馬一驢を賜う。西都知府張篯、魏王継岌の打球馬七十二匹を進む。北京馬歩都指揮使李従温奏す、詔に準じて宦官を誅すと。初め、荘宗内難に遇い、宦者数百人山谷に竄匿し、発を落として僧と為り、太原に奔る者七十余人、是に至りて都亭駅に於いて尽く誅さる。辛酉、華州に詔して西川の宮人を放散し各骨肉に帰らしむ。壬戌、前相州刺史・北京左右廂都指揮使安金全を以て安北都護・振武節度使・同平章事と為す。甲子、前西都留守・京兆尹張筠に検校太傅を加え、山南西道節度使を充てる。夔州節度使李紹文を以て遂州節度使と為す。前鄧州留後戴思遠を以て洋州節度使と為す。丁卯、金吾将軍張実を以て金州防禦使と為す。戊辰、金紫光禄大夫・検校司空趙在礼を以て滑州節度使と為し、検校太保を加う。制下る、在礼は軍情順わざるを以て辞と為し、之に任じず。許州留後陶玘を以て鄧州留後と為す。諸道馬歩副都指揮使安審通を以て齊州防禦使と為す。庚午、権知北京軍府事・汾州刺史符彦超を以て晉州留後と為す。前陳州刺史劉伸殷を以て陝州留後と為す。癸酉、前磁州刺史劉彦琮を以て同州留後と為す。甲戌、福州節度使・検校太傅王延翰に検校太尉・同平章事を加う。

乙亥、翰林学士・戸部侍郎・知制誥馮道、翰林学士・中書舎人趙鳳、倶に本官を以て端明殿学士を充てる。端明の職、此より始まる。(《五代会要》:明宗初めて位に登り、四方の書奏、多く枢密使安重誨をして之を読ましむ、文義を暁らざりき。是に於いて孔循議を献じ、唐室の侍読の号に因り、即ち端明学士の名を創め、馮道等をして之を為さしむ。)丙子、詔す、「故西道行営都招討製置等使・守侍中・監修国史・兼枢密使郭崇韜は宜しく帰葬を許すべく、其の世業の田宅は並びに骨肉に還し与うべし。故万州司戸朱友謙は護国軍節度使・守太師・兼尚書令しょうしょれい・河中尹・西平王に復すべく、所有の田宅財産は並びに骨肉に還し与うべし」と。丁丑、西都衙内指揮使張篯、偽しょく主王衍の犀玉帯各二条・馬一百五十匹を進納す。初め、荘宗中官向延嗣を遣わし長安ちょうあんに就きて王衍を殺さしむ、旋って蕭牆の禍に属し、延嗣は蔵竄し、其の所之を知らず、而して衍の資装妓楽は並びに篯の所有と為り、復た事の泄るるを懼れ、故に聊か此の献有り。

戊寅の日、枢密使安重誨を兼ねて襄州節度使とす。制が下ると、重誨の党が重誨に言うには、「襄州は要衝を控える地であり、帥を欠くべからず、兼領すべきではない」と。重誨は即座に自ら退くことを申し出、これを許される。左金吾大将軍張遵誨を西京副留守・知留守事とす。辛巳の日、衛尉卿李懌を中書舎人とし、翰林学士を充てる。壬午の日、前蔚州刺史張温を振武留後とし、左右廂突陣指揮使康義誠を汾州刺史とし、左右廂馬軍都指揮使索自通を忻州刺史とす。尚父・呉越国王銭鏐が使者を遣わし、金器五百両・銀一万両・綾一万匹を進めて恩を謝し、玉冊・金印を賜う。初め、同光の末年、鏐が上疏して密かに玉冊・金印を求め、郭崇韜が議を進めて不可とし、枢密承旨段徊がその重賂を受け、この事を賛成したため、荘宗は即座にその請いを允し、この時に至って故に貢謝があった。甲申の日、幽州節度使・検校太保李紹斌に検校太傅・同平章事を加え、姓名を趙徳鈞に復す。乙酉の日、詔して百官に朔望に入閣することを命じ、廊下食を賜う。乱離以前より、常参官は毎日朝退の後、廊下にて食を賜わり、これを「廊餐」と称した。乾符の後、百司の経費足らず、毎日の賜いはなく、この時に至り入閣に遇えば即ちこれを賜う。

六月戊子の日、前襄州節度使李紹珙を起復し、前の如く襄州節度使とし、なお本姓名を劉訓に復す。皇子河中留後従珂を河中節度使とし、百官表を奉って賀す。翰林承旨・兵部尚書・知制誥盧質を検校司空とし、同州節度使を充てる。己丑の日、吏部尚書・判太常卿事李琪を御史大夫とす。礼部尚書崔協を太常卿・判吏部尚書銓事とす。御史中丞崔居儉を兵部侍郎とす。太子賓客蕭頃を礼部尚書とす。中書が奏す、「九月九日、皇帝降誕の日を応聖節とし、休暇三日とすべし」と。これに従う。故忠武軍節度使・検校太師・兼尚書令・斉王張全義に太師を贈り、前尚書右丞崔沂を尚書左丞とす。丙申の日、新州留後張庭裕・雲州留後高行珪ともに本軍節度使を正授す。丁酉の日、詔して曰く、「四夷来王は歴代の故事なり。前後各々強弱に因り、撫製互いに典儀有り。大蕃は威容を示すを須い、即ち正衙に於いて引対す。小蕃は但だ恩澤を推すのみで、仍って便殿に於いて撫懐す。憲府奏論し、礼院詳酌す。皆故実を徴し、咸に明文有り。正衙の威容は未だ全く廃すべからず。内殿の恩澤は且つ常に行うべし。若し大蕃の入朝に遇えば、即ち旧儀に準じ、正殿に於いて排比鋪陳し立仗し、百官班を排し、正門より引入し対見すべし」と。時に百官入閣の班退いた後、却って朝貢蕃客を引対し、御史大夫李琪が奏論したため、礼院に下して検討せしめ、この命を降した。

戊戌の日、枢密使安重誨に検校太保を加え、行兵部尚書事は故の如し。太子詹事劉嶽を兵部侍郎とし、太子右庶子王権を戸部侍郎とし、太子左庶子任讚を工部侍郎とす。庚子の日、荊南節度使・検校太師・兼尚書令・南平王高季興に守太尉・兼尚書令を加え、沢潞節度使・検校太傅・同平章事孔に兼侍中を加う。汴州屯駐控鶴指揮使張諫ら謀叛を謀り伏誅せらる。枢密使孔循を以て権知汴州軍州事とす。甲辰の日、枢密使孔循に検校太保・守秘書監を加え、前の如く使を充てる。己巳の日、秘書少監姚顗を左散騎常侍さんきじょうじとし、太子左諭徳陸崇を右散騎常侍とし、兵部郎中蕭希甫を左諫議大夫とし、前幽州節度判官呂夢奇を右諫議大夫とし、鄴都副留守孫嶽を潁州団練使とす。詔して曰く、「古者は礼を酌みて以て名を製し、物に廃するを懼る。其の犯し難くして避け易きを取り、時に便なるを貴ぶ。況や『征』『在』の二名は、抑も前例有り。太宗文皇帝、宝位に登りしより、旧称を改めず。時に即ち臣に世南有り、官に民部有り。曲避を聞かず、止だ連呼を禁ずるのみ。朕猥りに眇身を以て、人の上に托る。止だ聖範に遵い、敢えて自尊せず。応に文書内に所有の二字は、但だ連称せざるのみにて、回避すべからず。是の如く臣下の名、君親と同字たるを欲せざるは、任せて自ら改更せしむ」と。丁未の日、中書門下奏す、「京城の潜龍旧宅、至徳宮を以て名と為すことを望む」と。これに従う。

戊申の日、夏州節度使・開府儀同三司・検校太師・兼中書令・朔方王李仁福に食邑一千戸を加う。延州留後高允韜を延州節度使とし、利州節度観察留後張敬詢を利州節度使とす。剣南西川節度副大使・知節度使事孟知祥に検校太傅・兼侍中を加え、剣南東川節度副大使・知節度事董璋に検校太傅を加う。壬子の日、鳳翔節度使・検校太尉・兼中書令李従厳に検校太師・兼中書令を加う。汴州知州孔循奏す、謀乱の指揮使趙虔以下三千人を召集し、並びに族誅し畢れりと。甲寅の日、晋州留後符彦超を北京留守とし、鎮州副使王建立を鎮州留後とし、右龍武統軍安崇阮を晋州留後とす。荊南節度使高季興上言す、「夔・忠・万の三州は、旧は当道の属郡にして、先に西川に侵拠せられしが、今乞うらくは却って本管に割隷せしめん」と。詔してこれを可とす。其の夔州は、偽蜀先に曾て節を建てしが、宜しく旧に依りて刺史を除くべし。

秋七月乙卯朔、太原の旧宅を以て積慶宮となす。庚申、契丹・渤海国ともに使を遣わして朝貢す。甲子、詔して韓城・郃陽の両県を割きて同州に属せしむ。滑州の左右崇牙及び長劍等の軍士数百人を誅し、その族を夷す、乱を起こしたる故なり。その都校於可洪等相次いで闕に到るも、また都市に斬る。丁卯、偽蜀の守司空・門下侍郎・平章事・晋国公王諧を以て検校司空・守陵州刺史と為し、虢州刺史石潭を以て耀州団練使と為す。辛未、詔す「諸道の節度・刺史・文武の将吏、旧より月旦に起居表を進む。今後は節度・留後・団練・防御使を除き、正・至にのみ賀表を進め、その四孟月は併せて止絶すべし」。

甲戌、中書門下上言す「宣旨にて新たに授くる諸道判官・州県官の官告勅牒を進納し、ただ宣賜に応ずることを令す。往例に準ずれば、将相を除く外、官告を賜わず。即ち梁氏の例に因り、凡そ宣授の官は並びに特恩を賜う。臣等商量す、両使判官・令録にして在京にて除授する者は、即ち内殿にて謝恩し、便ち辞して任に赴き、更に官告を進納せず。判司・主簿は、更に朝対を許すべからず。勅下の後、旧例に準じて処分せんことを望む」。これに従う。

乙亥、荘宗皇帝の梓宮発引す。帝縗服して楼前に臨みて送る。この日、荘宗を雍陵に葬る。鎮州留後王建立奏す、涿州刺史劉殷肇代を受けず、叛を謀る。昨兵を発して収掩し、劉殷肇及びその党十三人を擒え、足を折りて勘詰するを見る。己卯、比部郎中・知制誥楊凝式を以て給事中と為し、史館修撰・判館事を充てる。偽蜀の吏部尚書楊玢を以て給事中と為し、集賢殿学士・判院事を充てる。応州を升して彰徳軍節度と為し、仍って興唐軍を以て寰州と為し、彰徳軍に隷せしむ。宰相豆盧革辰州刺史に貶し、韋説漵州刺史に貶す。仍って所在に馳驛発遣を令す、諫議大夫蕭希甫の疏奏による故なり。制略に曰く「革は則ち田客を縦して人を殺し、説は則ち隣家を侵して井を奪う。元亨の上第を選び、王参の本名を改む。或いは三司を主掌し、元随の務局を委ね、或いは百里を陶鎔し、長吏の桑田を受く。咸に平人を屈塞し、互いに愛子に阿私す。任官匪当、黷貨厭うこと無し。人の国を謀ること斯くの若し、主を致すの方安くにか在らん。既に理乱に迷い、又た巻舒に昧し。而して府司の案牘爰より来り、諫署の奏章疊りて至り、醜跡を備え彰わし、深く明庭を汚す。是れ宜しく三章を以て約し、之を四裔に投ずべし。その河南府の文案及び蕭希甫の論疏、並びに宜しく百僚に宣示すべし」。庚辰、蕭希甫に衣段二十匹・銀器五十両を賜う、革・説の罪を疏したるを賞するなり。宰相鄭玨・任圜再び安重誨に見え、革・説を解き、復た後命を行わざるを請う。又た三たび表を上りて救解す、俱に中に留めて報えず。

辛巳、捧聖厳衛左廂馬歩軍都指揮使李従璋に饒州刺史を領せしめ、大内皇城使を充てる。中書門下奏す「条制に、検校官各尚書省の礼銭を納む。旧例太師・太尉は四十千を納め、後減落して二十千に至る。太傅・太保は元三十千を納め、減じて十五千に至る。司徒しと・司空は元二十千を納め、減じて一十千に至る。僕射・尚書は元一十五千を納め、減じて七千に至る。員外・郎中は元一十千を納め、今は三千四百を納む」。詔して曰く「会府の華資、皇朝の寵秩、凡そ新命に沾う者は、各礼銭を納む。爰に近年より、多く旧制を隳し、遂に紀綱の地を致し、遽に廃墜の司と成る。況んや累条流、就きて減省に従い、方に提挙せんとす、宜しく規繩を振るうべし。但だ其の間、翊衛の勲庸、藩宣の将佐、軍功より遷陟し、恩沢を以て奨酬を示すは、須らく権に従うを議し、其の例に在らず。其の余は自ら平章事を帯びざる節度使及び防御・団練・刺史・使府副使・行軍已下、三司職掌監務官、州県官、凡そ此の例に関わる者は、並びに征納すべし。其の検校官員外郎より僕射に至るは、只初転一任に銭を納む。若し呼び改めざれば、征納に在らず。仍って尚書省部司に委ねて専ら切に検挙し、歴を置き逐月具数して中書門下に申すべし」。