舊五代史

唐書八: 莊宗本紀六

同光二年夏五月己亥、帝は文明殿に御し、斉王張全義を太尉に冊封す。礼畢りて、全義は尚書省に赴き事を領す。左諫議大夫竇專は階を降らず、御史に劾せらる。專は旧典を援引し、宰相詰ふること能はず、寝して行はれず。庚子、太常卿李燕卒す。壬寅、教坊使陳俊を以て景州刺史と為し、内園使儲德源を以て憲州刺史と為す。皆梁の伶人なり。初め、帝梁を平ぐるや、俊と德源は皆寵伶周匝の薦むる所となり、帝因りて郡を除くことを許す。郭崇韜以て不可と為す。伶官之を言ふ者衆し。帝密かに崇韜を召して之に謂ひて曰く、「予已に郡を除くことを許し、年を経て未だ行はざるに、我二人に見るに慚づ。卿当に意を屈して之を行ふべし」と。故に是の命有り。

甲辰、兗州節度使李紹欽を以て前の如く検校太保・兗州節度使に依り、開国侯に進封す。邠州節度使韓恭を以て前の如く検校太保・邠州節度使に依り、開国伯に進封す。丙午、福建節度使・閩王王審知を以て前の如く検校太師・守中書令・福建節度使に依らしむ。戊申、郭崇韜の第に幸す。己酉、天下に詔して防城の具を収め拆ち、池隍を修浚することを得ざらしむ。西都留守・京兆尹張筠を以て前の如く検校太保に依り、西都留守を充てしむ。甲寅、滄州節度使李紹斌を以て東北面招討使に充て、兗州節度使李紹欽を副招討使と為し、宣徽使李紹宏を招討都監と為し、大軍を率ひて河を渡りて北す。時に幽州上言して契丹将に河朔を寇すと云ふ故なり。

乙卯、潞州叛将楊立、健歩を遣はして表を奉り赦宥を行はんことを乞ふ。帝、樞密副使宋唐玉に勅書を齎して招撫せしむ。幽州上言す、契丹州の東南に営すと。丙辰、渤海国王大諲撰、使を遣はして方物を貢す。澶州刺史李審益を以て幽州行軍司馬・蕃漢内外都知兵馬使と為す。辛酉、故澤潞節度使丁会に太師を贈る。詔して復州を割きて荊南の属郡と為す。壬戌、権知鳳翔軍府事・涇州節度使李厳を以て起復雲麾将軍・右金吾大将軍同正と為し、前の如く検校太尉・兼中書令に依り、鳳翔節度使を充てしむ。乙丑、権知帰義軍留後曹義金を以て帰義軍節度使・沙州刺史・検校司空しくうと為す。丙寅、李嗣源、潞州を収復せしむと奏す。幽州上言す、新たに授かる宣武軍節度使李存審卒すと。

六月甲戌、中書侍郎兼吏部尚書・平章事・宏文館大学士豆盧革に右僕射を加へ、余は故の如し。侍中・監修国史・兼樞密使・鎮州節度使郭崇韜に爵邑を進め、功臣号を加ふ。中書侍郎・平章事・集賢殿大学士趙光裔に兼戸部尚書を加ふ。礼部侍郎・平章事韋説に中書侍郎を加ふ。宋州奏す、節度使李紹安卒すと。丙子、李嗣源、使を遣はし部をして潞州叛将楊立等を闕に送らしむ。並びに市に磔く。潞州城峻くして隍深し。是に至り帝命じて之を剗平せしむ。因りて諸方鎮に詔して防城の備を撤かしむ。丁丑、有司上言す、「洛陽らくよう已に宗廟を建つ。其の北京の太廟は停めんことを請ふ」と。之に従ふ。

甲申、衛国夫人韓氏を以て淑妃と為し、燕国夫人伊氏を以て徳妃と為し、仍て所司に日を択びて冊命せしむ。故河東節度副使・守左諫議大夫李襲吉に礼部尚書を贈る。故河東節度副使・礼部尚書蘇循に左僕射を贈る。故河東観察判官・検校右僕射司馬揆に司空を贈る。故河東留守判官・工部尚書李敬義に右僕射を贈る。丙戌、順義軍節度使李令錫を以て許州節度使と為し、前保義軍留後李紹真を以て徐州節度使と為し、徐州節度使李紹栄を以て宋州節度使と為す。戊子、汝州防禦使張継孫に本郡に於て死を賜ふ。継孫は即ち斉王張全義の仮子なり。本姓は郝氏。兄継業等其の陰事を訟ふるを以て、故に之を誅す。

己丑、回鶻可汗仁美を以て英義可汗と為す。詔して輝州を改めて単州と為す。庚寅、故左僕射裴樞、右僕射裴贄・崔遠に並びに司徒しとを贈る。故静海軍節度使獨孤損に司空を贈る。故吏部尚書陸扆に右僕射を贈る。故工部尚書王溥に右僕射を贈る。裴樞等六人は皆前朝の宰輔、梁祖の為に白馬駅に害せられし者なり。是に至り追贈す。壬辰、天平軍節度使・蕃漢総管副使・開府儀同三司・検校太尉・兼中書令李嗣源を以て宣武軍節度使・蕃漢馬歩総管と為し、余は故の如し。甲午、樞密使・特進・左領軍衛上将軍・知内侍省事張居翰を以て驃騎大将軍・守左ぎょう衛上将軍と為し、開国伯に進封し、功臣号を賜ふ。

秋七月戊戌朔(一日)、故宣武軍節度使李存審の子彥超がその父の牙兵八千七百人を進上した。己亥(二日)、中書門下が奏上して言うには、「毎年の南郊壇四祠祭、太微宮五薦獻は、ともに宰臣が太尉を摂行するが、ただ太廟のみは庶僚を遣わして行事する。今後は太廟の祠祭も、宰臣を差して行事することを望む。」これを聴許した。乙巳(八日)、汴州雍丘県に大風があり、木を抜き、禾稼を損なう。曹州に大雨があり、平地に三尺の水がたまる。丙午(九日)、襄州節度使孔を潞州節度使とし、李存を鄆州節度使とする。乙酉(誤記か。前後干支参照)、龍門の雷山に幸し、天神を祭る。北俗の旧事に従うのである。辛亥(十四日)、鄆州副使李紹珙を襄州留後とし、前澤州刺史董璋を邠州留後とする。戊午(二十一日)、西川の王衍が偽署の戸部侍郎歐陽彬を遣わして朝貢し、「大しょく皇帝、大唐皇帝に上書す」と称した。庚申(二十三日)、応州を雲州の属郡とし、新州を威塞軍節度使に昇格させ、媯・儒・武等州を属郡とする。壬戌(二十五日)、皇子継岌の妻王氏を魏國夫人に封ず。幽州が奏上するには、契丹の安巴堅が東進して渤海を攻撃したという。

八月己巳(三日)、詔して洛京に空地がある場合は、人に任せて請射し修造させ、所有者がいる場合は半年を期限とし、その所有者に自ら修築させよ、もし期限を過ぎても屋宇が見られない場合は、他人に占射を許す、とした。辛未(五日)、北京副留守・太原尹孟知祥に検校太傅を加え、邑を増やし、功臣号を賜う。帝は西苑で狩猟した。癸酉(七日)、租庸副使・守衛尉卿孔謙を租庸使とし、右威衛上將軍孔循を租庸副使とする。甲戌(八日)、権知汴州軍州事・翰林學士承旨・戶部尚書盧質を兵部尚書とし、前のごとく翰林學士承旨を依り、なお論思匡佐功臣を賜う。丙子(十日)、雲州刺史・雁門以北都知兵馬使安元信を大同軍節度留後とし、隰州刺史張廷裕を新州威塞軍節度留後とする。丁丑(十一日)、樞密使郭崇韜が上表して退任を請うたが、許さなかった。戊寅(十二日)、租庸使・守禮部尚書王正言は使職を罷め、本官を守る。辛巳(十五日)、詔して諸道の節度・觀察・防禦・團練使・刺史は、ともに洛陽に一区の邸宅を営造せよ、とした。中書門下が上言して言うには、「今後諸道は、節度副使・両使判官を除き、その他の職員および諸州の軍事判官は、それぞれ本処において奏辟するに任せたい。」これを聴許した。汴州が奏上するには、大水が禾稼を損なったという。癸未(十七日)、租庸使孔謙は会稽県男に進封され、なお豊財贍國功臣を賜う。淮南の楊溥が使者を遣わして方物を貢いだ。宋州に大水があり、鄆・曹等州に大風雨があり、禾稼を損なう。丁亥(二十一日)、中書門下侍郎が奏上して言うには、「左丞崔沂・吏部侍郎崔貽孫・給事中鄭韜光・李光序・吏部員外郎盧損等を差し、選司の長定格・循資格・十道図をともに詳定させたい。」これを聴許した。癸巳(二十七日)、朝参を三日間停止する。霖雨のためである。陝州が奏上するには、河水が岸を越えて溢れたという。乙未(二十九日)、中書門下が上言して言うには、「諸陵台の令丞は廃止し、本県令に陵台事を知らせたい。」これを聴許した。

九月癸卯(七日)、西北郊で狩猟した。幽州が上言するには、契丹の安巴堅が渤海国から軍を返したという。内園の新殿が完成し、長春殿と名づけた。戊申(十二日)、中書舍人・権知貢挙裴皞を禮部侍郎とし、前鄭州防禦副使薑宏道を太僕卿とする。侍中郭崇韜が奏上して言うには、「三銓が注授する官員等のうち、出身なくして入仕し、鬼名の告敕を買い求めた者;あるいは骨肉の文書を用い、姓名を書き改めた者;あるいは歴任が不足しているのに、妄りに失墜したと称する者;あるいは他人の蔭緒を借り、形勢に托して論属し、参選を手配し、所司が例に随って注官した者。もしこれを陳告する者がいれば、特に議して超等の賞を与えよ;その犯人は、格に照らして処分せよ;もし同保人の内に偽濫な者がいれば、ともに駁放すべきである。人が身死した場所は、今後ともに必ず本州に申報し、告身上に身死の月日を明記して子孫に交付せよ。今後銓司の公事は、春末までに必ず完了せねばならない。」 これを聴許した。銓綜の司は、偽濫が久しく、郭崇韜が条奏した後は、澄汰が甚だ厳しく、放棄された者は十のうち七、八に及び、衆情もこれを怨んだ。己酉(十三日)、司天台が私暦の頒布を禁ずるよう請うたので、聴許した。

庚戌(十四日)、契丹から来た役人が言うには、女真・回鶻・黄頭室韋が合勢して契丹を侵したという。壬子(十六日)、役人が上言して言うには、「八月二十二日夜、熒惑が星宿二度を犯した。星宿は周の分野である。法に依ってこれを禳うことを請う。京城の四門に東流の水を一罌懸け、兼ねて都市に盗火を厳しく備え、夜行を禁絶せよ。」これを聴許した。甲寅(十八日)、郭崇韜の邸に幸し、酒を設け楽を奏した。乙卯(十九日)、前振武節度使・安北都護馬存を前のごとく検校太尉・兼侍中に可し、寧遠軍節度・容管觀察使を充てる。馬存は湖南の馬殷の弟である。丙辰(二十日)、黒水国が使者を遣わして朝貢した。契丹が幽州を寇す。戊午(二十二日)、宰臣を中書に宣し、吏部の選人を磨勘し、謬濫な者の告敕を焚毀した。

冬十月戊辰、帝は西北郊で狩猟を行った。己巳、故安義節度使・贈太尉・隴西郡王李嗣昭に太師を追贈した。庚午、正衙において使者を命じて淑妃韓氏・徳妃伊氏を冊立し、宰臣の豆盧革・韋説を冊使に充てた。辛未、詔して「今後、支郡の公事は本道に申し上げ、騰状をもって奏聞すべし。租庸使はそれぞれ征催の祇牒を有し、觀察使は理体の全きを貴ぶ」と。契丹が易州・定州の北辺を寇す。壬申、故大同軍防禦使李存璋に太尉を追贈した。鄆州が奏上するに、清河が氾濫し、廬舎を損壊したと。癸未、石橋で狩猟を行った。甲戌、河南尹張全義が上言するに「万寿節の日に、嵩山において琉璃戒壇を開き、僧百人を度すことを請う」と。これを聴許した。乙亥、故守太師・尚書令しょうしょれい・秦王李茂貞を追封して秦王とし、諡を忠敬と賜う。丁丑、皇后が使者を差し向けて兗州節度使李紹欽に湯薬を賜う。時に皇太后は誥命を行い、皇后劉氏は教命を行い、互いに使人を遣わして藩后に宣達し、紊乱の弊あり、人敢えて言わず。己卯、汴州・鄆州の二州が奏上するに、大水ありと。庚辰、以前の太僕卿楊遘を以て大理卿と為す。党項が白驢を進貢し、奚王李紹威が駝馬を進貢した。幽州が奏上するに、契丹が侵入し、近郊に至ると。辛巳、故天雄軍節度副使王緘に司空を追贈した。壬午、天下兵馬都元帥・尚父・守尚書令・呉越国王銭鏐を以て、前の如く天下兵馬都元帥・尚父・守尚書令に依ることを可とし、呉越国王に封ず。癸未、小馬坊に幸して馬を閲す。甲申、両浙兵馬留後・清海軍節度・嶺南東道觀察等使・守太尉・兼侍中・広州刺史銭元尞を以て検校太師・兼中書令と為し、両浙節度觀察留後を充て、余は故の如しとす。鎮東軍節度副大使・江南管內都招討使・建武軍節度・嶺南西道觀察等使・検校太傅・守侍中・知蘇州中呉軍軍州事・行邕州刺史銭元尞を以て検校太尉・兼中書令と為し、余は故の如しとす。辛卯、天平軍監軍使柴重厚を特進・右領衛将軍同正と為すことを可とし、鳳翔監軍使を充てる。甲午、宣武軍節度押牙李従温・李従璋・李従栄・李従厚・李従璨を並びに銀青光禄大夫・検校右散騎常侍さんきじょうじ兼御史大夫と為し、宣武軍節度押牙李従臻を検校国子祭酒兼御史中丞と為すことを可とす。従温より以下は、皆李嗣源の諸子なり。

十一月丙申、霊武が奏上するに、甘州回鶻可汗仁美卒去し、その弟狄銀が国事を権主すと。吐渾の白都督ととく族帳が代州の東南に移る。己亥、六宅に幸して諸弟を宴す。壬寅、尚書左丞・判吏部尚書銓事崔沂を麟州司馬に貶し、吏部侍郎崔貽孫を朔州司馬に貶し、給事中鄭韜光を寧州司馬に貶し、吏部員外盧損を府州司戸に貶す。時に選人呉延皓が亡き叔父の告身の故旧の名を取りて仕を求むる事あり、事発し、延皓は河南府に付して処死し、崔沂以下は官を貶す。宰相豆盧革・趙光裔・韋説が閣門に詣りて罪を待つ。詔してこれを釈す。

癸卯、帝は伊闕で狩猟し、侍衛の金槍馬万余騎が従う。帝は一発にして大鹿に中つ。この日、従官に命じて梁祖(朱全忠)の陵を拝せしむ。物議これを非とす。その夕、張全義の別墅に宿る。甲辰、伊闕県に宿る。乙巳、椹澗に宿る。時に騎士山を囲み、夜に会い、崖谷に顛墜し、死傷甚だ衆し。丙午、復た衛兵を命じて分かれて狩猟せしめ、殺獲数万に計る。この夜、方に京城に帰り、六街の火炬昼の如し。丁未、群臣に鹿肉を賜うこと差等あり。

庚戌、制して節将十一人の功臣号を改む。辛亥、兵部侍郎李徳休を以て吏部侍郎と為す。壬子、日南至し、百官表を奉りて賀す。昭儀侯氏を汧国夫人と為し、昭容夏氏を虢国夫人と為し、昭媛白氏をはい国夫人と為し、出使美宣鄧氏を魏国夫人と為し、御正楚真張氏を涼国夫人と為し、司簿徳美周氏を宋国夫人と為し、侍真呉氏を渤海郡夫人と為し、その余は並びに郡夫人に封ず。丁巳、河中節度使・守太師・兼尚書令・西平王李継麟を以て、前の如く守太師・兼尚書令・河中護国軍節度使・西平王たることを可とし、仍て鉄券を賜う。戊午、李嗣源・李紹栄の第に幸し、酒を縦にし楽を作す。この日、鎮州地震す。契丹が蔚州を寇す。

十二月戊辰、西苑に幸して校獵す。己巳、詔して汴州節度使李嗣源に帰鎮せしむ。庚午、帝と皇后劉氏は張全義の第に幸す。酒酣にして、帝は皇后に命じて全義を養父として拝せしむ。全義惶恐して謝し、復た珍貨を出だして貢献す。翌日、皇后制を伝え、学士に命じて全義に謝する書を草せしむ。学士趙鳳が密かに疏を上し、国后に人臣を拝して父と為す礼無きを陳ぶ。帝はこれを嘉とすと雖も、竟にその事を已むること能わず。壬申、教坊使王承顔を以て興州刺史と為す。丙申、詔して来年正月七日魏州に幸することを取る。庚辰、近郊で狩猟し、夕に至りて宮に還る。壬午、契丹が嵐州を寇す。党項が使いを遣わして方物を貢ぐ。乙酉、龍門の仏寺に幸して雪を祈る。丙戌、徐州節度使李紹真を以て北面行営副招討使と為す。戊子、李嗣源が奏上するに、大軍を部署して宣武軍より北征すと。淮南の楊溥が使いを遣わして貢献す。己丑、龍門に幸す。庚寅、詔して河南尹張全義を洛京留守と為し、在京諸軍事を判せしむ。この日、日の傍らに背気あり、凡そ十二。

同光三年春正月甲午朔、帝は明堂殿に御し朝賀を受け、仗衛は式の如し。丙申、詔して昭宗・少帝の山陵未だ備わらざるを以て、宜しく有司に令して別に園陵を選び改葬すべしと。尋いで年饑れ財匱するを以て止む。契丹が幽州を寇す。戊戌、詔して「今後より起こし、特恩にて官を授け及び侍衛諸軍将校・内諸司等の官は、その告身は官給とし、旧例の朱膠銭・台省礼銭は並びに停め、その余の合て征すべき台省礼銭は、旧数に比し五分の中一分を許して征し、特恩の者は征せず。兵部・吏部の両司は逐月各々銭四十貫文を支え、吏人の食直に充つ。少府監は銭を鋳し印文を造るに、今後銅炭の価直を征納せず、その料物は官給す」と。庚子、車駕は京師を発ち鄴に幸す。以前の許州節度使李紹衝を以て太子少保と為し、以前の邠州節度使韓恭を以て右金吾大将軍と為し両街使を充て、以前の安州節度使朱漢賓を以て左龍武統軍と為す。庚戌、車駕は鄴に至る。青州節度使符習に命じて酸棗の河堤を修めしむ。先に、梁末帝が河堤を決し、水を引き東に注がしめて鄆州・濮州に至らしめ、以て我が軍を限る。是に至りて方にこれを修む。丙辰、幽州が上言するに、節度使李存賢卒去すと。

二月甲子朔(一日)、詔を下す。「興唐府管内に於いて百姓が随絲鹽錢を納むる毎に、一両につき五十文を減ずる。逐年に俵散する蠶鹽は、一斗につき五十文を減ずる。小菉豆の税は、一畝につき三升を減放す。都城内に徴する税絲は、永く除放すべし」と。丙寅(三日)、定州節度使王都来朝す。丁卯(四日)、近郊に畋猟す。己巳(六日)、従臣を召して鞠場にて撃球せしむ。辛未(八日)、許州上言す。「襄城・葉縣は勅に準じて汝州に割隷せしむるも、其の扶溝等の縣は請ふらく、却って当州に隷せしめん」と。之に従ふ。甲戌(十一日)、滄州節度使李紹斌を以て幽州節度使と為し、前の如く檢校太保に依る。大同軍留後安元信を以て滄州節度使と為す。乙亥(十二日)、王莽河に幸して雁を射る。丙子(十三日)、李嗣源奏す、涿州東南にて契丹を殺敗し、首領三十人を生擒せりと。符習奏す、堤を修する役夫、雪寒に遇ひ逃散せりと。樞密使郭崇韜、表を上り兼鎮を辞す。時に帝、李紹斌をして幽州を鎮めしむ。其の時望未だ重からざるを以て、李嗣源を以て鎮帥と為さんと欲し、且つ紹斌の為に聲援と為さんとし、郭崇韜を移して汴州を兼領せしむ。崇韜を召して之を議す。崇韜奏して以て当たれりと為し、因りて懇に兼領を辞す。庚辰(十七日)、宣武軍節度使李嗣源を以て鎮州節度使と為す。辛巳(十八日)、皇子繼潼・繼嵩・繼蟾・繼嶢を並びに檢校司徒と為す。皆衝幼にして、未だ出閣せず。突厥・渤海國、皆使を遣わし方物を貢ぐ。帝、近郊に幸して雁を射る。甲申(二十一日)、樞密使郭崇韜を以て前の如く守侍中・監修國史・兼樞密使と為し、食邑實封を加ふ。廣南劉岩、使を遣わし書を帝に奉り、「大漢國王、書を上り大唐皇帝に致す」と称す。乙酉(二十二日)、帝、郭泊にて鴨を射る。丙戌(二十三日)、定州節度使・檢校太尉・兼侍中王都、開國公に進封し、食邑實封を加ふ。戊子(二十五日)、近郊に幸して雁を射る。工部尚書崔柅卒す。右僕射を贈る。

三月癸巳朔(一日)、扈従の諸軍將士に優給を賜ふ。二十千より一千に至るまで。甲午(二日)、振武軍節度使・洛京内外蕃漢馬步使朱守殷奏す、昨月陂堤を修するに、至德宮の南に至り玉璽一紐を獲たり、之を献ずと。詔して百官に示す。其の文を驗するに、「皇帝行寶」の四字、方圓八寸、厚さ二寸、背の紐は交龍、光り瑩にして精妙なり。守殷又役所に於いて古文錢四百六十六を得たり。内二十六文は「得一元寶」と曰ひ、四百四十は「順天元寶」と曰ふ。之を上る。丙子(?)、寒食節、帝と皇后、近郊に出で、遥かに代州の親廟を饗す。庚子(九日)、詔して三月十七日を取って車駕洛京に帰らんとす。壬寅(十一日)、符習奏す、河堤を修する事畢功せりと。

戊申(十七日)、帝、郭崇韜を召して謂ひて曰く、「朕、徳勝寨に在りし時を思ふに、霍彦威・段凝は皆予が敵なりき。終日格闘し、戦声相聞ゆ。安んぞ知らん、二年の間、吾が廡下に在らんとは。吾に少康・光武の才無し。一旦重ねて基構を興す者は、良に二三の勲徳、同心して輔翼するに由る故なり。朕時に夢寝し、戚城に在るが如し。曩時の挑戦鏖兵を思念すれば、労は則ち労なれど、然れども旌を揚げ鼓を伐つは、差し人心を慰む。残壘荒溝、依然として目に在り。予、徳勝の故寨に按じ、卿と再び旧事を陳べんと欲す」と。崇韜曰く、「此去る澶州遠からず。陛下再び戦地を観れば、益々王業の艱難を知らん。豈に韙ならずや」と。己酉(十八日)、車駕鄴宮を発す。辛亥(二十日)、徳勝城に至る。城に登り四望し、戦陣の処を指して宰臣に諭す。河を渡り南に廃柵の旧址を観、楊村寨に至り、河に沿ひて戚城に至り、酒を置き楽を作して罷む。壬子(二十一日)、淮南楊溥、使を遣わし朝貢す。東京副留守張憲奏す、諸営の家口一千二百人逃亡す。艱食なる故なりと。時に宮苑使王允平・伶人景進、帝の為に広く宮人を采り、良家委巷を択ばず、殆ど千余人に及ぶ。車駕給せず、牛車に載せて、路に累累たり。庚辰(?)、車駕鄴より至る。辛酉(?)、詔す、本朝雍州を以て西京と為し、洛州を以て東都と為し、へい州を以て北都と為す。近く魏州を以て東京と為せり。宜しく旧に依り洛京を以て東都と為し、魏州を改めて鄴都と為し、北都と並びて次府と為すべしと。

夏四月癸亥朔(一日)、日蝕有り。租庸副使孔循を以て権知汴州軍州事と為す。丙寅(四日)、淮南楊溥、使を遣わし方物を貢ぐ。壬申(十日)、甘泉亭に幸す。癸酉(十一日)、詔して翰林學士承旨盧質に新及第進士を覆試せしむ。租庸使奏す、「時雨久しく愆る。請ふらく諸道州府に下し、法に依り祈祷せしめん」と。之に従ふ。乙亥(十三日)、帝と皇后、郭崇韜の第に幸し、又左龍武統軍朱漢賓の第に幸す。戊寅(十六日)、耀州を以て團練州と為し、其の順義軍の額は宜しく停むべし。庚辰(十八日)、帝、皇太后に侍して會節園に幸し、遂に李紹榮の第に幸す。辛巳(十九日)、旱甚だしきを以て、詔して河南府に市を徙し、五方の龍を造り、巫を集めて禱祭せしむ。癸未(二十一日)、兗州節度使李紹欽を以て鄧州節度使と為す。丁亥(二十五日)、鎮州節度使李嗣源を以て兼ねて北面水陸轉運使と為し、徐州節度使李紹真を以て副と為す。禮部貢院新及第進士四人、其の王澈を改めて第一と為し、桑維翰第二、符蒙正第三、成僚第四と為す。禮部侍郎裴皞既に黜落無く、特議して寛容す。今後新及第の人、堂を過ぐる日の候に委ねて中書門下精しく詳覆を加へしむ。陝州奏す、木連理すと。庚寅(二十八日)、中書侍郎兼工部尚書・平章事趙光胤卒す。朝を三日廃す。

五月壬辰朔(一日)、淮南楊溥、端午節の物を貢ぐ。丁酉(六日)、皇太妃劉氏、晉陽にて薨ず。朝を五日廃す。帝、興安殿に於いて服を行ふ。時に皇太后、晉陽に奔喪せんと欲す。百官表を上り留まるを請ふ。乃ち止む。戊戌(七日)、鎮州行軍司馬・知軍府事任圜を以て工部尚書と為す。戊申(十七日)、龍門廣化寺に幸して雨を祈る。己酉(十八日)、黒水・女真、皆使を遣わし朝貢す。戊午(二十七日)、鳳州衙内馬步軍都指揮使李継昶を以て涇州節度使・檢校太傅と為す。己未(二十八日)、詔して天下に見禁の罪人、大過無きは、速やかに疏放せしむ。玄元宮に幸して雨を禱る。

六月癸亥、雲州より上言す、去年契丹磧北より帳に帰るや、達靼因り相掩撃し、其の首領於越族帳自ら磧北より部族の羊馬三万を以て来降し、已に南界に到る、今使人を差し来たり闕に赴きて事を奏すと。甲子、太白昼に見ゆ。丁卯、滄州節度使安元信を以て北面行営馬歩軍都排陣使に充つ。辛未、宗正卿李紓を以て昭宗・少帝改卜園陵使に充つ。壬申、京師雨足る。是より大雨、九月に至るまで、昼夜陰晦、未だ嘗て澄霽せず、江河漂溢し、堤防壊決し、天下皆水災を訴う。丁丑、詔す、呉越王銭鏐に行冊礼を行わんとす、礼文に準じ竹冊を用うるに合す、宜しく所司をして玉冊を修製せしむべしと。時に郭崇韜政を秉り、以て不可と為すも、枢密承旨段徊其の事を賛し、故に是の命有り。癸丑、天徳軍節度使・管内蕃漢都知兵馬使劉承訓を以て天徳軍節度観察留後と為す。丙戌、詔して曰く「関内諸陵、頃に喪乱に因り、例に穿穴に遭い、多く未だ掩修せず。其の下宮殿宇法物等は、各令して奉陵州府に所管の陵園に据りて修製せしめ、仍って四時に各旧例に依り薦饗す。毎陵仰せて近陵の百姓二十戸を差し陵戸に充て、以て灑掃に備う。其の寿陵等一十陵も、亦一例に修掩し、量りに陵戸を置く」と。戊子、刑部尚書李琪を以て昭宗・少帝改卜園陵礼儀使に充つ。己丑、工部郎中李途を以て京兆少尹と為し、修奉諸陵使に充つ。辛卯、詔して天下の私馬を括る。(『五代会要』に曰く、詔して河南・河北諸州に下し、戦馬を和市し、官吏は一匹を除く外、匿す者は罪に坐す。)将に蜀を収めんとする故なり。(『三楚新録』に曰く、荘宗高季興に謂ひて曰く「今天下に負固して服さざる者は、惟だ呉・蜀のみ。朕先づ蜀に事有らんと欲すれども、而して蜀地険阻尤も難し。江南は纔かに荊南一水を隔つるのみ、朕之を先にせんと欲す、卿以て何如と為すや」と。季興対へて曰く「臣聞く、蜀地は富民饒にして、之を獲れば大利を建つべし。江南は国貧しく、地狭く民少なく、之を得れば益無きを恐る。臣願はくは陛下呉を釈めて先づ蜀せんことを」と。時に荘宗の意も亦た蜀を伐たんと欲し、季興の言を聞くに及び、果たして大いに悦ぶ。)