舊五代史

唐書七: 莊宗本紀五

同光二年春正月庚子朔、帝は明堂殿に御して朝賀を受け、仗衛は式の如し。壬寅、南郊禮儀使・太常卿李燕が太廟の登歌酌獻の樂舞名を進む。懿祖室を『昭德の舞』と曰し、獻祖室を『文明の舞』と曰し、太祖室を『應天の舞』と曰し、昭宗室を『永平の舞』と曰す。甲辰、幽州より上言す、契丹が寇し瓦橋に至る。(《契丹國志》:時に契丹は日に強盛となり、使を遣わして唐に就き幽州を求め、以て盧文進を処せんとす。)天平軍節度使李嗣源を以て北面行營都招討使と為し、陝州留後霍彥威を副と為し、軍を率いて幽州を援けしむ。己巳、故宣武軍節度副使・權知軍州事・檢校太傅王瓚に太子太師を贈る。丁未、詔して朝元殿を改めて復た明堂殿と為し、又崇勳殿を改めて中興殿と為す。戊申、振武軍節度使・檢校太傅・同平章事李存を以て權知潞州留後と為し、保大軍軍州事を知る高允韜を以て檢校太保と為す。庚戌、涇原節度使・秦王府諸道行軍司馬を充て・開府儀同三司・檢校太尉・兼侍中李從嚴を以て檢校太尉・兼中書令と為し、前に依り涇原軍節度使、秦王府諸道行軍司馬を充つ。詔して應順門を改めて永曜門と為し、太平門を萬春門と為し、通政門を廣政門と為し、鳳明門を韶和門と為し、萬春門を中興門と為し、解卸殿を端明殿と為す。

是の日、詔して曰く「皇綱既に正し、紫禁方に厳なり。凡そ内官の事は、外地に更に居るに合はず。諸道に応に内官有るを詔し、高低を計はず、並びに仰せて逐処に家口を並べて発遣し闕に赴かしめ、輒ち停滞有るを得ず」と。帝の龍潜の時、寺人の数既に五百に及び、是に至り諸道の闕に赴く者を合するに、約千余人、皆優に贍を給し賜い、服玩は華侈にし、事務に委ね、腹心に付す。唐の時、宦官は内諸司使務・諸鎮監軍と為り、王命を出納し、威福を造作し、昭宗は此を以て国を亡ぼす。及て帝天下を奄有するに当たり、前車を戒め、以て殷鑒と為すべく知るに、一朝に茲の弊を復興す。議者之を惜しむ。新羅王金樸英、使を遣わして朝貢す。辛亥、中書門下奏す「本朝の故事に準うれば、諸王・内命婦・宰臣・学士・中書舍人・諸道節度・防禦・團練使・留後の官告は、即ち中書官告院に帖して綾紙褾軸を索め、所司に下して書写印署畢り、進入し宣賜す。其の文武両班及び諸道の官員並びに奏薦の将校は、並びに合して所司に於て朱膠綾紙の価銭を送納すべし。伏して偽梁より、軽重を分かたず、並びに官給に従う。今後もし前件の事例に非ざれば、請う官中告敕を給せず。其の内司大官侍衛将校の転官は、即ち此の限に在らず」と。之に従う。壬子、しょく主王衍、帝に書を致し、詐りて天使と為り、馳せて汴州収復を報ずる者有りと称す。詔して之を捕えしむも、獲ず。癸丑、有司奏す、郊祀の前二日、高祖こうそ・太宗・懿祖・献祖・太祖の神主を太廟に迎祔す。議者以て、唐祚を中興するは、追封の祖を以て有国の君に雑へ昭穆と為すに宜しからず。懿祖已下は、宜しく別に廟を代州に立て、後漢の南陽の故事の如くすべしと。幽州北面軍前より奏す、契丹塞に還る。詔して李嗣源に班師せしむ。鳳翔節度使・秦王李茂貞、表を上り藩臣の礼を行わんことを請う。帝優に之に報ず。甲寅、帝は中興殿に於て面して郭崇韜に鉄券を賜う。有司上言す「皇太后闕に到らば、皇帝は合して銀台門内に於て奉迎すべし」。詔して親しく懐州に至り奉迎す。中書奏す「二十三日後の散斎内は、車駕は合して遠出すべからず」。詔して河陽に至り奉迎するに改む。礼部尚書・興唐尹王正言を以て前に依り礼部尚書、租庸使を充つ。

乙卯、渤海国、使を遣わして方物を貢す。幽州奏す、媯州山後の十三寨の百姓、却って新州に復す。戊午、前太子少師薛廷珪を以て檢校戸部尚書・太子少師致仕と為し、前太子賓客封舜卿を太子少保致仕と為し、前太子賓客李文規を戸部侍郎致仕と為す。詔して塩鉄・度支・戸部は並びに租庸使に委ね管轄せしむ。庚申、四方館上言す「請う今後、随駕の将校及び外方の進奉専使文武班三品以上の官を除き、内殿にて対見すべし。其の余は並びに正衙に詣り、以て常礼を申すべし」と。之に従う。車駕河陽に幸し、皇太后を奉迎す。辛酉、帝は皇太后に侍して至る。文武百僚は上東門に迎う。是の日、河中府上言す、稷山県は絳州に割隷す。太僕卿李紓を以て宗正卿と為し、衛尉卿楊遘を太僕卿と為す。西京昭応県華清宮の道士張衝虚上言す、天尊院の枯檜、枝葉を再生す。乙丑、有司上言す「南郊にて太廟を朝享するは、旧例親王を以て亜献・終献の行事を充つ」。乃ち皇子継岌を以て亜献と為し、皇弟存紀を終献と為す。丙寅、帝は明堂殿に赴き斎を致す。丁卯、太微宮に朝饗す。戊辰、太廟を饗し、是の日南郊に赴く。

二月己巳朔、親しく昊天上帝を圜丘に祀る。礼畢り、宰臣は百官を率いて次に就き賀を称し、還りて五鳳楼に御す。制を宣す「天下に大赦す。応に同光二年二月一日昧爽以前に、犯せる罪軽重を問わず常赦の原ゆる所に非ざる者は、咸く赦除す。十悪五逆・牛を屠り銭を鋳る・故意に人を殺す・毒薬を造るに合する・杖を持ち行劫す・官典贓を犯すは、此の限に在らず。応に自ら来たり功を立てたる将校は、各転官を与え、仍お賞給を加う。文武常参官・節度・観察・防禦・刺史・軍主・都虞候・指揮使の父母亡歿する者は、並びに追贈を与え、在る者は各爵を加え封を増す。諸藩鎮には各一子に出身を賜い、仍お功臣の名号を封ず。留後・刺史は、官高き者は階爵一級を加え、官卑しき者は官一資を加う。応に本朝内外の臣僚にして、朱氏に殺害せられたる者は、特ち追贈を与う。応に諸州府は富室をして分外に現銭を収貯せしむるを得ず、工人の銭を熔かして銅器と為すを禁じ、商人をして銭を載せて境外に出さしむる勿れ。近年已来、婦女の服飾、異常に寛博にして、縑綾を倍費す。力有るの家は、卑賤を計わず、悉く錦繡を衣す。宜しく所在に糾察せしむべし。応に百姓婦女にして、曾て俘擄せられ他処に婢妾と為りし者は、一任せて骨肉に識認せしむ。男子曾て面を刺さるる者は、憑拠を与え、放逐して営生せしむ。天下に書籍を進納する能有る者を召し、各等第に酬奨す。仰せて有司に速やかに天下の戸口正額・墾田実数を検勘せしめ、条理を憑みて以て煩苛を息ましむ」と。是の日、風景和暢にして、人胥く悦服す。議者云う、五十年來此の盛礼無しと。然れども此より権臣愎戾にして、伶官事を用い、吏人孔謙は酷く賦斂を加え、赦文の原放する所を、謙復た刻剝して行わず、大いに人心を失う。此に始まる。

庚午(の日)、租庸使孔謙が上奏して言うには、「諸道の綱運客旅は、多く私路において商税を免れようとしている。所在の関防に厳しく取り締まるよう命じることを請う」と。これに従う。癸酉(の日)、宰臣豆盧革が百官を率いて尊号を上奏し、昭文睿武至徳光孝皇帝と称し、凡そ三度上表し、これに従う。甲戌(の日)、詔して曰く、「汴州は元来開封・浚儀・封丘・雍丘・尉氏・陳留の六県を管轄していたが、偽庭(後梁)が許州の鄢陵・扶溝、陳州の太康、鄭州の陽武・中牟、曹州の考城等の県を割いてこれに属させた。その陽武・匡城・扶溝・考城の四県は、宜しく汴州に暫く隷属させるべく、残りは本来の所属に戻す」と。丙子(の日)、随駕参謀耿瑗を司天監とする。丁丑(の日)、光禄大夫・検校司徒しと李筠を右騎衛上将軍とする。

戊寅(の日)、李嗣源の邸宅に行幸し、音楽を奏で、歓を尽くして罷る。己卯(の日)、河中節度使・冀王李継麟を安邑・解県両池榷塩使を兼ねさせる。辛巳(の日)、検校太師・守尚書令しょうしょれい・河南尹・判六軍諸衛事・魏王張全義を守太尉・兼中書令・河陽節度使・河南尹とし、斉王に改封する。開府儀同三司・守尚書令・秦王李茂貞を前の通り秦王に封じ、その他は元の通りとし、なお拝礼せず、名を呼ばれぬ特典を賜う。(《五代会要》:太常礼院が上奏して言うには、「李茂貞の封冊の命は、故襄州節度使趙匡凝の例に準じて施行すべきである。秦王が冊を受けるには、自ら革輅一乗を備え、冊を載せる犢車一乗、並びに本品の鹵簿鼓吹を儀式の通りとする」と。これに従う。)この日、帝は左龍武軍に行幸する。癸未(の日)、宰臣豆盧革が百官を率いて上表し、中宮(皇后)の立后を請う。制を下し、魏国夫人劉氏を皇后とし、なお所司に命じて日を選び礼を整えて冊命させる。

丁亥(の日)、天平軍節度使・蕃漢総管副使・開府儀同三司・検校太傅・兼中書令李嗣源を検校太尉とし、前の通り天平軍節度使とし、実封百戸を加え、兼ねて鉄券を賜う。前安国軍節度副使・検校太保・左衛上将軍李存乂を晋州節度使・検校太傅とする。北京皇城留守・検校太保・左威衛上将軍李存紀を邢州節度使とし、検校太傅を加える。蕃漢馬歩都虞候兼東京馬歩軍都指揮使・検校太保朱守殷を振武節度使とし、検校太傅を加える。戊子(の日)、前右龍武軍都虞候・守左龍武大将軍李紹奇を鄭州防禦使とし、楚州防禦使張継孫を汝州防禦使とする。己丑(の日)、振武軍節度使・権安義留後・検校太傅・平章事李存覇を潞州節度使とし、捧日都指揮使・鄭州防禦使李紹琛を陝州節度使とし、成徳軍馬歩軍都指揮使・右監門衛大将軍毛璋を華州節度使とする。壬辰(の日)、枢密使郭崇韜が再び上表し、枢密の職を退くことを請う。優詔を下して許さず。

癸巳(の日)、詔して曰く、「皇太后は天下の母儀たり、群生を子の如く視る。別に宮闈を建て、名号を顕かに標すべきであり、称謂により益々尊厳を表すことを望む。宜しく長寿宮を以て名とすべし」。枢密使郭崇韜が時務の利便十五件を上奏する。優詔を下して褒め称える。甲午(の日)、奚王李紹威・吐渾李紹魯、皆駱駝と馬を貢ぐ。丁酉(の日)、武安軍衙内馬歩軍都指揮使・昭州刺史馬希範を永州刺史・検校太保とする。癸卯(の日)、光禄大夫・検校左僕射・行太常卿李燕を特進・検校司空しくうとし、前の通り太常卿とする。御史中丞李徳休を兵部侍郎とする。吏部侍郎崔協を御史中丞とする。

三月甲辰(の日)、故河陽節度使王師範に太尉を追贈する。乙巳(の日)、滄州節度使・検校太傅・同平章事符習を青州節度使とし、北京衙内馬歩軍都指揮使・右領軍衛大将軍李紹斌を滄州節度使とする。鎮州が上奏し、契丹が辺境を侵犯したと。詔して李嗣源に命じ、師を率いて邢州に駐屯させる。丙午(の日)、荊南節度使・守中書令・渤海王高季興を前の通り検校太師・兼尚書令とし、南平王に封ず。幽州節度行軍司馬李存賢を前の通り検校太保とし、幽州節度使とする。中書門下が上言して言うには、「近頃、諸州が令録(県令・主簿)を奏薦するのに、規程が頗る乱れている。今後は節度使が三州以上を管轄する者は、毎年管内の官三人を奏薦することを許す。三州以下を管轄する者は、ただ二人のみを奏薦すべし。なお課績が特に優れていることを必要とし、初めて上聞に達し得る。防禦使はただ一人の奏薦を許すのみ。刺史には奏薦の例無し」と。これに従う。己酉(の日)、太子少保李琪を刑部尚書とする。

庚戌(の日)、幽州が上奏し、契丹が新城を寇すと。この日、詔して曰く、「諸軍の将校で、検校司空以下の者は、宜しく葉謀定乱匡国功臣を賜う。検校僕射・尚書・常侍及び諫議大夫以下の者は、並びに忠果拱衛功臣を賜う。初めて憲銜(御史台官の職名)を帯びる者は、並びに忠烈功臣を賜う。節級長行(下級兵士)は、並びに扈蹕功臣を賜う」。中書門下が上言して言うには、「州県官が在任中に考課が満了したならば、即に関文を具えて申し送り吏部格式に従うべきであり、本道は摂官(代理官)を差して正官に替えることはできない」と。これに従う。(《五代会要》:同光二年、中書門下が上奏して言うには、「刺史・県令で政績が特に優れ、衆に知られる者、或いは戸口を回復し、賦税を増加できる者、或いは冤獄を弁雪し、人命を救える者、或いは物を害する積弊を除き、世に利する新規を立て、時政に益あり、衆に推される者は、即ち本処において逐件分明に聞奏させ、賞擢を議すべきである。或いは在任中に貪猥で、生霊を誅戮し、公事を治めず、政を怠惰にする者は、亦罰を加うべし。その州県官が任満三考(三回の考課)に達したならば、即に関文を具えて申し送り吏部格式に従い、勅を待って除授銓注すべく、その本道は摂官を差して正授の者に替えることはできない」と。これに従う。)有司が上言して言うには、「皇帝が四月一日に文明殿に御し、徽号を受冊するに、袞冕を服すべきであり、御殿の前一日に、内殿において散斎すべきである」と。これに従う。この日、李嗣源が上表して兵権を退くことを乞う。詔して許さず。この時、伶人景進が権勢を握り、宦官が競って進み出たため、重臣は憂懼し、章を奉じて退くことを請うた。癸丑(の日)、左諫議大夫竇専が上言して言うには、「租庸使の名目を廃し、事を三司に帰することを請う」と。疏が奏上されたが、回答無し。唐州が上奏し、木が連理(枝が連なる)したと。詔して曰く、「先に省員された官で、既に別に官を授けられた者を除き、その左散騎常侍さんきじょうじ李文矩等三十人は旧官に復し、太子詹事石戩等五人は宜しく本官を以て致仕とし、将作少監岑保嗣等十四人は続いて勅を以て処分すべし」。丙辰(の日)、責授萊州司戸鄭玨等十一人を並びに近地に量移する。尚書戸部侍郎・知貢挙趙頎が卒す。中書舎人裴皞を以て権知貢挙とする。鉛錫銭の使用を禁ず。

丁巳(丁巳の日)、中書門下が奏上して言う、「懿祖の陵は永興と名づけ、献祖の陵は長寧と名づけ、太祖の陵は建極と名づけることを請う」と。これに従う。淮南の楊溥が使者を遣わして郊天の礼の賀礼を貢ぐ。戊午(戊午の日)、詔して応に南郊行事の官は、並びに三銓に付して磨勘し、優に処分を与うべしとす。己未(己未の日)、大理卿張紹珪を以て製置安邑・解県両池榷塩使に充てる。左龍武軍に幸す。皇子継岌が張全義に代わり六軍諸衛事を判ずるが故なり。癸亥(癸亥の日)、彰武・保大等軍節度使、北平王高萬興を以て前の如く延州鄜州節度使、検校太保、兼中書令、北平王とすべしとす。甲子(甲子の日)、東宅に幸す。

夏四月己巳朔(己巳の朔日)、帝は文明殿に御し、袞冕を具え、冊を受け尊号を昭文睿武至徳光孝皇帝と曰う。壬申(壬申の日)、成徳軍節度行軍司馬、権知府事任圜を以て検校右僕射、権北面水陸転運製置使とす。甲戌(甲戌の日)、順義軍留後華温琪を以て前の如く検校太保、留後を充てる。乙亥(乙亥の日)、天策上将軍、武安等軍節度使、守太師、中書令、楚王馬殷を以て前の如く守太師、兼尚書令とすべしとす。詔して在京の諸道節度使、刺史、令は各々本任に帰るべしとす。丁丑(丁丑の日)、前幽州節度使、内外蕃漢馬歩総管、検校太師、兼中書令李存審を以て宣武軍節度使とし、余は故の如し。

己卯(己卯の日)、帝は文明殿に御し、魏国夫人劉氏を冊して皇后とす。庚辰(庚辰の日)、霍彦威に姓を賜い、名を紹真と曰う。癸未(癸未の日)、宋州節度使李継安を以て前の如く検校太尉、同平章事、宋州節度使とす。許州節度使李継衝を以て前の如く検校太尉、同平章事、許州節度使とす。襄州節度使孔(孔勍か)を以て前の如く検校太傅、同平章事、襄州節度使とす。甲午(甲午の日)、枢密副使、通議大夫、行内侍省内侍宋唐玉を以て左監門衛将軍同正、前の如く枢密副使とす。内客省使、通議大夫、行内侍省内侍楊希朗を以て右監門衛将軍同正、前の如く内客省使とす。並びに推忠匡佐功臣を賜う。車駕は龍門に幸す。丙戌(丙戌の日)、回鶻が使いを遣わして方物を貢ぐ。己丑(己丑の日)、夏州節度使李仁福を以て前の如く検校太師、兼中書令、夏州節度使とし、朔方王に封ず。朔方・河西等軍節度使韓洙を以て前の如く検校太傅、兼侍中、朔方・河西等軍節度使、霊・塩・威・警・雄・涼・甘・粛等州観察使を充てる。辛卯(辛卯の日)、宣徽南院使、判内侍省、兼内局、特進、左監門将軍同正李紹宏を以て右領軍衛上将軍とす。癸巳(癸巳の日)、静江軍節度使、扶風郡王馬賨を以て検校太師、兼中書令、前の如く静江軍節度使とす。朗州節度使馬希振を以て検校太傅、兼侍中、前の如く朗州節度使とす。鳳翔節度使、秦王李茂貞薨ず。

丙申(丙申の日)、潞州の小校楊立が城に拠りて叛く。李嗣源を以て招討使とし、陝州留後李紹真を副とし、師を率いてこれを討たしむ。