舊五代史

唐書九: 莊宗本紀七

同光三年秋七月丁酉、久雨のため、詔して河南府に法に依り晴を祈らしむ。滑州上言す、黄河決す。壬寅、皇太后長寿宮に崩御す、帝内にて喪に服し、遺令を出して外に示す。癸卯、帝長寿宮にて成服し、百官長寿宮の幕次にて成服の後、殿前にて班を立て奉慰す。乙巳、宰臣上表して聴政を請う、允さず。表再び上る、勅旨すべからく朝を廃すること七日とす。丁未、宏文館上言す、「請う《六典》に依り、宏文館を改めて崇文館と為さん」と。これに従う。時に枢密使郭崇韜の亡父の名は宏、豆盧革崇韜の意を迎え、奏してこれを改む。洛水漲き溢れ、天津橋を壊し、舟を以て渡しをなすも、日に覆溺する者あり。己酉、宰臣百官上表し、聴政を請う。また常膳を復するを請い、表凡そ三たび上る。刑部尚書李琪を以て大行皇太后山陵礼儀使と充て、河南尹張全義を以て山陵橋道排頓使と充て、孔謙を以て監護使と充つ。壬子、河陽・陝州上言す、河岸を溢る。礼部尚書王正言を以て戸部尚書と為し、御史中丞崔協を以て礼部尚書と為し、刑部侍郎・史館修撰・判館事崔居儉を以て御史中丞と為し、尚書左丞帰靄を以て刑部侍郎と為す。陝州上言す、河二丈二尺漲り、浮橋を壊し、城門に入り、居人に溺死者あり。乙卯、汴州上言す、汴水漲き溢れ、城池の漂没を恐れ、州城の東西に権に壕口を開き、水を古河に引き入る。沢潞上言す、今月一日より雨、十九日に至るまで未だ止まず。戊午、刑部尚書・判太常卿兼判吏部尚書銓事李琪を以て吏部尚書と為し、前に依り判太常卿す。兵部侍郎・集賢殿学士・判院事盧文紀を以て吏部侍郎と為し、給事中李光序を以て尚書右丞と為す。許州・滑州奏す、大水。

八月壬戌、詔して諸司の人吏、諸処に奏薦するを許さず、もし労績あらば、ただ本司の奏聞を許す。詔して有司に、呉越王の印は宜しく黄金を以て鑄成すべく、その文は「呉越國王之印」と曰うとす。丁卯、帝服を釈く、百官長寿宮にて奉慰す。戊辰、客省使李嚴しょくより使い回る。初め、帝蜀中の珍玩を市わしむるを令す。蜀の法峻厳にして、奇貨の東出を許さず、その許して市うものを「入草物」と謂う。嚴珍貨を得ず、帰りてこれを奏す。帝大いに怒りて曰く、「物中夏に帰するもの命じて『入草』と曰う、王衍豈に入草の人たるを免れんや」と。ここによりて蜀を伐つ意鋭し。庚辰、寿安山陵の作所に幸す。鄴都大水、御河漲き溢る。癸未、河南県令羅貫崖州に長流し、尋で河南府に委ねて痛杖一頓を決し、処死す。部内の橋道修めざるに坐する故なり。死するに及び、人皆これを冤とす。甲申、山陵礼儀使奏す、「山陵封城の内、先に丘墳あり、合うに子孫をして改卜せしむべし。旧例その所費を給し、子孫なき者は官これを瘞蔵す。もし是れ五品以上の官なれば、所司なお礼を以て祭を致す」と。これに従う。鳳翔奏す、大水。己酉、中書門下上言す、「礼儀使の状に拠るに、故事に準うれば、太常少卿大行太后の諡議を定め、太常卿署定し訖り、天地宗廟に告ぐ。伏して礼文に準うれば、賤は貴を誄うを得ず、子は母を爵うを得ず、後必ず廟に諡するは、祖宗に成を受く。今大行太后の諡は、請う太常卿署定の後、百官を集めて連署の諡状し訖り、太廟太祖皇帝の室に読み、然る後に丞郎一人を差し冊文を撰し、別に日を定め、太尉を命じて諡冊を西宮の霊座に上せしめ、同日官を差し天地・太微宮・宗廟に告げ、常の告の儀の如くせん」と。これに従う。青州大水・蝗。己丑、襄州留後李紹珙を以て襄州節度使と為し、邠州留後董璋を以て邠州節度使と為す。

九月辛卯朔、河陽奏す、黄河一丈五尺漲る。癸巳、中書上言す、「大行皇太后の諡議合うに太廟太祖の室に読むべく、その日、両省御史台五品已上・尚書省四品已上・諸司三品已上の官を集め、太廟に序立せしむ」と。これに従う。鎮州・衛州奏す、水城に入り、廬舎を壊す。乙未、制して第三子鄴都留守・興聖宮使・検校太尉・同平章事・判六軍諸衛事継岌を封じて魏王と為す。寿安陵に幸す。庚子、襄州奏す、漢江漲き溢れ、廬舎を漂溺す。是の日、命して大いに蜀を伐たしむ。詔して曰く、

朕夙に丕基を荷い、乍く偽室を平ぐ。四海を寵綏し、萬邦を協和せざるに非ず。正朔を以て遐に同じくし、人倫の序あるを俾わんことを庶う。その或いは地は陬裔に居り、位は驕奢に極まり、大に事うるの規に殊に乖き、ただ安きを偸むの計を蘊むは、則ち必ず諸の典訓を征し、皇威を以て振う。爰に罪を伐つの師を興し、乱常の党を遏がんことを冀う。蠢くこと茲の蜀主、世に唐恩を負う。間者父藩宣を総べ、君統製に任ず。朱温の汴水を東離するに属し、昭皇の岐陽に西幸するを致して、扶持を務めず、反って顧望を懐う。剣南の土宇を盗み据え、閫外の忳誠を全く虧く。先皇帝早く並門に在り、将に業を興さんとす。彼既に書幣を馳せ会わしめ、此もまた復た謝儀を展ぶ。後に又た特に使人を発し、専ら聘礼を持たしむ。彼は則ち更に一介の使を回さず、咫尺の書に答えず。星歳俄に移り、歓盟頓に阻まる。朕頃に遺訓に遵い、列藩を嗣統す。昔日の来誠を追い、先皇の旧好を継ぎ、累たび信幣を馳すも、皆酬還を絶つ。恵に背き言を食らい、同を棄てて即くに異を以てす。今孽豎の山河に紹き据えるを観る。閹宦に委ねて権を持たしめ、阻修に憑りて号を僭す。早く者、曾て秦王の緘札に上り、蜀地の声塵を張皇し、侮黷の言辞を形し、親賢の勲徳を謗る。昨朕風のごとく鋭旅を駆り、電のごとく凶渠を掃う。已に墜つるの宗祧を復し、中興の曆数を纘ぐ。捷音旋って報ずるも、復命仍て稽る。使来たりて尚ほ書題に抗し、情動いて先ず険固を誇る。加以宋光葆輒ち狂計を陳べ、別に奸謀を啓く。将に北は秦川を顧み、東は荊渚を窺わんと欲す。人にして礼無き、罪これより大なるは莫し。

先に客省使李厳が使節として銅梁に赴き、近ごろ金闕に帰還したが、奏上と応対において、詳細に事情を述べた。その宋光嗣と会見した際、座席上で早速に言説があり、まず契丹の強弱を問い、次に秦王の是非を論じた。この包蔵するものを推し量れば、その情状が見える。さらに忠直の臣を疎遠にし、奸雄の輩と朋党を結ぶ。内にあっては軽薄華美に身を任せ、寵位を貪り競い、外にあっては法令を濫用し、生民を蠹耗する。既にその徳と力を量らず、神祇の共に憤る所となっている。今、興聖宮使・魏王継岌を西川四面行営都統に任じ、侍中・枢密使郭崇韜を西川東北面行営都招討制置等使に任じ、荊南節度使高季興を西川東南面行営都招討使に任じ、鳳翔節度使李厳を供軍転運応接等使に任じ、同州節度使李令徳を行営招討副使に任じ、陝府節度使李紹琛を行営蕃漢馬歩軍都排陣斬斫使に任じ、西京留守張筠を西川管内安撫応接使に任じ、華州節度使毛璋を行営左廂馬歩都虞候に任じ、邠州節度使董璋を行営右廂馬歩都虞候に任じ、客省使李厳を西川管内招撫使に任じ、闕下の諸軍を総領させ、兼ねて西面諸道の馬歩兵事を管掌させ、九月十八日に進発させる。凡そ中外の者、朕が思いを体せよ。

辛丑の日、魏王継岌に諸道行営都統を授け、その他の官職は元の通りとした。継岌が都統の命を受けると、梁漢顒を中軍馬歩都虞候兼馬歩軍都指揮使に充て、張廷蘊を中軍歩軍都指揮使とし、牛景章を中軍左廂馬軍都指揮使に充て、沈斌を中軍右廂馬軍都指揮使に充て、卓瑰を中軍左廂歩軍都指揮使に充て、王贄を中軍右廂歩軍都指揮使に充て、供奉官李従襲を中軍馬歩軍都監に充て、高品の李廷安・呂知柔を魏王衙の通謁に充てた。詔して工部尚書任圜・翰林学士李愚に魏王の軍事に参与させた。丁未の夜、天に陰雲が偏り、北方に雷のような音があり、野雉が皆鳴いた。俗にいう「天狗落」である。戊申の日、魏王継岌・枢密使侍中郭崇韜が西征に進発した。太子少師致仕の薛廷珪が卒去し、右僕射を追贈された。甲寅の日、寿安陵に行幸した。司天が上奏して言うには、「七月三日より大雨が続き、九月十八日後にようやく晴れ、三辰の運行が見えなかった」と。丁巳の日、尖山に行幸して雁を射た。

冬十月庚申の朔日、宰臣及び文武三品以上の官が長寿宮に赴き、大行皇太后に諡して貞簡皇太后と奉った。辛酉の日、甘泉に行幸し、ついで寿安陵に行幸した。壬戌の日、魏王継岌が軍を率いて鳳翔に至り、先に使者を遣わして檄文を馳せて蜀部に諭した。丁卯の日、皇太后の尊諡宝冊を奉じて西京の廟座に赴き、宰臣豆盧革が太尉を摂りて冊文を読み、吏部尚書李琪が宝文を読み、百官は素服で、長寿宮門外に班列して奉慰した。淮南の楊溥が使者を遣わして慰礼を進めた。己巳の日、中書が上言して言うには、「貞簡太后の陵は坤陵と名づけることを請う」と。これに従った。初め山陵を卜した時、帝は代州の武皇陵に合葬しようとしたが、奏議に「天子は四海を家とす、その南北を分つべからず」とあった。そこで寿安県の界内に別にこの陵を卜した。(《五代会要》に載せる中書門下の奏議に云く、「人君は四海を家とす、その南北を分つべからず。洛陽らくようは帝王の宅にして、四時の朝拝、礼は便近を須い、遠く代州に幸する能わず。今、漢朝の諸陵は皆秦雍に近く、国朝の陵寝は京畿に布列す。後魏の文帝が代より洛に遷りし後、園陵は皆河南に在り、兼ねて功臣の家に勅して北に葬るを許さず、今、魏氏の諸陵尚お京畿に在り。代州に合葬するは、理未だ允ならず」と。これに従う。)

丙子の日、前翰林学士・戸部侍郎馮道を前の本官のまま職務に充てた。戊寅の日、西征の軍が大散関に入った。(《九国志・趙廷隠伝》に云く、敵境に入るや、即ち兵士に廬舎を焚き、財物を掠むるを禁じ、蜀人はこれを徳とした。)偽命の鳳州節度使王承捷・故鎮屯駐指揮使唐景思が次第に迎えて降り、兵一万二千・軍儲四十万を得た。また三泉を下し、軍儲三十余万を得た。ここよりより軍に匱乏なく、軍声大いに振るった。辛巳の日、偽興州刺史王承鑒・成州刺史王承樸が城を棄てて遁走し、康延孝が三泉において蜀軍を大破した。時に王衍は秦州に行幸せんとし、その軍五万を利州に屯させた。我が軍の至るを聞き、歩騎三万を遣わして三泉において逆戦せしめたが、延孝と李厳が勁騎三千をもってこれを撃ち、蜀軍は大敗し、首級五千を斬り、余衆は奔り潰えた。王衍は敗報を聞き、利州より奔り帰って成都に至り、吉柏津を断ち、浮橋を去った。丁亥の日、文武百官が上表し、貞簡皇太后の霊駕が発引するに当たり、車駕が山陵の所に至らざることを請うた。戊子の日、貞簡太后を坤陵に葬った。己丑の日、魏王継岌が興州に至ると、偽東川節度使宋光葆が梓・綿・剣・龍・普の五州をもって来降し、武定軍使王承肇が達・蓬・璧の三州をもって来降し、興元節度使王宗威が梁・開・通・渠・麟の五州をもって来降し、階州刺史王承嶽が符印を納めて命を請い、秦州節度使王承休は城を棄てて自ら扶路より西川に奔った。(《太平広記》が引く《王氏見聞記》に云く、王承休は天水に鋭兵を握りながら、兵刃を挙げず。既に東軍の蜀に入るを知り、遂に麾下の師及び婦女孩幼一万余口・金銀繒帛を擁し、西蕃において路を買って蜀に帰らんとした。沿路西蕃に擄掠奪われ、凍餓相踏みて死に、蜀に至るに及んで、存する者百余り、唯だ田宗汭等と身を脱して至るのみ。魏王人をしてこれを問わしめて曰く、「親しく重兵を握りながら、何ぞ戦わざる」と。曰く、「大王の神武を畏れ、その鋒に当たる敢えざるなり」と。曰く、「何ぞ早く降らざる」と。曰く、「蓋し王師の封部に入らず、款を納るる門なきに縁る」と。曰く、「初め蕃部に入る時幾許の人ぞ」と。曰く、「一万余口」と。「今存する者幾何ぞ」と。曰く、「僅かに百数に及ぶ」と。魏王曰く、「汝は万人の命を償うべし」と。遂にこれを斬った。)

十一月庚寅の朔日、帝は寿安に行幸し、坤陵において号慟した。戊戌の日、振武節度使朱守殷を兗州節度使とした。徐州・鄴都より上言あり、十月二十五日の夜、大地震があったと。康延孝が利州に至り、吉柏津の浮橋を修復した。偽昭武軍節度使林思諤が来降した。辛丑の日、魏王が利州を過ぎ、帝は王衍に詔を賜い、禍福を諭した。甲辰の日、魏王が剣州に至ると、偽武信軍節度使王宗寿が遂・合・渝・瀘・忠の五州をもって来降した。丁未の日、高麗国が使者を遣わして方物を貢した。康延孝・李厳が漢州に至ると、王衍が人を遣わして牛酒を送り降伏を請い、李厳は遂に先んじて成都に入った。戊申の日、貞簡皇太后の神主を太廟に合祀した。

己酉(の日)、魏王(李継岌)が綿州に至ると、王衍は使者を遣わし上箋して帰順を申し出た。庚戌(の日)、皇弟たる鄆州節度使李存霸、滑州節度使李存渥、左金吾大将軍・晋州節度使李存乂、邢州節度使李存紀は、いずれも起復を授かり雲麾将軍・右金吾大将軍同正となった。荊南節度使高季興が奏上して、帰州・夔州・忠州等を収復したと報告した。辛亥(の日)、魏王が徳陽に至った。偽(蜀)の六軍使王宗弼が報告して、王衍が一家を挙げて西宅に移り、宗弼が権(仮)に西川兵馬留後を称したこと、また偽枢密使宋光嗣・景潤澄、宣徽使李周輅・歐陽晃らが同じく異謀を抱き、蜀主を惑乱したため、すでに梟斬し終えたことを伝えた。壬子(の日)、王衍が使者を遣わし上表して降伏を請うた。癸丑(の日)、呉越国の馬歩統軍使・検校太傅銭元球を検校太尉・守侍中とし、静海軍節度使を充てた。乙卯(の日)、魏王が西川城北に至った。丙辰(の日)、蜀主王衍が出降した。詳細は王衍伝にある。

丁巳(の日)、大軍が成都に入城し、法令は厳峻で、市は店を変えず(平穏であった)。出師以来わずか七十五日で、蜀は平定され、兵士三万、兵器七百万、糧食三百五十三万、銭一百九十二万貫、金銀合わせて二十二万両、珠玉犀象二万、紋錦綾羅五十万を得、節度州十、郡六十四、県二百四十九を獲得した。己丑(の日)、礼儀使が奏上して言うには、「貞簡皇太后の升祔(合祀)の礼が終わりましたので、一切の宗廟の伎楽および諸祭祀は従来通りとすべきことを請います」。これに従った。十二月壬戌(の日)、前雲州節度使李存敬を同州節度使とした。同州節度使・検校太保・同平章事李令徳を遂州節度使とした。邠州節度使・検校太保董璋を剣南東川節度副大使・知節度事とした。華州節度使毛璋を邠州節度使とした。左金吾大将軍史敬熔を華州節度使とした。丁卯(の日)、武寧軍節度副使李紹文を兗州観察留後とした。庚午(の日)、諸王と武臣を長春殿で宴し、初めて楽を用いた。丙子(の日)、北京副留守・太原尹孟知祥を検校太傅・同平章事・成都尹・剣南西川節度副大使・知節度事・西山八国雲南都招撫等使とした。戸部尚書王正言を検校吏部尚書・守興唐尹とし、鄴都副留守を充てた。鄴都副留守・興唐尹張憲を検校吏部尚書・太原尹とし、北京副留守・知留守事を充てた。

己卯(の日)、臘辰(臘祭の日)に白沙で狩猟を行い、皇后・皇子・宮人ことごとく従った。庚辰(の日)、伊闕に駐留した。辛巳(の日)、潭泊に駐留した。壬午(の日)、龕澗に駐留した。癸未(の日)、宮中に還った。この時大雪で寒さが厳しく、官吏・兵士で路上に凍死する者があった。伊州・汝州の民は、飢え困窮すること特に甚だしく、衛兵の到るところ、その供給を責め立て、既に給することができないと、その什器を壊し、その廬舎を撤去して焼き払い、掠奪よりも酷かった。県吏は畏れ恐れ、山谷間に逃げ隠れた。甲申(の日)、御札を出して中書門下に示し、今年の水害が異常であり、各地の人戸が流亡し、征賦を避けていること、関市の徴税が抽納煩雑であるため、宜しく宰臣に命じて相談し条奏すべきであるとした。丙戌(の日)、第三の姑(父の妹)宋氏を義寧大長公主に封じ、長姉孟氏を瓊華長公主に封じ、第十一の妹張氏を瑤英長公主に封じた。

閏十二月甲午(の日)、中書門下に詔を賜って言うには:

朕は聞く、古の先哲の王、天下に臨御するは、上は則ち偏り無く党せずを以て至治と為し、次は則ち食を足し兵を足すを以て遠謀と為すと。遥かに前修を思い、誠に師範とすべきである。朕は鳳暦を継承し、鴻図を守り継いで、三年に及び、万機を総べている。五兵未だ止まず、兆民多く艱難にあることを知らぬにあらず。卿等が恭しく誠を抱き、安民済世を務としていることに頼り、数輿(衆人の心)の理を尽くし、盍徹(十分の一の税)の規を深く尋ねんことを望む。今、密かに地方を按察し、巷の風俗を詳しく聞けば、力役にその労逸を均しくせざるものあり、賦租にその後先を弁えざるものあり、ただ督促を名目とし、煩苛止むことなし。甲冑を着る者は何嘗充給せられ、朝省に趨る者は転じて支持に困窮す。州閭の貨殖は全く疎らに、天地の災祥は屡々応ず。星辰の度を越え、旱澇時にあたらず、農桑は丘園に失業し、餓死者は郊野に相望むに至る。生霊ここに至り、寝食どうして安んじられようか。これ朕の徳政未だ信を致さず、焦労自ら拙きによるにあらずや。

朕は先ごろ自ら筆を執り、民の傷みを深く念い、一つには汝らの謀猷を詢ね、一つには朕の宵旰(夜遅く早朝)の労を表した。未だ来奏を披かずして、転じて懐を悩ます。敢えず翼翼として躬を罪し、乾乾として慮を痛む。汝ら四嶽(四方の諸侯・重臣)に諮る、一人たる朕を輔けよ。何ぞ賢才を挙げて、寡昧(朕の無知)を裨益せざる。百辟(百官)の内、群後(諸侯)の間に、尽忠する者にしてその能を掩われ、器を抱く者にしてその力を陳べ難きもの無からざるは。あるいは草沢に遺逸の士あり、山林に屈滯の人多くおらん。汝らの知らざる所を、朕将に安くか訪わん。卿等は位は調鼎(宰相)に尊く、名は天を代わるに顕われ、既に不諱(忌憚なき)の朝に逢えるに、何ぞ衷心の説を惜しまん。まさに宜しく歴(広く)に中外に告げ、英髦を急ぎ訪うべし。仕官にある者及び前資文武官以下より、草沢の士に至るまで、国を済い民を治め、奸を除き弊を革むる者あるは、並びに宜しく各々封章を献ずべく、朕は選択して施行せん。先ごろ宣べた御札も、また内外に告諭し、朕が意を体せよ。

この時、両河(黄河の南北)に大水があり、戸口の流亡するもの十の四五に及び、都下の供饋充足せず、軍士は食に乏しく、ついに子を売り妻を去り、老弱は野に採拾し、餓死者が行路に倒れる者があった。州郡は飛挽(急送の輸送)して、直ちに京師に給し、租庸使孔謙は日々上東門外に佇立してその来るのを待ち、計算して給した。加うるに所在泥濘し、輦運艱難で、愁歎の声、道路に満ち、四方地震し、天象乖離した。帝は深くこれを憂い、所司に救済の術を問うた。孔謙は吏から進んだ者ゆえ、邦を保ち民を済す要務は無く、ただ急刻な賦斂を事とするのみであった。枢密承旨段徊が奏上して言うには、「臣は本朝(唐)の時に、時に歳時の災饉に遇い、国費足らざる時、天子が経済の要を求めんとすれば、則ち内より朱書の御札を出し、以て宰臣に訪ねました。陛下もこの故事に依ってこれを行われますように」。即ち学士に詞を草させ、帝自ら御札を以て宰臣に訪ねたが、帝の民を憂うる実意ではなかった。時に宰相豆盧革らは迎合して旨に従い、竟に陳べる所無く、ただ「陛下の威徳は天下に冠たり、今西蜀平定し、珍宝甚だ多く、以て軍に給すべし。水旱が災いをなすは、天の常道にして、以て聖憂を貽すに足らず」と言うのみであった。中官李紹宏が奏上して言うには、「魏王が軍を還した後、もし兵額漸く多くなり、饋挽給し難きに至れば、請う、暫く汴州に幸して、漕挽に便ならしめん」。時に群臣の議を献ずる者も多く、おおよそ詞理迂闊で、時病(時弊)に中らず。ただ吏部尚書李琪のみが、古の田租の法を引き、権に従い弊を救うの道を以て、上疏してこれを論じ、帝は優詔を以てこれを奨めた。

丁酉(の日)、偽蜀の私署官員らに詔して曰く、「名と器は、人に仮すべからず、況んや是れ遐僻の偏方に在りて、僭窃の偽署を為す者、時に因りて乱れ濫りに名位を称し、国体に帰して悉く削除すべし。但だ本朝の屯否の時に当たり、歴代の簪纓の士有りて、既に彼の土に陷り、遂に偽官を授けられたるを恐る。又慮うに、曾て本朝の渥恩を受け、当時に已に班秩に居りし者ありて、須らく升降を為すべく、通同すべからざるを。応に偽署の官、太師・太傅及び三少に至り、並びに太尉・司徒しと司空しくう・侍中・中書令・左右僕射已上は、並びに宜しく六尚書に降すべく、臨時に更に偽署の高低に約して六行の次第と為す。階、開府・特進・金紫に至る者は、宜しく文班は朝散大夫に降じ、武班は銀青に降ずべし。爵、偽署の将相已下は開国男とし、余は並びに更に封爵を称することを得ず、其の功臣有る者は削去す。(《五代会要》に作す:其の功臣の名号有る者は、並びに宜しく削去すべし。)もし是れ偽署の節鎮にして、伐罪の初めに、率先して化に向かい及び功効を立てたる者は、宜しく継岌・崇韜に委ねて臨時に奨任すべし。其の刺史は但だ使君と称することを許し、更に検校官有ることを得ず。其の偽署の班行、正四品已上は、此れを酌みて降黜し、五品已下は、もし曾て本朝の授官を受けず、若し材智聞こゆる有らば、即ち府県中に於いて量材任使を許すべし。もし材智録すべき無く、止だ是れ蜀地の土人なるは、並びに宜しく放ち帰り田里にせしむべし。もし是れ西班に統軍上將軍と称する者有らば、若し是れ本朝の功臣の子孫及び将相の嗣にして、並びに人材の高下に據り、諸衛の小將軍・府率・中郎将に、次第に授任すべし。もし小將軍已下にて、人材任使に堪うるに據らば、宜しく西川節度使衙前に委ねて押衙を補すべし。任使に堪えざる者は、亦た宜しく放ち帰り田里にせしむべし。応に已前に降官せし者は、軍前に於いて事跡を量り任使するを除く外、余は並びに前銜を称し、朝廷の続いて才行に據り任使するを俟つべし」。

庚子(の日)、彰武・保大等軍節度使高萬興卒す。甲辰(の日)、淮南の楊溥、使いを遣わして朝貢す。乙巳(の日)、晉州節度使李存乂を以て鄜州節度使と為し、相州刺史李存確を以て晉州節度使と為す。丙午(の日)、両省の諫官上疏し、車駕の汴州に巡幸せざることを請う。凡そ三たび章を上りて、乃ち允さる。庚戌(の日)、魏王継岌奏す、秦州副使徐藹を遣わし書を齎して南詔蠻を招諭すと。又奏す、両川の馬九千五百三十匹を点じ到ると。(《清異録》:荘宗、梁を滅ぼし蜀を平らげ、志頗る自ら逸を恣にし、蜀の匠に命じて十幅の無縫錦を織りて被の材と為し、被成りて、賜い名づけて「六合被」と曰う。)辛亥(の日)、制す、皇第二弟存霸は永王に封ずべく、第三弟存美は邕王に封ずべく、第四弟存渥は申王に封ずべく、第五弟存乂は睦王に封ずべく、第六弟存確は通王に封ずべく、第七弟存紀は雅王に封ずべし。是の歳、日の傍に背気有り、凡そ十三。