滄州の劉守文、梁朝に攻めらるるに及び、其の父仁恭、使を遣わして師を乞う。武皇は其の翻覆を恨み、時に許さず。帝白して曰く、「此れ吾が復振の道なり、嫌怨を以て介懷すべからず。且つ九分の天下、朱氏今六七を有ち、趙・魏・中山は他廡の下に在り。賊の憚る所は、惟だ我と仁恭のみ。我が興衰、此の一舉に係る。失う可からず」と。太祖乃ち燕に征兵し、潞州を攻め取る。既にして丁會果たして城を以て來降す。
天祐五年春正月、武皇疾篤し、監軍張承業・大將吳珙を召して謂ひて曰く、「吾常に此の子の志氣遠大なるを愛す。後事に付す可し。惟卿等の教ふる所に俟つ」と。武皇厭代するに及び、帝乃ち王位に嗣ぎて晉陽に在り。時に年二十有四。
汴人方に潞州を寇す。周德威は兵を亂柳に宿し、軍城帥を易ふるを以て、竊に議りて忷忷たり。訛言行路に播く。帝方に喪に居り、將吏謁見を得ず。監軍使張承業、闥を排して廬所に至り、言して曰く、「夫れ孝は家業を墜さざるに在り。匹夫の孝と同じからず。且つ君父厭世し、嗣主未だ立たず。竊に凶猾不逞の徒、覬望を懷く有らんことを慮る。又汴寇境を壓し、我が凶衰を利とす。苟くも或は搖動せば、則ち倍して賊勢を張らん。訛言息まず、變の生ずるを懼る。顧命に依り、墨縗にて政を聽き、家を保ち親を安んずるを請う。此れ惟だ大孝なり」と。帝是より始めて大事を聽斷す。
時に振武節度使克寧、即ち帝の季父なり。管內蕃漢馬步都知兵馬使と為り、兵柄を典握す。帝軍府の事を季父に譲りて曰く、「兒年幼稚、未だ庶政に通ぜず。遺命を承くると雖も、恐らく彈壓する能はじ。季父勳德俱に高く、眾情推伏す。且つ軍府を製置せんことを請い、兒立つ有るを俟ち、季父の處分を聽かん」と。克寧曰く、「亡兄の遺命、我が兒に屬す。孰か敢て異議せん」と。因り率先して拜賀す。初め、武皇は戎功を獎勵し、多く庶孽を畜ふ。衣服禮秩、嫡の如き者六七輩、嗣王に比すれば、年齒又長し。部下各強兵を綰き、朝夕聚議し、亂を謀らんと欲す。帝紹統するに及び、或は強項にして拜せず、鬱鬱憤惋し、疾に托して事を廢す。會に李存顥、陰計を以て克寧に幹りて曰く、「兄亡び弟立つは、古今の舊事。季父侄に拜するは、理の未だ安からざる所なり」と。克寧の妻素より剛狠、因りて克寧を激怒せしめ、陰に禍亂を圖る。存顥は克寧の第に於て張承業・李存璋等を謀害し、以て并・汾九州を梁に歸附せしめ、貞簡太后を送りて質とせんと欲す。克寧意將に激發せんとし、乃ち擅に大將李存質を殺し、己が雲州節度使を授け、蔚・朔・應の三州を割きて屬郡と為さんことを請う。帝悉く俞允す。然れども其の陰禍日に有るを知る。克寧は帝其の第に過ぐるを俟ち、則ち竊に發せんと圖る。時に幸臣史敬熔なる者、亦た克寧に誘はれ、其の情を盡く得、乃ち來りて帝に告ぐ。帝張承業に謂ひて曰く、「季父の為す所此の如し。猶子の情無し。骨肉自ら相魚肉す可からず。予路を避かば、則ち禍亂作らざらん」と。承業曰く、「臣先王の命を受け、言猶ほ耳に在り。存顥輩、太原を以て賊に降らんと欲す。王何の路を以てか生を求めん。即ち誅除せざれば、亡ぶに日無からん」と。因りて吳珙・李存璋・李存敬・朱守殷を召し其の謀を諭す。眾鹹憤怒す。
二月壬戌、存璋に命じ甲を伏せて克寧を誅せしむ。乃ち其の難を靖む。是の月、唐の少帝曹州に崩ず。梁祖人の鴆する所なり。帝之を聞き、哀を舉げ號慟す。
三月、周德威尚ほ亂柳に在り。梁の將李思安、屢德威に敗れられ、壁を閉じて出でず。是の時、梁祖自ら兵を將いて澤州に至り、劉知俊を以て招討使と為し思安に代え、範君實・劉重霸を先鋒と為し、牛存節を撫遏と為し、大軍を統べて長子に營す。
四月、帝德威の軍を召して晉陽に歸らしむ。汴人既に班師を見、我が國の禍を知り、潞州必ず取る可しと以為い、援軍再舉を俟たず、遂に斥候を停む。梁祖亦た澤州より洛に歸る。帝其の備無きを知り、乃ち將佐に謂ひて曰く、「汴人我に喪有るを聞けば、必ず師を興す能はざらんと謂はん。人我が少年嗣位し、未だ戎事に習はざるを以て、必ず驕怠の心有らん。若し兵甲を簡練し、倍道兼行し、其の不意に出で、吾が憤激の眾を以て、彼が驕惰の師を撃てば、朽を拉ぎ枯を摧く、其の易きを云はざるも、圍を解き霸を定むるは、此の一役に在り」と。甲子、軍太原より發す。己巳、潞州北黃碾に至り下營す。
この月、周徳威は勝に乗じて沢州を攻め、刺史王班は城に登り拒守した。梁将劉知俊は晋・絳より兵を将いて赴援し、徳威は退いて高平を保つ。帝は遂に晋陽に班師し、廟に告げて飲至し、賞労差等あり。乃ち国中に令を下し、賊盗を禁じ、孤寡を恤み、隠逸を征し、貪暴を止め、堤防を峻にし、獄訟を寛にし、期月の間に、その俗大いに変ず。帝は出づる毎に、路にて饑寒者に遇えば、必ず馬を駐めて臨問す、これにより人情大いに悦び、王覇の業、ここより基づく。
六月、鳳翔の李茂貞・邠州の楊崇本、四川の王建の師五万を合わせ、以て長安を攻め、使を遣わして兵を帝に会わしむ。帝は張承業に師を率いて赴かしむ。
九月、邠・岐・蜀の三鎮、復た大挙して長安を攻め、李嗣昭・周徳威に兵三万を将いて晋州を攻めしめて以てこれに応ぜしむ。徳威は梁将尹皓と神山の北に戦い、梁人大いに敗る。是の時、晋の騎将夏侯敬受は一軍を以て梁に奔る。徳威は乃ち退きて隰州を保つ。
天祐六年秋七月、邠・岐の二帥及び梁の叛将劉知俊、倶に使を遣わして来告し、将に大挙して以て霊・夏を伐ち、兼ねて関輔を収めんとし、兵を晋・絳に出だし、以て兵勢を張らんことを請う。八月、帝は軍を御して南征し、先に周徳威・李存審・丁会に大軍を統べさせ陰地関より出で、晋州を攻め、地道を為し、城を二十余歩壊す。城中血戦して拒守す。梁祖は楊師厚に兵を領して赴援せしむ。徳威は乃ち軍を収めて退く。(『通鑑』は『荘宗実録』を引き、汴軍蒙坑に至り、周徳威逆戦し、これを敗り、首級三百を斬り、楊師厚は退きて絳州を保つ。この役に、小将蕭万通戦歿し、師厚は平陽に進営し、徳威は軍を収めて退く、とす。)
天祐七年秋七月、鳳翔の李茂貞・邠州の楊崇本、皆師を遣わして来たり兵を会し、同しく霊・夏を討たんとす。且つ劉知俊が寧州にて汴軍を三敗せしめ、霊・夏危蹙し、岐・隴の師大挙し、決して河西を取らんとすと言う。帝は周徳威に兵万人を将いしめ、西に河を渡りて以てこれに応ぜしむ。この役、劉知俊は岐人のために構えられ、乃ち自ら退く。
九月、徳威班師す。冬十月、梁祖は大将李思安・楊師厚に師を率いしめ沢州に営し、以て上党を攻む。十一月、鎮州の王鎔、使を遣わして来たり援を求む。是の時、梁祖は羅紹威初めて卒せるを以て、全く魏博の地を有し、因って鎮・定を兼併せんと欲し、供奉官杜廷隠・丁延徽に魏軍三千人を督せしめて深・冀に入らしむ。鎮人懼れ、故に来たり難を告ぐ。帝は軍吏を集めてこれを議す。咸く甲を按じ兵を治め、徐ろに勝負を観んと欲す。惟だ帝独断し、堅くこれを救わんと欲し、乃ち周徳威に軍を率いしめ趙州に屯せしむ。この月、行営都招討使丁会卒す。
十二月丁巳朔、梁祖は帝の軍の趙州に屯するを聞き、寧国軍節度使王景仁を北面行営招討使とし、韓勍を副とし、相州刺史李思安を前鋒とし、魏州の兵を会して以て王鎔を討たしむ。又た閻宝・王彦章に二千騎を率いしめ、景仁と邢・洺に会わしむ。丁丑、景仁は柏郷に営す。帝は遂に親征し、賛皇県より東下す。辛巳、趙州に至り、周徳威の兵と合す。帝は史建瑭に軽騎を以て寇を嘗めしむ。芻牧する者二百人を獲、その兵数を問うに、精兵七万。この日、帝は兵を石橋の南に観る。詰旦、進軍し、柏郷より一舎を距つ。周徳威・史建瑭は蕃落の勁騎を率いて挑戦し、四面に馳射す。梁軍は壁を閉じて出でず、乃ち退く。翌日、進軍し、柏郷より五里を距ち、騎軍を遣わしてその営を逼る。梁将韓勍・李思安は歩騎三万を率い、鎧甲炫曜し、その勢甚だ盛んにして、分道して以て帝軍に薄る。徳威は且つ戦い且つ退き、河を距てて止まる。既にして徳威、梁人の浮橋を造るを偵知し、乃ち退きて高邑を保つ。乙酉、師を柏郷に致し、帝は光武廟に戦を祷る。柏郷には芻粟の備え無く、梁軍は樵采を以て給とす。帝の遊軍の獲るところとなり、これにより堅壁して出でず、屋の茅・坐席を剉いて以てその馬を秣し、衆心益々恐る。
天祐八年正月丁亥、周徳威・史建瑭は三千騎を帥いて柏郷に師を致し、伏を村塢の間に設け、三百騎を遣わして直ちにその営を圧す。梁将怒り、その軍を悉くして結陣して来る。徳威はこれと転戦して高邑の南に至る。梁軍列陣し、横亙すること六七里。時に帝軍未だ列を成さず、李存璋は諸軍を引いて野河の上に陣す。梁は五百人を以て橋を争う。鎮・定の師と血戦す。梁軍敗れて復た整うこと数四。帝と張承業は高きに登り観望す。梁人の戈矛束の如く、申令の後、囂声雷の若し。王師の進退序有り、歩騎厳整にして、寂然として声無し。帝は陣に臨み衆に誓い、人百の勇を奮い、短兵既に接し、奮力せざる無し。梁に龍驤・神威・拱宸等の軍有り、皆武勇の士なり。一人の鎧仗毎に費すこと数十万、組繡を以て装い、金銀を以て飾り、人望みてこれを畏る。巳より午に及び、騎軍接戦す。晡に至り、梁軍抽退せんと欲す。塵埃天に漲る。徳威は周麾して呼びて曰く、「汴人走る」と。帝軍斉しく噪いて進む。魏人は軍を収めて漸く退く。李嗣源は親軍を率い、史建瑭・安金全兼ねて北部吐渾諸軍と陣を衝き夾攻す。梁軍大いに敗れ、鎧を棄て仗を投ずるの声、天地を震動す。龍驤・神威・神捷諸軍、殺戮殆んど尽きる。陣より柏郷に至る数十里、僵屍枕籍し、敗旗折戟、所在に地を蔽う。夜漏一鼓、帝軍柏郷に入る。梁軍の輜重・帳幄・資財・奴仆、皆帝軍の所有と為る。梁将王景仁・韓勍・李思安等は数十騎を以て夜遁す。この役、首級二万を斬り、馬三千匹を獲、鎧甲兵仗七万、輜車鍋幕算うべからず。梁将陳思権以下二百八十五人を擒う。帝は号令して軍を趙州に収む。既にして梁人は深・冀二州を棄てて遁る。
初めに、杜廷隠が深州・冀州を襲った時、兵を分けて食糧を調達すると称した。時に王鎔の将石公立は深州を守備しており、関門を閉じて入れまいとしたが、王鎔は急いで関を開けさせ、公立に兵車を城外に移すよう命じたので、廷隠は遂にその城を占拠した。公立は城外に出ると、城を指して言うには、「門を開いて盗賊を入れれば、後悔してもどうしようもない。この城の数万の民は、生きながら捕虜となるであろう」と。そして刀を投げ出して涙を流した。数日後、廷隠は城門を閉じて鎮州兵数千人を殺害し、城壁に登って守備を固めた。王鎔がようやく公立に攻撃を命じた時には、既に守備は整っていたのである。柏鄉での敗戦の後、両州の民は悉く奴隷として捕らえられ、老弱者は皆生き埋めにされた。己亥、史建瑭・周徳威を派遣して邢州・魏州の地を巡行させ、先に檄文を馳せてこれを諭した。
帝は親軍を率いて南征した。庚子、洺州に至る。梁祖はその将徐仁浦に兵五百を率いさせ、夜に邢州に入らせた。張承業・李存璋は三鎮の歩兵をもって邢州を攻め、周徳威・史建瑭に三千騎を率いさせ、長駆して澶州・魏州に至らせた。帝は李嗣源と共に親軍を率いて続いて進んだ。
二月戊午、軍は洹水に駐屯した。周徳威は進んで臨河に至る。己未、魏帥羅周翰は兵五千を出して石灰窯口を塞ぎ、周徳威は騎兵で掩撃し、観音門まで追い込んだ。この日、王師は魏州に迫り、帝は狄公祠の西に宿営した。周翰は城壁を閉じて自らを固守したが、帝軍がこれを攻撃すると、その城は陥落寸前となった。帝は嘆いて言うには、「予が幼少の頃、先王に従って河を渡ったが、今はそれを忘れている。今は春で桃花水が満ちている折、一度それを見たいと思うが、誰が予に従う者か」と。癸亥、帝は黎陽で河を観覧した。この時、梁祖は兵一万余りを発して渡河せんとしたが、王師の到来を聞き、舟を棄てて退却した。黎陽都將の張従楚・曹儒は部下の兵三千人を率いて来降し、その軍を左右匡霸使とした。乙丑、周徳威は臨清から貝郡の地を巡行し、博州を攻めて東武・朝城を陥れた。時に澶州刺史張可臻は城を棄てて逃れたので、遂に黎陽を攻め、臨河・淇門を陥れた。庚午、梁祖は洛陽におり、王師が河陽を攻めんとするのを聞き、親軍を率いて白馬坡に駐屯した。壬申、帝は班師を下令した。帝が趙州に至ると、王鎔は迎えて謁見した。翌日、諸軍を大いに饗応した。壬午、帝は趙州を発ち、晋陽に帰還し、周徳威を趙州に留めて守備させた。
三月己丑、鎮州・定州が各々使者を遣わし、幽州の劉守光の凶暴で僭上の様子を述べ、尚父に推挙してその悪を熟させんことを請うた。乙未、帝は晋陽宮に至り、監軍張承業ら諸将を召して幽州の事を議し、牙将戴漢超に墨製及び六鎮の書を持たせて派遣し、劉守光を尚書令・尚父に推挙した。守光はこれにより凶暴な気勢が日増しに強まり、遂に六鎮に冊奉を求めた。
五月、六鎮の使者が幽州に至り、梁の使者も集まった。この月、梁祖は都招討使楊師厚に兵三万を率いさせて邢州に駐屯させた。帝は李嗣昭に出師させて相州・衛州を掠めさせて帰還させた。秋七月、帝は承天軍で王鎔と会った。鎔は武皇の友であり、帝は彼を非常に敬い、杯を捧げて寿を祝い、鎔もまた酒を捧げて帝に酬いた。鎔の幼子昭誨が従行しており、ここに婚姻を許した。八月甲子、幽州の劉守光が大燕皇帝を僭称し、年号を応天とした。九月庚子、梁祖は親軍を率いて洛陽から河を渡って北へ向かい、相州に至ったが、帝軍が出ていないと聞き、そこで止まった。十月、幽州の劉守光は帝の使者李承勳を殺害した。彼が朝礼を行わなかったことを憤ったのである。
十一月辛丑の日、燕人が易州・定州を侵し、王処直が来て難を告ぐ。十二月甲子の日、帝は周徳威・劉光浚・李嗣源及び諸将に命じ、蕃漢の兵を率いて晋陽より発し、幽州の劉守光を伐たしむ。