八月、赫連鐸、幽州の李匡威の衆八万を誘い、天成軍を寇し、遂に雲州を攻め、州北に営す。連亙数里。武皇、潜かに軍を雲州に入る。詰旦、騎軍を出してこれを撃ち、数万を斬獲す。李匡威、営を焼いて遁走す。十月、邢州の李存孝、叛き、梁に款を納る。李存信のこれを構えるなり。
五月、鄆州節度使朱瑄、汴軍に攻められ、使を遣わして来たり師を乞う。武皇、騎将安福順・安福応・安福遷を遣わし、精騎五百を督せしめ、魏州を仮道して以てこれに応ず。九月、潞州節度使康君立、鴆にて死す。
十月、武皇、晋陽より師を率いて幽州を伐つ。初め、李匡儔、兄の位を奪い据う。燕人の多くこれを義とせず、安塞軍の戍将劉仁恭、族を挈いて武皇に帰す。武皇、これに遇すること甚だ厚し。仁恭、数たび蓋寓に画策を進め、幽州取るべきの状を言い、兵一万を得んことを願い、期を指して平定せんとす。武皇、方に邢州において李存孝を討ち、兵数千を輟き、仁恭を納れんと欲すも、利あらずして還る。匡儔、ここより驕り怠り、数たび辺境を犯す。武皇怒り、故に軍を率いてこれを討つ。是の時、雲州の吐渾赫連鐸・白義誠、並びに来帰す。命じて皆笞してこれを釈す。
十一月、武州を攻む。甲寅、新州を攻む。十二月、李匡儔、大将に命じて歩騎六万を率い新州を救わしむ。武皇、精甲を選び逆戦し、燕軍大敗し、首級万余級を斬り、生け捕りにしたる将領百余り、練を曳きて新州城下に徇す。是の夜、新州降る。辛亥、媯州を攻む。壬子、燕兵復た居庸関に合して拒戦す。武皇、精騎を命じて以てこれを疲れしめ、歩将李存審に命じて他道よりこれを撃たしむ。午より晡に至り、燕軍復た敗る。甲寅、李匡儔、その族を携え城を棄てて遁ぐ。将に滄州に之かんとす。随行の輜車、臧獲妓妾甚だ衆し。滄帥盧彦威、その貨を利し、兵を以て景城において匡儔を攻め、これを殺す。蓋しその衆を擄うなり。丙辰、進軍して幽州に至る。その守城の大将、降るを請う。武皇、李存審と劉仁恭を令して城に入り撫労せしむ。居人は故の如く、市は肆を改めず、府庫を封じて以て武皇を迎う。
六月、武皇、蕃漢の師を率い晋陽より三輔に趨き、鳳翔の李茂貞・邠州の王行瑜・華州の韓建の乱を討つ。先ず是れ、三帥兵を称して闕に向かい、ともに王室を弱め、宰輔を殺害す。時に河中節度使王重盈卒す。重栄の子珂は即ち武皇の子婿なり、権りに軍政を典む。その兄珙は陝州節度使、瑤は絳州刺史たり、珂と河中を争い、遂に岐・邠・華の三鎮に訴う。珂は本より蒼頭なり、襲位すべからずと。珂もまた武皇に訴う。武皇上表して珂を保薦し、河中の旄鉞を授けんことを乞う。詔してこれを可とす。三帥遂に兵を以て入覲し、大いに京師を掠め、王珂に同州節度使を、王瑤に河中節度使を授けんことを請う。天子もまたこれを許す。武皇遂に兵を挙げて三帥の罪を表し、復た檄を三鎮に移す。三鎮大いに懼る。是の月、絳州に次ぐ。刺史王瑤、陴に登り命に拒む。武皇これを攻め、旬日にして抜き、王瑤を軍門に斬り、その党千余人を誅す。七月、河中に次ぐ。王珂、路に迎謁す。
己未、同州節度使王行約、城を棄てて京師に奔る。左軍の兵士とともに西市を劫掠し、都民大いに擾う。行約は即ち行瑜の弟なり。庚申、枢密使駱全瓘、武皇の軍将に至らんとするを以て、天子の幸せんことを請う。右軍指揮使李継鵬は茂貞の仮子なり。本姓は閻、名は珪。全瓘と謀りて天子を劫し鳳翔に幸せしめんとす。左軍指揮使王行実もまた行瑜の弟なり、劉景宣とともに天子を劫し邠州に幸せしめんと欲す。両軍相攻め、内門を焼き、煙火天を蔽う。天子急に塩州六都の兵士に詔し、乱兵を追殺せしむ。左右軍退走す。王行瑜・李茂貞、声言して自ら来たり駕を迎えんとす。天子懼れ、出でて南山に幸し、莎城に駐蹕す。是の夜、熒惑心を犯す。壬戌、武皇、進んで同州を収む。天子の石門に幸せるを聞き、判官王瑰を遣わし表を奉じて奔問す。天子、使を遣わし詔を賜い、王珂とともに邠・鳳を討たしむ。時に武皇、方に華州を攻む。俄かに李茂貞の兵士三万を領いて盩厔に至り、王行瑜の兵を領いて興平に至り、石門に往きて駕を迎えんと欲するを聞き、乃ち華州の囲みを解き、進んで渭橋に営す。天子、延王戒丕・丹王允を遣わし詔を齎し、武皇の兵を促して直ちに邠・鳳に抵らしむ。
八月乙酉、供奉官張承業が詔を齎して告諭す。涇帥張鐤は既に歩騎三万を率いて京西北に至り、邠・岐の路を扼す。武皇は渭北に進みて営し、史儼を遣わして三千騎を将いて石門に往き駕を扈し、李存信・李存審を遣わして鄜延の兵と会し行瑜の梨園寨を攻めしむ。天子は行瑜の官爵を削奪し、武皇を以て天下兵馬都招討使と為し、鄜州の李思孝を以て北面招討使と為し、涇州の張鐤を以て西南面招討使と為す。天子はまた延王・丹王を遣わして武皇に御衣及び大将の茶酒・弓矢を賜い、二王に命じて武皇を兄事せしむ。延王は天子の密旨を伝えて云う、「一昨卿此に至らざれば、既に賊庭の行酒の人と為るべかりし。慮る所は二凶締合し、卒に翦除し難きを以て、且つ茂貞を姑息せんと欲し、卿と修好せしめ、行瑜を梟斬するを俟ち、更に卿と商量せんとす」と。武皇は表を上し、駕の京に還るを請う。李存節に命じて二千騎を将いて京西北に於いて、邠賊の奔突を防がしむ。辛亥、天子宮に還り、武皇に守太師・中書令・邠寧四面行営都統を加う。
時に王行瑜弟兄は梨園寨を固守し、我が師之を攻むること甚だ急なり。李茂貞は兵万余を遣わして来たり行瑜を援け、龍泉鎮に営す。茂貞は自ら兵三万を率いて咸陽に迫る。武皇は詔を奉りて茂貞に兵を罷めしむるを請い、兼ねて茂貞の官爵を削奪するを請う。詔に曰く、「茂貞の兵を勒するは、蓋し非常を備うるにあり、尋いで已に発遣して鎮に帰らしむ」と。又言う、「茂貞は既に李継鵬・李継晸を誅せり、卿は切に兵甲を戒め、土疆を犯すこと無かれ」と。武皇は河中の王珂に旌節を賜わるを請い、三表にして之を許さる。又李罕之を副都統と為すを表す。
十月丙戌、李存信は梨園寨の北にて賊軍に遇い、首級千余を斬る。是より賊は壁を閉じて出でず。戊子、天子は武皇に内弟子四人を賜い、又朱書の御札を降し、魏国夫人陳氏に賜う。是の月、王行瑜は敗衄の後に因り、壁を閉じて自ら固む。武皇は李罕之に命じて昼夜急攻せしむ。賊軍は食乏しく、営を抜きて去る。李存信は罕之等と先ず軍を厄路に伏せ、賊軍の至るを俟ち、兵を縦ちて之を撃ち、殺戮すること万計なり。是の日、梨園等三寨を収め、行瑜の子知進を生擒し、並びに毌丘氏・大将李元福等二百人を、闕庭に送り赴かしむ。庚寅、王行約・王行実は寧州を焼劫して遁走す。寧州守将徐景は降を乞う。武皇は蘇文建を邠州節度使と為すを表し、且つ寧州を以て治所と為す。十一月丁巳、龍泉寨を収む。時に行瑜は精甲五千を以て之を守る。李茂貞は兵を出して来援すれども、李罕之に敗られ、邠賊遂に龍泉寨を棄てて去る。行瑜は復た邠州に入る。大軍其の城に進逼す。行瑜は城に登りて号哭して曰く、「行瑜は罪無し。昨南北司の大臣を殺すは、是れ岐帥の兵を将いて主上を脅製せしなり。岐州を治めよ。行瑜は身を束ねて朝に帰らんことを乞う」と。武皇報じて曰く、「王尚父何ぞ恭しきこと之くの甚だしきや!仆は命を受けて三賊臣を討つ。公其の一なり。如し能く身を束ねて闕に帰らば、老夫未だ敢て命を専にせず、公の為に奏して進止を取らん」と。行瑜懼れ、城を棄てて遁る。武皇其の城を収め、府庫を封じ、遽かに捷を聞かしむ。既にして慶州奏す、王行瑜が家属五百人を将いて州界に到るも、部下に殺され、首を闕下に伝うと。武皇は行瑜を平げし既に、軍を渭北に還す。
十二月、武皇は雲陽に営し、鳳翔を討つ進止を候う。乙未、天子は武皇に忠貞平難功臣を賜い、進めて晋王に封じ、実封二百戸を加う。武皇は復た表を上して李茂貞を討たんことを請うも、天子允さず。武皇は詔使に私に謂いて曰く、「主上の意を観るに、仆の別に他腸有るを疑う、復た何をか言わん!但だ禍胎を去らずば、憂患未だ已まじ」と。又奏す、「臣は大軍を統領し、敢えて径に朝覲に赴かず」と。遂に師を班す。
六月、李茂貞は兵を挙げて京師を犯す。七月、車駕は華州に幸す。是の月、武皇は汴軍と洹水の上に戦い、鉄林指揮使落落は擒らわる。落落は武皇の長子なり。既に戦い、馬は坎に踣つ。武皇は騎を馳せて以て之を救わんとす。其の馬も亦踣つ。汴の追兵将に及ばんとす。武皇は背に射して一発にして斃す。乃ち退く。
九月、李存信は魏の臨清を攻む。汴将葛従周等は軍を引いて来援す。宗城の北に大いに敗る。存信は進んで魏州を攻む。十月、武皇は魏軍を白龍潭に敗り、観音門に追撃す。汴軍の救い至る。乃ち退く。十一月、武皇は幽・鎮・定の三州に兵を征し、将に駕を華下に迎えんとす。幽州の劉仁恭は契丹の入寇を托し、敵の退くを俟ちて命を聴かんとす。
乾寧四年正月、汴軍は兗・鄆を陥す。騎将李承嗣・史儼は朱瑾と同く淮南に奔る。三月、陝帥王珙は河中を攻む。王珂は来たりて難を告ぐ。武皇は李嗣昭を遣わして二千騎を率いて之に赴かしめ、猗氏にて陝軍を破り、乃ち河中の囲みを解く。是に至り、天子は延王戒丕を遣わして晋陽に至らしめ、宣旨を武皇に伝えしむ、「朕は卿の言を取らず、以て此に及べり。苟も英賢の竭力せざれば、朕何を由りて再び廟廷を謁せん!卿に表率するに在り、予の望む所なり」と。
七月、武皇は復た幽州に兵を征す。劉仁恭は辞旨遜らず。武皇は書を以て之を譲る。仁恭は書を捧げて謾罵し、之を地に抵し、仍て武皇の行人を囚う。八月、大挙して以て仁恭を伐つ。九月、師は蔚州に次す。戊寅、晨霧晦暝す。占者云う、深く入るに利あらずと。辛巳、安塞を攻む。俄に報ず、「燕将単可及が騎軍を領して至れり」と。武皇は方に酒を置き高会す。前鋒又報ず、「賊至れり」と。武皇曰く、「仁恭は何れの処にか在る」と。曰く、「但だ可及輩を見るのみ」と。武皇は目を張り怒りて曰く、「可及輩何ぞ敵と為すに足らんや」と。仍て令を促して出師せしむ。燕軍は已に武皇の軍寨を撃つ。武皇は酔いに乗じて賊を撃つ。燕軍は披靡す。時に歩兵は賊を望みて退く。燕軍に乗ぜられ、木瓜澗に大いに敗る。俄にして大風雨震電す。燕軍解けて去る。武皇方に醒む。甲午、師は代州に次す。劉仁恭は使を遣わして武皇に謝罪す。武皇も亦書を以て之に報ず。此より檄十余返有り。
四月、汴将葛従周は邢・洺・磁等州を寇す。旬日の内に、三州連ねて陥る。汴人は葛従周を以て邢州節度使と為す。大将李存信は軍を収め、馬嶺より自ら旋る。
八月壬戌、天子は華より還宮す。この時、車駕初めて復し、諸侯の輯睦を欲し、武皇に詔を賜い、汴帥と通好せしむ。武皇は先んじて汴帥に下るを欲せず、乃ち鎮州の王鎔に書を致し、その意を導かしむ。明年、汴帥は使いを遣わし書幣を奉じて来たり好を修む。武皇もまたこれに報ず。ここより使車交馳し、朝野相賀す。九月、武皇は周徳威・李嗣昭に兵三万を率いさせ青山口より出で、以て邢・洺を迫る。十月、汴将葛従周に張公橋にて遇う。既に戦い、我が軍大いに敗る。この月、河中の王珂来たり急を告げ、王珙汴軍を引き来たり寇すと言う。武皇は李嗣昭に兵三千を将いて以てこれを援けしめ、胡壁堡に屯す。汴軍万余人来たり拒戦す。嗣昭これを撃退す。
十二月、潞州節度使薛誌勤卒す。沢州刺史李罕之、本軍を以て夜潞州に入り、城を拠りて以て叛く。罕之武皇に報じて曰く、「薛鉄山新たに死し、潞民主無し。軍城に変有るを慮り、輒ち命を専らにし鎮撫す」と。武皇は人をしてこれを譲らしむ。罕之乃ち汴に帰す。武皇は李嗣昭に兵を将いてこれを討たしむ。沢州を下し、罕之の家族を収め、拘し送りて晋陽に至らしむ。
四月、汴将氏叔琮、兵五万を率いて太行路より沢・潞を寇す。魏博の大将張文恭、軍を領して新口より入る。葛従周、兗・鄆の衆を領して土門より入る。張帰厚、邢・洺の衆を以て馬嶺より入る。定州の王処直の衆、飛狐より入る。侯言、晋・絳の兵を以て陰地より入る。氏叔琮・康懐英、沢州の昂車に営す。武皇は李嗣昭に三千騎を将いて沢州に赴き李存璋を援けしめ、而して賀徳倫に帰らしむ。氏叔琮の軍潞州に至る。孟遷門を開き迎う。沁州刺史蔡訓もまた城を以て汴に降る。氏叔琮その衆を悉くして石会関に趨る。この時、偏将李審建先に兵三千を統べて潞州に在り。また孟遷とともに汴に降る。及び叔琮の入寇するや、審建その郷導と為る。汴人は洞渦に営す。別将白奉国と鎮州の大将石公立、井陘より入り、承天軍を陥す。及び寿陽を攻む。遼州刺史張鄂、城を以て汴に降る。都人大いに恐る。時に霖雨旬を積む。汴軍屯聚既に衆く、芻糧給せず、復た多く痢瘧有り。師人多く死す。時に大将李嗣昭・李嗣源、毎夜驍騎を率いて営を突き掩殺す。敵衆恐懼す。
五月、汴軍皆退く。氏叔琮の軍石会より出づ。周徳威・李嗣昭、精騎五千を以てこれを躡い、殺戮万計。初め、汴軍の将に入寇せんとするや、汾州刺史李瑭、城に拠りて叛き、以て汴人に連なる。ここに至り武皇は李嗣昭・李存審に兵を将いてこれを討たしむ。この歳、並・汾饑え、粟暴に貴し。人多く瑭に附きて乱を為す。嗣昭力を悉くして城を攻め、三日にして抜く。李瑭らを擒え、晋陽市に斬る。氏叔琮既に軍を旋し、潞州を過ぎ、孟遷を擄いて帰る。汴帥は丁会を以て潞州節度使とす。
六月、李嗣昭・周徳威に兵を将いさせ陰地より出で、慈・隰二郡を攻めしむ。隰州刺史唐礼・慈州刺史張瑰並びに城を以て来たり降る。武皇は汴寇方に盛んなるを以て、兵を以て服し難く、佯いに心を降して以てその謀を緩めんとし、乃ち牙将張特に幣馬書檄を持たしめて以てこれを諭し、当時の利害を陳べ、旧好を復せんことを請わしむ。十一月壬子、汴帥渭濱に営す。甲寅、天子出でて鳳翔に幸す。武皇は李嗣昭に兵三千を率いさせ沁州より平陽に趨らしむ。汴軍に晋州の北にて遇い、首五百級を斬る。
天祐四年正月甲申、汴帥、潞州失守を聞き、滄州より営を焼きて遁る。四月、天子、位を汴帥に禅ぐ。天子を奉じて済陰王と為す。元を開平と改め、国号を大梁とす。是の歳、四川の王建、使を遣わし至り、武皇を勧めて各一方に王たらしめ、賊を破りし後、唐朝の宗室を訪ひて以て帝位を嗣がしめ、然る後に各藩守に帰らんとす。武皇従はず、書を以て之に報じて曰く、
窃に念ふ、本朝屯否し、巨業淪胥す。鼎駕に攀ぢて以て長く違ひ、彤弓を撫でて自ら咎む。黙黙として終に占ひ、悠悠として彼の蒼、此の厲階を生じ、永く痛毒と為す。横流を視て救ふ莫く、徒らに楫を誓ひて以て言を興す。別に函題を捧ぐるに、過ぎて獎諭を垂る。省覧周既し、駭惕異常なり。淚下りて衿に沾ぎ、倍く鬱す申胥の素。汗流れて背に浹し、蒋済の言を聞くが如し。
仆、両朝に事へ経、三代に恩を受け、位は将相に叨り、籍は宗枝に係る。鈇鉞を賜ひて以て専征し、苞茅を征して以て罪を問ふ。兵を鏖し戦を校すること、二十余年、竟に能はざるなり、新莽の頭顱を斬り、蚩尤の肩髀を断つを。以て廟朝の顛覆に至り、豺虎縦横す。且つ任を授け憂ひを分かち、栄を叨り寵を冒す。龜玉櫝に毀るるは、誰が咎ぞや!指陳を俯して閲し、慚恧に勝へず。然れども君臣常の位無く、陵谷変遷有り。或ひは長河を箠塞し、函谷を泥封す。時移り事改まり、理万殊有り。即ち周の末の虎争の如く、魏の初めの鼎據の如し。孫権父子は、漢恩に授けられしこと顕ならず。劉備君臣は、自ら微より涿郡に興る。之を得るも家世に謝せず、之を失ふも功名を損せず。適に鹿を逐ふの秋に当たり、何ぞ華蟲の服を惜しまん。惟ふに仆、累朝寵に席し、奕世忠を輸し、忝くも訓詞を佩き、粗く家法を存す。善く博奕する者は惟だ先づ道を守り、蹊田を治むる者は牛を奪ふ可からず。此生に誓ひて、敢へて節を失はじ。廟勝に仰ぎ憑り、早く寇讎を殄はん。其の事願ひに違ふこと有らば、則ち臧洪と共に地下に遊び、亦恨み無からん。
惟ふに公は社稷の元勳、嵩・衡の祉を降し、九州の上地を鎮め、一代の鴻才を負ふ。此時に合ひ、自ら多福を求む。承くる所の良訊は、仆の深心に非ず。天下其れ我を何と謂はん、国を有つも吾が節に非ざるなり。淒淒たる孤懇、此に尽く陳べず。
五月、梁祖、其の将康懐英を遣わして兵十万を率ひて潞州を囲む。懐英、士衆を駆り率ひ、壘を築きて城を環らす。城中音信断絶す。武皇、周徳威を遣わして兵を将ひて赴援せしむ。徳威、軍を餘吾にし、先鋒を率ひて挑戦し、日に俘獲有り。懐英敢へて即ち戦はず。梁祖、懐英の功無きを以て、乃ち李思安を以て之に代ふ。思安、軍を引きて将に潞城に営せんとす。周徳威、五千騎を以て之を搏つ。梁軍大敗し、首千余級を斬る。思安、退きて堅壁を保ち、別に外壘を築き、之を「夾塞」と謂ひ、以て我が援軍に抗す。梁祖、山東の民を調発して以て饋運に供せしむ。徳威、日を以て軽騎を以て之を掩ひ、運路艱阻し、衆心益々恐る。李思安乃ち東南山口より夾道を築き、夾寨に連接し、以て饋運を通ず。是より梁軍夾塞を堅く保つ。
冬十月、武皇疾有り。是の時、晋陽城故無くして自ら壞る。占者之を悪む。
天祐五年正月戊子朔(九〇八年一月二十一日)、武皇の病状が重篤となる。辛卯(二十四日)、晋陽にて崩御す。享年五十三。遺命は薄葬を以てし、発喪後二十七日で喪服を除くことを定む。荘宗即位の後、武皇帝と追諡し、廟号を太祖と為し、陵は雁門に在り。《五代史補》:太祖武皇は、本は朱耶赤心の後、沙陀部の人なり。その先、雕の巣の中に生まれ、酋長その異生を以てし、諸族これを伝養す。遂に「諸爺」を氏と為す。一父の養いしに非ざるを言うなり。その後言訛りて、「諸」を「朱」と為し、「爺」を「耶」と為す。太祖の生まれしに至りては、目一つ眇め、長じて驍勇、騎射に善くし、向かうところ敵無し。時にこれを「独眼龍」と謂い、大いに部落に疾まれる。太祖禍の及ぶを恐れ、遂に挙族して唐に帰す。雲州刺史を授けられ、姓を李と賜い、名を克用と曰う。黄巢長安を犯すや、北より兵を引きて難に赴き、功成りて、遂に太原節度使に拝され、晋王に封ぜらる。武皇の河東を有するや、威声大いに振るう。淮南の楊行密、常にその状貌を識らざるを恨み、因りて画工をして商賈に詐り、河東に往きてこれを写さしむ。画工到るや、未だ幾ばくもあらざるに、その謀を知る者有り、これを擒う。武皇初めは甚だ怒れども、既にして親しむ所の者に謂いて曰く、「且つ吾素より目一つ眇めり。試みにこれを召して写さしめ、その為す所の如何なるかを観ん」と。及び至るや、武皇膝を按じ厲声して曰く、「淮南汝をして来たりて吾が真を写さしむ。必ずや画工の尤なる者ならん。吾を写して十分に及ばざれば、即ち階下便ち汝を死せしむる所なり」と。画工再拝して筆を下す。時に方に盛暑なるに、武皇八角扇を執る。因りて扇の角を以て半ばその面を遮るを写す。武皇曰く、「汝吾に諂うなり」と。遽かに別にこれを写さしむ。又応声して筆を下し、その臂に弓を引き箭を撚る状を画き、仍微かに一目を合わして箭の曲直を観るが如くす。武皇大いに喜び、因りて厚く金帛を賂らせてこれを遣わす。《五代史闕文》:世に伝うるに、武皇臨薨に際し、三矢を以て荘宗に付して曰く、「一矢は劉仁恭を討て。汝先ず幽州を下さずんば、河南図るべからず。一矢は契丹を撃て。且つ曰く、阿保機吾と把臂して盟い、兄弟と結び、誓って唐家の社稷を復せんとす。今約に背き賊に附す。汝必ずこれを伐て。一矢は朱温を滅せ。汝能く吾が志を成さば、死して憾み無し」と。荘宗三矢を武皇の廟庭に蔵む。劉仁恭を討つに及び、幕吏を命じて少牢を以て廟に告げ、一矢を請い、錦囊を以て盛り、親将をしてこれを負わしめ前駆と為す。凱旋の日、俘馘に随い矢を太廟に納む。契丹を伐ち、朱氏を滅ぼすも亦之の如し。又、武皇目一つ眇めり。これを「独眼龍」と謂う。性殺すを喜び、左右小過失有らば、必ず死に置く。初め眇を諱み、人敢えて犯す者無かりき。嘗て写真を令す。画工即ち箭を撚る状を為し、微かに一目を瞑る。図成りて進む。武皇大いに悦び、賜予甚だ厚し。
史臣曰く、武皇陰山に跡を肇め、唐室の難に赴き、豺狼を魏闕に逐い、氛祲を秦川に殄し、姓を賜わり封を受け、奄うに汾・晋を有す。功有りと謂うべし。然れども、茂く勤王の績有りと雖も、震主の威無きに非ざりき。朱旗渭曲の師に屯し、翠輦をして石門の幸有らしむるに及びては、夫れ桓・文の周室を輔くるに比ぶれば、乃ち愧ずる所有らざるか。蒲・絳に援を失い、久しく並・汾に翅を垂るるに及びては、若し嗣子の英才に非ざらんには、豈に興王の茂業有らんや。況んや功を累ね徳を積む、未だ周文に比べず、業を創め基を開く、尚お魏祖に虧けたり。追諡して「武」と為す。斯れ亦幸いなるかな。