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舊五代史
唐書一: 武皇本紀上
太祖武皇帝、諱は克用、本姓は朱耶氏、その先祖は隴右金城の人である。始祖は拔野、唐の貞観年間に墨離軍使となり、太宗に従って高麗・薛延陁を討ち功があり、金方道副都護となり、これにより瓜州に家を定めた。太宗が薛延陁諸部を平定し、安西・北庭に都護を置いてこれに属させ、同羅・仆骨の人々を分けて沙陁都督府を置いた。北庭に沙陁という磧があったため、これに因んで名としたのである。永徽年間、拔野を都督とした。その後、子孫五代にわたり相承した。曾祖は盡忠、貞元年間に沙陀府都督を継いだ。やがて吐蕃に陥落され、その族七千帳を挙げて甘州に移住した。盡忠はまもなく部衆三万を率いて東奔したが、ほどなく吐蕃の追兵が大挙して至り、盡忠は戦死した。祖は執宜、すなわち盡忠の長子であり、余衆を収拾して合流し、霊州に至り、徳宗は陰山府都督に任じた。元和初年、入朝して金吾将軍となり、蔚州刺史・代北行営招撫使に遷った。(《新唐書・沙陀伝》:元和三年、盡忠が霊州塞に帰順し、詔してその部を塩州に置き陰山府とし、執宜を府兵馬使とした。長安に朝し、特進・金吾衛将軍を授けられた。鎮州攻めに従い、蔚州刺史に進んだ。呉元済を破り、検校刑部尚書を授けられた。長慶初年、賊を深州で破り、入朝して宿衛に留まり、金吾衛将軍を拝した。太和年間、陰山府都督・代北行営招撫使を授けられた。)荘宗が即位すると、昭烈皇帝と追諡し、廟号を懿祖とした。烈考は国昌、本名は赤心、唐の朔州刺史である。咸通年間、龐勳を討って功があり、入朝して金吾上将軍となり、李氏を賜姓され、名を国昌とした。(代州に《唐故龍武軍統軍検校司徒贈太保隴西李公神道碑》があり、云う:公諱は国昌、字は徳興。)なお鄭王房に属させた。出て振武節度使となり、まもなく吐渾に襲撃され、神武川に退いて守った。武皇が太原を鎮守するに及んで、代北軍節度使に上表した。中和三年に薨去。荘宗が即位すると、文皇と追諡し、廟号を献祖とした。
武皇はすなわち献祖の第三子である。母は秦氏、大中十年丙子の歳九月二十二日に、神武川の新城において生まれた。妊娠十三ヶ月、誕生の際、母は危篤に陥り一晩中であった。族人は憂い恐れ、雁門で薬を求めたが、神なる老人に出会い告げられた、「巫医の及ぶところではない。急ぎ帰り、部人を全て率い、甲を着け旄を持ち、鉦鼓を打ち鳴らし、馬を躍らせて大いに騒ぎ、住居を三周して囲み、それで止めよ。」と。族人はその教えの通りにしたところ、果たして無事に生まれた。この時、虹の光が室を照らし、白気が庭に満ち、井戸の水が突然溢れた。武皇が言葉を発し始めると、軍中の言葉を好み、幼少より騎射に優れ、同輩と馳せ回り遊ぶにも、必ずその右に出た。十三歳の時、空に二羽の鳶が飛んでいるのを見て、これを射ると連続して命中し、皆が臣伏した。新城の北に毘沙天王祠があり、祠の前の井戸が一日に沸き溢れた。武皇は酒を持って奠して言った、「我に主君を尊び民を救う志がある。井戸が溢れたのは、その禍福を未だ察し得ないからである。天王に若し霊験あらば、我と語り交わすがよい。」奠酒が終わらぬうちに、金甲を着け戈を持つ神人が、壁の間にぼんやりと現れ、見た者は大いに驚いて逃げたが、武皇のみは従容として退き、これによりますます自らを恃んだ。
献祖が龐勳を討った時、武皇は十五歳で、これに従軍し、敵陣の先鋒を破り陣を陥落させ、諸将の右に出で、軍中では「飛虎子」と目された。賊が平定されると、献祖は振武節度使に任じられ、武皇は雲中の牙将となった。かつて雲中にて、別館に宿り、妓を抱えて酔って寝ていた時、侠児が刃を持って武皇を害さんとした。曲室に突入したところ、ただ烈火が帳中に激しく燃え盛っているのを見て、侠児は驚き怪しんで退いた。またかつて達靼部の人と勝負を争い、達靼は空の双雕を指して言った、「公は一発でこれを射当てられるか。」武皇は即ち弓を引き矢を放ち、連続して双雕を貫き、辺境の人々は拝伏した。壮年になると、雲中守捉使となり、防禦使支謨に仕え、同僚と共に朝に廨舎に集まった時、戯れて郡閣に昇り、謨の座に踞ったが、謨も敢えて詰問しなかった。
乾符三年、朝廷は段文楚を代北水陸発運・雲州防禦使とした。この年、凶作が続き、文楚は軍糧を少し削減したため、諸軍は皆怨んだ。武皇は雲中の防辺督将であり、部下が軍糧が足りないと争って訴えた。辺校の程懐素・王行審・蓋寓・李存璋・薛鉄山・康君立らは、即ち武皇を擁して雲州に入り、衆およそ一万人、鬥鶏台に営した。城中では文楚を械で縛り出し、外の衆に応じた。諸将は状を列ねて上聞し、武皇に旄鉞を授けるよう請うたが、朝廷は允さず、諸道の兵を徴発してこれを討たんとした。
乾符五年、黄巢が江を渡り、その勢いはますます蔓延した。天子はようやく事態を悟り、武皇を大同軍節度使・検校工部尚書とした。冬、献祖が出師して党項を討つと、吐渾の赫連鐸が虚に乗じて振武を陥落させ、一族挙げて吐渾に捕らえられた。武皇は定辺軍に至って献祖を迎え雲州に帰還させようとしたが、雲州守将は関を拒んで受け入れなかった。武皇は蔚・朔の地を攻略し、三千人を得て、神武川の新城に屯した。赫連鐸は昼夜攻囲したが、武皇の昆弟三人が四方から賊に応戦し、まもなく献祖が蔚州から軍を率いて至り、吐渾は退走し、これより軍勢は再び振るった。天子は赫連鐸を大同軍節度使とし、なお武皇を討つために進軍するよう命じた。
乾符六年春、朝廷は昭義節度使李鈞を北面招討使とし、上党・太原の師を率いて石嶺関を過ぎ、代州に屯し、幽州の李可挙と赫連鐸が会して蔚州を攻めた。献祖は一軍を以てこれを防ぎ、武皇は一軍を以て南に進み遮虜城に至って李鈞を拒いだ。この冬大雪が降り、弓弩の弦が折れ、南軍は寒さに苦しみ、臨戦して大敗し、代州に奔り帰り、李鈞は流れ矢に当たって卒した。
広明元年春、天子はまた元帥李涿に命じ、兵数万を率いて代州に屯させた。武皇は軍使傅文達に命じて蔚州で兵を起こさせたが、朔州刺史高文集は薛葛・安慶ら部将と共に文達を縛り、李涿に送った。六月、李涿は大軍を率いて蔚州を攻め、献祖は戦い利あらず、その族を率いて達靼部に奔った。数ヶ月居住した後、吐渾の赫連鐸が密かに人を遣わし達靼を賄賂して献祖を離間させたため、やがて次第に猜疑と隔たりが生じた。武皇はこれを知り、しばしばその豪族を召し野で狩猟し、あるいは百歩の距離で馬鞭を馳射させ、あるいは懸針や樹葉を的とし、これを射て神の如く命中させた。これにより部人の心は服し、敢えて密かに発動しようとはしなかった。やがて黄巢が江・淮より北に渡ると、武皇は牛を屠り酒を漉き、その酋長を饗した。酒酣に及んで、これを諭して言った、「我が父子は賊臣の讒言によって離間され、国に報いる道がない。今、黄巢が北に進み江・淮を犯すと聞く。必ずや中原の患いとなろう。一日、天子が赦し宥め、詔を下して兵を徴する時あらば、我が公らと共に南に向かい天下を定めん。これが我が心である。人の世に生き、光景幾何ぞ、どうして終生沙堆の中で老い果てることができようか。公ら、努めよ。」達靼は武皇に留まる意思がないことを知り、皆心を解き隔てなくなった。
この歳十一月、黄巢が潼関を寇す。天子は河東監軍陳景思を代北起軍使とし、兵を収めて賊を破らしむ。十二月、黄巢は長安を犯し、僖宗は蜀に幸す。陳景思は李友金とともに沙陀諸部の五千騎を発し、南して京師に赴く。友金は即ち武皇の族父なり。
中和元年二月、友金の軍は絳州に至り、将に河を渡らんとす。刺史瞿稹、陳景思に謂ひて曰く、「巢賊は方に盛んなり、代北に且く還り、利害を徐に図るに如かず」と。四月、友金は軍を雁門に旋す。瞿稹は代州に至り、半月の間に、兵三万を募り、崞県の西に営す。其の軍は皆北辺五部の衆にして、軍法に閑かず。瞿正・李友金は制すること能はず。友金、景思に謂ひて曰く、「大衆を興し、大事を成さんには、威名素より著はるるを以てすべし、然らば則ち以て人を伏すべし。今軍は数万と雖も、苟も善き帥無くんば、進むも亦功無からん。吾が兄李司徒父子は、去歳国家に罪を獲たり、今北部に寄す。雄武の略、衆に推さる。若し驃騎急に奏して召還せば、代北の人、一麾に応じ、則ち妖賊平ぐるに足らず」と。景思之を然りとし、奏を行在に促す。天子乃ち武皇を以て雁門節度使とし、仍って本軍を以て賊を討たしむ。李友金は五百騎を発し、詔を齎して武皇を達靼に召す。武皇は即ち達靼諸部の万人を率ひ、雁門に趨く。五月、兵二万を整へ、南して京師に向かふ。太原の鄭従讜は兵を以て石嶺関を守る。武皇は乃ち軍を引きて他道より出づ。太原城下に至り、会に大雨、雁門に班師す。
中和二年八月、献祖は達靼部より其の族を率ひて代州に帰る。十月、武皇は忻・代・蔚・朔・達靼の軍三万五千騎を率ひ、難に赴きて京師に至る。先づ檄を太原に移す。鄭従讜は関を拒みて納れず。武皇は兵を以て之を撃ち、進軍して城下に至り、人を遣はし幣馬を齎して従讜に遺す。従讜も亦人を遣はし貨幣・饔餼・軍器を武皇に饋る。武皇は南に去り、陰地より晋・絳に趨く。十二月、武皇は河中に至る。
中和三年正月、晋国公王鐸、制を承けて武皇に東北面行営都統を授く。武皇は其の弟克修に前鋒五百騎を領せしめ、河を渡りて賊を視しむ。黄巢は将米重威を遣はし、重賂及び偽詔を齎して武皇に賜ふ。武皇は其の賂を納れて諸将に給し、其の偽詔を燔く。是の時、諸道勤王の師は京畿に雲集す。然れども賊勢尚ほ熾なるを以て、未だ鋒を争はざりき。武皇将に至らんとするに及び、賊帥相謂ひて曰く、「鴉児軍至る、当に其の鋒を避くべし」と。武皇は兵を以て夏陽より河を済る。二月、乾坑店に営す。黄巢の大将尚譲・林言・王璠・趙璋等、軍十五万を引きて梁田坡に屯す。翌日、大軍合戦し、午より晡に及び、巢賊大いに敗る。是の夜、賊衆は遁れて華州に拠る。武皇は進軍して之を囲む。巢の弟黄鄴・黄揆は固く守る。三月、尚譲は大軍を引きて赴援す。武皇は兵万余を率ひて零口に逆戦し、巢軍大いに敗る。武皇は進軍して渭橋に至る。翌日、黄揆は華州を棄てて遁る。王鐸、制を承けて武皇に雁門節度使・検校尚書左僕射を授く。四月、黄巢は長安を燔き、其の余衆を収め、東に走りて藍関に至る。武皇は時に京師を収む。七月、天子は武皇に金紫光禄大夫・検校左僕射・河東節度使を授く。
是の時、武皇は既に長安を収め、軍勢甚だ雄なり。諸侯の師は皆之を畏る。武皇は一目微かに眇なり、故に其の時「独眼竜」と号す。是の月、武皇は節を仗して鎮に赴く。使を遣はして鄭従讜に報じ、装を治めて朝に帰らんことを請ふ。武皇は郊外に次ぎ、因りて往きて雁門に赴き献祖を寧覲す。八月、雁門より河東の鎮に赴く。時に年二十有八。十一月、潞州を平ぐ。其の弟克修を表して昭義節度使とす。潞帥孟方立は邢州に退きて保つ。
十二月、許帥田従異・汴帥朱温・徐帥時溥・陳州刺史趙犨、各使を遣はして来告し、以て巢・蔡合従し、凶鋒尚ほ熾なるを以て、武皇に力を共にして賊を討たんことを請ふ。
中和四年春、武皇は蕃漢の師五万を率ひ、澤・潞より将に天井関を下らんとす。河陽節度使諸葛爽は河橋完からずと辞す。乃ち兵を万善に屯す。数日。軍を移し河陽より南に渡り、汝・洛に趨く。四月、武皇は徐・汴の師を合して尚譲を太康に破り、斬獲万計に及び、賊を西華に攻む。賊将黄鄴は営を棄てて遁る。是の夜大雨、巢の営中驚乱し、乃ち西華の壘を棄て、陳州北の故陽裏に退きて営す。五月癸亥、大雨震電し、平地水深さ数尺、賊営は水に漂はされて潰ゆ。戊辰、武皇は軍を引きて中牟に営し、賊を王満渡に大破す。庚午、巢賊大いに至り、汴を済りて北す。是の夜、復た大雨、賊党驚潰す。武皇は鄭州に営す。賊衆は分かれて汴境を寇す。武皇は汴を渡り、賊将の渡りて南せんとするに遇ひ、半ば済みて之を撃ち、大いに之を敗り、陣に臨みて賊将李周・王済安・陽景彪等を斬る。是の夜、賊大いに敗れ、残衆は胙県・冤句に保つ。大軍之に躡ひ、黄巢は乃ち妻子兄弟千余人を携へて東に走る。武皇は賊を追ひて曹州に至る。
その月、軍を返して汴を過ぎるに当たり、汴帥(朱全忠)は封禅寺にて出迎え慰労し、武皇(李克用)を府第に休ませんと請う。そこで従官三百人及び監軍使陳景思を上源駅に宿泊させた。その夜、音楽を奏で宴席を設け、汴帥自ら饗応を補佐し、珍しい財貨を出して勧めた。武皇は酒酣に及び、諸々の侍妓をからかい、汴帥と握手し、賊を破った事を語って楽しんだ。汴帥は元より武皇を忌んでいたので、その将楊彦洪と密かに謀りひそかに兵を起こし、彦洪は巷路に車を連ね柵を立て、奔り逃げる道を扼した。時に武皇の従官は皆酔っており、やがて伏兵が躍り出て、伝舎を攻めて来た。武皇はちょうど大いに酔っており、騒音は地を動かし、従官十余人が賊を防いだ。侍者郭景銖は燭を消して武皇を支え、茵幕で包み、床下に隠し、水を顔に振りかけ、ゆるやかに言う、「汴帥が司空を謀害せんとす!」武皇はようやく目を見開いて起き上がり、弓を引いて賊に抗した。しばらくして、煙火が四方から起こり、また大雨と雷電があり、武皇は従者の薛鉄山、賀回鶻ら数人を得て去った。雨水は注ぐが如く、人物を弁ぜず、電光に随って尉氏門に登り、城を縋り下りて出て、本営に還り得た。監軍陳景思、大将史敬思はともに害に遇う。武皇は既に営に還ると、劉夫人と向かい合って慟哭した。翌朝、軍を率いて汴を攻めんとしたが、夫人は言う、「司空は近ごろ国家のために賊を討ち、東の諸侯の急に赴きており、汴人の謀害はあれども、朝廷に論列すべきことあり。もし戈を反して城を攻めれば、則ち曲は我にあり、人は以て言い分と為すを得ん」と。そこで軍を収めて去り、汴帥に檄を馳せた。汴帥は報じて言う、「ひそかに兵を起こした夜は、僕の本心にあらず、朝廷が天使を遣わし牙将楊彦洪と同謀したのである」と。武皇は武牢関より西に蒲・陝に向かい旋軍した。秋七月、太原に至る。武皇は自ら累ねて大功を立てたが、汴帥に怨まれ謀られ、諸将を陷没させたことを以て、上章して理を申した。武皇の表が至ると、朝廷は大いに恐れ、内臣を遣わして宣諭し、やがて守太傅・同平章事・隴西郡王を加えた。
光啓元年三月、幽州の李可挙・鎮州の王景崇が連兵して定州を寇し、節度使王処存が武皇に援を求めた。武皇は大将康君立・安老・薛可・郭啜を遣わし兵を率いて赴かせた。五月、鎮人は無極を攻め、武皇は親しく兵を率いてこれを救った。鎮人は新城に退いて守り、武皇はこれを攻め、首級万余を斬り、馬千匹を獲た。王処存もまた易州において燕軍を破った。
十一月、河中の王重栄が使を遣わして師を乞い、かつ邠州の朱玫・鳳翔の李符が己に兵を加えんとすと言う。初め、武皇は汴人と怨みを構え、前後八表を上し、汴帥の官爵を削奪し、自ら本軍を以て進討することを請うた。天子は累ねて内臣楊復恭を遣わし旨を宣し、大體を全うすべしと命じたが、武皇は時に詔を奉ぜず、天子は頗る汴帥を右にした。時に観軍容使田令孜が君側に擅権し、王重栄と武皇が膠固なるを悪み、その勢を離さんとし、乃ち重栄を定州に移そうとした。重栄は武皇に告げ、武皇は上章して言う、「李符・朱玫は邪を挟み正を忌み、朱温を党庇す。臣は既に蕃漢軍五万を点検し、来年河を渡り、先ず朱玫・李符を斬り、然る後に朱温を平蕩せん」と。天子は表を覧て、使を遣わし百端譬諭し、軺伝相望んだ。やがて朱玫は邠・鳳の師を引きいて河中を攻め、王重栄は師を出して拒戦した。朱玫は沙苑に軍し、対壘すること月余り。十二月、武皇は軍を引きいて河を渡り、朱玫と決戦し、玫は大敗し、軍を収めて夜遁し、京師に入った。時に京城は大いに駭いた。天子は鳳翔に幸し、武皇は河中に軍を退けた。
光啓二年正月、僖宗は宝鶏に駐蹕し、武皇は河中より使を遣わし上章し、車駕の還京を請い、かつ大軍はただ凶党を誅するに止まると言う。時に田令孜は僖宗の南幸興元を請い、武皇は遂に班師した。朱玫は鳳翔において嗣襄王煴を立てて帝と為し、偽詔を以て武皇に賜うたが、武皇はこれを焼き、その使を械し、諸方鎮に檄を馳せ、使を遣わし行在に表を奉った。九月、武皇は昭義節度使李克修を遣わし孟方立を邢州において討たせ、焦崗において方立の衆を大いに破り、首級数千を斬った。大将安金俊を邢州刺史と為し、その降人を撫す。十月、邢州を進攻し、邢人は出戦したが、またこれを破った。孟方立は鎮州に援を求め、鎮人は兵三万を出して方立を援け、克修は班師した。
光啓三年六月、河中節度使王重栄が部将常行儒に殺され、武皇は重栄の兄重盈を帥と為すことを表した。七月、武皇は安金俊を沢州刺史と為した。時に張全義が河陽より沢州を拠え、李罕之が河陽を収復するに及び、全義を召して洛陽を守らせたので、全義は乃ち沢州を棄てて去り、故に金俊を以てこれを守らせた。
文徳元年二月、僖宗は興元より還京した。三月、僖宗崩御し、昭宗即位し、武皇を開府儀同三司・検校太師・兼侍中・隴西郡王と為し、食邑七千戸、食実封二百戸を賜う。河南尹張全義が潜かに兵を夜襲し李罕之を河陽において襲い、城陥ち、挙族全義に擄われる。罕之は垣を逾えて免れ、遂に来たりて武皇に帰す。李存孝・薛阿檀・史儼児・安金俊・安休休に七千騎を将いさせて罕之を河陽に送らせた。汴将丁会・牛存節・葛従周が兵を将いて赴援し、李存孝は精騎を率いて温県において逆戦した。汴人は既に太行の路を扼し、存孝は殿軍して退いた。騎将安休休は戦い利あらずと以て、蔡に奔る。武皇は罕之を沢州刺史と為し、遥かに河陽節度使を領す。十月、邢州の孟方立が大将奚忠信を遣わし兵三万を将いて遼州を寇し、武皇はこれを大いに破り、首級一万を斬り、奚忠信を生擒した。
龍紀元年五月、李罕之・李存孝を遣わし邢州を攻めさせた。六月、磁州を下す。邢将馬溉が兵数万を率いて来たり拒戦し、罕之は琉璃陂においてこれを破り、馬溉を生擒し、城下に徇す。孟方立は恚恨し、鴆を飲んで死す。三軍はその甥の遷を立てて留後と為し、汴に援を求めさせた。汴将王虔裕が精甲数百を率いて邢州に入り、罕之らは班師した。
大順元年、李存孝を遣わし邢州を攻めさせた。孟遷は邢・洺・磁の三州を以て降り、汴将王虔裕ら三百人を執って献じた。武皇は孟遷を太原に徙し、安金俊を邢洺団練使と為した。三月、昭義軍節度使李克修卒し、李克恭を潞州節度使と為す。この月、武皇は雲州を攻め、その東城を抜く。赫連鐸は燕に援を求め、燕帥李匡威が兵三万を将いて赴き、城下に戦い、燕軍大敗す。時に徐州の時溥が汴軍に攻められ、使を遣わして来たり援を求め、武皇は石君和に命じ兗・鄆より以てこれに赴かせた。
五月、潞州の軍が乱れ、節度使李克恭を殺し、州人は牙将安居受を推して留後とし、南は汴将と結ぶ。時に潞州の小将馮霸が叛徒三千騎を擁して沁水に駐屯し、居受は人を遣わしてこれを召すも、馮霸は至らず。居受は懼れ、出奔して長子に至り、村胥に殺され、その首は馮霸に伝えられる。馮霸は遂に潞州に入り、自ら留後となった。武皇は大将康君立・李存孝らを遣わしてこれを攻め、汴将朱崇節・葛従周は兵を率いて潞州に入り、これを固守した。この時、幽州の李匡威・雲州の赫連鐸は汴帥と謀を協え、連上表して太原に加兵することを請い、宰相張濬・孔緯はその事を賛成した。六月、天子は武皇の官爵を削奪し、張濬を招討使とし、京兆尹孫揆を副使とし、華州の韓建を行営都虞候とし、汴帥を河東南面招討使とし、幽州の李匡威を河東北面招討使とし、雲州の赫連鐸を副使とした。汴将朱友裕は兵を率いて晋・絳に屯し、時に汴軍は既に潞州を占拠し、また大将李讜らに数万の軍を率いさせ、急ぎ澤州を攻めさせた。武皇は李存孝を潞州より遣わし、三千騎を率いてこれを援けさせた。汴将鄧季筠が一軍をもって陣を犯すと、存孝は追撃し、その都将十数人を擒え、馬千余匹を獲た。この夜、李讜は軍を収めて退き、大軍は掩撃して馬牢関に至り、首級万余を斬り、追襲して懐州に至って還った。存孝はまた軍を引き、潞州を攻めた。
八月、存孝は新たに授けられた昭義節度使孫揆を擒えた。初め、朝廷は揆に節鉞を授け、本軍に刀黄嶺路を取って赴任させた。存孝はこれを偵知し、騎三百を引き、長子県の崖谷の間に伏せた。揆は牙を建て節を持ち、褒衣大蓋にて衆を擁して行く。存孝は谷口より突出し、遂に揆及び中使韓帰範、並びに将校五百人を擒えた。存孝は揆らを械し、組練をもってこれを繋ぎ、潞州を巡らせ、遂に武皇に献じた。武皇は揆に謂いて曰く、「公は搢紳の士、安言徐歩して達官に至るべし、何ぞ用ゆるか是の如くせん」と。揆は以て対する所なく、晋陽の獄に繋がることを命じられた。武皇は将に副使に用いんとし、人を遣わして誘うも、揆の言は遜らず、遂にこれを殺した。
九月、汴将葛従周は潞州を棄てて遁走し、武皇は康君立を潞州節度使とし、李存孝を汾州刺史とした。十月、張濬の師は晋州に入り、遊軍は汾・隰に至った。武皇は薛鉄山・李承嗣を遣わし、騎三千を率いて陰地関より出で、洪洞に営し、李存孝に兵五千を率いさせ、趙城に営させた。華州の韓建は壮士三百人をもって存孝の営を冒犯す。存孝は追撃し、直ちに晋州の西門を圧し、張濬の師は出戦すも、存孝に敗れ、ここより壁を閉じて出でず。存孝は軍を引き、絳州を攻めた。十二月、晋州刺史張行恭は城を棄てて奔り、韓建・張濬は含山路より遁去した。
大順二年春正月、武皇は上章して理を申し、その略に曰く、「臣今身に官爵無く、名は罪人なり、敢えて陛下の藩方に帰らず、且つ河中に寄寓せんと欲し、進退行止、伏して聖裁を候う」と。天子は尋いで守中書令を加えた。(《歐陽史》に曰く、二月、復た克用を河東節度使・隴西郡王に拝し、検校太師・兼中書令を加う。)この月、魏博は汴将葛従周に寇され、節度使羅弘信は使いを遣わして来援を求め、武皇は師を出してこれに赴いた。
三月、邢州節度使安知建は叛き、青州に奔る。天子は知建を神武統軍とし、棣州より河を溯って朝に帰らしむ。鄆州の朱瑄は河上にて邀え斬り、その首を晋陽に伝える。李存孝を以て邢州節度使とす。四月、武皇は大いに兵を挙げて赫連鐸を雲州に討ち、騎将薛阿檀に前軍を率いさせて進攻せしめ、武皇は伏兵を御河の上に設け、大いにこれを破り、因って塁を築きその城を守る。七月、武皇は柳会に進軍し、赫連鐸は力屈し食尽き、吐渾部に奔り、遂に幽州に帰す。雲州平ぐ。武皇は石善友を表して大同軍防禦使とす。邢州節度使李存孝は、鎮州の王熔が汴人に托附し、河朔を乱さんと謀り、北は燕寇に連なるを以て、雲・代の捷に乗じ、燕・趙を平定せんことを請う。武皇はこれを然りとす。八月、大いに晋陽に蒐し、遂に南巡して澤・潞に至り、地を略して懐・孟に及ぶ。河陽の趙克裕は風を望んで款を送り、鄰好を修めんことを請う。九月、邢州に蒐す。十月、李存孝は前軍を董て臨城を攻め、鎮人は五万をもって臨城西北の龍尾崗に営す。武皇は李存審・李存賢に歩軍を以てこれを攻めさせ、鎮人は大いに敗れ、殺獲万計に及び、臨城を抜き、元氏を進攻す。幽州の李匡威は歩騎五万をもって鄗邑に営し、以て鎮州を援けんとす。武皇は兵を分かち大いに掠め、軍を旋して邢州に至る。