舊五代史

梁書二十四: 列傳十四 李珽 盧曾 孫騭 張俊 張衍 杜荀鶴 羅隱 仇殷 段深

梁書二十四: 列傳十四 李珽 盧曾 孫騭 張俊 張衍 杜荀鶴 羅隱 仇殷 段深

李珽

原文李珽

李珽、字あざなは公度、隴西敦煌の人である。五世の祖の忠懿公李憕は大節あり、『唐史』に見える。父の李縠は懿宗・僖宗の朝に仕え、官は右諫議大夫に至った。李珽は聡明で悟りが早く、才学があり、特に詞賦をよくした。僖宗の朝、晉公王鐸が兵権を掌握し、滑台に鎮した時、李縠が賓客の席にあったが、王鐸が李珽を見て大いに賞賛した。二十四歳で進士第に登り、初めて官に就き校書郎を授かり、監察御史に任ぜられたが、間もなく母の喪に服した。以前より父の旅棺が遠方にあり、家が貧しく葬送の費用がなかったので、弟の李琪と共に臘月の雪の中、単衣の喪服を着て杖をつき、哀しみを帯びて人に頼み、これによって両親の改葬を果たした。李珽は一日に一溢の食を過ぎず、常に衰弱して喪屋の中に臥し起き上がれなかった。大いに当時の賢人に感歎された。喪が明け、再び御史に召されたが、痩せ衰えて起きられなかった。成汭が荊州を鎮守する時、召し出して掌書記としたが、時を経てようやく就任した。

原文李珽,字公度,隴西敦煌人。五世祖忠懿公憕,有大節,見《唐史》。父縠,仕懿、僖朝,官至右諫議大夫。珽聰悟,有才學,尤工詞賦。僖宗朝,晉公王鐸提兵柄,鎮滑台,縠居賓席,鐸見珽,大賞歎之。年二十四登進士第,解褐授校書郎,拜監察御史,俄丁內艱。先是,父旅殯在遠,家貧無以襄事,與弟琪當臘雪以單縗扶杖,銜哀告人,由是兩克遷祔。而珽日不過食一溢,恒羸臥喪廬中不能興。大為時賢所歎。憂闋,再征為御史,以瘠不起。成汭之鎮荊州,辟為掌書記,逾時乃就。

天復年間、淮の賊が大挙して夏口を包囲し、巴陵に迫った。太祖たいそはこれを憂い、急命を飛ばして成汭に水軍十万を率いて鄂州を救援させた。李珽が進言して言うには、「今、軍船は甲士千人を容れ、米穀はその倍を積載している。緊急時には動きがとれない。呉の兵は軽捷で、もし足止めされれば、武陵・武安はいずれも我が仇敵である。後顧の憂いが出よう。驍将を遣わして巴陵に駐屯させ、大軍は対岸に陣取り、一日も戦わなければ、呉の賊は糧食が尽き、鄂州の包囲は解けるでしょう。」成汭の性質は剛直で決断力があり、聞き入れなかった。淮軍は果たして風に乗じて火を放ち、船は全て焼かれ、兵は全て溺れ、成汭もまた自ら江に沈んだ。朗州・潭州の兵は遂に荊渚に入り、全て李珽の予想した通りであった。間もなく、襄陽の帥趙匡凝が再び奏上して掌記とし、朝廷に入って左補闕となった。また翌年、太祖が元帥となり、襄陽が自分に背いたので、兵を率いてこれを撃破し、趙匡凝は揚州に奔った。太祖は再び李珽を署して天平てんぺい軍掌書記とした。ある日、将佐を大いに集めた席で、李珽を指して言った、「これは真の書記である。」

原文天復中,淮寇大舉圍夏口,逼巴陵,太祖患之,飛命成汭率水軍十萬援於鄂。珽入言曰:「今舳艫容介士千人,載稻倍之,緩急不可動。吳人剽輕,若為所絆,則武陵、武安皆我之仇也,將有後慮;不如遣驍將屯巴陵,大軍對岸,一日不與戰,則吳寇糧絕,而鄂州圍解矣。」汭性剛決,不聽。淮人果乘風縱火,舟盡焚,兵盡溺,汭亦自沈於江,朗人、潭人遂入荊渚,一如所料。未幾,襄帥趙匡凝復奏為掌記,入為左補闕。又明年,太祖為元帥,以襄陽貳於己,率兵擊破之,趙匡凝奔揚州,太祖復署珽為天平軍掌書記。一日,大會將佐,指珽曰:「此真書記也。」

滄州節度使せつどし劉守文が命令に従わず、太祖は十余万の兵を率いてこれを包囲したが、長く落とせなかった。そこで李珽を召して檄文を草させた。李珽はすぐに外の控えの場所で、筆を止めず一気に書き上げ、その場で完成した。太祖は大いに賞賛した。太祖が禅譲を受けた年、宰臣が李珽を考功員外郎・知制誥に任じようとしたが、李珽は太祖が旧臣をいきなり清要な官に超擢することを望んでいないと推し量り、三度上章して固辞した。優詔で褒められ許され、まもなく本官のまま曹州事を監察した。曹州は京師から数舎の距離にあり、吏民は豪強で狡猾で、前後十余りの長官で善政を以て去った者はなかった。李珽が任にあった一年、民衆は安寧であった。朝廷に入って兵部郎中・崇政院学士となった。間もなく、許州の帥馮行襲の病が重いため、出向して許州留後となった。以前より、馮行襲には牙兵二千があり、皆蔡州の人であった。太祖は深く憂慮し、李珽を急派してこれを偵察させた。李珽は宿舎に着くと、将吏を召して自ら慰撫した。馮行襲は人を遣わして代わりに詔書を受け取ろうとしたが、李珽は言った、「東を首にして朝服を着けるのが礼である。」そこで寝室で詔書を宣し、よく養生し、もし万一のことがあっても子孫は皆後の福を保つようにと命じた。馮行襲は泣いて謝し、二つの印を解いて李珽に授け、軍府の事を代わりに掌らせた。太祖は上奏文を見て言った、「私はもとより李珽が必ず我が事を成し遂げると知っていた。馮行襲の家門は不朽であろう。」そこで李珽を匡国軍留後とし、まもなく召し出して左諫議大夫兼宣徽副使とした。太祖に従って魏県に征し、内黄を通った時、行宮の厩舎のそばに侍立していた。太祖が振り返って言った、「ここはなぜ内黄という名か。」李珽は言った、「河南に外黄・小黄があるので、ここに内黄があるのです。」また、「どこにあるのか。」と問うと、答えて言った、「秦に外黄都尉があり、外黄を治め、古い城壁があり、今は雍丘にある。小黄は高斉によって廃され、その古い城壁は今陳留にある。」太祖は幾度も称賛した。

原文滄州節度使劉守文拒命,太祖引兵十餘萬圍之,久而未下,乃召珽草檄。珽即就外次,筆不停綴,登時而成,大為太祖嗟賞。受禪之歲,宰臣除為考功員外郎、知制誥,珽揣太祖未欲首以舊僚超拜清顯,三上章固辭,優詔褒允,尋以本官監曹州事。曹去京數舍,吏民豪猾,前後十餘政,未有善罷者。珽在任期歲,眾庶以寧。入為兵部郎中、崇政院學士。未幾,以許帥馮行襲疾甚,出為許州留後。先是,行襲有牙兵二千,皆蔡人也,太祖深以為憂,乃遣珽馳往,以伺察之。珽至傳舍,召將吏親加撫慰。行襲欲使人代受詔,珽曰:「東首加朝服,禮也。」乃於臥內宣詔,令善自補養,苟有不諱,子孫俱保後福。行襲泣謝,遂解二印以授珽,代掌軍府事。太祖覽奏曰:「予固知珽必辦吾事,行襲門戶不朽矣。」乃以珽為匡國軍留後,尋征為左諫議大夫兼宣徽副使。從征至魏縣,過內黃,因侍立於行廄,太祖顧曰:「此何故名內黃?」珽曰:「河南有外黃、小黃,故此有內黃。」又曰:「在何處?」對曰:「秦有外黃都尉,理外黃,有故墉,今在雍丘。小黃為高齊所廢,其故墉今在陳留。」太祖稱獎數四。

及び庶人朱友珪が帝位を簒奪すると、右散騎常侍に任じ、侍講学士を充てた。宮中で討伐が行われた日、軍士が大いに騒ぎ、李珽はその夜、乱兵に傷つけられ、洛陽らくようで卒した。李珽は性質孝友で、弟の李琪と睦まじく愛し合い、搢紳の称賛するところであった。

原文及庶人友珪篡位,除右散騎常侍,充侍講學士。內討之日,軍士大擾,珽其夕為亂兵所傷,卒於洛陽。珽性孝友,與弟琪有敦睦之愛,為搢紳所稱。(案:《歐陽史》有《裴迪》、《韋震傳》,今原文已佚,無可采補。)

盧曾

原文盧曾

盧曾、字は孝伯、その先祖は范陽の人である。書を好み、守るところがあった。初め齊州防禦使朱瓊の従事となり、朱瓊が降伏する時、その謀議ぼうぎに与かり、共に来た。朱瓊が没すると、太祖に召されて宣義幕職となった。盧曾の性質は忠直で偏屈で、直言を好んだが、また衆に受け容れられることもできず、勲臣の府で宴会の言葉が少し和らぐと、盧曾は率然と糾正し、いつもまた上意に逆らった。左長直軍使劉捍は委任が重く、盧曾もまた不平であった。冀王朱友謙が初めて陝府を平定した時、盧曾に命じて議事に行かせた。使院の小将が従行したが、酒を嗜み、放逸で度を過ぎた。盧曾が復命する時、その罪を発しようとし、上疏文を袖の中にしまっていたが、数日経っても言い出せなかった。小将は事が漏れるのを恐れ、先に盧曾が酒に任せて軍事を危うくしたと誣告した。劉捍がこれを証言したため、これによって職を罷め、齊州の別荘に帰った。間もなく王師範が兵を起こして叛いた。太祖は急いで盧曾を召し、彼に言った、「そなたが口を滑らかにして青州を説き、盟に背かせなければ、私はそなたに背かない。」盧曾は檄文を持って行った。青州に着くと、王師範は彼を囚え、淮南に送り、殺害された。後に太祖は王師範の罪を暴いて言った、「我が骨肉を失わせ、我が賓僚を殺した。」遂に彼を族誅した。そこで盧曾の二人の子を召し、皆官を授けた。

原文盧曾,字孝伯,其先范陽人也。頗好書,有所執守。始為齊州防禦使朱瓊從事,瓊降,預其謀,與之皆來。瓊沒,太祖辟為宣義幕職。曾性忠狷,好貢直,又不能取容於眾,每勳府宴語稍洽,曾率然糾正,輒又忤旨。左長直軍使劉捍委任方重,曾亦不能平。冀王友謙初定陝府,命曾往議事,有使院小將從行,嗜酒,荒逸過度。曾復命,欲發其罪,致疏於袖中,累日未果言。小將恐事泄,先誣告曾使酒,幾敗軍事,劉捍因證之,由是罷職,歸於齊之別墅。俄而王師範起兵叛,太祖促召曾,謂之曰:「子能緩頰說青州使無背盟,吾不負子矣。」曾持檄以往。既至青,師範囚之,送於淮南,遇害。後太祖暴師範之罪曰:「喪我骨肉,殺我賓僚。」遂族誅之。因召曾二子,皆授以官。

孫騭

原文孫騭

孫騭、滑台の人。学を好み書を知り、わずかに文辞の才があった。唐の光啓年間、魏博従事公乗億が娘を彼に嫁がせ、そこで箋奏の様式を教えた。当時中原は多難で、文章の士は姿を潜め跡をくらまし自ら顕れなかった。公乗億が死ぬと、魏博の帥は章表箋疏が滞積し、一ヶ月経っても一字も発することができなかった。ある者が孫騭のことを言上したので、すぐに本職に任じ、奏記の事を主管させた。累遷して職は支使・掌記から節度判官に至り、奏官は校書・御史郎官・中丞・検校けんぎょう常侍から兵部尚書に至った。太祖が天下を治め、潜龍の時を思い起こすと、孫騭はその主君に仕え、好んで往来数十返し、大いにこれを記録した。開平三年、右諫議大夫に任じ、満一年で左散騎常侍に遷った。孫騭は風雅で書を集めることを好み、『六経』・漢代の史書から百家の言に至るまで、凡そ数千巻を所有し、いずれも書簡が精巧で、校勘を詳しく定め、暇があれば朝夕耽って玩み、少しも怠ることがなかった。乾化二年春、太祖が北巡を議し、朝士三十余人を選んで扈従させた。二月甲子、車駕は洛陽を発った。午前中、白馬頓に至り、文武の官を召して食事をさせたが、従臣が未だ集まらないので、駐蹕してこれを待った。また飛騎を命じて道中を急がせたが、孫騭と諫議大夫張衍・兵部郎中張俊らは累刻を経てようやく到着した。太祖の性質は元来短気であったため、これによって大いに怒り、共に前の階段の前で格殺した。

原文孫騭,滑台人。嗜學知書,微有辭筆。唐光啟中,魏博從事公乘億以女妻之,因教以箋奏程式。時中原多難,文章之士,縮影竄跡不自顯。億既死,魏帥以章表箋疏淹積,兼月不能發一字,或以騭為言,即署本職,主奏記事。累遷職自支使、掌記至節度判官;奏官自校書、御史郎官、中丞、檢校常侍至兵部尚書。太祖禦天下,念潛龍時,騭奉其主,好問往來數十返,甚錄之。開平三年,除右諫議大夫,滿歲,遷左散騎常侍。騭雅好聚書,有《六經》、漢史洎百家之言,凡數千卷,皆簡翰精至,披勘詳定,得暇即朝夕耽玩,曾無少怠。乾化二年春,太祖將議北巡,選朝士三十餘人扈從。二月甲子,車駕發自洛陽。禺中,次白馬頓,召文武官就食,以從臣未集,駐蹕以俟之;又命飛騎促於道,而騭與諫議大夫張衍、兵部郎中張俊等累刻方至,太祖性本卞急,因茲大怒,並格殺於前墀。

張俊

原文張俊

張俊、字は彥臣。祖父・父ともに当時名を知られていた。張俊は幼くして孤となり、自ら修飾し、五言詩をよくし、その警句は人に称賛された。唐の広明年間、黄巢が京師を犯し、天子が蜀に幸すると、士は皆窟穴に竄伏してその命を保った。張俊もまた跡を晦まして流浪したが、その道を失わなかった。僖宗が京師に還ると、校書郎・西畿尉から朝廷に登り、御史・補闕・起居郎・司勳員外・萬年県令となったが、事によって峽中に官を免ぜられ、ほぼ十年に及んだ。太祖が即位し、宰臣薛貽矩を塩鉄使に用いた。張俊は薛貽矩と同年に登第し、その才能をよく知っていたので、すぐに奏上して塩鉄判官とし、職を遷して礼部郎中とし、兼職は元のままとした。乾化二年二月、扈従が遅れて到着し、孫騭・張衍と同じ日に白馬頓で禍に遇った。

原文張俊,字彥臣。祖、父咸有聞於時。俊少孤,自修飾,善為五言詩,其警句頗為人所稱。唐廣明中,黃巢犯京師,天子幸蜀,士皆竄伏窟穴,以保其生。俊亦晦跡浮泛,不失其道。及僖宗還京師,由校書郎、西畿尉登朝為御史、補闕、起居郎、司勳員外、萬年縣令,以事黜官峽中,將十年。太祖即位,用宰臣薛貽矩為鹽鐵使,俊與貽矩同年登第,甚知其才,即奏為鹽鐵判官,遷職為禮部郎中,兼職如故。乾化二年二月,扈從後至,與孫騭、張衍同日遇禍於白馬頓。

張衍

原文張衍

張衍は字を元用といい、河南尹魏王宗奭の猶子(甥)である。その父は戦乱の中で死んだ。衍は読書を楽しみ儒を志し、初め経学で科挙に応じたが、選に漏れた。時に諫議大夫鄭徽が洛陽に退隠し、娘を彼に嫁がせ、そこで辞科(博学宏詞科か)を受験させ、数回もせずに及第した。唐の昭宗が東遷した時、宗奭の勲功が高く重かったため、衍は校書郎から左拾遺に任ぜられ、間もなく翰林学士に召された。太祖(朱全忠)が即位すると、これを罷免し、特に考功郎中に任じ、ほどなく右諫議大夫に遷った。衍は生業を巧みに営み、蓄積を好んだ。太祖が北伐しようとした時、扈従の間に費用が消耗することを大いに気にかけ、しばしば宰執に頼んでこの行を免れようとした。太祖はこれを微かに聞き、また召しに応じるのが遅かったことから、孫騭らと同日に禍に遇った。

原文張衍,字元用,河南尹魏王宗奭之猶子也。其父死於兵間。衍樂讀書為儒,始以經學就舉,不中選。時諫議大夫鄭徽退居洛陽,以女妻之,遂令應辭科,不數上登第。唐昭宗東遷,以宗奭勳力隆峻,衍由校書郎拜左拾遺,旋召為翰林學士。太祖即位,罷之,特拜考功郎中,俄遷右諫議大夫。衍巧生業,樂積聚。太祖將北伐,頗以扈從間糜耗力用係意,屢幹托宰執求免是行;太祖微聞之,又屬應召稽晚,與孫騭等同日遇禍。

杜荀鶴

原文杜荀鶴

杜荀鶴は池州の人である。(辛文房『唐才子傳』によれば、荀鶴は字を彥之といい、杜牧の微子(庶子か)である。)詩をよくし、辞句は理に適い、当時に認められた。及第した後、再び旧山(故郷)に帰った。(『唐才子傳』によれば、荀鶴はかつて梁王朱全忠に謁し、共に座っていた時、突然雲なくして雨が降り、王は天が泣いて不祥であると思い、詩を作らせたところ、意にかなったので王は喜んだ。荀鶴は寒進(貧しい出身の登第者)で、文場(科挙)で連敗し、甚だ苦しんだが、この時に至って春官(礼部)に送られた。大順二年、裴贄侍郎が第八人を及第させ、正月十日に放榜したが、これは正に荀鶴の誕生日であった。王希羽が詩を献じて言うには、「金榜曉懸生世日、玉書潛記上升時。九華山色高千尺、未必高於第八枝。」また、『唐新纂』に云う、荀鶴は進士に及第し、東に帰る途中、夷門を過ぎ、梁太祖に詩句を献じて「四海九州空第一、不同諸鎮府封王。」と云った。これによれば、荀鶴が梁祖に知られたのは以前からであり、田頵の箋問(手紙による紹介)を待って初めて遇されたのではない。)時に田頵が宣州におり、彼を甚だ重んじた。頵が兵を起こそうとした時、密かに手紙を持たせて問い合わせさせたが、太祖は彼を頗る厚く遇した。頵が禍に遇った後、太祖はその才能を認めて上表し、間もなく翰林学士・主客員外郎を授けた。その後、太祖の勢いを恃み、あらゆる縉紳の中で自分が快く思わない者に対し、日々指を折って怒りながら数え、尽く殺そうと謀った。その企てが漏れる前に重い病気にかかり、十日ほどで卒した。

原文杜荀鶴,池州人。(辛文房《唐才子傳》:荀鶴,字彥之,牧之微子也。)善為詩,辭句切理,為時所許。既擢第,復還舊山。(《唐才子傳》:荀鶴嘗謁梁王朱全忠,與之坐,忽無雲而雨,王以為天泣不祥,命作詩,稱意,王喜之。荀鶴寒進,連敗文場,甚苦,至是送春官。大順二年,裴贄侍郎放第八人登科,正月十日放榜,正荀鶴生朝也。王希羽獻詩曰:「金榜曉懸生世日,玉書潛記上升時。九華山色高千尺,未必高於第八枝。」又,《唐新纂》云:荀鶴舉進士及第,東歸,過夷門,獻梁太祖詩句云:「四海九州空第一,不同諸鎮府封王。」是則荀鶴之受知於梁祖舊矣,不待田頵之箋問而始被遇也。)時田頵在宣州,甚重之。頵將起兵,乃陰令以箋問至,太祖遇之頗厚。及頵遇禍,太祖以其才表之,尋授翰林學士、主客員外郎。既而恃太祖之勢,凡搢紳間己所不悅者,日屈指怒數,將謀盡殺之。苞蓄未及泄丁重疾,旬日而卒。

羅隱

原文羅隱

羅隱(『唐才子傳』によれば、隱は字を昭諫という)は餘杭の人である。詩名は天下に知られ、特に詠史に長じていたが、多くを譏諷したため、故に及第せず、唐の宰相鄭畋・李蔚に大いに知られた。隱は文名を負うものの、容貌は古風で醜かった。畋の娘は幼い頃から文才があり、かつて隱の詩巻を読み、誦詠してやまなかったので、畋は娘が才を慕う心があるのではないかと疑った。ある日、隱が邸に来た時、鄭女が簾を垂れて覗き見し、それ以降は決して彼の詩を詠まなくなった。唐の廣明年中、乱に因って郷里に帰り、節度使錢鏐に召し出されて従事となった。開平初年、太祖が右諫議大夫として招聘したが、至らなかった。魏博節度使羅紹威が密かに上表して推薦したため、給事中を授かった。八十余歳で、錢塘にて終わった。(『澗泉日記』に云う、唐の光啓三年、呉越王が上表して錢塘令とし、著作郎に遷り、掌書記に召された。天祐三年、判官を充てた。梁の開平二年、給事中を授かる。三年、発運使に遷る。この年に卒し、定山郷に葬られた。金部郎中沈崧がその墓に銘を刻んだ。)文集数巻が世に行われている。(『唐才子傳』に云う、隱の著すところの『讒書』、『讒本』、『淮海寓言』、『湘南應用集』、『甲乙集』、外集啓事など、並びに世に行われる。『五代史補』:羅隱は科場において、才を恃んで物に傲り、特に公卿に憎まれたため、六回挙げても及第しなかった。時に長安ちょうあんに羅尊師という者がおり、相術に深く、隱は容貌の醜さを恐れ、相術に見捨てられるのを恐れ、尊師と接談する度に、常に尊大に振る舞ってこれを沮んだ。累々と落第した後、已むなく始めて尋ねた。尊師は笑って言う、「貧道は久しく知っていたが、ただ貴殿が一第(一度の及第)に執着しているので、語るに及ばなかった。今日の事、貧道が敢えて隠すことがあろうか。かつ貴殿の一第について、貧道が観るに、たとえ群英の首に冠っても、簿尉に過ぎない。もし挙を罷めて、東に帰り霸国を求めて用いられれば、必ず富み且つ貴くなるであろう。二つの道、貴殿は自ら選ぶがよい。」隱は茫然として数日間どうしてよいか分からなかった。隣家に飯を売る老女がおり、隱を見て驚いて言う、「どうして顔色がそんなに沮喪しているのか、決断できないことがあるのではないか。」隱は彼女が知っていると思い、因って尊師の言葉を全て告げた。媼は歎息して言う、「秀才はどうしてそんなに自ら迷うのか。天下みな羅隱を知っているのに、どうして一第を必要としてから得とするのか。富貴を急ぎ取る方がよい、それが老婆の願いだ。」隱はこれを聞いて晴れ晴れとし、遂に錢塘に帰った。時に錢鏐がまさに両浙を得ており、彼を幕府に置き、軍中の書檄を掌らせ、その後官は給事中となった。初め、隱が上京を罷めて中書省を去った日、費用に窮し、因って魏に至り鄴王羅紹威を謁しようとした。その境に入る前に、先ず書を送ってその家世を述べたところ、鄴王は彼を甥とした。幕府の僚吏がその書を見て、皆怒って言う、「羅隱は一介の布衣に過ぎないのに、大王を甥扱いするとは、どういうことか。」紹威は平素より士を重んじ、且つ言う、「羅隱は名を天下に振るい、王公大夫も多く彼に軽んじられている。今、惠然として顧みてくれるのに、どうしてこれに勝てようか。甥の列に得られるのは幸いが多いのだ。敢えて恭しみを致さないことがあろうか。諸公は慎んで言うな。」そこで旌旗を擁して郊外に迎え、一見して即ち拝礼したが、隱も譲らなかった。将に行かんとする時、紹威は百万を贈り、他の物もこれに相応し、更に錢鏐に書を致して叔父と呼び、鏐はまず彼を用いた。)

原文羅隱,(《唐才子傳》:隱字昭諫。)餘杭人。詩名於天下,尤長於詠史,然多所譏諷,以故不中第,大為唐宰相鄭畋、李蔚所知。隱雖負文稱,然貌古而陋。畋女幼有文性,嘗覽隱詩卷,諷誦不已,畋疑其女有慕才之意。一日,隱至第,鄭女垂簾而窺之,自是絕不詠其詩。唐廣明中,因亂歸鄉里,節度使錢鏐辟為從事。開平初,太祖以右諫議大夫征,不至。魏博節度使羅紹威密表推薦,乃授給事中。年八十餘,終於錢塘。(《澗泉日記》云:唐光啟三年,吳越王表奏為錢塘令,遷著作郎,辟掌書記。天祐三年,充判官。梁開平二年,授給事中。三年,遷發運使。是年卒,葬於定山鄉。金部郎中沈崧銘其墓。)有文集數卷行於世。(《唐才子傳》云:隱所著《讒書》、《讒本》、《淮海寓言》、《湘南應用集》、《甲乙集》、外集啟事等,並行於世。《五代史補》:羅隱在科場,恃才傲物,尤為公卿所惡,故六舉不第。時長安有羅尊師者,深於相術,隱以貌陋,恐為相術所棄,每與尊師接談,常自大以沮之。及其累遭黜落,不得已始往問焉。尊師笑曰:「貧道知之久矣,但以吾子決在一第,未可與語。今日之事,貧道敢有所隱乎!且吾子之於一第也,貧道觀之,雖首冠群英,亦不過簿尉爾。若能罷舉,東歸霸國以求用,則必富且貴矣。兩途,吾子宜自擇之。」隱懵然不知所措者數日。鄰居有賣飯媼,見隱驚曰:「何辭色之沮喪如此,莫有不決之事否?」隱謂知之,因盡以尊師之言告之。媼歎曰:「秀才何自迷甚焉,且天下皆知羅隱,何須一第然後為得哉!不如急取富貴,則老婆之願也。」隱聞之釋然,遂歸錢塘。時錢鏐方得兩浙,置之幕府,使典軍中書檄,其後官給事中。初,隱罷上中書之日,費窘,因抵魏謁鄴王羅紹威,將入其境,先貽書敘其家世,鄴王為侄。幕府僚吏見其書,皆怒曰:「羅隱一布衣爾,而侄視大王,其可乎!」紹威素重士,且曰:「羅隱名振天下,王公大夫多為所薄,今惠然肯顧,其何以勝!得在侄行,為幸多矣,敢不致恭,諸公慎勿言。 」於是擁旆郊迎,一見即拜,隱亦不讓。及將行,紹威贈以百萬,他物稱是,仍致書於鏐謂叔父,鏐首用之。)

仇殷

原文仇殷

仇殷は、何郡の人か知られていない。開平年中、欽天監に仕え、象緯暦数に明るく、その術芸は精密で、近世に比べる者がなかった。光化年中、太祖が滑州におられた時、密王友倫に兵三万を遣わして幽州の軍十余万を防がせたが、甚だ敵わぬことを深く憂慮し、殷を召して問うた、「陣は行えるか。」曰く、「その十四日過禺中(午前十一時頃)であろうか。」また問うと、曰く、「賊は敗れて塗地となる。」また曰く、「既望(十六日)には、捷報を見るであろう。」果たしてその言う通りで、時刻も違わなかった。太祖が長蘆におられた時、諸将が壁を攻めることを請い、軍中に号令して、人ごとに槁(枯れ草)二囲みを負わせ、千積みに置いたが、俄かに雲のように集まった。殷が言う、「何に用いるのか。」ある者がその謀りごとを告げると、殷は言う、「私が占ったが、壁を攻める象が見えない。自ら退くのではないか。」翌日、騎馬の者が馳せて報せ、丁会が潞州で叛いたという。太祖はその槁を全て焼き尽くして帰還するよう命じ、攻撃を完遂しなかった。開平年中、殷が一日朝罷して、崇政院を通り過ぎた時、使の敬翔が直閣していた。翔がこれを問うて言う、「月が房宿の次星を犯し、その逼る様は綴り付くようだ。これは何の兆しか。」曰く、「常の度合いです。」殷は言わないつもりだったが、数歩過ぎてから、黙っていてはならないと自ら思い、乃ち戻って言う、「二、三日の内に不順な言葉が至るでしょう。急に恐れることなかれ。宜しく先ず上(皇帝)に知らせるべきです。」二日後、陝府から奏上があり、同州の劉知俊が関を閉じて叛いた。初め、王景仁が出師した時、殷が上言した、「太陰が虧けています。深く入るのは不利です。」太祖は急ぎ使者を遣わして止めさせたが、既に柏郷で敗れていた。殷の見るところ、触れる類いみなこのようで、備えて記録することはできない。しかしながら畏慎すること特に甚だしく、平素は沈黙して、敢えて明言することはなかった。たとえ事跡を言う時も、ただその語音のみで、完全に理解できなかったため、故に屡々責罰を被った。後に官の任上で卒した。

原文仇殷,不知何郡人也。開平中,仕至欽天監,明於象緯曆數,藝術精密,近無其比。光化中,太祖在滑,遣密王友倫以兵三萬禦幽州之師十餘萬,深慮其不敵,召殷問曰:「陣可行乎?」曰:「其十四日過禺中乎!」又問之,曰:「賊敗塗地。」又曰:「既望,當見捷書。」果如其言,不失晷刻。太祖之在長蘆也,諸將請攻壁,號令軍中,人負槁二圍,置千積,俄而雲集。殷曰:「何用?」或以所謀告之,殷曰:「我占矣,不見攻壁象,無乃自退乎!」翌日,有騎馳報丁會以潞州叛,太祖令盡焚其槁而還,不克攻。開平中,殷一日朝罷,過崇政院,使敬翔直閣,翔問之曰:「月犯房次星,其逼若綴,是何祥也?」曰:「常度耳。」殷欲不言,既過數步,自度不可默,乃反言曰:「三兩日當有不順語至,無或驟恐,宜先白上知。」既二日,陝府奏同州劉知俊閉關作叛。初,王景仁之出師也。殷上言:「太陰虧,不利深入。」太祖遽遣使止之,已敗於柏鄉矣。殷所見觸類如是,不可備錄。然而畏慎特甚,居常寢默,未嘗敢顯言。縱言事跡,惟其語音,不可盡曉,以故屢貽責罰。後卒於官。

段深

原文段深

段深は、何処の者か知れない。開平年間(907-911年)に、医術に優れていることで翰林院に待詔として仕えた。時に太祖(朱全忠)は長らく病を患い、その小便は甚だ濁っていた。僧侶の曉微が薬を奉じて侍ることに効果があり、紫衣と師号を賜り、賞賜は甚だ厚かった。間もなく病が再発し、曉微は服色を剥奪され、師号を除かれた。そこで(太祖は)段深を召して問うた、「病が癒えてはまた発する。草薬は頼りにならない。我が左右で丹石(鉱物性の薬)を服用して効を奏した者は多い。それを服用するのはどうか」。段深は答えて言った、「臣はかつて詔を奉じて診脈いたしました。陛下は憂慮と勤労が積もり、調理と養生を失い、脈は代・芤(不整脈の一種)で心気はますます虚しています。臣は、まず心を治めるべきであり、心が平和になれば小便も清らかに変わり、その時こそ湯薬を進めるべきで、丹石を服用すべきではないと考えます。臣が謹んで考察しますに、『太倉公伝』に言う、『中熱(内熱)で小便が出ない者は石薬を服用してはならない。石の性質は精悍で、大毒がある』と。およそ毒薬を服用するのは甲兵(武備)を用いるようなもので、やむを得ずこれを用いるのであり、危殆がなければ服用すべきではありません」。太祖はこれを良しとし、湯薬を進めるよう命じた。病はやや癒え、そこで幣帛を賜った。

原文段深,不知何許人。開平中,以善醫待詔於翰林。時太祖抱疾久之,其溲甚濁,僧曉微侍藥有征,賜紫衣師號,錫賚甚厚。頃之疾發,曉微剝服色,去師號。因召深問曰:「疾愈復作,草藥不足恃也,我左右粒石而效者眾矣,服之如何?」深對曰:「臣嘗奉詔診切,陛下積憂勤,失調護,脈代芤而心益虛。臣以為宜先治心,心和平而溲變清,當進飲劑,而不當粒石也。臣謹案,《太倉公傳》曰:『中熱不溲者不可服石,石性精悍,有大毒。』凡餌毒藥如甲兵,不得已而用之,非有危殆,不可服也。」太祖善之,令進飲劑,疾稍愈,乃以幣帛賜之。