舊五代史

梁書二十三: 列傳十三 劉鄩 賀瑰 康懷英 王景仁

梁書二十三: 列傳十三 劉鄩 賀瑰 康懷英 王景仁

劉鄩

原文劉鄩

劉鄩は、密州安丘県の人である。祖父の綬は密州の戸掾を務め、累贈して左散騎常侍となった。父の融は安丘令となり、累贈して工部尚書となった。鄩は幼少より大志を抱き、兵略を好み、史伝に広く通じた。唐の中和年間、青州節度使せつどし王敬武に仕えて小校となった。敬武が卒すると、三軍はその子の師範を推して留後とし、朝廷は崔安潜を青州に鎮めさせようとしたが、州人はこれを拒んだ。棣州刺史の張蟾が師範を襲撃せんとし、師範は都指揮使の盧宏を遣わして棣州を攻撃させたが、盧宏はかえって張蟾と通じ、偽って軍を返して師範を襲撃しようとした。師範はこれを察知し、伏兵を設けて盧宏を迎え、やがてこれを饗応するにあたり、あらかじめ劉鄩に戒めて言うには、「盧宏が来たら直ちに斬れ」と。劉鄩は約束どおりに、座上で盧宏を斬り、乱に加わった者を皆誅した。師範は劉鄩を馬歩軍副都指揮使とし、棣州を攻め落として張蟾を殺し、朝廷はこれにより師範を平盧軍節度使に任じた。光化初年、師範は劉鄩を登州刺史に上表した。一年余りして、淄州刺史に移り、行軍司馬を署任された。

原文劉鄩,密州安丘縣人也。祖綬,密州戶掾,累贈左散騎常侍。父融,安丘令,累贈工部尚書。鄩幼有大志,好兵略,涉獵史傳。唐中和中,事青州節度使王敬武為小校。敬武卒,三軍推其子師範為留後,朝廷命崔安潛鎮青州,州人拒命。棣州刺史張蟾將襲師範,師範遣都指揮使盧宏攻棣州,宏反與蟾通,偽旋軍以襲師範。師範知之,設伏兵以迎宏,既而享之,先誡鄩曰:「宏至即斬之。」鄩如約,斬弧於座上,同亂者皆誅之。師範以鄩為馬步軍副都指揮使,攻下棣州,殺張蟾,朝廷因授師範平盧軍節度使。光化初,師範表鄩為登州刺史。歲餘,移刺淄州,署行軍司馬。

鄩が降伏すると、従周は行装と服馬を整え、劉鄩に大梁へ帰るよう請うた。劉鄩は言う、「梁王が釈放の旨を賜わっていないのに、肥馬に乗り裘を着ることは、敢えて命に従うわけにはまいりません」と。即ち素服で驢馬に跨って出発した。謁見に臨むにあたり、太祖たいそは冠帯を賜わろうとしたが、劉鄩は言う、「累囚は罪を負っております。縛られたまま入ることを請います」と。太祖は許さなかった。謁見の際、しばらく慰撫し、かつ酒を飲ませようとしたところ、劉鄩は量が少ないことを太祖に告げた。太祖は言う、「兗州を取った時の量は、何と大きかったことか!」。やがて元従都押牙に任じた。太祖の牙下の諸将は皆、四鎮の旧人であったが、劉鄩は一朝にして羈旅の臣として、突然衆人の上位に立ち、諸将と相見える際には、皆階庭の礼を用いたので、太祖は特にこれを奇異として重んじた。間もなく、鄜州留後に上表した。この時、邠・岐の軍勢がしばしばその境を侵したが、劉鄩は防禦を周到に行い、太祖はその地が遠いことを慮り、劉鄩を失うことを憂えて、直ちに郡を棄てて軍を率い同州に駐屯するよう命じた。天祐二年二月、右金吾きんご衛大将軍を授かり、街使を充任した。三年正月、太祖が元帥の任に就くと、劉鄩を元帥府都押牙とし、執金吾の職は従前の通りとした。開平元年、右金吾上将軍を授かり、諸軍馬歩都指揮使を充任した。その年秋、諸将とともに潞州を征伐し、検校けんぎょう司徒しとに遷った。三年二月、右威衛上将軍に転じ、前の通り諸軍馬歩都虞候を兼ねた。五月、左龍武統軍に改め、侍衛親軍馬歩軍都指揮使を充任した。

原文鄩既降,從周具行裝服馬,請鄩歸大梁。鄩曰:「未受梁王舍釋之旨,乘肥衣裘,非敢聞命。」即素服跨驢而發。及將謁見,太祖令賜冠帶,鄩曰:「累囚負罪,請就縶而入。 」太祖不許。及見,慰撫移時,且飲之酒,鄩以量小告太祖。太祖曰:「取兗州,量何大耶!」旋授元從都押牙。太祖牙下諸將,皆四鎮舊人,鄩一旦以羈旅之臣,驟居眾人之右,及與諸將相見,並用階庭之禮,太祖尤奇重之。未幾,表為鄜州留後。是時,邠、岐之眾,屢寇其境,鄩禦捍備至,太祖以其地遠,慮失鄩,即令棄郡引軍屯於同州。天祐二年二月,授右金吾衛大將軍,充街使。三年正月,太祖授元帥之任,以鄩為元帥府都押牙,執金吾如故。開平元年,授右金吾上將軍,充諸軍馬步都指揮使。其年秋,與諸將征潞州,遷檢校司徒。三年二月,轉右威衛上將軍,依前諸軍馬步都虞候。五月,改左龍武統軍,充侍衛親軍馬步軍都指揮使。

その年夏、同州の劉知俊が反逆し、岐人を引きいて長安ちょうあんを襲撃占拠し、兵を分けて河・潼を扼した。太祖は陝に幸し、劉鄩に西討を命じた。劉鄩は奮って直ちに潼関を奪取し、知俊の弟知浣を生け捕りにして献上した。遂に兵を率いて長安を回復し、知俊は郡を棄てて鳳翔に奔った。太祖は劉鄩を佑国・同州軍両使留後とした。まもなく佑国軍を永平軍と改め、劉鄩を節度使・検校司徒とし、大安尹・金州管内観察使かんさつしを行った。この時、西辺は未だ寧かならず、寇境に密接していたが、劉鄩は兵を練り衆を撫で、独り一方を担当した。四年、検校太保・同平章事を加えられた。庶人友珪が位を簒すると、検校太傅たいふを加えられた。乾化三年正月、母の喪に服したが、友珪は起復して政務に当たらせた。末帝が即位すると、特に深く倚重された。翌年夏、詔により劉鄩は帰闕し、開封尹を授かり、遙かに鎮南軍節度使を領した。まもなく晋人が河朔を侵すに及び、劉鄩は詔を奉じて魏節度使楊師厚とともにこれを防ぎ退けた。

原文其年夏,同州劉知俊反,引岐人襲據長安,分兵扼河、潼。太祖幸陝,命鄩西討,即奮取潼關,擒知俊弟知浣以獻。遂引兵收復長安,知俊棄郡奔鳳翔。太祖以鄩為佑國、同州軍兩使留後。尋改佑國軍為永平軍,以鄩為節度使、檢校司徒,行大安尹、金州管內觀察使。是時,西鄙未寧,密邇寇境,鄩練兵撫眾,獨當一面。四年,加檢校太保、同平章事。庶人友珪篡位,加檢校太傅。乾化三年正月,丁內艱,友珪命起復視事。未帝即位,尤深倚重。明年夏,詔鄩歸闕,授開封尹,遙領鎮南軍節度使。旋屬晉人寇河朔,鄩奉詔與魏節度使楊師厚禦之而退。

九月、徐州節度使の蔣殷が城に拠って叛いた。時に朝廷は福王友璋を徐方に鎮めさせようとしたが、蔣殷は交代を受け入れず、末帝は劉鄩と鄆帥の牛存節に兵を率いてこれを攻撃させた。蔣殷は淮夷に援軍を求め、偽呉の楊溥は大将の朱瑾に衆を率いて赴援させたが、劉鄩はこれを迎撃して破った。貞明元年春、城は陥落し、蔣殷は挙族自ら焼死し、火中にその屍を得て、梟首して献上し、詔により検校太尉を加えられた。

原文九月,徐州節度使蔣殷據城叛。時朝廷以福王友璋鎮徐方,殷不受代,末帝遣鄩與鄆帥牛存節率兵攻之。殷求援於淮夷,偽吳楊溥遣大將朱瑾領眾赴援,鄩逆擊破之。貞明元年春,城陷,殷舉族自燔,於火中得其屍,梟首以獻,詔加檢校太尉。

三月、魏の楊師厚が卒した。朝廷は相・魏を二鎮に分割し、劉鄩に大軍を率いて南楽に駐屯させ、王鎔を討つことを名目とした。やがて魏軍は果たして乱を起こし、節度使の賀徳倫を囚えて、太原に款を通じた。六月、晋王が魏州に入ると、劉鄩は精兵一万を率いて洹水より魏県に移軍した。晋王が来て偵察すると、劉鄩は河曲の叢木の間に伏兵を設け、晋王が至るのを待ち、大声をあげて進み、数重に包囲し、多くを殺し捕らえ、晋王は僅かに身一つで免れた。この月、劉鄩は密かに軍を率いて黄沢より西に向かい太原へ急行しようとした。出発にあたり、晋軍に追撃されることを慮り、草を束ねて人形とし、旗をその上に縛り付け、驢馬に背負わせて、城壁に沿って行かせた。数日後、晋人がようやく気づいた。軍は楽平に至ったが、霖雨が十日も続き、軍は進むことができず、劉鄩は直ちに衆を整えて引き返した。魏の臨清は、食糧を蓄積する所であり、劉鄩は軍を率いてこれを占拠せんとしたが、晋将の周陽五が幽州より兵を率いて至るのに遇い、劉鄩は貝州を取って、晋軍と堂邑で遭遇し、劉鄩は邀撃してこれを退け、五十余里北へ追撃し、遂に莘県に軍を置いた。城塁を増築し、池濠を浚い、莘より河に至るまで甬道を築いて糧道を通じた。

原文三月,魏楊師厚卒,朝廷分相、魏為兩鎮,遣鄩率大軍屯南樂,以討王鎔為名。既而魏軍果亂,囚節度使賀德倫,送款於太原。六月,晉王入魏州,鄩以精兵萬人自洹水移軍魏縣,晉王來覘,鄩設伏於河曲叢木間,俟晉王至,大噪而進,圍之數匝,殺獲甚眾,晉王僅以身免。是月,鄩潛師由黃澤西趨太原,將行,慮為晉軍所追,乃結芻為人,縛旗於上,以驢負之,循堞而行,數日,晉人方覺。軍至樂平,會霖雨積旬,師不克進,鄩即整眾而旋。魏之臨清,積粟之所,鄩引軍將據之,遇晉將周陽五自幽州率兵至,鄩乃取貝州,與晉軍遇於堂邑,鄩邀擊卻之,追北五十餘里,遂軍於莘縣。增城壘,浚池隍,自莘及河,築甬道以通餉路。

八月、末帝は劉鄩に詔を賜って曰く、「閫外の事は、全て将軍に付す。河朔の諸州は、一朝にして淪没し、師を労し旅を弊し、患難日々に滋す。退きて河壖を保つも、久しく闘志無し。昨者、東面の諸侯、奏章を上ぐるに、皆倉儲已に竭き、飛挽充たず、役に従うの人、毎に擒擄に遭うと云う。夙宵軫念し、惕懼盈懷す。将軍は国と休を同じくす、良画を思うべし。聞くに寇敵の兵数多からずと、宜しく機権を設け、時に応じて翦撲すべし。然らば予が負荷、先人に累わざらん」と。劉鄩奏して曰く、「臣は国恩深く受け、茲に閫政を忝くす。敢えて戈を枕し假寐せず、節を罄くして忠を輸さざらんや。昨者、比して西は太原を取り、其の帰路を断ち、然る後東は鎮・冀を収め、彼の連鶏を解かんと欲す。旬時に止まり、再び河朔を清めんとす。豈に期せんや、天方に乱を稔らし、国難未だ平らかならず、師徒を出だすや、積旬霖潦し、資糧殫竭し、軍士劄瘥す。切に蒼黄を慮り、統摂に乖かんことを、乃ち部伍に詢うに、皆旋帰を欲すと。凡そ次舎経行する毎に、犄角を張り、又其の餉道を絶ち、且つ臨清を拠らんと欲す。纔かに宗城に及ぶに、周陽五奄然として至り、騎軍馳突し、変化神の如し。臣遂に大軍を領し、莘県に保つ。深溝高壘し、士を享え兵を訓え、日夜戒厳し、其の進取を伺う。営壘を偵視するに、兵数極めて多し。楼煩の人は、皆騎射に能く、最も敵たり、軽く謀るべからず。臣若し苟くも機宜を得ば、焉んぞ敢えて坐して患難を滋さんや。臣心国を体し、天鑒具に明らかなり」と。末帝又使いを遣わして劉鄩に決勝の策を問わしむ。劉鄩曰く、「臣に奇術無し。但だ人に糧十斛を与え、尽きれば則ち敵を破らん」と。末帝大いに怒り、劉鄩を譲って曰く、「将軍米を蓄うるは、将に饑を療さんとするか、将に賊を破らんとするか」と。乃ち中使を遣わして戦を督わしむ。劉鄩諸校を集めて謀りて曰く、「主上深く宮禁に居り、未だ兵機を暁かず。白面児と共に謀りて、終に人事を敗る。大将出征すれば、君命も受けざる所あり。機に臨み変を製するは、安ぞ預め謀らんや。今敵を揣るに、未だ軽く動くべからず。諸君更に之を籌せよ」と。時に諸将皆戦を欲す。劉鄩黙然たり。他日、復た諸将を召し軍門に列坐せしめ、人ごとに河水一器を具え、因って命じて之を飲ましむ。衆未だ其の旨を測らず、或いは飲み或いは辞す。劉鄩曰く、「一器にしてかくの如く難し。滔滔たる河流、勝て既めんや」と。衆皆失色す。数日を居て、劉鄩万余人を率いて鎮・定の営に薄る。時に劉鄩軍奄然として至り、上下騰乱し、殺獲甚だ衆し。少頃、晋軍継いて至る。乃ち退く。

原文八月,末帝賜鄩詔曰:「閫外之事,全付將軍。河朔諸州,一旦淪沒,勞師弊旅,患難日滋,退保河壖,久無鬥志。昨東面諸侯,奏章來上,皆言倉儲已竭,飛挽不充,於役之人,每遭擒擄,夙宵軫念,惕懼盈懷。將軍與國同休,當思良畫,如聞寇敵兵數不多,宜設機權,以時翦撲,則予之負荷,無累先人。」鄩奏曰:「臣受國深恩,忝茲閫政,敢不枕戈假寐,罄節輸忠。昨者,比欲西取太原,斷其歸路,然後東收鎮、冀,解彼連雞,止於旬時,再清河朔。豈期天方稔亂,國難未平,才出師徒,積旬霖潦,資糧殫竭,軍士劄瘥,切慮蒼黃,乖於統攝,乃詢部伍,皆欲旋歸。凡次舍經行,每張犄角,又欲絕其餉道,且據臨清。才及宗城,周陽五奄至,騎軍馳突,變化如神。臣遂領大軍,保於莘縣。深溝高壘,享士訓兵,日夜戒嚴,伺其進取。偵視營壘,兵數極多。樓煩之人,皆能騎射,最為敵,未可輕謀。臣若苟得機宜,焉敢坐滋患難。臣心體國,天鑒具明。」末帝又遣使問鄩決勝之策,鄩曰:「臣無奇術,但人給糧十斛,盡則破敵。」末帝大怒,讓鄩曰:「將軍蓄米,將療饑耶?將破賊耶?」乃遣中使督戰。鄩集諸校而謀曰:「主上深居宮禁,未曉兵機,與白麵兒共謀,終敗人事。大將出征,君命有所不受,臨機製變,安可預謀。今揣敵人,未可輕動,諸君更籌之。」時諸將皆欲戰,鄩默然。他日,復召諸將列坐軍門,人具河水一器,因命飲之,眾未測其旨,或飲或辭。鄩曰:「一器而難若是,滔滔河流,可勝既乎!」眾皆失色。居數日,鄩率萬餘人薄鎮、定之營。時鄩軍奄至,上下騰亂,殺獲甚眾。少頃,晉軍繼至,乃退。

二年三月、劉鄩莘より軍を引き魏州を襲い、晋王と故元城に戦う。王師敗績し、劉鄩身を脱して南に奔り、黎陽より河を済て滑州に至る。尋いで滑州節度使を授け、詔して黎陽に屯せしむ。三年二月、晋王衆を悉くして来たり黎陽を攻む。劉鄩之を拒ぎて退く。劉鄩闕に帰るに及び、再び開封尹を授け、鎮南軍節度使を領す。其の年、河朔失守し、朝廷劉鄩に帰咎す。劉鄩亦自ら安からず、表を上けて位を避く。九月、平章事を落とし、亳州団練使を授く。淮人の蔡・潁・亳の三郡を寇すに属し、劉鄩命を奉じて淮を渡り、霍丘に至り、賊党を大いに殲す。五年、兗州節度使張万進反し、北は晋人を結びて援と為す。末帝劉鄩を遣わして之を攻めしむ。劉鄩兗州安撫製置使と為る。是の冬、万進危蹙す。小将邢師遇潜かに王師に応じ、遂に其の城を抜き、万進の首を梟して以て献ず。十一月、制を以て泰寧軍節度使・検校太尉・同平章事を授く。

原文二年三月,鄩自莘引軍襲魏州,與晉王戰於故元城,王師敗績,鄩脫身南奔,自黎陽濟河至滑州。尋授滑州節度使,詔屯黎陽。三年二月,晉王悉眾來攻黎陽,鄩拒之而退。及鄩歸闕,再授開封尹,領鎮南軍節度使。其年,河朔失守,朝廷歸咎於鄩,鄩亦不自安,上表避位。九月,落平章事,授亳州團練使。屬淮人寇蔡、潁、亳三郡,鄩奉命渡淮,至霍丘,大殲賊黨。五年,兗州節度使張萬進反,北結晉人為援,末帝遣鄩攻之,鄩為兗州安撫製置使。是冬,萬進危蹙,小將邢師遇潛應王師,遂拔其城,梟萬進首以獻。十一月,製授泰寧軍節度使、檢校太尉、同平章事。

六年六月、河東道招討使を授け、華州尹皓と同州を攻め取る。先ず是れ、河中朱友謙同州を襲い取り、其の子令徳を以て留後と為し、表して旄鉞を請う。末帝怒り、劉鄩に命じて之を討たしむ。其の年九月、晋将李嗣昭師を率いて来たり援け、城下に戦う。王師利あらず、敗兵河南に走る。橋梁陥ち、溺死者甚だ衆し。劉鄩余衆を以て華州羅文寨に退き保つ。先ず是れ、劉鄩河中朱友謙と婚家を為す。王師西討するに及び、行きて陝州に次ぐ。劉鄩使いを遣わし檄を齎して友謙に与え、禍福の大計を諭し、令して国に帰らしめんと誘う。友謙従わず。是の如く停留すること月余。尹皓・段凝の輩素より劉鄩を忌み、遂に其の罪を構え、劉鄩逗留して寇を養い、以て援兵を俟つと言う。末帝之を然りと為す。兵敗するに及び、詔して洛に帰らしむ。河南尹張宗奭朝廷の密旨を承け、逼りて令して鴆を飲ましめ卒す。時に年六十四。詔して中書令ちゅうしょれいを贈る。

原文六年六月,授河東道招討使,與華州尹皓攻取同州。先是,河中朱友謙襲取同州,以其子令德為留後,表請旄鉞,末帝怒,命鄩討之。其年九月,晉將李嗣昭率師來援,戰於城下,王師不利,敗兵走河南;橋梁陷,溺死者甚眾,鄩以餘眾退保華州羅文寨。先是,鄩與河中朱友謙為婚家,及王師西討,行次陝州,鄩遣使齎檄與友謙,諭以禍福大計,誘令歸國,友謙不從,如是停留月餘。尹皓、段凝輩素忌鄩,遂構其罪,言鄩逗留養寇,俾俟援兵,末帝以為然。及兵敗,詔歸洛,河南尹張宗奭承朝廷密旨,逼令飲鴆而卒。時年六十四,詔贈中書令。

子の遂凝・遂雍は別に伝有り。

原文子遂凝、遂雍別有傳。

賀瑰

原文賀瑰

賀瑰、字あざなは光遠、濮陽の人なり。曾祖延、瑰の貴に因りて、左監門上將軍を贈られる。祖華、左散騎常侍を贈られる。父仲元、刑部尚書を贈られる。瑰少にして倜儻、雄勇の志を負い、世乱に遇い軍に入る。朱瑄濮州刺史兼鄆州馬歩軍都指揮使と為り、抜きて小将と為す。唐光啓初、鄆州三軍瑄を推して留後と為し、瑰を以て馬歩軍都指揮使と為し、表して検校工部尚書を授く。瑄太祖と隙を構うるに及び、瑰瑄の命を受け、数たび軍を率いて境上に在り。乾寧二年十月、太祖親征して兗・鄆を征す。十一月、瑄瑰を遣わし、太原の将何懐宝と兵万余を率いて以て朱瑾を援けしむ。師待賓館に次ぎ、我が糧運を断つ。太祖之を偵知し、中都より軍を引き夜百余里を馳せ、遅明に钜野の東に至り、瑰等と接戦す。兗人大敗す。瑰棘塚の上に竄り、大呼して曰く、「我は鄆州の都将賀瑰なり。願わくは就擒せん、幸いに傷つくること無かれ」と。太祖之を聞き、騎を馳せて塚前に至り、遂に之を擒う。並びに何懐宝及び将吏数十人を獲、兗壁の下に徇し、悉く命じて之を戮す。唯だ瑰一人を留め、縛を解き、麾下に置く。尋いで教練使に署し、奏して検校左僕射を授く。瑰太祖の全宥の恩に感じ、私に身を以て国に報ぜんと誓う。

原文賀瑰,字光遠,濮陽人也。曾祖延,以瑰貴,贈左監門上將軍。祖華,贈左散騎常侍。父仲元,贈刑部尚書。瑰少倜儻,負雄勇之志,遇世亂入軍。朱瑄為濮州刺史兼鄆州馬步軍都指揮使,拔為小將。唐光啟初,鄆州三軍推瑄為留後,以瑰為馬步軍都指揮使,表授檢校工部尚書。及瑄與太祖構隙,瑰受瑄命,數領軍於境上。乾寧二年十月,太祖親征兗、鄆。十一月,瑄遣瑰與太原將何懷寶率兵萬餘人以援朱瑾,師次待賓館,斷我糧運。太祖偵知之,自中都引軍夜馳百餘里,遲明至钜野東,與瑰等接戰,兗人大敗。瑰竄於棘塚之上,大呼曰:「我是鄆州都將賀瑰,願就擒,幸勿傷也!」太祖聞之,馳騎至塚前,遂擒之。並獲何懷寶及將吏數十人,徇於兗壁之下,悉命戮之,唯留瑰一人,釋縛,置之麾下;尋署為教練使,奏授檢校左僕射。瑰感太祖全宥之恩,私誓以身報國。

天復中、青州王師範を平ぐるに預かり、功を以て曹州刺史兼先鋒都指揮使を授け、検校司空しくうを加う。天祐二年、楊師厚と従い太祖に荊・襄を平ぐり、荊南両使留後を授く。未だ幾ばくもあらず、征還せられ、行営左廂歩軍都指揮使と為る。開平二年十月、左龍虎軍馬歩都指揮使を授く。十二月、左衛上将軍に改め、六軍馬歩都虞候を充す。三年五月、右龍虎統軍に転ず。未だ幾ばくもあらず、検校司徒・邢州団練使を加う。四年二月、沢州刺史に改め、昭義軍節度留後・検校太保を充し、開国侯に進封さる。乾化二年七月、相州刺史を授く。尋いで検校太傅を加う。有頃、左龍虎統軍に転ず。

原文天復中,預平青州王師範,以功授曹州刺史兼先鋒都指揮使,加檢校司空。天祐二年,與楊師厚從太祖平荊、襄,授荊南兩使留後,未幾,征還,為行營左廂步軍都指揮使。開平二年十月,授左龍虎軍馬步都指揮使。十二月,改左衛上將軍,充六軍馬步都虞候。三年五月,轉右龍虎統軍,未幾,加檢校司徒、邢州團練使。四年二月,改澤州刺史,充昭義軍節度留後、檢校太保,進封開國侯。乾化二年七月,授相州刺史,尋加檢校太傅。有頃,轉左龍虎統軍。

長子光図、後唐に仕え、供奉官と為る。

原文長子光圖,仕後唐,為供奉官。

康懐英

原文康懷英

康懷英は兗州の人である。本名は懷貞であったが、末帝の諱いみなを避けて改めた。初め驍勇をもって朱瑾に仕え、列校となった。唐の乾寧四年の春、太祖(朱全忠)が鄆州を平定した後、葛従周に命じて勝に乗じて急に兗州を攻撃させた。時に朱瑾は豊・沛の間で糧餉を捜索しており、懷英を留めてその城を守らせた。従周の軍が到着すると、懷英は鄆州が陥落したと聞き、出て降伏した。太祖はかねてよりその名を聞いており、得ることを大いに喜び、まもなく軍校に任じた。光化元年の秋、氏叔琮に従って襄州・漢水地方を討伐し、懷英は一軍を率いて鄧州を攻め落とした。三年、河朔征伐に従い、張存敬を補佐して易水のほとりで燕軍を破った。天復元年の冬、太祖は軍を率いて鳳翔で昭宗を迎えた。時に李茂貞は大将符道昭に命じて兵一万余りを率い武功に駐屯させて防がせたが、太祖は諸軍にこれを撃たせ、懷英を前鋒とし、衆を率いて先に登り、一鼓にしてこれを大破し、甲士六千余人を捕虜とし、馬二千匹を奪った。翌日、太祖がようやく到着し、左右を顧みて言うには、「邑の名は武功というが、今逆党を初めて掃蕩したのは、まさに武功である」と。そこで懷英を召し出し、大いに賞賛激励し、駿馬と珍器を賜った。

原文康懷英,兗州人也。本名懷貞,避末帝御名,故改之。始以驍勇事朱瑾為列校。唐乾寧四年春,太祖既平鄆,命葛從周乘勝急攻兗州。時朱瑾在豐沛間搜索糧餉,留懷英守其城。及從周軍至,懷英聞鄆失守,乃出降。太祖素聞其名,得之甚喜,尋署為軍校。光化元年秋,從氏叔琮伐襄、漢,懷英以一軍攻下鄧州。三年,從征河朔,佐張存敬敗燕軍於易水之上。天復元年冬,太祖率師迎昭宗於鳳翔。時李茂貞遣大將符道昭領兵萬餘屯武功以拒,太祖命諸軍擊之,以懷英為前鋒,領眾先登,一鼓而大破之,擄甲士六千餘人,奪馬二千匹。翌日,太祖方至,顧左右曰:「邑名武功,今首蕩逆黨,真武功也。」乃召懷英,大加獎激,仍以駿馬、珍器賜之。

二年四月、符道昭が再び大軍を率いて虢県の漢穀に駐屯した。その寨を建てた場所は、前に大きな澗に臨み、後ろに峻険な丘に倚り、険しくて登れなかった。太祖は懷英に騎兵数千を率いて急襲させた。道昭は懷英の兵が少ないのを見て、軽視の意を持ち、甲士一万人を率いて澗を渡って挑戦した。懷英は初め千騎で夜戦し、戦いが酣になると、伏兵を繰り出してこれを撃ち、岐軍は大敗した。秋八月、鄜州の帥李周彝が軍を三原に駐屯させ、鳳翔を援護した。太祖は懷英にこれを討たせたところ、周彝は軍を引き抜いて逃げ、梨園まで追撃し、ついで翟州を攻め落とし、その守将を捕らえて献上した。まもなく岐軍が奉天に駐屯したので、太祖は懷英に岐軍の東北に寨を築かせ、敵に備えさせた。ある夜、岐軍が大挙して至り、急にその営を攻撃した。懷英は夜中であるため諸軍を驚かせてはならぬと考え、ただ二千余人で数万の衆に抗し、初夜から四更まで、自ら十余か所の傷を受けながらも、岐軍は勝てずに退いた。昭宗が京に還ると、迎鑾毅勇功臣を賜った。この年、淮人(楊行密)が青州・兗州の反乱を聞き、兵数万を派遣して宿州を寇した。太祖は懷英に馳せてこれを救わせたところ、淮人は逃げ去り、ただちに懷英を権知宿州刺史とした。天祐三年の冬、劉知俊を補佐して邠州・鳳翔の軍五万を美原で破り、五十余りの寨を収め、勝に乗じて軍を率いて鄜州を攻め落とし、功により陝州節度使を授かった。太祖が禅を受けると、検校太保を加えられた。

原文二年四月,符道昭復領大軍屯於虢縣之漢穀。其建寨之所,前臨巨澗,後倚峻阜,險不可升,太祖遣懷英提騎數千急擊之。道昭以懷英兵寡,有俯視之意,乃率甲士萬人,絕澗以挑戰。懷英始以千騎夜鬥,戰酣,發伏以擊之,岐軍大敗。秋八月,鄜帥李周彝屯軍於三原,以援鳳翔;太祖命懷英討之,周彝拔軍而遁,追至梨園,因攻下翟州,擒其守來獻。俄而岐軍屯奉天,太祖令懷英寨於岐軍之東北,以備敵人。一夕,岐軍大至,急攻其營。懷英以夜中不可驚動諸軍,獨以二千餘人抗數萬之眾,自乙夜至四鼓,身被十餘創,岐軍不勝而退。昭宗還京,賜迎鑾毅勇功臣。是歲,淮人聞青、兗之叛,遣兵數萬以寇宿州。太祖命懷英馳騎以救之,淮人遁去,即以懷英為權知宿州刺史。天祐三年冬,佐劉知俊破邠、鳳之眾五萬於美原,收五十餘寨,乘勝引軍攻下鄜州,以功授陝州節度使。太祖受禪,加檢校太保。

劉知俊が鳳翔に奔ると、岐軍を引き連れて霊武を図った。太祖は懷英に兵を率いてこれを救わせたが、軍は長城嶺に至り、知俊の邀撃を受け、懷英は敗れて帰還した。四年の春、華州節度使に移った。乾化二年の秋、河中行営都招討使に任じられ、晋軍と白径嶺で戦ったが、敗れて陝州に帰った。末帝が位を嗣ぐと、岐軍がたびたび秦・雍を侵犯したため、懷英を永平軍節度使・大安尹とし、累次加官して中書令に至った。貞明年間、鎮所で卒去した。

原文及劉知俊奔鳳翔,引岐軍以圖靈武。太祖遣懷英率兵救之,師次長城嶺,為知俊邀擊,懷英敗歸。(《歐陽史》云:還至升平,知俊掩擊之,懷英大敗。據《通鑒》:懷貞等還,至三水,知俊遣兵據險邀之,左龍驤軍使壽張王彥章力戰,懷貞等乃得過。懷貞與裨將李德遇、許從實、王審權分道而行,皆與援兵不相值。至升平,劉知俊伏兵山口,懷貞大敗,僅以身免,德遇等軍皆沒。蓋懷英過長城嶺之險已為邀擊,後又敗於升平也。)四年春,移華州節度使。乾化二年秋,命為河中行營都招討使,與晉軍戰於白徑嶺,敗歸於陝。末帝嗣位,以岐軍屢犯秦、雍,命懷英為永平軍節度使、大安尹,累加官至中書令。貞明中,卒於鎮。

王景仁

原文王景仁

王景仁は、廬州合淝の人である。体躯は魁偉で、性質は粗暴で軽率、威儀がなく、槊を用いることに長け、驍悍と推されていた。淮南で累職して都指揮使となり、楊行密から偽に宣州節度使に任じられた。行密が死に、子の渥が自立すると、その勇悍を忌み、かつ私怨があったため、害そうとした。景仁は宛陵を棄て、腹心百人を連れて呉越王銭鏐に帰順した。鏐は彼を両府行軍司馬に辟召し、詳細を上奏した。太祖(朱全忠)はさらに命じて遥かに宣州節度使・検校太傅・同平章事を兼ねさせた。鏐は淮寇(楊行密勢力)が結局大きな禍患となると考え、速やかにこれを平定しようとし、景仁に命じて表を奉じて朝廷に至らせ、水陸の計略を面陳し、禁軍の合力を請わせた。太祖は異例の礼をもって彼を待遇し、賞賜は格別に厚く、顧みて言うには、「我が代北の寇を平定するのを待ち、王師をことごとく汝に付けて南征させよう」と。そこで京師に留め、毎度丞相の行列に加わらせた。劉知俊が叛いた時、従駕して陝州に至り、初めて楊師厚を補佐して西に関に入った。兵が交わらないうちに、知俊は馮翊を棄てて逃走し、進んで雍州・華州を攻克し、王建・張君練を降したが、景仁は戦いに多く参与して功があり、太祖はこれを賞した。時に鎮州・定州が逆をなし、沙陀さだに朋附したため、ついに上将に抜擢し、歩騎十万を付けて北面行営都招討使とした。開平二年正月二日、晋軍と柏郷で戦い、王師は敗績した。太祖は大いに怒り、私第に拘禁した。しかし両浙の元勲(銭鏐)が推薦した者であり、かつその後の効果を収めようと考えたため、平章事を落とし兵権を罷めるのみであった。数か月後、その官爵を復した。末帝が即位すると、再び用いて南面北面行営招討応接使とし、兵一万余人を率いて寿州を伐ち、霍丘で接戦し、賊将袁叢・王彦威・王璠らを捕らえて京師に送った。まもなく朱瑾が大軍を率いて至り、景仁は力戦して屈せず、常に数騎で身を先んじて奮撃し、寇は敢えて近づけず、ついに兵を引いて還った。淮を渡るに及んで、再び殿軍となり、したがって甚だしくは敗れず、瑾もまた北渡することができなかった。帰還後、疽を病んで卒去した。詔して太尉を追贈した。

原文王景仁,(景仁本名茂章,避梁諱改焉。詳見《通鑒注》。)廬州合淝人。材質魁偉,性暴率,無威儀,善用槊,頗推驍悍。在淮南累職為都指揮使,楊行密偽署宣州節度使。行密死,子渥自立,忌其勇悍,且有私憾,欲害之。景仁棄宛陵,以腹心百人歸吳越王錢鏐,鏐辟為兩府行軍司馬,具以狀聞。太祖復命遙領宣州節度使、檢校太傅、同平章事。鏐以淮寇終為巨患,欲速平之,命景仁奉表至闕,麵陳水陸之計,請合禁旅。太祖異禮待之,頒賜殊厚,顧曰:「待我平代北寇,當盡以王師付汝南討。」於是留京師,每預丞相行列。劉知俊之叛也,從駕至陝,始佐楊師厚西入關。兵未交,知俊棄馮翊走,進克雍、華,降王建、張君練,頗預戰有功,太祖嘉之。時鎮、定作逆,朋附沙陀,遂擢為上將,付步騎十萬,為北面行營都招討使。開平二年正月二日,與晉軍戰於柏鄉,王師敗績。太祖怒甚,拘之私第。然以兩浙元勳所薦,且欲收其後效,止落平章事、罷兵柄而已。(《歐陽史》:景仁及晉人戰,大敗於柏鄉。景仁歸訴於太祖,太祖曰:「吾亦知之,蓋韓、李思安輕汝為客,而不從節度爾。」)數月,復其官爵。末帝即位,復用為南面北面行營招討應接使,以兵萬餘人伐壽州,至霍丘接戰,擒賊將袁叢、王彥威、王璠等送京師。俄而朱瑾以大軍至,景仁力戰不屈,常以數騎身先奮擊,寇不敢逼,乃引兵還。及濟淮,復為殿軍,故不甚衄,瑾亦不敢北渡。(《九國誌·朱景傳》:王茂章來寇,度淮水可涉處立表識之,景易置於深潭水中,立表浮木之上。茂軍敗,望表而涉,溺死者大半,積其屍為京觀。)及歸,病疽而卒。詔贈太尉。

【論】

原文【論】

史臣が曰く、劉鄩は機略をもって自ら任じ、賀瑰は忠毅をもって称せられ、懷英は驍勇をもって時に佐け、景仁は貞純をもって国に許された。その器業を較べれば、皆名将である。しかし善戦の労があったとしても、また敗軍の咎もあった。すなわち兵に常勝なしということを知るが、これは虚言であろうか。しかし劉鄩が兗州を拠えて、師範に誠を尽くしたことは、英公(李勣)に比跡し、数侯(賀瑰ら)と比べれば、一等を加えるべきである。

原文史臣曰:劉鄩以機略自負,賀瑰以忠毅見稱,懷英以驍勇佐時,景仁以貞純許國,較其器業,皆名將也。然雖有善戰之勞,亦有敗軍之咎,則知兵無常勝,豈虛言哉!然鄩之據兗州,盡誠於師範,比跡於英公,方之數侯,加一等矣。