楊師厚
庶人友珪が帝位を簒奪すると、魏州衙内都指揮使潘晏が大将臧延範・趙訓と謀叛を企てたが、密告する者があったので、師厚は兵を配置してこれを捕らえ、斬った。(《歐陽史》によれば、師厚は隙に乗じて魏の牙将潘晏・臧延範らを殺し、節度使羅周翰を追い出したという。)二日後、また指揮使趙賓が夜に部軍を率いて甲を着け、夜明けを待って乱を起こそうとした。師厚は衙兵をもって包囲捕縛し、賓は起つことができず、城を越えて逃げた。師厚は騎兵を派遣して肥郷まで追い、その徒党百余人を捕らえ、帰って府門で斬った。友珪は直ちに師厚を魏博節度使・檢校侍中とした。間もなく、鎮人・晉人が魏の北辺を侵したので、師厚は軍を率いて唐店に至り、これを破り、五千級を斬り、その都將三十余人を生け捕りにした。この時、師厚は河朔の兵を握り、その威望は主君を震わせたので、友珪はこれを憂い、詔を下して師厚を京師に召し出そうとした。師厚は精鋭の甲兵一万を率いて洛陽に至り、都の外に厳重に兵を配し、自ら十余人で入謁した。友珪は恐れ、厚礼をもって帰らせた。末帝(朱友貞)が友珪を除こうと図った時、使者を遣わして師厚と謀り、深く誠意を表明し、また侍衛軍使袁象先及び主軍の大将に書を送った。また都指揮使朱漢賓に兵を率いて滑州に至らせ、禁軍に呼応させた。友珪が誅殺された後、末帝が東京で即位すると、まず師厚を鄴王に封じ、檢校太師・中書令を加えた。詔を下す毎に名を呼ばず、官をもって呼び、事の大小を問わず必ず先ず師厚と謀ったので、師厚は甚だ驕慢不遜となった。先に、鎮人が我が柏鄉の不利の後、屡々辺境を擾したので、師厚は大軍を総べて直ちに鎮州城下に抵り、家屋を焼き払い、軍を移して槁城・束鹿を掠め、深州に至って帰還した。乾化五年三月、鎮所で卒去した。三日間朝を廃し、太師を追贈された。
師厚は純粋で慎み深く敏捷有能であり、深く太祖の知遇を受け、重兵と重要な藩鎮を委ねられたが、他の者は及ぶことができなかった。しかしながら、末年には功を誇り衆を恃んで、急に不軌の心を萌させ、そこで専ら財賦を割拠し、銀槍效節軍を置いて凡そ数千人とし、皆驍勇の精鋭を選抜し、放縦に養い育て、かつての牙軍の態を復活させたので、当時の人々はこれを患った。かつて河朔の風俗として、上元には家々で夜遊びしたが、師厚が鎮守となってからは、魏の人々に戸ごとに燈竿を立てることを課し、千の燈籠万の炬火が一城を明るく照らし、士女の嬉遊を恣にさせた。また舟舫に彩色を施し、女妓に御河で櫂歌を歌わせ、終日酒を飲み騒がせた。また黎陽で巨石を採り、徳政を記念しようとし、鉄車に載せ、数百頭の牛を駆ってこれを引かせた。通る所では、墳墓や家屋が悉く破壊され、百姓はこれを見て皆「碑が来る」と言った。碑石がようやく到着した時、師厚が卒去したので、魏の人々は「悲しみが来る」の応報であると思った。末帝はその卒去を聞くと、私庭で祝賀を受け、魏州を二つの藩鎮に分割することを議した。やがて育てた親軍は、果たして叛乱を起こし、外寇を招くこととなり、河朔を淪陥させ、宗廟社稷を覆滅させるに至ったが、これは師厚がその兆しを作ったのである。
牛存節
牛存節は字を讚貞といい、青州博昌の人である。本名は禮であったが、太祖が改めて字とした。若い時から雄勇を以って自ら任じた。唐の乾符末年に、同郷の諸葛爽が河陽節度使となったので、存節はこれに従った。爽が卒去すると、存節は同輩に言った。「天下が騒然としている。英主を選んでこれに仕え、富貴を図るべきである。」遂に太祖に帰順した。初め宣義軍小将を授けられた。蔡賊が金堤驛に至り、酸棗・靈昌を侵犯した時、存節は日々これと戦い、凡そ二十余度往来し、毎回必ず捕虜を捕えて帰還し、前後二十余級を斬り、生け捕りにした家畜を多く獲た。太祖が板橋・赤岡・酸棗門・封禅寺・枯河北で蔡賊を撃った時、存節は皆これに従軍し、諸将と共に濮州南の劉橋・範県で鄆州軍を大破し、これより深く太祖の賞遇を受けた。
その年の秋、大挙して淮南を伐ち、濠州東に至った時、前軍が清口で敗北したと聞き、諸軍は間河まで退き、隊伍を成さなくなった。存節はその退路を防ぎ、諸将は騎を下りて歩戦し、諸軍は漸く渡河することができ、配下部隊と敗兵を合わせて八千余人を収容し、淮水の岸辺に至った。この時、既に四日間食事をしていなかった。存節は部隊を訓戒激励し、追撃する敵を防いだので、遂に帰還することができた。五年、亳州刺史に任じられ、間もなく宣武軍都指揮使に遷り、宿州刺史に改めた。翌年、淮賊が大軍をもって彭城に迫ったので、存節は部下の兵を率いて夜発し、直ちに彭門に向かった。淮人はその神速さに驚き、震え恐れて退却したので、諸将はその智識に服した。
その冬、蔣殷が徐州に拠って命に逆らい、存節は大軍を率いて潁州を守備していたが、殷の謀反の企てを察知し、密かに上奏した。急ぎ詔を奉じて劉鄩と共にこれを討ち、埇上に駐屯した。淮賊の朱瑾が兵を率いて殷を救援し、宿州から二舎(約六十里)の距離に迫ったが、存節の大軍が到来したと聞き、即座に糧秣を捨て甲冑を棄てて遁走し、ついに徐州を平定した。詔して太尉を加えられた。夏の頃、渇病(糖尿病)と痟病(衰弱)に罹り、河北で戦事が起こったため、末帝は軍を率いて陽留に駐屯し、劉鄩の勢いを助けるよう命じた。存節の忠誠と憤激はますます篤く、病のことを口にせず、敵情を推察し軍務を整え、朝夕ますます奮励した。病が重くなり、詔によって汶陽に帰還したが、翌日に卒去した。臨終に際し、子の知業・知讓らに忠孝を戒め、他の事には言及しなかった。冊贈して太師を贈られた。存節は武勇に優れ気概があり、大節を保ち、野戦も城壁守備もその長所とするところであり、威名は境外にまで聞こえ、末帝に深く重んじられた。剛直で忠厚な性格は、賈復の風があった。
王檀
【論】
史臣が曰く、大都が国と偶する(匹敵する)ことは、『春秋』が非とする所である。師厚が鄴城を占拠した時、数万の甲兵を統べ、六州の租税・兵賦を専断し、その名声は既に主君を震わせ、その勢力もまた天を滔くほどであった。その喪亡に及んで、分割を議する必要が生じた。これによって河朔を失い、これによって晋人(後唐)の機会を開いた。『詩経』に所謂「誰が禍の階を生めるや」とは、師厚のことを言うのであろうか。存節と王檀は共に身を起こして主君に仕え、力を尽くして功を図った。その方略を観れば、皆将帥の良材である。