舊五代史

梁書二十一: 列傳十一 龐師古 霍存 符道詔 徐懷玉 郭言 李唐賓 王虔裕 劉康乂 王彥章 賀德倫

龐師古

龐師古は曹州南華の人、初名は従といった。中涓として太祖に従い、性質は謹直で、常に左右を離れなかった。太祖が汴を鎮守するに及び、軍備を整えると、まず馬五百匹を得て、直ちに師古を偏将とし、陳を援け蔡を破り、戦功を重ねた。朱珍が罪により誅せられると、遂に師古を用いて都指揮使とした。乃ち淮を渡り、廬州・寿州で軍糧を補給し、滁州を攻め、天長を破り、高郵を下し、淮に沿って転戦し、到る所で勝利を収めた。まもなく朱友裕に代わって軍を率い、徐州を攻め落とし、時溥の首を斬って献じた。遂に軍を移して兗州を討ち、中都に入り、梁山に寨を築き、朱瑄の軍を破り、その陣営の下まで襲撃した。また清河で朱瑾を破った。汶陽討伐に従い、朱瑄・朱瑾及び晋の将史儼児と故楽亭で戦い、大勝して帰還した。乾寧四年正月、再び諸軍を統率して鄆州を討ち、これを陥落させ、その将帥朱瑄を生け捕りにして献じ、初めて天平軍節度留後に表され、まもなく徐州節度使を授けられ、官は検校司徒しとに至った。乾寧四年八月、葛従周と分かれて大軍を統率し、淮を渡って楊行密を討った。十一月、師古は清口に寨を築いたが、寨の地は低湿であった。ある者が移転を請うたが、聞き入れなかった。やがて淮の者が上流を決壊させたと告げる者がいて、「水が来た」と言った。師古はその者が衆を惑わすのを怒り、これを斬った。しばらくして我が軍は泥濘の中にあり、戦うことができず、呉人が襲撃したため、敗北に及び、師古は陣中で没した。

霍存

霍存は洺州曲周県の人。性質はぎょう勇で、騎射に長け、黄巢の軍中ですでに将領となっていた。唐中和四年、太祖が王満渡で黄巢軍を大破した時、存は葛従周・張帰覇らと共に黄巢軍から降伏し、太祖はこれを赦して受け入れた。その後、王夏寨を破り、殷鉄林を撃ち、いずれも戦闘に参加した。まもなく朱珍を補佐して滑台を奪取し、淄州を攻め、博昌を取るなど、戦いに預かって功績を立てた。時に蔡賊の張至が汴の北におり、存は三千の兵で夜襲してその陣営を破った。配下の騎兵を用いて秦賢の軍を破り、五千人を殺し、四つの寨を連破して、その輜重をことごとく得た。盧瑭・張至討伐に従い、一万余人を殲滅し、存の功績が多かった。我が軍が濮州を包囲した時、賊が眺望楼に登って大声で罵った。太祖は大いに怒り、存を召してこれを射させると、一矢でその者は楼の下に墜落し、賞賜は甚だ厚かった。また朱珍を補佐して石璠を生け捕りにし、魏軍を破り、徐州の軍を敗走させた。また龐師古を補佐して呂梁に至り、時溥の二千余りの軍を破り、これにより累進して官位を昇った。初め、王師が淮を渡り食糧に乏しく、戦況は不利であったが、ただ存の軍のみが戦って功績があり、淮賊は遂に退却した。太祖が宿州を討った時、葛従周は水攻めでその城壁を破壊し、丁会は軍を率いて城壁に登り、存は城外で戦い、その軍を破ったため、宿州の者は降伏した。翌年、郴王朱友裕を補佐して碭山で時溥を撃ち、これを破り、蕃将の石君和ら五十人を捕らえた。この年、また晋軍と馬牢川で戦い、進軍では先鋒となり、退却では後衛を務め、晋軍は近づくことができず、乃ち河を渡って淇門を襲撃し、三千余人を殺した。曹州刺史郭紹賓が帰順して来た時、存は軍を率いてこれを救援し、遂にその任を代わった。初め、朱友裕が大軍を率いて鄆州を討ち、その城壁に迫ったが、やがて軍が包囲され、危急を告げて来たので、存は二百騎を率いて馳せ赴き、これを撃退した。太祖は喜び、諸軍都指揮使に抜擢した。景福二年春、太祖が自ら曹州に至り、数千の騎兵を残し、存にこれを率いさせ、且つ「危急の際は倍道兼行して赴け」と言った。やがて朱瑾が兵二万を率いて彭門を救援に入ったと聞き、存は乃ち騎兵を率いて馳せ赴き、徐州・兗州の軍と石仏山下で合戦し、これを大破したが、存もまた流れ矢に当たって卒した。当時の人はその忠勇を称えた。

初め、朱珍・李唐賓の没後、龐師古が朱珍に代わり、霍存が李唐賓に代わった。戦功・業績は多く師古と同じであった。初め遥かに韶州牧を領し、また賀州に改め、後に権知曹州刺史として用いられ、官は検校右僕射に至った。太祖が帝位に即くと、しばしば征討があり、猛士の歎きを起こした。一日、講武台に臨んで兵を閲し、諸将に言った。「霍存が生きていれば、朕がかくも労苦することはないであろう。諸君、これを思え。」他日また同じことを言い、累贈して官は太保に至った。

子の彦威は、後唐明宗の朝に青州節度使となった。

符道昭

符道昭は淮西の人。性質は強敏で、武略があり、秦宗権はこれを心膂として用い、諸軍を監督させ、後に騎将とした。特に陣を布くことに長け、勇名は当時に聞こえた。しかし剛直にして節操がなく、人の意を迎えることを善くし、一度会えば肺腑を尽くすかのようで、必ずその才を愛でるが、道昭の心はすでに去っていた。秦宗権の敗れようとする時、薛潜という者がいて、軍を分掌していた。道昭は親しい者に言った。「蔡は弱った。」乃ち薛潜に帰順した。薛潜が敗れようとすると、また洋州に奔って葛佐に依った。葛佐が興元軍を攻めて不利となり、また岐に奔った。宋文通はこれを愛し、養子として名を継遠と改め、遂にその宗を変えた。軍職を得ると、全て同輩を超えた。後に巴州刺史となり、また奏して隴州防禦使兼中軍都指揮使とした。太祖が昭宗を迎え奉じ、岐の下に駐軍した時、道昭は頻りに騎士を率いて敢闘し、しばしば王師に敗れたため、遂に来降した。太祖は平素よりその名を聞き、これを厚く遇した。昭宗が復位すると、奏して秦州節度使・同平章事を授け、兵を遣わして護送させたが、成功せずに帰還した。先に、李周彝が鄜州を棄てて自ら帰順し、元帥府行軍左司馬に任じられ、府で最も寵遇された。道昭が至ると、右司馬とし、周彝と共に寇彦卿・南大豊・閻宝以下の大軍を率いて滄州を討たせた。太祖が魏州に行幸し、牙軍を討った時、中軍の前に魏博の将山河営指揮使左行遷がおり、府中に変事あるを聞き、軍を率いて歴亭に還り屯し、自ら留後を称し、乱に従う者数万人に及んだ。道昭は周彝を補佐し、彦卿らと共にこれを大破し、四万余人を殺し、左行遷を生け捕りにして斬った。史仁遇もまた数万の徒を集めて高唐を占拠したが、またこれを破り、仁遇を生け捕りにして献じた。乗勝して澶州・博州の二州を取り、これを平定し、また一万余人を殺した。道昭の性質は勇猛果敢で、多く率先して敵陣に突入し、しばしば敗退したが、周彝・彦卿が犄角となって進み、連続して勝利を報告した。護兵の者が功績を実態以上に上奏し、皆道昭を首功とした。太祖は密かにこれを知り、いずれも賞を議しなかった。滄州包囲の際には騎兵を用いず、道昭に唐陽で馬を牧させた。太祖が禅を受けた後、兵権を委ねられ、康懐英らと共に潞州を攻め、「蚰蜒塹」でこれを包囲し、飛ぶ鳥も越えられぬほどであった。一年を過ぎると、晋の援軍が至り、王師は大敗し、道昭は晋軍に殺された。

徐懐玉

徐懷玉は、本名を琮といい、亳州焦夷県の人である。若くして雄傑たるを自任し、太祖に従って軍を起こす。唐中和の末、大梁に至るに従う。光啓初め、蔡の賊が金堤駅に屯す。懷玉は軽騎を率いて連破し、これにより累遷して親従副将となり、左長剣都虞候に改む。また板橋において蔡賊を破り、秦宗権の八寨を収め、検校右散騎常侍さんきじょうじを加えることを奏す。文徳初め、諸軍とともに河陽の囲みを解き、また徐・宿を破るに従う。乾寧中、検校刑部尚書を加えることを奏し、太祖は名を懷玉と賜う。金郷の南において朱瑾を破り、宗江を擒えて献じ、金紫光禄大夫・検校右僕射を授くることを表す。乾寧四年、龐師古が清口にて利を失うも、懷玉は独り軍を全うして退く。光化初め、滑州右都押牙兼右歩軍指揮使に転じ、まもなく沂州刺史を授くることを奏す。ほどなく、王師範が青州に叛き、しばしば兵を出して侵軼す。懷玉はこれを撃退す。天復四年、斉州防禦使に転じ、検校司空しくうを加え、大軍に従って岐下にて駕を迎う。帰りて華州観察留後を署す。一年、ふたたび所部の兵を領して雍州を戍り、まもなく河中に召し赴き、晋・絳・同・華五州馬歩都指揮使を補す。天祐三年、左羽林統軍を授かり、右龍虎統軍に転じ、六軍の士を領して沢州に赴く。まもなく晋軍に攻められ、昼夜衝撃し、地を穴ぐって入る。懷玉は親兵を率いて隧道において逆襲し、晋軍は遂に退く。開平元年、曹州刺史を授かり、検校司徒を加う。明年、晋州刺史を除く。その秋、晋軍大いに至り、すでにその城壁に乗ず。懷玉は親兵五十余人を選び、擁して城より下りて殺す。晋軍既に退き、家財を出して戦士を賞す。歳中、晋軍また至り、懷玉は兵を領して洪洞においてこれを破る。三年、制して鄜坊節度使・特進・検校太保を授け、兵を練り壁を繕い、人頗るこれを安んず。検校太傅を加う。乾化二年、庶人友珪既に篡立し、河中の朱友謙は命を拒む。兵を遣わして鄜州を襲わしむ。懷玉は備え無く、まもなく河中の軍に擄われ、公館に囚われる。及び友珪が康懷英に師を率いさせて河中を囲むに及び、友謙は懷玉に変有るを慮り、遂にこれを害す。懷玉は才気剛勇にして、臨陣未だ折退せず、平生金瘡体に被り、戦将の名有り。

郭言

郭言は太原の人である。南陽新野に家す。若くして力を農事に尽くして親を養い、郷里これを称す。唐広明中、黄巢が衆を擁して西に秦・雍を犯す。言は巢党に捕らえられる。後に太祖に従って汴に赴き、初めは騎軍となり、戦功を継ぎ、後に裨校に擢でられる。言は性剛直にして権略有り、戎事に勤め、あるいは家財を以て将士の貧しき者に分け与う。これにより頗る士心を得る。屡々兵を将いて蔡寇と浚郊に戦い、常に少を以て衆を撃ち、出でて必ず勝ちて帰る。太祖はその勇果を嘉し、賓佐に謂いて曰く「言は吾が虎侯なり」と。時に宗権の支党数十万、太祖の兵は数十旅に過ぎず、常にその寡なるを恨み、これと敵せず。一日、言に命じて数千人を董し、河・洛を越え、陝・虢に趨り、丁壮を招召し、以て部伍を実にせしむ。言は夏に往き冬に旋り、鋭士万余を得、遂に歩軍都将に遷る。是より太祖に従って蔡寇を掩襲し、斬獲掠奪、勝え紀すべからず。宗権はこれにより敗北し、太祖はその地を尽く収む。因って言に命じて兵を将い、貢奉を導達し、以て郵伝を安んぜしむ。汴・鄭より潼関に至るまで、奸を去り弱を恤み、甚だその所を得たり。光啓中、唐天子は太祖の兵威日に振うを以て、兼ねて揚州節度使を命ず。太祖は幕吏李璠に兵を領せしめて維揚に赴き、制置を名と為さしむ。時に言は李璠の前鋒と為り、深く淮甸に入り、盱眙を破りて還る。梁祖東に徐・鄆を伐つ。言は偏師を将い、地を略すること千里。頻りに寇敵に逢い、言は奇を出して決戦し、向かう所皆捷し、大いに東人の鋭を挫く。太祖その績を録し、「排陣斬斫」の号を以てこれに委ね、まもなく宿州刺史・検校右僕射と為すことを表す。時に徐・宿の兵鋒朝夕相接し、控扼偵邏すること、言を以て首と為す。景福初め、時溥大挙して来たり宿州を攻む。言は野戦に勇み、大敵に逢うを喜び、自ら鋭兵を引きて溥を撃ち、殺傷甚だ衆し。徐戎乃ち退く。言は流矢に中り、一夕にして卒す。

李唐賓

李唐賓は陝州陝県の人である。中和四年二月、尚讓の繁台を寇すや、唐賓は李讜・霍存とともに巢将と為り、太祖の軍と尉氏門外に戦う。三月、太祖瓦子寨を破る。唐賓は王虔裕と来たり降る。時に黄巢陳郊に壁す。乃ち唐賓に命じてその西を摩し焚かしむ。王満の師、王夏の陣、唐賓悉く戦中に在り。後に朱珍と淄州に趣き、向かう所敵を摧く。及び滑を取って蔡を平げ、前後鄆・淮・徐の衆を破る。功は朱珍と略等しく、而して驍勇絶倫、矛を用いるに善く、未だ率先して陣を陷さざること無し。その軍を治め師を行くの道に善くするも、亦珍と斉名す。珍の石璠を擒うるや、唐賓も亦淮に沿いて郭言と犄角し盱眙を下す。その後河を渡り黎陽・李固等の鎮を破り、澶州を攻め、内黄を下し、魏師を敗る。未だ珍と同せざること無し。暨んで蔡を攻むるの役、珍は西南よりその外垣を破り、唐賓も亦壕を堙め墉を坎て、その東北隅を摧く。及び徐を伐ち豊を取る。時に溥は呉康に軍す。珍亟にこれに遇い、未だ卻す能わず。唐賓は本軍を引きてこれを撃破し、珍遂に大勝す。毎に師を興す必ず珍と偕に用いらる。故に往きて利無からず。然れども剛中壮を用い、遂に珍の為に害せられ、謀叛を以て聞こゆ。太祖これを聞き、痛惜すること累日。及び朱珍を誅する後、その妻孥をして軍に至り収葬せしめ、而して吊祭を加う。

王虔裕

王虔裕は琅琊臨沂の人、楚丘に家す。少より胆勇有り、力多く射に善く、弋猟を事とす。唐乾符中、諸葛爽青・棣の間に徒を聚め、郡県を攻剽す。虔裕その衆に依る。及び爽帰順するや、乃ち虔裕及びその衆をして宣武軍に隷せしむ。太祖汴を鎮む。四郊多事、始めて将を選び征討を議す。首に虔裕を以て騎兵を綰し、恒に前鋒と為す。及び太祖陳州にて巢・蔡を撃つや、虔裕連ねて数寨を抜き、擒獲万計。巢孽既に遁る。虔裕その跡を躡い、万勝戍に追い至る。賊衆饑乏し、短兵才に接して潰ゆ。太祖その労を以て、義州刺史を授くることを表す。蔡人日に侵掠を縦し、陳・鄭・許・亳の郊頻年大戦す。虔裕掩襲攻拒し、凡そ百余陣、剿戮生擒、紀極を知らず。秦宗賢汴南鄙を寇す。太祖虔裕に命じて尉氏において逆撃せしむ。利あらずして還る。太祖怒り、職を削り、別部に拘するを命ず。一年を逾え、邢州孟遷降を請う。未だ幾ばくもあらず、晋人邢を伐つ。孟遷使いを遣わして来たり師を乞う。太祖先ず虔裕に勇士百余を選ばしめ径ち往きてこれに赴かしめ、夜を伺って突入して邢州に入る。明日、堞に循って旗幟を樹立す。晋人測る能わず、乃ち退く。数月、復た来たりて邢を囲む。時に太祖の大軍方に兗・鄆を討ち、未だ救援に及ばず。邢人困して貳を携う。遷乃ち虔裕を縶して太原に送り、まもなく害せらる。

劉康乂

劉康乂は、壽州安豐縣の人である。農桑を業とし、唐の乾符年間、關東に群盜並び起こり、江・淮の間は偏にその苦しみに罹り、ために巢黨に掠められしが、康乂は沈黙にして膂力あり、矛槊を用いるに善くし、然れども暴を為すを樂しまず。中和三年、太祖に從ひて鎮に赴き、心腹に委ねられ、康乂は戈を枕に甲を擐ぎ、夷險憚るところ無し。其の後累ねて親軍を典し、巢を襲ひ蔡を破り、斬獲殊に多く、累ねて戰功により元從都將に遷る。太祖に從ひて連年徐・兗・鄆を攻討し、向かふところ多く捷ち、營壘に尤も善くし、諸軍壕寨使を充つ。太祖三鎮を盡く下すに及び、其の功を議し、檢校右僕射を加ふるを奏し、兼ねて軍衛を領し、尋いで密州刺史に遷り、政甚だ簡靜なり。時に王師範叛きて青州に據り、淮夷に師を乞ひ、淮人遂に密州を攻む。密の兵素より少なく、銳を執る者千夫に滿たず、而るに淮賊萬を逾え、康乂は老弱を率ひて陴を守り、自ら別に少壯を領し、日々に接戰を密の四郊に為し、俘擒千計に及ぶ。賊密州の虛弱なるを知り、援兵未だ至らざるを以て、晝夜急攻し、遂に陷り、康乂出でて賊の害する所と為る。

王彥章

王彥章、字は賢明、鄆州壽張縣の人である。祖は秀、父は慶宗、俱に仕えず。彥章の貴きを以て、秀は左散騎常侍を贈られ、慶宗は右武衛將軍を贈らる。彥章少くして軍に從ひ、太祖の帳下に隷し、驍勇を以て聞こゆ。稍く軍職に遷り、累ねて禁兵を典す。太祖に從ひて征討し、至る所功有り、常に鐵槍を持ち堅きを衝き陣を陷す。開平二年十月、開封府押牙・左親從指揮使より左龍驤軍使を授かる。三年、左監門衛上將軍に轉じ、前の如く左龍驤軍使。乾化元年、行營左先鋒馬軍使に改め、金紫光祿大夫・檢校司空を加へられ、前の如く左監門衛上將軍。二年、庶人友珪位を篡すに及び、檢校司徒を加ふ。三年正月、濮州刺史・本州馬步軍都指揮使を授かり、前の如く左先鋒馬軍使。未だ幾ばくもあらざるに、先鋒步軍都指揮使に改む。四年、澶州刺史と為り、開國伯に進封さる。五年三月、朝廷魏州を割きて兩鎮と為さんことを議し、魏人の從はざるを慮り、彥章を遣はして精騎五百を率ひ鄴城ぎょうじょうに屯せしめ、金波亭に駐まり、以て非常に備ふ。是の月二十九日夜、魏軍亂を作し、首に彥章を館舍に攻め、彥章南に奔る。七月、晉人澶州を陷し、彥章舉家陷沒す。晉王其の家を晉陽に遷し、之を待つこと甚だ厚く、細人を遣はし間行して之を誘はしむ。彥章即ち其の使を斬り以て之を絕つ。後數年、其の家害せらる。九月、汝州防禦使・檢校太保を授かり、前の如く行營先鋒步軍都指揮使。貞明二年四月、鄭州防禦使に改む。三年十二月、西面行營馬軍都指揮使を授かり、檢校太傅を加へられ、前の如く鄭州防禦使。頃くして、行營諸軍左廂馬軍都指揮使を授かる。五年五月、許州兩使留後に遷り、軍職舊に如し。六年正月、正しく許州匡國軍節度使を授かり、散指揮都頭都軍使を充て、開國侯に進封さる。未だ幾ばくもあらざるに、北面行營副招討使を授かる。七年正月、滑州を領すること移る。

龍德三年四月晦、晉師鄆州を陷し、中外大いに恐る。五月、彥章を以て戴思遠に代はり北面招討使と為す。命を拜するの日、裝を促して滑台に赴かんとし、遂に楊村寨より河を浮かびて下り、水陸俱に進み、晉人の德勝の浮梁を斷ち、南城を攻めて之を拔く。晉人遂に北城を棄て、軍を併せて楊劉を保つ。彥章舟師を以て流に沿ひて下り、晉人盡く北城を徹し、屋木を拆き筏を編み、步軍を其の上に置き、彥章と各一行の岸を行く。轉灘水彙むる每に、即ち中流に交鬥し、流矢雨の如く集まり、或いは舟筏覆沒し、楊劉に比するまで、凡そ百餘戰。彥章急に楊劉を攻め、晝夜息まず、晉人力を極めて固守し、陷らんとすること數四に垂る。六月、晉王親しく其の城を援け、彥章の軍は壕を重ね壘を復ふ。晉人入ること能はず。晉王乃ち博州東岸に壘を築き、以て鄆州に應ず。彥章之を聞き、軍を馳せて至り、急に其の柵を攻め、旦より午に及び、其の城將に拔けんとす。會ふに晉王大軍を以て來援するに、彥章及び退く。七月、晉王楊劉に至り、彥章軍利あらず、遂に彥章の兵權を罷め、詔して闕に歸らしめ、段凝を以て招討使と為す。

先づ是れより、趙・張二族朝政を撓亂す。彥章深く之を惡み、性復剛直にして、緘忍すること能はず。招討の命を授けらるるに及び、因りて親しき者に謂ひて曰く、「我が立功の後、軍を回すの日、當に奸臣を盡く誅し、以て天下に謝せん。」と。趙・張之を聞き、私に相謂ひて曰く、「我輩は寧ろ沙陀の手に死すとも、彥章に殺さるべからず。」と。因りて力を協せ以て之を傾けんとす。時に段凝賄賂を以て交結し、自ら兵柄を求め、素より彥章と協せず、潛かに其の功を害し、陰に逗撓を行ひ、遂に王師利あらずに至り、竟に彥章を退け段凝を用ふ。未だ十旬に及ばず、國之を以て亡ぶ。

是の歲秋九月、朝廷晉人將に兗州路より師を出さんとするを聞き、末帝急に彥章を遣はして保鑾騎士數千を領し東路に守捉せしむ。且つ鄆州敵人の據る所と為るを以て、因りて進取を圖り、張漢傑をして監軍と為さしむ。一日、彥章汶を渡り、以て鄆の境を略し、遞坊鎮に至り、晉人の襲ふ所と為り、彥章中都に退き保つ。十月四日、晉王大軍を以て至り、彥章眾を以て拒戰し、兵敗れ、晉將夏魯奇の擒ふる所と為る。魯奇嘗て太祖に事へ、彥章と素より善し。彥章敗るるに及び、其の語音を識りて曰く、「此れ王鐵槍なり。」と。槊を揮ひて之を刺し、彥章重傷し、馬踣ち、遂に就擒す。晉王彥章を見て之に謂ひて曰く、「爾常に孺子を以て我を待つ、今日服せずや?」又問ふ、「我素より爾の將たるに善きを聞く、何ぞ兗州を保守せざる?此の邑素より城壘無し、何を以て自ら固めん?」彥章對へて曰く、「大事已に去り、臣が智力の及ぶ所に非ず。」と。晉王惻然とし、親しく藥を賜ひ以て其の創を封ず。晉王素より其の勇悍を聞き、全活せんと欲し、中使をして慰撫せしめ、以て其の意を誘はしむ。彥章曰く、「比は匹夫、本朝擢でて方面に居らしめ、皇帝と十五年抗衡す。今日兵敗れ力窮まり、死すること常の分有り。皇帝縱ひ矜宥を垂れたりとも、何の面目か人に見えん!豈に臣と為り將と為り、朝に梁に事へて暮に晉に事へんや!死を得るは、幸なり。」と。晉王又た李嗣源に謂ひて曰く、「爾宜しく親しく往きて之を諭すべし、庶くば全活せしむべし。」と。時に彥章重傷を以て興ること能はず、嗣源臥内に至り以て之を見る。嗣源に謂ひて曰く、「汝は邈佶烈に非ずや?」と。邈佶烈は蓋し嗣源の小字なり。彥章素より嗣源を輕んじ、故に小字を以て之を呼ぶ。既にして晉王命じて肩輿に隨軍して任城に至らしむ。彥章傷むる所の痛楚を以て、堅く遲留を乞ひ、遂に害せらる。時に年六十一。

彦章は性質忠勇にして膂力あり、陣に臨み敵に対し、奮って身を顧みず。嘗て人に謂ひて曰く、「李亜子(李存勗)は闘鶏の小児に過ぎず、何ぞ畏るるに足らん」と。初め、晋王(李存勗)彦章の招討使に授けられたるを聞き、魏州より急ぎ河上に赴き、以て衝突に備ふ。至れば則ち徳勝南城既に其の抜かれたる所となれり。晋王嘗て曰く、「此の人畏るべし、当に其の鋒を避くべし」と。一日、晋王兵を領して潘張寨に迫り、大軍河を隔て、赴援すること能はざるに、彦章槍を援りて船に登り、舟人を叱して纜を解かしむ。招討使賀瑰之を止むるも、肯はざりき。晋王彦章の至れるを聞き、軍を抽いて退く。其の驍勇此の如し。及んで晋高祖こうそ(石敬瑭)都を夷門に遷すに及び、彦章の忠款を嘉し、詔して太師を贈り、子孫を搜訪して録用せしむ。

賀德倫

賀德倫、其の先は河西部落の人なり。父は懷慶、滑州軍に隷して小校と為る。德倫少くして滑の牙将と為る。太祖(朱全忠)四鎮を領するに及び、德倫本軍を以て従ひ、継いで軍功を立て、累を歴て刺史留後に至り、平盧軍節度使に遷る。及んで魏博の楊師厚卒するに及び、朝廷德倫を以て其の任に代ふ。貞明元年三月二十九日夜、魏軍乱を作し、德倫を執へて別館に囚ひ、其の部衆を尽く殺し、乱首張彦の迫る所と為り、使を遣はして太原に帰款す。晋王黄沢嶺より東下し、臨清に至る。德倫従事司空頤を遣はし密かに晋王に啓し、以て張彦の凌辱の事を訴ふ。晋王永済に至り、彦等八人を斬り、然る後に魏に入る。德倫即ち符印を以て晋王に上る。尋で雲州節度使を授けらる。行きて河東に次ぐに、監軍張承業之を留めて遣はさず。頃くして、王檀急兵を以て太原を襲ふ。德倫の部下多く奔逸す。承業其の変を為さんことを懼れ、遂に德倫を誅し、へいせて其の部曲を尽く殺す。