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舊五代史
梁書二十: 列傳十 謝瞳 司馬鄴 劉捍 王敬蕘 高劭 馬嗣勳 張存敬 寇彥卿
謝瞳
謝瞳、字は子明、福州の人である。唐の咸通の末に進士に挙げられ、長安に留まること三年、及第しなかった。廣明の初め、黄巢が長安を陥落させると、太祖(朱全忠)に身を投じ、その門下に居て、一日も左右を離れなかった。太祖が同州を占拠すると、右職に任じた。その年の秋、太祖が河中と交戦し、再び不利となり、連続して章を上って黄巢に援軍を請うたが、偽右軍都尉の孟楷がこれを抑えて進軍させなかった。瞳は太祖に去就を決する意思があると推し量り、進言して説いた。「黄家は数十万の軍勢をもって、唐朝が久しく安泰で人々が戦いに慣れていない時に乗じ、利に因り便に乗じて、両京を陥落させました。しかし偽の国号を称するに至り、人材任用は既にその道を失っています。今、将軍は三軍の勇を冠とし、外で力戦しているのに、孟楷は専ら上聞を遮ることに務め、奏章は上達せず、下では凡庸な者に制せられ、独断の明がありません。破亡の兆しは必ずあります。況や土徳(唐の徳運)は未だ厭わず、外兵が四方から集まり、漕運は波のように注ぎ、日に日に回復を名目としています。将軍、これをご明察ください。」太祖は言った。「我が意思は元より決している。お前もまたこのように言うなら、さらに何を疑おうか。」翌日、遂に策を定め、偽監軍使を誅戮し、衆を悉く率いて河中に帰順した。王重榮は瞳を表して検校屯田員外郎とし、緋を賜い、蜀に行在する皇帝に奉表することを命じた。唐の僖宗は大いに喜び、召し入れて顧問とし、賜与は甚だ厚く、功により朝散大夫・太子率更令を授け、紫を賜い、陵州刺史とした。郡を治めること一年、検校右散騎常侍・通州刺史に改めた。在任四考、頗る政績があった。秋に罷免され、蜀の行在に赴くと、太祖は人を遣わして迎えさせた。龍紀二年、東京に至り、慰労招来は一層厚く、邸宅と別荘を各一区、銭千緡を賜い、表して亳州団練使兼太清宮副使とし、検校工部尚書を加えた。この年の冬、太祖が淮南を征伐し、その郡を過ぎた時、侍従して府幕に仕えることを求め、表して宣義軍節度副使とし、両使留後を充てた。瞳は滑州に十三年在任し、管内で戸数約五万を増やし、兵数千人を増やし、累遷して大中大夫・検校右僕射に至り、滑州で卒した。開平の初め、司徒を追贈された。
司馬鄴
司馬鄴、字は表仁、その先祖は河内郡温県の人である。祖父の徳璋は、唐に仕えて杞王傅となった。父の諲は、左武衛大将軍であった。鄴は資蔭により出身し、頗る書をよく知り、累官して大列に至った。唐の天復の初め、韓建が用いて同州節度留後とした。韓建伝判官司鄴昭宗が鳳翔に幸する時、太祖が兵を率いて関中に入り、前鋒が左馮翊に至ると、鄴は印鑰を持って道端で迎え謁した。太祖が兵をもって華州を包囲すると、命じて城中に入り韓建を招諭させたところ、建は果たして出て降伏した。大軍が岐城の下に在る時、昭宗に奏事することを遣わされ、再び入りまた出た。また金州に使いし、その帥の馮行襲を説き、攀附を堅くさせた。後に宣武・天平等軍の従事を歴任した。開平元年、右武衛上将軍に拝された。三年、両浙に使いした。当時、淮水の水路は通じず、駿馬に乗る者は迂回すること万里、陸路を行けば荊・襄・潭・桂を経て嶺に入り、番禺から海を渡って閩中に至り、杭・越に達した。復命する時は舟楫を備え、東海を出て、登州・萊州に至った。しかし揚州の諸湊には賊船が多く、通過する者は岸に沿って行くことを敢えず、必ず高帆を揚げて遠く海中を航行し、これを「入陽」と言った。このため損傷・遭難することが多かった。鄴は海上で一年を過ぎ、耽羅国に漂着し、一行ともに溺死した。後に詔して司徒を追贈した。
劉捍
劉捍、開封の人である。父の行仙は、宣武軍の大将であった。捍は若くして牙職となり、太祖が初めて夷門を鎮守した時、捍が聡敏であることから、副典客に抜擢した。唐の中和四年夏、太祖が朱珍を淄州刺史とし、淄州・青州の間で兵を収集することを命じ、捍にその兵を監させた。路で大敵に逢うも、皆これを撃破した。博昌に入り、精兵三万を獲得して帰還した。四月、大軍と合流して蔡賊の秦宗賢の数万の衆を汴西で破った。文徳元年十一月、蔡将の申叢が宗権の足を折り、太祖に降伏を申し入れたので、捍を使いとしてその事を奏上させ、兼御史大夫を加えた。光化三年六月、太祖が鎮州・定州を北伐し、常山に至ると、王镕が危惧して、太祖に降伏を申し入れ、捍をして壁門に入り伝諭させた。当時、両軍は未だ整っておらず、守門の者の戈戟は千重に巡らされていたが、捍は騎馬を馳せて入り、遂にその命を伝えた。また師を移して中山を攻め、懐徳駅に至り、定州の五万の衆を大破し、王処直が降伏を請うたので、捍は再び単騎で州城に入り、安撫して帰還した。太祖が岐城の下で昭宗を迎えた時、捍を親軍指揮とした。天復三年正月、宋文通が客将の郭啓奇を太祖に使いさせたので、捍に復命させた。昭宗はその到着を聞くと、即ち召見し、東兵(朱全忠軍)の事情を詢ね、錦服・銀鞍勒馬を賜った。翌日、光禄大夫・検校司空・登州刺史を授けた。昭宗が京に還ると、常州刺史に改め、迎鑾毅勇功臣の号を賜った。四月、太祖が青州で王師範を討伐し、左右長直都指揮使に改めた。天祐三年正月、宋州刺史を授けられた。四月、検校司徒を加えられた。太祖が禅を受けると、左龍虎統軍兼元従新軍馬歩都虞候を授けられた。上党で兵が膠着すると、太祖が親しく巡撫に赴き、捍を御営使とした。大軍が昂車に駐屯した時、斥候が来て蕃戎が沢州に迫ると告げたので、捍に兵千人を率いて赴かせたところ、敵軍は遁走した。車駕が京に還ると、捍に侍衛親軍都指揮使を授けた。晋人が晋州を侵すと、陝州への行幸に従って帰還し、検校太保を加えられた。車駕に従って河中に行幸した時、詔して王重師を行在に赴かせ、捍を雍州節度観察留後とした。一月余りを経ただけで、劉知俊が同州に拠って反逆し、密かに人を遣わして厚利で将校を誘い、遂に部下に捕らえられ、知俊のもとに送られた。知俊は捍を縛って鳳翔に帰し、李茂貞に害された。開平四年、太傅を追贈された。末帝が即位すると、また太尉を追贈した。
捍は賓客応対に熟達し、人を迎えることを善くし、司賓局から征討に四方に出るまで、必ずその間に参与した。決戦して鋒先に立つ功績は無かったが、命を受けて奔走し、しばしば命令を伝え揚げ、職務に勤勉で幹事であり、以て崇高顕要な地位に至ったのである。
王敬蕘
王敬蕘、潁州汝陰の人、代々郡の武吏であった。唐の乾符の初め、敬蕘は本州の都知兵馬使となった。中和の初め、寇賊の難が益々激しくなり、郡守が凡庸で怯懦で自らを固守できなかったため、敬蕘は遂に代わって郡を監し、間もなく真に刺史に拝され、検校右散騎常侍を加えられた。当時、州境は凶作飢饉で、大賊が続いて到来し、黄巢の数十万の衆が州の南に寨を築いたが、敬蕘は極力抗禦し、十日余りで退却させた。間もなくまた宗権の衆が来て、暴虐が益々甚だしく、合囲して城壁を攻めたが、皆力尽きて去った。蔡賊はまた将の刁君務を遣わし、一万の衆をもって逼迫してきたが、敬蕘は陣を列ねてこれに当たり、身先んじて馳突し、敵を多く殺した。これにより遂に郡の城塁を全うし、遠近より帰附する者があった。淮人が恭順しないと、太祖はしばしば軍を南渡させ、路は州境を通ったが、敬蕘は心を尽くして供億し、太祖は甚だこれを嘉した。乾寧二年、沿淮上下都指揮使に任じた。四年冬、龐師古が清口で敗れ、敗軍で逃げ帰る者が甚だ多く、路は潁州を通った。当時、雨雪が連旬に及び、軍士は凍え飢えた。敬蕘は自ら淮で薪を燃やし、道に相連なり、郡中で粥・炒り粉・餅・餌を設けてこれをもてなし、全く生き延びた者は甚だ多かった。これにより表して武寧軍節度・徐宿観察留後を兼ねさせた。数ヶ月後、真に武寧軍節度使に拝された。天復二年、入朝して右龍武統軍となった。天祐三年、左衛上将軍に転じた。開平元年八月、疾を以て致仕し、間もなくその邸で卒した。
敬蕘は魁傑にして沈勇、力多く戦を善くし、用いる槍矢は皆純鉄を以て鍛え成し、槍の重さ三十余斤、鋒を摧き陣を突くに、率ね此を以て勝つ。太祖の旧臣に非ざるも、遠く懇款を輸し、境を保ち兵を合して、以て興王の運を輔くるに、称すべき者あり。
高劭
高劭、字は子将、淮南節度使駢の従子なり。父は泰、黔中観察使。唐の僖宗、敵を避けて蜀に在り、駢は淮南に鎮めて都統たり、諸道塩鉄使を兼ね、兵賦己に在り、朝廷之を優仮す、以て故に劭幸いにして早く官し、年十四にして華州刺史を遥領す。光啓中、駢の命を以て晋公王鐸を鄭に遏む。俄にして州蔡に陥ち、劭賊の得る所と為り、人をして之を守らしめ、四門に戒めて曰く「高大夫を出すこと無かれ」と。劭守者の稍だ惰るを伺い、佯りて乞食者と為り、危垣を過ぎ、殍者の衣を取り、身に坌じて服を易え、他児を得て之を抱きて行き、東郊門を出づ。人は之を丐者と以為し、之を止めず。及稍だ遠く、抱く所の児を棄て、疾く趨りて中牟に至り、遂に汴に達す。太祖客礼を以て之に遇い、尋ち表して亳州団練副使と為し、州事を知らしむ。又数年、辟して宣武軍節度判官と為し、幕下に在りて頗る気直を以て自ら許す。後鄭州事を監し、復た権に徐州留後を知る。唐の昭宗の鳳翔に在り、太祖迎奉未だ出でず、劭疑謀有り、遂に令して華州に赴き、丞相府に詣りて以て其の事を議せしむ。行きて高陵に至り、盗の害する所と為る。
馬嗣勳
馬嗣勳は、濠州鍾離県の人、世々軍吏と為る。嗣勳は口弁有り、武芸を習い、初め州の客将と為る。唐の景福元年三月、太祖寿州刺史江儒の反下蔡鎮使を以て、李立兵を率いて濠梁を攻む、刺史張遂嗣勳をして州印・戸籍を持ちて太祖に帰せしむ。乾寧二年三月、楊行密復た濠州を攻め、張遂嗣勳を遣わして太祖に援を求む。俄にして郡陥ち、嗣勳帰する所無く、即ち署して元従押牙・副典客と為し、頗る任使に称す。光化元年三月、太祖光州に往きて刺史劉存を説き淮賊に背き国に向わしむるを令し、又李彦威に従い黄州及び武昌県を復し、刺史瞿章を獲る。俄に復た光州に使いし、幣馬を持ちて以て劉存に賜う。会に淮賊急に光州を攻め、存と嗣勳兵を率いて大戦し、之を敗りて走らしむ。又使を蜀に遣わし、及び帰り、其の助軍の資実甚だ多きを得。天復中、太祖昭宗を岐下に迎え、軍華の西に至り、嗣勳をして入見せしむ、韓建即時に同く出で迎謁す。及び羅紹威将に牙軍を殺せんとし、使を遣わして太祖に告ぎ、外援を求む。時安陽公主初め魏に卒し、太祖乃ち嗣勳を遺わし長直官千人を率い、兵仗を橐中に実し、肩舁して以て魏に入らしめ、声言して来たり祭を致し葬に会わんとす、牙軍之を覚えず。天祐三年正月十六日夜、嗣勳紹威の親軍と同く牙軍を攻め、曙に至り、尽く之を殪す。嗣勳重傷し、旬日にして卒す。開平中、累ねて太保を贈る。
張存敬
張存敬は、譙郡の人なり。性剛直、胆勇有り、危に臨みて畏憚する所無し。唐の中和中、太祖に従い汴に赴き、其の節を折るを以て、頗る親昵を見られ、首めて右騎都将と為る。巢・蔡を討つに従い、凡そ百戦を歴し、多く危蹙の間に於て、奇略を顕わし、是に由りて頻りに殊効を立つ。光啓中、李罕之晋軍と会し張宗奭を盟津に囲む、太祖丁会・葛従周・存敬を遣わし同く馳せ往きて救わしむ。存敬騎軍を引きて先ず敵将を犯し、諸軍之を翼し、敵騎大敗し、乃ち河橋の囲みを解く。大順二年、諸軍都虞候と為り、霍存を佐け大軍を董て宿州を収め、功を以て奏して検校兵部尚書を加う。太祖東に徐・兗を征し、存敬屡に俘斬の功有り。凡そ指顧を受くるは、皆機会と与にし、矢石の及ぶ所は、必ず身を以て先にし、太祖屡に優異を加え、以て行営都指揮使・検校右僕射と為す。乾寧三年、武寧軍留後を充て、潁州刺史を行る。光化二年夏四月、幽・滄魏郡を侵淩し、復た存敬を都指揮使と為す。三年、大挙し、葛従周と連ね諸軍を統て浮陽を攻め、数十柵を樹え、劉守文を累月囲む。時幽州劉仁恭兵を挙げ来たり援く、存敬潜軍をして之を乾寧軍南老鴉堤に撃たしむ。是の日、燕人大敗し、首級五万を斬り、生擒馬慎交以下百余りを擒え、馬万余蹄を獲る。其の年秋九月、軍を引き鎮州を収む、存敬衆を勒して滹沲河に渉り、師人鼓行して進み、鎮の遊兵数千に逢い、因りて之を逐い、直ちに鎮の壅門に入り、鞍馬牛駝万計を収む。翌日、鎮人質を納めて旋る。尋ち宋州刺史と為り、年を踰え、甚だ能政有り。復た衆を擁して薊門を伐ち、数旬の間に連ねて瀛・莫・祁・景の四州を下し、擒ふる俘は勝げて紀すべからず。自ら懐徳驛より中山兵と接戦し、屍を枕すること数十里、中山壁を開き降を請う。天復元年春、太祖河中節度使王珂の太原と親を結び、恃みて驕恣するを以て、存敬に命じ大軍を統て之を討たしむ。即日絳州を収め、刺史陶建釗を擒え、晋州刺史張漢瑜を降し、二郡平ぐ。進みて河中を囲み、王珂降を請う。太祖之を嘉し、乃ち存敬を護国軍留後と為す。未だ幾ばくもせず、検校司空、尋ち宋州刺史に移る。将に之く任所に、寝疾し、旬を踰えて河中に卒す。太祖之を聞き、痛惜して移晷す。開平初、太保を追贈す。乾化三年、又太傅を追贈す。
子仁願、晋の天福中、仕えて大理に至る。
寇彦卿
寇彦卿、字は俊臣、大梁の人なり。祖は琯、父は裔、皆宣武軍の牙校。太祖汴に鎮まり、彦卿を将家の子と以て、擢て左右に在らしむ。弱冠、選ばれて通賛官と為る。太祖元帥と為り、補して元帥府押牙と為し、四鎮通賛官行首兼右長直都指揮使を充て、累ね奏して検校司徒を授け、洺州刺史を領す。羅紹威将に牙軍を殺せんとし、使を遣わして太祖に告ぐ、太祖彦卿を命じて魏に使わし、密かに紹威と之を謀らしむ。竟に其の事を成すは、彦卿の力なり。彦卿身長八尺、隆準方面、語音鐘の如し。騎射を善くし、書史を好み、復た善く太祖の旨を伺い、凡そ作為する所は、動もて皆雲合す。太祖毎に言いて曰く「敬翔・劉捍・寇彦卿は、蓋し我が為に生まるるなり」と。其の重んぜらるる此の如し。太祖乗する所有る烏馬、号して「一丈烏」と曰う、嘗て以て彦卿に賜う。
天復年間(901-904)、太祖(朱全忠)が昭宗を鳳翔に迎え、しばしば岐軍と対陣した。時に寇彦卿は諸道馬步軍都排陣使であった。かつて自ら甲冑を身に着け、賜わった烏馬に乗り、陣前を馳せ巡った。太祖がこれを見て言うには、「真の神王なり」と。昭宗が京に還ると、迎鑾毅勇功臣を賜わり、邢州刺史に改め、まもなく亳州団練使に遷った。
太祖が禅を受けると、華州節度使となり、検校太保を加えられた。一年余りして、入朝して左金吾衛大將軍となり、街使を充てた。ある日、天津橋を過ぎた時、老人が誤ってその趨道(行列の通路)に突入したので、これを排し、橋から落ちて死なせた。御史府に弾劾され、太祖やむなく、左衛中郎将に責授した。数ヶ月も経たぬうちに、相州防禦使を除し、前の如く行営諸軍排陣使を兼ねた。まもなく、河陽節度使を授かり、検校太傅を加えられた。太祖が弑逆に遇うと、彦卿は旧恩を追慕し、御容を描いてこれを奠祭した。客と対して先朝の旧事に言及するたびに、涙と鼻水が流れ落ちた。末帝が位を嗣ぐと、遥かに興元節度使・東南面行営都招討使を領した。淮寇を防ぐためであり、まもなく右金吾衛上將軍に改めた。貞明(915-921)の初め、鄧州節度使を授かった。時に淮人が安陸を包囲したので、彦卿は詔を奉じて兵を率いて包囲を解き、淮賊を大破して帰還した。四年(918)、鎮において卒した。時に五十七歳。詔して侍中を贈られた。彦卿は貞幹明敏にして、人主に仕えることを善くしたが、寵を恃んで威を作し、猜忌多く殺戮を好み、顕著な功名を立てたとはいえ、なお識者に鄙しまれた。
贊
史臣が曰く、存敬には提鼓の労があり、彦卿には攀鱗の機会に遇い、ともに藩鎮の後継者となった。これもまた宜なるかな。