舊五代史

梁書十九: 列傳九 氏叔琮 朱友恭 王重師 朱珍 李思安 鄧季筠 黃文靖 胡規 李讜 李重胤 范居實

氏叔琮

氏叔琮は尉氏の人である。唐の中和の末、応募して騎軍となり、初め龐師古に隷属し、伍長となった。叔琮は壮勇にして沈毅、胆力人に過ぎた。太祖が陳・許の間で黄巢・蔡賊を討つに当たり、叔琮は奮撃し、諸校の先頭に立ち、太祖はこれを壮とし、行伍の間から抜擢して後院馬軍都將とした。時に東伐して徐・鄆を攻め、多年を経たが、叔琮は身を矢石に当て、奮いて命を顧みず、見る者はこれを称えた。累遷して指揮使となり、まもなく奏上して宿州刺史・檢校右僕射を授かった。太祖が襄陽を伐つに当たり、叔琮は失利し、降格して陽翟鎮遏使となった。まもなくまた洹水において晉軍を防ぎ有功により、曹州刺史に遷った。天復元年春、大軍を率いて澤・潞を攻め落とし、叔琮は兵を引きいて北進し太原を掠めた。師が還ると、晉州節度使に任じられた。明年、太祖が岐下に軍を駐屯させると、晉軍が密かに絳州を襲撃し、前軍は利あらず。晉軍は勝ちに乗じて臨汾を攻めたが、叔琮は厳しく守備を設けた。そこで軍中より壮士二人を選び、目深く虯髯、容貌沙陀の如き者をして、襄陵県の道端で牧馬せしめた。蕃寇これを見て疑わず、二人はその間に雑じり、やがて隙を伺って各々一人を捕えて来た。晉軍は大いに驚き、かつ伏兵あるかと疑い、遂に退いて蒲県に拠った。時に太祖は朱友寧に兵数万を将いて応援に赴かせ、全て叔琮の節制に委ねた。既に至ると、諸将は皆軍を休めんとしたが、叔琮は曰く、「もし然らば、則ち賊必ず遁るべし、遁れば何の功かあらん」と。よって夜に出で、潜かに師をしてその帰路を遮らしめ、晉軍の遊騎数百に遇い、尽くこれを殺した。遂にその塁を攻め、これを抜き、斬獲万余衆、馬三百匹を奪った。太祖これを聞き、喜んで左右に謂いて曰く、「蕃賊を殺し、太原を破つは、氏老に非ざれば不可なり」と。叔琮は乃ち長駆して汾州を収め、晉人と転戦し、直ちにへい州の塁に抵った。軍が戻ると、その功により奏上して檢校司空しくうを加えた。この後累年、晉軍は侵軼を敢えてしなかった。叔琮は士を養い民を愛し、甚だ能政あり。天復三年、鄜州留後となり、まもなく真に保大軍節度使・檢校司徒しとを領した。及て昭宗が東遷するに当たり、征されて右龍虎統軍となり、以て洛陽らくようを衛らしめた。天祐元年八月、朱友恭と共に太祖の密旨を受け、大内において昭宗をしいした。既にして軍政を理めざるを責められ、白州司戸に貶せられた。まもなく自尽を賜った。叔琮将に死せんとして呼んで曰く、「我が性命を売り、以て天下の謗りを塞がんと欲するも、その神理を如何せん」と。乾化二年、詔して帰葬を許された。

朱友恭

朱友恭は壽春の人、本姓は李、名は彥威。幼少より太祖に事え、性質穎利、よく太祖の意を体し、太祖これを憐れみ、因って畜いて己が子と為し、姓を賜い、初め克讓と名付け、後にこれを改めた。時に初めて左長劍都を建つるに、友恭をしてこれを董せしめた。太祖に従い四征し、稍々軍功を立て、累遷して諸軍都指揮使・檢校左僕射となった。乾寧中、汝州刺史を授かり、檢校司空を加えられた。光化初、淮夷が鄂渚を侵し、武昌帥杜洪が師を乞いに来たので、太祖は友恭に兵万余を将いて江を渡り応援せしめ、兵を引いて龍沙・九江に至りて還り、軍声大いに振るった。時に淮寇が黄州に拠るを、友恭はその壁を攻め陥し、賊将瞿章を獲、俘斬万計に及んだ。途経安陸、因って刺史武瑜を襲撃して殺し、その衆を尽く収め、功により潁州刺史となり、檢校司徒を加えられた。天復中、武寧軍留後となった。天祐初、昭宗が東遷して洛邑に至るに当たり、征されて左龍虎統軍に拝され、以て宮闕を衛らしめた。まもなく氏叔琮と共に太祖の密旨を受け、洛陽宮において昭宗を弑した。既にして太祖が河中より至り、軍政に怠るを責められ、崖州司戸に貶せられ、その本姓名に復し、氏叔琮と同日に賜死した。

王重師

王重師は潁州長社の人である。材力人に兼ね、沈黙大度、事に臨み権変あり、劍槊の妙、一時に冠絶した。唐の中和の末、蔡寇が許昌を陥とすや、重師は身を脱して来たり、太祖はその状貌を異とし、乃ち拔山都に隷属させた。毎に軍前において效用し、頗る儕類を出でた。文德中、左右長劍軍を董することを命じられた。太祖が上蔡を伐つに当たり、重師は力戦有功であった。及び兗・鄆を討つに及び、擢て指揮使と為し、奏上して檢校右僕射を授かった。重師は戈を枕に甲を擐きて五六年、斉・魯の間にて凡そ百余戦を経た。これにより威は敵人に震うた。まもなく檢校司空を授かり、潁州刺史となった。乾寧中、太祖が濮州を攻め、兵を放ってその城壁を壊すと、濮人は火を屯めてその壊れた塁を塞ぎ、煙焰空に亘り、人敢えて越ゆる者なし。重師は方に金瘡に苦しみ、軍次に臥していたが、諸将或いはこれを勧め、乃ち躍り起き、壮士に命じて悉く軍中の氈罽を取って水中に投じ、これを火上に擲たしめ、重師然る後に精鋭を率い、短兵を持って突入し、諸軍これに踵き、濮州は乃ち陥った。重師は劍槊に傷つけられ、身に八九の創を受け、丁壮これを荷って還営し、将に斃れんとす。太祖は驚き惜しむこと尤も甚だしく、曰く、「濮の塁を得たりと雖も、重師を失うは奈何」と。亟に奇薬を以てこれを療せしめ、一月にして始めて癒えた。まもなく平盧軍留後を領し、檢校司徒を加えられた。その後北伐して幽・滄・鎮・定を攻め、屡々晉軍と接戦し、頗る士心を得た。故に勝捷多かった。天祐中、雍州節度使を授かり、同平章事を加えられた。数年、戎を治め民を恤み、頗る威恵あり。開平中、劉捍に構えられ、太祖深くこれを疑うも、然れども未だその事を発する由なし。間もなく、擅に裨将張君練を遣わして兵を放ちて深く邠・鳳に入らしめ、君練敗北した。太祖これを聞き、その専擅を怒り、因って追ってこれを斬った。

朱珍

朱珍は徐州豐縣雍鳳里の人である。太祖が初めて兵を起こすに当たり、珍は龐師古・許唐・李暉・丁會・氏叔琮・鄧季筠・王武等八十余人と共に、中涓として従い、堅きを摧き陣を陥し、向かう所蕩決した。及て太祖が汴を鎮め、兼ねて招討使を領するに及び、珍を宣武の右職に署し、以て腹心を総べしめた。ここにおいて軍伍を簡練し、綱紀を裁制し、黄巢を平げ蔡を破るは、多く珍の力によるものであった。

初め尚譲がぎょう騎五千人を率いて繁臺に至ると、鄧季筠は龐師古・齊奉國らと共にこれを撃退した。黄巣が敗れると、季筠は李克用と共にこれを追撃し、冤句に至って引き返した。まもなく太祖に従い、汴・宋・亳の軍を率いて西華に入り、王夏寨を破り、その勇は軍鋒に冠たり、功により位階を加えられた。光啓元年、諸軍都指揮使に任じられ、初めて上将となる。ここにおいて焦夷に軍し、蔡軍の鉄林三千人を破り、その将をことごとく捕虜とした。さらに西は汝・鄭に至り、南は陳・潁を過ぎ、宋・亳・滑・濮の間を巡り、蔡賊と交戦し、激戦・伏撃・襲撃・殺戮すること数知れず。時に滑州節度使安師儒が軍政を治めず、太祖は季筠と李唐賓に歩騎を率いてこれを経略することを命じた。境に入るや、大雪に遇い、軍士に休息を許さず、一晩で馳せて城壁の下に至り、百の梯を並べて昇り、ついにその城壁に乗じ、滑州を平定した。時に太祖はまさに斉軍を謀らんとし、季筠を淄州に遣わして兵を募らしめた。任県に至った時、東面都統齊克讓が孫師陂に伏兵を置き、季筠を邀撃せんとしたが、季筠はこれを大破した。進軍して牙山に至り、都虞候張仁遇が季筠に言うには、「軍に整わざる者あらば、まず本都の将を斬り、後にその状を上聞すべきなり。願わくはこれを許されたし」と。季筠はその専断を怒り、仁遇を斬って軍に示し、これにより諸将みな懼れた。兵は乾封に至り、淄人と白草口で戦い、これを破った。青人は歩騎二万を以て、金嶺驛に三つの寨を列ねたが、季筠と戦い、連破し、その軍を殲滅し、軍器・戎馬をことごとく獲た。その夜、博昌を攻め、兵衆を大いに捕獲した。その後、盧瑭・張至及び朱瑄・朱瑾の軍を破り、曹・濮を平定するに、戦中に在らざるはなかった。

梁山の役において、初めて李唐賓と不和となる。季筠は軍中で密かにその妻子を汴に迎えたが、先に請うず、太祖これを疑い、密かに唐賓に察させた。二将互いに譲らず、ここにおいて争いを交わす。唐賓は夜に関を斬って汴に還り訴え、季筠もまた軍を棄て単騎で至った。太祖は両者を惜しみ、故に罪せず、師に還らしめた。また踏白の騎士を率いて陳・亳の間に入り、蔡人を邀撃し、ついに南は斤溝に至り、淮西の石璠の軍二万を破り、璠を擄えて献じた。季筠は師を返し、亳より北に静戎に向かい、滑で舟を渡し、黎陽・臨河・李固の三鎮を破った。内黄に軍し、楽従訓の万余人を破り、別に聶金・範居実に命じて澶州を攻略させ、魏軍と臨黄で遭遇した。魏軍に豹子軍二千人あり、これを戮して生き残る者なく、威は河朔に振るった。また淮西を攻め、蔡に至り、河を挟んで寨を築き、賊将蕭皓の軍を破り、皆河に擁されて溺死させた。進軍して蔡州に至り、その西南に営し、羊馬垣を破った後、雨に遇い師を返した。季筠は兵を以て劉讚を援け、楚州に赴かんとし、襄山の南に至り、徐戎がその路を扼するに遇い、季筠は豊を攻めてこれを下した。時溥は全軍を以て豊南の呉康裏で会戦せんとしたが、季筠は豊を収め、その三万余人を破った。蔡賊平定に及び、季筠の功は諸将に比べて多かった。

龍紀の初め、諸将と共に蕭県に屯し、時溥を防禦した。季筠は太祖自ら来らんことを慮り、諸軍に命じて馬廄を修繕させて巡撫を待たしめたが、李唐賓の裨将厳郊のみがこれを怠った。軍候範権は季筠を恃みこれを督した。唐賓はもとより季筠と不和であり、果たして怒り、太祖に謁してその事を訴えた。季筠もまた怒り、「唐賓礼無し」と言い、ついに剣を抜いてこれを斬り、騎を命じてその事を列状して陳べさせた。太祖は初め唐賓の死を聞き、驚駭し、敬翔と謀り、詐って有司に命じて唐賓の妻子を収捕して獄に下し、季筠の心を安んじた。太祖はついに直ちに蕭県に向かい、蕭より一舎の距離に至ると、季筠は将校を率いて迎謁した。梁祖は武士に命じてこれを捕え、その専殺を責め、丁会に命じて刑戮を行わせた。都將霍存ら数十人が叩頭して救わんとしたが、太祖怒り、座床を以てこれを擲ち、乃ち退いた。

李思安

李思安は、陳留張亭里の人である。初め汴将楊彦洪に事え、騎士となった。拳勇を好み、未だ弱冠に至らず、身長七尺、超然として時を乗じ自ら奮い立たんとする志あり。唐中和三年、太祖が汴を鎮める時、嘗て大いに戎旅を閲し、その材幹を見て、甚だ偉しとし、因って名を思安、字を貞臣と賜う。思安は飛槊を善くし、向かうところ披靡し、常に太祖に従い征伐し、常に馬を馳せて敵陣の後に出で、その厚薄を測って還った。或いは敵に猛を恃み自ら誇る者あれば、多く命じてこれを取らしめ、必ず鷹の如く揚り飆の如く捲き、万衆の中より擒馘し、出入り自若として、人の無き地を蹈むが如し。太祖は甚だこれを惜しみ、王虔裕の副として踏白将とせしめた。時に黄巣・蔡賊が合従し、太祖が偵邏を遣わす毎に、必ず率先して独り往った。巣敗走するや、思安は配下百余りを領いて賊を追い、殺戮し掩奪し、衆敢えて当たる者なし。まもなく軍を領いて蔡寇を鄭に襲い、都將李唐賓が馬躓いて墜ちた時、思安は槊を援けて追者を刺し、唐賓はその騎に復して還った。また嘗て蔡人と闘い、陣中で賊将柳行実を生擒した。その後、長淮を渡り、天長・高郵の二邑を下し、また孫儒を拒ぎ、濠州に迫り、皆奇績あり。累遷して諸軍都指揮使となり、奏官して檢校左僕射に至り、まもなく亳州刺史を拝した。兵を練り寇を禦ぎ、辺境粛然たり。思安は性勇悍にして、毎に戎を統べ臨敵すれば、大勝せざれば必ず大敗す。

開平元年春、兵を率いて幽州を伐ち、桑乾河に営し、擄獲甚だ多く、燕人大いに懼れた。軍の回るに及び、諸軍を率いて潞を伐つも、累月にして克たず、師人多く逸す。太祖怒り甚だしく、詔してその罪を疏き、官爵を尽く奪い、本郡に委ねて民戸に係らしめた。一年余りしてこれを起用し、また兵を領することを命じたが、また巨績記すべきものなし。太祖嘗て将に命じて鉞を授けんとするに当たり、左右に謂いて曰く、「李思安は敵に当たり果敢なること、その右に出づる者なし。然れども毎に藩方の材を択ばんとすれば、吾れこれを用いんとすれば、則ち敗報必ず至る。是の如きこと二三たび矣。則ち飛将数奇なるを知る。前史豈に虚言ならんや」と。乾化元年秋、また以て相州刺史と為す。思安は自ら旄を擁し鉞を仗すべきと謂い、これに及び殊に快からず、ただ日に晏安を循り、政を為す意無し。太祖の北征に及び、候騎の誤りのため、落然として具する所無く、また壁壘荒廃し、帑廩空竭す。太祖怒り、柳州司戸に貶し、まもなく相州にて死を賜う。

鄧季筠

鄧季筠は、宋州下邑の人である。若くして黄巢の軍に入り、太祖の麾下に隷属した。太祖が汴を鎮守するに及んで、初めて牙将に任じられ、騎軍を主管した。鄆を伐つ戦役において、排陣将の劉矯を生け捕りにして献上した。唐の大順初年、唐帝は丞相張浚に命じて太原を伐たせ、太祖は詔を奉じて出師し、西は高平に至り、晉人と接戦したが、軍は既に不利となり、季筠は晉人に捕らえられた。克用は彼を見て甚だ喜び、縄を解き、賓礼をもって待遇し、やがて戎事を掌らせた。季筠は並門に在ること凡そ四年であった。景福二年、晉軍が邢台を攻め、季筠は偏師を率いてその戦役に参与し、邢に及ぼうとした時、邢人は郊外に陣を布き、両軍酣戦の際、季筠は陣を出て、飛馬して帰参した。太祖は大いに賞賛し、賞賜は甚だ厚かった。時に初めて廳子都を設置し、最も親軍と為し、季筠に命じてこれを主管させ、間もなく親騎を統べることを改め、また中軍の将に遷った。天祐三年、登州刺史を奏授され、任地に着いて治績を称えられた。登州は旧来羅城が無かったが、季筠が郡に至ると、丁壮を率いてこれを築き、民は甚だ安んじ、因って相与に碑を立ててその績を頌した。太祖が禅を受けると、鄭州刺史に改め、間もなく河中において兵を主管し、都指揮使と為った。時に並人が平陽を寇し、季筠は洪洞において接戦し、大いに克ち、華州防禦使を拝した。また引き続き龍驤等諸軍騎士を領し、累官して檢校司空に至った。柏鄉の戦役において、季筠は陣前に臨んで退却し、太祖もまたこれを罪としなかった。乾化二年春、太祖自ら鎮・定を伐ち、相州に駐屯し、因って馬を閲し、その馬の痩せたるを怒り、魏博軍校の何令稠・陳令勳と共に纛の下に斬った。

黃文靖

黃文靖は、金郷の人である。若くして黄巢の党に附き、巢が敗れると、太祖に帰参し、累次牙職に任じられ、引き続き諸軍指揮使に遷った。太祖に従い南は巢・蔡を平らげ、北は兗・鄆を定め、皆功有り。唐の大順年中、葛從周を佐けて朱崇節を潞に入送る。會して晉軍十余万が垣寨に近逼し、文靖は孤軍の守り難きを慮り、乃ち葛從周と共に出師を啓し、文靖は殿となり、矢刃を皆外向きにせしめ、持重して還り、晉人は敢えて逼らなかった。その年冬、康懷英と共に淮を渡り、壽春の境に入り、安豐・霍丘を下し、光州に至って還った。光化初年、晉将の李嗣昭・周德威が山東を寇し、文靖は葛從周を佐えて大軍を統べ、これを防禦した。沙河に至り、晉軍五千余騎を破り、遂にこれを逐い、張公橋を越えて乃ち止んだ。後旬日、復た晉人と邢州の北において戦い、蕃将の賁金鐵・慕容藤・李存建等百余りを擒え、馬数千匹を奪った。間もなく功により檢校左僕射・耀州刺史を表授された。天祐二年春、命を受けて楊師厚を佐え、深く淮甸に入り、壽春を越え、廬江を侵し、軍は大獨山に至り、淮夷に遇い、五千余衆を殺し、旅を振るって還った。蔡州刺史に改め、檢校司空を加え、また潁州刺史に遷った。太祖が禅を受けると、復た蔡州刺史と為り、入って左神武統軍と為り、また左龍驤使に改めた。乾化元年、太祖に従い北征し、因って馬を閲して罪を得、命じてこれを斬らしめた。文靖は驍果にして善戦し、諸将皆これを惜しんだ。

胡規

胡規は、兗州の人である。初め朱瑾に事えて中軍都校と為った。兗州が平らぐと、宣武軍都虞候に任じられた。葛從周を佐えて鎮・定を伐ち、張存敬に従い晉・絳を収め、皆功有り、河中都虞候に任じられ、塩務を専売した。天復年中、太祖は駕を迎えて岐下に至り、規を以って権知洽州と為した。昭宗が長安ちょうあんに還ると、詔して皇城使を授けた。及び東遷に際し、御営使と為した。駕が洛に至ると、内園莊宅使を授けた。天祐三年、李周彝を佐えて相州を討ち、独り州の一面を当たり、頗る功を以って聞こえ、軍の還るに及び、権知耀州事と為った。明年、滄州を討ち、諸軍壕寨使と為った。太祖が禅を受けると、右羽林統軍を除し、間もなく劉鄩を佐えて兵を統べ潼関を収め、劉知浣を擒えてこれを献じ、乃ち以って右龍虎統軍兼侍衛指揮使と為した。乾化元年、詔して洛河の堤堰を修せしめ、軍士之に因りて百姓の園林を斬伐すること甚だ甚だしく、河南尹張宗奭これを奏し、規は罪を得、死を賜った。

李讜

李讜は、河中臨晉の人である。若き時秦・雍の間を遊び、人となり勇悍にして力多く、甚だ気誼有り。唐の広明初年、黄巢が長安を陥すと、讜は遂にその間に仕えることを得た。巢は讜を内樞密使と為した。蓋し讜は曾て宦者に委質し、宮禁の間を出入りしたので、巢は此を以って用いたのである。その後巢軍既に敗れると、讜は乃ち身を束ねて太祖に帰参し、左徳勝騎軍都將に任じられた。太祖に従い蔡賊を討ち、頗る軍功を立てた。及び東に兗・鄆を伐つに及び、率いる所の士伍を以って俘獲甚だ多く、元従騎将に改め、檢校右僕射を表授された。郴王友裕が兵を領して澤州を攻め、時に太祖は大軍を盟津に駐め、乃ち讜に命じて兵を将いて太行を越えさせ、籌謀を授けた。讜は頗る節度に違い、久しくして功無し。太祖は追還を遣わし、廷においてその罪を責め、河橋においてこれを戮した。

李重胤

李重胤は、宋州下邑の人である。状貌雄武、初め黄巢の党中に在り、剛鷙と推された。唐の中和四年五月、尚譲・李讜等と共に衆を率いて繁台に至り、太祖の軍と相拒した。及び巢の寇漸く衰えると、乃ち衆を率いて来降した。太祖は素よりこれを識り、次第を問わず抜擢任用し、先鋒歩軍都頭に任じた。胡真と共に河陽を援け、懐州に逼った。重胤は部下の兵を以ってこれを突き、蕃将安休休に射中てた。また李讜と共に騎軍を率いて陝に至り、郭言に応接し、回って澠池に次ぎ、賊帥黄花子の衆を破り、滑州夾馬指揮使に改めた。蔡賊が汴を囲むと、重胤は歩兵を以って三寨を攻め下し、擄獲甚だ多し。太祖は大いに挙兵して宗権を伐ち、重胤に滑兵を以って先鋒たらしめた。及び東に徐州を討ち、豊・蕭二邑を下し、右廂馬歩軍指揮使に転じた。大順元年秋、郴王友裕に従い澤州を収め、晉軍と馬牢川において戦い、王師敗績し、回って河陽を守った。太祖は諸将に謂いて曰く、「李讜・重胤は我が節度に違い、功を立てること能わず、頗る任使に辜う。」ここにおいて李讜と並び河橋において戮した。

範居實

範居實は、絳州翼城の人である。太祖に事え、初め隊将と為り、従って巢・蔡を討ち功有り。また朱珍に従い滑州を収め、左廂都虞候に改めた。兗・鄆を破る功に参与した。感義都頭・鄭州馬軍指揮使に遷った。幽州の劉仁恭が衆を挙げて南下し、魏郡の北を寇すと、居実は葛從周・張存敬と共に兵を率いて魏を救い、内黄において幽・滄の衆を大破した。太祖は昭宗を岐下に迎え、居実を以って河中馬軍都指揮使と為した。及び昭宗が京に還ると、迎鑾毅勇功臣を賜い、遥かに錦州刺史を領し、また左龍驤馬軍都指揮使に遷った。淮南を征して回り、登州刺史に改め、左神勇軍使に転じた。開平元年、潞州に軍を用い、居実に命じて軍を統べさせて澤州の囲みを解かしめた。耀州刺史を授け、郡兵を以って固鎮に屯せしめ、間もなく澤州刺史を除した。居実は拳勇にして善戦し、頗る軍功を立てたが、郡において戎備を治めず、詔して闕に追赴せしめ、その玩寇の罪を暴してこれを斬った。

史臣曰く、叔琮以下は、皆鷹犬の才を以て、恰も雲龍の会に遇い、王室に勤労し、将壇を践履す。然れども俱に其の死を得ず、豈に惜しまざらんや。得ずや、鳥尽きて弓蔵さる、理当に是の如きか。将に梁祖の雄猜、漢高の大度無きか。乃ち知る、古より帝王、功臣を保全し能う者は、唯だ光武一人のみなるを。語に曰く、「父と君を弑するも、亦従わざるなり」と。而るに叔琮・友恭は之に従う、何ぞや。既に盗蹠に嗾さるる所と為りて、豈に成済の誅を免れんや、臨終の言、益々其の醜を彰すなり。