舊五代史

梁書十八: 列傳八 張文蔚 薛貽矩 張策 杜曉 敬翔 李振

張文蔚

張文蔚、字は右華、河間の人である。父の裼は、唐の僖宗の朝に累ねて顕官となった。文蔚は幼くして文行を磨き、知を求め友を取ることに励み、藹然として佳士の称があった。唐の乾符初めに進士第に登り、時に丞相裴坦が塩鉄を兼ねて判じており、解褐して巡官に任じられた。間もなく、畿尉をもって館に直した。家艱に遭い、孝行をもって知られた。中和の年、僖宗がしょくに在り、大寇未だ滅びず、軍費に急なるものがあり、塩鉄を揚州に移し、李都に命じてこれを判じさせ、奏して転運巡官とした。駕が長安ちょうあんに還ると、監察御史に除され、左補闕侍御史、起居舍人、司勳吏部員外郎に遷り、司勳郎中、知制誥を拝し、歳満して中書舍人を授かった。母憂に遭い、東畿に退居し、哀毀して礼を過ぎた。服闋し、再び中書舍人を拝し、俄に召されて翰林に入り、承旨学士となった。時に昭宗が京闕に還りたまい、皇綱次第に微なるに属し、文蔚の発する詔令は、中を失うことなく、論ずる者多くこれを称えた。戸部侍郎に転じ、仍って前のごとく職を充て、尋いで礼部侍郎として出された。天祐元年夏、中書侍郎、平章事を拝し、戸部を兼ねて判じた。時に柳璨が相位に在り、権を擅にして暴を縦にし、賢俊を傾け陥れ、宰相裴樞ら五家及び三省以下三十余人、皆冤を抱いて死に就く。縉紳は目をもってし、敢えて窃かにその是非を語らず、余怒の注ぐところ、また十許輩に啻ならず。文蔚はその力を殫くしてこれを解き、乃ち止み、士人はこれに頼った。璨が敗死すると、文蔚は度支塩鉄使を兼ねた。天祐四年、天子は土運将に革まり、天命帰する所あるを以て、四月、文蔚に命じて楊涉らと共に百僚を総率し、禅位の詔を奉じて大梁に至らしめた。太祖命を受くると、文蔚らはその位を易えず。開平二年春、暴卒して位に在り、詔して右僕射を贈られた。

文蔚は沈邃にして重厚、大臣の風有り、家に居ては孝且つ悌し、清顕の位に至るも、仲季と相雑り、太夫人の膝下に在りては、一に布素と異ならず。弟の済美は、早く心恙を得たり(《北夢瑣言》に云う:張裼尚書に五子有り:文蔚、彝憲、済美、仁龜、皆名第を得て、宰輔丞郎に至る。内一子、その名を忘る、少年の時壁魚が神仙の字を食うを聞き、身に五色有り、これを吞めば仙を得べしと、因りてこれを試みんと欲し、遂に心疾を致す。是れ急を得る者は別に一人自り、済美に非ず)。文蔚は撫視すること殆ど三十年、士君子これを称えた。

子の鑄は、周の顕徳中、位は秘書監に至る。

薛貽矩

薛貽矩、字は熙用、河東聞喜の人である。祖父は存、父は廷望、皆令名有り。貽矩は風儀秀聳、その遊ぶ者は皆一時の英妙、文場の間に藉甚たり。唐の乾符中、進士第に登り、度支巡官、集賢校理、拾遺、殿中、起居舍人を歴任し、召されて翰林学士を拝し、礼部員外郎、知制誥を加えられ、司勳郎中に転じ、その職は元の如し。乾寧中、天子石門に幸す、貽矩は私属相失い、行在に及ばず、これを罷められた。旋って中書舍人を除かれ、再び内署を践む。戸部兵部侍郎、学士承旨を歴任す。及んで昭宗が鳳翔より京に還り、大いに閹寺を翦るに及び、貽矩は尚ほ韓全誨らの為に画讃を作り、悉く内侍省の屋壁の間に記し、これに坐して官を謫せられた。天祐初め、吏部侍郎を除かれたが、至らず。太祖は素よりこれを重んじ、嘗てこれを朝に言い、即日に吏部尚書を拝し、俄に御史大夫に遷る。四年春、唐帝は貽矩に命じて詔を持ち大梁に赴かせ、禅代の事を議せしむ。貽矩至り、太祖の功德を盛んに称え、北面の礼に就くことを請う、太祖は謙抑して納れざるも、これを待つこと甚だ厚し。禅を受くるの歳夏五月、中書侍郎、平章事を拝し、戸部を兼ねて判ず。明年夏、進みて門下侍郎、監修国史を拝し、度支を判じ、又宏文館大学士に遷り、塩鉄転運使を充て、累官して僕射より守司空しくうに至る。在任すること五載を綿ぐも、然れども亦た顕赫たる事跡紀すべきもの無し。貝州より扈従して還り、時に癘に染まり、旬日にして東京に卒す。詔して侍中を贈る。

張策

張策、字は少逸、敦煌の人である。父の同は、唐に仕え、官は容管経略使に至る。策は少くして聡警好学、特に章句を楽しむ。洛陽らくようの敦化裏に居り、嘗て甘泉井を浚い、古鼎を得たり、耳に篆字有りて曰く「魏黄初元年春二月、匠吉千」と、且つ又製作奇巧、同は甚だこれを宝とした。策は時に父の傍に在り、徐に言う「建安二十五年、曹公薨じ、年を改めて延康と為す、その年十月、文帝漢の禅を受け、始めて黄初と号す、則ち是れ黄初元年に二月無きこと明らかなり。鼎文何ぞ謬れるや」と。同大いに驚き、亟に書室を啓き、『魏志』を取りて展読すれば、一に啓く所を失わず、宗族これを奇とした、時に年十三。然れども妙に因果に通じ、酷く空教を奉じ、未だ弱冠ならずして、落髪して僧と為り、雍の慈恩精廬に居り、頗る高致有り。唐の広明末、大盗闕を犯す、策は遂に初服に返り、父母を奉じて難を逃れ、君子多くこれを称えた。家艱に遭い、孝行をもって知られた。服満ち、自ら郊藪に屏し、一に幹進の意無く、是の如き者十余載、方に広文博士として出で、秘書郎に改む。王行瑜が邠州を帥とし、辟して観察支使と為し、水曹員外郎を帯び、緋を賜う。行瑜の反するに及び、太原節度使李克用詔を奉じて討伐し、行瑜敗死し、邠州平ぐ。策は婢と肩輿にその親を乗せ、南に邠境を出づ、辺寨積雪に属し、行く者に哀しまる。太祖聞きてこれを嘉し、奏して鄭滑支使と為し、尋いで内憂を以て職を去る。製闋し、国子博士を除かれ、膳部員外郎に遷る。一歳ならず、華帥韓建辟して判官と為し、建の許州を領するに及び、又掌記と為る。天復中、策はその主の書幣を奉じて来聘す、太祖見て喜びて曰く「張夫子将に至らんとす」と。即ち奏して掌記と為し、兼ねて金紫を賜う。天祐初め、その才を表し、職方郎中を拝し、史館修撰を兼ね、俄に召されて翰林学士に入り、兵部郎中に転じ、知制誥と為り、前の如く史を修む。未だ幾ばくもなく、中書舍人に遷り、職は元の如し。太祖禅を受くると、工部侍郎に改め、承旨を加う。その年冬、礼部侍郎に転ず。明年、征に従いて沢州に至り、刑部侍郎、平章事を拝し、仍って戸部を判じ、尋いで中書侍郎に遷る。風恙を以て章を拝して骸を乞い、刑部尚書を改めて致仕す。即日肩輿にて洛に帰り、福善裏に居り、修篁嘉木、図書琴酒を以て自ら適す。乾化二年秋、卒す。著す所の『典議』三巻、詞製歌詩二十巻、箋表三十巻、其の家に存す。

杜曉

杜曉は、字を明遠といい、京兆杜陵の人である。祖父の審権は唐に仕え、宰相の位に至った。父の讓能は、官は守太尉・平章事に至った。乾寧年中、邠・鳳の二鎮が兵を挙げて王畿を犯した際、讓能はその誣陷を受け、天子やむなく臨皋驛において死を賜う。曉は喪に服して柴立し、ほとんど滅性に至った。憂いの期間が満ちると、幅巾七升を服し、沈跡自廃することおよそ十余年に及んだ。光化年中、宰相崔允が塩鉄を判じ、巡官兼校書郎に奏したが、まもなく畿尉に除され、直宏文館となったが、いずれも起たなかった。昭宗が東遷した際、宰相崔遠が戸部を判じ、また巡官兼殿中丞に奏した。ある人がこれに語って曰く、「嵇中散が死し、その子の紹は埋もれて自ら顕れず、山濤が物理をもってこれを勉めたので、乃ち仕えた。吾子は杜氏が歳時に鋪席をもってその先人を祭ることを、匹庶と同じくするに忍びるか」と。曉は乃ち官に就いた。未だ幾ばくもせず、左拾遺に拝され、まもなく翰林學士に召され、膳部員外郎に転じ、前の如く職を充てた。崔遠が罪を得て出て本官を守ると、数ヶ月を居て、本官をもって制誥を知り、俄かにまた學士に召され、郎中に遷って職を充てた。太祖が禅を受けると、中書舍人に拝され、職は旧に如し。開平三年、工部侍郎に転じ、承旨を充てた。明年の秋、中書侍郎・平章事に拝され、なお戸部を判じた。庶人友珪が位をさんすると、禮部尚書・平章事・集賢殿大學士に遷り、前の如く戸部を判じた。袁象先が友珪を討つに及び、禁兵が大いに放縦となり、曉は重創を受け卒した。末帝が即位し、詔して右僕射を贈る。

曉は博瞻にして詞藻あり、時論これを称した。兄の光乂は、心疹あり、その疾発作する毎に、或いは口を溢して罵詈し、或いは梃を揮って追撲す。曉はこれに事えて愈々恭しく、一日たりとも少しも怠ること無かりき。両製の重きに居り、前載を祖述して、甚だ王言の体を得たり。及び尚書の典秩を掌りし時は、志気甚だ遠大なりしが、一旦にして非分に没し、皆これを冤み惜しんだ。豈に三世相たりしが故に、道は盛んなるを忌むか。

敬翔

敬翔は、字を子振といい、同州馮翊の人である。唐の神龍年中の平陽王暉の後裔なり。曾祖の琬は、綏州刺史。祖の忻は、同州掾。父の袞は、集州刺史。翔は読書を好み、特に刀筆に長じ、応用敏捷なり。乾符年中、進士に挙げられしも及第せず。黄巢が長安を陥すに及び、乃ち東に出て関を越ゆ。時に太祖初めて大梁を鎮む。觀察支使王発という者あり、翔の里人なり。翔はこれに依り往く。発は故人としてこれに遇うも、然れども薦達の由無し。翔は久しくして計窮まり、乃ち人の為に箋刺を作り、往々にして警句あり、軍中に伝わる。太祖は元より書を知らず、章檄は浅近の語を喜ぶ。翔の作る所を聞き、これを愛し、発に謂いて曰く、「公の郷人に才あるを知る。俱に来るべし」と。見るに及び、応対して旨に称し、即ち右職を補し、毎に軍に従わしむ。翔は武職を喜ばず、文吏を補するを求め、即ち館驛巡官に署し、専ら檄奏を掌らしむ。太祖は蔡賊と相拒すること累歳、城門の外に戦声相聞き、機略の間に、翔は頗るこれに預かる。太祖大いに悦び、翔を得ることの晩きを恨み、故に軍謀政術、一にこれを以て諮る。蔡賊平らぎ、奏して太子中允を授け、緋を賜う。兗・鄆を平らぐに従い、検校水部郎中に改む。太祖が淮南を兼鎮するに及び、揚府左司馬を授け、金紫を賜う。乾寧年中、光祿少卿に改め職を充てる。天復年中、検校禮部尚書を授け、遙かに蘇州刺史を領す。昭宗が岐下より長安に還り、延喜楼に御し、翔と李振を召し楼に登りて労問す。翔は検校右僕射・太府卿を授かり、迎鑾協讚功臣の号を賜う。

太祖が禅を受けると、宣武軍掌書記・前太府卿より、検校司空を授かり、前の如く太府卿として宣徽院事を勾當す。尋いで樞密院を崇政院と改め、翔をもって院事を知らしむ。開平三年夏四月、太祖は邠・岐の侵擾を以て、劉知俊を遣わし西に鄜・延を討たしむ。深く不濟を憂い、宴に因り翔を顧みて西事を問う。翔は山川郡邑の虚実、軍糧の多少を剖析し、悉く条奏す。素より講習せるが如く、左右驚異せざる者無く、太祖は久しく歎賞す。乾化元年、光祿大夫に進み、行兵部尚書・金鑾殿大學士となり、崇政院事・平陽郡侯を知る。前朝は金巒坡に因りて以て門名と為し、翰林院と相接す。故に學士を得る者は「金巒」と称してこれを美とす。今、殿名を「金鑾」と為すは、嘉名に従うなり。大學士を置くは、始めて翔を以てこれと為す。翔は釋褐して東下してより、王に遭遇し、懐抱深沉にして経済の略あり。中和の歳より起り、鼎革の大運に至るまで、その間三十余年、扈従征伐し、帷幄に出入し、庶務叢委すれども、恒に達旦して寝ず、ただ馬上にて稍々晏息を得るのみ。毎に裨讚する所あれども、未だ嘗て顕かに諫せず、上は俯仰顧歩の間に微かに持疑を示すのみ。而して太祖の意は已に察し、必ず改めてこれを行わしむ。故に裨佐の跡は、人知るを得ず。太祖の大漸に及び、御床前に召されて顧托の命を受け、且つ深く並寇を以て恨みと為す。翔は鳴咽して忍びず、命を受けて退く。庶人友珪の位を簒するや、天下の望を以て、翔を宰相と為す命ず。友珪は翔を先朝の旧臣と為し、畏忌する所あり。翔も亦多く病を称し、政事を綜せず。

末帝が即位すると、趙氏・張氏の一族は皆権要の地位にあり、敬翔はますます志を得られなかった。劉鄩が河朔を失い、安彦之が楊劉で敗れると、翔は上奏して言うには、「国家は連年将を遣わして出征させているが、封疆は日々削られてゆく。これは兵が驕り将が怯えるばかりでなく、制置がその術を得ていないからである。陛下は深宮の中におられ、ともに事を計る者は皆左右の近習ばかりで、どうして敵の勝負を量ることができようか。先皇の時には、河朔の半ばを有し、自ら虎臣ぎょう将を御してなお、敵に対して志を得られなかった。今や寇の馬はすでに鄆州に至っており、陛下が聖念を留められないのは、臣が理解できない第一の点である。臣は聞く、李亜子(李存勗)は喪服のまま衆を統率してより、今に至るまで十年、城を攻め陣に臨むごとに、必ず自ら矢石に当たり、先ごろ楊劉を攻めた時には率先して薪を背負い水を渡り、一鼓にして城に登ったという。陛下は儒雅をもって文を守り、かくのごときことはなさらず、賀瑰らに彼と力を較べさせて、寇戎を攘逐することを望まれるのは、臣が理解できない第二の点である。陛下は宜しく黎老に諮り、別に沈謀を運らすべきであり、そうでなければ憂いは未だ止むことはないであろう。臣は駑怯ではあるが、国恩を受けること深く、陛下もし材に乏しければ、辺陲において効試することを乞う」と。末帝はその懇惻なるを知りながらも、ついに趙・張らの「翔は怨望している」という言により、これを聴かなかった。王彦章が中都で敗れると、晋人は長駆して南進し、末帝は急ぎ翔を召してこれに謂うには、「朕は平素卿の奏することを忽せにしていたが、果たして今日に至った。事は急である、恨みとするな。さて朕をしてどこに安んぜしめようか」と。翔は泣いて奏して言うには、「臣は国恩を受け、僅かに三紀に及び、微より著に至るまで、皆先朝の遇いであり、名は宰相といえども、実は朱氏の老奴に過ぎません。陛下に事えること郎君のごとく、臣の愚誠を以て、敢えて隠すところあらんや。陛下が初め段凝を将に任じられた時、臣はすでに極言し、小人が朋附したために今日の事態を招きました。晋軍がまさに至らんとするに、段凝は水を限りとしています。陛下に出居して敵を避けられんことを請うれば、陛下は必ず聴従されず、陛下に出奇して敵に応ぜられんことを請うれば、陛下は必ず果決されないでしょう。たとえ張良ちょうりょう・陳平が復活したとしても、禍を転じて福とすることは難しく、まず死を請い、宗廟の隕墜を見るに忍びません」と。言い終わると、君臣相向かって慟哭した。

晋主(李存勗)が都城を陥落させると、詔があり梁氏の臣僚を赦免し、李振が翔に言うには、「制があり洗滌され、新君に朝見しよう」と。翔は言うには、「新君がもし問うならば、何の言辞をもってこれに答えようか」と。この夜、翔は高頭里の邸宅にあり、車坊に宿った。夜明け前に、左右が報じて言うには、「崇政李太保(李振)はすでに朝に入りました」と。翔は室に戻って歎息して言うには、「李振は謬って丈夫を為すのみ。朱氏と晋は仇讐であり、我らは初めよりともに謀畫し、君をして無状たらしめた。今や少主(末帝)は国門にて剣に伏し、たとえ新朝が罪を赦すとも、何の面目あって建国門に入らんや」と。 そこで自経して卒した。数日後、その一族も誅殺された。

初め、貞明年中に、史臣の李琪・張袞・郤殷象・馮錫嘉が詔を奉じて『太祖実録』三十巻を修撰したが、叙述は巧みでなく、事多く漏略していた。再び詔して翔にその欠を補緝させると、翔は別に三十巻を纂成し、これを『大梁編遺録』と目して、『実録』とともに行わせた。

翔の妻劉氏は、父は藍田県令であった。広明の乱に、劉氏は黄巣の将尚讓に得られ、巣が敗れると、讓は劉を携えて時溥に降り、讓が誅せられると、時溥は劉氏を妓室に納めた。太祖が徐を平定し、劉氏を得て寵愛し、翔が妻に喪あるに属して、劉氏を以てこれを賜うた。翔が次第に貴くなるにつれ、劉氏はなお太祖の臥内に出入りし、翔の情礼がやや薄くなると、劉氏は曲室で翔を譲って言うには、「卿は余が曾て賊に身を失ったことを鄙むのか。成敗を以て言えば、尚讓は黄巣の宰輔であり、時溥は国の忠臣である。卿の門第を論ずれば、我を辱めること甚だしい。請う、ここより辞せん」と。翔は謝罪してこれを止めた。劉氏は太祖の勢いを恃み、(案:以下に欠文あり。)太祖が四鎮の時、劉氏はすでに「国夫人」の号を得ていた。車服は驕侈で、婢媵も皆珠翠を珥し、その下に別に爪牙・典謁を置き、書幣を聘使し、藩鎮と交結した。近代における婦人の盛んなる、その右に出るものなく、権貴は皆これに附麗し、寵信して事を言うことは、翔に下らなかった。当時、貴達の家はこれに倣い、俗を敗ること甚だしかった。(『五代史補』:敬翔は『三伝』に応じ、数挙して第せず、発憤して太祖に投じ、行陣に備えんことを願う。太祖問うて曰く、「足下は『春秋』に通ずること久し。今吾が盟を主る、その戦い春秋の時に效せんと欲するは可なるか」と。翔曰く、「不可なり。礼楽すらなお相沿襲せず、況んや兵は詭道なり、その変化無窮なるに宜し。もしまた春秋の時のごとくならば、いわゆる虚名に務めてその実效を喪うもの、大王の事去るなり」と。太祖大いに悦び、兵を知ると為し、遽かにこれを幕府に延き、軍事を委ね、竟に相と作るに至る。)

李振

李振、字は興緒、唐の潞州節度使李抱真の曾孫である。祖父・父は皆郡守に至った。振は唐に仕え、金吾将軍より台州刺史に改まった。時に賊が浙東を占拠し、任に赴くことができず、西に帰る途次汴を過ぎ、策略を以て太祖に干し、太祖はこれを奇とし、従事として辟した。太祖が鄆州を兼領すると、天平軍節度副使に署した。湖南の馬殷が朗州の雷満に逼られた時、振は命を奉じて馳せ往き和解し、殷・満は皆命を稟った。

光啓三年十一月、太祖は振を遣わして長安に入奏させ、州邸に宿った。邸吏の程岩が振に白して言うには、「劉中尉(劉季述)がその侄の希貞を遣わして大事を計らんとし、上謁せんと欲す、願わくはこれを許せ」と。至ると、岩は先に啓して言うには、「主上は厳急であり、内官は憂恐している。左中尉(劉季述)は廃黜の事を行わんと欲し、岩らは協力して中外を定めんとす。敢えて事を告ぐ」と。振は希貞を顧みて言うには、「百歳の奴三歳の主に事う、国を乱すは不義、君を廃すは不祥、敢えて聞かず。況んや梁王は百万の師を以て、天子を匡輔し、礼楽して尊戴するも、なお及ばざるを恐る。幸いに熟計せよ」と。希貞は大いに沮喪して去った。振が復命するに及んで、劉季述らは果たして乱を起こし、程岩は諸道の邸吏を率いて帝を牽き下殿させ、幼主を立て、昭宗を太上皇として奉じた。振が陝に至ると、陝はすでに賀していた。護軍の韓彝範がその事を言うと、振は言うには、「懿皇が初め昇遐した時、韓中尉(韓文約)は長を殺し幼を立て、その権を利することを以て、遂に天下を乱した。今将軍またかくのごとくせんとするか」と。彝範は即ち韓文約の孫である。ここにおいて敢えて言わなかった。

振が東に帰ると、太祖はちょうど邢・洺におり、急ぎ汴に還ったが、大計未だ決せず、季述は養子の希度を遣わし、唐の社稷を太祖に輸せんとし、また供奉官の李奉本・副介の支彦勳を遣わし、詐って上皇の誥諭を齎して至らせた。皆季述の党である。太祖が未だ迎命せざるうちに、振はまた言うには、「夫れ豎貂・伊戾の乱は、霸者の事を資する所以なり。今閹豎が天子を幽辱し、王として討つこと能わずんば、諸侯に令する無きなり」と。時に監軍使の劉重楚は季述の兄であり、旧相の張浚は河南の緱氏に寓居し、また来たりて太祖に謂うには、「中官と同ずれば事は易く済み、かつ得るところあらん」と。ただ振のみが堅く執して改めず、独り言うには、「正道を行えば大勲立てられん」と。太祖は英悟にして、忽ち厲色して言うには、「張公は我に敕使と同ぜよと勧む、傾附して自ら宰相を求めんとするか」と。ここにおいて策を定め、偽使の李奉本・支彦勳と希度らを縶し、即日振をして命を将て京師に赴かせ、宰相と謀り返正させた。未だ幾ばくもせず、劉季述は誅せられ、昭宗は帝位に復した。太祖はこれを聞いて喜び、振を召し、その手を執ってこれに謂うには、「卿の謀る所は吾が本誌なり、穹蒼それ知るであろう」と。ここよりますますこれを重んじた。

天祐二年(905年)春正月、太祖(朱全忠)は李振を召し出し、言うには、「王師範が降伏して来たが、一年を経てもなお旧来の藩鎮に留まっている。今や上奏して方面の任に転じさせようと思う。我に代わって疾駆し、この意を伝えよ。」と。李振が青州に至ると、師範は即日、公府を出て、節度使・観察使の二つの印および文書簿冊・管鑰を李振に授けた。師範は既に交代を受けたとはいえ、疑いと動揺が特に甚だしく、幾度も涙を揮ってその一族の赦免を求めた。李振はそこで、切に道理を以て諭して言うには、「貴公は張繡の事を思わぬのか。漢末、繡はしばしば曹公(曹操)と敵対したが、どうして彼を徳としたであろうか。袁紹が使者を遣わして繡を招いた時、賈詡は言った、『袁家父子は自ら相容れず、どうして天下の英士を主とすることができよう。曹公は天子を奉じて諸侯に令し、その志は大きく、私怨を意としない。疑うべきではない。』と。今、梁王もまたどうして私怨を以て忠賢を害することがあろうか。」と。師範ははたと悟り、翌日、その一族を以て遷った。太祖はそこで李振を青州留後に上表し、間もなく、召還した。

唐が昭宗の遷都の後より、王室は微弱となり、朝廷の班列は、員数を備えるのみであった。李振は皆、頤指気使し、傍若無人であり、朋党として附く者は順序を越えて賞抜かれ、私的に憎む者は沈淪棄てられた。李振が汴より洛に入る度に、朝中には必ず貶謫・左遷があり、故に唐朝の人士は彼を「鴟鴞(ふくろう、凶鳥の意)」と目した。天祐年間、唐の宰相柳璨が太祖の意を迎え、大臣裴樞・陸扆ら七人を滑州白馬驛で讒言して殺害した。時に李振は、自ら咸通・乾符の頃に進士挙に応じ、累次上って及第せず、特に憤懣を抱いていたため、太祖に言うには、「此輩は自ら清流と称する。黄河に投じて、永く濁流と為すに宜しい。」と。太祖は笑ってこれに従った。太祖が禅を受けるに及び、宣義軍節度副使・検校司徒しとより殿中監に任じられ、累遷して戸部尚書となった。庶人友珪が簒立すると、敬翔に代わって崇政院使となった。末帝が即位し、趙・張の二族が権勢を振るうと、遂に彼らの間に諜され、謀猷を献じ替えるも、多くは用いられず、李振は毎度病気と称して政事を避けた。龍徳末年、閑居して私第に将に一年に及ぼうとしていた時、晋主(李存勗)が汴に入ると、李振は謁見してまず罪を請うた。郭崇韜は李振を指して人に謂うには、「人は李振は一代の奇才と言うが、我今これを見るに、乃ち常人に過ぎぬ。」と。時に段凝らが梁氏の権要の臣を列挙して上疏し、李振は敬翔らと同日に族誅された。

史臣曰く、張文蔚・蘇貽矩は、皆唐朝の旧臣にして、梁室の強き禅譲に遇い、君命を奉じて使いとして来たり、神器に狎れてこれを授く。時に逢うこと斯くの如し、これまた臣たる者の不幸なり。抑々その相とならざるは、亦善からずや。杜曉は文雅の称有り、張策は衝淡の量有り、咸しく台席に登り、士林に忝かしめず。敬翔・李振は、始めに霸図を輔け、終に帝業を成す。国の亡ぶるに及びては、一は則ち命を殞して節を明らかにし、一は則ち息を視て生を偸む。これを以て較ぶれば、翔の方が優れている。李振は始めに濁流の言有り、終に赤族の禍を取る。報応の事、固より昭然たり。