舊五代史

梁書十四: 列傳第四 羅紹威 趙犨 王珂

羅紹威

羅紹威(『舊唐書』に云う、紹威、字は端己)は、魏州貴郷の人である。父の宏信は、本名を宗弁といい、初め馬牧監となり、節度使楽彦貞に仕えた。光啓の末、彦貞の子の従訓が驕り昂ぶって横暴を極め、兵甲を招き集め、牙軍を誅殺せんとした。牙軍は怒り、集まって騒ぎ立ててこれを攻め、従訓は出奔して相州を占拠した。牙軍は彦貞を廃し、龍興寺に幽閉し、強いて僧となることを命じ、まもなくこれを殺し、小校の趙文建を推して留後とした。先に、宏信は自ら言うには、居所において一人の白髭の翁に遇い、これに謂って曰く、「汝は土地の主となるべし」と。このようなことが二度あり、心ひそかに怪しんだ。やがて文建は軍情に合わず、牙軍が集まって呼びかけ曰く、「誰か節度使たらんことを願う者はあるか」と。宏信は即ち応えて曰く、「白髭の翁は早くより我に命じた、汝らを君長すべしと」と。唐の文徳元年四月、牙軍は宏信を推して留後とした。朝廷これを聞き、即ち正式に節旄を授けた。乾寧年中、太祖(朱全忠)が兗州・鄆州を急攻すると、朱瑄は太原に救援を求めた。時に李克用は大将の李存信を遣わして軍を率いて赴かせ、魏を仮道し、莘県に駐屯した。存信は軍を統御する法なく、少しずつ魏の芻牧を侵し、宏信はこれを不平とした。太祖は因って使者を遣わして宏信に謂って曰く、「太原は河朔を呑み滅ぼさんと志し、戈を返す日には、貴道は憂うべきことあらん」と。宏信は懼れ、乃ち太祖に帰順し、なお三万の兵を出して李存信を攻め、これを破った。未だ幾ばくもせず、李克用は兵を率いて魏を攻め、観音門外に営し、所属の邑を多く陥落させた。太祖は葛従周を遣わしてこれを救援せしめ、洹水において戦い、克用の子の落落を擒えて献じた。太祖は宏信に送ることを命じ、これを斬らせ、晋軍は乃ち退いた。この時、太祖は正に兗州・鄆州を図らんとしており、宏信の離反を慮り、毎年の歳時・贈り物には、必ずへりくだった言葉と厚い礼を用いた。宏信が返礼するたびに、太祖は必ず魏の使者に対し北面して拝礼してこれを受け、曰く、「六兄(宏信)は我より倍の年長、兄弟の国なり、どうして常の隣国として遇することができようか」と。故に宏信は己を厚く遇するものと思った。その後、宏信は累官して検校太尉に至り、臨清王に封ぜられた。光化元年八月、在位のまま薨じた。

紹威は父の位を襲い留後となった(『舊唐書』に云う、紹威は文徳の初めより左散騎常侍さんきじょうじを授かり、天雄軍節度副使を充て、龍紀より乾寧に至る十年の間に、累次官爵を加えられた)。朝廷はこれに因ってこれを命じ、まもなく正式に旄鉞を授け、累加して検校太尉・兼侍中となり、長沙郡王に封ぜられた。昭宗が東遷するに及び、諸道に命じて洛邑を修繕させると、紹威は独り太廟を営み、制により守侍中を加えられ、鄴王に進封された。初め、至徳年中、田承嗣が相・魏・澶・博・衛・貝等の六州を盗み拠り、軍中の子弟を召募して部下に置き、「牙軍」と号し、皆に豊かに給与し厚く賜って、驕寵に勝えなかった。年代が次第に遠ざかり、父子相襲い、親党は膠の如く固く結びつき、その凶暴な者は、強いて買い豪奪し、法を越え令を犯し、長吏もこれを禁じることができなかった。主帥を変易すること、児戯の如く、田氏の後より以来、ほぼ二百年に垂んとした。主帥の廃立は、その手より出で、史憲誠・何全皞・韓君雄・楽彦貞らは、皆その立てし所となった。優遇褒賞が少しでも意にかなわなければ、則ち挙族誅殺された。紹威はその往時の弊を戒め、貨賂をもって姑息するも、心にこれを恨んだ。

紹威が世を嗣いだ翌年の正月、幽州の劉仁恭が十万の兵を擁し、河朔に乱を謀り、進んで貝州を陥落させ、長駆して魏を攻めた。紹威は太祖に救援を求め、太祖は李思安を遣わしてこれを救援せしめ、洹水に駐屯させた。葛従周は邢州・洺州より軍を率いて魏州に入った。燕将の劉守文・単可及が王師(梁軍)と内黄において戦い、大いにこれを破り、勝に乗じて追撃した。会して従周もまた軍を出して掩撃し、また燕軍を破り、三万余級を斬首した。三年、紹威は使者を遣わして軍と会し、ともに滄州を攻めてこれに報いた。ここより紹威は太祖の援助の恩に感じ、深く帰附した。紹威は唐の運命が衰え陵夷し、群雄交々乱れるを見、太祖の兵が天下に強く、必ずや禅代の志あるを知り、故に心を傾けて結び附き、その事を賛成し、毎に牙軍の変易を慮り、心安からず。天祐の初め、州城の地が故なくして自ら陥没し、間もなく小校の李公牷が変を謀り、紹威はますます懼れ、乃ち計を定めて牙軍を図り、使者を遣わして太祖に告げ、外援を求めた。太祖はこれを許し、李思安を遣わして魏博軍と会し再び滄州を攻めさせた。先に、安陽公主が魏において薨じたので、太祖はこれに因って長直軍校の馬嗣勲に命じ、兵千人を選び、兵器を大きな袋の中に伏せて隠し、肩に担いで魏州に入らせ、娘の葬事を助けると称した。天祐三年正月五日、太祖は自ら大軍を率いて河を渡り、滄州・景州の行営を視察すると声言したので、牙軍はややその事を疑った。この月十六日、紹威は奴客数百を率いて嗣勲とともにこれを攻め、時に牙城に宿っていた者は千余人、夜明け近くにこれを尽く誅し、凡そ八千家族、皆その族を赤くし、州城はこれがために一空となった。翌日、太祖は内黄より馳せて鄴に至った。時に魏軍二万は、正に王師とともに滄州を包囲していたが、城中に変あるを聞き、乃ち大将の史仁遇を擁して高唐に拠り、六州の内、皆敵となり、太祖は諸将を遣わして分かれてこれを討たせ、半年にしてようやく平定した。ここより紹威はその逼迫を除くも、然れどもまもなく自ら弱めることを悔いた。

数ヶ月も経たず、また浮陽の役があり、紹威は飛挽して糧食を輸送し、鄴より長蘆に至る五百里、跡を重ね軌を重ね、路に絶えることなかった。また魏州に元帥府の役所を建て、沿道に亭候を置き、犠牲・酒食・軍幕・什器を供給し、上下数十万人、一つとして欠けるものはなかった。太祖が長蘆より帰還し、再び魏州を過ぎるに及び、紹威は隙を乗じて太祖に謂って曰く、「邠州・岐州・太原は終に狂譎の志あり、各々興復唐室を詞とす。王は宜しく自ら神器を取るべし、以て人の望を絶つべし。天与うるも取らざれば、古人の非とするところなり」と。太祖は深くこれを感じた。即位するに及び、守太傅・兼中書令を加え、扶天啓運竭節功臣の号を賜った。車駕が洛に入らんとするに及び、詔を奉じて五鳳楼・朝元殿を重修せしめ、巨木良匠は当時に所有する所にあらず、忽ちとして地上に架け、流れを溯って西に旧址の上に立ち、綈繡を張り設け、皆副うものあり。太祖は甚だ喜び、宝帯・名馬を以てこれを賜った。先に、河朔三鎮では管鑰を司り、灑掃を備える者に皆宦官を用いたが、紹威曰く、「この類は皆宮禁の指使する所、豈に人臣の家の畜うべき所ならんや」と。因って三十余人を捜索して獲、尽く献上したので、太祖はこれを嘉した。開平年中、守太師・兼中書令を加え、邑一万戸を賜う。紹威は嘗て臨淄・海岱において兵を罷めてより歳月久しく、儲蓄は山の如く積もるも、惟だ京師の軍民多くして食益ます寡しきを以て、願わくは太行において木を伐り、安陽・淇門より下り、船三百艘を造り、水運を設けて大河より洛口に入り、歳に百万石を漕送し、以て宿衛に給せんと、太祖は深くこれを然りとした。会して紹威が疾に罹り病篤く、使者を遣わして上章し骸骨を乞うと、太祖は案を撫でて容色を動かし、使者を顧みて曰く、「急ぎ行きて汝が主に語れ、我が為に強いて飯を食え、もし不可諱(死)あるも、当に世々に汝が子孫を貴くして以て相報ぜん」と。仍ってその子の周翰に命じて軍府を監総せしめた。訃報が至るに及び、三日間朝を罷め、尚書令しょうしょれいを冊贈した。紹威は鎮に在ること凡そ十七年、年三十四にして薨じた。

紹威は容貌魁偉にして英傑の気あり、筆札を攻め、音律に通暁す。性質また精悍明敏にして、儒術を服膺し、吏理に明達せり。文士を招延するを好み、書万巻を聚め、学館を開き、書楼を置き、歌酒宴會の毎に、賓佐と賦詩を為し、頗る情致有り。江東の人羅隱なる者、錢鏐の軍幕を佐け、天下に詩名有り。紹威使いを遣わして賂遺し、南巷の敬を叙す。隱乃ち其の為す所の詩を聚めて之に投寄す。紹威其の作を酷嗜し、因りて己の為す所を目して『偷江東集』と曰う。今に至るまで鄴中の人士之を諷詠す。紹威嘗て公宴の詩に云う、「簾前淡泊雲頭日、座上蕭騷雨腳風」と。詩に深き者と雖も、亦之を歎伏す。

紹威の子三人、長は廷規と曰い、位は司農卿に至り、太祖の女安陽公主を尚び、又金華公主を尚ぶも、早卒す。次は周翰と曰い、継いで魏博節度使と為るも、亦早卒す。季は周敬と曰い、滑州節度使を歴任し、別に傳有り。開平四年夏、詔して金華公主を出家せしめ尼と為し、宋州元靜寺に居らしむ。蓋し太祖羅氏に恩を推し、其の婦節を終わらしむるなり。

趙犨

趙犨、其の先は天水の人なり。代々忠武の牙将たり。曾祖賓、祖英奇、父叔文、皆歴任して故職にあり。犨幼より奇智有り、齠齔の時、鄰裏の小兒と道左に戲れり。恒に行列を分布して部伍戦陣の状と為し、自ら董帥と為り、指顧に節有り、夙に習うが如し。群兒皆稟きて之に従い、其の行を乱すを敢えてせざる者有らず。其の父目して之を異とし、曰く「吾が家の千里駒なり、必ず吾が門を大いにせん」と。郷校に赴くに及び、誦読の性は同輩に出ず。弱冠にして壮節有り、功名を好み、弓劍に妙なり。気義勇果なり。郡守之を聞き、擢て牙校と為す。唐会昌中、壺關乱を作す。父に随い北征し、天井関を収む。末幾、王師に従い蛮を征し、浹月にして方に克つ。惟だ忠武の将士は溪洞の間に転戦し、斬獲甚だ衆し。本道其の勳を録し、陟て馬歩都虞候と為す。

乾符中、王仙芝曹・濮に起り、其の徒を大いに縦し、汝・鄭を侵掠す。犨乃ち歩騎数千を率いて之を襲い、賊党南奔す。黄巢長安ちょうあんを陥すに及び、天子しょくに幸し、中原主無く、人心騒動す。是に於て陳州数百人相率いて許州の連帥に告げ、願わくは犨をして軍州事を知らしめんと。其の帥即ち状を以て聞く。是に於て天子詔を下し、犨を以て陳州刺史を守らしむ。事を視るに既に及び、乃ち将吏に謂いて曰く「賊の巢の虐、四方に遍し、苟も長安市の人に誅せられざれば、則ち必ず残党を駆りて東下せん。況んや忠武と久しく仇讎を為し、我が土疆を凌ぐは、勢い必然なり」と。乃ち垣墉を増し、溝洫を浚い、倉廩を実にし、薪芻を積む。凡そ四門の外、両舍の内、民に資糧有る者は、悉く郡中に挽入せしむ。甲兵を繕い、劍槊を利くし、弓弩矢石畢く備わらざる無し。又勁勇を招召し、之を麾下に置く。仲弟昶を以て防遏都指揮使と為し、季弟珝を以て親従都知兵馬使と為し、長子麓・次子霖、皆分ちて鋭兵を領す。黄巢長安に在り、果たして王師四面に扼束せられ、食尽き人饑え、東奔の計を謀る。先ずぎょう将孟楷に徒万人を擁せしめ、直ちに項県に入る。犨兵を引いて之を撃つ。賊衆大潰し、斬獲略盡し、孟楷を生擒す。

中和三年、朝廷其の功を聞き、就いて検校兵部尚書を加え、俄に右僕射に転ず。数月を経ずして、司空しくうを加え、潁川県伯に進む。巢の党孟楷の陳に擒えられしを知り、大いに驚憤し、乃ち衆を悉く東来し、先ず溵水を据え、後蔡州の秦宗権と勢を合して以て宛丘を攻む。陳人之を懼る。犨衆心の携離を恐れ、乃ち衆中に揚言して曰く「忠武は素より義勇と称し、淮陽も亦勁兵と謂う。是れ戮力同心し、群寇を捍禦し、功を立て節を立て、危きを去り安きに就くに宜しきなり。諸君宜しく之を図るべし。況んや吾が家陳の禄を食むこと久し。今賊衆囲逼し、衆寡均しからず。男子は死中に生を求むべし。又何ぞ懼れんや。且つ国為に死するは、生けて賊の伍と為るに愈れるに猶あらずや。汝但だ吾が賊を破るを観よ。敢えて異議有る者は之を斬らん」と。是に由りて衆心靡として踴躍せざる無し。間も無く、門を開き賊と接戦す。戦う毎に皆捷し、賊衆益々怒る。巢郡北三四里に八仙営を起し、宮闕の状の如くし、又百司の廨署を修め、儲蓄山峙の如し。蔡人は之に甲冑を済し、軍闕くる所無し。凡そ陳を囲むこと三百日、大小数百戦。兵食将に尽きんとすと雖も、然れども人心益々固し。犨因りて間道を令し羽書を奉じて太祖に師を乞う。太祖素より犨の勇果を多とし、乃ち之を許す。四年四月、太祖大軍を引き諸軍と陳の西北に会す。陳人は旗鼓を望み出軍して火を縱ち、急ぎて巢の寨を攻む。賊衆大潰し、重囲遂に解く。行在に捷を献ず。

五年八月、犨を除して蔡州節度使と為す。是の時、巢の党敗るると雖も、宗権益々熾なり。六七年の間、中原を屠膾し、二十余郡を陥す。惟だ陳は蔡を去ること百余里、兵少なく力微なり。日々之と鋒を争い、終に屈せず。文德元年、蔡州平ぐ。朝廷勳を議し、犨を以て検校司徒しとと為し、泰寧軍節度使を充て、又浙西節度使に改授す。宛丘を離れず、兼ねて二鎮を領す。龍紀元年三月、又平巢・蔡の功を以て、就いて平章事を加え、忠武軍節度使を充て、仍って陳州を理所と為す。是に由りて中原塵静し、唐帝復た長安に帰る。陳・許の流亡の民、繈負して業に帰す。犨法を設けて招撫し、人皆之を感ず。犨兄弟三人、時に雍睦と称せらる。一日、仲弟昶の王事に同心し、共に軍功を立つるを念い、乃ち令を下し尽く軍州事を昶に付す。遂に表を上し骸を乞う。後数月、寝疾し、陳州の官舎に卒す。年六十六。宛丘県の先域に葬る。累贈して大尉とす。

犨は唐室に尽忠し、陳州を保全すと雖も、然れども黙識して太祖の雄傑たるを識り、毎に心を降し跡を托して、子孫の計と為す。故に解囲の後、愛子を以て親を結ぶ。又太祖の為に生祠を陳州に立つるを請い、朝夕拜謁す。数年之間、力を悉くして委輸し、凡そ征調する所、率先せざる無し。故に其の功名を保つことを能う。

長子の麓は、位は列卿に至った。次子の霖は、名を岩と改め、太祖の娘である長楽公主を娶った。開平の初め、衛尉卿・駙馬都尉を授けられた。二年九月、権知洺州軍州事となり、まもなく天威軍使に転じた。十二月、右羽林統軍を授かり、右衛上將軍に改め、大内皇牆使を充てた。三年七月、出て宿州團練使となり、たちまち州刺史に移った。その後、累ねて近職を歴任し、引き続き禁軍を管轄した。庶人友珪誅殺に参画して功があり、末帝が即位すると、租庸使・守戸部尚書に用いられた。岩は勲戚として自らを恃み、賄賂が公然と行われ、天下の賄賂の半分がその門に入った。また、身をもって公主を娶ったことから、唐朝の駙馬都尉杜悰が将相の極位に至り、服飾・飲食の自らの供応を極めて華美奢侈にしたと聞き、岩はそれに及ばないことを恥じた。これによりその飲食を豊かにし、嘉肴法饌は、動けば万銭を費やし、商人を雇い集め網羅し、その徒は市の如く、権勢は人を灼くほどで、人皆これに阿附した。唐の荘宗が梁室を滅ぼすに及んで、岩は垣を越えて逃れた。平素より徐州の温韜と親しくしていたので、岩は彼を頼って赴いた。到着すると、韜は岩の首を斬って京師に送った。

仲弟の昶

昶は、字を大東といい、犨の仲弟である。弱冠にして兵機を習い、沈黙として大度、神形は灑落し、事に臨んで通変の才があった。兄の犨が陳州刺史となると、昶を防禦都指揮使とした。間もなく、黄巣の将孟楷が万余の衆を擁して項城県を占拠したので、昶は兄の犨と兵を率いてこれを撃破し、楷を生け捕りにして帰った。数ヶ月も経たないうちに、巣党が全軍を挙げて陳州を攻め、孟楷の戦いの報復を図った。また蔡の賊寇と合従し、凶醜百万、陳州の郊外に屯したので、陳人は大いに恐れた。ある夜、昶は巡警のため、城門の楼で仮寐していると、恍惚として陰の助けがあるかのようであった。昶はこれを怪しみ待った。夜明け近く、城門を開いて決戦すると、人心と兵勢は勇み止め難く、あたかも陰兵が先導するかのようであった。この日、賊将数人を生け捕りにし、千余級を斬首し、群凶の気勢は沮喪した。その後連日交戦し、機に応じて俘虜や斬首を得ないことはなく、少しも敗れることがなく、ついに数ヶ月の重囲に至っても、士卒の心は一つであった。賊が敗れて包囲が解けると、朝廷は勲功を記録し、昶の一門の中で、重ねて爵位と官秩を加えた。当時、方鎮の内において、忠勇を言い、守禦を言い、功勲を言い、政事を言う者は、皆犨・昶を第一とした。犨が泰寧軍節度使を遥領すると、昶を本州刺史・検校右僕射とした。まもなく犨が病を得たので、軍州の事を全て昶に託した。詔により兵馬留後を授けられ、たちまち忠武軍節度使に遷り、やはり陳州を治所とした。当時、秦宗権は未だ滅んでおらず、中原はまさにその毒害を受けていた。陳州と蔡州は封疆が接しており、昶は毎度精鋭を選び、深く蔡の境内に侵入した。蔡の賊は衆多であったが、ついに抗することができず、宗権が敗北するに至った。朝廷は勲功を賞し、検校司徒を加えた。昶は大寇が平定された後、ますます政事に心を留め、農桑を勧め課し、広く恩恵を施した。景福元年秋、陳・許の将吏と耆老がその功績を記録し、朝廷に赴いて上聞させた。天子はこれを嘉し、文臣に命じて徳政碑を撰し、大通りに立ててその功を顕彰させた。まもなく同平章事を加えられた。昶は包囲が解けて以来、常に「梁王(朱全忠)の恩は忘れられない」と言っていた。これ以後、太祖が征伐を行う度に、昶は兵甲を訓練し、糧食の輸送や物資の供給を、至らないところなく行った。乾寧二年、病に臥し、鎮所で薨去した。享年五十五。太尉を追贈された。

季弟の珝

珝は、字を有節といい、犨の季弟である。幼少より剛毅で、器宇は深沈であった。元服後、書籍を好んだ。壮年になると、騎射に巧みで、特に『三略』に精通した。犨が陳州刺史となると、珝を親従都知兵馬使とした。当時、黄巣党が東に出て商州・鄧州に至り、蔡の賊と会合し、衆は百余万に及び、長い壕を五百道掘って陳州を攻めたので、陳人は大いに恐れた。珝は二人の兄と共に心を堅くし衆に誓い、将校を激励し、死節を約した。珝は祖先の墓(鬆楸)が城郭から数里離れているのを、群盗に掘り起こされることを憂い、夜に心膂の士を遣わして、棺を城内に移した。府庫に旧来より巨弩が数百枝あったが、機牙(発射装置)が皆欠けており、工人は皆使用不可と言った。珝は即座に創意を凝らして規格を定め、自ら弦筈を調節し、これを城壁の雉堞の間に置いた。矢は五百余歩を激しく飛び、凡そ人馬に中れば、皆胸や脇を貫通したので、群賊はこれを畏れ、近づくことを敢えなかった。仲秋から初夏の初めまで、軍糧が尽きようとし、兵士は飽くことはなかったが、堅く拒む志は変わらなかった。太祖が大軍を率いてその包囲を解くと、珝兄弟は涙を拭いて感謝した。その後、朝廷が功績を議し、検校右僕射を加え、遥かに処州刺史を領した。犨が薨じ、昶が忠武軍節度使となると、珝は行軍司馬・検校司空に遷った。昶が薨じると、珝は忠武軍留後を管知した。珝の公務を処理する才能は、遠近に広まり、符籍の虚実、財穀の消耗と増加に至るまで、その根本を詳らかに調べ、民の利害は、明らかに知らないことはなかった。諸事は簡素で廉潔、公私共に益があり、太祖は深く慰め推薦した。まもなく特進・検校司徒を加えられ、忠武軍節度使を充てた。陳州の土壌は低く軟弱で、毎年壁壘が崩壊し、工事の暇がなかったので、珝は遂に費用と労力を計画し、煉瓦で四囲の城壁を周囲に砌くようにし、これにより霖雨の憂いがなくなった。光化二年、検校太保・平章事を加えられた。翌年、検校侍中となり、進んで天水郡公に封ぜられた。珝は広く古代に通じ、陳州が本来伏羲の都であり、南頓は光武帝の旧地であることから、遂に古代の制度を考察し、廟貌を崇め飾り、四民の福を祈る場所とした。また鄧艾の故址を尋ね、翟王河を決壊させて稲や粟を灌漑し、倉廩を大いに満たし、民はその利益を得た。珝兄弟が陳州・許州を節制し、継いで旌鉞を擁すること、二十余年、陳人の愛戴を受け、風化が大いに行われた。天復元年冬、韓建が忠武軍節度使となると、珝を召して同州匡国軍節度留後を管知させた。当時、太祖は岐下で軍を統率しており、珝は物資の輸送や調発を、道中に忙しく行った。まもなく昭宗が長安に還ると、詔して入朝を命じ、迎鑾功臣の称号を賜った。珝は藩鎮の任を固く辞したので、遂に検校太傅・右金吾衛上將軍を加えられた。東遷に扈従し、一年余りして、痼疾により免官となり、淮陽に帰った。間もなく、私第で薨去した。享年五十五。詔して侍中を追贈し、陳人は彼のために市を罷めた。子の縠は、官は左驍衛大将軍・宣徽北院使に至った。唐の荘宗が汴に入ると、従兄の岩と共に皆族誅された。

王珂

王珂は河中人である。祖父の王縱は鹽州刺史であった。父の王重榮は河東節度使となり、黄巣を破って大功があり、琅邪郡王に封ぜられた。珂は本来、重榮の兄・重簡の子であったが、重榮の養子となった。唐の僖宗光啓三年、重榮が部将の常行儒に害されると、重榮の弟・重盈を蒲帥に推し、珂を行軍司馬とした。重盈が卒すると、軍府は珂を留後と推した。時に重盈の子の珙は陝州節度使、瑤は絳州刺史であり、ここにおいて蒲帥の地位を争い、瑤と珙は相次いで上章して論じ、また太祖(朱全忠)に書を送って「珂は我ら兄弟ではなく、実は我が家の下僕(蒼頭)である。幼名は忠児という。どうして後継ぎとなれようか」と述べた。珂もまた上章して「亡父には興復の功があった」とし、さらに使者を太原に遣わして救援を求め、李克用が朝廷に保薦したので、昭宗はこれを認めた。やがて珙は王行瑜・李茂貞・韓建を厚く結んで援軍とし、三鎮は互いに表薦し合った。昭宗は詔を下して諭して「朕は太原(李克用)が重榮に再造の功があったことを考慮し、すでにその奏を許した」と言った。乾寧二年五月、三鎮は兵を率いて入朝し、時政を害し、河中を珙と瑤に授けるよう請い、さらに連合して河中を攻撃した。克用はこれを聞き、出師して三鎮を討ち、瑤と珙の兵は退いた。晉師は絳州を抜き、瑤を擒らえて斬った。克用が渭北に駐軍すると、昭宗は珂を河中節度使とし、正式に旄鉞を授け、克用は娘を珂に娶せた。珂は太原に至って婚礼を謝し、克用は李嗣昭に兵を将いて珂を助けさせ、陝州において珙を攻撃させた。光化末、太祖は張存敬に言った。「珂は太原の勢いを恃み、隣封を侮慢している。汝、我がために一縄を持ちてこれを縛れ。」天復元年春、存敬の兵は晉・絳を下し、何糸に命じて晉州を守らせ、太原の援軍を扼させた。二月、大軍は河中に迫り、珂の妻は太原に書を送って告げた。「敵勢が攻め逼り、朝夕のうちに俘囚となり、大梁に食を乞うこととなりましょう。大人(父上)はどうして忍んで救わないのですか。」克用は言った。「前途すでに阻まれ、衆寡敵せず。救えば爾とともに両亡するのみ。王郎とともに朝廷に帰るがよい。」珂はさらに李茂貞に救援を求めたが、茂貞は答えなかった。珂の勢いは窮迫し、城に登って存敬に言った。「我は汴王(朱全忠)と家世の事分(縁故)がある。公は退いて駐屯し、汴王の到着を待たれよ。我は自ら命を聴く。」存敬は即日に退いた。三月、太祖は洛陽らくようから至り、先ず重榮の墓で哭した。蒲人はこれを聞いて感悦した。珂は面縛牽羊して出迎えようとしたが、太祖は言った。「太師(王重榮)の阿舅(母方の伯叔父)の恩は、いつ忘れられようか。郎君がもし亡国の礼をもって相見えようとするならば、黄泉において我を何と言うであろうか。」(《歐陽史》に云う。梁太祖は同州より唐に降り、即ち重榮に依り、母が王氏であったので、故事により重榮を舅とした。)珂が路に出て迎えると、手を握り合って歔欷し、轡を並べて入城した。そこで居敬をして河中を守らせ、珂は挙家して汴に徙った。後に入覲し、華州の伝舎において殺された。

従弟 珙

珙は若くして俊気があり、文武を兼ねた才があったが、性甚だ驕虐であった。世に多故に属し、遂に伯父の重に代わって陝州節度使となった。為政は苛暴で、かつ猜忌多く、残忍にして殺戮を好み、生命を意とせず、内は妻孥宗属より、外は賓幕将吏に至るまで、一言合わざれば則ち五毒を施さんとし、鞭笞刳斮、無日これ無からず。奢縦にして聚斂し、民は命に堪えず、ここにおいて左右は惕懼し、不測の憂いがあった。唐の光化二年夏六月、部将の李璠に殺された。璠は自ら留後を称し、これにより陝州は再び王氏の所有とならなかった。

史臣曰く。紹威は初め唐の雄として魏地に拠り、土徳の季運に当たり、梁祖をすすめて強禅を行わせた。梁においては則ち佐命たり、唐においては豈に忠臣たるを得んや。趙犨は淮陽咫尺の地をもって、黄巣百万の衆に抗し、功成り事立ち、足りて多とする者あり。岩と縠は賢ならず、遽かにその嗣をほろぼす。惜しいかな。王珂は奕世山河たりしも、勢い危うくして擄われ、乃ち魏豹の徒か。