文字サイズ
舊五代史
梁書十三: 列傳第三 朱瑄 朱瑾 時溥 王師範 劉知俊 楊崇本 蔣殷 張萬進
朱瑄
朱瑄は宋州下邑の人である。父の慶は里の豪族で、掠奪と塩の密売を業とし、吏に捕らえられて処刑された。瑄は父の罪に連座して笞刑を受け免罪となった。そこで王敬武の軍に入り小校となった。唐の中和二年、諫議大夫張浚が青州に兵を徴発すると、敬武は将の曹全晸に軍を率いて赴かせ、瑄をその配下とした。戦功により累進して列校となった。賊が敗れて関を出ると、全晸は本軍を率いて鎮に帰還した。時に鄆の帥薛崇が卒し、部将の崔君預が城を占拠して叛いたので、全晸はこれを攻め、君預を殺して自ら留後となった。瑄は功により濮州刺史・鄆州馬歩軍都将に任じられた。光啓初年、魏博の韓允中が鄆を攻め、全晸はそのために害された。瑄は城を占拠して自らを固守した。三軍が推して留後とした。允中が敗れると、朝廷は瑄を天平軍節度使とし、累進して官は検校太尉・同平章事に至った。太祖(朱全忠)が初めて大梁を鎮守した時、兵威は未だ振るわず、連年にわたり秦宗権に包囲され、兵士は甲を解かず、一日に四度も危殆に陥る日があった。太祖は瑄が同宗であることを以て、早くから兄としてこれに仕え、乃ち使者を遣わして瑄に救援を求めた。光啓の末、宗権が大梁を急攻すると、瑄は弟の瑾と共に兗・鄆の軍を率いて来援し、蔡賊を大破し、包囲を解いて遁走させた。太祖はその力を感じ、厚礼を以てこれを帰した。先に、瑄・瑾が大梁に駐屯した時、太祖の軍士の驍勇なるを見て、私心にこれを愛した。帰るに及んで、境界上に多額の金帛を懸けてこれを誘った。諸軍はその厚利に貪り、私的に逃亡する者が甚だ多かった。太祖は移牒してこれを責めたが、瑄の来たる言葉は不遜であり、ここより隙を構え始めた。秦宗権が敗れると、太祖は軍を移して徐州の時溥を攻めた。時に瑄は溥を支持していたので、乃ち使者を遣わして来告し、太祖に言うには、「黄巣・宗権は継いで蛇虺の如く、中原を毒螫し、君と把臂同盟し、輔車相依った。今賊は既に平殄し、人は粗く聊か生きるを得ている。吾が弟は宜しく遠図を念い、自ら魚肉とすべからず。或いは行人の失辞、疆吏の逾法あらば、理を以て遣わすべく、未だ直ちに和好を睽てるべからず。鼠に投ずるも器を忌む、弟幸いにこれを思え」と。太祖は時に孫儒に通じる時溥を怒っていたので、その言に従わなかった。龐師古が徐州を攻めると、瑄は出師して来援し、太祖は深くこれを恨んだ。徐が既に平定されると、太祖は兵を併せて鄆を攻め、景福元年冬より朱友裕に軍を率いさせて済を渡らせ、乾寧三年に至るまで軍を斉・鄆の間に宿し、大小凡そ数十戦に及び、その語は『太祖紀』にある。ここより野に人耕すなく、属城悉く我が有となった。瑄は乃ち人を遣わして太原に求救し、李克用はその将李承嗣・史儼等を遣わしてこれを援けさせた。間もなく羅宏信に扼せられ、援路既に絶たれ、瑄・瑾は遂に敗れた。乾寧四年正月、龐師古が鄆州を攻め陷すと、瑄は中都の北に遁れ、民家に匿れたが、その者に箠たれ、妻の栄氏と共にこれを擒えて献じられ、俱に汴橋下で斬られた。
朱瑾
朱瑾は瑄の従父弟である。雄武絶倫で、性頗る残忍であった。光啓年中、瑾は兗州節度使斉克讓と婚姻し、瑾は鄆より盛んに車服を飾り、密かに兵甲を蔵し、礼会に赴いた。親迎の夜、甲士が密かに発し、克讓を擄い、自ら留後と称した。蔡賊が鴟張するに及んで、瑾は太祖と連衡し、共に宗権を討ち、前後屡々捷ち、功により正しく兗州節度使に任じられた。既に士心を得て、天下を兼併せんとする意あり、太祖もまたこれを忌んだ。瑾は厚利を以て太祖の軍士を招誘し、間諜と為した。太祖が鄆を攻めると、瑾は出師して来援し、累ねて太祖と接戦した。乾寧二年春、太祖は大将朱友恭に瑾を攻めさせ、塹柵を掘ってこれを環らせた。朱瑄は将の賀瑰及び蕃将の何懷宝を遣わして赴援させたが、友恭に擒えられた。十一月、瑾の従兄斉州刺史の瓊が州を以て降った。太祖は賀瑰・懷宝及び瓊を執らせて城下に徇らせ、語って曰く、「卿の兄は既に敗れた。早く宜しく順を效すべし」と。瑾は偽って牙将の瑚児に書幣を持たせて降を送らせ、太祖は自ら延寿門外に至り、瑾と交語した。瑾は太祖に謂って曰く、「大将に符印を送らせんと欲す。兄の瓊を得て来たり押領せしめんことを願う。貴ぶところは骨肉、腹心を尽くさんがためなり」と。太祖は瓊と客将の劉捍に符笥を取らせ遣わした。瑾は単馬にて橋上に立ち、手を揮って捍に謂って曰く、「兄を来たらしむべし。余に密款あり」と。即ち瓊を往かしめた。瑾は先に騎士の董懷進を橋下に伏せさせておき、瓊の至るに及んで、懷進が突出し、瓊を擒えて入り、間もなく瓊の首を斬って城外に投じた。太祖は乃ち師を班した。
及び鄆州が陷ると、龐師古は勝に乗じて兗を攻め、瑾は李承嗣と方に兵を出して芻粟を豊沛の間に求めていた。瑾の二子及び大将の康懐英・判官の辛綰・小校の閻宝が城を以て師古に降った。瑾は帰路なく、即ち承嗣と将に麾下の士を率いて沂州を保たんとしたが、刺史の尹処賓が関を拒んで納れず、乃ち海州を保った。師古に迫られ、遂に州民を擁して淮を渡り楊行密に依った。行密は表して瑾に徐州節度使を領せしめた。龐師古が淮を渡ると、行密は瑾に師を率いてこれを禦がしめ、清口の敗れに、瑾力有り。ここより瑾は淮軍を率いて連歳北寇し徐・宿を侵し、大いに東南の患いとなった。
行密が卒すると、その子の渭が継いで立った。徐温の子である知訓を行軍副使とし、寵遇は頗る深かった。後に楊溥が僭号すると、知訓を枢密使・知政事とし、瑾を同平章事とし、なお親軍を督せしめた。時に徐温父子は寵を恃んで政を専らにし、瑾が己に附かぬことを慮った。貞明四年六月、瑾を出して淮寧軍節度使とした。知訓は家宴を設けて瑾を餞別し、瑾はこれを事うること愈々遜った。翌日、知訓の邸に詣でて謝し、門に留まること久しく、知訓の家僮が密かに瑾に謂うには、「政事相公は今夕白牡丹妓院におり、侍者は往くを得ず」と。瑾は典謁に謂うには、「吾は朝の飢えに耐えず、且く帰らん」と。既にして知訓これを聞き、愕然として曰く、「晩に瑾を過ごさん」と。瑾は厚く供帳を備えた。瑾には所有する名馬があり、冬は錦帳をもってこれを貯え、夏は羅幬をもってこれを護った。愛妓の桃氏は絶色あり、歌舞に長じていた。知訓の至るに及んで、卮酒を奉じて寿を祝い、初めに名馬を奉じた。知訓は喜んで言うには、「相公が出鎮するに当たり、吾と暫く別れ、離恨知るべし、願わくは此に尽く歓ばん」と。瑾は即ち知訓を中堂に延じ、桃氏を出した。酒既に酔うと、瑾は知訓の首を斬り、その部下に示した。因ってその衆を率いて急ぎ衙城に趨ったが、知訓の党は既に門を閉ざしており、唯瑾のみ独り入るを得て、衙兵と戦った。再び城を逾えて出で、足を傷つけ、馬を求むるも獲ず、遂に自刎した。その屍を市中に曝したが、盛夏にも蠅蛆無く、徐温は命じてこれを江に投ぜしめた。部人は窃かに収めて葬った。温が疾篤くなり、夢に瑾が髪を被いて満を引き将に之を射んとするを見た。温は乃ち之がために礼葬し、祠を立てて祭った。
時溥
時溥は徐州の人、初め州の驍将であった。唐の中和の初め、秦宗権が蔡州に拠り、隣藩を侵寇した。節度使支詳は溥に命じて師を率いてこれを討たせた。徐軍は屡々捷し、軍情帰順し、節鉞を授けた。
王師範
王師範は青州の人である。父の敬武は初め平盧の牙将であった。唐の広明元年、無棣の人洪霸郎が斉・棣の間に群盗を糾合したので、節度使安師儒は敬武を遣わしてこれを討平させた。黄巣の賊が長安を犯すに及んで、諸藩鎮は勝手に主帥を更易し、敬武は師儒を逐って自ら留後となった。王鐸が制を承けて節鉞を授け、後に出師して勤王の功を立てたので、太尉・平章事を加えられた。龍紀年間に敬武が卒すると、師範は幼少であったが、三軍が彼を推して帥とした。棣州刺史張蟾が師範に叛き、節度を受けず、朝廷は崔安潜を平盧の帥としたので、師範は命を拒んだ。張蟾は安潜を郡に迎え、ともに師範を討とうとした。師範は将の盧宏を遣わして兵を率い張蟾を攻めさせたが、盧宏もまた叛き、張蟾と通謀し、偽って軍を返して青州を襲おうとした。師範はこれを知り、重賂を遣わして盧宏を迎え、これに謂って曰く、「私は先人の故をもって、軍府に推されたが、年はなお幼少で、事を為すことができない。もし公が先人の故をもって、祀を絶やさずとさせてくださるならば、公の仁である。もし成事に与し難しと為されるならば、首領を保ち、以て先人の墳墓を守ることを乞う。これもまた命に従うのみである」と。盧宏は師範が幼少であるから、必ず能為すところなからんと思い、そのための備えをしなかった。師範は要路に伏兵を置き、迎えて饗応し、あらかじめ紀綱の劉鄩に謂って曰く、「翌日盧宏が至れば、爾すなわちこれを斬れ。軍校をもって爾に酬いる」と。劉鄩はその言の如く、座上で盧宏を斬り、及び乱を同じくする者数人を斬った。そこで士衆を戒め励まし、大いに頒賞を行い、これと誓約を結び、自らこれを率いて棣州を攻め、張蟾を擒らえてこれを斬った。安潜は遁れて長安に還った。師範は儒術を好み、少より縦横の学を負い、故に民を安んじ暴を禁ずるに、それぞれ方略があり、当時の藩翰はみなこれを称えた。
太祖が兗・鄆を平らげ、朱友恭を遣わしてこれを攻めるに及んで、師範は盟を乞い、遂に通好した。天復元年冬、李茂貞が車駕を劫遷して鳳翔に幸せしめ、韓全誨が詔を矯って太祖に罪を加え、方鎮に出師して難に赴かせよと命じた。詔が青州に至ると、師範は詔を承けて涙を流して曰く、「我らは天子の藩籬たり。君父に難あれば、奮力する者少しも無く、皆強兵をもって自らを衛り、賊をこのように縦す。上をして宗廟を失守せしめ、危うきを支えず。これは誰が過ちぞ。我が今日の成敗はこれに由る」と。そこで使を発して楊行密に通じ、将の劉鄩を遣わして兗州を襲わせ、別将をして斉を襲わせた。時に太祖はちょうど鳳翔を囲んでおり、師範は将の張居厚に輿夫二百を部して、太祖に献ずるものありと言わせた。華州城東に至ると、華州の将婁敬思はその異ありと疑い、輿を剖いてこれを視ると、兵仗であった。居厚らはそこで呼び、敬思を殺し、衆を聚めて西城を攻めた。時に崔胤が華州におり、部下を遣わして関を閉めてこれを拒がせたので、遂に遁去した。この日、劉鄩は兗州を下し、河南の数十郡が同日に発した。太祖は怒り、朱友寧を遣わして軍を率いこれを討たせた。既にして友寧は青州軍に敗れ、臨陣で擒らえられ、首を淮南に伝えられた。天復三年七月、太祖はまた楊師厚に進攻を命じ、臨朐に屯させた。師厚はしばしば青州軍を破り、遂に城下に寨を進めた。師範は懼れ、そこで副使の李嗣業を師厚のもとに詣らせて降を乞わせた。(《新唐書》に云う、師厚は青州を囲み、師範の兵を臨朐に破り、諸将を執り、またその弟の師克を獲たり。この時師範の衆はなお十余万、諸将は決戦を請うたが、師範は弟の故をもって、降を請うたという。)太祖はこれを許した。歳余りして、李振を遣わして青州の事を権典させ、そこで師範に挙家して汴に徙ることを命じた。師範が将に至らんとするに、縞素を着て驢に乗り、太祖に請罪した。太祖は礼をもってこれを遇し、まもなく表して河陽節度使とした。時に韓建が青州に移鎮することとなり、太祖は郊で帳餞を行い、師範もこれに預かった。太祖は韓建に謂って曰く、「公は頃に華陰に在りし時、政事の暇に経籍を省覧せり。これもまた士君子の大務なり。今の青土は政簡にして務暇なり、復た華陰の故事を修むべし」と。韓建は撝謙するのみであった。太祖はまた曰く、「公の読書は必ず精意を要す。心を用いるに錯ることなかれ」と。太祖は師範が儒を好み、前に青州で叛いたことを以て、この言をもってこれを譏ったのである。太祖が即位するに及んで、征して金吾上將軍とした。
開平初め、太祖が諸子を封じて王とすると、友寧の妻が号泣して太祖に訴えて曰く、「陛下は家を化して国と為し、人々皆封崇を得ています。妾の夫は早くより艱難に預かり、粗く労効を立てましたが、不幸にも師範が反逆し、亡夫は疆場に横屍しました。冤仇はなお朝廷に在り、陛下の恩沢を受けながら、亡夫は何の罪ありましょうか」と。太祖は淒然として涙を流して曰く、「ほとんどこの賊を忘れるところであった」と。すなわち人を遣わして師範を洛陽で族誅させた。先に第の側に坑を掘り、乃ちこれを告げると、その弟の師誨、兄の師悦及び児侄二百口、ことごとく尽く戮せられた。時に使者が詔を宣し終えると、師範は盛大に宴席を開き、昆仲子弟を列座させ、使者に謂って曰く、「死は人の免れざる所、況や罪あるにおいてをや。然れども予は下に屍を坑すること、少長の序を失い、先人に愧じることあらんことを懼る」と。行酒の次に、少長をして坑に次いで戮を受けさせ、人士これを痛んだ。後唐の同光三年三月、詔して太尉を贈った。
劉知俊
劉知俊は字を希賢といい、徐州沛県の人である。姿貌雄傑にして、倜儻として大志あり。初め徐帥の時溥に事え、列校となり、溥は甚だこれを器としたが、後に勇略をもって忌まれるようになった。唐の大順二年冬、率いる所部二千人を率いて来降し、すなわち署して軍校とした。知俊は甲を披き馬に上り、剣を輪して敵に入り、勇は諸将に冠した。太祖は左右義勝の両軍をこれに隷属させ、まもなく用いて左開道指揮使とし、故に当時の人はこれを「劉開道」と謂った。後に秦宗権を討ち及び徐州を攻めるに、皆功あり、まもなく補せられて徐州馬歩軍都指揮使となった。海州を攻めてこれを下し、遂に奏して刺史を授けた。天復初め、歴て懷・鄭の二州を典とし、青州平定に従い、功をもって奏して同州節度使を授けた。天祐三年冬、兵五千をもって岐軍六万を美原に破った。ここより連ねて鄜・延など五州を克ち、乃ち検校太傅・平章事を加えられた。開平二年春三月、命ぜられて潞州行営招討使となった。知俊は未だ潞に至らざるに、夾寨は既に陥ち、晋人は軍を引いて方に沢州を攻めていたが、知俊の至るを聞いて乃ち退いた。まもなく西路招討使に改めた。六月、岐軍を幕穀に大破し、俘斬千計に及び、李茂貞は僅かに身をもって免れた。三年五月、検校太尉・兼侍中を加えられ、大彭郡王に封ぜられた。
時に劉知俊の威望はますます高まり、太祖(朱全忠)の猜疑心は日増しに強くなった。ちょうど佑國軍節度使王重師が罪なくして誅殺されるに及び、知俊は身の置き所なく、ついに同州を拠りて叛き、李茂貞に降伏の意を伝えた。また兵を分けて雍州・華州を襲撃し、雍州節度使劉捍は生け捕られて鳳翔に送られて殺害され、華州の蔡敬思は傷つきながらも逃れて難を免れた。太祖は知俊の叛を知り、近臣を遣わして諭して言うには、「朕は卿を厚く遇した。どうして背くのか」と。知俊は答えて言うには、「臣は徳に背くのではなく、ただ死を恐れるのみです。王重師は陛下に背かずして、ついに一族を滅ぼされました」と。太祖はまた使者を遣わして知俊に謂うには、「朕は卿がこのようなことをするとは思わなかった。先だって重師が罪を得たのは、劉捍が『ひそかに邠州・鳳翔と結び、ついに国家のために用いられない』と言ったからである。今朕は枉げられ濫りに誅したと知るも、悔いても及ばず、卿をこのような境遇に至らしめた。朕の心は恨みに満ちている。劉捍が我が事を誤らせたのであり、捍の一死をもってはまだ責めを塞ぐに足りぬ」と。知俊は返答せず、ついに兵を分けて潼関を守らせた。太祖は劉鄩に命じて兵を率いて討伐に向かわせ、潼関を攻めて陥落させた。時に知俊の弟知浣は親衛指揮使であったが、知俊の叛を聞き、洛陽から潼関に奔ったところを劉鄩に捕らえられ、殺害された。間もなく王師(朝廷の軍)が続いて到着し、知俊はついに一族を挙げて鳳翔に奔った。李茂貞は彼を厚く遇し、偽って検校太尉・兼中書令を加えたが、領土が広くなく、藩鎮として処遇する余地がなかったため、ただ俸祿を厚く与えるのみであった。間もなく命じて兵を率いて霊武を攻囲させ、牧畜の地を図らせた。霊武節度使韓遜が使者を遣わして急を告げたので、太祖は康懐英に命じて軍を率いて救援させた。軍は邠州長城嶺に駐屯したが、知俊の邀撃を受け、懐英は敗れて帰還した。茂貞は喜び、彼を涇州節度使に任じた。また命じて衆を率いて興元を攻めさせ、西県に進んで包囲したが、蜀軍の救援が到着したため、撤退した。
やがて茂貞の側近石簡顒らの讒言にあい、軍政を免ぜられ、岐州の下に寓居し、門を閉ざして数年を過ごした。茂貞の猶子(甥)李継崇が秦州を鎮守していたが、帰省して来た際、知俊がここまで窮地に陥っているのは、讒言や嫉みによって疑われるべきではないと述べた。茂貞はついに簡顒らを誅殺してその心を安んじた。継崇はまた、知俊に家族を連れて秦州に住まわせ、豊かな給与に就かせるよう請うた。茂貞はこれに従った。間もなく邠州で乱が起こり、茂貞は知俊に討伐を命じた。時に邠州都校李保衡が朝廷に降伏の意を示し、末帝(朱友貞)は霍彦威に衆を率いて先に邠州に入らせた。知俊はその城を包囲したが、半年たっても陥落させられなかった。ちょうど李継崇が秦州を挙げて蜀に降ったため、知俊の妻子は皆成都に移され、ついに邠州の包囲を解いて岐陽に帰った。一族が皆蜀に入ったため、終には猜忌を受けることを憂い、親信百余人とともに夜に關を斬って奔り蜀に逃れた。王建は彼を非常に厚く遇し、すぐに偽りの武信軍節度使を授けた。間もなく命じて兵を率いて岐を伐たせたが、勝てずに軍を返し、ついで隴州を包囲してその帥桑宏志を捕らえて帰った。久しくして、また都統に命じ、再び軍を率いて岐を伐たせた。時に部将は皆王建の旧臣であり、多くが命令に従わず、成功せずに帰還した。蜀人はこのことをもって彼を誹謗した。先だって、王建は寵待を加えていたが、やはり彼を忌み嫌い、かつて近侍に謂って言うには、「我は次第に衰え耗え、常に身の後のことを思う。劉知俊はお前たちが制御できる者ではない。早く処分した方がよい」と。またその名を嫉む者が巷間に流言を作り、「黒牛が囲いを出れば棕繩が切れる」と歌った。知俊の色は黒く、生まれつき醜かった。棕繩とは、王氏の子孫が皆「宗」「承」の字を名に用いていることから、これをもって罪をでっち上げたのである。偽蜀の天漢元年冬十二月、王建は人を遣わして知俊を捕らえ、成都府の炭市で斬った。王衍が偽位を嗣ぐと、その子嗣禋に偽りの峨眉長公主を娶らせ、駙馬都尉に拝した。後唐同光末、例に従って洛陽に移され、そこで没した。
知俊の族子(同族の子)嗣彬は、幼い頃から知俊に従って征戦し、累進して軍校となった。知俊が叛いた時、その謀議に与っていなかったため、連座を免れた。貞明末、大軍が晋王(李存勗)と徳勝で対峙し、長くに及んだ。嗣彬は数騎を率いて晋に奔り、朝廷の軍機の得失を詳しく述べた。また家世の仇怨があるため、これを報いようとした。晋王は深くこれを信じ、すぐに田宅を厚く与え、さらに錦衣玉帯を賜い、軍中では「劉二哥」と呼んだ。一年ほどして、また(梁に)奔って来た。当時晋人は彼を刺客と思ったが、晋王の恩沢が厚かったため、ひそかに発することはなかった。龍徳三年冬、王彦章に従って中都で戦い、軍は敗れ、晋人に捕らえられた。晋王は彼を見て、笑って嗣彬に謂うには、「そちは我が玉帯を返すがよい」と。嗣彬は恐れおののいて死を請い、ついに誅殺された。
楊崇本
楊崇本は、その出身を知らず、幼くして李茂貞の仮子となり、それゆえに李姓を冒して名を継徽と称した。唐の光化年間、茂貞が彼を邠州節度使に上表した。天復元年冬、太祖(朱全忠)が鳳翔より軍を移して北伐し、旌旗を邠郊に駐め、諸軍に命じてその城を攻撃させた。崇本は恐れ、城を出て降伏を請うた。太祖は再び彼を邠州節度使に任じ、なおかつ本来の姓名に復することを命じた。軍が帰還するに及び、その一族を河中に移した。その後、太祖は軍を統率して往来する際に蒲津を経由し、崇本の妻が元来容色に優れていたため、別館に寵愛した。その婦人は元来剛烈であり、ひそかに恥辱を懐き、侍者を遣わして崇本を責めて言うには、「大丈夫として旌旗と鉞を持ちながら、その配偶者を庇うことができず、私はすでに朱公の婦人となった。今生において卿に対面する面目なく、期することは刀か縄による死のみである」と。崇本これを聞き、ただ涙を流して怒りを抱いた。昭宗が鳳翔より京に戻ると、崇本の家族は邠州に帰ることができた。崇本はその妻が辱められたことを恥じ、これにより再び太祖に背いた。そこで使者を遣わして茂貞に告げて言うには、「朱氏は乱の兆しをなし、唐の国祚を危うくしようと謀っている。父上は国家の磐石である。坐視してその禍を見ることはできず、この時に命を尽くして興復すべきである。事もし成就しなければ、死して社稷のためとすることも可である」と。茂貞はそこで使者を遣わして太原に会兵を求めた。時に西川の王建もまた大将に命じて出師し、これを助けた。岐・蜀連合軍は雍・華を攻め、関西は大いに震動した。太祖は郴王友裕に命じて師を率いさせてこれを防がせたが、友裕が行軍中に卒したため、軍を引き返した。天祐三年冬十月、崇本は再び鳳翔・邠・涇・秦・隴の軍を率い、延州の胡章の衆と合流し、合わせて五六万となり、美原に駐屯し、十五の柵を並べ、その勢いは甚だ盛んであった。太祖は同州節度使劉知俊及び康懐英に命じて師を率いさせてこれを防がせ、崇本は大敗し、再び邠州に帰った。これより後、長く勢力を振るわなかった。乾化元年冬、その子彦魯に毒殺されて死んだ。
彦魯は自ら留後を称し、その軍事を統率した。凡そ五十余日にして、崇本の養子李保衡に殺害された。保衡はその城を挙げて来降し、末帝(朱友貞)は霍彦威を邠帥に命じ、これにより邠・寧は再び末帝の所有となった。
蔣殷
蔣殷は、その出身を知らず。幼くして孤となり、その母に従って河中節度使王重盈の家に嫁ぎ、重盈は彼を憐れみ、養って己が子とした。唐の天復初年、太祖が蒲・陝を平定した後、殷は従兄の珂と共に一族を挙げて大梁に移った。太祖は王重栄の旧恩に感じ、王氏の諸子を皆任用した。殷はこれにより内職を歴任し、累遷して宣徽院使に至った。殷は元来庶人友珪と親しく、友珪が簒奪して即位すると、彼を徐州節度使に命じた。乾化四年秋、末帝が福王友璋を徐方に鎮守させようとした。殷は自らを友珪の党とみなし、交代を受け入れず恐れるところとなり、遂に堅壁を以て命令に抵抗した。時に華州節度使王瓚は、殷の従弟であり、連座を恐れ、上章して殷の本姓は蔣であり、王氏の子ではないと述べた。末帝は詔を下して殷の官爵を削奪し、なおかつ本来の姓に戻すことを命じ、牛存節・劉鄩等に軍を率いさせて討伐させた。この時、殷は淮南に救援を求め、楊溥は朱瑾に命じて衆を率いて来援させたが、存節等が迎撃してこれを破った。貞明元年春、存節・劉鄩が徐州を攻め落とし、殷は一族を挙げて自ら焼死し、火中にその屍を得て、首を梟して献上した。
張萬進
張萬進は、雲州の人である。初め本州の小校となり、亡命して幽州に投じ、劉守光は厚く遇して裨将に任じた。滄州の劉守文は、弟の守光が父を囚えてその位を窃かに占めたため、自ら兵を率いて罪を問うたが、まもなく鶏蘇で敗れた。守光は遂に滄・景の地を併有し、その子継威に留務を主宰させた。継威は幼く、政事を行うことができず、萬進を補佐させ、凡そ軍政に関することは一切を委任した。継威は凶暴で父に似て、嘗て萬進の家で淫乱を働いた。萬進は怒ってこれを殺し、(《通鑑》に云う、乾化二年九月庚子、萬進は使者を遣わして降表を梁に奉った。辛丑、萬進を義昌留後とした。甲辰、義昌を順化軍と改め、萬進を節度使とした。この伝は闕文がある疑いがある。)師厚は彼を青州節度使に上表し、まもなく兗州に遷し、なおかつ名を守進と賜った。萬進の性質は軽薄で危険であり、専ら反逆を図った。貞明四年冬、城を拠りて命令に背き、使者を遣わして晋王に降伏の意を伝えた。末帝は制を下してその官爵を削り、なおかつ本来の名に復し、劉鄩を遣わしてこれを討伐させたが、晋人は救援できなかった。五年冬、萬進は危急に陥り、小将の邢師遇がひそかに内応を謀り、門を開いて王師を迎え入れた。遂にその城を抜き、萬進は族誅された。
史臣曰
史臣が言う。雲雷が屯(困難)を構え、龍蛇が陸に起つ。勢い均しい者は互いに闘い、力敗れた者は先に亡ぶ。故に瑄・瑾・時溥の流れは、皆梁に吞噬された。これも理の常である。ただ瑾は初めに窃発によって領土を得、終わりに窃発によって身を亡ぼした。《伝》に所謂「君これに以て始まる者は、必ずこれに以て終わる」というものか。師範は衰季の運に属し、興復を謀った。事は成らなかったが、忠誠は尚ぶべきである。族滅の禍を遺したとはいえ、また臧洪と地下に遊ぶことができるであろう。知俊は驍勇武略に余りありながら、奔亡に暇なく、六合は大なりといえども、身を容れる所なし。このようであれば、義を以て勇とする者に及ぶだろうか。崇本以下は、皆反逆して滅びた。また何を以て語るに足りようか。