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舊五代史
梁書十二: 宗室列傳二
◎宗室列傳
廣王朱全昱は、太祖の長兄であり、受禪の後に封ぜられた。乾化元年、睢陽に帰還するに際し、内臣を命じて都の外で餞別の礼を行わせた。王は出発して偃師に宿泊し、その子の衡王朱友諒に侍従させて帰郷させた。庶人(朱友珪)が帝位を簒奪すると、宋州節度使を授けられた。貞明二年、卒去した。
朱友諒は、全昱の子であり、初め衡王に封ぜられ、後に廣王を嗣いだ。藩郡を歴任したが、多く不法を行った。弟の友能の謀反に連座し、廃されて京師に囚われた。唐軍が汴に入ると、友能、友誨と同日に害された。
朱友能は、全昱の子であり、惠王に封ぜられ、後に宋・滑二州の留後となった。
朱友誨は、全昱の子であり、邵王に封ぜられた。乾化元年、檢校兵部尚書として控鶴指揮使を充任した。友能の謀反に連座して廃され、後に唐兵に殺害された。
安王朱友寧は、字を安仁といい、幼くして詩礼を学び、長じて兵法を好み、倜儻の風があった。太祖が汴に鎮すると、累ねて軍職を署され、出師の度ごとに多く驍果を統率して従軍させた。秦宗権を擒えた際、太祖は友寧に命じて宗権を監送させ長安に西献させ、詔して檢校右散騎常侍・行右監門衛將軍を加えた。これより軍功を立て続け、累官して檢校司空兼龔・柳二州刺史に至った。太祖が岐下に駐軍した時、友寧に命じて配下の兵を率いて先に梁苑に帰還させ、守禦に備えさせた。時に青州の帥王師範が乱を構え、関東諸鎮の兵が悉く岐・隴にある隙に乗じて密かに挙兵しようとし、斉・魯より華下に至るまで奸党を配置し、皆、委輸貢奉を名目と偽り、密かに淮夷・并門と結好した。折しも青州の者が裴迪の下に赴きその状況を告げたので、迪は事を報告し、友寧は命を待たずに兵万余りを率いて東征した。師範はその弟に兵を遣わして斉州を包囲させた。友寧は兵を引いてこれを救援し、青寇は大敗し、馬四千蹄を奪い、数千級を斬首した。昭宗が長安に帰還すると、朝廷は迎駕の功を議し、友寧は嶺南西道節度使を授けられ、特進・檢校司徒を加えられ、迎鑾毅勇功臣の号を賜った。時に青寇数千が険を越えて潜伏し、兗州に入らんとした。友寧はこれを知り、兗南に伏兵して邀撃し、賊衆を大破して、遂に免れる者は無かった。これより兗州の城壁は危険窮まり、友寧は諸軍を督して進み敵の営兵に迫った。まず博昌県を攻め、一月余り抜けなかった。太祖は怒り、劉捍を遣わして督戦させた。友寧はそこで俘虜の民衆十余万を下し、各々木石を背負い牛驢を牽き、城南に土山を築かせた。到着すると、人畜と木石を合わせて並べて築き、冤枉の声は数十里に聞こえた。間もなく城は陥落し、その邑人を尽く屠り、清河は流れを為さぬほどであった。進んで寇の堡塁に迫り、青人と石楼で戦った時、王師が少し退却すると、友寧は傍らの峻阜より馳せて馬を進めて敵に赴き、乗っていた馬が躓いて倒れ、遂に陣に没した。友寧が戦う前日、大白蛇が帳中に蟠っていたので、友寧は心に嫌ったが、果たして禍に遇ったのである。
密王朱友倫は、幼くして聡明で悟り、筆札を好み、声律に通暁した。長ずると、騎射を好み、経度の智があり、太祖は常にこれを奇とし、「我が家の千里駒なり」と言った。十九歳で宣武軍校となった。景福初年、元從騎軍都將を充任し、間もなく右武衛將軍に表され、次第に軍務を委ねられた。太祖が兗・鄆を征した時、友倫は配下の兵を率いて糧穀を収聚し、軍需を賄った。幽・滄の軍が内黄に至ると、友倫は前鋒として夜に河を渡って賊を撃ち、馬千匹を奪い、多くを擒斬した。兵を引いて八議関に向かった時、突然、晋軍万余騎に出逢い、友倫は兵士を分布させ、多く疑軍を設けた。鼓を鳴らして衆に誓いを立てると、兵士は奮躍し、数十里を追斬した。その後、李罕之が上党を以て帰順を請うたが、晋軍に包囲された。太祖は友倫に歩騎数万を総率させ、険を越えて救応させ、遂に晋軍を大破した。唐朝は檢校司空・守藤州刺史を加えた。天復元年、岐・隴で兵を用いた際、晋人が虚に乗じて北鄙を侵した。友倫は徒兵三万を率いて直ちに礬山に向かい、晋人は塵を見て奔逸した。友倫は氏叔琮らとその轍を追い、太原に追い至り、壘に迫って挑戦し、牛馬万余を獲た。二年、配下の兵を率いて西に赴き鳳翔に至り、前後累ねて戦いを接した。三年、昭宗が長安に帰還すると、制を以て友倫に寧遠軍節度使・檢校司徒を授け、迎鑾毅勇功臣の号を賜った。太祖が東帰するに及び、友倫を留めて京師の宿衛に当たらせた。一年余りの後、賓客と会して撃鞠する中、馬から墜落して卒去した。昭宗は一日視朝を輟め、詔して太傅を追贈し、碭山県に帰葬させた。
開平初年、有司が上言して言うには、「東漢が天命を受けた時、伯升(劉縯)はその始謀に預かり、西周が親を尚ぶ時、叔虞はその封邑を荷った。故に皇兄朱存は、霜露に凋零し、歳時を綿曆し、恩は陟岡(兄弟の死)に及ぶことなく、礼はまさに事日(祭祀)において宏大にすべきである。皇侄故邕州節度使友寧、故容州節度使友倫は、頃に締構(創業)に因り、共に韜鈐を習い、並びに戦功を以て、王事に歿し、永く帯礪を言うに、封崇を議すべきである」。そこで朱存は追封して朗王とし、友寧は追封して安王とし、友倫は追封して密王とした。
郴王友裕、字は端夫、太祖の長子なり。幼より射御に巧み、太祖に従い征伐し、性質寛厚にして、頗る士心を得たり。唐中和年中、太祖並帥李克用と会し華州を攻囲す。賊将黄鄴固守甚だ堅し。俄かに一人有りて城壁に登り大いに罵る。克用北騎に命じて連射せしむるも、終に中つること能はず。友裕に命じて之を射しむれば、弦に応じて斃る。大軍喜びて騒ぎ、声山谷を震わす。克用因りて良弓百矢を遺う。太祖汴に鎮す、表して宣武軍牙校と為す。及び蔡賊殄滅し、朝廷功を議し、検校左僕射を加え、尋いで牙内馬歩都指揮使と為る。景福元年、大軍を総べ徐を伐つ。時に朱瑾兗・鄆の衆を領し、徐戎の外援と為り、彭門南石仏山下に陣す。友裕兵を縦して之を撃ち、斬獲甚だ衆し。瑾残党を領して宵遁す。時に都虞候朱友恭羽書を以て太祖に聞かしめ、友裕を誣り兵を按じて賊を追わずとす。太祖大いに怒り、因りて驛騎に符を伝え、裨将龐師古に命じ友裕に代わり帥と為らしめ、仍りて其の事を按劾せしむ。会に使人誤りて書を友裕に致す。友裕懼れ、遂に数騎を以て山中に遁る。尋いで広王の許に輝州に詣で、以て其の冤を訴う。元貞皇后聞きて之を召すに頼り、身を束ねて汴に帰らしめ、力を尽くして営救す。太祖乃ち之を赦し、権に許州を知らしむ。乾寧二年、検校司空を加え、尋いで武寧軍節度留後と為る。四年、太祖東平を下し、天平軍留後に改め、検校司徒を加う。光啓元年、再び許州を領す。天復初、奉国軍節度留後と為る。太祖兼ねて河中を鎮す、友裕を以て護国軍節度留後と為し、尋いで華州節度使に遷し、検校太保・興徳尹を加う。天祐元年七月、兼ねて行営都統と為り、歩騎数万を領し、邠・岐を経略す。十月、友裕疾有り、将校乃ち旋師を謀る。尋いで梨園に卒す。東京に帰葬す。開平初、追贈して郴王とす。乾化三年、又太師を贈る。
博王友文、本姓は康、名は勤、太祖養いて以て子と為す。受禅後王に封ぜらる。東京留守と為り、酒を嗜み、頗る政を為すに怠る。友珪弑逆し、並びに友文を殺す。末帝即位し、尽く官爵を復す。
友珪、小字は遙喜、母は其の姓を失う、本は亳州の営妓なり。唐光啓中、帝地を徇うて亳州に至り、召して侍寝せしむ。月余り、将に之を捨てて去らんとす。娠を告ぐ。是の時、元貞皇后賢にして寵有り、帝素より之を憚る。由りて果たして携え大梁に帰らず、因りて亳州に留め、別宅を以て之を貯う。期に及び、妓男を生むを以て来告す。帝喜び、故に之に字して遙喜と曰う。後汴に迎え帰す。受禅後郢王に封ぜらる。開平四年十月、検校司徒、左右控鶴都指揮使を充て、兼ねて四蕃将軍を管す。乾化元年、諸軍都虞候を充つ。二年、太祖を弑し位を簒う。均王兵を以て之を討つ。自殺す。追廃して庶人と為す。(『五代会要』に云う、郢王友珪、開平元年五月九日封ぜられ、乾化二年六月三日位を簒い、偽りに鳳暦元年と改む。三月十七日、京城軍乱し、侍衛袁象先兵を率いて宮に入る。友珪自殺す。少帝即位し、追削して庶人と為す。又載す、周広順中、張昭実録を修め、奏して云う、梁末帝の上に、郢王友珪有り、簒弑して位に居るも、未だ記録有らず。請う『宋書』劉劭の例に依り、書して「元凶友珪」と為さんと。案ずるに『梁実録』今考うる無し。)
福王友璋、太祖第五子、受禅後封ぜらる。賀王友雍、太祖第六子、受禅後封ぜらる。建王友徽、太祖第七子、受禅後封ぜらる。
康王友孜、太祖第八子、末帝即位後封ぜらる。反を以て誅せらる。