舊五代史

梁書十五: 列傳五 韓建 李罕之 馮行襲 孫德昭 趙克裕 張慎思

韓建

韓建、字は佐時、許州長社の人である。父の叔豐は、代々牙校を務めた。初め、秦宗権が蔡州を占拠した時、亡命者を招き集め、韓建はその軍士に隷属し、累転して小校に至った。唐の中和の初め、忠武監軍楊復光が蔡において兵を起こすと、宗権はその将鹿宴宏を派遣してこれに赴かせ、韓建は里人の王建と共に宴宏の軍に隷属し、京師を救援に入った。賊が平定されると、復光は急死した。時に僖宗はしょくに在り、宴宏は配下の軍を率いて行在所に赴いた。路は南山を出で、郡邑を攻撃掠奪し、興元を占拠した。宴宏は自ら留後となり、韓建を蜀郡刺史とした。唐の軍容使田令孜は密かに人を遣わして韓建を誘い、厚利を以て啗い、韓建は時に宴宏に併呑されることを恐れ、乃ち配下の軍を率いて行在所に帰順し、令孜はこれを神策都校・金吾将軍に補任し、潼関防禦使兼華州刺史として出させた。河・潼は大寇を経た後、戸口は流散し、韓建は荊棘を払い、汚萊を開墾し、農事を勧め課し、蔬果を植え、閭裏に出入りし、親しく疾苦を問い、数年を経ずして、流亡は悉く回復し、軍民は充実した。韓建は元来書を識らず、郡を治める暇に、日々学習を課した。人を遣わして器皿・床榻の上に各々その名を題させ、韓建はそれを見て既に熟すれば、乃ち漸く文字を通ずるに至った。俄かに華商節度・潼関守捉等使に遷り、累加して検校太尉・平章事となった。

乾寧二年、韓建は鳳翔の李茂貞・邠州の王行瑜と兵を挙げて闕に赴き、昭宗に迫って王珙を河中帥とせんことを請い、大臣を都下にて害した。河中の王珂は晋軍を召して援と為し、晋軍が河を渡ると、昭宗は石門に幸した。三年四月、昭宗は延王・通王を遣わして禁兵を率い李茂貞を討たせたが、茂貞に敗れ、車駕は渭橋に幸した。翌日、富平に次ぎ、将に河中に幸せんとしたところ、韓建は表を奉って駕を迎え、俄かに自ら渭北に至り、東幸を懇乞し、許された。七月十五日、昭宗は華下に至り、百官士庶相継いで至った。韓建は尋ねて兼中書令を加えられ、京畿安撫製置等使を充て、又京兆尹・京城把截使を兼ねた。昭宗は久しく華州に在り、宮掖に還ることを思い、毎に花朝月夕、西溪に遊宴し、群臣と属して詩歌を詠じ、歔欷して涕を流した。韓建は毎に従容として奏して曰く、「臣は陛下の為に大内を修営し、諸侯に信を結び、一二年の間、必ず興復を期す」と。乃ち韓建を以て兼ねて修創京城使を領せしめ、韓建は自ら華より役を督し輦運工作し、復た大明宮を治めた。

四年二月、韓建に詣でて睦王以下八王が韓建を謀殺せんとすと告ぐる者有り、韓建は八王を別宅に囚え、随駕殿後軍二万人を放散し、捧日都頭李筠を殺した。此より天子益々微となり、宿衛の士尽きた。八月、韓建は兵を以て十六宅を囲み、通王以下十一王並びに石堤穀にて遇害され、謀逆を以て聞こえた。又太子詹事馬道殷・将作監許岩士を害し、宰相朱樸を貶し、皆昭宗の寵昵する者なり。韓建は尋ねて同州節度使を兼ねた。光化元年、華州を興徳府に昇格し、韓建を以て尹と為す。八月、車駕は京に還る。九月、冊拝して太傅と為し、許国公に進封し、並びに鉄券を賜う。

天復元年十一月、宦官韓全誨は天子を迫って鳳翔に幸せしめ、韓建も亦其の謀に預かる。太祖之を聞き、自ら河中より軍を引きて西す。前鋒同州に至るや、韓建の判官司馬鄴城ぎょうじょうを以て降り、遂に軍を移して華州を迫る。韓建懼れて降を乞う。太祖は君を脅かす罪を以て責む。韓建は拜伏して従事李巨川の謀なりと称す。太祖即ち巨川を誅す。(『北夢瑣言』に曰く、韓建曰く「某は字を識らず、凡そ朝廷の章奏・鄰封の書檄、皆巨川之を為す」と。因りて之を斬る。『新唐書・李巨川伝』に云う、巨川は軍門に詣でて款を納れ、因りて当世の利害を言う。全忠の属官敬翔は文翰を以て左右に事え、巨川を用いば則ち全忠の己を待つこと或いは衰えんことを疑い、乃ち詭説して曰く「巨川は誠に奇才なり、顧みるに主人に利あらず、若何」と。是の日、全忠之を殺す。)太祖と韓建とは素より軍中に昆弟の契り有り、及び見るや、其の怒り驟に息み、尋ねて表して韓建を許州節度使と為す。昭宗東遷するに、韓建を以て佑国軍節度使・京兆尹と為す。車駕陝に至り、太祖と韓建を召して宴に侍らしむ。宮妓楽を奏す。何皇后觴を挙げて以て太祖に賜う。韓建足を躡めば、太祖遽に起ちて曰く「臣酔いて任に堪えず」と。偽りに顛仆せんとす即ち去る。韓建私かに太祖に謂いて曰く「上は宮人と附耳して語り、幕下に兵仗の声有り、恐らくは王を図らんとす」と。天祐三年、青州節度使に改む。及び禅を受くると、征して司徒しと・平章事と為し、諸道塩鉄転運使を充てる。開平二年、侍中を加え、建昌宮使を充てる。三年、洛に於いて郊祀し、韓建を以て大礼使と為す。韓建は上宰たり、毎に謁見するに、時に直言有り。太祖は性剛厳たり、群下将迎に暇あらず、韓建を待つこと稍く異なり、故に優容す。九月、冊拝して太保と為し、政事を知るを罷む。(『五代会要』に曰く、開平三年十月、詔して曰く、太保韓建は、每月旦・十五日に閣に入り賀を称するは、即ち朝参に赴かしめ、余時は見に入ることをせしめず。優礼を示すなり。)四年三月、匡国軍節度使・陳許蔡観察使を除し、仍って中書に令して除替を議せしめず。(『五代会要』に曰く、乾化元年正月、敕す、許昌は雄鎮たり、太保韓建は、朕用いて政を布かしむ、民は耕し盗は止み、久しく其の位に居らしむれば、庶幾くは残を勝つべし。宜しく中書門下に令し、年月を計らず、替を議せしむること勿れ。)乾化二年六月、朝廷新たに内難有り、人心動揺す。部将張厚因りて乱を起こし、韓建を衙署にて害す。時に年五十八。

子の従訓は、昭宗華に在りし時に太子侍学を授けられ、文礼と名を賜い、尋ねて屯田員外郎を拝す。国初に都官郎中と為り、紫を賜う。年未だ弱冠に満たず。時に朝廷従訓を命じて国哀を陳・許に告げしむ。二日に至り軍乱し、韓建と並びに命を斃す。乾化三年、太師を追贈す。

李罕之

李罕之は陳州項城の人である。父の李文は代々農家であった。罕之は拳勇にして軽捷、力は数人分を兼ねる。少時に学んで儒を為さんとしたが成らず、また落髪して僧となったが、その無頼ぶりのために、至る所で容れられなかった。かつて酸棗県にて乞食したが、朝から夕方まで、これに与える者なく、ついに鉢を地に擲ち、僧衣を毀棄し、亡命して盗賊となった。時に黄巢が曹・濮に起こると、罕之はこれに乗じて徒党を合わせて掠奪を行い、次第に首領となった。賊の黄巢が江を渡ると、罕之は兵を率いて賊に背き唐に帰順し、高駢はその功を録して、光州刺史に表した。一年余りして、蔡賊の秦宗権に侵迫され守ることができず、郡を棄てて項城に帰り、余衆を収め合わせ、河陽の諸葛爽に依った。爽はこれに署して懐州刺史とした。光啓初年、僖宗は爽を東南面招討とし、宗権を撃たしめた。爽は乃ち罕之を副と表し、兵を率いて宋州に屯せしめた。蔡寇の凶焰日々に熾んじ、兵鋒は敵わなかった。中和四年、爽は罕之を河南尹・東都留守に表した。この年、李克用が上源の難を脱し、軍を収めて西に帰る途中、洛陽らくようを経由した。罕之は迎え謁し、供帳・館待ことのほか優厚で、これにより克用と厚く結び託した。時に罕之は三千の衆を有し、聖善寺を府とした。光啓元年、蔡賊の秦宗権が将の孫儒を遣わして来攻した。罕之は数ヶ月対塁したが、兵少なく備え竭きたため、城を委ねて遁走し、西に澠池を保った。蔡賊は京城を占拠すること一月余り、宮闕を焚焼し、居民を剽剥した。賊が退去した後は、煨燼と化し、寂として鶏犬の音も無かった。罕之は再びその衆を引き、市の西に塁を築いた。

明年の冬、諸葛爽が死ぬと、その将の劉経は爽の子の仲方を推して帥とした。経は罕之の制し難きを懼れ、自ら兵を引いて洛陽を鎮めた。罕之の部曲に李瑭・郭璆という者がおり、情相葉わず、互いに図り害さんとした。罕之は怒り、璆を誅した。軍情はこれにより和睦せず、劉経はその間に乗じ、澠池において罕之を掩撃した。軍乱れ、乾壕を保った。経は急ぎこれを攻めたが、罕之に敗れ、罕之は勝に乗じて洛陽まで追撃した。時に経は敬愛寺を保ち、罕之は苑中の飛龍廄を保った。罕之はその衆を激勵して敬愛寺を攻め、数日後、風に因って火を放ち、ことごとくこれを燔いた。経の衆は奔竄し、追撃斬殺すること殆んど尽きた。罕之は河陽に進逼し、鞏県に営し、汜水に舟を陳べて渡らんとした。諸葛仲方は将の張言に師を率いさせて河上で拒ませた。時に仲方は年幼く、政は劉経に在り、諸将の心多く附かず。張言は密かに罕之と修好した。経はその謀を知り、言は懼れて衆を引き渡河し、罕之に帰した。これにより勢を合わせて河陽を攻めたが、経に敗れ、罕之は言とともに懐州に退いて保った。冬、蔡将の孫儒が河陽を陥とした。仲方は軽舟に泛って来奔し、孫儒は遂に自ら節度使を称した。やがて蔡賊が我が軍に敗れ、孫儒は河陽を棄てて蔡に帰った。罕之と言はその衆を収め合わせ、太原に援を求め、李克用は沢州刺史の安金俊に騎兵を率いさせてこれを助けさせ、遂に河陽を収めた。克用は罕之を節度・同平章事に表し、また言を河南尹・東都留守に表した。罕之は既に言と患難を交わし契り、臂を刻んで盟し、永く休戚を同じくせんと、張耳・陳餘の義の如くであった。罕之は胆決有るも、雄猜にして翻覆し、民を撫し衆を禦する方略無く、率ね苛暴多く、性また貪冒にして、士心を得られなかった。河陽を得てより、兵を出して晋・絳を攻めた。時に大乱の後、野に耕稼無く、罕之の部下は俘剽を資とし、人を啖って食と作した。絳州刺史の王友遇は城を以て降り、罕之は乃ち進んで晋州を攻めた。河中の王重盈は使を遣わして太祖に援を求めた。時に張言は軍を治むるに法有り、善く積聚し、播植に勤めて、軍儲乏しからず。言は粟を罕之に輸送してその軍に給したが、罕之の求索限り無く、言は頗るこれを苦しみ、力応える能わず。罕之は則ち河南府の吏を録して笞責した。東の諸侯が行在に貢を修めるも、多くは罕之に邀留され、王重盈はその侵削を苦しみ、密かに張言と結んでこれを図らんことを請うた。文徳元年春、時に罕之がその衆を尽く出して平陽を攻めている隙に、言は夜に師を出して河陽を掩撃した。罕之は備え無く、単歩にして僅かに免れ、挙族言に俘獲された。罕之は太原に奔り、李克用は沢州刺史に表し、仍って河陽節度使を領せしめた。三月、克用はその将の李存孝に師三万を率いさせてこれを助け、来たりて懐・孟を攻めさせた。城中食尽き、備皆竭きた。張言はその妻子を入質とし、且つ太祖に救を求めた。太祖は葛従周・牛存節をこれに赴かせ、流河店において逆戦した。時に晋将の安休休が一軍を率いて蔡に奔り、存孝は軍を引いて退き、罕之は沢州に保った。これより以降、罕之は日々に兵を以て懐・孟・晋・絳を寇鈔し、数百里の内、郡邑に長吏無く、閭裏に居民無し。河内の百姓は相結んで屯寨し、或いは出でて樵汲するも、即ち俘馘と為された。奇峰絶磴たるも、梯危架険すれども、亦た罕之の部衆に攻め取られた。先に、蒲・絳の間に摩雲という山有り、邑人はその上に柵を立てて寇乱を避けていた。罕之は百余りをもってこれを攻め落とし、軍中に因って号して罕之を李摩雲と称した。これより数州の民は屠啖すること殆んど尽き、荊棘野を蔽い、煙火断絶すること凡そ十余年であった。

乾寧二年、李克用は師を出して邠・鳳を拒ぎ、渭北に営した。天子は克用を邠州行営四面都統とし、克用は乃ち罕之を副と表した。王行瑜を誅するに及び、罕之は功を以て検校太尉を授かり、食邑千戸となった。罕之は自ら功多しとし、私かに晋将の蓋寓に謂いて曰く、「余は河陽を失守してより、巨蔭に来たり依ってより、歳月滋しく久しく、功效未だ施さず。比年以來、師旅に倦み、所謂る老夫耄たり、能く為すこと無し。吾が王の仁湣、太傅の哀憐を望み、一小鎮を与え、兵を休め疾を養わしめ、一二年の間即ち老いて菟裘に帰らしめば、幸いなり」と。寓はこれを言上したが、克用は答えなかった。藩鎮に帥を欠く毎に、議する所及ばず、罕之は私心鬱鬱たり。蓋寓は他の図りを懼れ、亟にこれを論じた。克用曰く、「吾が罕之に於いて、豈に一鎮を惜しまんや。吾が罕之を有つは、亦た董卓の呂布を有つが如し。雄なれば則ち雄なり、鷹鳥の性、飽けば則ち颺去す。実に翻覆して余を毒するを懼るるなり」と。

光化元年十二月、晋の潞帥の薛誌勤が卒す。罕之はその喪に乗じ、沢州より衆を率いて径ちに潞州に入り、自ら留後を称し、状を以て克用に聞えて曰く、「誌勤の喪を聞き、新帥未だ至らず、他盗に窺われるを慮り、命を俟たず、已に潞に屯せり」と。克用怒り、李昭嗣を遣わしてこれを討たしめた。罕之はその守将の馬溉・伊鐸・何萬友、沁州刺史の傅瑶等を執り、その子の顥に拘送させて太祖に援を求めた。(《新唐書》:全忠、罕之を昭義軍節度使に表す。)時に罕之は暴病し、視事することができなかった。明年六月、病篤く、太祖は丁会にこれを代わらせ、罕之を河陽節度使に移した。行くこと懐州に至り、伝舍にて卒す。時に年五十八。その子の顥は舟を以て柩を載せ、河陰県に帰葬した。開平二年春、詔して中書令を贈られた。

馮行襲

馮行襲、字は正臣、武當の人である。歴任して本郡の都校となった。中和年間、僖宗が蜀に在り、賊の首領孫喜という者が、数千の徒を集めて武當に入らんとし、刺史呂煜は惶駭して策略無し。行襲は勇士を江南に伏せ、小舟に乗って喜を迎え、喜に謂う、「郡人は良牧を得て、衆心帰す。但だ兵多きを縁り、民は擄掠を懼る。若し軍を江北に駐め、肘腋を率いて之に赴き、某をして前導せしめ、以て士民を安慰せば、立定すべし」と。喜然り之。既に江を渡り、軍吏迎謁す。伏甲奮起し、行襲喜を撃ちて地に仆し、剣を仗って之を斬る。其の党尽く殪え、賊衆江北に在る者は悉く奔潰す。山南節度使劉巨容功を以て上言し、尋いで均州刺史を授く。州西に長山有り、襄・漢・蜀の路に当たり、群賊屯拠し、以て貢奉を邀劫す。行襲又之を破る。洋州節度使葛佐奏して行軍司馬に辟き、兵を将いて穀口を鎮め、秦・蜀の道を通ぜしめんと請う。是に由り益々知名となる。李茂貞養子継臻を遣わし金州を窃拠せしむ。行襲之を攻め下し、因りて金州防禦使を授く。時に興元の楊守亮京師を襲わんとし、道は金・商に出ず。行襲逆撃し、大いに之を破る。詔して金州を節鎮に昇し、戎昭軍を以て額と為し、即ち行襲を節度使と為す。

太祖の義旗西征するに及び、行襲は副使魯崇矩を遣わし制令を稟受せしむ。時に唐昭宗鳳翔に幸す。太祖師を帥いて奉迎す。久しくして未だ出でず。中尉韓全誨中官郤文晏等二十余人を遣わし分命し詔を矯り、江・淮の兵を征して金州に屯め、以て太祖の軍を脅かさんとす。行襲策を定めて之を尽く殺し、其の詔敕を収めて太祖に送る。天祐元年、洋州節度使を兼領す。太祖の荊・襄を伐つに、行襲其の子勖をして舟師を以て均・房に会せしめ、復収の功に預かり、匡國軍節度使に遷る。任に到り、大吏張澄を誅し、其の罪を暴く。州人惴懾せざる莫し。許に在ること三年、上供の外、別に助軍羨糧二十万石を進む。太祖郊禋するに及び、行襲入覲を請い、巨万を貢献す。恩礼殊に厚し。尋いで詔して翰林学士杜曉に徳政碑を撰せしめて之を賜う。累官して中書令を兼ね、冊して司空しくうを拝す。開平年中に卒す。朝を輟むこと一日、太傅を贈り、諡して忠敬と曰う。

行襲性厳烈にして、政を為すに深刻なり。然れども至る所に天幸有り。境内嘗て大蝗有り、尋いで群鳥啄食し、害と為さず。民或いは艱食すれども、必ず穭穀有り、壟畝より出づ。威福己に在りと雖も、而も恒に力を竭くして王室に奉ず。故に能く其の功名を保つ。行襲魁岸雄壮にして、面に青誌有り。当時目して「馮青面」と為す。

長子勖は、蘄・沁二州刺史を歴任す。次子徳晏は、仕えて金吾将軍に至る。

孫徳昭

孫徳昭は、塩州五原県の人、世々州校を為す。父惟晸は、唐朝に功有り、遙かに荊南節度を領し、右神策軍事を分判す。徳昭は父の蔭に藉り、累職して右神策軍都指揮使と為る。光化三年、唐昭宗閹宦に廃せられ、王を立てて徳とす。時に中外権の禁闥に在るを以て、能く討致する莫く、近藩朋附し、章表継ぎて至る者有り。丞相崔胤は、外に太祖と輔佐の好を申結し、内に心腹を遣わし密かに忠義を講ず。事を以て徳昭に諭す者有り、徳昭感慨し、乃ち本軍の孫承誨・董従実の三人と、奮発応命し、返正を図らんことを誓う。崔又衣を割き手筆を以て其の志を通ず。

天復元年正月一日未だ旦ならず、逆豎左軍容劉季述早く入る。徳昭は甲を伏せ要路に俟ち、其の前駆を追い、邀えて之を斬る。孫承誨等は分かって左軍容王仲先の党伍を捕う。唐昭宗方に東内に幽辱せられ、外の喧しきを聞きて大いに恐る。徳昭馳せ至り、閣を扣いて曰く、「逆賊劉季述伏誅せり。上皇に請う鑰を開き皇帝位に復せん」と。皇后何氏呼んで曰く、「汝進みて逆人の首をせよ、門乃ち開くべし」と。俄にして承誨・従実俱に馘を以て献ず。昭宗悲しみて之を嘉す。是に於いて丞相崔胤奉迎して丹鳳楼に御し、百辟を率いて罪に待ち、泣き且つ奏して曰く、「臣大位に居りて奸を討つ能わず。東平王全忠の首めて忠貞を奮うに頼り、邸吏を誅殺し、遂に徳昭等をして妖逆を擒戮せしめ、再び禁闈を清めしむ」と。即日に功を議し、徳昭を検校太保・静海軍節度使と為し、承誨は邕州節度使、従実は容州節度使と為し、並びに同平章事とし、姓を李に錫い、号を扶傾済難忠烈功臣と賜い、形を凌煙閣に図し、俱に京師に留む。錫賚宴賞の厚きこと、恩寵権幸の勢、近代比ぶる罕なり。

其の年十一月、閹宦韓全誨火を放ちて昭宗を脅し西に幸して鳳翔せしむ。承誨・従実並びに変節し、中官に誘われ、始めて百僚を駆擁し、将に出令を図らんとす。而して徳昭独り兵を按じ、太祖の親吏婁敬思と葉力して丞相及び文武百官を衛い、長安ちょうあんの吏民と街東に保ち、劫掠せらるるを免る。太祖従事を遣わし相継ぎて労問し、龍鳳剣・闘鶏紗を遺し、製輯を委令す。是に於いて百官華州に次ぎ、連状して太祖の迎奉を請う。大旆関に入るに及び、徳昭は軍礼を以て上謁し、道左に立つ。太祖左右を命じて騎を扶け控えて長安に至らしめ、賜与甚だ厚く、権知同州節度留後に署す。将に赴任せんとし、復た民の請いに徇い、留めて両街製置使に充て、銭百万を賜う。徳昭は本部の兵八千人を以て太祖に献ず。是に由り愈々賞重く見え、又甲第一区を賜い、先ず洛陽に還らしむ。昭宗東遷するに及び、奏して左威衛上将軍を授く。疾を以て免ぜられ、別墅に帰る。太祖禅を受く。左領衛上将軍を以て闕に征赴せしむ。開平四年、左金吾大将軍を拝し、街使を充つ。末帝即位し、命を将いて両浙にせしめんとす。対見に儀を失い、果たして行かず。尋いで右武衛上将軍に改授し、俄に復た左金吾大将軍と為す。官に卒す。詔して太傅を贈り、視朝を輟むこと一日。

天復初め、徳昭と孫承誨・董従実は返正の功を以て、時人呼んで「三使相」と為し、恩澤俱に世に冠たり。承誨鳳翔に至り、名を改めて継誨と為し、従実は名を改めて彦弼と為し、皆李茂貞に養わる。後閹官の敗るるに及び、俱に京師に戮せらる。惟だ徳昭克く終始を全うし、称する所有りと云う。

趙克裕

河陽の人である。祖父、父ともに軍吏であった。克裕は若くして牙将となり、書を好み、儀範を謹み、牧伯は皆これを奇遇として遇した。累ねて右職に居り、抜擢されて虎牢関使となった。光啓年中、蔡寇が河陽を陥落させると、克裕は率いる所部を率いて太祖に帰順し、宣義軍に隷属した。太祖が東征して徐・鄆を討つに当たり、克裕は屡々指顧を受け、意に如かざることはなかった。数年の中に、亳・鄭二州刺史を継いで領した。時に関東の藩鎮は蔡寇に毒され、黎元は流散し、互いに保つことができなかったが、克裕は農戦の備えに妙を得、また綏懐に善くし、民はこれに頼って安寧を得る者が多かった。太祖は表して河陽節度使・検校右僕射とし、尋いで許田に移って治め、入朝して金吾衛大將軍・検校司空となった。太祖が元帥となると、克裕を元帥府左都押衙とし、また六軍を統率させた。兗州平定後、命じて泰寧軍留後を権知させた。数ヶ月後、暴疾に罹って卒した。開平初年、太保を追贈された。

張慎思

張慎思は清河の人である。黄巢の軍より来帰し、累ねて軍職を授けられ、諸軍都指揮使を歴任した。従って黄巢・蔡・兗・鄆を平定し、皆功を著わし、表して検校工部尚書兼宋州長史を授けられた。光化年中、検校右僕射を加えられ、権知亳州となった。天復三年、昭宗が長安に還ると、太祖に従って迎駕の功により、迎鑾毅勇功臣の号を賜り、尋いで汝州防禦使に除せられた。天祐元年、左龍武統軍を授けられた。その冬、許州匡國軍節度使に除せられた。明年十一月、徐州武寧軍両使留後を権知した。太祖が禅を受けると、入朝して左金吾大將軍となった。開平二年、宋州刺史に除せられたが、未だ幾ばくもなく、また左金吾大將軍に拝された。三年冬、蔡州刺史に除せられたが、貨を貪り大いに民情を失い、詔して闕に追赴させた。未だ幾ばくもなく、扈従して北征より還り、疾を以て洛陽の私第に臥した。家を治めるに厳ならず、その子にしいせられた。

史臣曰く、韓建は唐朝の衰運に遇い、潼関の要地に拠りながら、王室を藩屏することができず、翻って宗枝を斫喪することを務め、俗を阜くする能はあれども、不臣の咎を補うに何ぞ補わん。罕之はぎょう雄の気を負い、向背の謀を蓄え、武皇これを呂布に比す、斯れ人を知るというものなり。行襲は納忠の節を励まし、德昭は反正の功を立て、俱にその終わりを善くす、固より其れ宜なるかな。克裕以下は、譏るべきこと無しとすべし。