二月庚戌、中和節、崇勳殿に御し、丞相・大学士・河南尹を召し、略く封じ訖り、万春門外の廡に於いて酒食を賜う。《五代会要》に、二月、故魏博節度使羅宏信を追封して趙王と為すとあり。癸丑、勅して曰く、「今載春寒頗る甚だしく、雨澤仍て愆る。司天監占うに夏秋必ず多く霖潦有らんとす。宜しく所在の郡県に令して百姓に告諭し、淫雨の患に備えしむべし。」庚申、宣威殿に御して宴を開き、丞相及び文武の官属咸く召されて列侍し、竟日にして罷む。壬戌、帝将に北境を巡按せんとす。中外戒厳す。詔して河南尹・守中書令・判六軍事張宗奭を以て大内留守と為す。中書門下奏す、文武の官に差定し、務を領し尤も切に宜しく駕に扈すべき者三十八人。詔して工部尚書李皎・左散騎常侍孫騭・右諫議大夫張衍・兵部侍郎劉邈・兵部郎中張俊・光禄少卿盧秉彝並びに令して蹕に扈せしむ。甲子、洛師より発し、夕に河陽に次す。《通鑒》に云う、白馬屯に至り、従官に食を賜う。多く未だ至らず、騎を遣わして之を路に趣わしむ。左散騎常侍孫騭・右諫議大夫張衍・兵部郎中張俊最も後く至る。帝命じて撲殺せしむと。乙丑、温県に次す。丙寅、武陟に次す。懐州刺史段明遠境上に迎拝す。其の内外の備えし所、咸く豊かに霈たり。丁卯、獲嘉に次す。戊辰、衛州の新郷に次す。己巳、晨に衛州を発し、夕に淇門に止まる。内衙十将使十指揮の兵士を以て行在に至らしむ。辛未、黎陽に駐蹕す。癸酉、黎陽より発し、夕に内黄に次す。甲戌、昌楽県に次す。丁丑、永済県に次す。青州節度使賀徳倫奏す、兵士を統領して歴亭の軍前に赴く。戊寅、貝州に至る。四丞相及び学士李琪・盧文度・知制誥竇賞等十五人を命じて扈従せしめ、其の左常侍韋戩等二十三人をして止まらしむ。己卯、貝州より発し、夕に野落に駐蹕す。
三月庚辰朔、棗強県の西城に次す。《通鑒》に、辛巳、下博の南に至り、観津塚に登る。趙将符暕数百騎を引きて巡邏す。是れ帝なるを知らず、遽かに前ちて之を逼る。或る者告げて曰く、「晋兵大いに至れり!」帝行幄を引き、亟に兵を引きて棗強に趣い、楊師厚の軍と合すとあり。丙戌、鎮・定諸軍招討使楊師厚棗強県を下すを奏す。車駕即日疾駆して南還す。丁亥、復た貝州に至る。庚寅、楊師厚副招討李周彝等詔に准じて来朝す。辛卯、詔して丞相・翰林六学士・文武の従官・都招討使及び諸軍の統指揮使等を、行殿に於いて食を賜う。壬辰、羊酒等を以て各々従官に賜うを命ず。甲午、貝州の東闉に幸して武を閲す。乙未、帝復た東闉に幸して騎軍を閲す。勅して棗強県を攻め下すに功有る将校杜暉等一十一人を以て、並びに超えて検校官を加え、衙官宋彦等二十五人並びに超えて軍職を授けしむ。丙午、済源県に次す。詔して曰く、「淑律将に遷らんとし、亢陽頗る甚だし。宜しく魏州に令して官を差し龍潭に祈祷せしむべし。」戊申、詔して曰く、「雨澤期に愆り、祈祷未だ応ぜず。宜しく宰臣をして各々魏州の霊祠に於いて精しく祈祷を加えしむべし。」《五代会要》に、三月、詔して曰く、「夫れ邦国を隆興するは、必ず人民に本づく。疲羸を恵養するは、凡そ令長に資る。苟も選求の濫を逾ゆれば、固より撫理の乖違なり。聞く所に拠れば、吏部官を擬し、中書除授するに、或いは親旧の請う所に縁り、或いは勢要の幹う所と為り、姑く私情に徇い、才実を求めず。茲の蠹弊を念い、宜しく条章を挙ぐべし。今後応に中書の用人及び吏部の注擬するは、並びに宜しく身の才業を省籓し、為政の否臧を験し、必ず観る可き有らば、方に任用すべし。如し尚お請説を行い、猶お貨財を仮る有らば、其の司の人吏、必ず当に推窮し、重く懲断を加うべし。」
四月己酉、魏州に幸す。金波亭に於いて、宰臣・文武官及び六学士に宴を賜う。甲寅の夕、月心の大星を掩う。丙辰、勅す。「近く星辰度に違う。式に修禳に在り。宜しく両京及び宋州・魏州に令して此の月より五月に至るまで屠殺を禁断せしむべし。仍て各々仏寺に於いて道場を開建し、以て福応を迎えしむべし。」己未、黎陽県に次す。《通鑒》に、乙卯、博王友文来朝し、帝に東都に還るを請う。丁巳、魏州を発す。己未、黎陽に至り、疾を以て淹留す。東都留守の官吏表を奉じて起居す。丞相・従官に酒食を賜うこと差有り。己巳、東都に至る。博王友文新たに食殿を創るを以て上言し、並びに準備内宴の銭三千貫・銀器一千五百両を進む。辛未、食殿に於いて宴し、丞相及び文武の従官等を召して侍らしむ。帝九曲池に泛ぶ。御舟傾く。帝池中に墮溺す。宮女侍官扶持して登岸し、驚悸久し。制を加えて建昌宮使・金紫光禄大夫・検校司徒・開封尹・博王友文を特進・検校太保と為し、開封尹を兼ね、前の如く建昌宮使に依り、東都留守を充てしむ。戊寅、車駕東京より発し、夕に中牟県に次す。
五月己卯朔、従官文武は丞相以下より、並びに行殿に詣でて起居し、親王及び諸道の藩帥は咸く表を奉じて来上す。庚辰、鄭州より発し、滎陽に至る。河南尹魏王宗奭は塵を望み迎え拝す。河陽留後邵贊・懐州刺史段明遠等は邐迤として来迎す。夕べに汜水県に次ぐ。帝は魏王宗奭を召し入対せしめ、便ち御前に於いて食を賜い、数刻にして乃ち退く。壬午、汜水に駐蹕す。宰臣・河南尹・六学士は並びに内殿に於いて起居す。建昌宮の事を宰臣于兢に委ねて之を領せしむるを敕す。《五代会要》に曰く、其の年六月、建昌宮を廃し、河南尹魏王張宗奭を以て国計使と為す。凡そ天下の金穀兵戎旧に建昌宮に隷する者は、悉く之を主とす。癸未、帝は汜水より発す。宣令して邵贊・段明遠をして各おの理むる所に帰らしむ。午に任村屯に憩い、夕べに孝義宮に次ぐ。留都の文武礼部尚書孔続以下は道左に迎え拝す。偃師に次ぐ。甲申、都に至る。文武の臣は東郊に於いて奉迎す。渤海は使いを遣わして朝貢す。宰臣薛貽矩は恙を抱え仮に在り、扈従するに克たず。宣問は旁午す。仍ち命じて且く東京に駐まり以て良く愈ゆるを俟たしむ。及び薨ずるや、帝は震悼すること頗る久し。雒苑使曹守璫を命じて往き弔祭せしむ。又た六日・七日・八日の朝参を輟むるを命じ、丞相・文武は並びに上閣門に詣で名を進めて奉慰す。丁亥、彗星の謫見するを以て、詔して両京の見禁の囚徒、大辟の罪以下を、遞減一等せしめ、三日を限り内に疏理し訖りて聞奏せしむ。《五代会要》に曰く、彗星は霊台の西に見え、五月に至り始めて赦を降し罪を宥し、以て天譴に答う。又た云う、五月壬戌の夜、熒惑心の大星を犯し、心を去ること四度、順行す。司天奏す、「大星は帝王の星なり。修省すべし以て天譴に答うべし」と。詔して曰く、「生育の人、爰に暑月に当たり、乳哺の愛、方に薰風に及べり。儻し刲屠に肆意せば、豈に長養に恩を推さんや。殄暴無からしめ、以て発生を助けしむべし。宜しく両京及び諸州府に令し、夏季内に屠宰及び採捕を禁断せしむべし。天民の窮は、諒や賦分に由る。国章の在る所も、亦た仁を興すを務むべし。所在の鰥寡孤独・廃疾不済の者は、長吏に委ねて量りに賑恤を加えしむ。史に枯を葬るを載せ、軫恤を彰すに用う。礼に骼を掩うを称し、将に和平を致さんとす。応に兵戈の地に、暴露の骸骨有らば、所在の長吏に委ねて人を差し専ら収瘞せしむ。国癘の文は、尚ほ七祀を標す。良薬の市も、亦た三医を載す。無告の人を憐れむに用い、喜有の術を征すべし。凡そ疫有るの処は、長吏に委ねて医方を検尋し、要路に於いて曉示せしむ。如し家に骨肉無く兼ねて困窮不済の者有らば、即ち仰せて長吏医を差し薬を与えて救療せしむ。辛卯、詔して曰く、「亢陽滋甚しく、農事已に傷つく。宜しく宰臣于兢をして中嶽に赴かしめ、杜曉をして西嶽に赴かしめ、精切に祈祷せしむべし。其の京に近き霊廟は、宜しく河南尹に委ね、五帝壇・風師雨師・九宮貴神は、中書に委ね各おの官を差し之を祈らしむべし」。《通鑒》に曰く、閏月壬戌、帝疾甚だし。近臣に謂いて曰く、「我天下を経営すること三十年、意わざらんや太原の余孽更に昌熾なること此の如きを。吾其の志の小さからざるを観る。天復た我が年を奪う。我死せば、諸児彼の敵に非ざるなり。吾葬る地無からん」と。因り哽咽し、絶えて復た蘇る。帝の長子郴王友裕は早く卒す。次に仮子友文、帝特だ之を愛し、常に東都を留守し、兼ねて建昌宮使と為す。次に郢王友珪、其の母は亳州の営倡なり。左右控鶴都指揮使と為す。次に均王友貞、東都馬歩都指揮使と為す。帝未だ友文を以て太子と為さざれども、意常に之に属す。六月丁丑朔、帝は敬翔を命じて友珪を出だし萊州刺史と為し、即ち之に官を命ず。已に旨を宣すれども、未だ敕を行わず。時に左遷する者は多く追い賜いて死せしむ。友珪益々恐る。戊寅、友珪は服を易え微行して入る。