舊五代史

梁書七: 太祖本紀七

梁書七: 太祖本紀七

乾化二年正月、詔を下す。「上元の夜は、諸市及び坊市に任せて各々彩燈を点じ、金吾きんごは夜禁を用いず。」近年以来、都下に兵を聚めること広きを以て、未だ嘗て坊市に燈を点ぜしめざる故なり。甲申、時雪久しく愆るを以て、丞相及び三省の官に命じ群望に祈祷せしむ。詔して曰く、「謗木に規を求め、嚢を集めて事を貢し、将に理道を裨益せんとす、豈に側言を限らんや。応に内外の文武百官及び草沢の士をして、並びに封事を上ることを許し、得失を極言せしむべし。」丁審衢を以て陳州刺史と為す。而して審衢厚く鞍馬・金帛を以て謝恩の献と為す。帝其の民を漁るを慮り、其の献を復して之を停む。保義節度使せつどし王檀を封じて琅琊郡王と為す。供奉官硃嶠を命じて河南府に於いて先に収禁したる定州進奉官崔騰並びに傔従一十四人を宣取せしめ、並びに釈放し、仍て命じて押領して貝州に送らしむ。騰は、唐の戸部侍郎崔潔の子なり。広明の喪乱、北の諸侯に客し、定州節度使王処存に辟せられ、去る年に貢献を領して闕に至る。未幾、其の帥兵を称し、遂に之を縶す。是に至り、帝賓介の来たるを念い、又已に出境せるを以て、特ち命じて縦ちて帰せしむ。丙戌、有司孟春の太廟薦享を以て上言す。丞相杜曉を命じて摂祭行事せしむ。丙申の夕、熒惑房の第二星を犯す。

原文乾化二年正月,宣:「上元夜,任諸市及坊市各點彩燈,金吾不用禁夜。」近年以來,以都下聚兵太廣,未嘗令坊市點燈故也。甲申,以時雪久愆,命丞相及三省官群望祈禱。詔曰:「謗木求規,集囊貢事,將裨理道,豈限側言。應內外文武百官及草澤,並許上封事,極言得失。」以丁審衢為陳州,而審衢厚以鞍馬、金帛為謝恩之獻,帝慮其漁民,復其獻而停之。封保義節度使王檀為琅琊郡王。命供奉官硃嶠于河南府宣取先收禁定州進奉官崔騰並傔從一十四人,並釋放,仍命押領送至貝。騰,唐戶部侍郎潔之子也。廣明喪亂,客于北諸侯,為定州節度使王處存所辟,去載領貢獻至闕。未幾,其帥稱兵,遂縶之。至是,帝念賓介之來,又已出境,特命縱而歸焉。丙戌,有司以孟春太廟薦享上言,命丞相杜曉攝祭行事。丙申夕,熒惑犯房第二星。

二月庚戌、中和節、崇勳殿に御し、丞相・大学士・河南尹を召し、略く封じ訖り、万春門外の廡に於いて酒食を賜う。《五代会要》に、二月、故魏博節度使羅宏信を追封して趙王と為すとあり。癸丑、勅して曰く、「今載春寒頗る甚だしく、雨澤仍て愆る。司天監占うに夏秋必ず多く霖潦有らんとす。宜しく所在の郡県に令して百姓に告諭し、淫雨の患に備えしむべし。」庚申、宣威殿に御して宴を開き、丞相及び文武の官属咸く召されて列侍し、竟日にして罷む。壬戌、帝将に北境を巡按せんとす。中外戒厳す。詔して河南尹・守中書令ちゅうしょれい・判六軍事張宗奭を以て大内留守と為す。中書門下奏す、文武の官に差定し、務を領し尤も切に宜しく駕に扈すべき者三十八人。詔して工部尚書李皎・左散騎常侍孫騭・右諫議大夫張衍・兵部侍郎劉邈・兵部郎中張俊・光禄少卿盧秉彝並びに令して蹕に扈せしむ。甲子、洛師より発し、夕に河陽に次す。《通鑒》に云う、白馬屯に至り、従官に食を賜う。多く未だ至らず、騎を遣わして之を路に趣わしむ。左散騎常侍孫騭・右諫議大夫張衍・兵部郎中張俊最も後く至る。帝命じて撲殺せしむと。乙丑、温県に次す。丙寅、武陟に次す。懐州刺史段明遠境上に迎拝す。其の内外の備えし所、咸く豊かに霈たり。丁卯、獲嘉に次す。戊辰、衛州の新郷に次す。己巳、晨に衛州を発し、夕に淇門に止まる。内衙十将使十指揮の兵士を以て行在に至らしむ。辛未、黎陽に駐蹕す。癸酉、黎陽より発し、夕に内黄に次す。甲戌、昌楽県に次す。丁丑、永済県に次す。青州節度使賀徳倫奏す、兵士を統領して歴亭の軍前に赴く。戊寅、貝州に至る。四丞相及び学士李琪・盧文度・知制誥竇賞等十五人を命じて扈従せしめ、其の左常侍韋戩等二十三人をして止まらしむ。己卯、貝州より発し、夕に野落に駐蹕す。

原文二月庚戌,中和節,御崇勳殿,召丞相、大學士、河南尹,略封訖,于萬春門外廡賜以酒食。《五代會要》,二月,追封故魏博節度使羅宏信為趙王。癸丑,敕曰:「今載春寒頗甚,雨澤仍愆,司天監占以夏秋必多霖潦,宜令所在郡縣告喻百姓,備淫雨之患。」庚申,禦宣威殿開宴,丞相洎文武官屬咸被召列侍,竟日而罷。壬戌,帝將巡按北境,中外戒嚴,詔以河南尹、守中書令、判六軍事張宗奭為大內留守。中書門下奏,差定文武官領務尤切宜扈駕者三十八人。詔工部尚書李皎、左散騎常侍孫騭、右諫議大夫張衍、兵部侍郎劉邈、兵部郎中張俊、光祿少卿盧秉彝並令扈蹕。甲子,發自洛師,夕次河陽。《通鑒》云:至白馬屯,賜從官食,多未至,遣騎趣之于路。左散騎常侍孫騭、右諫議大夫張衍、兵部郎中張俊最後至,帝命撲殺之。乙丑,次溫縣。丙寅,次武陟。懷州刺史段明遠迎拜於境上,其內外所備,咸豐霈焉。丁卯,次獲嘉。戊辰,次衛州之新鄉。己巳,晨發衛州,夕止淇門,內衙十將使以十指揮兵士至於行在。辛未,駐蹕黎陽。癸酉,發自黎陽,夕次內黃。甲戌,次昌樂縣。丁丑,次於永濟縣。青州節度使賀德倫奏,統領兵士赴曆亭軍前。戊寅,至貝州,命四丞相及學士李琪、盧文度、知制誥竇賞等十五人扈從,其左常侍韋戩等二十三人止焉。己卯,發自貝州,夕駐蹕於野落。

三月庚辰朔、棗強県の西城に次す。《通鑒》に、辛巳、下博の南に至り、観津塚に登る。趙将符暕数百騎を引きて巡邏す。是れ帝なるを知らず、遽かに前ちて之を逼る。或る者告げて曰く、「晋兵大いに至れり!」帝行幄を引き、亟に兵を引きて棗強に趣い、楊師厚の軍と合すとあり。丙戌、鎮・定諸軍招討使楊師厚棗強県を下すを奏す。車駕即日疾駆して南還す。丁亥、復た貝州に至る。庚寅、楊師厚副招討李周彝等詔に准じて来朝す。辛卯、詔して丞相・翰林六学士・文武の従官・都招討使及び諸軍の統指揮使等を、行殿に於いて食を賜う。壬辰、羊酒等を以て各々従官に賜うを命ず。甲午、貝州の東闉に幸して武を閲す。乙未、帝復た東闉に幸して騎軍を閲す。勅して棗強県を攻め下すに功有る将校杜暉等一十一人を以て、並びに超えて検校けんぎょう官を加え、衙官宋彦等二十五人並びに超えて軍職を授けしむ。丙午、済源県に次す。詔して曰く、「淑律将に遷らんとし、亢陽頗る甚だし。宜しく魏州に令して官を差し龍潭に祈祷せしむべし。」戊申、詔して曰く、「雨澤期に愆り、祈祷未だ応ぜず。宜しく宰臣をして各々魏州の霊祠に於いて精しく祈祷を加えしむべし。」《五代会要》に、三月、詔して曰く、「夫れ邦国を隆興するは、必ず人民に本づく。疲羸を恵養するは、凡そ令長に資る。苟も選求の濫を逾ゆれば、固より撫理の乖違なり。聞く所に拠れば、吏部官を擬し、中書除授するに、或いは親旧の請う所に縁り、或いは勢要の幹う所と為り、姑く私情に徇い、才実を求めず。茲の蠹弊を念い、宜しく条章を挙ぐべし。今後応に中書の用人及び吏部の注擬するは、並びに宜しく身の才業を省籓し、為政の否臧を験し、必ず観る可き有らば、方に任用すべし。如し尚お請説を行い、猶お貨財を仮る有らば、其の司の人吏、必ず当に推窮し、重く懲断を加うべし。」

原文三月庚辰朔,次於棗強縣之西城。《通鑒》:辛巳,至下博南,登觀津塚。趙將符暕引數百騎巡邏,不知是帝,遽前逼之。或告曰:「晉兵大至矣!」帝行幄,亟引兵趣棗強,與楊師厚軍合。丙戌,鎮、定諸軍招討使楊師厚奏下棗強縣,車駕即日疾馳南還。丁亥,復至貝州。庚寅,楊師厚與副招討李周彝等准詔來朝。辛卯,詔丞相、翰林六學士、文武從官、都招討使及諸軍統指揮使等,賜食於行殿。壬辰,命以羊酒等各賜從官。甲午,幸貝州之東闉閱武。乙未,帝復幸東闉閱騎軍。敕以攻下棗強縣有功將校杜暉等一十一人,並超加檢校官,衙官宋彥等二十五人並超授軍職。丙午,次濟源縣。詔曰:「淑律將遷,亢陽頗甚,宜令魏州差官祈禱龍潭。」戊申,詔曰:「雨澤愆期,祈禱未應,宜令宰臣各于魏州靈祠精加祈禱。」《五代會要》:三月,詔曰:「夫隆興邦國,必本於人民;惠養疲羸,凡資於令長。苟選求之逾濫,固撫理之乖違。如聞吏部擬官,中書除授,或緣親舊所請,或為勢要所幹,姑徇私情,靡求才實,念茲蠹弊,宜舉條章。今後應中書用人及吏部注擬,並宜省籓身之才業,驗為政之否臧,必有可觀,方可任用。如或尚行請說,猶假貨財,其所司人吏,必當推窮,重加懲斷。」

四月己酉、魏州に幸す。金波亭に於いて、宰臣・文武官及び六学士に宴を賜う。甲寅の夕、月心の大星を掩う。丙辰、勅す。「近く星辰度に違う。式に修禳に在り。宜しく両京及び宋州・魏州に令して此の月より五月に至るまで屠殺を禁断せしむべし。仍て各々仏寺に於いて道場を開建し、以て福応を迎えしむべし。」己未、黎陽県に次す。《通鑒》に、乙卯、博王友文来朝し、帝に東都に還るを請う。丁巳、魏州を発す。己未、黎陽に至り、疾を以て淹留す。東都留守の官吏表を奉じて起居す。丞相・従官に酒食を賜うこと差有り。己巳、東都に至る。博王友文新たに食殿を創るを以て上言し、並びに準備内宴の銭三千貫・銀器一千五百両を進む。辛未、食殿に於いて宴し、丞相及び文武の従官等を召して侍らしむ。帝九曲池に泛ぶ。御舟傾く。帝池中に墮溺す。宮女侍官扶持して登岸し、驚悸久し。制を加えて建昌宮使・金紫光禄大夫・検校司徒しと・開封尹・博王友文を特進・検校太保と為し、開封尹を兼ね、前の如く建昌宮使に依り、東都留守を充てしむ。戊寅、車駕東京より発し、夕に中牟県に次す。

原文四月己酉,幸魏州。金波亭,賜宴宰臣、文武官及六學士。甲寅夕,月掩心大星。丙辰,敕:「近者星辰違度,式在修禳,宜令兩京及宋州、魏州取此月至五月禁斷屠宰。仍各於佛寺開建道場,以迎福應。」己未,次黎陽縣。《通鑒》:乙卯,博王友文來朝,請帝還東都。丁巳,發魏州。己未,至黎陽,以疾淹留。東都留守官吏奉表起居,賜丞相、從官酒食有差。己巳,至東都,博王友文以新創食殿上言,並進準備內宴錢三千貫、銀器一千五百兩。辛未,宴於食殿,召丞相及文武從官等侍焉。帝泛九曲池,御舟傾,帝墮溺于池中,宮女侍官扶持登岸,驚悸久之。制加建昌宮使、金紫光祿大夫、檢校司徒、開封尹、博王友文為特進、檢校太保,兼開封尹,依前建昌宮使,充東都留守。戊寅,車駕發自東京,夕次中牟縣。

五月己卯朔、従官文武は丞相以下より、並びに行殿に詣でて起居し、親王及び諸道の藩帥は咸く表を奉じて来上す。庚辰、鄭州より発し、滎陽に至る。河南尹魏王宗奭は塵を望み迎え拝す。河陽留後邵贊・懐州刺史段明遠等は邐迤として来迎す。夕べに汜水県に次ぐ。帝は魏王宗奭を召し入対せしめ、便ち御前に於いて食を賜い、数刻にして乃ち退く。壬午、汜水に駐蹕す。宰臣・河南尹・六学士は並びに内殿に於いて起居す。建昌宮の事を宰臣于兢に委ねて之を領せしむるを敕す。《五代会要》に曰く、其の年六月、建昌宮を廃し、河南尹魏王張宗奭を以て国計使と為す。凡そ天下の金穀兵戎旧に建昌宮に隷する者は、悉く之を主つかさどとす。癸未、帝は汜水より発す。宣令して邵贊・段明遠をして各おの理むる所に帰らしむ。午に任村屯に憩い、夕べに孝義宮に次ぐ。留都の文武礼部尚書孔続以下は道左に迎え拝す。偃師に次ぐ。甲申、都に至る。文武の臣は東郊に於いて奉迎す。渤海は使いを遣わして朝貢す。宰臣薛貽矩は恙を抱え仮に在り、扈従するに克たず。宣問は旁午す。仍ち命じて且く東京に駐まり以て良く愈ゆるを俟たしむ。及び薨ずるや、帝は震悼すること頗る久し。雒苑使曹守璫を命じて往き弔祭せしむ。又た六日・七日・八日の朝参を輟むるを命じ、丞相・文武は並びに上閣門に詣で名を進めて奉慰す。丁亥、彗星すいせいの謫見するを以て、詔して両京の見禁の囚徒、大辟の罪以下を、遞減一等せしめ、三日を限り内に疏理し訖りて聞奏せしむ。《五代会要》に曰く、彗星は霊台の西に見え、五月に至り始めて赦を降し罪を宥し、以て天譴に答う。又た云う、五月壬戌の夜、熒惑心の大星を犯し、心を去ること四度、順行す。司天奏す、「大星は帝王の星なり。修省すべし以て天譴に答うべし」と。詔して曰く、「生育の人、爰に暑月に当たり、乳哺の愛、方に薰風に及べり。儻し刲屠に肆意せば、豈に長養に恩を推さんや。殄暴無からしめ、以て発生を助けしむべし。宜しく両京及び諸州府に令し、夏季内に屠宰及び採捕を禁断せしむべし。天民の窮は、諒や賦分に由る。国章の在る所も、亦た仁を興すを務むべし。所在の鰥寡孤独・廃疾不済の者は、長吏に委ねて量りに賑恤を加えしむ。史に枯を葬るを載せ、軫恤を彰すに用う。礼に骼を掩うを称し、将に和平を致さんとす。応に兵戈の地に、暴露の骸骨有らば、所在の長吏に委ねて人を差し専ら収瘞せしむ。国癘の文は、尚ほ七祀を標す。良薬の市も、亦た三医を載す。無告の人を憐れむに用い、喜有の術を征すべし。凡そ疫有るの処は、長吏に委ねて医方を検尋し、要路に於いて曉示せしむ。如し家に骨肉無く兼ねて困窮不済の者有らば、即ち仰せて長吏医を差し薬を与えて救療せしむ。辛卯、詔して曰く、「亢陽滋甚しく、農事已に傷つく。宜しく宰臣于兢をして中嶽に赴かしめ、杜曉をして西嶽に赴かしめ、精切に祈祷せしむべし。其の京に近き霊廟は、宜しく河南尹に委ね、五帝壇・風師雨師・九宮貴神は、中書に委ね各おの官を差し之を祈らしむべし」。《通鑒》に曰く、閏月壬戌、帝疾甚だし。近臣に謂いて曰く、「我天下を経営すること三十年、意わざらんや太原の余孽更に昌熾なること此の如きを。吾其の志の小さからざるを観る。天復た我が年を奪う。我死せば、諸児彼の敵に非ざるなり。吾葬る地無からん」と。因り哽咽し、絶えて復た蘇る。帝の長子郴王友裕は早く卒す。次に仮子友文、帝特だ之を愛し、常に東都を留守し、兼ねて建昌宮使と為す。次に郢王友珪、其の母は亳州の営倡なり。左右控鶴都指揮使と為す。次に均王友貞、東都馬歩都指揮使と為す。帝未だ友文を以て太子と為さざれども、意常に之に属す。六月丁丑朔、帝は敬翔を命じて友珪を出だし萊州刺史と為し、即ち之に官を命ず。已に旨を宣すれども、未だ敕を行わず。時に左遷する者は多く追い賜いて死せしむ。友珪益々恐る。戊寅、友珪は服を易え微行して入る。

原文五月己卯朔,從官文武自丞相而下,並詣行殿起居,親王及諸道籓帥咸奉表來上。庚辰,發自鄭州,至滎陽,河南尹魏王宗奭望塵迎拜;河陽留後邵贊、懷州刺史段明遠等邐迤來迎。夕次汜水縣,帝召魏王宗奭入對,便於御前賜食,數刻乃退。壬午,駐蹕于汜水,宰臣、河南尹、六學士並于內殿起居,敕以建昌宮事委宰臣於兢領之。《五代會要》:其年六月,廢建昌宮,以河南尹、魏王張宗奭為國計使,凡天下金穀兵戎舊隸建昌宮者,悉主之。癸未,帝發自汜水,宣令邵贊、段明遠各歸所理。午憩任村屯,夕次孝義宮。留都文武禮部尚書孔續而下道左迎拜。次偃師。甲申,至都,文武臣奉迎於東郊。渤海遣使朝貢。宰臣薛貽矩抱恙在假,不克扈從,宣問旁午,仍命且駐東京以俟良愈。及薨,帝震悼頗久,命雒苑使曹守璫往弔祭之,又命輟六日、七日、八日朝參,丞相、文武並詣上閣門進名奉慰。丁亥,以彗星謫見,詔兩京見禁囚徒大辟罪以下,遞減一等,限三日內疏理訖聞奏。《五代會要》:彗星見於靈台之西,至五月始降赦宥罪,以答天譴。又云:五月壬戌夜,熒惑犯心大星,去心四度,順行。司天奏:「大星為帝王之星,宜修省以答天譴。」詔曰:「生育之人,爰當暑月,乳哺之愛,方及薰風。儻肆意于刲屠,豈推恩於長養,俾無殄暴,以助發生。宜令兩京及諸州府,夏季內禁斷屠宰及採捕。天民之窮,諒由賦分;國章所在,亦務興仁。所在鰥寡孤獨、廢疾不濟者,委長吏量加賑恤。史載葬枯,用彰軫恤;禮稱掩骼,將致和平。應兵戈之地,有暴露骸骨,委所在長吏差人專攻收瘞。國癘之文,尚標七祀;良藥之市,亦載三醫。用憐無告之人,宜征有喜之術。凡有疫之處,委長吏檢尋醫方,于要路曉示。如有家無骨肉兼困窮不濟者,即仰長吏差醫給藥救療之。辛卯,詔曰:「亢陽滋甚,農事已傷,宜令宰臣於兢赴中嶽,杜曉赴西嶽,精切祈禱。其近京靈廟,宜委河南尹,五帝壇、風師雨師、九宮貴神,委中書各差官祈之。」《通鑒》:閏月壬戌,帝疾甚,謂近臣曰:「我經營天下三十年,不意太原餘孽更昌熾如此!吾觀其志不小,天復奪我年,我死,諸兒非彼敵也,吾無葬地矣!」因哽咽,絕而復蘇。帝長子郴王友裕早卒。次假子友文,帝特愛之,常留守東都,兼建昌宮使。次郢王友珪,其母亳州營倡也,為左右控鶴都指揮使。次均王友貞,為東都馬步都指揮使。帝雖未以友文為太子,意常屬之。六月丁丑朔,帝命敬翔出友珪為萊州刺史,即命之官。已宣旨,未行敕。時左遷者多追賜死,友珪益恐。戊寅,友珪易服微行入

左龍虎軍の統軍韓勍に会い、実情を告げる。韓勍もまた功臣宿将が多く些細な過ちで誅殺されるのを見て、自らの保身を恐れ、遂に共に謀を合わせた。韓勍は牙兵五百人を率いて友珪に従い、控鶴の兵士に混じって入り、禁中に潜伏した。夜、関を斬って侵入し、寝殿に至ると、病に侍る者は皆散り散りに逃げた。帝(朱全忠)は驚いて起き上がり、問うた。『反する者は誰か。』友珪は言った。『他人ではない。』帝は言った。『我は元よりこの賊を疑っていた。早く殺さなかったことを恨む。汝がこのように悖逆するとは、天地がどうして汝を容れようか。』友珪は言った。『老賊め、万段にせよ。』友珪の僕夫(従者)馮廷諤が帝の腹を刺すと、刃は背中から突き出た。友珪は自ら敗れた氈(毛布)でそれを包み、寝殿に埋葬し、秘して喪を発さなかった。供奉官丁昭溥を遣わし、東都(洛陽らくよう)に馳せさせ、均王友貞に友文を殺すよう命じた。己卯の日、詔を偽って称した。『博王友文が謀逆を企て、兵を遣わして殿中に突入したが、頼むに郢王友珪(友珪)の忠孝により、兵を将いてこれを誅し、朕が身を保全した。しかし病は震驚により、いよいよ危殆に至った。宜しく友珪に軍国の務めを権(仮)に主らしむべし。』韓勍が友珪のために謀り、府庫の金帛を多く出して、諸軍及び百官に賜い、歓心を買おうとした。辛巳の日、丁昭溥が戻り、友文が既に死んだと聞くと、ようやく喪を発し、遺制を宣し、友珪が皇帝の位に即いた。友珪は太祖たいそ(朱全忠)を伊闕県に葬り、宣陵と号した。《五代史補》:太祖朱全忠は、黄巢の先鋒であった。黄巢が長安ちょうあんに入ると、刺史王鐸が同州を包囲したため、太祖は遂に降伏し、王鐸は承制(詔命を受けた権限)により同州刺史に拝任した。黄巢が滅び、淮・蔡の間で秦宗権が再び盛んになると、朝廷は淮・蔡が汴州べんしゅうと接していること、太祖が汴の人であることから、その能否を究めようとし、遂に宣武せんぶ軍節度使に移し授けて宗権を討たせ、未だ幾ばくもなくこれを滅ぼした。ここより威福は己より出で、朝廷はこれを制することができず、遂に天下を有することとなった。これに先立ち、民間に讖(予言)が伝わった。『五公符』、またこれを『李淳風転天歌』といい、その字あざなに『八牛之年』がある。識者は『八牛』は『朱』の字であるとし、これが太祖が革命する応(兆し)であるとした。太祖の用兵は、法令厳峻であり、戦うごとに、逐隊(各隊)の主帥がもし没して戻らぬ者があれば、その余は皆これを斬った。これを『跋隊斬』といった。ここより戦いて勝たざるはなかった。しかし健児(兵士)は多く州郡に竄匿し、追捕に疲れたため、文面(顔に入れ墨をすること)を命じた。健児の文面はここから始まった。《五代史闕文》:世に伝えるところでは、梁の太祖が鳳翔において昭宗を迎えた時、素服して罪を待った。昭宗はわざと鞋(靴)の紐が解けたふりをし、梁祖(朱全忠)を呼んで言った。『全忠、我がために鞋を結べ。』梁祖は已むなく、跪いてこれを結び、汗が背中に流れた。時に天子の扈蹕(お供)にはなお衛兵があった。昭宗の意は、左右に梁祖を擒とらえて殺させようとしたが、敢えて動く者がないのをどうすることもできなかった。ここより梁祖は召されても多くは至らず、昭宗の禁衛をことごとく去り、皆汴の人を用いるようになった。臣(薛居正ら)謹んで案ずるに、梁祖が天復三年に岐下において唐の昭宗を迎えたのは、歳は甲子であり、その年天祐と改元し、国初(宋の建隆)庚申の歳に至るまで、わずか五十六年である。されば乾徳(宋の年号)の七十歳の人は皆その事を目撃しているはずである。蓋し唐室は懿宗が政を失ってより、天下乱離したため、武宗以下の実録は世に伝わらなかった。昭宗の一朝は、全く記注がない。梁祖の在位は六年に及んだのみで、均帝の朝に詔して史臣に梁祖実録を修めさせたが、岐下の鞋を結んだ事は、恥じて書かなかった。晋の天福年中、史臣張昭が『唐史』を重修し、始めて『昭宗本紀』があったが、ただ即位の初めに『会昌』の風があったと云うのみで、岐陽の事蹟は追補することができなかった。これもまた、唐の昭宗に英睿の気があったが衰運振るわず、また左右に忠義奮発の臣がなく、梁祖がその志を行い得たことを明らかにする。戒めとすべきところがあり、書かざるを得ない。

原文左龍虎軍,見統軍韓勍,以情告之。勍亦見功臣宿將多以小過被誅,懼不自保,遂相與合謀。勍以牙兵五百人從友珪雜控鶴士入,伏於禁中;夜斬關入,至寢殿,侍疾者皆散走。帝驚起,問:「反者為誰?」友珪曰:「非他人也。」帝曰:「我固疑此賊,恨不早殺之。汝悖逆如此,天地豈容汝乎!」友珪曰:「老賊萬段!」友珪僕夫馮廷諤刺帝腹,刃出於背。友珪自以敗氈裹之,瘞於寢殿,秘不發喪。遣供奉官丁昭溥馳詣東都,命均王友貞殺友文。己卯,矯詔稱:「博王友文謀逆,遣兵突入殿中,賴郢王友珮忠孝,將兵誅之,保全朕躬。然疾因震驚,彌致危殆,宜令友珪權主軍國之務。」韓勍為友珪謀,多出府庫金帛,賜諸軍及百官以取悅。辛巳,丁昭溥還,聞友文已死,乃發喪,宣遺制,友珪即皇帝位。友珪葬太祖于伊闕縣,號宣陵。《五代史補》:太祖硃全忠,黃巢之先鋒。巢入長安,以刺史王鐸圍同州,太祖遂降,鐸承制拜同州刺史。黃巢滅,淮、蔡間秦宗權復盛,朝廷以淮、蔡與汴州相接,太祖汴人,必究其能否,遂移授宣武軍節度使以討宗權,未凡滅之。自是威福由己,朝廷不能制,遂有天下。先是,民間傳讖曰:「五公符」,又謂之「李淳風轉天歌」,其字有「八牛之年」,識者以「八牛」乃「硃」字,則太祖革命之應焉。太祖之用兵也,法令嚴峻,每戰,逐隊主帥或有沒而不反者,其餘皆斬之,謂之:「跋隊斬」。自是戰無不勝。然健兒且多竄匿州郡,疲於追捕,因下令文面,健兒文面自此始也。《五代史闕文》:世傳梁太祖迎昭宗於鳳翔,素服待罪,昭宗佯為鞋系脫,呼梁祖曰:「全忠為吾系鞋。」梁祖不得已,跪而結之,汗流浹背。時天子扈蹕尚有衛兵,昭宗意謂左右擒梁祖以殺之,其如無敢動者。自是梁祖被召多不至,盡去昭宗禁衛,皆用汴人矣。臣謹案:梁祖以天復三年迎唐昭宗於岐下,歲在甲子,其年改天祐,至國初建隆庚申歲,才五十六年矣,然則乾德七十歲人皆目睹其事。蓋唐室自懿宗失政,天下亂離,故武宗以下實錄,不傳於世。昭宗一朝,全無記注。梁祖在位止及六年,均帝朝詔史臣修梁祖實錄,岐下系鞋之事,恥而不書。晉天福中,史臣張昭重修《唐史》,始有《昭宗本紀》,但雲即位之始,有《會昌》之風,岐陽事蹟,不能追補。此亦明唐昭宗有英睿之氣,而衰運不振;又明左右無忠義奮發之臣,致梁祖得行其志。有所警誡,不可不書。