開平四年十月乙亥、東京の博王友文が入朝し、帝が召したのである。己卯、新たに修造した天驥院の落成を祝って宴を開き、内外ともに馬を献上し、魏博は絹四万匹を駔価として進上した。壬午、冬の禁軍の設営に際し、興安鞠場に行幸し、文武百官を召して宴を催した。開化に行幸し、軍実を大いに閲した。
十一月丁亥朔、広王の邸宅に行幸して音楽を奏した。辛卯、宣威殿において文武四品以上の者を宴した。庚戌、左龍虎軍に行幸し、群臣を宴した。甲寅、右龍虎軍に行幸し、群臣を宴した。戊戌、詔して曰く、「朔日より今に至るまで、暴風が止まず、思うに朕の不徳により、この咎徴を招いたのであろう。皇天が威を動かす、敢えて畏れないわけにはいかない。広く祈祷を命じ、朕の意に副うようにせよ。」官を差し分けて祠所に赴かせ、風を止めさせた。己亥、冬至、帝は袞冕を着て朝元殿に御し、細仗を列ね、庭で楽を奏し、群臣が賀した。帝は伊水で狩猟した。乙巳、詔して曰く、「関防は、異服を識り、異言を察するためのものである。況や天下が未だ安息せず、兵民に奸が多い。形を改め衣を易え、我が軍事を窺う。近ごろ諜者は皆、詐りをもって敗れたが、未だその通過した地を罪したことはない。叛将や逃卒がその妻子を窃み、使者に影のごとく付き従うことも、未だその経由を詰問したことはない。今、海内は未だ統一されず、法を緩め禁を弛めるのは、奸詐を息め、奔亡を止める方策ではない。在京の諸司は、勝手に公験を与えてはならない。もし外出して憑由を執る必要がある者は、その司門過所は、先ず中書門下の点検を受けねばならぬ。宰臣趙光逢に委ねて専ら判出させ、その手続きを顕重ならしめ、奸の源を絶つことを期す。なお両京・河陽及び六軍諸衛・御史台に下し、各々管轄を厳しくせよ。公私の行李は、また家口を帯挟して西に向かうことを得ず。その襄・鄧・鄜・延等の道も、同様に処分せよ。」甯国軍節度使王景仁を以て北面行営都招討使と充て、潞州副招討使韓勍を副とし、相州刺史李思安を先鋒使とした。時に鎮州の王镕・定州の王処直が叛き、晋人と結び連なったので、将を遣わしてこれを討たせた。《五代会要》に曰く、十一月十四日、司天が奏上して、「月蝕あり、兵を用いるに宜しからず。」と。時に王景仁が大軍を総べて北伐しようとしていたが、追い及ばなかった。至る五年正月二日、果たして後唐の荘宗に柏郷において大敗した。
十二月辛酉、宣威殿において文武四品以上の者を宴した。自ら禁軍を閲し、教馬亭において格闘を命じた。己巳、詔して曰く、「滑・宋・輝・亳等の州は、水害により損傷し、人戸愁歎す。朕は民の父母として、まことに痛心に堪えない。その本州に等級を分けて賑貸せしめ、所在の長吏は監臨して周く給し、必ず存済せしめよ。」壬辰、東都畿内を賑貸し、宋・滑の制の如くせしめた。
二月丙辰朔、帝は文明殿に御し、群臣が入閣した。蔡州順化軍指揮使王存儼を以って権知軍州事とす。蔡人は久しく叛逆に習い、刺史張慎思はまた裒斂無状であったので、帝は慎思を追って京に至らせたが、久しく代わりを命じなかった。右廂指揮使劉行琮が虚に乗じて乱を起こし、火を放ち擁驅し、淮を渡る計らいをした。存儼は行琮を誅し、その衆を撫遏した。都将鄭遵がその下と共に存儼を主として奉じ、衆情を馳奏した。時に東京留守博王友文は先に請うことなく、遂にその乱を討とうとした。兵が鄢陵に至った時、上聞いて曰く、「行琮を誅したのは功である。然れども存儼は今まさに懼れている。もし兵を臨めば、蔡は必ず速やかに飛ぶであろう。」遂に使いを馳せて軍を還らせ、存儼を擢授し、蔡人はこれを安んじた。壬戌、詔して曰く、「東京は旧邦なり、久しく巡幸せず。今月九日を以って東都に幸すべし。扈従の文武官は中書門下に委ねて閑劇を量り処分せよ。」宰臣が上言して曰く、「龍興の天府は、久しく法駕を望んでおります。但し陛下は御病癒え始めたばかりで、寒さに渉るに宜しからず。願わくば清蹕を少しく留められんことを。」従った。《五代会要》に曰く、二月、勅す、「人の食を食む者は、人の事を憂う。況や丞相の尊位、大政に参決するに、堂封未だ給せず、且つ餐錢なし。朕甚だこれを愧ず。宜しく万錢の半を食すべし。」甲子、曜村の民舎に幸して農事を閲す。庚午、白馬坡に幸す。詔して金吾大将軍・待制官に各々奏事せしむ。武安軍節度使馬殷が虔州刺史盧延昌の箋表を進呈す。虔州は本来支郡であるが、兵甚だ鋭く、韶州を得てより益々強大となり、百勝軍使に昇った。初め洪州の陥落の時、盧光稠が使府を収復し、功を立てて自ら効わんことを願い、上は因って兼ねて江西観察留後を授けた。光稠卒す、復た延昌に命じて州事を領せしめ、方伯も頗る慰薦した。楊渭が人を遣わして偽りに爵秩を署し、延昌は佯って官牒を受け、礼を以ってその使を遣わし、湖南を因って自らその事を表して曰く、「郡小にして寇迫り、その奸謀を緩めんと欲し、且つ貢路を開導せんとす。敢えて貳するに非ず。」と。その偽制を以って自ら陳す。上奏を覧て曰く、「我方に北事あり、甚だ撫恤を加えざるべからず。」尋いで兼ねて鎮南将軍節度使観察留後を授け、使いを命じて慰労せしめた。《九国志》に曰く、盧延昌は呉に帰命し、偽って梁に命を乞う。
三月辛卯、旱魃久しきにより、宰臣をして霊跡に分かちて祈らしむ。翌日、大雨降る。丙申、甘水亭に幸し、宰臣・翰林学士・尚書侍郎孔続以下八人を召して扈従せしめ、宴楽甚だ歓し。戊戌、右龍虎軍に幸し、文武官四品以上を召して新殿に宴す。甲辰、左龍虎軍新殿に幸し、文武官四品以上を宴す。
四月丁卯、龍虎門に幸し、宰臣・学士・金吾上将軍・大将軍を召して広化寺に侍宴せしむ。壬申、契丹使いを遣わして来貢す。丁丑、宣威殿に幸し、文武官四品以上及び軍使・蕃客を宴す。己卯、また左龍軍に幸し、群臣を宴す。詔して曰く、「邠・岐未だ滅びず、関・隴虞多く、宜しく親賢を択び、茲の戎任を総べしむべし。応に関西同・雍・華・鄜・延・夏等六道兵馬は、並びに冀王に委ねて収掌指揮せしむ。凡そ抽差有らば、先ず西面都招討使に申し、仍って別に奏聞すべし、庶幾くは機権に合し、以て辺鄙を寧んずるに足らん」と。
六月乙卯、北面都招討使・鎮国軍節度使楊師厚をして出でて邢・洺に屯せしむ。丁巳、鎮・定我が湯陰を鈔す。詔して曰く、「常山義に背き、易水尤に效い、其の蕃戎を誘い、我が辺鄙を動かし、南は相・魏を侵し、東は邢・洺を出す。是を用いて将を遣わし徂征せしめ、人の為に害を除く。但し初め赦令を頒ち、食言せんと欲せず、宥して之を伐つは、諒や已むを得ざるに非ず。況んや謀の始めを聞くに、帥臣より自らせず、此の厲階を致すは、並びに奸佞に由る。密かに人使を通じ、潜かに沙陀を結び、既に罪誅を懼るるを以て、乃ち離叛を生ず。今雖も討伐を行い、已に師徒を挙ぐるも、亦詔諭の門を開き、帰降の路を阻まず。矧や又王熔・処直未だ曾て爵を削り名を除かず、若し翻然として図を改め、遠からずして復らば、必ず旧貫に仍り、当に前功を保たん。もし衆を率いて明に向かい、州を抜き順に效う者有らば、亦殊賞を行い、来情に徇わんことを冀い、疲民に弊を受くるを免れしめ、以て汚俗に維新を示さん。宜しく行営都招討使及び陳暉軍前に、此の敕文に准じ、散加して招諭せしめ、衆懼を安んじ、特挙して明恩を示すべし。鎮州は只だ李宏規一人を罪す、其の余は一切問わず」と。詔して天宮仏寺を修せしむ。又、湖南奏す、「潭州僧法思・桂州僧帰真並びに紫衣を賜わんことを乞う」と。之に従う。
七月、帝豫せず、稍々秋暑を厭う。辛丑より会節坊張宗奭私第に幸し、宰臣は帰仁亭子にて事を視、崇政使・内諸司及び翰林院は並びに河南令廨署に止まり、甲辰に至り、復た大内に帰る。
八月庚申、保寧殿に幸し、天興控鶴の兵事を閲し、軍使将校各賜有り。癸亥、老人星見ゆ。戊辰、故上陽宮に幸し、榆林に至り稼を観る。丙子、四蕃将軍・屯衛兵士を天津橋にて閲し、南は龍門広化寺に至る。戊寅、興安鞠場に幸し大教閲し、帝自ら指麾す、踴抃せざる無く、坐作進退、声宮掖に振う。右神武統軍丁審衢対禦し、紅帛囊の剣を以て乗輿の物に擬す、帝曰く、「宿将なり、之を恕す」と、劉重霸を以て其の任に代う。
九月辛巳朔、帝文明殿に御し、群臣閣に入り、刑法待制官各奏事す。己丑、興安殿にて群臣を宴す。庚子、親しく六師を禦し、河陽に次ぐ。甲辰、衛州に至る。乙巳、宜溝に至り、民劉達の墅に幸す。丙午、相州に至り、左親騎指揮使張仙・右雲騎指揮使宋鐸を賞し、嘗て身先きて陣に陷りしを以て、各帛を賜う。
十月辛亥朔、相州に駐蹕し、宰臣及び文武の従官並びに行宮に詣で起居す。戸部郎中孔昌序留都百官の冬朔起居表を齎し西京より至る、諸道節度使・刺史・諸籓府留後、各冬朔起居表を以て来上す。制して郢王友圭を以て控鶴指揮使に充て、諸軍都虞候閻宝を御営使と為す。有司立冬太廟薦享を以て上言す、詔して丞相杜暁をして西都に赴き摂祭行事せしむ。癸丑、州闉の南楼にて武を閲す。左龍驤都教練使鄧季筠・魏博馬軍都指揮使何令稠・右廂馬軍都指揮使陳令勳、部下の馬痩せしを以て、並びに軍門にて腰斬せらる。甲寅、将に其の夕魏県に幸せんとし、閣門使李鬱をして宰臣に報ぜしめ、兼ねて内外に敕す。是の夜、車駕都署に於いて発軔す。乙卯、洹水に次ぐ。丙辰、魏県に至る。先鋒将黄文靖誅せらる。己未、帝朝元門に御す、回鶻・吐蕃二大国の首領入覲する故なり。癸亥、諸軍指揮使及び四蕃将軍に行宮の外廡にて食を賜うことを令す。戊辰、邑西の白龍潭に幸し以て魚を観る。既にして漁人巨魚を獲て以て献ず、帝命して之を中流に放つ、従臣帝仁惻の心有るを以て、皆相顧みて欣然たり。是の日、其の潭を名づけて万歳潭と曰う。丙子、帝城東教場に御し兵を閲し、諸軍都指揮・北面招討使・太尉楊師厚鉄馬歩甲十万を総領し、広く十数里に亙りて陳す。士卒の雄鋭、部隊の厳粛、旌旗の雑遝、戈甲の照耀、屹として山嶽の若く、勢天地を動かし、帝甚だ悦ぶ。即ち丞相及び文武の従臣をして列侍せしめ食を賜い、逮く晚方に帰る。
十一月辛巳の朔日、帝は魏県に駐蹕し、従官は丞相以下みな行宮に詣でて起居し、留都の文武百官および諸道の節度使・防禦使・刺史・諸籓府の留後は、それぞれ表を奉って起居した。壬午、帝は辺境の事がやや静まったので、命を宣して京師に還ることを命じた。《通鑒》に曰く、帝は夾寨・柏鄉でたびたび敗れたため、病をおして北巡し、一挙にその恥をそそごうと思ったが、意は鬱々として、多く躁忿であり、功臣宿将はしばしば小過をもって誅され、衆心はますます懼れた。やがて晋・趙の兵は出なかった。十一月壬午、帝は南還した。車駕は行闕より発し、夕べに洹水県に宿した。癸未、内黄県に至った。甲申、黎陽県に至った。乙酉、従官の丞相以下に命じて行次において宴をさせた。丁亥、衛州に宿した。戊子の朝、新郷に宿し、夕べに獲嘉に止まった。己丑、武陟に宿した。庚寅、温県に宿した。延州節度使高萬興が奏上したところによれば、当軍の都指揮使高萬金が兵士を統領し、今月五日に塩州を収め、偽刺史高行存が泥首して降ってきたという。丞相および文武百官はそれぞれ表を上って賀した。辛卯、孟州に宿し、散騎常侍孫騭・右諫議大夫張衍・光禄卿李翼に命じ、それぞれ香・祝版を齎し、孟津の望祠に告祭させた。留都の文武官左僕射楊涉および孟州守李周彝らはみな東郊に匍匐して迎拝し、その文武官はみな先に還ることを命じた。壬辰、詰旦に孟州を離れ、夕方に都に至った。宰臣に命じてそれぞれ望祠に赴き雨を祈らせた。故事では、みな両省の無功職事の者をもってこれを行わせたが、帝は民を憂え農を重んじ、特に足食足兵を念とし、即位以来、旱魃や霖雨があるたびに、多く丞相に命じて自らその事を行わせた。辛丑、大雨雪があり、宰臣および文武の師長はそれぞれ表を奉って賀した。
十二月、詔して時雪がやや不足しているため、丞相および三省の官に命じてそれぞれ望祠に詣で祈祷させた。癸酉、臘の仮、諸王と河南尹・左右金吾・六統軍らに詔して近苑で狩猟を競わせた。大理卿王鄯を安南に、左散騎常侍吳藹を朗州に使わし、いずれも旌節官誥を賜うためである。また将作少監薑宏道を朗州旌節官使副とした。《五代会要》に曰く、旧制では、巡撫・黜陟・冊命・吊贈・入蕃などの使は朝臣を選んでこれを行わせ、その宣慰・加官・送旌節はすなわち中官をもってこれを行わせたが、今三品の官をもって旌節を送るのは新例である。延州節度使高萬興が奏上したところによれば、軍を率いて邠州界の蒿子谷韋家寨において、寧・慶両州の賊軍約二千余人を殺戮し、併せて都頭指揮使を生擒し、馬や器甲などを奪ったという。その入奏した軍将使は宣して内殿に召し対賜し、銀器や彩物を賜った。宰臣および文武官はそれぞれ表を奉って賀した。今月、魏博節度使が上言したところによれば、涇県の北において鎮州王熔の兵士七千余人を殺戮し、馬二千余匹を奪い、戈甲はその数を知らず、併せて都將以下四十余人を擒えたという。両浙は大方茶二万斤・琢画宮衣五百副を進めた。広州は犀象の奇珍および金銀などを貢ぎ、その価は数千万に及んだ。安南の両使留後曲美、《通鑒》に曰く、十二月戊午、静海・曲美を節度使とした。筒中蕉五百匹・龍脳・郁金各五瓶、その他の海貨などをそれぞれ差等をつけて進めた。また南蛮通好の金器六物・銀器十二、および乾陁綾花繓棖越啉毛などの雑織奇巧のもの各三十件を進めた。福建は戸部の支給する榷課の葛三万五千匹を進めた。