十月癸未、大明節、帝は文明殿に御し、僧道に斎を設け、宰臣・翰林学士を召して之に預からしむ。諸道節度・刺史及び内外諸司使咸に進献あり。寇盗未だ平らかならざるを以て詔し、凡そ諸の過所を給するに、並びに司門郎中・員外郎に出して給せしめ、以て奸詐を杜がんとす。
十一月癸巳朔、帝は内殿に斎し、朝を視ず。甲午、日長至、五更一点大内より出で、文明殿に於いて宰臣以下の起居を受け、五鳳楼より南郊に出づ。左右金吾・太常・兵部等の司儀仗法駕鹵簿及び左右内直控鶴等引従して壇に赴く。文武百官太保韓建以下班を以て候す。帝壇に升り告謝す。司天臺奏す、冬至の日、夜半より後、祥風微かに扇ぎ、帝座澄明、暁に至り、黄雲日を捧ぐ。丙申、上東門外に畋す。戊戌、制して曰く、
己亥、羅周韓を天雄軍節度副使と為し、府事を知府す。鄴王紹威の病請に従ふなり。辛丑、穀水に幸す。戊午、文明殿に御し、太傅張宗奭・太保韓建を冊す。冊を受け畢りて、金吾仗輅車に引升し、儀仗導きて太廟に謁し畢りて、尚書省に赴きて上る。榆林坡に幸して兵を閲し、諸都の馬歩兵を教ふ。勅して乾文院を文思院と改め、行殿を興安殿と改め、球場を興安球場と改め、又弓箭庫殿を宣武殿と改む。霊州より奏す、鳳翔の賊将劉知俊、邠・岐・秦・涇の師を率ひ州城を侵迫すと。帝は陝州の康懐英・華州の寇彦卿に兵を率ひて邠・寧を攻め迫らしめ、以て朔方の寇を緩めしむ。《五代春秋》に云ふ、十一月、秦人来たりて霊州を侵す。陝州康懐英秦を侵し、甯・慶・衍の三州を克つ。秦人来たりて襲ひ、懐英の兵升平に敗る。
十二月乙丑の臘(臘祭)に、甘泉驛において狩猟を競わせた。蒲州は創業の地であるため、また鄜州・延州を経略するついでに、数か月にわたり巡幸した。暇な日に遊覧して焦梨店に至り、往事を多く語り、王重榮の旧功を思い、詔を下して褒賞し封号を贈った。国子監が奏上した。「文宣王廟を創建し、なお朝廷に在る者及び天下の現任官僚の俸給から、毎貫ごとに毎月十五文を徴収し、土木の費用に充てたい。」これを許可した。この年、徴収した官僚の俸給で文宣王廟を修築した。福建節度使王審知が奏上し、私財を投じて寺を一宇建立したので、寺額を賜りたいと請うた。勅して大梁万歳寺と名付け、さらに僧四十九人の得度を許した。牢牆使王仁嗣に司空を、故同州押衙史肇に右僕射を、押衙王彦洪・高漢詮・丘奉言・仇瓊に刑部尚書を、王筠に御史司憲を追贈した。初め、知俊が反逆を企てた時、諸将を集めて意見を求めたが、仁嗣らは正義を守って屈せず、皆その酷禍に遭ったので、この時に至り褒賞追贈したのである。劉守光が上言し、薊州の西で兄の守文と戦い、守文を生け捕りにしたと。
開平四年正月壬辰朔、帝は朝元殿に御し、百官の祝賀を受け、初めて礼楽を用いた。勅した。「公事は遅滞させ難く、居宅は皆遠方にある。毎日当直する中書舎人及び吏部司封知印郎官・少府監並びに印文を篆刻し告身を書写する人吏らは、皆中書省の側近に順番に宿直すべきである。」乙未、帝は師子門を出て、榆林坡の下に至り教練を閲した。壬寅、保寧球場に行幸し、宰臣及び文武百官に宴を賜った。宰臣張宗奭以下に分賜する物品を増やし、広王に分賜物を与えた。また湖南開元寺の禅長老可復に恵光大師の号を賜い、さらに紫衣を賜った。
二月乙丑、甘水亭に行幸した。師子門を出て、榆林の東北坡に行幸し、諸軍の兵事を教練した。潞州より帰順した軍使張行恭に錦服・銀帯並びに食料を賜った。戊辰、金鑾殿で宴を催した。甲戌、春時に事が無いため、たびたび宰臣・勲戚を命じて河南府の池亭で宴を開かせた。辛巳、楊師厚は陝州に赴任した。寒食の休暇に、諸道節度使・郡守・勲臣が競って春服を献上して賀した。また清明の宴が続き、鞍轡の馬及び金銀器・羅錦を進献する者が千万に及び、そこで宣威殿に御し、宰臣及び四品以上の文武官を宴した。己丑、光政門を出て、穀水に至り麦を見た。
三月壬辰、崇政院に行幸し勲臣を宴した。己亥、天驥院に行幸し侍臣を宴した。壬寅、甘水亭に行幸し宰臣・勲戚・翰林学士を宴した。辛亥、内殿で宰臣を宴した。丙辰、興安球場において六軍を大いに饗応し、春の時節を楽しんだ。
四月壬戌、詔して曰く。「禄をもって追養することは、王者の厚きに帰する恩を推し及ぼすものなり。静かならんと欲して風の吹くは、人子の終身の感を抱くところなり。刑部尚書致仕の張策及び三品・四品常参官二十二人の先世を、各々一等を追贈する。」乙丑、崇政院で宴を催した。帝は藩鎮にあった時及び即位後、励精して治を求め、逸楽を深く戒め、堂上で歌舞を命じたことはなかった。この日は、ただ内妓に階を昇らせ、鼓を打ち曲を弄ばせて甚だ歓び、正午に終わった。丁卯、宋州節度使・衡王友諒が瑞麦を献上した。一茎に三穂あるもの。《通鑑》によれば、友諒が瑞麦を献上すると、帝は言った。「豊年こそが上瑞である。今宋州は大水であるのに、何ぞこれを用いんや!」詔して本県令の名を除き、使者を遣わして友諒を詰責させた。丙戌、建春門に行幸して新楼を閲し、七里屯に至り麦を見、従官を楼に召して食を賜った。河南の張昌孫及び蒲州・同州の主事吏に賜物をそれぞれ差等をつけた。帝が朝邑を通り過ぎた時、鎮将の位が県令の上にあるのを見て、左右に問うと、ある者が答えて曰く。「宿官は官秩が高いからです。」帝は言った。「令長は民を治める者であり、鎮使は盗賊を捕らえる者である。しかも鎮将は多くはその邑の民である。どうして民の父母の上に居ることができようか。これは礼に外れる。」ここに至り、天下の鎮使に勅し、官秩の高低に関わらず、位は邑令の下とする。葉県鎮遏使馮徳武が蔡州西平県の境界で山賊を殺戮し、首領張濆ら七人を生け捕りにして献上した。鎮海軍節度使銭鏐が湖州において高澧を撃ち、これを大いに破り、斬り殺し生け捕りにした者が万人に及び、その郡を抜き、湖州は平定された。先に、澧が州を挙げて淮南に叛したため、詔して鏐に討たせたのである。
五月己丑朔、長雨が止まないため、壬辰に至り文明殿に御し、宰臣に命じて祠廟を分拝させた。朔日の朝から癸巳まで、内外より端午の日に巨万を奉献し、馬三千蹄を数え、その他もこれに相当し、また相率いて内塁の修築を助けた。甲辰、詔して曰く。「奇邪が正を乱し、偽りが真を奪うは、既に刑典の容れざるところであり、違犯する者は赦すべからず。応に東・西両京及び諸道州府において、偽りの犀玉真珠の腰帯・璧珥並びに諸色の売買用の品などを創造することを一切禁断し、再び造作してはならない。もし公私の人家に先に既にあるものは、所在の長吏に送納し、対面して破棄せよ。もし勅の後も敢えて違反する者あれば、必ず極刑に処す。なお所在の州府に委ねて人を差し検査収捕し、明らかに処断せしめよ。」魏博節度使・守太師・兼中書令・鄴王羅紹威が薨じた。帝は哀慟して曰く。「天は我に四海を一にさせず、何ぞ忠臣を奪うことの速きや!」詔して尚書令を追贈した。六月己未朔、詔して軍鎮に土木工事を起こすことを禁じた。
七月壬子、宰臣・河南尹・翰林学士・両街使を甘水亭で宴した。丙辰、群臣を宣威殿で宴し、賜物に差等をつけた。劉知俊が夏州を攻め逼った。《通鑑》によれば、七月、岐王と邠・涇の二帥が各々使者を遣わし晋に告げ、合兵して定難節度使李仁福を攻めることを請うた。晋王は振武節度使周徳威に兵を率いさせてこれに会わせ、五万の衆を合わせて夏州を包囲した。宣化軍留後李思安を東北面行営都指揮使とし、陝州節度使楊師厚を西路行営招討使とした。福州が方物を貢ぎ、桐皮扇を献じ、広州が犀玉を貢ぎ、舶来の薔薇水を献じた。時に陳・許・汝・蔡・潁の五州の境内に蝗の子(蝝)が災いとなったが、やがて許州が上言し、野禽が群れをなして飛び空を蔽い、十日ほどの間に蝗の子を食い尽くしたので、この年は大いに豊作となった。
八月、車駕は西征した。己巳、陝府に駐輦した。この時は雨を憂い、かつ宰臣・従官に命じて霊跡を分拝させたところ、正午に雨が降り、翌日には止んだので、帝は大いに喜んだ。辛未、老人星が現れた。この日、行宮において本府節度使楊師厚及び扈従官を宴し、師厚に帛千匹を賜い、なお西路行営招討使に任じた。丙子、文武の従官軍使以下を宴し、亀茲楽を設け、賜物に差等をつけた。
九月丁亥朔、宰臣于兢を西都に赴かせ、円丘において昊天上帝を祀らせた。甲午、西京に至った。詔を下して曰く。
朕聞く、歴代の帝王、首に推すは堯・舜、人たる父母、誰か禹・湯に比すべき。叡謀は古先より高く出で、聖徳は天下に普く聞こゆ。尚ほ或いは卑躬して士を待ち、己を屈して賢を求む。星雲を俯仰し、一民の遺逸を慮い、岩穴を網羅し、片善の韜蔵を恐る。爵禄を延べて徴求し、丹青を設けて訪召し、其れをして政を為さしめ、賢を進むるを楽しましむ。蓋し国に万機有り、朝に百揆と称す。才無くば治まらず、士を得れば則ち昌えるによる。朕中区に光宅してより、今に三載に及ぶ。宵分に寐を輟め、日旰に餐を忘れ、廟謀に力を共にするを思い、王道に永清ならんことを庶う。然るに朝廷の内、未だ昌言に尽くさざる有り、軍旅の間、亦奇策を聞くこと罕なり。言を眷みて方嶽より、下は山林に及び、豈に英奇無からんや、我が延佇に副わん。諸道の都督・観察防禦使等、或いは勲高くして世を翊け、或いは才号して人を知る。必ずや途巷の賢、芻蕘の士を備え察すべし。詔到る、精しく郡邑を捜し、博く賢良を訪い、之を喩するに千載一時を以てし、之を約するに高官美秩を以てす。求備無きを諒とし、惟だ人を得るに在り。もし卓犖不羈、沈潜自負し、霸王の上略に通じ、文武の大綱に達し、古今の刑政の源を究め、礼楽の質文の変を識る者有らば、朕は則ち次を待たずして之を委ね、非常を以てし、経綸を佐けしめん。豈に階級を労せんや。もし或いは一言俗を抜き、一事群を出す者有らば、亦た当に短を捨て長に従い、才に随い授任すべし。大小方円の器、寧んぞ九流を限らん、温良恭倹の人、十室を誣うこと難し。薦挙を勉め思い、因循に至ること無かれ。爾の発揚を俟ち、予が翹渇を慰めよ。仍って別勅に従い処分す。
辛丑、久雨を以て、命す宰臣薛貽矩に定鼎門を抃せしめ、趙光逢に嵩嶽を祠らしむ。勅す、「魏博管内の刺史、比来州務並びに督郵に委ぬ。遂に曹官に其の威権を擅にせしめ、州牧を閑冗に同じからしむ。通制に循わしめ、宜しく異端を塞ぐべし。並びに河南諸州の例に依り、刺史専達を得しむ。」壬寅、奪馬令を頒つ。先ず是れ、王師賊を撃ち、馬を獲ること多く上献す。是に至り尽く之を止む。蓋し其の奮撃の功を邀えんと欲するなり。乙巳、王師蕃寇を夏州に敗る。初め、劉知俊沙陀振武の賊帥周徳威・涇原の賊帥李継鸞を誘い歩騎五万を合し大挙し、俯して夏台を拾わんと欲す。節度使李仁福兵力俱に乏しく、急を以て来告す。先ず是れ、供奉官張漢玫宣諭して壁に在り、国礼使杜廷隠幣を夏に賜い、及び石堡寨に至り、賊の至るを聞き、防卒三百人を以て馳せて州に入る。既にして大兵囲み合す。廷隠・漢玫と指揮使張初・李君用州民防卒を率い、仁福と部分し固守し、昼夜戮力して月を逾ゆ。及び鄜・延の援至り、大軍奮撃し、之を敗る。河東・邠・岐の賊分路逃遁し、夏州の囲解く。『通鑑』に曰く、甲申、夾馬指揮使李遇・劉綰を遣わし鄜・延より銀・夏に趨らしむ。李遇等夏州に至り、岐・晋の兵皆解き去る。丙午、詔して曰く、「劉知俊貴くして方伯と為り、尊極まりて郡王と為る。而るに乃ち朝恩に背誕し、賊壘に竄投す。固より神人の共に怒る所、諒らく天地の容れざる所なり。雖も討除を命ずるも、尚ほ擒戮を稽えたり。宜しく爵賞を懸け、以て功名を大にすべし。必ず忠貞有り、咸思ひ憤発せん。劉知俊を生擒する者有らば、銭千万を賞し、節度使を授け、首級は之に次ぐ。孟審登を得る者は、銭百万、刺史を除く。孫亢・卓環・劉儒・張鄰等を得る者は、賞差有り。」乙卯、群臣を宣威殿に宴會す。