舊五代史

梁書四: 太祖本紀四

開平二年正月癸酉、帝は金祥殿に御し、宰臣・文武百官及び諸藩屏の陪臣の称賀を受け、諸道の貢挙一百五十七人は崇元門で謁見した。従子の友寧を安王に、友倫を密王に封ず。幽州の劉守文は海東の鷹鶻・蕃馬・氈罽及び方物を進上した。

去冬より雪少なく、春深く農事まさに興らんとするに、久しく時雨無し。兼ねて災疾あるを慮り、帝は深く下民を軫み、二月、庶官をして群望に遍く祀らしめ、暴露を掩瘞せしめ、近鎮に命じて古法に按じて禳祈せしむ。旬日にして雨降る。是の月、済陰王をしいす。帝は上党未だ収まらざるを以て、因りに撫巡を議し、便ち西都に赴き郊禋の礼に与からんとす。乃ち中外に曉告する令を下し、三月一日を以て東京を離れ、宰臣韓建を以て建昌宮事を権判せしむ。兵部侍郎姚洎を鹵簿使と為し、開封尹・博王友文を東都留守と為す。辛未、契丹主安巴堅、使いを遣わして良馬を貢ぐ。

三月壬申、帝親しく六軍を統べ、澤・潞に巡幸す。是の日寅の時、車駕西に幸し、宰臣並びに要切の司局は皆扈従し、晩に中牟に次ぐ。詔を下し、去年六月後、昭義行営に陣歿したる都の将吏卒、王事に死する者を追念し忠赤を思い、乃ち其の名氏を録し、各々本軍に下し、妻孥を給養せしめ、三年内官に糧賜を給せしむ。丁丑、澤州に幸す。辛巳、同州節度使劉知俊を以て潞州行営招討使と為す。壬午、扈駕の群臣を宴し並びに知俊を労し、金帯・戦袍・宝剣・茶薬を賜う。甲申、東北隅の逍遙楼に登り騎乗を搜閲す。旌甲野に満つ。丙申、招討使劉知俊上章し車駕の東京に還るを請う。蓋し小郡湫隘にして、久しく駐蹕する所に非ざればなり。達覧し、帝其の請を俞す。鴻臚卿李肼は唐室の宗属たり、萊国公に封じ、二王の後と為す。有司奏す:「萊国公李肼は三廟を留むるに合い、西都に於いて地位を選び廟宇を建立し、以て四仲の祀祭に備え、度支に命じて供給せしめ、以て彝典に遵わん。」

四月、吏部侍郎于兢を以て中書侍郎・平章事と為し、翰林奉旨学士張策を以て刑部侍郎・平章事と為す。時に帝は澤州に在り、行在に於いて二相を拝す。丙午、車駕澤州を離る。丁未、懐州に駐蹕し、宰臣文武百官を宴す。辛亥、鄭州に至る。壬子、東京に至る。丙寅、車駕繁台に幸し稼を観る。鄢陵の居人程震、両岐の麦穂並びに画図を以て来り進む。甲寅、淮寇潭・嶽の辺境を侵軼し、朗州を援けんと欲し、戦艦百余艘を以て帆を揚げて西上し、鼎口に泊す。湖南の馬殷、水軍都將黄瑀を遣わし楼船を率いて遮撃せしむ。賊衆流に沿いて宵遁し、鹿角鎮に追う。詔して戸部尚書致仕の裴迪を以て復た右僕射と為す。迪は事に敏にして言を慎み、吏治に達し、籌算に明らかなり。帝初めて夷門に節旄を建つるや、迪一たび謁見して故知の如し、乃ち従事に辟く。是れより後、三十年を歴し、四鎮の租賦・兵籍・帑廩・官吏・獄訟・賞罰・経費・運漕を委ね、事の巨細無く、皆専らにするを得たり。帝毎に出師すれば、即ち軍州事を知り、二紀に逮ぶまで、梁の闉閎を出でず、甚だ裨贊の道有り。禅代の歳、太常卿と為すを命ず。年已に耆耄に属し、視聽昏塞にして、朝謁に任ぜず。遂に老を請い、之を許す。期月にして復た起ち、庶官を師長す。

五月丁丑、王師潞州を囲むこと将に二年に及び、李進通危うきこと旦夕に在り、攻撃を俟たずして自ら降らんとす。太原の李存勖、厚幣を以て北蕃諸部を誘結し、並びに其の境内の丁壮を駆りて悉く南征決戦せしめ、以て上党の急を救わんとす。部落帳族、馬を馳せ兵を励まし、数路斉しく進み、銅鞮に於いて寨を樹て、旗壘相望む。王師潞州に敗る。己丑、諸州に令を下す。去年蝗蟲子を下したる処有り。蓋し前冬雪無く、今春亢陽にして、災沴を致し、実に壟畝を傷つく。必ず今秋重ねて稼穡を困らすを慮る。自ら知る、多くは荒陂榛蕪の内に在り。所在の長吏各々地界を分配し、精しく翦撲を加え、以て根本を絶たしむべし。壬辰の夜、火星月を犯す。太史奏す、災は荊楚に合すと。乃ち武備を設け、刑罰を寛め、人を恤み暴を禁じて以て之を禳わしむ。軍前行営都將康懐英・孫海金以下主将四十三人、右銀台門に於いて状を進めて罪を待つ。帝は去年軍を発するの日利あらず、兵法に違うを以てし、並びに釈放し、兼ねて各々分物酒食を賜い労問す。制す:義昌軍節度使劉守文は中書令を加えられ大彭王に封ぜられ、盧龍軍節度使劉守光は河間郡王に封ぜられ、許州節度使馮行襲は長楽王に封ぜらる。是の月癸未、淮賊荊州石首県を寇す。襄陽舟師を挙げて瀺港に沿いて襲い之を敗る。

六月辛亥、亢陽を以て時政の闕を慮り、乃ち詔して曰く「邇者下民喪礼し、法吏文を舞わし、銓衡既に選求に失い、州鎮又其の挙刺無し。風俗未だ厚からず、獄訟実に繁し。職此の由に在りて、上天譴に遭う」と。是に至り、囚徒を決遣し及び中外を戒励す。丙寅、月角宿を犯す。帝は其の分野兗州に在るを以て、乃ち長吏に令して戎事を治め、武備を設け、獄訟を省み、疲病を恤み、福を祈り災を禳わしめ、以て天戒に順わしむ。丙辰、邠・岐来り寇す。雍西の編戸逃避に困し、且つ禾稼を芟害し、営を結びて自ら固む。一月を逾え、同州の劉知俊、領する所の兵を率いて撃退し、幕穀に襲い至りて大いに之を破り、俘斬千計、其の器甲を収む。宋文通僅かに身を以て免る。詔して曰く「儉素を敦尚するは、抑も前聞有り。浮華を斥去するは、至理に臻らんことを期す。聞くに近日の貢奉は、競いて奢淫を務め、或いは奇巧心を蕩かし、或いは雕鐫目に溢れ、徒らに資用を殫くし、工庸を費やす有り。此の後応に諸道の進献は、以て金宝を以て戈甲剣戟を装飾するを得ず。鞍勒に至っては、塗金及び龍鳳を雕刻するを用いず。此の色有らば、所司は引進すべからず」と。邕州奏す、鏌鎁山の僧法通・道璘に道行有りと。冬に紫衣を賜う。是の月壬戌、岳州は淮賊に拠らる。帝は此の郡五嶺・三湘水陸会合の地たり、委輸商賈、靡く斯に由らざる無きを以て、遂に荊湘湖南北に令して舟師を挙げて同力致討せしむ。王師既に集まるや、淮夷は壁を毀ち郭を焚いて遁る。

秋七月甲戌、大雨が長く降り、池沼が氾濫し、農作物に甚だしい損害があった。帝は右天武軍の河亭に行幸して水勢を観察し、高僧台に行幸して禁衛六軍を閲兵した。詔して曰く、「車服は功績に応じて与えるのが古の制度である。貴賤に区別がないのは、これより大きな罪はない。内外の将相は、銀で鞍や轡を飾ることを許す。刺史・都將・内諸司使以下は、銅を用いるのみとし、尊卑を定めて永く条制としたい。なお執法官に糾察させよ。」《五代會要》に載せる七月の敕には、「祭祀の儀礼は国家の大事である。官吏が恭謹を怠り、犠牲や礼容に粗雑があると聞く。宜しく御史台に条件を条陳して奏聞させよ」とある。癸巳、禅譲以来、賢哲を求め思うところがあり、牢籠して搜訪することを下令し、好爵をもって期し、優栄をもって待ち、各々その材に随って皆登用させる。宜しく所在の長吏に切に搜訪させ、その人を得るごとに姓名を疏して奏聞せしめよ。下位にあり自ら振るわない者があれば、有司が推薦導引せよ。任用後に顕著な功労を立てたならば、別に昇進させる。」屠殺を二ヶ月間禁止する敕を下す。甲午、高明門外の繁台を講武台と為す。この台は西漢梁孝王の時、嘗てここで歌を按じ楽を閲したため、当時吹台と名付けた。その後繁氏がその側に居住し、里人は姓をもって呼んだ。時代が遠く隔たり、官吏も俗に従う。帝は毎度登って眺め、兵車を集め軍を訓え、宰臣がこの事を奏して名付けた。

八月辛亥、敕して、曝露している骸骨があれば、各々人を差し向けて埋葬せしめよ。両浙の銭鏐が奏上し、諸州の新印を鋳直して交換することを請うた。詔して諸軍の節級兵士及び供奉官・受旨殿直以下の礼敬を修めることを禁じさせる。甲寅、太史が奏上し、寿星が南方に現れた。両浙の銭鏐が奏上し、管内の紫極宮を真聖観と改め、臨安県広義郷を衣錦郷と改めた。《十国春秋》、《呉越世家》に、「八月、梁の敕により唐山県を呉昌県と封じ、唐興県を天臺県と封ず。また敕して杭・越等州を大都督ととく府に昇格す。また新城県を新登と改め、長城県を長興と改め、楽成を楽清と改む。梁の諱を避けたためなり」とある。甲子の夜、東方に大流星あり、光明地を照らし、声は裂帛の如し。唐州が上言し、白龍が現れたと、図形を進上した。

九月丙子、太原軍が陰地関を出て南に進み、郡県を寇掠したが、晋・絳は備えがあった。帝は諸将が敵を侮ることを憂い、親征を議して巡幸する詔を下し、有司に行装を整えさせた。丁丑、翠華西に狩り、宰臣・翰林学士・崇政院使・金吾仗及び諸司の要切の官は皆扈従し、余りの文武百官は東京に留まった。壬午、洛陽らくように到着。帝は文思殿に御して朝参を受け、許・汝・孟・懷の牧守が来朝し、沢州刺史劉重が敵を破る策を面陳した。癸未、西に幸し、新安に宿泊。丙戌、陝州に到着し駐蹕、蒲・雍・同・華の牧守が皆鎧甲・騎馬・戈戟・食味・方物を進上した。幽州都将康君紹等十人が蕃賊の寨内より来投し、また幽州騎将高彦章八十騎は先にへい州におり、晋州軍前に来降した。この時行在に到着し、皆分物衣服を賜い、本道に放ち帰し、懐服を示した。丁亥、陳州に到着し、扈従官に宴を賜う。戊子、延州の賊軍が上平関を寇し、また太原軍が平陽を攻め、烽火羽書が昼夜を継いで至った。乙丑、六軍統軍牛存節・黄文靖が各々配下の将士を率いて行在に赴いた。甲午、太原の歩騎数万が晋・絳を攻め逼り、旬を逾えても陥せず、大軍の到着を知り、自らその寨を焼き、夕方に遁走した。福州が玳瑁・琉璃・犀角・象牙の器並びに珍玩・香薬・奇品・海味を貢ぎ、色類甚だ多く、価累千万。

十月己亥、上は陝に在り。両浙節度使が奏上し、常州東州鎮において淮賊一万余人を斬殺し、戦船一百二隻を獲たと。行営左廂歩軍指揮使賀瑰を左龍虎統軍と為し、左天武軍夾馬指揮使尹皓を輝州刺史と為し、右天武都頭韓瑭を神捷指揮使と為し、左天武第三都頭胡賞を右神捷指揮使と為し、仍て帛を差等ありて賜う。晋州の包囲を解いた功による。尹皓の部下五百人を神捷軍と為す。乙巳、内殿に御し、宰臣扈従官合わせて四十五人を宴す。丙午、球場殿に御し、夾馬都指揮使尹皓・韓瑭以下の将士五百人を宣し、酒食を賜う。庚戌、西都に到着し、文思殿に御す。辛亥、宰臣百官が殿前で起居し、遂に内宴に赴くことを宣し、方物を差等ありて賜う。丁巳、東都に到着。己未、大明節、諸道節度使・刺史が各々鞍馬・銀器・綾帛を進献して寿を祝い、宰臣百官は相国寺で斎を設く。壬戌、宣和殿に御し、宰臣文武百官を宴す。

十一月辛未、宣和殿に御し、宰臣文武百官を宴す。大駕が還京した故による。庚辰、宣和殿に御し、宰臣文武百官を宴す。開明門を出て、高僧台に登り兵を閲す。諸道節度使・刺史が各々賀冬の田器・鞍馬・綾羅等を進上。戊子、文武百官に帛を賜う。乙未、また宣和殿において宰臣文武百官を宴す。《通鑒》に、癸巳、中書侍郎・同平章事張策が刑部尚書をもって致仕し、左僕射楊涉を同平章事と為す、とある。

十二月、二王三恪を立てる。南郊礼儀使が状を上す、「伏して考えるに《詩》に客有りと称し、《書》に虞賓を載すは、実に禅代の初めに因り、必ず興継の命を行い、之をして助祭せしめ、推恩を表し、兼ねて恪敬の文を垂れ、別に優崇の典を示す。歴代に徴し、旧章を襲用す。謹んで按ずるに、唐朝は後魏元氏の子孫を韓国公として三恪と為し、周の宇文氏の子孫を介国公と為し、隋朝楊氏の子孫を酅国公と為し、二王の後と為した。今伏して考えるに国家は禅を受け、唐朝の子孫李肼を萊国公に封じた。今参詳するに、介国公を以て三恪と為し、酅国公・萊国公を以て二王の後と為すが合う。」《五代會要》に、「十二月、左右天武を龍虎軍と改め、左右龍虎を天武軍と改め、左右天威を羽林軍と改め、左右羽林を天威軍と改め、左右英武を神武軍と改め、左右神武を英武軍と改む。前朝は龍虎六軍を置き衛士と謂う。この時に至り、天武・神武・英武等の六軍をもってその軍号を易え、勲旧を任用す」とある。癸丑、含耀門外で狩猟す。

開平三年正月戊辰朔、帝は金祥殿に御し、宰臣・翰林學士の祝賀を受け、文武百官は東上閣門において表を奉じて拝謁す。己巳、太廟四室の神主を西京に遷すことを奉行し、太常の儀仗鼓吹が導引し齋車を供奉し、文武百官は開明門外において奉辞す。甲戌、東都を発し、百官扈従し、中牟県に次ぐ。乙亥、鄭州に次ぐ。丙子、汜水県に次ぎ、河南尹張宗奭・河陽節度使張帰霸並びに来朝す。戊寅、偃師県に次ぐ。己卯、法駕・六軍の儀仗を備え西都に入る。この日、文明殿に御して朝賀を受く。詔して曰く、「近年以来、風俗未だ泰せず、兵革且つ繁し、正月の燃燈は、廃停すること已久し。今、鴻業を創開するに属し、初めて洛陽を建つ。方に上春に在り、務めて陽気を達せんとす。宜しく正月十四・十五・十六日の夜、坊市の門を開き、一任して公私に燈を燃やし福を祈らしむべし」。庚寅、親しく太廟を享す。辛卯、昊天上帝を園丘に祀る。この日、雪降りて尺を盈たすも、帝壇に升れば雪霽ゆ。礼畢みて、五鳳楼に御し、制を宣して大赦天下す。南郊行事の官、禮儀使趙光逢以下に分物を賜う。甲午、上は文思殿に御して群臣を宴し、金帛を差等ありて賜う。丙申、文武官に帛を差等ありて賜う。宣徽使王殷に命じ、絹一万匹並びに茵褥幃帟二百六十件を押送させて張宗奭に賜う。《歐陽史》に曰く、丙申、群臣尊號を上りて曰く睿文聖武廣孝皇帝。西京の貞観殿を改めて文明殿と為し、含元殿を朝元殿と為す。

二月、思政殿を改めて金鑾殿と為す。東都に敕して曰く、「州を升めて府と作し、邑を建てて都と為すより以来、邦畿未だ広からず、頗る国体を虧く。其れ滑州酸棗県長垣県・鄭州中牟県陽武県・宋州襄邑県・曹州戴邑県・許州扶溝県鄢陵県・陳州太康県等九県を以て、宜しく並びに開封府に割属せしめ、仍って畿県に升むべし」。《輿地廣記》に曰く、硃梁の時、楊氏江・淮に拠る。ここにおいて呉越の銭氏上言す、淮寇未だ平らかならざるを以てし、逆姓を聞くを恥じ、松陽県を長松と改むるを請う。丁酉、崇勳殿において群臣を宴す。甲辰、また崇勳殿において群臣を宴す。蓋し籓臣の賀を進むるに因り、勉めて之に従う。丙午、宗正寺、興極・永安・光天・咸寧諸陵を修することを請い、並びに上下の宮殿を添修し、松柏を栽植することを令す。制可す。癸亥、敕す、「豊はいの基、寢園の所在する所、悽愴情理に関わり動き、充奉自ら国章に系る。宜しく陵台を設け、兼ねて県望を升むべし。其れ輝州碭山県は宜しく赤県と為し、仍って本県令に四陵台令を兼ねしむべし」。同州節度使劉知俊奏す、延州都指揮使高萬興が部領する節級の家累三十八人来降す。

三月、萬興を檢校司徒しとと為し、丹・延等州安撫・招討等使と為す。辛未、詔して曰く、「同州は辺隅に在り、継ぎに士衆の帰化有り。暫く巡撫を思い、兼ねて指揮を要す。今、蒲・陝に幸し、九日を取って進発す」。甲戌、車駕西都を発し、百官は師子門外において奉辞す。丁丑、陝州に次ぐ。己卯、解県に次ぐ。河中節度使・冀王友謙来たり奉迎す。庚辰、河中府に至る。右軍の旧杏園に幸し講武す。丙戌、朔方節度使・兼中書令韓遜を潁川王と為す。遜は本より霊州の牙校、唐末本鎮に拠り、朝廷因って節鉞を授く。

四月丙申朔、河中に駐蹕す。壬寅辰時、駕は朝邑県界の焦黎店に巡り、冀王友謙及び崇政内諸司使扈従し、申時に至り回る。己亥、前殿に御し、宰臣及び冀王友謙の扈従官を宴す。甲寅、内殿において宰臣及び扈従官を宴す。制す、易定節度使王処直を進めて北平王と封じ、福建節度使王審知を閩王と封じ、広州節度使劉隠を南平王と封じ、同州節度使劉知俊を大彭郡王と封じ、山南東道節度使楊師厚を宏農郡王と封ず。

五月乙丑朔、朝し、遂に宰臣及び文武百官を命じ内殿において宴す。己卯、車駕西京に至る。癸未、崇勳殿に御し、宰臣及び文武官四品以上を宴す。己丑、再び崇勳殿に御し、宰臣文武官四品以上を宴す。宋州を升めて宣武軍節鎮と為し、仍って亳・輝・潁を属郡と為す。

六月庚戌、同州節度使劉知俊本郡に拠りて反す。制を令して劉知俊の在身官爵を削奪し、仍って諸軍を徴発し、速やかに進討を令す。もし軍前の将士、忠烈を懐いて機を知り、賊内の朋徒、脅従に憤いて変を識り、便能く逆豎を梟夷し、凶渠を擒獲する有らば、務めて殊功を立て、当に行って厚賞すべし。劉知俊を活捉得る者は、賞銭一万貫文を賜い、便ち忠武軍節度使を授け、並びに庄宅各一所を賜う。もし劉知浣を活捉得る者は、賞銭一千貫文を賜い、便ち刺史を除き与え、官有る者は超えて三階を転じ、官無き者は特しく兵部尚書を授く。もし劉知俊の骨肉及び近上の都將を並びに梟して闕廷に送る者は、賞賜差等有り。辛亥、駕は蒲・陝に至り、文武百官は新安県において奉迎す。劉知俊の弟、内直右保勝指揮使知浣は洛より奔りて潼関に至る。右龍虎軍十將張温以下二十二人、潼関において劉知浣を擒獲し、行在に送る。敕す、「劉知浣は逆党の中最も頭角たり。龍虎軍は親兵の内実に爪牙を冠たり。昨者潼関を攻取するに、率先して用命し、尋いで則ち知浣を擒獲し、最も上に功を立つ。頗る軍威を壮にし、将に国難を除かんとす。懸けし賞格は、便ち支分すべく、賜うを許す官階は、固より除授すべし。但だ昨、劉知浣を捉獲せしは張温等二十二人、一時向前し、共に功效を立つ。其の賞銭一千貫文の数内、一百貫文を最先に劉知浣の衙官李稠を打倒せし者に与え、四十三貫文を十將張温に与え、二十人各々に銭四十二貫八百五十文を与う。立功の敕命は便ち郡府を授くも、亦た同時に立功の人数少なからざるに縁り、除く所の刺史は、偏頗を議し難し。宜しく逐月共に正刺史料銭二百貫文の数内より支給せしむべし。十將張温一人は每月十貫文を与え、余りの二十一人は每月每人各々九貫文を分ち、仍って七月一日以後より支給することを起す。人に転じて官職を与え、仍って名銜を勘し、分析して申奏せしめ、当に施行を与えん」。是の月、知俊は鳳翔に奔り、同州平ぐ。

七月乙丑、行宮の将士で陣歿した者に対し、すべてその所在の地において槥櫝を給し、津送して郷里に帰らしむることを命ず。戦卒これを聞き悉く感涕す。丙寅、宰臣楊涉をして西都に赴かしめ、孟秋をもって太廟を享せしむ。章善門を左・右銀台門と改め、その左・右銀台門は却って左・右興善門と改む。勅す、「大内皇牆使諸門は、素来厳謹を得ず、将に整肅せんと欲し、須らく条章を示すべし。宜しく控鶴指揮をして、諸門各に控鶴官二人を添差し、守帖して門を把らしむべし。その諸司使並びに諸司諸色人は、並びに左・右銀台門外にて下馬を勒し、行官一人を領して輒くも門裏に入ることを得ざらしむべし。その逐日の諸道奉進は、客省使をして千秋門外に排当抗せしめ、控鶴官を勒して舁抬して内門前に至らしめ、例に准いて黄門殿直以下をして舁進せしめ、輒く諸色一人をして千秋門内に到らしむることを得ざらしむべし。その興善門は仍て長官に関鎖せしめ、逐日の開閉を用いざるべし」。是日、また勅す、「皇牆大内は、本深厳を尚ぶ、宮禁諸門、豈に軽易たるべけんや。未だ条制に当たらず、交下因循し、苟も出入の無常にして、且つ公私の不便ならん。須らく鈐轄を加え、以て門閭を戒むべし。宜しく宣徽院使等をして切に此の処分に准ぜしむべし」。幽州節度使河間郡王劉守光を進封して燕王とす。

八月甲午、秋稼将に登らんとし、霖雨特甚だしきにより、宰臣以下をして社稷諸祠に祷らしむ。詔して曰く、「封嶽告功は前王の重事、祭天肆覲は有国の恒規。朕以て眇身を以て、恭しく大宝に臨む、既に功德未だ天下に敷かず、而して災祥城中に互いに降る。告謝の儀に慮りを致し、斎虔の礼に缺くる有らんことを、爰に昭報を修め、以て幽通に契わんとす。宜しく中書侍郎・平章事于兢をして東嶽に往き祭拝祷祀せしめ、訖りて聞奏せしむべし」。また勅す、「朕以て干戈尚熾んじ、華夏未だ寧かならざるを、宜しく卑菲の言に循い、用て雍熙の化を致すべし。八月一日より起り、常朝は金鑾・崇勳両殿に御せず、只だ便殿にて政を聴く」。辛亥、制す、諸郡にもし陣歿の将士有らば、仰せて逐都に其の家属を安存せしめ、もし兄弟児姪有らば、便ち衣糧を給与して役に充てしむべし。故山東道節度使留後王玨を贈りて太保とし、故同州観察判官盧匪躬を贈りて工部尚書とす。玨は故河陽の将、累ね軍功を以て郡守となり、襄陽に於て留事を主り、小将王求に殺さる。匪躬は嘗て劉知俊の判官たり、知俊反すに、偕に行かず、乱兵に害せらる。勅す、「建国の初、用兵未だ罷まず、諸道の章表は皆軍機に係る、滞留を欲せず、用て緩急を防がんとす。その諸道所有の軍事申奏は、宜しく右銀台門に至りて客省に委ね、画時に引進せしむべし。諸道の公事は、即ち前に依り四方館の例に准じて収接すべし」。司天臺奏す、「今月二十七日平明前、東南丙上去山高三尺以来、老人星見る、測るに井宿十一度に在り、その色光明闊大なり」。勅す、「所在の長吏は雑差役を放ち、両税外妄りに科配することを得ず。自今以後州県府鎮、凡そ使命經過するも、もし敕文券を執せざれば、並びに妄りに人驢を差し及び一物已上を取索することを得ず。又、今歳の秋田は皆大稔を期す、仰せて所在切に条流の如く本分納税及び加耗の外、更に科索せしむること勿れ。切に所由人を戒めて更に郷村に於て乞托し人を擾さしむること得ざらしむべし」。

閏八月、襄陽の叛将李洪、小将を差して表を進む、帝は含宏を示し、特に敕書を賜い慰諭す。また制す、「左馮背叛し、元悪遁逃す、聞くに相済の徒は多くは脅従の輩なりと、若し能く心を回らして国に向かい、禍を転じて身を全うせば、当に恩を加え、必ず罪を問わじ。仍て同・華・雍等州に切に招諭を加えしめ、若し能く温韜を梟斬し、或いは鎮寨を以て帰化せば、必ず厚賞を加え、仍て官班を奨し、兼ねて本界に委ねて人戸を招復し、切に安存を加うべし」。己卯、西苑に幸して稼を観る。