舊五代史

梁書三: 太祖本紀三

梁書三: 太祖本紀三

開平元年正月丁亥、帝は長蘆より還り、魏州に駐る。節度使せつどし羅紹威は帝の軍が還るに当たり、不測の患いあるを慮り、ここに供給を極めて厚くし、密かに天人の望みを切に陳べる。帝は拒みて納れざるも、心に之を徳とす。壬寅、帝は長蘆より至る。この日、慶雲府署の上を覆う。甲辰、天子は御史大夫薛貽矩を遣わして禅代の意を伝えしむ。貽矩は帝に謁し、北面の礼を陳ぶ。帝は揖して階に昇らしむ。貽矩曰く、「殿下の功德人に及び、三霊の卜する所既に定まれり。皇帝まさに詔を裁し、舜・禹の事を行わんと議す。臣安んぞ違えんや」と。既にして砌の下に拝伏す。帝は側身して躬を避く。

原文開平元年正月丁亥,帝回自長蘆,次於魏州。節度使羅紹威以帝回軍,慮有不測之患,由是供億甚至,因密以天人之望切陳之。帝雖拒而不納,然心德之。壬寅,帝至自長蘆。是日,有慶雲覆於府署之上。甲辰,天子遣御史大夫薛貽矩來傳禪代之意。貽矩謁帝,陳北面之禮,帝揖之升階。貽矩曰:「殿下功德及人,三靈所卜已定。皇帝方議裁詔,行舜、禹之事,臣安敢違。」既而拜伏於砌下,帝側躬以避之。

二月戊申、帝の家廟の棟間に五色の芝生ず。状は芙蓉の如く、紫煙蒙護し、数日散ぜず。また、この月、家廟第一室の神主の上に、五色の衣自然に生ず。識者は梁の運の興るを知れり。唐の乾符中、木星南斗に入り、数夕退かず。諸道都統晉國公王鐸之を観て、知星者に吉凶の在る所を問う。皆曰く、「金火土斗を犯すれば即ち災と為る。唯だ木は福と為るべきのみ」と。或いはまた然りとす。時に術士辺岡なる者有り。天文に洞曉し、陰陽曆数の妙に博通し、天下の奇秘を窮め、先見の明有り。京房・管輅と雖も過ぐる能わず。鐸召して之を質す。岡曰く、「惟だ木は福神と為り、以て帝王を占うべし。然らば則ち今に福せずとも、必ず後に験有るべし。敢えて言わず。他日其の験する所を証せんことを請う」と。一日、また密かに岡を召し、因りて堅く其の詳を語らんことを請う。三・四に至り、岡辞するを得ず。鐸乃ち左右を屏去す。岡曰く、「木星斗に入るは、帝王の兆なり。木斗の中に在り、『朱』の字あざななり。此を以て之を観れば、将来当に朱氏君と為る者有るべし。天戒むるなり。且つ木の数三、其の禎や三紀の内に応ぜんか」と。鐸之を聞き、復た言有ること無し。天后朝に讖辞有りて云く、「首尾三鱗六十年、両角犢子自ら狂顛し、龍蛇相い闘いて血川と成る」と。当時好事者解して云く、「両角犢子は牛なり。必ず牛姓有りて唐の祚を干すべし」と。故に周子諒牛仙客を弾し、李徳裕牛僧孺を謗る、皆図讖に応ずるを以て辞と為す。然れども「朱」の字は「牛」の下に「八」を安んず。八は即ち角の象なり。故に朱滔・朱泚喪乱の禍を構え、妄らならぬ福を冀う。豈に帝に応ずるを知らんや。

原文二月戊申,帝之家廟棟間有五色芝生焉,狀若芙蓉,紫煙蒙護,數日不散。又,是月,家廟第一室神主上,有五色衣自然而生,識者知梁運之興矣。唐乾符中,木星入南斗,數夕不退,諸道都統晉國公王鐸觀之,問諸知星者吉凶安在,咸曰:「金火土犯斗即為災,唯木當為福耳!」或亦然之。時有術士邊岡者,洞曉天文,博通陰陽曆數之妙,窮天下之奇秘,有先見之明,雖京房、管輅不能過也。鐸召而質之,岡曰:「惟木為福神,當以帝王占之。然則非福於今,必當有驗於後,未敢言之,請他日證其所驗。」一日,又密召岡,因堅請語其詳,至於三四,岡辭不獲。鐸乃屏去左右,岡曰:「木星入斗,帝王之兆也。木在斗中,『朱』字也。以此觀之,將來當有朱氏為君者也,天戒之矣。且木之數三,其禎也應在三紀之內乎!」鐸聞之,不復有言。天后朝有讖辭云:「首尾三鱗六十年,兩角犢子自狂顛,龍蛇相鬥血成川。」當時好事者解云:「兩角犢子,牛也,必有牛姓干唐祚。」故周子諒彈牛仙客,李德裕謗牛僧孺,皆以應圖讖為辭。然「朱」字「牛」下安「八」,八即角之象也,故朱滔、朱泚構喪亂之禍,冀無妄之福,豈知應之帝也。

四月、唐帝は御札を以て宰臣張文蔚等に勅し、法駕を備えて梁朝を奉迎せしむ。宋州刺史王皋は赤烏一雙を進む。また、宰臣張文蔚は正しく伝国宝・玉冊・金宝及び文武群官・諸司の儀仗法物及び金吾きんご左右二軍を押し、鄭州を離る。丙辰、上源駅に達す。この日、慶雲見ゆ。令して曰く、「王者創業して邦を興し、名を立てて世に伝うるは、必ず知り難きを以て訓を示し、避け易きに従いて以て人に便ならしむ。(*案:此れ以下闕文有り。)或いは其の符命を稽え、彼の開基の義に応じ、諸れの象徳の言を垂る。爰に簡書を考へ、往代に求めば、周王昌・発の号、漢帝詢・衍の文、或いは一徳に従いて徽称と為り、或いは二名を為して更易す。先王の令典、縑緗に布かる。寡人の本名、二字を兼ぬ。且つ帝王の号に異なり、仍へて易の難きを兼ぬ。郡職県官、多く須らく改換すべし。況んや宗廟遷らざるの業、憲章百世の規、事典儀に葉い、豈に革易を憚らんや。寡人今名を晃に改む。是れ以て天意雅かに明徳に符し、日光顕かに瑞文に契う。万邦を昭融するは、理斯に是に在り。庶くは昊穹の意に順い、永く康済の期に臻らん。宜しく有司をして分ちて天地宗廟に告げしむべし。其の旧名は、中外の章疏に回避有ること更に有るべからず」と。時に将に禅を受けんとし、教を下して本名の二字帝王の称に異なるを以て、故に名を改む。己未、文武の百官一百六十人に本色衣一副を賜う。戊辰、即位す。制して曰く、

原文四月,唐帝御劄敕宰臣張文蔚等備法駕奉迎梁朝。宋州刺史王皋進赤烏一雙。又,宰臣張文蔚正押傳國寶、玉冊、金寶及文武群官、諸司儀仗法物及金吾左右二軍離鄭州。丙辰,達上源驛。是日,慶雲見。令曰:「王者創業興邦,立名傳世,必難知而示訓,從易避以便人。案:此下有闕文。或稽其符命,應彼開基之義,垂諸象德之言。爰考簡書,求於往代,周王昌、發之號,漢帝詢、衍之文,或從一德以徽稱,或為二名而更易。先王令典,布在縑緗。寡人本名,兼於二字,且異帝王之號,仍兼易之難,郡職縣官,多須改換。況宗廟不遷之業,憲章百世之規,事葉典儀,豈憚革易。寡人今改名晃,是以天意雅符於明德,日光顯契于瑞文,昭融萬邦,理斯在是。庶順昊穹之意,永臻康濟之期。宜令有司分告天地宗廟,其舊名,中外章疏不得更有回避。」時將受禪,下教以本名二字異帝王之稱,故改名。己未,賜文武百官一百六十人本色衣一副。戊辰,即位。制曰:

王者は天に命を受け、四海に光宅し、上帝に祗事し、下民を寵綏す。故を革め新たに鼎す。諒に歴数にして先づ定まり、業を創め統を垂る。図籙以て差無きを知る。神器の帰する所、祥符応ず。是を以て三正互いに用い、五運相い生ず。前朝道消え、中原政散ず。烏を瞻みて定まる莫く、鹿を失いて追い難し。朕は風雷を経緯し、霜露に沐浴し、四征七伐、垂ること三十年、齊盟を糾合し、唐室を翼戴す。山に随いて木を刊つ、胼胝を憚ること無く、袂を投げ戈を揮い、寢処に遑あらず。上穹の賛する所に洎りて、広運の興らざるを知り、漢を輔くるの謀に諧う莫く、徒らに殷に事うるの礼を罄す。唐主は英華已に竭き、算祀終わり有るを知り、龜鼎を釈して遺すが如くし、劍紱を推して相い授く。朕は徳嗣ぐに弗くんばと懼れ、謙を執り允に恭しく、駿命を南河に避け、清風を穎水に眷る。而るに乃ち列嶽の群後、盈廷の庶官、東西南北の人、斑白緇黄の衆、朕の功上下に蓋い、沢幽深に被るを謂い、天に応じて時に順い、家を化して国と為すべしとす。彼の億兆を拒み、再び三たびに至る。且つ曰く七政已に齊しく、万幾曠う難しと。勉めて令典に遵い、爰に鴻名を正し、天地神祇に告げ、宗廟社稷を建つ。

原文王者受命於天,光宅四海,祗事上帝,寵綏下民。革故鼎新,諒歷數而先定,創業垂統,知圖籙以無差。神器所歸,祥符合應。是以三正互用,五運相生,前朝道消,中原政散,瞻烏莫定,失鹿難追。朕經緯風雷,沐浴霜露,四征七伐,垂三十年,糾合齊盟,翼戴唐室。隨山刊木,罔憚胼胝;投袂揮戈,不遑寢處。洎上穹之所贊,知廣運之不興,莫諧輔漢之謀,徒罄事殷之禮。唐主知英華已竭,算祀有終,釋龜鼎以如遺,推劍紱而相授。朕懼德弗嗣,執謙允恭,避駿命于南河,眷清風于穎水。而乃列嶽群後,盈廷庶官,東西南北之人,斑白緇黃之眾,謂朕功蓋上下,澤被幽深,宜應天以順時,俾化家而為國。拒彼億兆,至於再三。且曰七政已齊,萬幾難曠。勉遵令典,爰正鴻名,告天地神祗,建宗廟社稷。

顧みるに惟だ涼徳を以て、何ぞ楽推に副わん。栗として氷を履むが若く、懍として朽を馭するが如し。金行祚を啓き、玉曆元を建つ。方に経治の規を弘めんとし、宜しく惟新の令を布くべし。唐の天祐四年を改めて開平元年と為す可し。国号大梁。《書》に虞賓を載す。是れ令範と為り、《詩》に周客を称す。蓋し明文有り。是を用いて先づ封じ、以て後嗣を礼す。宜しく曹州済陰の邑を以て唐主に奉じ、済陰王に封ずべし。凡そ軌儀と曰うは、並びに故実に遵う。姬庭の多士、比は是れ殷の臣、楚国の群材、終に晋の用と為る。歴観前載、自ら通規有り。但だ故事の文に遵い、公に在るの効を替えること無かれ。応に是れ唐朝中外の文武旧臣、見任前資の官爵は、一切仍って旧の如くすべし。凡そ百位有るは、厥の章を易うること無く、力を陳べて時に済い、瘁を尽くして我に事えよ。古えに興王の地、受命の邦は、大勳を集むる庶方に異なり、慶沢に沾うる所宜しく等を加うべし。故に豊沛は啓祚の美を著し、穰鄧は建都の栄有り。用て鴻基を壮にし、且つ故里を旌す。爰に令典に遵い、先づ殊恩を示す。宜しく汴州べんしゅうを升めて開封府と為し、東都と名づくべし。其の東都は西都に改め、仍って京兆府を廃して雍州佑国軍節度使と為す。(*《五代会要》:「四月、京兆府を大安府と改め、長安ちょうあん県を大安県とし、万年県を大年県とす。仍って佑国軍節度使の額を置く。始めて韓建を佑国軍節度使に命ず。」)

原文顧惟涼德,曷副樂推,栗若履冰,懍如馭朽。金行啟祚,玉曆建元,方宏經治之規,宜布惟新之令。可改唐天祐四年為開平元年,國號大樑。《書》載虞賓,斯為令範,《詩》稱周客,蓋有明文。是用先封,以禮後嗣,宜以曹州濟陰之邑奉唐主,封為濟陰王。凡曰軌儀,並遵故實。姬庭多士,比是殷臣;楚國群材,終為晉用。歷觀前載,自有通規,但遵故事之文,勿替在公之效。應是唐朝中外文武舊臣,見任前資官爵,一切仍舊。凡百有位,無易厥章,陳力濟時,盡瘁事我。古者興王之地,受命之邦,集大勳有異庶方,沾慶澤所宜加等。故豐沛著啟祚之美,穰鄧有建都之榮,用壯鴻基,且旌故里,爰遵令典,先示殊恩。宜升汴州為開封府,建名東都。其東都改為西都,仍廢京兆府為雍州佑國軍節度使。《五代會要》:「四月,改京兆府為大安府,長安縣為大安縣,萬年縣為大年縣,仍置佑國軍節度使額。始命韓建為佑國軍節度使。」

この日、大酺(盛大な酒宴)を催し、賞賜に差等があった。《通鑒》によれば、甲辰の日、唐の昭宣帝は御劄(詔書)を降して梁に禅位した。摂中書令ちゅうしょれい張文蔚を冊礼使とし、礼部尚書蘇循をその副使とした。摂侍中じちゅう楊涉を押伝国宝使とし、翰林院学士張策をその副使とした。御史大夫薛貽矩を押金宝使とし、尚書左丞趙光逢をその副使とした。百官を率いて法駕を整え、大梁に赴いた。甲子の日、張文蔚・楊涉が輅(天子の車)に乗り上源駅から到着し、冊宝を従える諸司は各々儀衛・鹵簿を備えて前導し、百官はその後ろに従い、金祥殿の前にこれを陳列した。王は袞冕を着け、皇帝の位に即いた。張文蔚・蘇循が冊を奉じて殿に昇り進読し、楊涉・張策・薛貽矩・趙光逢が順に宝を奉じて殿に昇り、読み終わると降殿し、百官を率いて舞蹈して賀した。帝はそこで文蔚らと元徳殿で宴を開いた。帝は酒を挙げて言った、「朕が輔政して未だ久しからず、これは皆諸公の推戴の力である」。文蔚らは慚懼し、俯伏して答えることができず、ただ蘇循・薛貽矩及び刑部尚書張禕のみが盛んに帝の功徳を称え、天に応じ人に順うべきであると述べた。宋州刺史王皋が両岐麦を進め、陳州の袁象先が白兎一匹を進めた。これらを史館に付して編録させ、併せて百官に示した。詔して、在京の司及び諸軍州県の印は一例として鋳換えさせ、その篆文は各々旧の如くとした。辛未、武安軍節度使馬殷を進めて楚王に封じた。太府卿敬翔を以て崇政院を知らしめ、翔は帷幄の謀に参与したので、まずこれを抜擢したのである。四代の廟号びょうごうを追尊した。高祖こうそ媯州府君に上諡おくりなして宣元皇帝と曰い、廟号を肅祖とし、太廟第一室、陵号を興極陵とし、祖妣高平県君范氏を追諡して宣僖皇后とした。皇曾祖宣恵王に上諡して光献皇帝と曰い、廟号を敬祖とし、第二室、陵号を永安とし、祖妣秦国夫人楊氏を追諡して光孝皇后とした。皇祖武元王に上諡して昭武皇帝と曰い、廟号を憲祖とし、第三室、陵号を光天とし、祖妣呉国夫人劉氏を追諡して昭懿皇后とした。皇考文明王に上諡して文穆皇帝と曰い、廟号を烈祖とし、第四室、陵号を咸寧とし、皇妣晋国太夫人王氏を追諡して文恵皇后とした。宣武せんぶ節度副使皇子友文を以て開封尹とし、建昌院事を判じさせた。友文は、本来康氏の子であるが、帝が養子としたものである。

原文是日大酺,賞賜有差。《通鑒》:甲辰,唐昭宣帝降御劄禪位於梁。以攝中書令張文蔚為冊禮使,禮部尚書蘇循副之;攝侍中楊涉為押傳國寶使,翰林院學士張策副之;御史大夫薛貽矩為押金寶使,尚書左丞趙光逢副之。帥百官備法駕,詣大樑。甲子,張文蔚、楊涉乘輅自上源驛至,從冊寶諸司各備儀衛鹵簿前導,百官從其後,至金祥殿前陳之。王被袞冕,即皇帝位。張文蔚、蘇循奉冊升殿進讀,楊涉、張策、薛貽矩、趙光逢以次奉寶升殿,讀已,降,帥百官舞蹈稱駕。帝遂與文蔚等宴於元德殿。帝舉酒曰:「朕輔政未久,此皆諸公推戴之力。」文蔚等慚懼,俯伏不能對,獨蘇循、薛貽矩及刑部尚書張禕盛稱帝功德,宜應天順人。宋州刺史王皋進兩岐麥,陳州袁象先進白兔一,付史館編錄,兼示百官。詔在京司及諸軍州縣印一例鑄換,其篆文則各如舊。辛未,武安軍節度使馬殷進封楚王。乙太府卿敬翔知崇政院,翔與帷幄之謀,故首擢焉。追尊四代廟號:高祖媯州府君上諡曰宣元皇帝,廟號肅祖,太廟第一室,陵號興極陵,祖妣高平縣君范氏追諡宣僖皇后;皇曾祖宣惠王上諡曰光獻皇帝,廟號敬祖,第二室,陵號永安,祖妣秦國夫人楊氏追諡光孝皇后;皇祖武元王上諡曰昭武皇帝,廟號憲祖,第三室,陵號光天,祖妣吳國夫人劉氏追諡昭懿皇后;皇考文明王上諡曰文穆皇帝,廟號烈祖,第四室,陵號咸寧,皇妣晉國太夫人王氏追諡文惠皇后。以宣武節度副使皇子友文為開封尹,判建昌院事。友文,本康氏子也,帝養以為子。

この月、宮殿の門及び都門の名称を定めた。正殿を崇元殿、東殿を元徳殿、内殿を金祥殿、万歳堂を万歳殿とし、門は殿名の如くとした。帝は自ら金徳をもって王たるとし、また福建より鸚鵡が献上され、諸州相継いで白烏・白兎及び合蒂(一つの茎に二つの花がつく)の白蓮を上献したので、金行が運に応ずる兆しであると考え、故に殿を金祥と名付けたのである。大内の正門を元化門、皇牆の南門を建国門、滴漏門を啓運門、下馬門を升龍門、元徳殿前門を崇明門、正殿東門を金烏門、西門を玉兎門、正衙東門を崇礼門、東偏門を銀台門、宴堂門を徳陽門、天王門を賓天門、皇牆東門を寛仁門、浚儀門を厚載門、皇牆西門を神獣門、望京門を金鳳門、宋門を観化門、尉氏門を高明門、鄭門を開明門、梁門を乾象門、酸棗門を興和門、封丘門を含耀門、曹門を建陽門とした。開封・浚儀を赤県に昇格させ、尉氏・封丘・雍丘・陳留を畿県とした。《五代会要》によれば、四月、左右長直を左右龍虎軍に、左右内衙を左右羽林軍に、左右堅鋭夾馬突将を左右神武軍に、左右親随軍将馬軍を左右龍驤軍に改めた。

原文是月,制宮殿門及都門名額:正殿為崇元殿,東殿為元德殿,內殿為金祥殿,萬歲堂為萬歲殿,門如殿名。帝自謂以金德王,又以福建上獻鸚鵡,諸州相繼上白烏、白兔洎白蓮之合蒂者,以為金行應運之兆,故名殿曰金祥。以大內正門為元化門,皇牆南門為建國門,滴漏門為啟運門,下馬門為升龍門,元德殿前門為崇明門,正殿東門為金烏門,西門為玉兔門,正衙東門為崇禮門,東偏門為銀台門,宴堂門為德陽門,天王門為賓天門,皇牆東門為寬仁門,浚儀門為厚載門,皇牆西門為神獸門,望京門為金鳳門,宋門為觀化門,尉氏門為高明門,鄭門為開明門,梁門為乾象門,酸棗門為興和門,封丘門為含耀門,曹門為建陽門。升開封、浚儀為赤縣,尉氏、封丘、雍丘、陳留為畿縣。《五代會要》:四月,改左右長直為左右龍虎軍,左右內衙為左右羽林軍,左右堅銳夾馬突將為左右神武軍,左右親隨軍將馬軍為左右龍驤軍。

五月、唐朝の宰臣張文蔚・楊涉を並びに門下侍郎・平章事とした。御史大夫薛貽矩を中書侍郎・平章事とした。帝は禅位を受け初めて、治を求めること特に切にし、宰臣に委ねて賢良を捜訪させた。あるいは下位にあって器業を抱負し久しく伸び得なかった者があれば、特に抜擢して用いた。政理の得失の道を明らかにし時病を規救する者があれば、章疏を陳べることを許し、自ら利害を鑑択して施行し、その後爵秩を以て賞した。丘園に晦跡し聞達を求めない者があれば、その長吏に命じて礼を備えて邀致させ、遺逸の恨みなからんことを冀った。河南尹兼河陽節度使張全義を進めて魏王とし、両浙節度使銭鏐を進めて呉越王とした。辛巳、有司が奏上して、降誕の日を大明節とし、休暇を前後各一日と定めた。壬午、保義軍節度使朱友謙が百官の衣二百副を進めた。乙酉、皇兄全昱を立てて広王とし、皇子友文を博王、友珪を郢王、友璋を福王、友雍を賀王、友徽を建王とした。辛卯、東都の旧第を建昌宮とし、判建昌院事を建昌宮使に改めた。初め、帝が創業の時、四鎮の兵馬倉庫の籍が繁雑であったため、総じて建昌院を置いてこれを管領させたが、ここに至って宮に改めたのは、その事を重んじたのである。甲午、詔して天下の管属及び州県の官名で廟諱いみなに犯すものは、各々改換すべきであるとした。城門郎を門局郎に改め、茂州を汶州に改め、桂州慕化県を帰化県に改め、潘州茂名県を越裳県に改めた。魏泰の《東軒筆録》によれば、京師では城外を州東・州西・州南・州北と呼び、韋城・相城・胙城等の県は、ただ韋県・相県・胙県と呼ぶが、これは梁の時の避諱の旧を沿うものである。詔して枢密院を崇政院に改めるべきとし、知院事敬翔を院使とした。文思院を乾文院に改め、同和院を佐鸞院に改めた。《五代会要》によれば、五月、御食使を司膳使に、小馬坊使を天驥使に改めた。西都の水北宅を大昌宮とし、雍州太清宮を廃し、西都太微宮、亳州太清宮を皆観とし、諸州の紫極宮を皆老君廟に改めた。泉州の僧智宣が西域より帰り、辟支仏骨及び梵夾の経律を進めた。丙申、元徳殿に御し、諸軍使劉捍・符道昭以下を宴犒し、物を賜うこと差等があった。

原文五月,以唐朝宰臣張文蔚、楊涉並為門下侍郎、平章事;以御史大夫薛貽矩為中書侍郎、平章事。帝初受禪,求理尤切,委宰臣搜訪賢良。或有在下位抱負器業久不得伸者,特加擢用;有明政理得失之道規救時病者,可陳章疏,當親鑒擇利害施行,然後賞以爵秩;有晦跡丘園不求聞達者,令彼長吏備禮邀致,冀無遺逸之恨。進封河南尹兼河陽節度使張全義為魏王,兩浙節度使錢鏐進封吳越王。辛巳,有司奏,以降誕之日為大明節,休假前後各一日。壬午,保義軍節度使朱友謙進百官衣二百副。乙酉,立皇兄全昱為廣王,皇子友文為博王,友珪為郢王,友璋為福王,友雍為賀王,友徽為建王。辛卯,以東都舊第為建昌宮,改判建昌院事為建昌宮使。初,帝創業之時,以四鎮兵馬倉庫籍繁,因總置建昌院以領之,至是改為宮,蓋重其事也。甲午,詔天下管屬及州縣官名犯廟諱者,各宜改換:城門郎改為門局郎,茂州改為汶州,桂州慕化縣改為歸化縣,潘州茂名縣改為越裳縣。魏泰《東軒筆錄》:京師呼城外為州東、州西、州南、州北,而韋城、相城、胙城等縣,但呼韋縣、相縣、胙縣,蓋沿梁時避諱之舊也。詔樞密院宜改為崇政院,以知院事敬翔為院使。改文思院為乾文院,同和院改為佐鸞院。《五代會要》:五月,改御食使為司膳使,小馬坊使為天驥使。以西都水北宅為大昌宮,廢雍州太清宮,改西都太微宮,亳州太清宮皆為觀,諸州紫極宮皆為老君廟。泉州僧智宣自西域回,進辟支佛骨及梵夾經律。丙申,御元德殿,宴犒諸軍使劉捍、符道昭已下,賜物有差。

この月、青州・許州・定州の三鎮節度使が内宴の開催を請い、各々方物を賜った。青州節度使韓建を以て司徒しと・平章事を守らせた。帝は建に文武の才があり、且つ稼穡の利害・軍旅の事・経費の籌度に詳しいので、尽くこれを詢ねんと欲し、恩沢は時に特異で、比するもの稀であった。随って上相に拝し、賜賚甚だ厚かった。宿州刺史王儒が白兎一匹を進め、濮州刺史が嘉禾・瑞麦を図して進めた。広州より奇宝・名薬を進め、品類甚だ多かった。河南尹張全義が開平元年以前の羨余銭十万貫・綢六千匹・綿三十万両を進め、併せて毎年の上供定額として毎年貢絹三万匹とすることを請い、常式とした。荊南の高季昌が瑞橘数十顆を進め、質状百味、常の貢に倍して勝れていた。且つ橘は冬に熟すべきものであるが、今は仲夏である。時に人皆その事を異とし、因って瑞と称したのである。

原文是月,青州、許州、定州三鎮節度使請開內宴,各賜方物。以青州節度使韓建守司徒、平章事。帝以建有文武材,且詳於稼穡利害、軍旅之事、籌度經費,欲盡詢焉,恩澤特異于時,罕有比者;隨拜為上相,賜賚甚厚。宿州刺史王儒進白兔一,濮州刺史圖嘉禾瑞麥以進。廣州進奇寶名藥,品類甚多。河南尹張全義進開平元年已前羨余錢十萬貫、綢六千匹、綿三十萬兩,仍請每年上供定額每歲貢絹三萬匹,以為常式。荊南高季昌進瑞橘數十顆,質狀百味,倍勝常貢。且橘當冬熟,今方仲夏,時人咸異其事,因稱為瑞。

六月、乾元院に幸し、宰臣・学士及び諸道より入貢した陪臣を宴して召す。己亥、帝崇元殿に御し、内より追尊四廟の上諡号玉冊宝合わせて八副を出し、宰臣文武百官儀仗鼓吹に導引されて太廟に至りて行事す。癸卯、司天監奏す「日辰内に『戊』の字あり、『武』と改むるを請う」と。これに従う。癸亥、詔して以前朝の官僚、南荒に譴逐せられ、積年未だ昭雪せられざる者あり、その間、材器を抱きて時に嫉まれたる者あり、深く冤抑を負う。仍ってその名姓を録し、官資を尽く復し、兼ねて諸道に告諭して津致して闕に赴かしむ。もし既に亡歿したる者は、並びに帰葬を許し、以て恩蕩を明らかにす。西都徽安門北路が大内宮垣に逼近し、兼ねて民便に非ざるを以て、令して自ら榆林より直ちに端門の南に趨くに移す。耀州報恩禅院を改めて興国寺と為す。馬殷、淮寇を破ると奏す。静海軍節度使曲裕卒す。

原文六月,幸乾元院,宴召宰臣、學士及諸道入貢陪臣。己亥,帝御崇元殿,內出追尊四廟上諡號玉冊寶共八副,宰臣文武百官儀仗鼓吹導引至太廟行事。癸卯,司天監奏:「日辰內有『戊』字,請改為『武』。」從之。癸亥,詔以前朝官僚,譴逐南荒,積年未經昭雪,其間有懷抱材器為時所嫉者,深負冤抑。仍令錄其名姓,盡復官資,兼告諭諸道令津致赴闕。如已亡歿,並許歸葬,以明恩蕩。以西都徽安門北路逼近大內宮垣,兼非民便,令移自榆林直趨端門之南。改耀州報恩禪院為興國寺。馬殷奏破淮寇;靜海軍節度使曲裕卒。

七月丙申、静海軍行営司馬権知留後曲顥を以て起復し安南都護と為し、節度使を充てしむ。その月、勅して虎牢関を改めて軍と為し、仍って虎牢関軍使を置く。己亥、皇妣を追尊して皇太后と為す。

原文七月丙申,以靜海軍行營司馬權知留後曲顥起復為安南都護,充節度使。《五代會要》:七月,敕云:「建國遷都,俾新其制,況山河之險,表裏為防。今二京俱在關東以內,仍以潼關隸陝州,復置河潼軍使,命虢州刺史兼領之。」其月,敕改虎牢關為軍,仍置虎牢關軍使。己亥,追尊皇妣為皇太后。

八月、潞州軍前に屯する師旅、壁壘未だ収まらず、乃ち別に戎帥を議し、ここに亳州刺史李思安を以て潞州行営都統に充てしむ。勅す「朝廷の儀、封冊を重しと為し、以て勳烈に報い、以て恩栄を隆くす、固より親臨すべく、典礼を光らしむるに式す。旧章久しく缺けたり、我より復た行う。今後、毎に大臣を封冊するに、宜しく有司に臨軒の礼を備えしむべし」。甲子平明前、老人星南極に見ゆ。壬申、密州嘉禾を進め、又合歓榆樹あり、並びに図形を以て献ず。是の月、隰州奏す、大寧県より固鎮に至る上下二百里、今月八日、黄河清く、十月に至るも故の如しと。

原文八月,以潞州軍前屯師旅,壁壘未收,乃別議戎帥,於是以亳州刺史李思安充潞州行營都統。敕:「朝廷之儀,封冊為重,用報勳烈,以隆恩榮,固合親臨,式光典禮。舊章久缺,自我復行。今後每封冊大臣,宜令有司備臨軒之禮。」《五代會要》:八月,敕云:「諸道所有軍事申奏,令直至右銀台門,委客省使畫時引進,尋常公事依前四方館收接。」甲子平明前,老人星見於南極。壬申,密州進嘉禾,又有合歡榆樹,並圖形以獻。是月,隰州奏,大寧縣至固鎮上下二百里,今月八日,黃河清,至十月如故。

九月辛丑、西京大内より両宮の内人及び前朝の宮人を放出し、その適う所に任す。勅す、近年文武官諸道奉使は、皆所在に於いて分外に停住し、年を逾え歳に渉り、未だ闕に帰ると聞かず。惟だ州郡を労費するのみならず、抑もまた国経を侮慢す。臣節既に虧けば、憲章安くにか在らん。自今以後、両浙・福建・広州・安南・邕・容等の道の使は到発して一月の住を許す。湖南・洪・鄂・黔・桂は二十日の住を許す。荊・襄・同・雍・鎮・定・青・滄は十日の住を許す。その余の側近は三五日を過ぎず。凡そ往来の道路は、遠近の里数に拠り、日に両驛を行く。もし疾患及び江河の阻隔に遇えば、所在の長吏に委ねて事由を具して奏聞せしむ。もし或いは違う有らば、当に朝典を行い、御史を命じて点検糾察せしめ、以て慢官を儆らしむ。魏博羅紹威の二男廷望・廷矩、年幼稚に在りて、皆材器有り、帝其の藩屏勲臣の胄たるを以て、宜しく非次の用を受くべしとし、皆擢いて郎と為す。恩命既に行われたる後、二子も亦班列に就く。紹威乃ち上章し、歯幼にして未だ公事に任ずる能わずを以て、主印・宿直を免ぜんことを乞う。これに従う。鎮東軍の神祠を封じて崇福侯と為す。浙西奏す、道門威儀鄭章・道士夏隠言は、焚修精志し、妙に希夷に達し、諸の輩流を推するに実に道業有りと。鄭章は宜しく号を貞一大師と賜い、仍って名を元章とすべく、隠言には紫衣を賜う。

原文九月辛丑,西京大內放出兩宮內人及前朝宮人,任其所適。敕以近年文武官諸道奉使,皆於所在分外停住,逾年涉歲,未聞歸闕。非惟勞費州郡,抑且侮慢國經。臣節既虧,憲章安在。自今後兩浙、福建、廣州、安南、邕、容等道使到發許住一月;湖南、洪、鄂、黔、桂許住二十日;荊、襄、同、雍、鎮、定、青、滄許住十日;其餘側近不過三五日。凡往來道路,據遠近里數,日行兩驛。如遇疾患及江河阻隔,委所在長吏具事由奏聞。如或有違,當行朝典,命御史點檢糾察,以儆慢官。魏博羅紹威二男廷望、廷矩,年在幼稚,皆有材器,帝以其籓屏勳臣之胄,宜受非次之用,皆擢為郎。恩命既行之後,二子亦就班列。紹威乃上章,以齒幼未任公事,乞免主印、宿直。從之。封鎮東軍神祠為崇福侯。浙西奏,道門威儀鄭章、道士夏隱言,焚修精志,妙達希夷,推諸輩流實有道業。鄭章宜賜號貞一大師,仍名元章,隱言賜紫衣。《五代會要》:九月,置左右天興、左右廣勝軍,仍以親王為軍使。

十月、帝用軍を以て、未だ西幸に暇あらず、文武百官等久しく東京に居り、漸く疑訝に及び、令して便に就き各々帰安を許し、只だ韓建・薛貽矩、翰林学士張策・韋郊・杜暁、中書舎人封舜聊・張袞並びに左右御史・司天監・宗正寺、兼ねて要当の諸司節級を留め、その宰臣張文蔚以下の文武百官は、並びに先ず西京に於いて祗候せしむ。庚午、大明節、内外の臣僚各々奇貨良馬を以て寿を上ず。故事に、内殿宴を開き、釈・道二教を召して対御談論せしむ、宣旨してこれを罷む。閣門使を命じて香合を以て宰臣に賜い仏寺に行香せしむ。駕して繁台に幸し講武す。癸酉、御史司憲薛廷圭、文武百官仍って旧に朝参すべきを奏請す。先に、帝河東に親征せんと欲し、朝臣を命じて先ず洛都に赴かしむ、ここに至りてその期を緩め、乃ち奏を允す。宰臣、毎月初めに入閣し、望日に延英にて聴政するを請い、永く常式と為す。山南東道節度使楊師厚、越匡凝の東第の書籍を進納す。先に、襄・漢を収復し、帝その図書を閲す、ここに至りて師厚を命じて進めしむ。広州、助軍銭二十万を進献し、又龍脳・腰帯・真珠枕・玳瑁・香薬等を進む。

原文十月,帝以用軍,未暇西幸,文武百官等久居東京,漸及疑訝,令就便各許歸安,只留韓建、薛貽矩,翰林學士張策、韋郊、杜曉,中書舍人封舜聊、張袞並左右御史、司天監、宗正寺,兼要當諸司節級外,其宰臣張文蔚已下文武百官,並先於西京祗候。庚午,大明節,內外臣僚各以奇貨良馬上壽。故事,內殿開宴,召釋、道二教對禦談論,宣旨罷之。命閣門使以香合賜宰臣佛寺行香。駕幸繁台講武。癸酉,御史司憲薛廷圭奏請文武百官仍舊朝參。先是,帝欲親征河東,命朝臣先赴洛都,至是緩其期,乃允所奏。宰臣請每月初入閣,望日延英聽政,永為常式。山南東道節度使楊師厚進納越匡凝東第書籍。先是,收復襄、漢,帝閱其圖書,至是命師厚進焉。廣州進獻助軍錢二十萬,又進龍腦、腰帶、珍珠枕、玳瑁、香藥等。

十一月壬寅、帝征討未だ罷まず、調補を先と為すを以て、遂に命じて逃亡背役髡黥の人の赦を尽くし、各々郷里に帰るを許す。広州、龍形通犀腰帯・金托裏含稜玳瑁器百余副を進め、香薬珍巧甚だ多し。広南管内、白鹿を獲、並びに図形を以て来献し、耳に両缺有り。『符瑞図』に按ずるに、鹿寿千歳にして白に変じ、耳一缺す。今この鹿を験するに耳に二缺有り、その獣と色皆金行に応じ、実に嘉瑞を表す。

原文十一月壬寅,帝以征討未罷,調補為先,遂命盡赦逃亡背役髡黥之人,各許歸鄉里。廣州進龍形通犀腰帶、金托裏含稜玳瑁器百餘副,香藥珍巧甚多。廣南管內獲白鹿,並圖形來獻,耳有兩缺。按《符瑞圖》,鹿壽千歲變白,耳一缺。今驗此鹿耳有二缺,其獸與色皆應金行,實表嘉瑞。

十二月辛亥の日、詔を下して曰く、「潞州の賊寇未だ平らず、王師は野に在り。攻戦の勢いは、賊の包囲を緩めるに難く、飛輓の勤めは、実に人力を労する。永く耒を輟むことを言い、深く軫念を懐く。宜しく長吏に令し、丁寧に布告せしめ、兵罷むるの日を期し、賦租を復することを給せよ」と。ここにおいて人戸これを聞き、皆その倦みを忘る。詔して、故荊南節度使・守中書令・上谷王周汭に太師を贈り、故武昌軍節度使・兼中書令・西平王杜洪に太傅たいふを贈る。先に、鄂渚再び淮夷の侵す所となり、攻囲甚だ急なり。杜洪は兵食将に尽きんとし、継いて来たりて師を乞う。帝はその大江を隔て越ゆるを料り、赴援し難く、兼ねて荊州は上流に拠り、戦艦多く、江夏に去ること甚だ邇きにより、因って周汭に命じ舟師を挙げて流れに沿いてこれを救わしむ。汭ここに兵を引きて東下し、才に鄂界に及び、朗州の盟に背き乱を作すに遇い、江陵の虚に乗じ、兵を放ってこれを襲い破り、俘掠且つ尽くす。既にして汭の士卒これを知り、皆その家を顧み、咸く闘志無く、遂に淮寇の敗る所となり、将卒潰散し、汭は忿恚して自ら江に投ず。汭の本姓は文穆皇帝の廟諱に犯す。ここに至り因って追贈するに、その系は周文に出づるにより、故に姓を周氏と賜う。及び汭の兵敗れたる後、武昌は重囲を経年し、糧尽き力困し、救援至らず、遂に淮寇の陷す所となり、洪を載せて淮師に送り、遂にこれを殺す。この二鎮は、皆忠貞を以て王事に歿す。帝は諸藩の屏翰経綸の業を言う毎に、必ず首めて汭・洪の薨を痛み、ここに至り追贈し、深く軫悼を加え、各その子孫宗属を録用す。棣州蒲台県の百姓王知厳の妹は、乱離に因り並びに怙恃を失い、因って哀を挙げて追感し、自ら両指を截ちて以て父母を祭る。帝は遺体の重きを以て、毀傷に合わず、村閭を言念すれば、何ぞ礼教を知らん。自今以後、所在の郡県に、もし指を截ち股を割く者有らば、奏聞を用いるなかれ。

原文十二月辛亥,詔曰:「潞寇未平,王師在野。攻戰之勢,難緩於寇圍;飛晳免之勤,實勞於人力。永言輟耒,深用軫懷。宜令長吏,丁寧佈告,期以兵罷之日,給復賦租。」於是人戶聞之,皆忘其倦。詔故荊南節度使、守中書令、上谷王周汭贈太師,故武昌軍節度使、兼中書令、西平王杜洪贈太傅。先是,鄂渚再為淮夷所侵,攻圍甚急,杜洪以兵食將盡,繼來乞師。帝料其隔越大江,難以赴援,兼以荊州據上游,多戰艦,去江夏甚邇,因命周汭舉舟師沿流以救之。汭於是引兵東下,才及鄂界,遇朗州背盟作亂,乘江陵之虛,縱兵襲破之,俘掠且盡。既而汭士卒知之,皆顧其家,咸無鬥志,遂為淮寇所敗,將卒潰散,汭忿恚自投于江。汭之本姓犯文穆皇帝廟諱,至是因追贈,以其系出周文,故賜姓周氏。及汭兵敗之後,武昌以重圍經年,糧盡力困,救援不至,訖為淮寇所陷,載洪以送淮師,遂殺之。此二鎮,皆以忠貞歿于王事。帝每言諸籓屏翰經綸之業,必首痛汭、洪之薨,至是追贈之,深加軫悼,各以其子孫宗屬錄用焉。棣州蒲台縣百姓王知嚴妹,以亂離並失怙恃,因舉哀追感,自截兩指以祭父母。帝以遺體之重,不合毀傷,言念村閭,何知禮教。自今後所在郡縣,如有截指割股,不用奏聞。

この年、諸道多く軍人百姓の股を割くことを奏す。青・斉・河朔尤も多し。帝曰く、「これ若し心に因るならば、亦た孝と為すに足る。但だ苟くも徭役を免れんとし、自ら肌膚を残し、以て身を庇わんと欲するも、何ぞ能く疾を療せん。並びに宜しく止絶すべし」と。『五代会要』:十二月、輝州碭山県に崇徳軍を置く。太祖たいその榆社は碭山に在り、使を置きて以てこれを領せしめ、始めて朱彦譲を軍使に命ず。

原文是年,諸道多奏軍人百姓割股,青、齊、河朔尤多。帝曰:「此若因心,亦足為孝。但苟免徭役,自殘肌膚,欲以庇身,何能療疾?並宜止絕。」《五代會要》:十二月,於輝州碭山縣置崇德軍。太祖榆社在碭山,置使以領之,始命朱彥讓為軍使。