四月、唐帝は御札を以て宰臣張文蔚等に勅し、法駕を備えて梁朝を奉迎せしむ。宋州刺史王皋は赤烏一雙を進む。また、宰臣張文蔚は正しく伝国宝・玉冊・金宝及び文武群官・諸司の儀仗法物及び金吾左右二軍を押し、鄭州を離る。丙辰、上源駅に達す。この日、慶雲見ゆ。令して曰く、「王者創業して邦を興し、名を立てて世に伝うるは、必ず知り難きを以て訓を示し、避け易きに従いて以て人に便ならしむ。(*案:此れ以下闕文有り。)或いは其の符命を稽え、彼の開基の義に応じ、諸れの象徳の言を垂る。爰に簡書を考へ、往代に求めば、周王昌・発の号、漢帝詢・衍の文、或いは一徳に従いて徽称と為り、或いは二名を為して更易す。先王の令典、縑緗に布かる。寡人の本名、二字を兼ぬ。且つ帝王の号に異なり、仍へて易の難きを兼ぬ。郡職県官、多く須らく改換すべし。況んや宗廟遷らざるの業、憲章百世の規、事典儀に葉い、豈に革易を憚らんや。寡人今名を晃に改む。是れ以て天意雅かに明徳に符し、日光顕かに瑞文に契う。万邦を昭融するは、理斯に是に在り。庶くは昊穹の意に順い、永く康済の期に臻らん。宜しく有司をして分ちて天地宗廟に告げしむべし。其の旧名は、中外の章疏に回避有ること更に有るべからず」と。時に将に禅を受けんとし、教を下して本名の二字帝王の称に異なるを以て、故に名を改む。己未、文武の百官一百六十人に本色衣一副を賜う。戊辰、即位す。制して曰く、
王者は天に命を受け、四海に光宅し、上帝に祗事し、下民を寵綏す。故を革め新たに鼎す。諒に歴数にして先づ定まり、業を創め統を垂る。図籙以て差無きを知る。神器の帰する所、祥符応ず。是を以て三正互いに用い、五運相い生ず。前朝道消え、中原政散ず。烏を瞻みて定まる莫く、鹿を失いて追い難し。朕は風雷を経緯し、霜露に沐浴し、四征七伐、垂ること三十年、齊盟を糾合し、唐室を翼戴す。山に随いて木を刊つ、胼胝を憚ること無く、袂を投げ戈を揮い、寢処に遑あらず。上穹の賛する所に洎りて、広運の興らざるを知り、漢を輔くるの謀に諧う莫く、徒らに殷に事うるの礼を罄す。唐主は英華已に竭き、算祀終わり有るを知り、龜鼎を釈して遺すが如くし、劍紱を推して相い授く。朕は徳嗣ぐに弗くんばと懼れ、謙を執り允に恭しく、駿命を南河に避け、清風を穎水に眷る。而るに乃ち列嶽の群後、盈廷の庶官、東西南北の人、斑白緇黄の衆、朕の功上下に蓋い、沢幽深に被るを謂い、天に応じて時に順い、家を化して国と為すべしとす。彼の億兆を拒み、再び三たびに至る。且つ曰く七政已に齊しく、万幾曠う難しと。勉めて令典に遵い、爰に鴻名を正し、天地神祇に告げ、宗廟社稷を建つ。
この月、宮殿の門及び都門の名称を定めた。正殿を崇元殿、東殿を元徳殿、内殿を金祥殿、万歳堂を万歳殿とし、門は殿名の如くとした。帝は自ら金徳をもって王たるとし、また福建より鸚鵡が献上され、諸州相継いで白烏・白兎及び合蒂(一つの茎に二つの花がつく)の白蓮を上献したので、金行が運に応ずる兆しであると考え、故に殿を金祥と名付けたのである。大内の正門を元化門、皇牆の南門を建国門、滴漏門を啓運門、下馬門を升龍門、元徳殿前門を崇明門、正殿東門を金烏門、西門を玉兎門、正衙東門を崇礼門、東偏門を銀台門、宴堂門を徳陽門、天王門を賓天門、皇牆東門を寛仁門、浚儀門を厚載門、皇牆西門を神獣門、望京門を金鳳門、宋門を観化門、尉氏門を高明門、鄭門を開明門、梁門を乾象門、酸棗門を興和門、封丘門を含耀門、曹門を建陽門とした。開封・浚儀を赤県に昇格させ、尉氏・封丘・雍丘・陳留を畿県とした。《五代会要》によれば、四月、左右長直を左右龍虎軍に、左右内衙を左右羽林軍に、左右堅鋭夾馬突将を左右神武軍に、左右親随軍将馬軍を左右龍驤軍に改めた。
五月、唐朝の宰臣張文蔚・楊涉を並びに門下侍郎・平章事とした。御史大夫薛貽矩を中書侍郎・平章事とした。帝は禅位を受け初めて、治を求めること特に切にし、宰臣に委ねて賢良を捜訪させた。あるいは下位にあって器業を抱負し久しく伸び得なかった者があれば、特に抜擢して用いた。政理の得失の道を明らかにし時病を規救する者があれば、章疏を陳べることを許し、自ら利害を鑑択して施行し、その後爵秩を以て賞した。丘園に晦跡し聞達を求めない者があれば、その長吏に命じて礼を備えて邀致させ、遺逸の恨みなからんことを冀った。河南尹兼河陽節度使張全義を進めて魏王とし、両浙節度使銭鏐を進めて呉越王とした。辛巳、有司が奏上して、降誕の日を大明節とし、休暇を前後各一日と定めた。壬午、保義軍節度使朱友謙が百官の衣二百副を進めた。乙酉、皇兄全昱を立てて広王とし、皇子友文を博王、友珪を郢王、友璋を福王、友雍を賀王、友徽を建王とした。辛卯、東都の旧第を建昌宮とし、判建昌院事を建昌宮使に改めた。初め、帝が創業の時、四鎮の兵馬倉庫の籍が繁雑であったため、総じて建昌院を置いてこれを管領させたが、ここに至って宮に改めたのは、その事を重んじたのである。甲午、詔して天下の管属及び州県の官名で廟諱に犯すものは、各々改換すべきであるとした。城門郎を門局郎に改め、茂州を汶州に改め、桂州慕化県を帰化県に改め、潘州茂名県を越裳県に改めた。魏泰の《東軒筆録》によれば、京師では城外を州東・州西・州南・州北と呼び、韋城・相城・胙城等の県は、ただ韋県・相県・胙県と呼ぶが、これは梁の時の避諱の旧を沿うものである。詔して枢密院を崇政院に改めるべきとし、知院事敬翔を院使とした。文思院を乾文院に改め、同和院を佐鸞院に改めた。《五代会要》によれば、五月、御食使を司膳使に、小馬坊使を天驥使に改めた。西都の水北宅を大昌宮とし、雍州太清宮を廃し、西都太微宮、亳州太清宮を皆観とし、諸州の紫極宮を皆老君廟に改めた。泉州の僧智宣が西域より帰り、辟支仏骨及び梵夾の経律を進めた。丙申、元徳殿に御し、諸軍使劉捍・符道昭以下を宴犒し、物を賜うこと差等があった。
六月、乾元院に幸し、宰臣・学士及び諸道より入貢した陪臣を宴して召す。己亥、帝崇元殿に御し、内より追尊四廟の上諡号玉冊宝合わせて八副を出し、宰臣文武百官儀仗鼓吹に導引されて太廟に至りて行事す。癸卯、司天監奏す「日辰内に『戊』の字あり、『武』と改むるを請う」と。これに従う。癸亥、詔して以前朝の官僚、南荒に譴逐せられ、積年未だ昭雪せられざる者あり、その間、材器を抱きて時に嫉まれたる者あり、深く冤抑を負う。仍ってその名姓を録し、官資を尽く復し、兼ねて諸道に告諭して津致して闕に赴かしむ。もし既に亡歿したる者は、並びに帰葬を許し、以て恩蕩を明らかにす。西都徽安門北路が大内宮垣に逼近し、兼ねて民便に非ざるを以て、令して自ら榆林より直ちに端門の南に趨くに移す。耀州報恩禅院を改めて興国寺と為す。馬殷、淮寇を破ると奏す。静海軍節度使曲裕卒す。
七月丙申、静海軍行営司馬権知留後曲顥を以て起復し安南都護と為し、節度使を充てしむ。その月、勅して虎牢関を改めて軍と為し、仍って虎牢関軍使を置く。己亥、皇妣を追尊して皇太后と為す。
八月、潞州軍前に屯する師旅、壁壘未だ収まらず、乃ち別に戎帥を議し、ここに亳州刺史李思安を以て潞州行営都統に充てしむ。勅す「朝廷の儀、封冊を重しと為し、以て勳烈に報い、以て恩栄を隆くす、固より親臨すべく、典礼を光らしむるに式す。旧章久しく缺けたり、我より復た行う。今後、毎に大臣を封冊するに、宜しく有司に臨軒の礼を備えしむべし」。甲子平明前、老人星南極に見ゆ。壬申、密州嘉禾を進め、又合歓榆樹あり、並びに図形を以て献ず。是の月、隰州奏す、大寧県より固鎮に至る上下二百里、今月八日、黄河清く、十月に至るも故の如しと。
九月辛丑、西京大内より両宮の内人及び前朝の宮人を放出し、その適う所に任す。勅す、近年文武官諸道奉使は、皆所在に於いて分外に停住し、年を逾え歳に渉り、未だ闕に帰ると聞かず。惟だ州郡を労費するのみならず、抑もまた国経を侮慢す。臣節既に虧けば、憲章安くにか在らん。自今以後、両浙・福建・広州・安南・邕・容等の道の使は到発して一月の住を許す。湖南・洪・鄂・黔・桂は二十日の住を許す。荊・襄・同・雍・鎮・定・青・滄は十日の住を許す。その余の側近は三五日を過ぎず。凡そ往来の道路は、遠近の里数に拠り、日に両驛を行く。もし疾患及び江河の阻隔に遇えば、所在の長吏に委ねて事由を具して奏聞せしむ。もし或いは違う有らば、当に朝典を行い、御史を命じて点検糾察せしめ、以て慢官を儆らしむ。魏博羅紹威の二男廷望・廷矩、年幼稚に在りて、皆材器有り、帝其の藩屏勲臣の胄たるを以て、宜しく非次の用を受くべしとし、皆擢いて郎と為す。恩命既に行われたる後、二子も亦班列に就く。紹威乃ち上章し、歯幼にして未だ公事に任ずる能わずを以て、主印・宿直を免ぜんことを乞う。これに従う。鎮東軍の神祠を封じて崇福侯と為す。浙西奏す、道門威儀鄭章・道士夏隠言は、焚修精志し、妙に希夷に達し、諸の輩流を推するに実に道業有りと。鄭章は宜しく号を貞一大師と賜い、仍って名を元章とすべく、隠言には紫衣を賜う。
十月、帝用軍を以て、未だ西幸に暇あらず、文武百官等久しく東京に居り、漸く疑訝に及び、令して便に就き各々帰安を許し、只だ韓建・薛貽矩、翰林学士張策・韋郊・杜暁、中書舎人封舜聊・張袞並びに左右御史・司天監・宗正寺、兼ねて要当の諸司節級を留め、その宰臣張文蔚以下の文武百官は、並びに先ず西京に於いて祗候せしむ。庚午、大明節、内外の臣僚各々奇貨良馬を以て寿を上ず。故事に、内殿宴を開き、釈・道二教を召して対御談論せしむ、宣旨してこれを罷む。閣門使を命じて香合を以て宰臣に賜い仏寺に行香せしむ。駕して繁台に幸し講武す。癸酉、御史司憲薛廷圭、文武百官仍って旧に朝参すべきを奏請す。先に、帝河東に親征せんと欲し、朝臣を命じて先ず洛都に赴かしむ、ここに至りてその期を緩め、乃ち奏を允す。宰臣、毎月初めに入閣し、望日に延英にて聴政するを請い、永く常式と為す。山南東道節度使楊師厚、越匡凝の東第の書籍を進納す。先に、襄・漢を収復し、帝その図書を閲す、ここに至りて師厚を命じて進めしむ。広州、助軍銭二十万を進献し、又龍脳・腰帯・真珠枕・玳瑁・香薬等を進む。
十一月壬寅、帝征討未だ罷まず、調補を先と為すを以て、遂に命じて逃亡背役髡黥の人の赦を尽くし、各々郷里に帰るを許す。広州、龍形通犀腰帯・金托裏含稜玳瑁器百余副を進め、香薬珍巧甚だ多し。広南管内、白鹿を獲、並びに図形を以て来献し、耳に両缺有り。『符瑞図』に按ずるに、鹿寿千歳にして白に変じ、耳一缺す。今この鹿を験するに耳に二缺有り、その獣と色皆金行に応じ、実に嘉瑞を表す。
十二月辛亥の日、詔を下して曰く、「潞州の賊寇未だ平らず、王師は野に在り。攻戦の勢いは、賊の包囲を緩めるに難く、飛輓の勤めは、実に人力を労する。永く耒を輟むことを言い、深く軫念を懐く。宜しく長吏に令し、丁寧に布告せしめ、兵罷むるの日を期し、賦租を復することを給せよ」と。ここにおいて人戸これを聞き、皆その倦みを忘る。詔して、故荊南節度使・守中書令・上谷王周汭に太師を贈り、故武昌軍節度使・兼中書令・西平王杜洪に太傅を贈る。先に、鄂渚再び淮夷の侵す所となり、攻囲甚だ急なり。杜洪は兵食将に尽きんとし、継いて来たりて師を乞う。帝はその大江を隔て越ゆるを料り、赴援し難く、兼ねて荊州は上流に拠り、戦艦多く、江夏に去ること甚だ邇きにより、因って周汭に命じ舟師を挙げて流れに沿いてこれを救わしむ。汭ここに兵を引きて東下し、才に鄂界に及び、朗州の盟に背き乱を作すに遇い、江陵の虚に乗じ、兵を放ってこれを襲い破り、俘掠且つ尽くす。既にして汭の士卒これを知り、皆その家を顧み、咸く闘志無く、遂に淮寇の敗る所となり、将卒潰散し、汭は忿恚して自ら江に投ず。汭の本姓は文穆皇帝の廟諱に犯す。ここに至り因って追贈するに、その系は周文に出づるにより、故に姓を周氏と賜う。及び汭の兵敗れたる後、武昌は重囲を経年し、糧尽き力困し、救援至らず、遂に淮寇の陷す所となり、洪を載せて淮師に送り、遂にこれを殺す。この二鎮は、皆忠貞を以て王事に歿す。帝は諸藩の屏翰経綸の業を言う毎に、必ず首めて汭・洪の薨を痛み、ここに至り追贈し、深く軫悼を加え、各その子孫宗属を録用す。棣州蒲台県の百姓王知厳の妹は、乱離に因り並びに怙恃を失い、因って哀を挙げて追感し、自ら両指を截ちて以て父母を祭る。帝は遺体の重きを以て、毀傷に合わず、村閭を言念すれば、何ぞ礼教を知らん。自今以後、所在の郡県に、もし指を截ち股を割く者有らば、奏聞を用いるなかれ。
この年、諸道多く軍人百姓の股を割くことを奏す。青・斉・河朔尤も多し。帝曰く、「これ若し心に因るならば、亦た孝と為すに足る。但だ苟くも徭役を免れんとし、自ら肌膚を残し、以て身を庇わんと欲するも、何ぞ能く疾を療せん。並びに宜しく止絶すべし」と。『五代会要』:十二月、輝州碭山県に崇徳軍を置く。太祖の榆社は碭山に在り、使を置きて以てこれを領せしめ、始めて朱彦譲を軍使に命ず。