この歳、唐の左軍中尉劉季述は昭宗を東宮内に幽し、皇子徳王裕を立てて帝と為し、なおその養子希度を遣わし来たりて言わく、願わくは唐の神器を帝に輸さんと。帝時に方に河朔に在り、これを聞き、遽かに汴に還る。大計未だ決せず。会に李振長安より使回り、因りて帝に言う、「夫れ豎刁・伊戾の乱は、以て覇者の事を資く所以なり。今閹豎天子を幽辱し、王討つこと能わずんば、以て諸侯に令する無きなり」と。帝悟り、因りて振に請い復た長安に使わしめ、時宰と潜かに反正を謀らしむ。
十月戊戌、密詔を奉じて長安に赴く。是の時、朝廷既に劉季述を誅し、韓全誨・張宏彦を以て両軍中尉と為し、袁易簡・周敬容を以て枢密使と為す。是の時軍国の大政、専ら宰相崔允に委ね、毎事宦官を裁抑す。宦官側目す。允一日便殿に於いて、尽く之を去らんと奏す。全誨等垣に属して之を聞き、嘗て昭宗の前に於いて哀を祈り自ら訴う。是より昭宗允に勅し、密奏有る毎に、囊封を進めしむ。全誨等乃ち京城の美婦人十数を訪いて進め、宮中の陰事を求めしむ。昭宗悟らず、允の謀漸く泄る。中官允を視る皆裂け、重賂甘言を以て藩臣を誘きて城社と為す。時に燕聚に因り、則ち相向いて流涕す。時に允三司貨泉を掌る。全誨等禁兵に教え允の出づるを伺い、聚りて呼噪し、冬衣減損を以て訴え、又昭宗の前に於いて之を訴う。昭宗已むを得ず、允の政事を知るを罷む。允怒り、急ぎ帝を召して兵を以て入り輔けんことを請う。故に是の行有り。戊申、行きて河中に次ぐ。同州留後司馬鄴は華の幕吏なり、郡を挙げて来降す。辛亥、渭濱に於いて軍を駐む。華帥韓建使を遣わし箋を奉じて款を納め、又銀三万両を以て軍を助く。是日、行きて零口に次ぐ。癸丑、長安乱るるを聞く。昭宗閹官韓全誨等に劫遷せられ、西に鳳翔に幸す。蓋し帝の兵鋒を避くるなり。翼日、遂に師を旋すことを命じ、夕に赤水に次ぐ。乙卯、大軍華州城下に集まる。韓建惶駭措く所を知らず、即ち城を以て降る。丙辰、帝表して建に忠武軍事を権知せしめ、令を促して任に赴かしむ。同・華二州平ぐ。是の時、唐太子太師盧知猷等二百六十三人状を列ねて帝に速やかに迎奉を請わんことを請う。己未、遂に諸軍を帥い赤水より発つ。壬戌、咸陽に次ぐ。偵者云く、「天子昨暮岐山に至り、旦日宋文通蹕を扈し其の闉に入れり。」是の時、岐人大将符道昭を遣わし兵万人を領して武功に屯し以て帝を拒ぐ。帝康懐英を遣わして之を敗ち、甲士六千余衆を擄う。乙丑、岐山に次ぐ。文通使を遣わし書を奉じ自ら其の失を陳べ、帝の入覲を請う。丙辰、岐闉に及び、文通約を渝え、壁を閉じて通ずるを得ず、復た岐山に次ぐ。是の時、昭宗累り使を遣わし硃書の御札を齎して帝に賜い、帝に軍を収め本道に還らしむ。帝之を診めて曰く、「此れ必ず文通・全誨の謀なり。」皆詔を奉ぜず。癸酉、飛章を奉じて辞し、且つ軍を移して北伐す。乙亥、邠州に至る。節度使李継徽城を挙げて降る。継徽因りて文通の賜う所の李姓を去り、本宗楊氏に復さんことを請い、又其の帑を納めて以て質と為さんことを請う。帝皆之に従い、仍ち其の名を易えて崇本と曰う。邠州平ぐ。己丑、唐丞相崔允・京兆尹鄭元規華州に至り、速やかなる迎奉を以て請う。之を許す。
五月丁巳、帝は再び西征す。六月丁丑、虢県に駐屯す。癸未、岐軍と大戦し、辰より午に至り、一万余を殺し、その将校数百人を擒え、勝に乗じて遂にその塁を逼る。七月丙午、岐軍また出でて戦を求め、帝の軍利あらず。是の月、孔勍に師を帥いて鳳・隴・成の三州を取らしむ、皆これを下す。是の時、岐人は相率いて諸山に寨を結び、以て帝の軍を避く。帝は兵を分かち以て討ち、浹旬の内に、並びにこれを平ぐ。九月甲戌、帝は岐軍の諸寨の連結稍く盛んなるを以て、因り親しく千騎を統べて高きに登り診る。時に秋空澄み霽れ、煙靄四絶す。忽ち紫雲傘蓋の如き有り、龍旌の上に凝り、久しうして方に散ず。観る者皆訝る。是の時、帝は岐人の堅壁して戦わざるを以て、且つ師老ゆるを慮り、思うに旆を旋して河中に帰らんと欲す。因り密かに上将数人を召して其の事を語る。時に親従指揮使高季昌独り前に出で抗言して曰く、「天下の雄傑、此の挙を窺うこと一歳なり。今岐人已に困す、願わくは少しく之を俟たん」と。帝其の言を嘉し、因りて曰く、「兵法は正理を貴び、奇を以て勝つ者は詐なり。機に乗じて事を集むるは、必ず是よりか」と。乃ち季昌に命じて密かに人を募り岐に入らしめて之を紿かしむ。尋いで騎士馬景堅願って命に応じ、且つ曰く、「是の行、必ず生の理無からん。願わくは其の孥を録せよ」と。帝淒然として其の行を止む。景固く請う、乃ち之を許す。明日軍出づ。《北夢瑣言》に云う、時に朱友倫騎軍を総べ且つ至らんとするに因り、将に大いに兵を出だして之を迓えんとす。諸寨屏匿して人の無きが如し。景因りて馬を躍らせ西に走り、直ちに岐の闉を叩き、詐りに軍怨み東に遁るを以て告げ、且つ言う、列寨尚ほ万余人を留め、夕べ将に遁らんとす、宜しく速かに之を掩うべしと。李茂貞其の言を信ず。案ずるに、李茂貞は即ち宋文通なり。此の紀前後互いに異なり、蓋し当時の軍檄の文を仍り、未だ画一に改むるに従わざるなり。遽かに二扉を啓き、衆を悉くして来寇す。時に諸軍介馬を以て之を待ち、中軍一鼓すれば、百営俱に進む。又数騎を分遣して以て其の闉を拠る。岐人は進みては其の趾を駐むる能わず、退きては其の塁に入る能わず、殺戮蹂躪し、其の数を知らず。茂貞是より胆を喪い、但だ壁を閉づるのみ。十一月癸卯、鄜帥李周彝《新唐書》に「李茂勲」と作す。茂勲は即ち周彝なり。兵万余を統べて岐の北原に屯し、城中と烽を挙げて以て相応ず。翼日、帝は周彝既に其の本部を離るれば、鄜畤必ず守備無からんと、因りて孔勍に命じて虚に乗じて之を襲わしめて下す。甲寅、鄜州平ぐ。周彝之を聞き、軍を収めて遁る。茂貞は鄜州の援を失い、愕然として瓦解の懼れ有り、是より警蹕を還し、閹寺を誅して以て自ら贖わんと議す。
戊戌、帝旆を建て東還す。昭宗延喜楼に御して之を送り、既に醉い、内臣を遣わして帝に御製の《楊柳詞》五首を賜う。三月戊午、大梁に至る。時に青州未だ平らかならざるを以て、軍士に休浣を命じて以て東征を俟たしむ。四月丙子、臨朐に師を巡り、亟に其の城を逼るを命じ、青州兵と城下に戦い、之を大敗す。是の夕、淮将王景仁其の部する所の援軍を以て宵遁す。帝楊師厚を遣わして輔唐に追い及び、千人を殺し、勝に乗じて密州を攻め下す。八月戊辰、叛を伐つの柄を楊師厚に委ね、帝乃ち東還す。九月癸卯、師厚大軍を率いて王師範と臨朐に戦い、青軍大敗し、万余人を殺し、並びに師範の弟師克を擒え、即時に寨を徙めて以て其の城を逼る。辛亥、偏将劉重霸棣州刺史邵播を擒えて来献す。播は師範の謀主なり。帝命じて之を斃す。戊午、師範城を挙げて降を請う。青州平ぐ。翼日、将校を分命して登・萊・淄・棣等州に地を略せしむ、皆これを下す。是より東漸して海に至るまで、皆梁の土と為る。帝復た師範に権に青州軍州事を知らしむ。師範乃ち請う、銭二十万貫を以て軍を犒わんと。帝之を許す。十月辛巳、護駕都指揮使朱友倫鞠を撃つに因りて馬より墮ち、長安に卒す。訃至り、帝大いに怒り、以て唐室の大臣叛を謀り己に致し、友倫を暴死せしむと為す。十一月丁酉、青将劉鄩兗州を挙げて来降す。鄩は王師範の将なり。師範令して窃かに兗州を拠ること久し。師範の降るを聞くに及び、鄩乃ち命に帰す。帝は鄩の其の主に善く事うるを以て、之を待つこと甚だ優なり。尋いで署して元帥府都押牙と為し、権に鄜州留後を知らしむ。
三月丁未、昭宗制して帝に左右神策及び六軍諸衛事を兼判せしむ。是の時、昭宗累ねて中使及び内夫人を遣わし伝宣し、帝に謂いて曰く、「皇后方に草蓐に在り、未だ路に就くに任せず。十月を以て洛に幸せんと欲す」と。帝は陝州の小藩たるを以て、万乗の久留の地に非ずとし、期を四月内の東幸に定む。閏月丁酉、昭宗は陝郡より発す。壬寅、谷水に次ぐ。是の時、昭宗の左右には小黄門及び打球供奉・内園小児二百余人のみ。帝は猶これを忌む。是の日、密かに医官許昭遠に命じて変を告げしめ、乃ち別幄に饌を設け、召して尽く之を殺し、皆幕下に坑う。先に、二百余人を選び、形貌大小一に内園人物の状の如きもの有り。是に至りて一人をして二人を擒えしめ、坑所に縊らしめ、即ち其の衣及び戎具を蒙りて自ら飾らしむ。昭宗初め辨ふ能わず、久しくして方に察す。是より、昭宗の左右前後、皆梁人となる。甲辰、車駕洛都に至る。帝は宰相百官と共に駕を導き宮に入る。乙卯、昭宗は帝を以て宣武・宣義・護国・忠武四鎮節度使と為す。時に帝は鄆州を張全義に授けんことを請う。故に此の命有り。五月丙寅、昭宗群臣に宴し曰く、「昨来御楼前の一夜に赦書を亡失す。梁王に頼りて副本を収め得たり。然らずんば事を誤らん。宰執過ち無きを得ざるべし」と。是の日宴の次、昭宗内に入り、帝を内殿に召して曲宴す。帝は其の事を測り難く、詔を奉ぜんことを敢えず。又曰く、「卿来たらずば、即ち敬翔をして人来らしめよ」と。帝は密かに翔を遣わし出ださしめ、乃ち止む。己巳、辞を奉じて東に帰る。乙亥、大梁に至る。六月、帝は都將朱友裕に師を率い邠州を討たしむ。節度使楊崇本叛く故なり。癸丑、帝西征し、遂に洛陽に朝す。七月甲子、昭宗は帝を文思鞠場に宴す。乙丑、帝は東都を発す。壬申、河中に至る。八月壬寅、昭宗は大内に於て弑せらる。遺制して輝王柷を以て嗣と為す。乙巳、帝は河中より軍を引きて西す。癸丑、永寿に次ぐ。邠軍出でず。九月辛未、班師す。十月癸巳、洛陽に至り、西内に詣で、梓宮前に臨み、嗣君に祗見す。辛丑、制す。案ずるに此れ以下闕文有り。帝は西征より至る。十一月辛酉、光州使いを遣わし来たり援を求む。時に光州は帝に帰款し、尋で淮人の攻むる所と為る。故に来たり師を乞う。戊寅、帝は南征し淮を渡り、霍丘に次ぎ、盧・寿の境を大いに掠る。淮人は乃ち光州を棄てて去る。
十月丙戌朔、天子は帝を諸道兵馬元帥と為す。辛卯、帝は襄州より軍を引き光州路より淮南に趨く。将に発せんとし、敬翔切に諫め、師を班して軍勢を全うせんことを請う。帝聴かず。壬辰、棗陽に次ぐ。大雨に遇い、頗る師行の勢を阻む。軍寿春に至る。寿春人は堅壁清野して以て帝を待つ。帝は乃ち還り、正陽に舍す。
十一月丙辰、大軍は北に渡る。『十国春秋』に曰く、柴再用がその後軍を襲い、三千級を斬首し、輜重を数万計り獲たり。帝は汝陰に至り、淮南の行を深く悔い、躁煩尤も甚だし。『師友雑志』に曰く、朱全忠嘗て僚佐及び遊客と大柳の下に坐し、全忠独り言う、「此の樹は車轂と為すに宜し」と。衆は応ずる者なし。遊客数人起ちて応ずる者あり、「車轂と為すに宜し」と。全忠勃然として厲声に曰く、「書生輩は好んで順口に人を玩ぶ、皆此の類なり。車は須らく夾轂を用うべし、柳木豈に之を為す可けんや」と。左右を顧みて曰く、「尚何ぞ待たん」と。左右数十人、車轂と為すと言う者を捽り、悉く撲殺す。丁卯、帝は南征より至る。辛巳、天子は帝を相国と為し、百揆を総べしむ。宣武・宣義・天平・護国・天雄・武順・佑国・河陽・義武・昭義・保義・武昭・武定・泰寧・平盧・匡国・武寧・忠義・荊南等二十一道を以て魏国と為す。案ずるに『旧唐書』には、尚ほ忠武・鎮国の二道有り、此れ闕載なり。帝を魏王に進封し、朝に入りて趨らず、剣履殿に上り、賛拝して名を称せず、兼ねて九錫の命を備う。癸未、唐中書門下奏す、「中書印已に相国に送る、中書公事は権りに中書省印を用う」と。甲申、中書門下奏す、「天下州県の名、相国魏王の家諱と同じき者は、請う易えん」と。十二月乙酉朔、帝は相国・魏王・九錫の命を譲る。丙戌、京百司各官を差し、本司の須知孔目並びに印を齎し、魏国に赴き送納せしむ。甲午、天子は帝の九錫の命を堅く譲るを以て、乃ち宰相柳燦を使わしめ来らしめ、且つ揖譲の意を述べしむ。丁酉、帝は又た九錫の命を譲り、詔に略して曰く、「但だ鴻名は掩い難く、懿実は須らく彰すべし、宜しく且つ奏陳に徇い、未だ便ち典冊に行うべからず」と。又た諸道兵馬元帥を天下兵馬元帥と改む。是の時、帝は唐朝の百官の服飾多く闕くを以て、乃ち逐色の衣服を製造し、朝廷に請うて等第を以て之を賜わしむ。其の給する俸銭は、仍て請うて来年正月より全く支うべし。
三月甲寅、天子は帝に命じ、塩鉄・度支・戸部等の三司事を総判せしむ。帝は再び章を上りて切に之を譲り、乃ち止む。四月癸未、高唐を攻め下し、軍民少長無く皆之を殺す。逆首史仁遇を生擒し以て献ず、帝は命じて之を支解せしむ。未だ幾もなく、又た澶・博・貝・衛等の州を攻め下す、皆魏軍の残党の拠る所と為る故なり。是の時、晋人は邢州を囲み、刺史牛存節は壁を堅くし固く守る。帝は符道昭を遣わし師を帥いて之を救わしむ、晋人は乃ち遁去す。五月、帝は洺州に地を略し、既にして復た魏に入る。七月己未、魏より班師す。是の日、相州を収復す、是より魏の境悉く平ぐ。壬申、帝は魏より帰る。
八月甲辰、滄州未だ平らかならざるを以て、復た北征を命ず。九月丁卯、長蘆に営す。一夕、帝は白龍の両肩に附くを夢み、左右瞻顧畏るべく、怳然として驚き寤む。十月辛巳、邠州の楊崇本は鳳翔・邠・寧・涇・鄜・秦・隴の衆を以て合すること五六万来り寇し、美原に屯し、十五寨を列ね、其の勢甚だ盛なり。帝は同州節度使劉知俊・都将康懐英に命じ師を帥いて之を禦わしむ。知俊等は大いに邠寇を破り、二万余衆を殺し、馬三千余匹を奪い、其の列校百余を擒にし、楊崇本・胡章は僅かに身を以て免る。十一月庚戌、懐英は勝に乗じて進軍し、遂に鄜州を収む。十二月乙丑、帝は文武常参官の每月一・五・九日に朝に赴くを以て、廊餐を備うるを奏請し、詔して之に従う。遂に長蘆より班師す。案ずるに、以上疑うらくは闕文有り。『旧唐書・哀帝紀』に拠れば、戊辰、李克用は幽州の衆と同く潞州を攻め、全忠の守将丁会は沢・潞を以て太原に降り、克用は其の子嗣昭を以て留後と為す。甲戌、全忠は長蘆の営を焼き旋軍す、潞州の陥つるを聞く故なり。寨内の糗糧山積するを以て、帝は命じて之を焚かしむ。滄帥劉守文は城中食を絶つを以て、因りて書を帝に致し、余糧を留めて饑民を救わんことを乞う。帝は為に十余囷を留めて以て之に与う。『容斎続筆』に曰く、滄州より還師し、諸営の資糧を悉く焚き、舟中にある者は鑿ちて之を沈む。守文全忠に書を遺わし曰く、「城中数万口、数月食わず、其れ之を焚きて煙と為し、之を沈めて泥と為すに、願わくは其の余りを乞いて以て之を救わん」と。全忠之が為に数囷を留む、滄人は之に頼りて済う。洪氏の述ぶる所は冊府元龜に略同じ、惟だ「十余囷を留む」と「数囷を留む」とは微かに異なる。