舊五代史

梁書一: 太祖本紀一

薛居正等の『舊五代史』本紀は、『永樂大典』に収録されたものが完全であるが、ただ梁の太祖紀の原本はすでに散佚しており、各韻に散見するものはわずかに六十八條を得るに過ぎず、『通鑑考異』や『通鑑注』が引用しているものを参照してさらに二十一條を得たが、首尾が完備せず、綴り合わせて一篇と成すことができなかった。『冊府元龜』閏位部に収録された朱梁の事蹟を調べると、皆薛史の原文に基づいており、首尾が頗る詳しいので、條ごとに採集し、なお彙萃することができる。謹んで前人(魏澹の『魏書』や高峻の『小史』を取って『北魏書』の欠けた篇を補った例)に倣い、『冊府元龜』の梁太祖に関する事蹟を採り、編年に日を繫ぎ、順序に従って編排し、その欠落を補い、少しでも薛史の旧観に近づけんことを願う。なお各條の下に原書の巻第を注記し、参照検討の備えとする。

太祖神武元聖孝皇帝は、姓は朱、諱は晃、本名は溫(『永樂大典』巻八千六百八十七)。宋州碭山県の人である。その先祖は舜の司徒しと・虎の後裔で、高祖こうそは黯、曾祖は茂琳、祖は信、父は誠である。帝はすなわち誠の第三子で、母は文惠王皇后と申す(『冊府元龜』巻一百八十二。案ずるに『五代會要』によれば、梁の肅祖宣元皇帝は諱を黯とし、舜の司徒・虎の四十二代の孫である。開平元年七月、宣元皇帝を追尊し、廟號を肅祖とし、興極陵に葬った。敬祖光獻皇帝は諱を茂琳とし、宣元皇帝の長子で、母は宣僖皇后范氏と申す。開平元年七月、光獻皇帝を追尊し、廟號を敬祖とし、永安陵に葬った。憲祖昭武皇帝は諱を信とし、光獻皇帝の長子で、母は光孝皇后楊氏と申す。開平元年七月、昭武皇帝を追尊し、廟號を憲祖とし、光天陵に葬った。烈祖文穆皇帝は諱を誠とし、昭武皇帝の長子で、母は昭懿皇后劉氏と申す。開平元年七月、文穆皇帝を追尊し、廟號を烈祖とし、咸寧陵に葬った)。唐の大中六年(壬申の年)十月二十一日の夜、碭山県午溝里に生まれた。この夜、住んでいた廬舎の上に赤気が上騰し、里人はこれを見て皆驚き駆けつけ、「朱家で火事が起こった」と言った。しかし到着してみると、廬舎は整然としていた。中に入ると、隣人が子供が生まれたことを皆に告げたので、皆これを異とした(『永樂大典』巻一萬六千一十九。案ずるに、以上は『冊府元龜』巻一百八十二にも見える。これによって推すに、『冊府元龜』が五代の事蹟を引用する多くは薛史に本づくことを知る)。兄弟三人は、皆元服前に孤児となり、母(案ずるに、『冊府元龜』がこの條を引くところでは「母」の字の下に「王氏」の二字がある)が連れて蕭県の人劉崇の家に寄養された。帝は壮年になっても生業に従わず、雄勇を以て自ら任じ、里人は多くこれを厭った。劉崇はその怠惰なのを以て、毎度譴責して杖で打った。ただ劉崇の母だけが幼い頃からこれを憐れみ、自らその髪を梳き、嘗て家人に誡めて言うには、「朱三は常人ではない、汝らは善くこれを遇すべきである」と。家人がその理由を尋ねると、答えて言うには、「私は嘗て彼が熟睡している時、赤い蛇に化けるのを見た」と。しかし人々もまたこれを信じなかった(『永樂大典』巻五千九百四十九)。

唐の僖宗の乾符年間、関東に凶作が重なり、群賊が嘯聚した。黄巢はこれに乗じて曹州・濮州より起こり、飢えた民衆が付き従おうとする者は凡そ数万に及んだ。帝はそこで劉崇の家を辞し、次兄の存と共に黄巢の軍に入り、力戦して屡々勝利したため、隊長に補せられた。

唐の広明元年十二月甲申、黄巢が長安ちょうあんを陥落させ、帝に命じて兵を率い東渭橋に駐屯させた。この時、夏州節度使諸葛爽が配下の兵を率いて櫟陽に駐屯していたので、黄巢は帝に命じて諸葛爽を招諭させたところ、爽は遂に黄巢に降った。

中和元年二月、黄巢は帝を東南面行営先鋒使とし、南陽を攻撃させてこれを陥落させた。六月、帝は長安に帰還し、黄巢は自ら灞上で労った。七月、黄巢は帝を派遣して西に向かわせ、邠州・岐州・鄜州・夏州の軍勢を興平で防がせたが、赴くところ全てで功を立てた。

二年二月、黄巢は帝を同州防禦使とし、自ら攻め取らせた。帝はそこで丹州より南進し、左馮翊を攻撃してこれを抜き、遂にその郡を占拠した。時に河中節度使王重榮が数万の兵を駐屯させ、諸侯の兵を糾合して興復を図っていた。帝は当時その隣接する地にあり、屡々重榮に敗れたため、遂に黄巢に援軍を請うた。表章を十度上奏したが、偽左軍使孟楷に遮られて届かなかった。また黄巢の軍勢が逼迫し、諸校が離心していると聞き、帝はその必ず敗れることを知った。九月、帝は遂に左右と計略を定め、偽監軍使の嚴實(嚴實は原書では「嚴貴」と誤っている。今、歐陽修の『新五代史』及び『資治通鑑』に拠って改正する)を斬り、郡を挙げて重榮に降った(案ずるに、『舊唐書』僖宗紀には、八月庚子、賊の同州防禦使朱溫がその監軍嚴實を殺し、大将の胡真・謝瞳等と共に来降したとある。薛史は九月とするので、『舊唐書』と異なる。『新唐書』を考うるに、九月丙戌、黄巢の将朱溫が同州を以て降ったとある。『通鑑』もまた九月丙戌、朱溫がその監軍嚴實を殺し、州を挙げて降ったとし、皆薛史と同じである。是れ朱溫の降伏は実に九月にあり、『舊唐書』は誤りである)。重榮は即日に飛章を上奏した。時に僖宗はしょくにおり、表を覧めて喜んで言うには、「これは天が我に賜うところである」と。そこで詔して帝を左金吾えい大将軍に任じ、河中行営副招討使を充てさせ、なお名を全忠と賜った(案ずるに、歐陽史には、王鐸が制を承って溫を金吾衞大将軍・河中行営招討副使に拝したとある。薛史は僖宗が詔して授けたとするので、歐陽史と異なる。『舊唐書』を考うるに、王鐸が制を承って溫を華州刺史・潼関防禦鎮國軍等使に拝したとある。『通鑑』には王鐸が制を承って溫を同華節度使としたとある。是れ王鐸が制を承って拝した官は、歐陽史の載せる所の如きものではなく、謝瞳が表を奉じて行在に至って、初めて詔して金吾衞大将軍・河中行営招討副使を授けたのである。薛史が実情を得ているとすべきである。案ずるに、本書及び『舊唐書』・『通鑑』は皆僖宗が名を賜ったとするが、ただ『鑑戒錄』には、朱太祖が四鎮を統べ、中令に除せられた日、名は溫であった。崔相國と連ねて大事を構えるに及び、崔は毎度太祖の忠赤を奏し、関東に遷せば国に患い無からんと。昭宗は急ぎ太祖に勅して名を全忠と改めさせた。議者は「全」の字は人王なり、また「中心」に在り、甚だ不可なりと言い、上(昭宗)はようやくこれを悔いたとある。その説は諸史と異なり、蓋し伝聞の同からざるによるのであろう)。ここより配下の兵を率いて河中の兵士と共に行動し、向かうところ克捷せざるはなかった。

三年(中和三年)三月、僖宗は制を下して帝(朱全忠)を宣武軍節度使に任じ、前官のまま河中行営副招討使を充て、なお京闕(長安)を収復し次第、直ちに鎮(汴州)に赴くことを命じた。案ずるに、旧唐書には、中和三年五月、検校尚書右僕射・華州刺史・潼関防禦等使朱温を検校司空しくうとし、汴州刺史を兼ね、宣武節度・観察等使を充て、なお名を全忠と賜うとある。薛史によれば、全忠が宣武節度使を授かったのは三月であり、五月ではない。河中行営招討副使から遷任されたのであり、潼関防禦等使からではない。名を全忠と賜ったのは二年九月であり、三年五月でもない。通鑑の叙述する年月・官爵・名号は、皆薛史に拠っている。四月、黄巣軍は藍関より南へ逃走し、帝は諸侯の軍と共に長安を収復し、乃ち部下の一旅の衆を率い、節を仗して東下した。七月丁卯、梁苑に入った。この時、帝は三十二歳であった。時に蔡州刺史秦宗権は黄巣の残党と合従して暴虐をほしいままにし、共に陳州を包囲した。久しくして、僖宗は乃ち帝を東北面都招討使に命じた。時に汴・宋は連年飢饉に阻まれ、公私共に困窮し、府庫倉廩は皆空虚で、外は大敵に攻められ、内は驕兵が制し難く、交鋒接戦は日増しに激しくなった。人皆危ぶんだが、惟だ帝の鋭気は益々振るった。この年十二月、帝は兵を率いて鹿邑におり、巣衆と遭遇し、兵を縦いてこれを撃ち、二千余級を斬首し、乃ち兵を率いて亳州に入り、これにより譙郡の地を兼ね有した。

四年春、帝は許州の田従異ら諸軍と共に瓦子寨を収め、案ずるに、瓦子寨は原本では「瓦于寨」と作る。通鑑注を考うるに、黄巣が民居を撤して寨屋と為し、これを瓦子寨と謂う。則ち「于」は字形が近くて刊行の際に誤ったものであろう。今、正す。賊数万の衆を殺した。この時、陳州の四面には賊の寨が相望み、編氓を駆り擄い、殺して食と充て、「舂磨寨」と号した。帝は兵を分けてこれを剪撲し、大小凡そ四十戦に及んだ。四月丁巳、西華寨を収め、賊将黄鄴は単騎で陳州に奔った。帝は勝ちに乗じてこれを追い、鼓噪して進んだ。会に黄巣が遁走したので、遂に陳州に入り、刺史趙犨が馬前に迎えた。俄かに巣党が尚ほ陳州の北の故陽壘に在ると聞き、帝は遂に直ちに大梁に帰った。この時、河東節度使李克用は僖宗の詔を奉じ、騎軍数千を統率して共に賊を破ることを謀り、帝と中牟の北で合勢してこれを邀撃し、賊衆は王満渡で大敗し、多くは手を束ねて来降した。時に賊将霍存・葛従周・張帰厚・張帰は皆馬前に匍匐し、悉くこれを宥して受け容れた。遂に残冦を逐い、東は冤句に至った。

五月甲戌、帝は晋軍と共に軍を振り返って汴に帰り、克用を上源駅に館した。既に犒宴の礼を備えると、克用は酔いに乗じて気ままに振る舞い、帝はこれを平らげず。この夜、甲士を命じてこれを囲み攻撃した。案ずるに、「五月甲戌」よりここまで、通鑑考異に引く薛史梁紀にも見え、冊府元亀に引くものと符合する。会に大雨雷電があり、克用は電光の中にて牆を踰えて遁走することを得た。惟だその部下数百人を殺したのみであった。

六月、陳人は解囲の恩恵を感じ、その郡に帝の生祠堂を建てた。この年、黄巣は雖も斃れたが、蔡州の秦宗権が継いで巨孽となり、数万の衆を有し、隣郡を攻め陥とし、吏民を殺掠し、屠害の酷さは更に巣賊に甚だしく、帝はこれを患った。七月、遂に陳人と共に蔡賊を溵水で攻め、数千人を殺した。九月己未、僖宗は就いて帝に検校司徒・同平章事を加え、はい郡侯に封じ、食邑千戸を与えた。

光啓元年春、蔡賊は亳・頴二郡を掠め、帝は師を帥いてこれを救い、遂に東は焦夷に至り、賊衆数千を破り、賊将鉄林を生擒し、その首を梟して軍に示し帰還した。三月、僖宗は蜀より長安に還り、元号を光啓と改めた。四月戊辰、就いて帝に検校太保を加え、食邑千五百戸を増やした。十二月、河中・太原の軍が長安に迫り、観軍容使田令孜は僖宗を奉じて鳳翔に出幸させた。

二年春、蔡賊は益々熾んになった。時に唐室は微弱で、諸道州の兵は王室の用に供されず、故に宗権は毒を恣にすることができ、汝・洛・懐・孟・唐・鄧・許・鄭を連続して陥とし、圜幅数千里、殆ど人煙を絶ち、惟だ宋・亳・滑・潁のみが僅かに壘を閉ざすことができた。帝は累次出兵してこれと交戦したが、或いは勝ち或いは負け、人々は甚だこれを危ぶんだ。

三月庚辰、僖宗は制を降して就いて帝を沛郡王に封じた。案ずるに、旧唐書には、光啓元年三月、汴州刺史朱全忠を沛郡王とし、蔡州西北面行営都統を充てるとある。薛史によれば、元年には惟だ食邑を増やし、二年三月に至って乃ち王に進封されたのであり、旧唐書と異なる。欧陽史は薛史に従う。この月、僖宗は興元に移幸した。

五月、嗣襄王熅が長安で僭って帝位に即き、元号を建貞と改めた。使いを遣わして偽詔を汴に齎らせたが、帝はこれを庭で焼くことを命じた。未だ幾ばくもせず、襄王は果たして敗れた。

七月、蔡人が司州に迫り、節度使鹿宴弘が使いを遣わして救援を求めた。帝は葛従周らを遣わして師を率いて赴援させた。師は未だ至らぬうちに城は陥ち、宴弘は蔡賊に害された。

十一月、滑州節度使安師儒は軍政を怠ったため、部下に殺された。案ずるに、旧唐書には、十月壬子朔、滑州軍乱、その帥安師儒を逐い、衙将張ぎょうを推して留後軍務を主とす、師儒は汴に奔り、朱全忠これを殺すとある。新唐書には、十月、朱全忠滑州を陥とし、義成軍節度使安師儒を執るとある。欧陽史は旧唐書に従って汴に奔ると作り、通鑑は新唐書に従って擄われると作る。薛史によれば、師儒は自ら部下に殺されたのであり、新・旧唐書と異なる。又、新・旧唐書は共に十月と作るが、薛史は十一月と作る。通鑑は仍お薛史に従う。帝はこれを聞き、乃ち朱珍・李唐賓を遣わして襲撃してこれを取り、これにより遂に滑臺の地を有した。案ずるに、旧唐書には、朝廷は汴帥朱全忠に義成軍節度使を兼領させるとある。薛史胡真伝によれば、真は奇兵をもって滑州を襲取し、乃ち滑州節度留後に署せられた。蓋し全忠は雖も嘗て義成を兼領したが、その鎮には赴かず、故にその将胡真を留後に署したのであろう。十二月、僖宗は制を降して就いて帝に検校太傅を加え、呉興郡王に改封し、食邑三千戸を与えた。

この年、鄭州は蔡賊に陥とされ、刺史李璠は単騎で来奔した。帝はこれを宥して受け容れ、行軍司馬とした。宗権は既に鄭を得て、益々驕り、帝は裨将を遣わして金隄駅で邏らせ、賊と相遇い、因ってこれを撃つと、賊衆は大敗し、武陽橋まで追撃し、千余級を斬首した。帝は毎度蔡人と四郊で戦い、既に寡をもって衆を撃ち、常に奇をもってこれを制したが、惟だ師が少ないことを患い、その旨を快くしなかった。宗権も又、己が衆が帝の十倍であることを以て、頻敗を恥じ、乃ち衆に誓って堅決して夷門を攻めんとした。既にして蔡の諜者を獲、その事を備知し、遂に師を済わすことを謀った。

三年春二月乙巳、承制をもって朱珍を淄州刺史とし、東道において兵を募らしめ、かつ蔡人の麦苗を暴掠するを慮り、夏首を期して回帰せしむ。案ずるに、「募兵于東道」よりここまで、通鑑注にも見え、冊府元龜と同じ。珍は淄・棣に至るや、旬日のうちに、応募する者万余り。また密かに青州を襲い、馬千匹を獲、鎧甲もこれに相応じ、乃ち鼓行して帰る。四月辛亥、夷門に達す、帝喜んで曰く「吾が事は成る」と。この時、賊将張晊は北郊に屯し、秦賢は版橋に屯し、各々数万の衆あり、柵を樹てて相連なること二十余里、その勢い甚だ盛ん。帝諸将に謂いて曰く「この賊は今師を休め鋭を蓄えて時を俟ち、必ず我を攻め来らん。況んや宗権は我が兵少なしと度り、また珍の来るを知らず、吾が畏懼して、ただ堅守するに止まると謂う。今不意に出で、先んじてこれを撃つに如かず」と。乃ち親しく兵を引きて秦賢の寨を攻め、将士は踴躍して率先し、賊果た備えず、連ねて四寨を抜き、首級万余りを斬る。時に賊衆は神の助けありと以為う。庚午、案ずるに通鑑考異に云う、長暦四月甲辰朔、庚午無し、薛史誤る。今旧唐書を考うるに、光啓三年四月正に甲辰朔と作り、日数を以てこれを計うれば、庚午は乃ち四月二十七日なり。これは薛史の誤りに非ず、乃ち通鑑考異の誤りなり。賊将盧瑭、万余人を領して圃田北の万勝戍において汴水を夾みて営を為し、河を跨いで梁を為し、以て運路を扼す。案ずるに通鑑注は薛史梁紀を引きて曰く、盧瑭は圃田北において汴を夾みて梁を為し、以て運路を扼す。冊府元龜の引くところを視るに、稍々刪節あり。帝は精鋭を択びてこれを襲わしむ。この日昏霧四合し、兵賊塁に及んで方に覚ゆ、遂に突入して掩殺し、水に赴きて死する者甚だ衆し、盧瑭自ら河に投ず。河南の諸賊連敗し、敢えて復た駐まらず、皆な張晊の寨に並ぶ。ここより蔡寇は皆な震讋を懐き、往々軍中自ら相驚き乱る。帝は師を旋して休息し、大いに犒賞を行い、ここより軍士各々憤激を懐き、敵に遇う毎に奮勇せざるは無し。

五月丙子、酸棗門より出で、卯より未に至るまで、短兵相接し、賊衆大いに敗れ、二十余里を追斬し、僵仆して枕に就く。宗権は敗を恥じ、益々その虐を恣にし、乃ち鄭州より親しく突将数人を領し、径ちに張晊の寨に入る。冊府元龜巻一百八十七。その日の晩、大星賊塁に隕ち、声雷の如し。永楽大典巻三千二百七十一。辛巳、兗・鄆・滑の軍士皆な来りて援に赴き、乃ち兵を汴水の上に陳べ、旌旗器甲甚だ盛ん。蔡人これを望み、敢えて寨より出でず。翌日、諸軍を分布し、斉しく賊寨を攻め、寅より申に至り、首級二万余りを斬る。夜に会して軍を収め、牛馬・輜重・生口・器甲を獲ること勝ち計うべからず。この夜宗権・晊遁去し、遅明これを追い、陽武橋に至りて還る。宗権鄭州に至り、乃ちその廬舎を尽く焚き、その郡人を屠りて去る。始め蔡人は兵を分かちて陝・雒・孟・懷・許・汝を冦し、皆な先んじてこれを据う。この敗に因り、賊衆恐懼し、咸なこれを棄てて遁る。帝は乃ち将佐を慎選し、俾く壁壘を完葺せしめ、戦守の備えを為さしむ。ここにおいて遠近流亡復帰する者衆し。この時、揚州節度使高駢は裨将畢師鐸に害せられ、また孫儒・楊行密互いに相攻伐し、朝廷制すること能わず、乃ち就いて帝に検校太尉を加え、兼ねて淮南節度使を領せしむ。案ずるに旧唐書、光啓三年十一月、楊行密は使いを遣わして朱全忠に援を求め、制して全忠に検校太尉・侍中を授け、兼ねて揚州大都督ととく府長史とし、淮南節度観察使・行営兵馬都統を充てしむ。欧陽史は十二月と作り、通鑑は閏十一月と作る。薛史に据れば則ち全忠の兼ねて淮南を領するは九月以前に在りて、諸書と異なる。また薛史下文は閏十二月と作り、而して通鑑は閏十一月と作り、また互いに異なるあり、未だ詳らかに孰れか是なるを知らず。

九月、亳州裨将謝殷は刺史宋衮を逐い、自らその郡を据う。帝は親しく軍を領して太清宮に屯し、霍存を遣わしてこれを討平せしむ。案ずるに新唐書に云う、光啓三年六月壬戌、亳州将謝殷はその刺史宋衮を逐う。八月壬寅、謝殷誅せらる。通鑑は新唐書に従う。薛史は九月と作り、新唐書と異なる。帝の蔡寇を禦ぐや、鄆州の朱瑄、案ずるに欧陽史は朱宣と作る。薛史前後皆な「瑄」と作る。旧唐書・通鑑並びに薛史に同じ。兗州の朱瑾は皆な兵を領して来援す。宗権既に敗るるに及び、帝は瑄・瑾を宗人なりとし、また己に力ありと為し、皆な厚礼を以てこれを帰せしむ。瑄・瑾は帝の軍士勇悍なるを以て、私心これを愛し、乃ち密かに曹・濮の界上において金帛を懸けて以てこれを誘う。帝の軍はその貨に利して赴く者甚だ衆し。帝は乃ち檄を移して以てこれを譲る。朱瑄来りて詞遜らず、案ずるに通鑑考異は高若拙の後史補を引きて曰く、梁太祖皇帝梁園に到り、深く大志有り。然れども兵力足らず、常に外掠せんと欲し、また四境の難を虞い、毎に鬱然たる状有り。時に敬秀才を門下に薦むる者有り、乃ち梁祖に白して曰く「明公方に大事を図らんと欲す。輜重必ず四境に侵さるべし。但だ麾下の将士をして詐りて叛者と為して逃げしめ、明公即ち主上に奏し及び四隣に告げ、以て自ら叛徒を襲うを名とせよ」と。梁祖曰く「天奇人を降して以て吾を佐く」と。初めその議に従い、一出して衆十倍を致す。今案ずるに高若拙の紀すところ、深く敬翔と梁祖の陰謀の情状を得たり。薛史はただ梁実録の原辞に据り、未だ改正に及ばず。欧史は檄を移して兗・鄆を誣い、その汴の亡卒を誘いて以て東せしむと為す。また未だ詳らかに考うるに及ばず。乃ち朱珍に命じて曹を侵し濮を伐たしめ、以てその姦を懲らしむ。未だ幾ばくもせず、珍は曹州を伐ち、刺史丘礼を執えて以て献じ、遂に兵を移して濮州を囲む。兗・鄆の釁、ここより始まる。

十月、僖宗は水部郎中王贊に命じて紀功碑を撰せしめ、以て帝に賜う。この月、帝は親しく騎数千を帥いて師を濮上に巡り、因りて朱瑄の援師を范県において破る。丁未、濮州を攻め陥れ、刺史朱裕は単騎で鄆に奔る。尋いで鄆人に敗られ、月を踰えて乃ち還る。

十二月、僖宗は使いを遣わして帝に鉄券を賜い、また翰林承旨劉崇望に命じて徳政碑を撰せしめ、以て帝に賜う。

閏月甲寅、帝は行営司馬李璠に請いて権りに淮南留後を知らしめ、乃ち大将郭言に兵を領して援送せしめ、以て揚州に赴かしむ。

文徳元年正月、帝は師を率いて東に淮海に赴かんとし、行きて宋州に次ぐ。楊行密既に揚州を抜けりと聞き、遂に還る。この時、李璠・郭言は行きて淮上に至るも、徐戎に扼せられ、進むことを克せずして還る。案ずるに欧陽史に云う、璠の揚州に至るや、行密納れず。通鑑に据れば云う、李璠は泗州に至る。時溥は兵を以てこれを襲う。郭言は力戦して免れ得て還る。是れ李璠未だ嘗て揚州に得て至らず。薛史を以て実録と為すべし。帝怒り、遂に徐を伐たんと謀る。

二月丙戌、僖宗は制して帝を蔡州四面行営都統と為す。ここより諸鎮の師は、皆な帝の節制を受く。案ずるに新唐書、正月癸亥、朱全忠を蔡州四面行営都統と為す。旧唐書は五月と作り、薛史と異なる。通鑑は新唐書に従う。

三月庚子、昭宗即位す。この月、蔡人石璠は万衆を領して以て陳・亳を剽す。帝は朱珍に精騎数千を率いしめ、璠を擒えて以て献ぜしむ。

四月戊辰、魏博の楽彦禎が軍律を失い、その子の従訓が相州に出奔し、使者を遣わして援軍を乞う。帝は朱珍に大軍を率いて河を渡らせ、続けて黎陽・臨河の二邑を収める。やがて魏軍は小校の羅弘信を推して帥とす。弘信が立つと、使者を遣わして汴に帰順の意を送る。帝は手厚くこれを迎え入れ、ついに軍を返すことを命ず。この月、河南尹の張全義が河陽において李罕之を襲い、これを陥とす。罕之は単騎で出奔し、太原に援軍を乞う。李克用は万騎を発してこれを援けしむ。罕之はついにその衆を収め、晋軍と合勢して急ぎ河陽を攻む。全義危急、汴に使者を遣わして救いを求む。帝は丁会・牛存節・葛従周に兵を率いて赴かしめ、温県において大戦す。晋人と罕之はともに敗る。ここにおいて河橋の包囲解け、全義は河陽に帰り、よって丁会を河陽留後とす。

五月己亥、昭宗の制により帝を検校侍中とし、食邑三千戸を増す。戊辰、詔して帝の郷を衣錦郷と改め、里を沛王里と曰す。この月、帝は洛・孟の地を兼ね有し、西顧の憂い無きを以て、将に師徒を大いに整え、力を尽くして蔡を誅せんとす。時に蔡人趙徳諲が漢南の地を挙げて朝廷に帰し、且つ使者を遣わして帝に帰順の意を送り、なお力を合わせて宗権を討つことを誓う。帝はその事を上表す。朝廷よって徳諲を蔡州四面副都統とす。また河陽・保義・義昌の三節度を帝の行軍司馬とし、兼ねて糧料応接使とす。ここに至り、帝は諸侯の師を率いて徳諲と会し、汝水の上において蔡賊を伐つ。ついにその城に迫る。五日之内に二十八寨を樹ててこれを環らしむ、蓋し列宿の数を象るなり。時に帝は自ら矢石に臨む。一日、飛矢その左腋に中り、血単衣に漬く。左右を顧みて曰く「洩らすなかれ」と。

九月、糧運続かず、ついに軍を返す。この時、帝は宗権の残孽以て患い為すに足らざるを知り、兵を移して徐を伐つ。

十月、先に朱珍に兵を率いさせ時溥と呉康鎮において戦わしむ。徐人大いに敗れ、連ねて豊・蕭の二邑を収む。溥は散騎を率いて彭門に馳せ入る。帝は兵を分かち宿州を攻めしむ。刺史張友は符印を携えて降る。やがて徐人は壁を閉ざして堅く守る。ついに龎師古に兵を屯してこれを守らしめ、帰還す。この月、蔡賊の孫儒が揚州を攻め陥とし、自ら淮南節度使と称す。

龍紀元年正月、龎師古が宿遷県を陥とし、呂梁に進軍す。時溥は軍二万を領し、朝に師古の軍を圧して陣す。師古は戦いを促し、これを破り、二千余級を斬首す。溥はまた彭門に入る。

二月、蔡将の申叢が使者を遣わし来告す、秦宗権を帳下に縛し、その足を折ってこれを囚うと。帝は即日承制して叢を淮西留後とす。未だ幾ばくもせず、叢はまた都将の郭璠に殺さる。この月、璠は宗権を執り来献す。帝は行軍司馬の李璠・牙校の朱克讓に檻車に載せて長安に進めしむ。既に至るや、昭宗は延喜楼に御して俘虜を受け、即ち宗権を独柳樹下に斬る。蔡州平ぐ。昭宗は詔して帝に実封一百戸を加え、荘宅各一区を賜う。三月、また帝に検校太尉・兼中書令を加え、東平王に進封す、蔡平定の功を賞するなり。

大順元年四月丙辰、宿州小将の張筠が刺史張紹光を逐い、衆を擁して時溥に附す。帝は親軍を率いてこれを討ち、千余人を殺す。筠はついに堅く守る。乙卯、時溥が兵を出して碭山県を暴かしむ。帝は朱友裕に兵を以てこれを襲わしめ、徐軍三千余衆を破り、沙陀の援軍石君和等三十人を獲て、宿州城下に斬る。

六月辛酉、淮南の孫儒が使者を遣わして帝に修好す。帝はその事を上表し、淮南節度を儒に授けんことを請う。辛未、昭宗は帝を宣義軍節度使とし、河東東面行営招討使を充てしむ、時に朝廷の宰臣張濬が兵を将いて太原を討たんとする故なり。

八月甲寅、昭義の都将馮霸が沙陀の署する節度使李克恭を殺して来降す。帝は河陽節度使朱崇節を潞州留後とせんことを請う。戊辰、李克用自ら蕃漢の歩騎数万を率いて潞州を囲む。帝は葛従周に驍勇の士を率いさせ、夜中に枚を銜みて囲みを犯し潞に入らしむ。

九月壬寅、帝は河陽に至り、都将李讜に軍を率いさせ沢・潞に向かわしむ。馬牢川に行き至りて、晋人に敗る。帝はまた朱友裕・張全義に精兵を率いさせ鄆州の北に至りて応援と為さしむ。やがて崇節・従周は潞を棄てて来帰す。戊申、帝は廷において諸将の敗軍の罪を責め、李讜・李重胤を斬って示し、ついに軍を返す。

十月乙酉、帝は河陽より滑臺に赴く。時に詔を奉じて将に太原を討たんとし、先に使者を遣わして魏に仮道を請う。魏人は従わず。先に、帝は行人雷鄴を遣わして魏に糴を告ぐ。やがて牙軍に殺さる。羅弘信懼れ、故に命に従うことを敢えず、ついに太原に通好す。

十二月辛丑、帝は丁会・葛従周に衆を率いさせ河を渡り黎陽・臨河を取らしめ、また龎師古・霍存に淇門・衞県を下らしむ。帝は徐ろに大軍を以てその後に継ぐ。

二年春正月、魏軍は内黄に屯す。丙辰、帝はこれと接戦し、内黄より永定橋に至るまで、魏軍五たび敗れ、斬首万余級。羅弘信懼れ、使者を遣わして厚幣を持し請和す。帝はその焚掠を止め俘虜を帰すことを命ず。弘信よって感悦して命を聴く。乃ち軍を収めて河上に屯す。

八月己丑、帝は丁會を派遣して宿州を急攻させた。刺史張筠はその城壁を堅守したので、會は州の東で堰を築き、汴水を塞いで城を水浸しにした。十月壬午、張筠は遂に降伏し、宿州は平定された。案:舊唐書は十一月とし、汴軍が宿州を陥落させたとあり、薛史と異なる。歐陽史及び新唐書、通鑑は皆薛史に従い十月とする。

十一月丁未、曹州の裨将郭紹賓が刺史郭饒を殺し、郡を挙げて降伏してきた。案:新唐書には、十一月己未、曹州の将郭誅がその刺史郭詞を殺し、全忠に叛いて附いたとある。通鑑は新唐書に従い、薛史と異なる。歐陽史は依然として薛史に従う。この月、徐の将劉知俊が二千の兵を率いて降伏してきた。これより徐軍は振るわなくなった。

十二月、兗州の朱瑾が三万の軍を率いて単父を寇した。帝は丁會に大軍を率いて襲撃させ、金郷の境界でこれを破り、二万余りの兵を殺し、朱瑾は単騎で逃げ去った。

景福元年正月、丁會を兗州の境界に派遣し、その民数千戸を許州に移住させた。

二月戊寅、帝は親征して鄆に向かい、先に朱友裕を斗門に駐屯させた。甲申、衞南に到着した。飛鳥が高い城壁の上に止まり、激しく鳴き騒いだ。副使李璠が言うには、「意に沿わぬ事があろう」。その夜、鄆州の朱瑾が歩騎一万を率いて斗門の朱友裕を襲った。友裕は軍を抜いて南へ去った。乙酉、帝は朝に斗門を救援したが、友裕の撤退を知らず、先に斗門に至った者は皆鄆人に殺された。帝は鄆人を瓠河まで追撃したが及ばず、村落の間に兵を駐めた。案:領の字は文義を考うるに頓の字の誤りであろう。今改める。時に朱瑄は尚濮州に在った。丁亥、朱瑄が兵を率いて鄆に帰らんとするに出会い、衝撃を加えてきた。帝は馬を策して南へ馳せたが、賊に追われ甚だ急であり、前方に深い溝があったが、馬を躍らせて越え、張帰厚が後方で矟を援げて力戦し、ようやく免れた。時に李璠と都将数人は皆鄆軍に殺された。

五月丙午、朱克讓を派遣して衆を率い、兗・鄆の麦を刈り取らせた。

十一月、朱友裕を派遣して兵を率い濮州を攻め、これを陥落させ、刺史邵儒を生け捕りにして献上した。濮州は平定された。遂に軍を移して徐州を討つことを命じた。冊府元龜巻一百八十七。

二年四月丁丑、師古は彭門を陥落させ、溥の首を梟して献上した。通鑑考異が薛史梁紀を引用。案:冊府元龜が薛史を引用するも、景福二年の事は多く削除されている。考異にはこの春に石佛山の戦いがあるが、今は載せていない。通鑑注が薛史を引用して云う、「石佛山は彭門の南にある」。疑わくは此処の闕文であろう。

八月、帝は龎師古を派遣して兵を移し兗を攻めさせ、曲阜に駐屯し、朱瑾と屡々戦い、皆これを破った。

十二月、師古は先鋒葛從周を遣わし軍を率いて斉州を攻めさせた。刺史朱威は兗・鄆に急を告げた。既にして朱瑄が援兵を率いて至り、その陣営を固めた。冊府元龜巻一百八十七。

乾寧元年二月、帝は親ら大軍を率い、鄆州の東路より北に進み魚山に駐屯した。魚山、歐陽史は漁山と作す。通鑑を考うるも魚山と作す。今は旧に仍る。朱瑄が偵知し、即ち兵を率いて直ちに至り、速戦を図った。帝は軍を整えて寨を出た。時に朱瑄・朱瑾は既に前に陣を布いていた。須臾のうちに東南風が大いに起こり、我が軍の旌旂は順序を失い、甚だ懼色があった。即ち騎士に命じて鞭を揚げて呼嘯させた。俄かに西北風が驟発した。時に両軍は皆草莽の中に在り、帝は因って火を放つことを命じた。既にして煙焰は天に亘り、勢いに乗じて賊陣を攻め、朱瑄・朱瑾は大敗した。永楽大典巻一万五千一百二十。一万余人を殺し、余衆は清河に擁入り、因って魚山の下に京観を築き、数日間駐軍して還った。

二年正月癸亥、朱友恭を派遣して師を帥い再び兗を伐たせ、遂に塹壕を掘ってこれを包囲した。未だ幾ばくもせず、朱瑄が鄆より歩騎を率いて糧食を援けんとして兗に入らんとした。友恭は伏兵を設けてこれを破り、その糧食を尽く高呉で奪った。通鑑は高梧と作す。是書の前後を考うるに俱に高呉と作す。今は旧に仍る。因って蕃将安福順・安福慶を生け捕りにした。

二月己酉、帝は親軍を率いて単父に駐屯し、友恭の援けとした。

四月、濠・寿二州が再び楊行密に陥落させられた。この時、太原が将史儼兒・李承嗣を派遣し、一万騎を以て馳せて鄆に入らせた。案:通鑑、乾寧二年四月、河東が其の将史儼兒・李承嗣を派遣し、一万人を以て馳せて鄆に入らせた。これは薛史梁紀の原文に拠る。惟だ史儼兒を史儼と作すのは微かに異なるのみ。下に又云う、七月、克用が史儼を派遣し三千騎を率いて石門に詣で侍衞せしむ。十二月、李克用が大将史儼・李承嗣を派遣し、魏を仮道して以て之を救わしむ。前後復た互いに矛盾し、且つ其の時汴・鄆は日に戦争有り、道路も隔たっていた。史儼が既に四月に鄆に入ったならば、七月に既に石門に在るべきではなく、十二月に又魏を過ぎることもない。舊唐書を考うるに云う、初め、兗・鄆が太原に援けを求め、克用は蕃将史完府・何懷實等に千騎を以て赴かせた。其の鄆に赴くを何時とするか言わず。此の篇の下に云うに拠れば、八月、蕃将史完府を獲たり。十一月、何懷寶を擒えたり。然らば則ち四月に馳せて鄆に入った者は、当に史完府・何懷寶であって、史儼・李承嗣ではない。薛史唐武皇紀及び李承嗣伝を参考するに、承嗣等の鄆に入るは定めて二年の冬に在り、梁紀には誤り有るが如し。通鑑は梁・唐の帝紀を並び采るも、亦た画一に考定することが能わず。朱友恭は遂に汴に帰った。

八月、帝は親軍を率いて鄆を伐ち、大仇に至り、前軍に挑戦させ、梁山に伏兵を設けてこれを待った。既にして蕃将史完府を捕え、馬数百匹を奪った。朱瑄は身を脱して逃げ去り、再び鄆に入った。案:通鑑、九月辛未、朱全忠自ら将いて朱瑄を撃ち、梁山に戦い、朱瑄は敗走して鄆に還る。薛史と異なる。歐陽史は仍お薛史に従い八月と作す。

十月、帝は軍を鄆に駐留させた。齊州刺史朱瓊が使者を遣わして降伏を請うた。瓊は即ち瑾の従父兄である。案ずるに、新唐書昭宗紀には、十一月壬申、齊州刺史朱瓊が叛いて朱全忠に降る、とある。薛史によれば、朱瓊が自ら降伏を請うてから殺されるまで全て十月のことであり、新唐書と異なる。通鑑は新唐書に従う。帝はこれにより軍を移して兗に至り、瓊は果たして来降した。未だ幾ばくもせず、瓊は朱瑾に欺かれて掠め取られ殺された。帝は即ちその弟玭を齊州防禦使とした。

十一月、朱瑄はまた将の賀瓌、柳存及び蕃将の何懷宝等一万余りを遣わして曹州を襲撃させた。何懷宝は、通鑑では薛懷宝と作るが、旧唐書を考うるに亦た何懷宝と作るので、今もこれに従う。兗州の包囲を解かんとしたのである。帝はこれを知り、兗より軍を率いて策馬し先ず路を鉅野の南に至り、追撃してこれを破り、殺戮すること殆んど尽くし、賀瓌、柳存、何懷宝及び賊党三千余人を生け捕りにした。この日申の刻、狂風が暴れ起こり、沙塵が沸き湧いた。帝は曰く、「これは人を殺すことが未だ足らざるが故である」と。遂に命を下して捕らえた囚虜を全て殺させた。風も亦た止んだ。翌日、賀瓌等を縛り兗に示した。帝は元より瓌の名を知っていたので、これを釈放し、ただ何懷宝を兗城の下で斬った。乃ち軍を返した。

十二月、葛従周が兵を率いて再び兗を伐った。案ずるに、通鑑には、朱全忠が兗州を去るに当たり、葛従周に兵を将いて守らせた、とある。薛史梁紀と異なる。又、薛史葛従周伝は十月の事と作る。既に到着し、朱瑾と塁下に戦い、千余りの衆を殺し、その将孫漢筠以下二十人を擒らえ、遂に軍を返した。

三年正月、河東の李克用は既に邠州を破り、覇を争わんと謀り、乃ち蕃将の張汚落に一万騎を以て河北の莘県に寨させ、声言して兗、鄆を救わんと欲すと称した。魏博節度使羅弘信これを患い、使いを遣わして援を求めた。冊府元亀巻一百八十七。

二月、帝は親軍を率いて単父に屯した。寒食に会し、帝は乃ち親しく碭山県午溝里の文穆皇帝陵を拝した。冊府元亀巻一百八十九。

四月辛酉、河東の水が漲り溢れ、滑城を壊さんとした。帝は堤岸を決してその勢いを分かち二河とし、滑城を挟んで東に流れさせたが、害はますます甚だしくなった。この月、帝は許州刺史朱友恭に兵一万を率いて淮を渡らせ、便宜を以て事を行わせた。時に黄、鄂二州が累次使者を遣わして援を求めたので、この行動があったのである。

五月、葛従周に命じて軍を統率させ洹水に屯し、以て蕃軍に備えさせた。

六月、李克用は蕃漢諸軍を率いて斥丘に営し、その子落落に鉄林小児三千騎を将いて洹水に迫らせた。従周はこれと戦い、大いにこれを破り、落落を生け捕りにして献じた。克用は悲しみ驚き、旧好を修めてその子を贖わんと請うたが、帝は許さず、遂に落落を羅弘信に送り、これを斬らせた。七日を過ぎ、我が軍は還って陽留に屯し、以て鄆を伐った。

八月、再び洹水に壁した。この時、昭宗は華州に幸し、使者を遣わして就いて帝に加えて検校太師、守中書令とした。

四年正月、帝は洹水の師を以て大いに挙兵して鄆を伐った。辛卯、済水のほとりに営した。案ずるに、胡三省が云う、漢以後に済水は無く、この済水は蓋し即ち鄆城の清河水である、と。龎師古は諸将に命じて木を撤いて橋とさせた。乙未の夜、師古は中軍を以て先ず渡り、その声は鄆に響き渡った。朱瑄これを聞き、壁を棄てて夜遁した。葛従周はこれを追って中都の北に至り、瑄及びその妻子を擒らえて献じた。案ずるに、「辛卯営于済水之次」よりここまで、又た通鑑考異に見えるが、ただ中に数字少なく、蓋し書を引く間に刪節有り。尋ねて汴橋の下で斬った。鄆州平らぐ。己亥、帝は鄆に入り、朱友裕を鄆州兵馬留後とした。案ずるに、通鑑には、正月、龎師古を天平軍留後とす。三月、朱友裕を天平軍留後と表す、とある。薛史郴王友裕伝によれば、四年、帝が東平を下すや、即ち天平留後となった。通鑑と異なる。時に帝は朱瑾と史儼児が豊沛の間で糧饋を搜索し、ただ康懐英を留めて兗州を守らせていると聞き、帝は勝ちに乗じて葛従周に大軍を以て兗を襲撃させた。懐英は鄆が失陥したと聞き、俄かに又我が軍の大いに至るや、乃ち出でて降った。朱瑾、史儼児は遂に淮南に奔った。兗、海、沂、密等の州平らぐ。案ずるに、新唐書昭宗紀には、四年正月丙申、朱全忠鄆州を陥とし、天平軍節度朱宣死す。二月、朱全忠兗州を寇し、泰寧軍節度使朱瑾淮南に奔る、と。旧唐書には、正月癸未、汴将龎師古鄆州を陥とす。二月戊申、汴将葛従周兗州を陥とす、と。薛史と月日の前後同じからず、詳しくは通鑑考異に見ゆ。乃ち葛従周を兗州留後とした。冊府元亀巻一百八十七。

五月丁丑、朱友恭が使者を遣わして上言し、武昌において淮冦を大破し、黄、鄂二州を回復した、と。通鑑考異薛史梁紀を引く。

八月、陝州節度使王珙が使者を遣わして来たり師を乞うた。この時、珙の弟珂が実に蒲帥であった。珂は、原本は「琦」と訛るが、今新唐書王重栄伝に拠って改正する。互いに憤怒を繰り返し、日々干戈を交え、而して珙は兵寡ないので、来たり援を求めたのである。帝は張存敬、楊師厚等に兵を率いて陝に赴かせた。既にして蒲人と猗氏において戦い、大いにこれを破った。

九月、帝は兗、鄆が既に平らぎ、将士雄勇なるを以て、遂に大いに挙兵して南征した。案ずるに、旧唐書昭宗紀には、師古の淮を渡るは十月に在り、而して清口の敗は十一月に在る。薛史は九月に繫ぐが、蓋し南征の議を挙ぐるは実に九月に始まり、その後遂にこれを終わりまで言うのである。欧陽史は改めて九月淮南を攻む、と作る。然らば清口の役は、乃ち雨雪に因って敗れたのであり、九国志に拠る可く、断じて九月の事ではない。龎師古に命じて徐、宿、宋、滑の師を以て直ちに清口に向かわせ、葛従周に兗、鄆、曹、濮の衆を以て径ちに安豊に赴かせた。淮人は朱瑾に兵を率いて師古を拒がせ、水を決して軍を浸し、遂に淮人の為に敗れ、師古は歿した。葛従周は行きて濠梁に及び、師古の敗れしを聞き、亦た命じて軍を返した。冊府元亀巻一百八十七。