舊五代史

梁書一: 太祖本紀一

梁書一: 太祖本紀一

薛居正等の『舊五代史』本紀は、『永樂大典』に収録されたものが完全であるが、ただ梁の太祖たいそ紀の原本はすでに散佚しており、各韻に散見するものはわずかに六十八條を得るに過ぎず、『通鑑考異』や『通鑑注』が引用しているものを参照してさらに二十一條を得たが、首尾が完備せず、綴り合わせて一篇と成すことができなかった。『冊府元龜』閏位部に収録された朱梁の事蹟を調べると、皆薛史の原文に基づいており、首尾が頗る詳しいので、條ごとに採集し、なお彙萃することができる。謹んで前人(魏澹の『魏書』や高峻の『小史』を取って『北魏書』の欠けた篇を補った例)に倣い、『冊府元龜』の梁太祖に関する事蹟を採り、編年に日を繫ぎ、順序に従って編排し、その欠落を補い、少しでも薛史の旧観に近づけんことを願う。なお各條の下に原書の巻第を注記し、参照検討の備えとする。

原文案薛史本紀,永樂大典所載俱全,獨梁太祖紀原帙已佚,其散見于各韻者,僅得六十八條,參以通鑑考異、通鑑注所徵引者,又得二十一條,本末不具,未能綴輯成篇。考冊府元龜閏位部所錄朱梁事蹟,皆本之薛史原文,首尾頗詳,按條採掇,尚可彙萃。謹依前人取魏澹書、高氏小史補北魏書闕篇之例,采冊府元龜梁太祖事,編年系日,次第編排,以補其闕,庶幾畧還薛史之舊。仍于各條下注明原書卷第,以備參核焉。

太祖神武元聖孝皇帝は、姓は朱、諱いみなは晃、本名は溫(『永樂大典』巻八千六百八十七)。宋州碭山県の人である。その先祖は舜の司徒しと・虎の後裔で、高祖こうそは黯、曾祖は茂琳、祖は信、父は誠である。帝はすなわち誠の第三子で、母は文惠王皇后と申す(『冊府元龜』巻一百八十二。案ずるに『五代會要』によれば、梁の肅祖宣元皇帝は諱を黯とし、舜の司徒・虎の四十二代の孫である。開平元年七月、宣元皇帝を追尊し、廟號を肅祖とし、興極陵に葬った。敬祖光獻皇帝は諱を茂琳とし、宣元皇帝の長子で、母は宣僖皇后范氏と申す。開平元年七月、光獻皇帝を追尊し、廟號を敬祖とし、永安陵に葬った。憲祖昭武皇帝は諱を信とし、光獻皇帝の長子で、母は光孝皇后楊氏と申す。開平元年七月、昭武皇帝を追尊し、廟號を憲祖とし、光天陵に葬った。烈祖文穆皇帝は諱を誠とし、昭武皇帝の長子で、母は昭懿皇后劉氏と申す。開平元年七月、文穆皇帝を追尊し、廟號を烈祖とし、咸寧陵に葬った)。唐の大中六年(壬申の年)十月二十一日の夜、碭山県午溝里に生まれた。この夜、住んでいた廬舎の上に赤気が上騰し、里人はこれを見て皆驚き駆けつけ、「朱家で火事が起こった」と言った。しかし到着してみると、廬舎は整然としていた。中に入ると、隣人が子供が生まれたことを皆に告げたので、皆これを異とした(『永樂大典』巻一萬六千一十九。案ずるに、以上は『冊府元龜』巻一百八十二にも見える。これによって推すに、『冊府元龜』が五代の事蹟を引用する多くは薛史に本づくことを知る)。兄弟三人は、皆元服前に孤児となり、母(案ずるに、『冊府元龜』がこの條を引くところでは「母」の字あざなの下に「王氏」の二字がある)が連れて蕭県の人劉崇の家に寄養された。帝は壮年になっても生業に従わず、雄勇を以て自ら任じ、里人は多くこれを厭った。劉崇はその怠惰なのを以て、毎度譴責して杖で打った。ただ劉崇の母だけが幼い頃からこれを憐れみ、自らその髪を梳き、嘗て家人に誡めて言うには、「朱三は常人ではない、汝らは善くこれを遇すべきである」と。家人がその理由を尋ねると、答えて言うには、「私は嘗て彼が熟睡している時、赤い蛇に化けるのを見た」と。しかし人々もまたこれを信じなかった(『永樂大典』巻五千九百四十九)。

原文太祖神武元聖孝皇帝,姓朱氏,諱晃,本名溫,(永樂大典卷八千六百八十七。宋州碭山人。其先舜司徒虎之後,高祖黯,曾祖茂琳,祖信,父誠。帝卽誠之第三子,母曰文惠王皇后。冊府元龜卷一百八十二。案五代會要:梁肅祖宣元皇帝諱黯,舜司徒虎四十二代孫。開平元年七月,追尊宣元皇帝,廟號肅祖,葬興極陵。敬祖光獻皇帝諱茂琳,宣元皇帝長子,母曰宣僖皇后范氏,開平元年七月,追尊光獻皇帝,廟號敬祖,葬永安陵。憲祖昭武皇帝諱信,光獻皇帝長子,母曰光孝皇后楊氏,開平元年七月,追尊昭武皇帝,廟號憲祖,葬光天陵。烈祖文穆皇帝諱誠,昭武皇帝長子,母曰昭懿皇后劉氏,開平元年七月,追尊文穆皇帝,廟號烈祖,葬咸寕陵。)以唐大中六年嵗在壬申,十月二十一日夜,生于碭山縣午溝里。是夕,所居廬舍之上有赤氣上騰,里人望之,皆驚奔而來,曰:「朱家火發矣。」及至,則廬舍儼然。旣入,隣人以誕孩告眾,咸異之。永樂大典卷一萬六千一十九。案:以上亦見冊府元龜卷一百八十二。以此推之,知冊府元龜引五代事蹟多本薛史。昆仲三人,俱未冠而孤,母 (案:冊府元龜引此條「母」字下有「王氏」二字。)攜養寄於蕭縣人劉崇之家。帝旣壯,不事生業,以雄勇自負,里人多厭之。崇以其慵惰,每加譴杖。唯崇母自幼憐之,親為櫛髮,嘗誡家人曰:「朱三非常人也,汝輩當善待之。」家人問其故,答曰:「我嘗見其熟寐之次,化為一赤蛇。」然眾亦未之信也。永樂大典卷五千九百四十九。

唐の僖宗の乾符年間、関東に凶作が重なり、群賊が嘯聚した。黄巢はこれに乗じて曹州・濮州より起こり、飢えた民衆が付き従おうとする者は凡そ数万に及んだ。帝はそこで劉崇の家を辞し、次兄の存と共に黄巢の軍に入り、力戦して屡々勝利したため、隊長に補せられた。

原文唐僖宗乾符中,關東荐饑,羣賊嘯聚。黃巢因之起于曹、濮,饑民願附者凡數萬。帝乃辭崇家,與仲兄存俱入巢軍,以力戰屢捷,得補為隊長。

唐の広明元年十二月甲申、黄巢が長安ちょうあんを陥落させ、帝に命じて兵を率い東渭橋に駐屯させた。この時、夏州節度使せつどし諸葛爽が配下の兵を率いて櫟陽に駐屯していたので、黄巢は帝に命じて諸葛爽を招諭させたところ、爽は遂に黄巢に降った。

原文唐廣明元年十二月甲申,黃巢陷長安,遣帝領兵屯于東渭橋。是時,夏州節度使諸葛爽率所部屯于櫟陽,巢命帝招諭爽,爽遂降于巢。

中和元年二月、黄巢は帝を東南面行営先鋒使とし、南陽を攻撃させてこれを陥落させた。六月、帝は長安に帰還し、黄巢は自ら灞上で労った。七月、黄巢は帝を派遣して西に向かわせ、邠州・岐州・鄜州・夏州の軍勢を興平で防がせたが、赴くところ全てで功を立てた。

原文中和元年二月,巢以帝為東南面行營先鋒使,令攻南陽,下之。六月,帝歸長安,巢親勞于灞上。七月,巢遣帝西拒邠、岐、鄜、夏之師于興平,所至皆立功。

二年二月、黄巢は帝を同州防禦使とし、自ら攻め取らせた。帝はそこで丹州より南進し、左馮翊を攻撃してこれを抜き、遂にその郡を占拠した。時に河中節度使王重榮が数万の兵を駐屯させ、諸侯の兵を糾合して興復を図っていた。帝は当時その隣接する地にあり、屡々重榮に敗れたため、遂に黄巢に援軍を請うた。表章を十度上奏したが、偽左軍使孟楷に遮られて届かなかった。また黄巢の軍勢が逼迫し、諸校が離心していると聞き、帝はその必ず敗れることを知った。九月、帝は遂に左右と計略を定め、偽監軍使の嚴實(嚴實は原書では「嚴貴」と誤っている。今、歐陽修の『新五代史』及び『資治通鑑』に拠って改正する)を斬り、郡を挙げて重榮に降った(案ずるに、『舊唐書』僖宗紀には、八月庚子、賊の同州防禦使朱溫がその監軍嚴實を殺し、大将の胡真・謝瞳等と共に来降したとある。薛史は九月とするので、『舊唐書』と異なる。『新唐書』を考うるに、九月丙戌、黄巢の将朱溫が同州を以て降ったとある。『通鑑』もまた九月丙戌、朱溫がその監軍嚴實を殺し、州を挙げて降ったとし、皆薛史と同じである。是れ朱溫の降伏は実に九月にあり、『舊唐書』は誤りである)。重榮は即日に飛章を上奏した。時に僖宗は蜀におり、表を覧めて喜んで言うには、「これは天が我に賜うところである」と。そこで詔して帝を左金吾きんご衞大将軍に任じ、河中行営副招討使を充てさせ、なお名を全忠と賜った(案ずるに、歐陽史には、王鐸が制を承って溫を金吾衞大将軍・河中行営招討副使に拝したとある。薛史は僖宗が詔して授けたとするので、歐陽史と異なる。『舊唐書』を考うるに、王鐸が制を承って溫を華州刺史・潼関防禦鎮國軍等使に拝したとある。『通鑑』には王鐸が制を承って溫を同華節度使としたとある。是れ王鐸が制を承って拝した官は、歐陽史の載せる所の如きものではなく、謝瞳が表を奉じて行在に至って、初めて詔して金吾衞大将軍・河中行営招討副使を授けたのである。薛史が実情を得ているとすべきである。案ずるに、本書及び『舊唐書』・『通鑑』は皆僖宗が名を賜ったとするが、ただ『鑑戒錄』には、朱太祖が四鎮を統べ、中令に除せられた日、名は溫であった。崔相國と連ねて大事を構えるに及び、崔は毎度太祖の忠赤を奏し、関東に遷せば国に患い無からんと。昭宗は急ぎ太祖に勅して名を全忠と改めさせた。議者は「全」の字は人王なり、また「中心」に在り、甚だ不可なりと言い、上(昭宗)はようやくこれを悔いたとある。その説は諸史と異なり、蓋し伝聞の同からざるによるのであろう)。ここより配下の兵を率いて河中の兵士と共に行動し、向かうところ克捷せざるはなかった。

原文二年二月,巢以帝為同州防禦使,使自攻取。帝乃自丹州南行,以擊左馮翊,拔之,遂據其郡。時河中節度使王重榮屯兵數萬,糾兵諸侯,以圖興復。帝時與之鄰封,屢為重榮所敗,遂請濟師于巢。表章十上,為偽左軍使孟楷所蔽,不達。又聞巢軍勢蹙,諸校離心,帝知其必敗。九月,帝遂與左右定計,斬偽監軍使嚴實,嚴實原書訛作「嚴貴」,今據歐陽史及通鑑改正。 舉郡降于重榮。案舊唐書僖宗紀:八月庚子,賊同州防禦使朱溫殺其監軍嚴實,與大將胡真、謝瞳等來降。薛史作九月,與舊唐書異。考新唐書:九月丙戌,黃巢將朱溫以同州降。通鑑亦作九月丙戌,朱溫殺其監軍嚴實,舉州降。皆與薛史同。是朱溫之降,實在九月,舊唐書誤。重榮卽日飛章上奏,時僖宗在蜀,覽表而喜曰:「是天賜予也。」乃詔授帝左金吾衞大將軍,充河中行營副招討使,仍賜名全忠。案歐陽史云:王鐸承制拜溫金吾衞大將軍、河中行營招討副使。薛史以為僖宗詔授,與歐陽史異。考舊唐書:王鐸承制拜溫為華州刺史、潼關防禦鎮國軍等使。通鑑作王鐸承制以溫為同華節度使。是王鐸承制所拜之官,非如歐陽史所載也,至謝瞳奉表行在,乃詔授金吾衞大將軍、河中行營招討副使耳。當以薛史為得其實。 案:是書及舊唐書、通鑑皆作僖宗賜名,惟鑑戒錄云:朱太祖統四鎮,除中令日,名溫。與崔相國連搆大事,崔每奏太祖忠赤,遷之關東,國無患矣。昭宗遽敕太祖改名全忠,議者謂「全」字人王也,又在「中心」,甚不可也,上方悔焉。其說與諸史異,蓋傳聞之不同爾。自是率所部與河中兵士偕行,所向無不克捷。

三年(中和三年)三月、僖宗は制を下して帝(朱全忠)を宣武せんぶ軍節度使に任じ、前官のまま河中行営副招討使を充て、なお京闕(長安)を収復し次第、直ちに鎮(汴州べんしゅう)に赴くことを命じた。案ずるに、旧唐書には、中和三年五月、検校けんぎょう尚書右僕射・華州刺史・潼関防禦等使朱温を検校司空しくうとし、汴州刺史を兼ね、宣武節度・観察等使を充て、なお名を全忠と賜うとある。薛史によれば、全忠が宣武節度使を授かったのは三月であり、五月ではない。河中行営招討副使から遷任されたのであり、潼関防禦等使からではない。名を全忠と賜ったのは二年九月であり、三年五月でもない。通鑑の叙述する年月・官爵・名号は、皆薛史に拠っている。四月、黄巣軍は藍関より南へ逃走し、帝は諸侯の軍と共に長安を収復し、乃ち部下の一旅の衆を率い、節を仗して東下した。七月丁卯、梁苑に入った。この時、帝は三十二歳であった。時に蔡州刺史秦宗権は黄巣の残党と合従して暴虐をほしいままにし、共に陳州を包囲した。久しくして、僖宗は乃ち帝を東北面都招討使に命じた。時に汴・宋は連年飢饉に阻まれ、公私共に困窮し、府庫倉廩は皆空虚で、外は大敵に攻められ、内は驕兵が制し難く、交鋒接戦は日増しに激しくなった。人皆危ぶんだが、惟だ帝の鋭気は益々振るった。この年十二月、帝は兵を率いて鹿邑におり、巣衆と遭遇し、兵を縦いてこれを撃ち、二千余級を斬首し、乃ち兵を率いて亳州に入り、これにより譙郡の地を兼ね有した。

原文三年三月,僖宗制授帝宣武軍節度使,依前充河中行營副招討使,仍令候收復京闕,卽得赴鎮。案舊唐書:中和三年五月,以檢校尚書右僕射、華州刺史、潼關防禦等使朱溫檢校司空,兼汴州刺史,充宣武節度、觀察等使,仍賜名全忠。據薛史則全忠授宣武節度在三月,非五月也;由河中行營招討副使遷授,非由潼關防禦等使也;賜名全忠在二年九月,亦非三年五月也。通鑑所叙年月、官爵、名號,皆以薛史為據。四月,巢軍自藍關南走,帝與諸侯之師俱收長安,乃率部下一旅之眾,仗節東下。七月丁卯,入于梁苑。是時帝年三十有二。時蔡州刺史秦宗權與黃巢餘孽合從肆虐,共圍陳州,久之,僖宗乃命帝為東北面都招討使。時汴、宋連年阻饑,公私俱困,帑廩皆虛,外為大敵所攻,內則驕軍難制,交鋒接戰,日甚一日。人皆危之,惟帝銳氣益振。是嵗十二月,帝領兵于鹿邑,與巢眾相遇,縱兵擊之,斬首二千餘級,乃引兵入亳州,因是兼有譙郡之地。

四年春、帝は許州の田従異ら諸軍と共に瓦子寨を収め、案ずるに、瓦子寨は原本では「瓦于寨」と作る。通鑑注を考うるに、黄巣が民居を撤して寨屋と為し、これを瓦子寨と謂う。則ち「于」は字形が近くて刊行の際に誤ったものであろう。今、正す。賊数万の衆を殺した。この時、陳州の四面には賊の寨が相望み、編氓を駆り擄い、殺して食と充て、「舂磨寨」と号した。帝は兵を分けてこれを剪撲し、大小凡そ四十戦に及んだ。四月丁巳、西華寨を収め、賊将黄鄴は単騎で陳州に奔った。帝は勝ちに乗じてこれを追い、鼓噪して進んだ。会に黄巣が遁走したので、遂に陳州に入り、刺史趙犨が馬前に迎えた。俄かに巣党が尚ほ陳州の北の故陽壘に在ると聞き、帝は遂に直ちに大梁に帰った。この時、河東節度使李克用は僖宗の詔を奉じ、騎軍数千を統率して共に賊を破ることを謀り、帝と中牟の北で合勢してこれを邀撃し、賊衆は王満渡で大敗し、多くは手を束ねて来降した。時に賊将霍存・葛従周・張帰厚・張帰霸は皆馬前に匍匐し、悉くこれを宥して受け容れた。遂に残冦を逐い、東は冤句に至った。

原文四年春,帝與許州田從異諸軍同收瓦子寨,案:瓦子寨,原本作「瓦于寨」,攷通鑑注,黃巢撤民居以為寨屋,謂之瓦子寨,則「于」字形近刊訛耳,今改正。殺賊數萬眾。是時,陳州四面賊寨相望,驅擄編氓,殺以充食,號為「舂磨寨」。帝分兵翦撲,大小凡四十戰。四月丁巳,收西華寨,賊將黃鄴單騎奔陳。帝乘勝追之,鼓噪而進。會黃巢遁去,遂入陳州,刺史趙犨迎于馬前。俄聞巢黨尚在陳北故陽壘,帝遂逕歸大梁。是時,河東節度使李克用奉僖宗詔,統騎軍數千同謀破賊,與帝合勢于中牟北邀擊之,賊眾大敗于王滿渡,多束手來降。時賊將霍存、葛從周、張歸厚、張歸霸皆匍匐于馬前,悉宥而納之,遂逐殘冦,東至于冤句。

五月甲戌、帝は晋軍と共に軍を振り返って汴に帰り、克用を上源駅に館した。既に犒宴の礼を備えると、克用は酔いに乗じて気ままに振る舞い、帝はこれを平らげず。この夜、甲士を命じてこれを囲み攻撃した。案ずるに、「五月甲戌」よりここまで、通鑑考異に引く薛史梁紀にも見え、冊府元亀に引くものと符合する。会に大雨雷電があり、克用は電光の中にて牆を踰えて遁走することを得た。惟だその部下数百人を殺したのみであった。

原文五月甲戌,帝與晉軍振旅歸汴,館克用于上源驛。旣而備犒宴之禮,克用乘醉任氣,帝不平之。是夜,命甲士圍而攻之。案:自「五月甲戌」至此,又見通鑑考異所引薛史梁紀,與冊府元龜所引符合。會大雨雷電,克用因得于電光中踰墻遁去,惟殺其部下數百人而已。

六月、陳人は解囲の恩恵を感じ、その郡に帝の生祠堂を建てた。この年、黄巣は雖も斃れたが、蔡州の秦宗権が継いで巨孽となり、数万の衆を有し、隣郡を攻め陥とし、吏民を殺掠し、屠害の酷さは更に巣賊に甚だしく、帝はこれを患った。七月、遂に陳人と共に蔡賊を溵水で攻め、数千人を殺した。九月己未、僖宗は就いて帝に検校司徒・同平章事を加え、沛郡侯に封じ、食邑千戸を与えた。

原文六月,陳人感解圍之惠,為帝建生祠堂于其郡。是嵗,黃巢雖歿,而蔡州秦宗權繼為巨孽,有眾數萬,攻陷鄰郡,殺掠吏民,屠害之酷,更甚巢賊,帝患之。七月,遂與陳人共攻蔡賊于溵水,殺數千人。九月己未,僖宗就加帝檢校司徒、同平章事,封沛郡侯,食邑千戶。

光啓元年春、蔡賊は亳・頴二郡を掠め、帝は師を帥いてこれを救い、遂に東は焦夷に至り、賊衆数千を破り、賊将鉄林を生擒し、その首を梟して軍に示し帰還した。三月、僖宗は蜀より長安に還り、元号を光啓と改めた。四月戊辰、就いて帝に検校太保を加え、食邑千五百戸を増やした。十二月、河中・太原の軍が長安に迫り、観軍容使田令孜は僖宗を奉じて鳳翔に出幸させた。

原文光啟元年春,蔡賊掠亳、頴二郡,帝帥師以救之,遂東至于焦夷,敗賊眾數千,生擒賊將鐵林,梟首以狥軍而還。三月,僖宗自蜀還長安,改元光啟。四月戊辰,就加帝檢校太保,增食邑千五百戶。十二月,河中、太原之師逼長安,觀軍容使田令孜奉僖宗出幸鳳翔。

二年春、蔡賊は益々熾んになった。時に唐室は微弱で、諸道州の兵は王室の用に供されず、故に宗権は毒を恣にすることができ、汝・洛・懐・孟・唐・鄧・許・鄭を連続して陥とし、圜幅数千里、殆ど人煙を絶ち、惟だ宋・亳・滑・潁のみが僅かに壘を閉ざすことができた。帝は累次出兵してこれと交戦したが、或いは勝ち或いは負け、人々は甚だこれを危ぶんだ。

原文二年春,蔡賊益熾。時唐室微弱,諸道州兵不為王室所用,故宗權得以縱毒,連陷汝、洛、懷、孟、唐、鄧、許、鄭,圜幅數千里,殆絕人煙,惟宋、亳、滑、潁僅能閉壘而已。帝累出兵與之交戰,然或勝或負,人甚危之。

三月庚辰、僖宗は制を降して就いて帝を沛郡王に封じた。案ずるに、旧唐書には、光啓元年三月、汴州刺史朱全忠を沛郡王とし、蔡州西北面行営都統を充てるとある。薛史によれば、元年には惟だ食邑を増やし、二年三月に至って乃ち王に進封されたのであり、旧唐書と異なる。欧陽史は薛史に従う。この月、僖宗は興元に移幸した。

原文三月庚辰,僖宗降制就封帝為沛郡王。案舊唐書:光啟元年三月,以汴州刺史朱全忠為沛郡王,充蔡州西北面行營都統。據薛史,則元年惟增食邑,至二年三月乃進封為王也,與舊唐書異。歐陽史從薛史。是月,僖宗移幸興元。

五月、嗣襄王熅が長安で僭って帝位に即き、元号を建貞と改めた。使いを遣わして偽詔を汴に齎らせたが、帝はこれを庭で焼くことを命じた。未だ幾ばくもせず、襄王は果たして敗れた。

原文五月,嗣襄王熅僭卽帝位于長安,改元為建貞。遣使賷偽詔至汴,帝命焚之于庭。未幾,襄王果敗。

七月、蔡人が司州に迫り、節度使鹿宴弘が使いを遣わして救援を求めた。帝は葛従周らを遣わして師を率いて赴援させた。師は未だ至らぬうちに城は陥ち、宴弘は蔡賊に害された。

原文七月,蔡人逼司州,節度使鹿宴弘使來求救,帝遣葛從周等率師赴援。師未至而城陷,宴弘為蔡賊所害。

十一月、滑州節度使安師儒は軍政を怠ったため、部下に殺された。案ずるに、旧唐書には、十月壬子朔、滑州軍乱、その帥安師儒を逐い、衙将張驍を推して留後軍務を主とす、師儒は汴に奔り、朱全忠これを殺すとある。新唐書には、十月、朱全忠滑州を陥とし、義成ぎせい軍節度使安師儒を執るとある。欧陽史は旧唐書に従って汴に奔ると作り、通鑑は新唐書に従って擄われると作る。薛史によれば、師儒は自ら部下に殺されたのであり、新・旧唐書と異なる。又、新・旧唐書は共に十月と作るが、薛史は十一月と作る。通鑑は仍お薛史に従う。帝はこれを聞き、乃ち朱珍・李唐賓を遣わして襲撃してこれを取り、これにより遂に滑臺の地を有した。案ずるに、旧唐書には、朝廷は汴帥朱全忠に義成軍節度使を兼領させるとある。薛史胡真伝によれば、真は奇兵をもって滑州を襲取し、乃ち滑州節度留後に署せられた。蓋し全忠は雖も嘗て義成を兼領したが、その鎮には赴かず、故にその将胡真を留後に署したのであろう。十二月、僖宗は制を降して就いて帝に検校太傅たいふを加え、呉興郡王に改封し、食邑三千戸を与えた。

原文十一月,滑州節度使安師儒以怠于軍政,為部下所殺。案舊唐書云:十月壬子朔,滑州軍亂,逐其帥安師儒,推衙將張驍主留後軍務,師儒奔汴,朱全忠殺之。新唐書云:十月,朱全忠陷滑州,執義成軍節度使安師儒。歐陽史從舊唐書作奔汴,通鑑從新唐書作被擄,據薛史則師儒自為部下所殺,與新、舊唐書異。又新、舊唐書俱作十月,而薛史作十一月,通鑑仍從薛史。帝聞之,乃遣朱珍、李唐賓襲而取之,由是遂有滑臺之地。案舊唐書云:朝廷以汴帥朱全忠兼領義成軍節度使。據薛史胡真傳云:真以奇兵襲取滑州,乃署為滑州節度留後。蓋全忠雖嘗兼領義成,而不之鎮,故署其將胡真為留後。十二月,僖宗降制就加帝檢校太傅,改封吳興郡王,食邑三千戶。

この年、鄭州は蔡賊に陥とされ、刺史李璠は単騎で来奔した。帝はこれを宥して受け容れ、行軍司馬とした。宗権は既に鄭を得て、益々驕り、帝は裨将ひしょうを遣わして金隄駅で邏らせ、賊と相遇い、因ってこれを撃つと、賊衆は大敗し、武陽橋まで追撃し、千余級を斬首した。帝は毎度蔡人と四郊で戦い、既に寡をもって衆を撃ち、常に奇をもってこれを制したが、惟だ師が少ないことを患い、その旨を快くしなかった。宗権も又、己が衆が帝の十倍であることを以て、頻敗を恥じ、乃ち衆に誓って堅決して夷門を攻めんとした。既にして蔡の諜者を獲、その事を備知し、遂に師を済わすことを謀った。

原文是嵗,鄭州為蔡賊所陷,刺史李璠單騎來奔,帝宥而納之,以為行軍司馬。宗權旣得鄭,益驕,帝遣裨將邏于金隄驛,與賊相遇,因擊之,賊眾大敗,追至武陽橋,斬首千餘級。帝每與蔡人戰于四郊,旣以少擊眾,常出奇以制之,但患師少,未快其旨。宗權又以己眾十倍于帝,恥于頻敗,乃誓眾堅決以攻夷門。旣而獲蔡之諜者,備知其事,遂謀濟師焉。

三年春二月乙巳、承制をもって朱珍を淄州刺史とし、東道において兵を募らしめ、かつ蔡人の麦苗を暴掠するを慮り、夏首を期して回帰せしむ。案ずるに、「募兵于東道」よりここまで、通鑑注にも見え、冊府元龜と同じ。珍は淄・棣に至るや、旬日のうちに、応募する者万余り。また密かに青州を襲い、馬千匹を獲、鎧甲もこれに相応じ、乃ち鼓行して帰る。四月辛亥、夷門に達す、帝喜んで曰く「吾が事は成る」と。この時、賊将張晊は北郊に屯し、秦賢は版橋に屯し、各々数万の衆あり、柵を樹てて相連なること二十余里、その勢い甚だ盛ん。帝諸将に謂いて曰く「この賊は今師を休め鋭を蓄えて時を俟ち、必ず我を攻め来らん。況んや宗権は我が兵少なしと度り、また珍の来るを知らず、吾が畏懼して、ただ堅守するに止まると謂う。今不意に出で、先んじてこれを撃つに如かず」と。乃ち親しく兵を引きて秦賢の寨を攻め、将士は踴躍して率先し、賊果た備えず、連ねて四寨を抜き、首級万余りを斬る。時に賊衆は神の助けありと以為う。庚午、案ずるに通鑑考異に云う、長暦四月甲辰朔、庚午無し、薛史誤る。今旧唐書を考うるに、光啓三年四月正に甲辰朔と作り、日数を以てこれを計うれば、庚午は乃ち四月二十七日なり。これは薛史の誤りに非ず、乃ち通鑑考異の誤りなり。賊将盧瑭、万余人を領して圃田北の万勝戍において汴水を夾みて営を為し、河を跨いで梁を為し、以て運路を扼す。案ずるに通鑑注は薛史梁紀を引きて曰く、盧瑭は圃田北において汴を夾みて梁を為し、以て運路を扼す。冊府元龜の引くところを視るに、稍々刪節あり。帝は精鋭を択びてこれを襲わしむ。この日昏霧四合し、兵賊塁に及んで方に覚ゆ、遂に突入して掩殺し、水に赴きて死する者甚だ衆し、盧瑭自ら河に投ず。河南の諸賊連敗し、敢えて復た駐まらず、皆な張晊の寨に並ぶ。ここより蔡寇は皆な震讋を懐き、往々軍中自ら相驚き乱る。帝は師を旋して休息し、大いに犒賞こうしょうを行い、ここより軍士各々憤激を懐き、敵に遇う毎に奮勇せざるは無し。

原文三年春二月乙巳,承制以朱珍為淄州刺史,俾募兵于東道,且慮蔡人暴其麥苗,期以夏首回歸。案:自「募兵于東道」至此,亦見通鑑注,與冊府元龜同。珍旣至淄、棣,旬日之內,應募者萬餘人。又潛襲青州,獲馬千匹,鎧甲稱是,乃鼓行而歸。四月辛亥,達于夷門,帝喜曰:「吾事濟矣。」是時,賊將張晊屯于北郊,秦賢屯于版橋,各有眾數萬,樹柵相連二十餘里,其勢甚盛。帝謂諸將曰:「此賊方今息師蓄銳以俟時,必來攻我。況宗權度我兵少,又未知珍來,謂吾畏懼,止于堅守而已。今出不意,不如先擊之。」乃親引兵攻秦賢寨,將士踴躍爭先,賊果不備,連拔四寨,斬首萬餘級,時賊眾以為神助。庚午,案通鑑考異云:長曆四月甲辰朔,無庚午,薛史誤。今考舊唐書,光啟三年四月正作甲辰朔,以日數計之,庚午乃四月二十七日也。此非薛史之誤,乃通鑑考異之誤耳。賊將盧瑭領萬餘人于圃田北萬勝戍夾汴水為營,跨河為梁,以扼運路。案通鑑注引薛史梁紀曰:盧瑭于圃田北夾汴為梁,以扼運路。視冊府元龜所引,稍有刪節。帝擇精銳以襲之。是日昏霧四合,兵及賊壘方覺,遂突入掩殺,赴水死者甚眾,盧瑭自投于河。河南諸賊連敗,不敢復駐,皆并在張晊寨。自是蔡寇皆懷震讋,往往軍中自相驚亂。帝旋師休息,大行犒賞,繇是軍士各懷憤激,每遇敵無不奮勇。

五月丙子、酸棗門より出で、卯より未に至るまで、短兵相接し、賊衆大いに敗れ、二十余里を追斬し、僵仆して枕に就く。宗権は敗を恥じ、益々その虐を恣にし、乃ち鄭州より親しく突将数人を領し、径ちに張晊の寨に入る。冊府元龜巻一百八十七。その日の晩、大星賊塁に隕ち、声雷の如し。永楽大典巻三千二百七十一。辛巳、兗・鄆・滑の軍士皆な来りて援に赴き、乃ち兵を汴水の上に陳べ、旌旗器甲甚だ盛ん。蔡人これを望み、敢えて寨より出でず。翌日、諸軍を分布し、斉しく賊寨を攻め、寅より申に至り、首級二万余りを斬る。夜に会して軍を収め、牛馬・輜重・生口・器甲を獲ること勝ち計うべからず。この夜宗権・晊遁去し、遅明これを追い、陽武橋に至りて還る。宗権鄭州に至り、乃ちその廬舎を尽く焚き、その郡人を屠りて去る。始め蔡人は兵を分かちて陝・雒・孟・懷・許・汝を冦し、皆な先んじてこれを据う。この敗に因り、賊衆恐懼し、咸なこれを棄てて遁る。帝は乃ち将佐を慎選し、俾く壁壘を完葺せしめ、戦守の備えを為さしむ。ここにおいて遠近流亡復帰する者衆し。この時、揚州節度使高駢は裨将畢師鐸に害せられ、また孫儒・楊行密互いに相攻伐し、朝廷制すること能わず、乃ち就いて帝に検校太尉を加え、兼ねて淮南節度使を領せしむ。案ずるに旧唐書、光啓三年十一月、楊行密は使いを遣わして朱全忠に援を求め、制して全忠に検校太尉・侍中じちゅうを授け、兼ねて揚州大都督府長史とし、淮南節度観察使かんさつし・行営兵馬都統を充てしむ。欧陽史は十二月と作り、通鑑は閏十一月と作る。薛史に据れば則ち全忠の兼ねて淮南を領するは九月以前に在りて、諸書と異なる。また薛史下文は閏十二月と作り、而して通鑑は閏十一月と作り、また互いに異なるあり、未だ詳らかに孰れか是なるを知らず。

原文五月丙子,出酸棗門,自卯至未,短兵相接,賊眾大敗,追斬二十餘里,僵仆就枕。宗權恥敗,益縱其虐,乃自鄭州親領突將數人,逕入張晊寨。冊府元龜卷一百八十七。其日晚,大星隕于賊壘,有聲如雷。永樂大典卷三千二百七十一。辛巳,兗、鄆、滑軍士皆來赴援,乃陳兵于汴水之上,旌旗器甲甚盛。蔡人望之,不敢出寨。翌日,分布諸軍,齊攻賊寨,自寅至申,斬首二萬餘級。會夜收軍,獲牛馬、輜重、生口、器甲不可勝計。是夜宗權、晊遁去,遲明追之,至陽武橋而還。宗權至鄭州,乃盡焚其廬舍,屠其郡人而去。始蔡人分兵冦陝、雒、孟、懷、許、汝,皆先據之,因是敗也,賊眾恐懼,咸棄之而遁。帝乃慎選將佐,俾完葺壁壘,為戰守之備,于是遠近流亡復歸者眾矣。是時,揚州節度使高駢為裨將畢師鐸所害,復有孫儒、楊行密互相攻伐,朝廷不能制,乃就加帝檢校太尉,兼領淮南節度使。案舊唐書:光啟三年十一月,楊行密遣使求援于朱全忠,制授全忠檢校太尉、侍中,兼揚州大都督府長史,充淮南節度觀察使、行營兵馬都統。歐陽史作十二月,通鑑作閏十一月,據薛史則全忠兼領淮南自在九月以前,與諸書異。又薛史下文作閏十二月,而通鑑作閏十一月,亦有互異,未詳孰是。

九月、亳州裨将謝殷は刺史宋衮を逐い、自らその郡を据う。帝は親しく軍を領して太清宮に屯し、霍存を遣わしてこれを討平せしむ。案ずるに新唐書に云う、光啓三年六月壬戌、亳州将謝殷はその刺史宋衮を逐う。八月壬寅、謝殷誅せらる。通鑑は新唐書に従う。薛史は九月と作り、新唐書と異なる。帝の蔡寇を禦ぐや、鄆州の朱瑄、案ずるに欧陽史は朱宣と作る。薛史前後皆な「瑄」と作る。旧唐書・通鑑並びに薛史に同じ。兗州の朱瑾は皆な兵を領して来援す。宗権既に敗るるに及び、帝は瑄・瑾を宗人なりとし、また己に力ありと為し、皆な厚礼を以てこれを帰せしむ。瑄・瑾は帝の軍士勇悍なるを以て、私心これを愛し、乃ち密かに曹・濮の界上において金帛を懸けて以てこれを誘う。帝の軍はその貨に利して赴く者甚だ衆し。帝は乃ち檄を移して以てこれを譲る。朱瑄来りて詞遜らず、案ずるに通鑑考異は高若拙の後史補を引きて曰く、梁太祖皇帝梁園に到り、深く大志有り。然れども兵力足らず、常に外掠せんと欲し、また四境の難を虞い、毎に鬱然たる状有り。時に敬秀才を門下に薦むる者有り、乃ち梁祖に白して曰く「明公方に大事を図らんと欲す。輜重必ず四境に侵さるべし。但だ麾下の将士をして詐りて叛者と為して逃げしめ、明公即ち主上に奏し及び四隣に告げ、以て自ら叛徒を襲うを名とせよ」と。梁祖曰く「天奇人を降して以て吾を佐く」と。初めその議に従い、一出して衆十倍を致す。今案ずるに高若拙の紀すところ、深く敬翔と梁祖の陰謀の情状を得たり。薛史はただ梁実録の原辞に据り、未だ改正に及ばず。欧史は檄を移して兗・鄆を誣い、その汴の亡卒を誘いて以て東せしむと為す。また未だ詳らかに考うるに及ばず。乃ち朱珍に命じて曹を侵し濮を伐たしめ、以てその姦を懲らしむ。未だ幾ばくもせず、珍は曹州を伐ち、刺史丘礼を執えて以て献じ、遂に兵を移して濮州を囲む。兗・鄆の釁、ここより始まる。

原文九月,亳州裨將謝殷逐刺史宋衮,自據其郡,帝親領軍屯于太清宮,遣霍存討平之。案新唐書云:光啟三年六月壬戌,亳州將謝殷逐其刺史宋衮。八月壬寅,謝殷伏誅。通鑑從新唐書,薛史作九月,與新唐書異。帝之禦蔡寇也,鄆州朱瑄、案:歐陽史作朱宣,薛史前後皆作「瑄」,舊唐書、通鑑並同薛史。兗州朱瑾皆領兵來援。及宗權旣敗,帝以瑄、瑾宗人也,又有力于己,皆厚禮以歸之。瑄、瑾以帝軍士勇悍,私心愛之,乃密于曹、濮界上懸金帛以誘之,帝軍利其貨而赴者甚眾,帝乃移檄以讓之。朱瑄來詞不遜,案通鑑考異引高若拙後史補曰:梁太祖皇帝到梁園,深有大志,然兵力不足,常欲外掠,又虞四境之難,每有鬱然之狀。時有薦敬秀才于門下,乃白梁祖曰:「明公方欲圖大事,輜重必為四境所侵,但令麾下將士詐為叛者而逃,明公即奏于主上及告四鄰,以自襲叛徒為名。」梁祖曰;「天降奇人以佐于吾。」初從其議,一出而致眾十倍。今案高若拙所紀,深得敬翔與梁祖陰謀情狀。薛史止据梁實錄原辭,未及改正。歐史作移檄兗、鄆,誣其誘汴亡卒以東,亦未詳考。乃命朱珍侵曹伐濮,以懲其姦。未幾,珍伐曹州,執刺史丘禮以獻,遂移兵圍濮州。兗、鄆之釁,自茲而始矣。

十月、僖宗は水部郎中王贊に命じて紀功碑を撰せしめ、以て帝に賜う。この月、帝は親しく騎数千を帥いて師を濮上に巡り、因りて朱瑄の援師を范県において破る。丁未、濮州を攻め陥れ、刺史朱裕は単騎で鄆に奔る。尋いで鄆人に敗られ、月を踰えて乃ち還る。

原文十月,僖宗命水部郎中王贊撰紀功碑以賜帝。是月,帝親帥騎數千巡師于濮上,因破朱瑄援師于范縣。丁未,攻陷濮州,刺史朱裕單騎奔鄆。尋為鄆人所敗,踰月乃還。

十二月、僖宗は使いを遣わして帝に鉄券を賜い、また翰林承旨劉崇望に命じて徳政碑を撰せしめ、以て帝に賜う。

原文十二月,僖宗遣使賜帝鐵券,又命翰林承旨劉崇望撰德政碑以賜帝。

閏月甲寅、帝は行営司馬李璠に請いて権りに淮南留後を知らしめ、乃ち大将郭言に兵を領して援送せしめ、以て揚州に赴かしむ。

原文閏月甲寅,帝請行營司馬李璠權知淮南留後,乃遣大將郭言領兵援送以赴揚州。

文徳元年正月、帝は師を率いて東に淮海に赴かんとし、行きて宋州に次ぐ。楊行密既に揚州を抜けりと聞き、遂に還る。この時、李璠・郭言は行きて淮上に至るも、徐戎に扼せられ、進むことを克せずして還る。案ずるに欧陽史に云う、璠の揚州に至るや、行密納れず。通鑑に据れば云う、李璠は泗州に至る。時溥は兵を以てこれを襲う。郭言は力戦して免れ得て還る。是れ李璠未だ嘗て揚州に得て至らず。薛史を以て実録と為すべし。帝怒り、遂に徐を伐たんと謀る。

原文文德元年正月,帝率師東赴淮海,行次宋州,聞楊行密已拔揚州,遂還。是時,李璠、郭言行至淮上,為徐戎所扼,不克進而還。案歐陽史云:璠之揚州,行密不納。據通鑑云:李璠至泗州,時溥以兵襲之,郭言力戰得免而還。是李璠未嘗得至揚州也,當以薛史為寔錄。帝怒,遂謀伐徐。

二月丙戌、僖宗は制して帝を蔡州四面行営都統と為す。ここより諸鎮の師は、皆な帝の節制を受く。案ずるに新唐書、正月癸亥、朱全忠を蔡州四面行営都統と為す。旧唐書は五月と作り、薛史と異なる。通鑑は新唐書に従う。

原文二月丙戌,僖宗制以帝為蔡州四面行營都統,繇是諸鎮之師,皆受帝之節制。案新唐書:正月癸亥,朱全忠為蔡州四面行營都統。舊唐書作五月,與薛史異。通鑑從新唐書。

三月庚子、昭宗即位す。この月、蔡人石璠は万衆を領して以て陳・亳を剽す。帝は朱珍に精騎数千を率いしめ、璠を擒えて以て献ぜしむ。

原文三月庚子,昭宗卽位。是月,蔡人石璠領萬眾以剽陳、亳,帝遣朱珍率精騎數千擒璠以獻。

四月戊辰、魏博の楽彦禎が軍律を失い、その子の従訓が相州に出奔し、使者を遣わして援軍を乞う。帝は朱珍に大軍を率いて河を渡らせ、続けて黎陽・臨河の二邑を収める。やがて魏軍は小校の羅弘信を推して帥とす。弘信が立つと、使者を遣わして汴に帰順の意を送る。帝は手厚くこれを迎え入れ、ついに軍を返すことを命ず。この月、河南尹の張全義が河陽において李罕之を襲い、これを陥とす。罕之は単騎で出奔し、太原に援軍を乞う。李克用は万騎を発してこれを援けしむ。罕之はついにその衆を収め、晋軍と合勢して急ぎ河陽を攻む。全義危急、汴に使者を遣わして救いを求む。帝は丁会・牛存節・葛従周に兵を率いて赴かしめ、温県において大戦す。晋人と罕之はともに敗る。ここにおいて河橋の包囲解け、全義は河陽に帰り、よって丁会を河陽留後とす。

原文四月戊辰,魏博樂彥禎失律,其子從訓出奔相州,使來乞師。帝遣朱珍領大軍濟河,連收黎陽、臨河二邑。旣而魏軍推小校羅弘信為帥。弘信旣立,遣使送款于汴,帝優而納之,遂命班師。是月,河南尹張全義襲李罕之于河陽,克之。罕之單騎出奔,因乞師于太原,李克用為發萬騎以援之。罕之遂收其眾,偕晉軍合勢,急攻河陽。全義危急,遣使求救于汴,帝遣丁會、牛存節、葛從周領兵赴之,大戰于溫縣,晉人與罕之俱敗。于是河橋解圍,全義歸于河陽,因以丁會為河陽留後。

五月己亥、昭宗の制により帝を検校侍中とし、食邑三千戸を増す。戊辰、詔して帝の郷を衣錦郷と改め、里を沛王里と曰す。この月、帝は洛・孟の地を兼ね有し、西顧の憂い無きを以て、将に師徒を大いに整え、力を尽くして蔡を誅せんとす。時に蔡人趙徳諲が漢南の地を挙げて朝廷に帰し、且つ使者を遣わして帝に帰順の意を送り、なお力を合わせて宗権を討つことを誓う。帝はその事を上表す。朝廷よって徳諲を蔡州四面副都統とす。また河陽・保義・義昌の三節度を帝の行軍司馬とし、兼ねて糧料応接使とす。ここに至り、帝は諸侯の師を率いて徳諲と会し、汝水の上において蔡賊を伐つ。ついにその城に迫る。五日之内に二十八寨を樹ててこれを環らしむ、蓋し列宿の数を象るなり。時に帝は自ら矢石に臨む。一日、飛矢その左腋に中り、血単衣に漬く。左右を顧みて曰く「洩らすなかれ」と。

原文五月己亥,昭宗制以帝檢校侍中,增食邑三千戶。戊辰,詔改帝鄉曰衣錦鄉,里曰沛王里。是月,帝以兼有洛、孟之地,無西顧之患,將大整師徒,畢力誅蔡。會蔡人趙德諲舉漢南之地以歸于朝廷,案新唐書昭宗紀:五月壬寅,趙德諲以襄州降。舊唐書及通鑑皆作五月,與薛史同。歐陽史敘其事于三月以前,疑有舛誤。且遣使送款于帝,仍誓戮力同討宗權。帝表其事,朝廷因以德諲為蔡州四面副都統。又以河陽、保義、義昌三節度為帝行軍司馬,兼糧料應接使。冊府元龜卷一百八十七。至是,帝領諸侯之師會德諲以伐蔡賊于汝水之上,遂薄其城。五日之內,樹二十八寨以環之,蓋象列宿之數也。永樂大典卷一萬五千一百二十。時帝親臨矢石,一日,飛矢中其左腋,血漬單衣,顧謂左右曰:「勿洩。」永樂大典卷二萬七百十二。

九月、糧運続かず、ついに軍を返す。この時、帝は宗権の残孽以て患い為すに足らざるを知り、兵を移して徐を伐つ。

原文九月,以糧運不繼,遂班師。是時,帝知宗權殘孽不足為患,遂移兵以伐徐。

十月、先に朱珍に兵を率いさせ時溥と呉康鎮において戦わしむ。徐人大いに敗れ、連ねて豊・蕭の二邑を収む。溥は散騎を率いて彭門に馳せ入る。帝は兵を分かち宿州を攻めしむ。刺史張友は符印を携えて降る。やがて徐人は壁を閉ざして堅く守る。ついに龎師古に兵を屯してこれを守らしめ、帰還す。この月、蔡賊の孫儒が揚州を攻め陥とし、自ら淮南節度使と称す。

原文十月,先遣朱珍領兵與時溥戰于吳康鎮,徐人大敗,連收豐、蕭二邑,溥攜散騎馳入彭門。帝命分兵以攻宿州,刺史張友攜符印以降。旣而徐人閉壁堅守,遂命龎師古屯兵守之而還。是月,蔡賊孫儒攻陷揚州,自稱淮南節度使。

龍紀元年正月、龎師古が宿遷県を陥とし、呂梁に進軍す。時溥は軍二万を領し、朝に師古の軍を圧して陣す。師古は戦いを促し、これを破り、二千余級を斬首す。溥はまた彭門に入る。

原文龍紀元年正月,龎師古攻陷宿遷縣,進軍于呂梁。時溥領軍二萬,晨壓師古之軍而陣,師古促戰,敗之,斬首二千餘級,溥復入于彭門。

二月、蔡将の申叢が使者を遣わし来告す、秦宗権を帳下に縛し、その足を折ってこれを囚うと。帝は即日承制して叢を淮西留後とす。未だ幾ばくもせず、叢はまた都将の郭璠に殺さる。この月、璠は宗権を執り来献す。帝は行軍司馬の李璠・牙校の朱克讓に檻車に載せて長安に進めしむ。既に至るや、昭宗は延喜楼に御して俘虜を受け、即ち宗権を独柳樹下に斬る。蔡州平ぐ。昭宗は詔して帝に実封一百戸を加え、荘宅各一区を賜う。三月、また帝に検校太尉・兼中書令ちゅうしょれいを加え、東平王に進封す、蔡平定の功を賞するなり。

原文二月,蔡將申叢遣使來告,縛秦宗權于帳下,折其足而囚之矣。案舊唐書:文德元年十二月甲子朔,蔡州牙將申叢執秦宗權。新唐書作十一月辛酉,與舊唐書月日互異。薛史作龍紀元年二月,蓋卽其遣使來告之月而書之也。歐陽史作五月,誤。帝卽日承制以叢為淮西留後。未幾,叢復為都將郭璠所殺。是月,璠執宗權來獻,帝遣行軍司馬李璠、牙校朱克讓檻進于長安。旣至,昭宗御延喜樓受俘,卽斬宗權于獨柳樹下。蔡州平。昭宗詔加帝食實封一百戶,賜莊宅各一區。三月,又加帝檢校太尉、兼中書令,進封東平王,賞平蔡之功也。案舊唐書:四月壬戌朔,以宣武淮南等節度副大使、知節度事、管內營田觀察處置等使、開府儀同三司、檢校太傅、兼侍中、揚州大都督府長史、汴州刺史、充蔡州四面行營都統、上柱國、沛郡王、食邑四千戶朱全忠為檢校太尉、中書令,進封東平王,仍賜賞軍錢十萬貫。薛史及歐陽史俱作三月,與舊唐書異。

大順元年四月丙辰、宿州小将の張筠が刺史張紹光を逐い、衆を擁して時溥に附す。帝は親軍を率いてこれを討ち、千余人を殺す。筠はついに堅く守る。乙卯、時溥が兵を出して碭山県を暴かしむ。帝は朱友裕に兵を以てこれを襲わしめ、徐軍三千余衆を破り、沙陀さだの援軍石君和等三十人を獲て、宿州城下に斬る。

原文大順元年四月丙辰,宿州小將張筠逐刺史張紹光,擁眾以附時溥。帝率親軍討之,殺千餘人,筠遂堅守。乙卯,時溥出兵暴碭山縣,帝遣朱友裕以兵襲之,敗徐軍三千餘眾,獲沙陀援軍石君和等三十人,斬于宿州城下。

六月辛酉、淮南の孫儒が使者を遣わして帝に修好す。帝はその事を上表し、淮南節度を儒に授けんことを請う。辛未、昭宗は帝を宣義軍節度使とし、河東東面行営招討使を充てしむ、時に朝廷の宰臣張濬が兵を将いて太原を討たんとする故なり。

原文六月辛酉,淮南孫儒遣使修好于帝,帝表其事,請以淮南節度授于儒焉。辛未,昭宗命帝為宣義軍節度使,充河東東面行營招討使,案舊唐書:五月,以宣武軍節度使朱全忠為太原東南面招討使。歐陽史從舊唐書作東南面,通鑑作南面,與舊唐書異。考新唐書云:五月,以朱全忠為南面招討使。六月辛未,朱全忠為河東東面行營招討使。蓋先為南面招討使,後改東面也。又,六月,全忠兼領宣義軍,新、舊唐書皆不載,通鑑用薛史。時朝廷宰臣張濬將兵討太原故也。

八月甲寅、昭義の都将馮霸が沙陀の署する節度使李克恭を殺して来降す。帝は河陽節度使朱崇節を潞州留後とせんことを請う。戊辰、李克用自ら蕃漢の歩騎数万を率いて潞州を囲む。帝は葛従周に驍勇の士を率いさせ、夜中に枚を銜みて囲みを犯し潞に入らしむ。

原文八月甲寅,昭義都將馮霸殺沙陀所署節度使李克恭來降,帝請河陽節度使朱崇節為潞州留後。戊辰,李克用自率蕃漢步騎數萬以圍潞州,帝遣葛從周率驍勇之士,夜中銜枚犯圍而入于潞。案舊唐書:五月,潞州軍亂,殺其帥李克恭。七月,朱全忠遣大將葛從周率千騎入潞州。薛史統作八月,蓋據入潞之月而追言之也。

九月壬寅、帝は河陽に至り、都将李讜に軍を率いさせ沢・潞に向かわしむ。馬牢川に行き至りて、晋人に敗る。帝はまた朱友裕・張全義に精兵を率いさせ鄆州の北に至りて応援と為さしむ。やがて崇節・従周は潞を棄てて来帰す。戊申、帝は廷において諸将の敗軍の罪を責め、李讜・李重胤を斬って示し、ついに軍を返す。

原文九月壬寅,帝至河陽,遣都將李讜引軍趨澤、潞,行至馬牢川,為晉人所敗。帝又遣朱友裕、張全義率精兵至鄆州北以為應援。旣而崇節、從周棄潞來歸。戊申,帝廷責諸將敗軍之罪,斬李讜、李重胤以狥,遂班師焉。案:自「九月壬寅」至此,又見通鑑考異,與冊府元龜同。

十月乙酉、帝は河陽より滑臺に赴く。時に詔を奉じて将に太原を討たんとし、先に使者を遣わして魏に仮道を請う。魏人は従わず。先に、帝は行人雷鄴を遣わして魏に糴を告ぐ。やがて牙軍に殺さる。羅弘信懼れ、故に命に従うことを敢えず、ついに太原に通好す。

原文十月乙酉,帝自河陽赴滑臺。時奉詔將討太原,先遣使假道于魏,魏人不從。先是,帝遣行人雷鄴告糴于魏,旣而為牙軍所殺。羅弘信懼,故不敢從命,遂通好于太原。

十二月辛丑、帝は丁会・葛従周に衆を率いさせ河を渡り黎陽・臨河を取らしめ、また龎師古・霍存に淇門・衞県を下らしむ。帝は徐ろに大軍を以てその後に継ぐ。

原文十二月辛丑,帝遣丁會、葛從周率眾渡河取黎陽、臨河,又令龎師古、霍存下淇門、衞縣,帝徐以大軍繼其後。

二年春正月、魏軍は内黄に屯す。丙辰、帝はこれと接戦し、内黄より永定橋に至るまで、魏軍五たび敗れ、斬首万余級。羅弘信懼れ、使者を遣わして厚幣を持し請和す。帝はその焚掠を止め俘虜を帰すことを命ず。弘信よって感悦して命を聴く。乃ち軍を収めて河上に屯す。

原文二年春正月,魏軍屯于內黃。丙辰,帝與之接戰,自內黃至永定橋,魏軍五敗,斬首萬餘級。羅弘信懼,遣使持厚幣請和。帝命止其焚掠而歸其俘,弘信繇是感悅而聽命焉。乃收軍屯于河上。

八月己丑、帝は丁會を派遣して宿州を急攻させた。刺史張筠はその城壁を堅守したので、會は州の東で堰を築き、汴水を塞いで城を水浸しにした。十月壬午、張筠は遂に降伏し、宿州は平定された。案:舊唐書は十一月とし、汴軍が宿州を陥落させたとあり、薛史と異なる。歐陽史及び新唐書、通鑑は皆薛史に従い十月とする。

原文八月己丑,帝遣丁會急攻宿州,刺史張筠堅守其壁,會乃率眾于州東築堰,壅汴水以浸其城。十月壬午,筠遂降,宿州平。案:舊唐書作十一月,汴軍陷宿州,與薛史異。歐陽史及新唐書、通鑑俱從薛史作十月。

十一月丁未、曹州の裨将郭紹賓が刺史郭饒を殺し、郡を挙げて降伏してきた。案:新唐書には、十一月己未、曹州の将郭誅がその刺史郭詞を殺し、全忠に叛いて附いたとある。通鑑は新唐書に従い、薛史と異なる。歐陽史は依然として薛史に従う。この月、徐の将劉知俊が二千の兵を率いて降伏してきた。これより徐軍は振るわなくなった。

原文十一月丁未,曹州裨將郭紹賓殺刺史郭饒,舉郡來降。案新唐書:十一月己未,曹州將郭誅殺其刺史郭詞,叛附于全忠。通鑑從新唐書,與薛史異。歐陽史仍從薛史。是月,徐將劉知俊率眾二千來降,自是徐軍不振。

十二月、兗州の朱瑾が三万の軍を率いて単父を寇した。帝は丁會に大軍を率いて襲撃させ、金郷の境界でこれを破り、二万余りの兵を殺し、朱瑾は単騎で逃げ去った。

原文十二月,兗州朱瑾領軍三萬寇單父,帝遣丁會領大軍襲之,敗于金鄉界,殺二萬餘眾,瑾單馬遁去。

景福元年正月、丁會を兗州の境界に派遣し、その民数千戸を許州に移住させた。

原文景福元年正月,遣丁會于兗州界徙其民數千戶于許州。

二月戊寅、帝は親征して鄆に向かい、先に朱友裕を斗門に駐屯させた。甲申、衞南に到着した。飛鳥が高い城壁の上に止まり、激しく鳴き騒いだ。副使李璠が言うには、「意に沿わぬ事があろう」。その夜、鄆州の朱瑾が歩騎一万を率いて斗門の朱友裕を襲った。友裕は軍を抜いて南へ去った。乙酉、帝は朝に斗門を救援したが、友裕の撤退を知らず、先に斗門に至った者は皆鄆人に殺された。帝は鄆人を瓠河まで追撃したが及ばず、村落の間に兵を駐めた。案:領の字は文義を考うるに頓の字の誤りであろう。今改める。時に朱瑄は尚濮州に在った。丁亥、朱瑄が兵を率いて鄆に帰らんとするに出会い、衝撃を加えてきた。帝は馬を策して南へ馳せたが、賊に追われ甚だ急であり、前方に深い溝があったが、馬を躍らせて越え、張帰厚が後方で矟を援げて力戦し、ようやく免れた。時に李璠と都将数人は皆鄆軍に殺された。

原文二月戊寅,帝親征鄆,先遣朱友裕屯軍于斗門。甲申,次衞南,有飛鳥止于峻堞之上,鳴噪甚厲,副使李璠曰:「將有不如意之事。」是夜,鄆州朱瑾率步騎萬人襲朱友裕于斗門,友裕拔軍南去。乙酉,帝晨救斗門,不知友裕之退,前至斗門者皆為鄆人所殺。帝追襲鄆人至瓠河,不及,遂領兵于村落間。案領字攷文義應是頓字之譌。今改。時朱瑄尚在濮州。丁亥,遇朱瑄率兵將歸于鄆,遂來衝擊。帝策馬南馳,為賊所追甚急,前有浚溝,躍馬而過,張歸厚援矟力戰于其後,乃免。時李璠與都將數人皆為鄆軍所殺。

五月丙午、朱克讓を派遣して衆を率い、兗・鄆の麦を刈り取らせた。

原文五月丙午,遣朱克讓率眾暴兗、鄆之麥。

十一月、朱友裕を派遣して兵を率い濮州を攻め、これを陥落させ、刺史邵儒を生け捕りにして献上した。濮州は平定された。遂に軍を移して徐州を討つことを命じた。冊府元龜巻一百八十七。

原文十一月,遣朱友裕率兵攻濮州,下之,擒刺史邵儒以獻,濮州平。遂命移軍伐徐州。冊府元龜卷一百八十七。

二年四月丁丑、師古は彭門を陥落させ、溥の首を梟して献上した。通鑑考異が薛史梁紀を引用。案:冊府元龜が薛史を引用するも、景福二年の事は多く削除されている。考異にはこの春に石佛山の戦いがあるが、今は載せていない。通鑑注が薛史を引用して云う、「石佛山は彭門の南にある」。疑わくは此処の闕文であろう。

原文二年四月丁丑,師古下彭門,梟溥首以獻。通鑑考異引薛史梁紀。案:冊府元龜引薛史,于景福二年事多所刪節。考異是年春有石佛山之戰,今不載。通鑑注引薛史云:「石佛山在彭門南。」疑卽此處闕文也。

八月、帝は龎師古を派遣して兵を移し兗を攻めさせ、曲阜に駐屯し、朱瑾と屡々戦い、皆これを破った。

原文八月,帝遣龎師古移兵攻兗,駐于曲阜,與朱瑾屢戰,皆敗之。

十二月、師古は先鋒葛從周を遣わし軍を率いて斉州を攻めさせた。刺史朱威は兗・鄆に急を告げた。既にして朱瑄が援兵を率いて至り、その陣営を固めた。冊府元龜巻一百八十七。

原文十二月,師古遣先鋒葛從周引軍以攻齊州,刺史朱威告急于兗、鄆。旣而朱瑄以援兵至,遂固其壘。冊府元龜卷一百八十七。

乾寧元年二月、帝は親ら大軍を率い、鄆州の東路より北に進み魚山に駐屯した。魚山、歐陽史は漁山と作す。通鑑を考うるも魚山と作す。今は旧に仍る。朱瑄が偵知し、即ち兵を率いて直ちに至り、速戦を図った。帝は軍を整えて寨を出た。時に朱瑄・朱瑾は既に前に陣を布いていた。須臾のうちに東南風が大いに起こり、我が軍の旌旂は順序を失い、甚だ懼色があった。即ち騎士に命じて鞭を揚げて呼嘯させた。俄かに西北風が驟発した。時に両軍は皆草莽の中に在り、帝は因って火を放つことを命じた。既にして煙焰は天に亘り、勢いに乗じて賊陣を攻め、朱瑄・朱瑾は大敗した。永楽大典巻一万五千一百二十。一万余人を殺し、余衆は清河に擁入り、因って魚山の下に京観を築き、数日間駐軍して還った。

原文乾寧元年二月,帝親領大軍由鄆州東路北次于魚山。魚山,歐陽史作漁山,攷通鑑亦作魚山,今仍其舊。朱瑄覘知,卽以兵逕至,且圖速戰。帝整軍出寨,時瑄、瑾已陣于前。須臾,東南風大起,我軍旌旂失次,甚有懼色,卽令騎士揚鞭呼嘯。俄而西北風驟發,時兩軍皆在草莽中,帝因令縱火。旣而煙焰亘天,乘勢以攻賊陣,瑄、瑾大敗。永樂大典卷一萬五千一百二十。殺萬餘人,餘眾擁入清河,因築京觀于魚山之下,駐軍數日而還。

二年正月癸亥、朱友恭を派遣して師を帥い再び兗を伐たせ、遂に塹壕を掘ってこれを包囲した。未だ幾ばくもせず、朱瑄が鄆より歩騎を率いて糧食を援けんとして兗に入らんとした。友恭は伏兵を設けてこれを破り、その糧食を尽く高呉で奪った。通鑑は高梧と作す。是書の前後を考うるに俱に高呉と作す。今は旧に仍る。因って蕃将安福順・安福慶を生け捕りにした。

原文二年正月癸亥,遣朱友恭帥師復伐兗,遂塹而圍之。未幾,朱瑄自鄆率步騎援粮欲入于兗,友恭設伏以敗之,盡奪其饟于高吳,通鑑作高梧,攷是書前後俱作高吳,今仍其舊。因擒蕃將安福順、安福慶。

二月己酉、帝は親軍を率いて単父に駐屯し、友恭の援けとした。

原文二月己酉,帝領親軍屯于單父,以為友恭之援。

四月、濠・寿二州が再び楊行密に陥落させられた。この時、太原が将史儼兒・李承嗣を派遣し、一万騎を以て馳せて鄆に入らせた。案:通鑑、乾寧二年四月、河東が其の将史儼兒・李承嗣を派遣し、一万人を以て馳せて鄆に入らせた。これは薛史梁紀の原文に拠る。惟だ史儼兒を史儼と作すのは微かに異なるのみ。下に又云う、七月、克用が史儼を派遣し三千騎を率いて石門に詣で侍衞せしむ。十二月、李克用が大将史儼・李承嗣を派遣し、魏を仮道して以て之を救わしむ。前後復た互いに矛盾し、且つ其の時汴・鄆は日に戦争有り、道路も隔たっていた。史儼が既に四月に鄆に入ったならば、七月に既に石門に在るべきではなく、十二月に又魏を過ぎることもない。舊唐書を考うるに云う、初め、兗・鄆が太原に援けを求め、克用は蕃将史完府・何懷實等に千騎を以て赴かせた。其の鄆に赴くを何時とするか言わず。此の篇の下に云うに拠れば、八月、蕃将史完府を獲たり。十一月、何懷寶を擒えたり。然らば則ち四月に馳せて鄆に入った者は、当に史完府・何懷寶であって、史儼・李承嗣ではない。薛史唐武皇紀及び李承嗣伝を参考するに、承嗣等の鄆に入るは定めて二年の冬に在り、梁紀には誤り有るが如し。通鑑は梁・唐の帝紀を並び采るも、亦た画一に考定することが能わず。朱友恭は遂に汴に帰った。

原文四月,濠、壽二州復為楊行密所陷。是時,太原遣將史儼兒、李承嗣以萬騎馳入于鄆。案通鑑:乾寧二年四月,河東遣其將史儼兒、李承嗣以萬人馳入于鄆。此據薛史梁紀原文,惟史儼兒作史儼為微異耳。下又云:七月,克用遣史儼將三千騎詣石門侍衞。十二月,李克用遣大將史儼、李承嗣假道于魏以救之。前後復互,且其時汴、鄆日有戰爭,道路且隔,史儼旣于四月入鄆,不應七月已在石門,十二月又過魏也。考舊唐書云:初,兗、鄆求援于太原,克用令蕃將史完府、何懷實等千騎赴之。不言其赴鄆為何時。據此篇下云:八月,獲蕃將史完府。十一月,擒何懷寶。然則四月馳入于鄆者,當是史完府、何懷寶,非史儼、李承嗣也。參考薛史唐武皇紀及李承嗣傳,承嗣等入鄆定在二年之冬,梁紀似有舛誤。通鑑並采梁、唐帝紀,亦未能考定畫一。朱友恭遂歸于汴。

八月、帝は親軍を率いて鄆を伐ち、大仇に至り、前軍に挑戦させ、梁山に伏兵を設けてこれを待った。既にして蕃将史完府を捕え、馬数百匹を奪った。朱瑄は身を脱して逃げ去り、再び鄆に入った。案:通鑑、九月辛未、朱全忠自ら将いて朱瑄を撃ち、梁山に戦い、朱瑄は敗走して鄆に還る。薛史と異なる。歐陽史は仍お薛史に従い八月と作す。

原文八月,帝領親軍伐鄆,至大仇,遣前軍挑戰,設伏于梁山以待之。旣而獲蕃將史完府,奪馬數百匹。朱瑄脫身遁去,復入于鄆。案通鑑:九月辛未,朱全忠自將擊朱瑄,戰于梁山,瑄敗走還鄆。與薛史異。歐陽史仍從薛史作八月。

十月、帝は軍を鄆に駐留させた。齊州刺史朱瓊が使者を遣わして降伏を請うた。瓊は即ち瑾の従父兄である。案ずるに、新唐書昭宗紀には、十一月壬申、齊州刺史朱瓊が叛いて朱全忠に降る、とある。薛史によれば、朱瓊が自ら降伏を請うてから殺されるまで全て十月のことであり、新唐書と異なる。通鑑は新唐書に従う。帝はこれにより軍を移して兗に至り、瓊は果たして来降した。未だ幾ばくもせず、瓊は朱瑾に欺かれて掠め取られ殺された。帝は即ちその弟玭を齊州防禦使とした。

原文十月,帝駐軍于鄆,齊州刺史朱瓊遣使請降,瓊卽瑾之從父兄也。案新唐書昭宗紀:十一月壬申,齊州刺史朱瓊叛降于朱全忠。據薛史則朱瓊自請降至見殺皆在十月,與新唐書異。通鑑從新唐書。帝因移軍至兗,瓊果來降。未幾,瓊為朱瑾所紿,掠而殺之,帝卽以其弟玭為齊州防禦使。

十一月、朱瑄はまた将の賀瓌、柳存及び蕃将の何懷宝等一万余りを遣わして曹州を襲撃させた。何懷宝は、通鑑では薛懷宝と作るが、旧唐書を考うるに亦た何懷宝と作るので、今もこれに従う。兗州の包囲を解かんとしたのである。帝はこれを知り、兗より軍を率いて策馬し先ず路を鉅野の南に至り、追撃してこれを破り、殺戮すること殆んど尽くし、賀瓌、柳存、何懷宝及び賊党三千余人を生け捕りにした。この日申の刻、狂風が暴れ起こり、沙塵が沸き湧いた。帝は曰く、「これは人を殺すことが未だ足らざるが故である」と。遂に命を下して捕らえた囚虜を全て殺させた。風も亦た止んだ。翌日、賀瓌等を縛り兗に示した。帝は元より瓌の名を知っていたので、これを釈放し、ただ何懷宝を兗城の下で斬った。乃ち軍を返した。

原文十一月,朱瑄復遣將賀瓌、柳存及蕃將何懷寶等萬餘人以襲曹州,何懷寶,通鑑作薛懷寶,攷舊唐書亦作何懷寶,今仍之。庶解兗州之圍也。帝知之,自兗領軍策馬先路至鉅野南,追而敗之,殺戮將盡,生擒賀瓌、柳存、何懷寶及賊黨三千餘人。是日申時,狂風暴起,沙塵沸湧,帝曰:「此乃殺人未足耳。」遂下令盡殺所獲囚俘,風亦止焉。翼日,縶賀瓌等以示于兗,帝素知瓌名,乃釋之,惟斬何懷寶于兗城之下,乃班師。

十二月、葛従周が兵を率いて再び兗を伐った。案ずるに、通鑑には、朱全忠が兗州を去るに当たり、葛従周に兵を将いて守らせた、とある。薛史梁紀と異なる。又、薛史葛従周伝は十月の事と作る。既に到着し、朱瑾と塁下に戦い、千余りの衆を殺し、その将孫漢筠以下二十人を擒らえ、遂に軍を返した。

原文十二月,葛從周領兵復伐兗。案通鑑云:朱全忠之去兗州也,留葛從周將兵守之。與薛史梁紀異。又,薛史葛從周傳作十月事。旣至,與朱瑾戰于壘下,殺千餘眾,擒其將孫漢筠已下二十人,遂旋師。

三年正月、河東の李克用は既に邠州を破り、覇を争わんと謀り、乃ち蕃将の張汚落に一万騎を以て河北の莘県に寨させ、声言して兗、鄆を救わんと欲すと称した。魏博節度使羅弘信これを患い、使いを遣わして援を求めた。冊府元亀巻一百八十七。

原文三年正月,河東李克用旣破邠州,欲謀爭霸,乃遣蕃將張汚落以萬騎寨于河北之莘縣,聲言欲救兗、鄆。魏博節度使羅弘信患之,使來求援。冊府元龜卷一百八十七。

二月、帝は親軍を率いて単父に屯した。寒食に会し、帝は乃ち親しく碭山県午溝里の文穆皇帝陵を拝した。冊府元亀巻一百八十九。

原文二月,帝領親軍屯于單父,會寒食,帝乃親拜文穆皇帝陵于碭山縣午溝里。冊府元龜卷一百八十九。

四月辛酉、河東の水が漲り溢れ、滑城を壊さんとした。帝は堤岸を決してその勢いを分かち二河とし、滑城を挟んで東に流れさせたが、害はますます甚だしくなった。この月、帝は許州刺史朱友恭に兵一万を率いて淮を渡らせ、便宜を以て事を行わせた。時に黄、鄂二州が累次使者を遣わして援を求めたので、この行動があったのである。

原文四月辛酉,河東水泛漲,將壞滑城,帝令決隄岸以分其勢為二河,夾滑城而東,為害滋甚。是月,帝遣許州刺史朱友恭領兵萬人渡淮,以便宜從事。時黃、鄂二州累遣使求援,故有是行。

五月、葛従周に命じて軍を統率させ洹水に屯し、以て蕃軍に備えさせた。

原文五月,命葛從周統軍屯于洹水,以備蕃軍。

六月、李克用は蕃漢諸軍を率いて斥丘に営し、その子落落に鉄林小児三千騎を将いて洹水に迫らせた。従周はこれと戦い、大いにこれを破り、落落を生け捕りにして献じた。克用は悲しみ驚き、旧好を修めてその子を贖わんと請うたが、帝は許さず、遂に落落を羅弘信に送り、これを斬らせた。七日を過ぎ、我が軍は還って陽留に屯し、以て鄆を伐った。

原文六月,李克用帥蕃漢諸軍營于斥丘,遣其男落落將鐵林小兒三千騎薄于洹水。從周與戰,大敗之,生擒落落以獻。克用悲駭,請修舊好以贖其子,帝不許,遂執落落送于羅弘信,斬之。越七日,我軍還屯陽留以伐鄆。

八月、再び洹水に壁した。この時、昭宗は華州に幸し、使者を遣わして就いて帝に加えて検校太師、守中書令とした。

原文八月,復壁于洹水。是時,昭宗幸華州,遣使就加帝檢校太師,守中書令。

四年正月、帝は洹水の師を以て大いに挙兵して鄆を伐った。辛卯、済水のほとりに営した。案ずるに、胡三省が云う、漢以後に済水は無く、この済水は蓋し即ち鄆城の清河水である、と。龎師古は諸将に命じて木を撤いて橋とさせた。乙未の夜、師古は中軍を以て先ず渡り、その声は鄆に響き渡った。朱瑄これを聞き、壁を棄てて夜遁した。葛従周はこれを追って中都の北に至り、瑄及びその妻子を擒らえて献じた。案ずるに、「辛卯営于済水之次」よりここまで、又た通鑑考異に見えるが、ただ中に数字少なく、蓋し書を引く間に刪節有り。尋ねて汴橋の下で斬った。鄆州平らぐ。己亥、帝は鄆に入り、朱友裕を鄆州兵馬留後とした。案ずるに、通鑑には、正月、龎師古を天平てんぺい軍留後とす。三月、朱友裕を天平軍留後と表す、とある。薛史郴王友裕伝によれば、四年、帝が東平を下すや、即ち天平留後となった。通鑑と異なる。時に帝は朱瑾と史儼児が豊沛の間で糧饋を搜索し、ただ康懐英を留めて兗州を守らせていると聞き、帝は勝ちに乗じて葛従周に大軍を以て兗を襲撃させた。懐英は鄆が失陥したと聞き、俄かに又我が軍の大いに至るや、乃ち出でて降った。朱瑾、史儼児は遂に淮南に奔った。兗、海、沂、密等の州平らぐ。案ずるに、新唐書昭宗紀には、四年正月丙申、朱全忠鄆州を陥とし、天平軍節度朱宣死す。二月、朱全忠兗州を寇し、泰寧軍節度使朱瑾淮南に奔る、と。旧唐書には、正月癸未、汴将龎師古鄆州を陥とす。二月戊申、汴将葛従周兗州を陥とす、と。薛史と月日の前後同じからず、詳しくは通鑑考異に見ゆ。乃ち葛従周を兗州留後とした。冊府元亀巻一百八十七。

原文四年正月,帝以洹水之師大舉伐鄆。辛卯,營于濟水之次,案胡三省云:漢以後無濟水,此濟水蓋即鄆城清河水也。龎師古令諸將撤木為橋。乙未夜,師古以中軍先濟,聲振于鄆,朱瑄聞之,棄壁夜走。葛從周逐之至中都北,擒瑄并其妻男以獻,案:自「辛卯營于濟水之次」至此,又見通鑑考異,惟中少數字,蓋引書間有刪節也。尋斬汴橋下。鄆州平。己亥,帝入于鄆,以朱友裕為鄆州兵馬留後。案通鑑:正月,以龎師古為天平軍留後。三月,表朱友裕為天平軍留後。據薛史郴王友裕傳,四年,帝下東平,卽為天平留後。與通鑑異。時帝聞朱瑾與史儼兒在豐沛間搜索糧饋,惟留康懷英守兗州,帝因乘勝遣葛從周以大軍襲兗。懷英聞鄆失守,俄又我軍大至,乃出降。朱瑾、史儼兒遂奔淮南。兗、海、沂、密等州平。案新唐書昭宗紀:四年正月丙申,朱全忠陷鄆州,天平軍節度朱宣死之。二月,朱全忠寇兗州,泰寕軍節度使朱瑾奔于淮南。舊唐書:正月癸未,汴將龎師古陷鄆州。二月戊申,汴將葛從周陷兗州。與薛史月日前後不同,詳見通鑑考異。乃以葛從周為兗州留後。冊府元龜卷一百八十七。

五月丁丑、朱友恭が使者を遣わして上言し、武昌において淮冦を大破し、黄、鄂二州を回復した、と。通鑑考異薛史梁紀を引く。

原文五月丁丑,朱友恭遣使上言,大破淮冦于武昌,收復黃、鄂二州。通鑑考異引薛史梁紀。

八月、陝州節度使王珙が使者を遣わして来たり師を乞うた。この時、珙の弟珂が実に蒲帥であった。珂は、原本は「琦」と訛るが、今新唐書王重栄伝に拠って改正する。互いに憤怒を繰り返し、日々干戈を交え、而して珙は兵寡ないので、来たり援を求めたのである。帝は張存敬、楊師厚等に兵を率いて陝に赴かせた。既にして蒲人と猗氏において戦い、大いにこれを破った。

原文八月,陝州節度使王珙遣使來乞師。是時,珙弟珂實為蒲帥,珂,原本訛作「琦」,今據新唐書王重榮傳改正。迭相憤怒,日尋干戈,而珙兵寡,故來求援。帝遣張存敬、楊師厚等領兵赴陝,旣而與蒲人戰于猗氏,大敗之。

九月、帝は兗、鄆が既に平らぎ、将士雄勇なるを以て、遂に大いに挙兵して南征した。案ずるに、旧唐書昭宗紀には、師古の淮を渡るは十月に在り、而して清口の敗は十一月に在る。薛史は九月に繫ぐが、蓋し南征の議を挙ぐるは実に九月に始まり、その後遂にこれを終わりまで言うのである。欧陽史は改めて九月淮南を攻む、と作る。然らば清口の役は、乃ち雨雪に因って敗れたのであり、九国志に拠る可く、断じて九月の事ではない。龎師古に命じて徐、宿、宋、滑の師を以て直ちに清口に向かわせ、葛従周に兗、鄆、曹、濮の衆を以て径ちに安豊に赴かせた。淮人は朱瑾に兵を率いて師古を拒がせ、水を決して軍を浸し、遂に淮人の為に敗れ、師古は歿した。葛従周は行きて濠梁に及び、師古の敗れしを聞き、亦た命じて軍を返した。冊府元亀巻一百八十七。

原文九月,帝以兗、鄆旣平,將士雄勇,遂大舉南征。案舊唐書昭宗紀,師古渡淮在十月,而清口之敗在十一月,薛史繫于九月,蓋舉南征之議實始于九月,其後遂終言之耳。歐陽史改作九月攻淮南。則清口之役,乃因雨雪而敗,有九國志可據,斷非九月事也。命龎師古以徐、宿、宋、滑之師直趨清口,葛從周以兗、鄆、曹、濮之眾徑赴安豐。淮人遣朱瑾領兵以拒師古,因決水以浸軍,遂為淮人所敗,師古歿焉。葛從周行及濠梁,聞師古之敗,亦命班師。冊府元龜卷一百八十七。