薛居正等の『舊五代史』本紀は、『永樂大典』に収録されたものが完全であるが、ただ梁の太祖紀の原本はすでに散佚しており、各韻に散見するものはわずかに六十八條を得るに過ぎず、『通鑑考異』や『通鑑注』が引用しているものを参照してさらに二十一條を得たが、首尾が完備せず、綴り合わせて一篇と成すことができなかった。『冊府元龜』閏位部に収録された朱梁の事蹟を調べると、皆薛史の原文に基づいており、首尾が頗る詳しいので、條ごとに採集し、なお彙萃することができる。謹んで前人(魏澹の『魏書』や高峻の『小史』を取って『北魏書』の欠けた篇を補った例)に倣い、『冊府元龜』の梁太祖に関する事蹟を採り、編年に日を繫ぎ、順序に従って編排し、その欠落を補い、少しでも薛史の旧観に近づけんことを願う。なお各條の下に原書の巻第を注記し、参照検討の備えとする。
唐の僖宗の乾符年間、関東に凶作が重なり、群賊が嘯聚した。黄巢はこれに乗じて曹州・濮州より起こり、飢えた民衆が付き従おうとする者は凡そ数万に及んだ。帝はそこで劉崇の家を辞し、次兄の存と共に黄巢の軍に入り、力戦して屡々勝利したため、隊長に補せられた。
四年春、帝は許州の田従異ら諸軍と共に瓦子寨を収め、案ずるに、瓦子寨は原本では「瓦于寨」と作る。通鑑注を考うるに、黄巣が民居を撤して寨屋と為し、これを瓦子寨と謂う。則ち「于」は字形が近くて刊行の際に誤ったものであろう。今、正す。賊数万の衆を殺した。この時、陳州の四面には賊の寨が相望み、編氓を駆り擄い、殺して食と充て、「舂磨寨」と号した。帝は兵を分けてこれを剪撲し、大小凡そ四十戦に及んだ。四月丁巳、西華寨を収め、賊将黄鄴は単騎で陳州に奔った。帝は勝ちに乗じてこれを追い、鼓噪して進んだ。会に黄巣が遁走したので、遂に陳州に入り、刺史趙犨が馬前に迎えた。俄かに巣党が尚ほ陳州の北の故陽壘に在ると聞き、帝は遂に直ちに大梁に帰った。この時、河東節度使李克用は僖宗の詔を奉じ、騎軍数千を統率して共に賊を破ることを謀り、帝と中牟の北で合勢してこれを邀撃し、賊衆は王満渡で大敗し、多くは手を束ねて来降した。時に賊将霍存・葛従周・張帰厚・張帰霸は皆馬前に匍匐し、悉くこれを宥して受け容れた。遂に残冦を逐い、東は冤句に至った。
五月甲戌、帝は晋軍と共に軍を振り返って汴に帰り、克用を上源駅に館した。既に犒宴の礼を備えると、克用は酔いに乗じて気ままに振る舞い、帝はこれを平らげず。この夜、甲士を命じてこれを囲み攻撃した。案ずるに、「五月甲戌」よりここまで、通鑑考異に引く薛史梁紀にも見え、冊府元亀に引くものと符合する。会に大雨雷電があり、克用は電光の中にて牆を踰えて遁走することを得た。惟だその部下数百人を殺したのみであった。
六月、陳人は解囲の恩恵を感じ、その郡に帝の生祠堂を建てた。この年、黄巣は雖も斃れたが、蔡州の秦宗権が継いで巨孽となり、数万の衆を有し、隣郡を攻め陥とし、吏民を殺掠し、屠害の酷さは更に巣賊に甚だしく、帝はこれを患った。七月、遂に陳人と共に蔡賊を溵水で攻め、数千人を殺した。九月己未、僖宗は就いて帝に検校司徒・同平章事を加え、沛郡侯に封じ、食邑千戸を与えた。
五月、嗣襄王熅が長安で僭って帝位に即き、元号を建貞と改めた。使いを遣わして偽詔を汴に齎らせたが、帝はこれを庭で焼くことを命じた。未だ幾ばくもせず、襄王は果たして敗れた。
七月、蔡人が司州に迫り、節度使鹿宴弘が使いを遣わして救援を求めた。帝は葛従周らを遣わして師を率いて赴援させた。師は未だ至らぬうちに城は陥ち、宴弘は蔡賊に害された。
十一月、滑州節度使安師儒は軍政を怠ったため、部下に殺された。案ずるに、旧唐書には、十月壬子朔、滑州軍乱、その帥安師儒を逐い、衙将張驍を推して留後軍務を主とす、師儒は汴に奔り、朱全忠これを殺すとある。新唐書には、十月、朱全忠滑州を陥とし、義成軍節度使安師儒を執るとある。欧陽史は旧唐書に従って汴に奔ると作り、通鑑は新唐書に従って擄われると作る。薛史によれば、師儒は自ら部下に殺されたのであり、新・旧唐書と異なる。又、新・旧唐書は共に十月と作るが、薛史は十一月と作る。通鑑は仍お薛史に従う。帝はこれを聞き、乃ち朱珍・李唐賓を遣わして襲撃してこれを取り、これにより遂に滑臺の地を有した。案ずるに、旧唐書には、朝廷は汴帥朱全忠に義成軍節度使を兼領させるとある。薛史胡真伝によれば、真は奇兵をもって滑州を襲取し、乃ち滑州節度留後に署せられた。蓋し全忠は雖も嘗て義成を兼領したが、その鎮には赴かず、故にその将胡真を留後に署したのであろう。十二月、僖宗は制を降して就いて帝に検校太傅を加え、呉興郡王に改封し、食邑三千戸を与えた。
この年、鄭州は蔡賊に陥とされ、刺史李璠は単騎で来奔した。帝はこれを宥して受け容れ、行軍司馬とした。宗権は既に鄭を得て、益々驕り、帝は裨将を遣わして金隄駅で邏らせ、賊と相遇い、因ってこれを撃つと、賊衆は大敗し、武陽橋まで追撃し、千余級を斬首した。帝は毎度蔡人と四郊で戦い、既に寡をもって衆を撃ち、常に奇をもってこれを制したが、惟だ師が少ないことを患い、その旨を快くしなかった。宗権も又、己が衆が帝の十倍であることを以て、頻敗を恥じ、乃ち衆に誓って堅決して夷門を攻めんとした。既にして蔡の諜者を獲、その事を備知し、遂に師を済わすことを謀った。
十月、僖宗は水部郎中王贊に命じて紀功碑を撰せしめ、以て帝に賜う。この月、帝は親しく騎数千を帥いて師を濮上に巡り、因りて朱瑄の援師を范県において破る。丁未、濮州を攻め陥れ、刺史朱裕は単騎で鄆に奔る。尋いで鄆人に敗られ、月を踰えて乃ち還る。
十二月、僖宗は使いを遣わして帝に鉄券を賜い、また翰林承旨劉崇望に命じて徳政碑を撰せしめ、以て帝に賜う。
閏月甲寅、帝は行営司馬李璠に請いて権りに淮南留後を知らしめ、乃ち大将郭言に兵を領して援送せしめ、以て揚州に赴かしむ。
二月丙戌、僖宗は制して帝を蔡州四面行営都統と為す。ここより諸鎮の師は、皆な帝の節制を受く。案ずるに新唐書、正月癸亥、朱全忠を蔡州四面行営都統と為す。旧唐書は五月と作り、薛史と異なる。通鑑は新唐書に従う。
三月庚子、昭宗即位す。この月、蔡人石璠は万衆を領して以て陳・亳を剽す。帝は朱珍に精騎数千を率いしめ、璠を擒えて以て献ぜしむ。
四月戊辰、魏博の楽彦禎が軍律を失い、その子の従訓が相州に出奔し、使者を遣わして援軍を乞う。帝は朱珍に大軍を率いて河を渡らせ、続けて黎陽・臨河の二邑を収める。やがて魏軍は小校の羅弘信を推して帥とす。弘信が立つと、使者を遣わして汴に帰順の意を送る。帝は手厚くこれを迎え入れ、ついに軍を返すことを命ず。この月、河南尹の張全義が河陽において李罕之を襲い、これを陥とす。罕之は単騎で出奔し、太原に援軍を乞う。李克用は万騎を発してこれを援けしむ。罕之はついにその衆を収め、晋軍と合勢して急ぎ河陽を攻む。全義危急、汴に使者を遣わして救いを求む。帝は丁会・牛存節・葛従周に兵を率いて赴かしめ、温県において大戦す。晋人と罕之はともに敗る。ここにおいて河橋の包囲解け、全義は河陽に帰り、よって丁会を河陽留後とす。
五月己亥、昭宗の制により帝を検校侍中とし、食邑三千戸を増す。戊辰、詔して帝の郷を衣錦郷と改め、里を沛王里と曰す。この月、帝は洛・孟の地を兼ね有し、西顧の憂い無きを以て、将に師徒を大いに整え、力を尽くして蔡を誅せんとす。時に蔡人趙徳諲が漢南の地を挙げて朝廷に帰し、且つ使者を遣わして帝に帰順の意を送り、なお力を合わせて宗権を討つことを誓う。帝はその事を上表す。朝廷よって徳諲を蔡州四面副都統とす。また河陽・保義・義昌の三節度を帝の行軍司馬とし、兼ねて糧料応接使とす。ここに至り、帝は諸侯の師を率いて徳諲と会し、汝水の上において蔡賊を伐つ。ついにその城に迫る。五日之内に二十八寨を樹ててこれを環らしむ、蓋し列宿の数を象るなり。時に帝は自ら矢石に臨む。一日、飛矢その左腋に中り、血単衣に漬く。左右を顧みて曰く「洩らすなかれ」と。
九月、糧運続かず、ついに軍を返す。この時、帝は宗権の残孽以て患い為すに足らざるを知り、兵を移して徐を伐つ。
十月、先に朱珍に兵を率いさせ時溥と呉康鎮において戦わしむ。徐人大いに敗れ、連ねて豊・蕭の二邑を収む。溥は散騎を率いて彭門に馳せ入る。帝は兵を分かち宿州を攻めしむ。刺史張友は符印を携えて降る。やがて徐人は壁を閉ざして堅く守る。ついに龎師古に兵を屯してこれを守らしめ、帰還す。この月、蔡賊の孫儒が揚州を攻め陥とし、自ら淮南節度使と称す。
二月、蔡将の申叢が使者を遣わし来告す、秦宗権を帳下に縛し、その足を折ってこれを囚うと。帝は即日承制して叢を淮西留後とす。未だ幾ばくもせず、叢はまた都将の郭璠に殺さる。この月、璠は宗権を執り来献す。帝は行軍司馬の李璠・牙校の朱克讓に檻車に載せて長安に進めしむ。既に至るや、昭宗は延喜楼に御して俘虜を受け、即ち宗権を独柳樹下に斬る。蔡州平ぐ。昭宗は詔して帝に実封一百戸を加え、荘宅各一区を賜う。三月、また帝に検校太尉・兼中書令を加え、東平王に進封す、蔡平定の功を賞するなり。
六月辛酉、淮南の孫儒が使者を遣わして帝に修好す。帝はその事を上表し、淮南節度を儒に授けんことを請う。辛未、昭宗は帝を宣義軍節度使とし、河東東面行営招討使を充てしむ、時に朝廷の宰臣張濬が兵を将いて太原を討たんとする故なり。
八月甲寅、昭義の都将馮霸が沙陀の署する節度使李克恭を殺して来降す。帝は河陽節度使朱崇節を潞州留後とせんことを請う。戊辰、李克用自ら蕃漢の歩騎数万を率いて潞州を囲む。帝は葛従周に驍勇の士を率いさせ、夜中に枚を銜みて囲みを犯し潞に入らしむ。
九月壬寅、帝は河陽に至り、都将李讜に軍を率いさせ沢・潞に向かわしむ。馬牢川に行き至りて、晋人に敗る。帝はまた朱友裕・張全義に精兵を率いさせ鄆州の北に至りて応援と為さしむ。やがて崇節・従周は潞を棄てて来帰す。戊申、帝は廷において諸将の敗軍の罪を責め、李讜・李重胤を斬って示し、ついに軍を返す。
十月乙酉、帝は河陽より滑臺に赴く。時に詔を奉じて将に太原を討たんとし、先に使者を遣わして魏に仮道を請う。魏人は従わず。先に、帝は行人雷鄴を遣わして魏に糴を告ぐ。やがて牙軍に殺さる。羅弘信懼れ、故に命に従うことを敢えず、ついに太原に通好す。
十二月辛丑、帝は丁会・葛従周に衆を率いさせ河を渡り黎陽・臨河を取らしめ、また龎師古・霍存に淇門・衞県を下らしむ。帝は徐ろに大軍を以てその後に継ぐ。
八月己丑、帝は丁會を派遣して宿州を急攻させた。刺史張筠はその城壁を堅守したので、會は州の東で堰を築き、汴水を塞いで城を水浸しにした。十月壬午、張筠は遂に降伏し、宿州は平定された。案:舊唐書は十一月とし、汴軍が宿州を陥落させたとあり、薛史と異なる。歐陽史及び新唐書、通鑑は皆薛史に従い十月とする。
十一月丁未、曹州の裨将郭紹賓が刺史郭饒を殺し、郡を挙げて降伏してきた。案:新唐書には、十一月己未、曹州の将郭誅がその刺史郭詞を殺し、全忠に叛いて附いたとある。通鑑は新唐書に従い、薛史と異なる。歐陽史は依然として薛史に従う。この月、徐の将劉知俊が二千の兵を率いて降伏してきた。これより徐軍は振るわなくなった。
十二月、兗州の朱瑾が三万の軍を率いて単父を寇した。帝は丁會に大軍を率いて襲撃させ、金郷の境界でこれを破り、二万余りの兵を殺し、朱瑾は単騎で逃げ去った。
二月戊寅、帝は親征して鄆に向かい、先に朱友裕を斗門に駐屯させた。甲申、衞南に到着した。飛鳥が高い城壁の上に止まり、激しく鳴き騒いだ。副使李璠が言うには、「意に沿わぬ事があろう」。その夜、鄆州の朱瑾が歩騎一万を率いて斗門の朱友裕を襲った。友裕は軍を抜いて南へ去った。乙酉、帝は朝に斗門を救援したが、友裕の撤退を知らず、先に斗門に至った者は皆鄆人に殺された。帝は鄆人を瓠河まで追撃したが及ばず、村落の間に兵を駐めた。案:領の字は文義を考うるに頓の字の誤りであろう。今改める。時に朱瑄は尚濮州に在った。丁亥、朱瑄が兵を率いて鄆に帰らんとするに出会い、衝撃を加えてきた。帝は馬を策して南へ馳せたが、賊に追われ甚だ急であり、前方に深い溝があったが、馬を躍らせて越え、張帰厚が後方で矟を援げて力戦し、ようやく免れた。時に李璠と都将数人は皆鄆軍に殺された。
五月丙午、朱克讓を派遣して衆を率い、兗・鄆の麦を刈り取らせた。
十一月、朱友裕を派遣して兵を率い濮州を攻め、これを陥落させ、刺史邵儒を生け捕りにして献上した。濮州は平定された。遂に軍を移して徐州を討つことを命じた。冊府元龜巻一百八十七。
八月、帝は龎師古を派遣して兵を移し兗を攻めさせ、曲阜に駐屯し、朱瑾と屡々戦い、皆これを破った。
十二月、師古は先鋒葛從周を遣わし軍を率いて斉州を攻めさせた。刺史朱威は兗・鄆に急を告げた。既にして朱瑄が援兵を率いて至り、その陣営を固めた。冊府元龜巻一百八十七。
二月己酉、帝は親軍を率いて単父に駐屯し、友恭の援けとした。
八月、帝は親軍を率いて鄆を伐ち、大仇に至り、前軍に挑戦させ、梁山に伏兵を設けてこれを待った。既にして蕃将史完府を捕え、馬数百匹を奪った。朱瑄は身を脱して逃げ去り、再び鄆に入った。案:通鑑、九月辛未、朱全忠自ら将いて朱瑄を撃ち、梁山に戦い、朱瑄は敗走して鄆に還る。薛史と異なる。歐陽史は仍お薛史に従い八月と作す。
十月、帝は軍を鄆に駐留させた。齊州刺史朱瓊が使者を遣わして降伏を請うた。瓊は即ち瑾の従父兄である。案ずるに、新唐書昭宗紀には、十一月壬申、齊州刺史朱瓊が叛いて朱全忠に降る、とある。薛史によれば、朱瓊が自ら降伏を請うてから殺されるまで全て十月のことであり、新唐書と異なる。通鑑は新唐書に従う。帝はこれにより軍を移して兗に至り、瓊は果たして来降した。未だ幾ばくもせず、瓊は朱瑾に欺かれて掠め取られ殺された。帝は即ちその弟玭を齊州防禦使とした。
十一月、朱瑄はまた将の賀瓌、柳存及び蕃将の何懷宝等一万余りを遣わして曹州を襲撃させた。何懷宝は、通鑑では薛懷宝と作るが、旧唐書を考うるに亦た何懷宝と作るので、今もこれに従う。兗州の包囲を解かんとしたのである。帝はこれを知り、兗より軍を率いて策馬し先ず路を鉅野の南に至り、追撃してこれを破り、殺戮すること殆んど尽くし、賀瓌、柳存、何懷宝及び賊党三千余人を生け捕りにした。この日申の刻、狂風が暴れ起こり、沙塵が沸き湧いた。帝は曰く、「これは人を殺すことが未だ足らざるが故である」と。遂に命を下して捕らえた囚虜を全て殺させた。風も亦た止んだ。翌日、賀瓌等を縛り兗に示した。帝は元より瓌の名を知っていたので、これを釈放し、ただ何懷宝を兗城の下で斬った。乃ち軍を返した。
十二月、葛従周が兵を率いて再び兗を伐った。案ずるに、通鑑には、朱全忠が兗州を去るに当たり、葛従周に兵を将いて守らせた、とある。薛史梁紀と異なる。又、薛史葛従周伝は十月の事と作る。既に到着し、朱瑾と塁下に戦い、千余りの衆を殺し、その将孫漢筠以下二十人を擒らえ、遂に軍を返した。
二月、帝は親軍を率いて単父に屯した。寒食に会し、帝は乃ち親しく碭山県午溝里の文穆皇帝陵を拝した。冊府元亀巻一百八十九。
四月辛酉、河東の水が漲り溢れ、滑城を壊さんとした。帝は堤岸を決してその勢いを分かち二河とし、滑城を挟んで東に流れさせたが、害はますます甚だしくなった。この月、帝は許州刺史朱友恭に兵一万を率いて淮を渡らせ、便宜を以て事を行わせた。時に黄、鄂二州が累次使者を遣わして援を求めたので、この行動があったのである。
五月、葛従周に命じて軍を統率させ洹水に屯し、以て蕃軍に備えさせた。
六月、李克用は蕃漢諸軍を率いて斥丘に営し、その子落落に鉄林小児三千騎を将いて洹水に迫らせた。従周はこれと戦い、大いにこれを破り、落落を生け捕りにして献じた。克用は悲しみ驚き、旧好を修めてその子を贖わんと請うたが、帝は許さず、遂に落落を羅弘信に送り、これを斬らせた。七日を過ぎ、我が軍は還って陽留に屯し、以て鄆を伐った。
八月、再び洹水に壁した。この時、昭宗は華州に幸し、使者を遣わして就いて帝に加えて検校太師、守中書令とした。
四年正月、帝は洹水の師を以て大いに挙兵して鄆を伐った。辛卯、済水のほとりに営した。案ずるに、胡三省が云う、漢以後に済水は無く、この済水は蓋し即ち鄆城の清河水である、と。龎師古は諸将に命じて木を撤いて橋とさせた。乙未の夜、師古は中軍を以て先ず渡り、その声は鄆に響き渡った。朱瑄これを聞き、壁を棄てて夜遁した。葛従周はこれを追って中都の北に至り、瑄及びその妻子を擒らえて献じた。案ずるに、「辛卯営于済水之次」よりここまで、又た通鑑考異に見えるが、ただ中に数字少なく、蓋し書を引く間に刪節有り。尋ねて汴橋の下で斬った。鄆州平らぐ。己亥、帝は鄆に入り、朱友裕を鄆州兵馬留後とした。案ずるに、通鑑には、正月、龎師古を天平軍留後とす。三月、朱友裕を天平軍留後と表す、とある。薛史郴王友裕伝によれば、四年、帝が東平を下すや、即ち天平留後となった。通鑑と異なる。時に帝は朱瑾と史儼児が豊沛の間で糧饋を搜索し、ただ康懐英を留めて兗州を守らせていると聞き、帝は勝ちに乗じて葛従周に大軍を以て兗を襲撃させた。懐英は鄆が失陥したと聞き、俄かに又我が軍の大いに至るや、乃ち出でて降った。朱瑾、史儼児は遂に淮南に奔った。兗、海、沂、密等の州平らぐ。案ずるに、新唐書昭宗紀には、四年正月丙申、朱全忠鄆州を陥とし、天平軍節度朱宣死す。二月、朱全忠兗州を寇し、泰寧軍節度使朱瑾淮南に奔る、と。旧唐書には、正月癸未、汴将龎師古鄆州を陥とす。二月戊申、汴将葛従周兗州を陥とす、と。薛史と月日の前後同じからず、詳しくは通鑑考異に見ゆ。乃ち葛従周を兗州留後とした。冊府元亀巻一百八十七。
五月丁丑、朱友恭が使者を遣わして上言し、武昌において淮冦を大破し、黄、鄂二州を回復した、と。通鑑考異薛史梁紀を引く。
八月、陝州節度使王珙が使者を遣わして来たり師を乞うた。この時、珙の弟珂が実に蒲帥であった。珂は、原本は「琦」と訛るが、今新唐書王重栄伝に拠って改正する。互いに憤怒を繰り返し、日々干戈を交え、而して珙は兵寡ないので、来たり援を求めたのである。帝は張存敬、楊師厚等に兵を率いて陝に赴かせた。既にして蒲人と猗氏において戦い、大いにこれを破った。
九月、帝は兗、鄆が既に平らぎ、将士雄勇なるを以て、遂に大いに挙兵して南征した。案ずるに、旧唐書昭宗紀には、師古の淮を渡るは十月に在り、而して清口の敗は十一月に在る。薛史は九月に繫ぐが、蓋し南征の議を挙ぐるは実に九月に始まり、その後遂にこれを終わりまで言うのである。欧陽史は改めて九月淮南を攻む、と作る。然らば清口の役は、乃ち雨雪に因って敗れたのであり、九国志に拠る可く、断じて九月の事ではない。龎師古に命じて徐、宿、宋、滑の師を以て直ちに清口に向かわせ、葛従周に兗、鄆、曹、濮の衆を以て径ちに安豊に赴かせた。淮人は朱瑾に兵を率いて師古を拒がせ、水を決して軍を浸し、遂に淮人の為に敗れ、師古は歿した。葛従周は行きて濠梁に及び、師古の敗れしを聞き、亦た命じて軍を返した。冊府元亀巻一百八十七。