新唐書

巻二百二十五上 列傳第一百五十上 逆臣上

安祿山

安祿山は、營州柳城の胡人なり。本姓は康。母は阿史德、巫覡たりて、突厥の中に居り、軋犖山に子を祈る。虜の所謂鬥戰神なる者にて、既にして妊す。生まるるに及びて、光有りて穹廬を照らし、野獸盡く鳴き、望気者其の祥を言う。范陽節度使張仁願、廬帳を捜索せしめ、盡く之を殺さんと欲す。匿れて免る。母は神の命ずる所と為し、遂に軋犖山と字す。少くして孤、母に従い虜将安延偃に嫁ぐ。開元初め、偃、之を携えて帰国し、將軍安道買の亡き子と偕に来たり、其の家に依ることを得たり。故に道買の子安節、偃に厚く徳とし、両家の子を約して兄弟と為す。乃ち安姓を冒し、更に名を祿山とす。長ずるに及び、忮忍にして智多く、善く人情を億測し、六蕃の語に通じ、互市郎と為る。

張守珪、幽州を節度す。祿山、羊を盗みて獲らる。守珪、之を殺さんとす。呼びて曰く、「公は両蕃を滅ぼさんと欲せざるか。何ぞ我を殺す」と。守珪其の語を壮とし、又偉くして皙きを見て、之を釈し、史思明と俱に捉生と為す。山川水泉の処を知り、嘗て五騎を以て契丹数十人を禽す。守珪之を異とし、稍々其の兵を益し、討つこと有れば輒ち克ち、抜きて偏将と為す。守珪其の肥えるを醜とす。是より飽くことを敢えず、因りて養子と為す。後に平盧兵馬使を以て特進・幽州節度副使に擢でらる。

是に於て御史中丞張利貞、河北を采訪す。祿山、百計を以て諛媚し、多く金を出だして左右に諧結し、私恩と為す。利貞、朝に入り、盛んに祿山の能を言う。乃ち營州都督ととく・平盧軍使・順化州刺史を授く。使者往来し、陰に賂を以て其の嗜を中ち、一口更に誉む。玄宗始めて之を才とす。天寶元年、平廬を以て節度と為し、祿山之が使と為り、柳城太守を兼ね、両蕃・渤海・黒水四府経略使を押す。明年、朝に入り、奏対旨に称し、驃騎大将軍に進む。又明年、裴寬に代わりて范陽節度・河北采訪使と為り、仍って平盧軍を領す。祿山北に還る。詔して中書門下尚書三省の正員長官・御史中丞に鴻臚亭に餞せしむ。

四載、奚・契丹、公主を殺して以て叛く。祿山、功を邀えんことを幸いとし、其の侵を肆にす。是に於て両蕃貳す。祿山軍を起こして契丹を撃ち、還りて奏す。「李靖・李勣、臣に食を求むるを夢み、乃ち北郡に祠り、芝梁に生ず」と。其の詭誕敢て言いて疑わざる、此の如し。席、河北黜陟使と為り、祿山の賢を言う。時に宰相李林甫、儒臣の戦功を以て進み、尊寵己を間うを嫌い、乃ち請うて顓に蕃将を用ゆ。故に帝、祿山を寵すること益々牢く、群議軋ぐこと能わず、卒に天下を乱す。林甫之を啓く也。

祿山、陽に愚にして敏ならざるを為して其の奸を蓋い、間を承けて奏して曰く、「臣は蕃戎に生れ、寵栄過甚にして、異材用いること無し。願わくは身を以て陛下の為に死せん」と。天子以て誠と為し、之を憐む。皇太子に見えしむ。拝せず。左右語を擿して之に告ぐ。祿山曰く、「臣は朝廷の儀を識らず。皇太子は何の官ぞ」と。帝曰く、「吾が百歳の後、位を以て之に付す」と。謝して曰く、「臣愚にして、陛下を知りて太子を知らず。罪万死」と。乃ち再拝す。時に楊貴妃寵有り。祿山請うて妃の養児と為らんことを。帝之を許す。其の拝するや、必ず先ず妃後に帝す。帝之を怪しむ。答えて曰く、「蕃人は先ず母後に父す」と。帝大いに悦び、楊銛及び三夫人と命じて兄弟と約せしむ。繇りて祿山天下を乱さんとする意有り、麾下の劉駱谷をして京師に居らしめ、朝廷の隙を伺わしむ。

六載、御史大夫に進み、妻段を封じて夫人と為し、国を有つ。林甫、宰相として貴甚だしく、群臣敢えて鈞礼する者無し。惟だ祿山恩に倚り、入謁して倨す。林甫、諷して之を寤らしめんと欲し、王鉷と偕にせしむ。鉷も亦た位は大夫なり。林甫、鉷を見るに、鉷趨り拝して卑約す。祿山惕然たり、覚えず自ら罄折す。林甫と語り、其の意を揣り、迎えて其の端を剖く。祿山大いに駭き、以て神と為し、毎に見るに、盛寒と雖も必ず汗を流す。林甫稍々之を厚くし、引いて中書に至らしめ、己が袍を以て覆う。祿山林甫に徳し、十郎と呼ぶ。駱谷、毎に事を奏して還るごとに、先ず問う、「十郎は何如」と。好言有れば輒ち喜び、若し「大夫好く檢校せよ」と言わば、則ち手を反して床に拠りて曰く、「我且に死せん」と。優人李亀年、帝の為に之を学ぶ。帝以て楽しみと為す。

晩年益々肥え、腹緩やかにして膝に及び、両肩を奮わし牽かんとする者の若くして乃ち能く行く。『胡旋舞』を帝の前に行い、乃ち疾きこと風の如し。帝其の腹を視て曰く、「胡の腹中に何有りてか大なる」と。答えて曰く、「唯だ赤心のみ」と。毎に駅乗りて朝に入るに、半道必ず馬を易え、号して「大夫換馬臺」とす。然らずんば、馬輒ち仆す。故に馬は必ず五石を負いて馳せしむる者にて乃ち載するに勝つ。帝、祿山の為に第を京師に起し、中人を以て役を督せしめ、戒めて曰く、「善く部署せよ。祿山眼孔大なり。我を笑わしむる毋かれ」と。瑣戸交疏を為し、臺観沼池華僭にし、帟幕率ね緹繡を以てし、金銀を以て榜筐・爪籬と為す。大抵服禦は乗輿と雖も過ぐること能わず。帝、勤政楼に登り、幄坐の左に金鶏大障を張り、前に特榻を置き、詔して祿山をして坐せしめ、其の幄を褰ぎて、以て尊寵を示す。太子諫めて曰く、「古より幄坐は人臣の当に得べきに非ず。陛下祿山を寵すること過甚なり。必ず驕らん」と。帝曰く、「胡は異相有り。我之を厭わんと欲す」と。

時に太平久しく、人戦を忘れ、帝春秋高く、嬖艷鉗固し、李林甫・楊国忠更に権を持ち、綱紀大いに乱る。祿山、天下取るべきを計り、逆謀日々に熾んず。毎に朝堂の龍尾道を過ぐるに、南北睥睨し、久しくして乃ち去る。更に壘を范陽の北に築き、号して雄武城と曰い、兵を峙え谷を積む。同羅・降奚・契丹の曳落河八千人を養いて仮子と為し、家奴の善く弓矢する者数百を教え、単於・護真の大馬三万、牛羊五万を畜え、張通儒・李廷堅・平洌・李史魚・獨孤問俗を引いて幕府に署し、高尚をして書記を典せしめ、厳莊をして簿最を掌らしめ、阿史那承慶・安太清・安守忠・李帰仁・孫孝哲・蔡希德・牛廷玠・向潤客・高邈・李欽湊・李立節・崔乾祐・尹子奇・何千年・武令珣・能元皓・田承嗣・田乾真、皆行伍より抜き、大将に署す。潜かに賈胡を遣わして諸道を行わしめ、歳毎に財百万を輸ぜしむ。大会に至れば、祿山重床に踞り、香を燎き、怪珍を陳べ、胡人数百左右に侍し、諸賈を引見し、犠牲を陳べ、女巫前に鼓舞して以て自ら神と為す。陰に群賈を令して錦彩朱紫の服数万を市わしめ、叛の資と為す。月ごとに牛・橐駝・鷹・狗・奇禽異物を進めて、以て帝の心を蠱し、而して人聊かならず。自ら功無くして貴きを以てし、天子の盛んに辺を開くを見て、乃ち契丹諸酋を紿し、大いに酒を置き、之に毒す。既に酣にして、悉く其の首を斬り、先後数千人を殺し、馘を闕下に献ず。帝知らず。鉄券を賜い、柳城郡公に封ず。又た延偃に范陽大都督を贈り、祿山を東平郡王に進む。

九載、河北道采訪處置使を兼ね、永寧園を邸宅として賜わる。入朝の際、楊國忠兄弟姉妹は新豊にて迎え、玉食を給し、湯に至れば将校皆に浴を賜う。帝は望春宮に幸して待ち、俘虜八千を献じ、詔して永穆公主の池観を遊燕の地として賜う。新第に移り、墨勅を請ひて宰相を召し宴す。是日、帝将に球を撃たんとす、乃ち会を設け、命じて宰相皆に赴かしむ。帝苑中に猟し、鮮禽を獲れば、必ず馳せて賜ふ。詔して上谷郡に五炉を置き、銭を鋳るを許す。又河東を兼ねんことを求め、遂に雲中太守・河東節度使に拝す。既に三道を兼制す、意益々侈なり。男子凡そ十一人、帝は慶宗を太僕卿とし、慶緒を鴻臚卿とし、慶長を秘書監とす。

十一載、河東の兵を率ひて契丹を討ち、奚に告げて曰く「彼は盟に背けり、我将に之を討たん、爾我を助けんか」と。奚は徒兵二千を出だして嚮導す。土護真河に至り、祿山計りて曰く「道遠しと雖も、我疾く賊に趨き、其の不備に乗ずれば、之を破るは固よりならん」と。乃ち人をして一繩を持たしめ、尽く契丹を縛らんと欲す。昼夜三百里を行き、天門嶺に次ぐ、会うに雨甚だしく、弓弛み矢脱して用ふべからず。祿山戦を督すること急なり、大将何思德曰く「士方に疲れたり、宜しく少しく息み、使者をして盛んに利を陳べて以て賊を脅し、賊必ず降らん」と。祿山怒り、斬りて以て軍を令せんと欲す、乃ち戦を請ふ。思德の貌祿山に類す、戦に及んで、虜叢矛して矢を注ぎ邀へて之を取る、祿山獲られたりと伝言す。奚聞きて亦叛き、夾攻して祿山の営を攻め、士略く尽きぬ。祿山流矢に中り、奚児数十を引き、衆を棄てて山に走りて墜つ、慶緒・孫孝哲之を掖き出だし、夜平廬に走る。部将史定方兵を以て鏖戦し、虜囲みを解きて去る。

祿山志を得ず、乃ち悉く兵をして号二十万として契丹を討ちて以て報ゆ。帝聞き、詔して朔方節度使阿布思に師を以て会せしむ。布思は、九姓の首領なり、偉貌にして権略多し、開元初、默啜に困らせられ、内属し、帝之を寵す。祿山雅に其の才を忌み、相下らず、襲ひ取りんと欲す、故に表して自助を請ふ。布思懼れて叛き、転じて漠北に入る、祿山進まず、輒ち師を班す。会うに布思回紇に掠められ、葛邏祿に奔る、祿山厚く其の部落を募りて之を降す。葛邏祿懼れ、布思を執りて北庭に送り、京師に献ず。祿山既に布思の衆を得れば、則ち兵天下に雄なり、愈々偃肆す。皇太子及び宰相屡りに祿山の反を言ふ、帝信ぜず。是の時國忠疑隙已に深し、建言して還朝を追ひ、以て其の状を験せんとす。祿山其の謀を得て揣し、乃ち馳せて入謁し、帝の意遂に安んず、凡そ國忠の陳ぶる所、入る者無し。

十三載、来たりて華清宮に謁し、帝に対ひて泣きて曰く「臣は蕃人、文字を識らず、陛下擢して以て不次とす、國忠必ず臣を殺さんとして以て甘心せんと欲す」と。帝之を慰解す。尚書左僕射に拝し、実封千戸を賜ひ、奴婢第産之に称す、詔して鎮に還る。又閑廄・隴右群牧等使たらんことを請ひ、表して吉温を自副とす。其の軍中功有りて将軍の位なる者五百人、中郎将二千人。祿山の還るに、帝望春亭に禦して以て餞ひ、禦服を斥けて之を賜ふ。祿山大いに驚き、自ら安からず、疾く駆りて去る。淇門に至り、軽艫流に循ひて下り、万夫繂を挽きて助け、日三百里。既に閑牧を総べ、因りて良馬を選びて范陽に内め、又張文儼の馬牧を奪ひ、反状明白なり。人告げ言ふ者あれば、帝必ず縛して之に与ふ。

明年、國忠謀りて祿山に同中書門下平章事を授け、還朝を召さんとす。制未だ下らず、帝中官輔璆琳を使はして大柑を賜はしめ、因りて非常を察せしむ。祿山之に厚く賂す、還りて言ふに他無しと、帝遂に召さず。未幾事泄る、帝他の罪に托して之を殺す、是より始めて疑ふ。然れども祿山も亦朝廷の己を図るを懼れ、使者至る毎に、疾を称して出でず、厳衛して然る後に見ゆ。黜陟使裴士淹行部して范陽に至る、再旬見えず、既にして武士をして挟引せしめ、復た臣礼無し、士淹詔を宣して還り、敢へて言はず。帝慶宗に賜ひて宗室の女を娶らしめ、手詔して祿山に礼を観せしめんとす、疾甚だしと辞す。馬三千匹を献じ、騶靮自ら倍し、車三百乗、乗に三士、因りて京師を襲はんと欲す。河南尹達奚珣極言して騶兵を内るる毋からんとす、詔して可とす。帝書を賜ひて曰く「卿が為に別に一湯を治む、会す可き十月、朕卿を華清宮に待たん」と。使至れば、祿山床に踞りて曰く「天子安穩なりや否や」と。乃ち使者を別館に送る。使還りて言ふこと「臣幾くぞ死せんとす」と。

冬十一月、范陽に反し、詭りて密詔を奉じて楊國忠を討つと言ひ、榜を郡県に騰せ、高尚・厳莊を謀主とし、孫孝哲・高邈・張通儒・通晤を腹心とし、兵凡そ十五万、号二十万、師行く日六十里。先だつこと三日、大将を合わせて酒を置き、絵図を観す、燕より洛に至るまで、山川の険易攻守悉く具はり、人々に金帛を賜ひ、並びに図を授け、約して曰く「違ふ者は斬らん」と。是に至りて、素の如くす。祿山牙門部曲百余騎に従ひて城北に次ぎ、先冢を祭りて行く。賈循をして留務を主らしめ、呂知誨をして平廬を守らしめ、高秀巖をして大同を守らしむ。燕の老人馬に叩きて諫む、祿山厳莊をして好みて謂はしめて曰く「吾は国の危きを憂ふ、私に非ざるなり」と。礼を以て之を遣る。因りて令を下す「軍を沮む者有らば三族を夷すべし」と。凡そ七日、反書聞こゆ、帝方に華清宮に在り、中外色を失ふ。車駕京師に還り、慶宗を斬り、其の妻康に死を賜ひ、榮義郡主も亦死す。詔を下して切に祿山を責め、自ら帰るを許す。祿山答書甚だしく慢り、叵すべからず忍ぶべし。賊高邈・臧均を遣はして射生騎二十を以て馳せて太原に入り、尹楊光翙を劫ひ取りて殺し、張獻誠をして定州を守らしむ。

祿山謀逆すること十余年、凡そ降る蕃夷は皆恩を以て接し、服さざる者有れば、兵を仮りて脅制し、得たる士は、縛を解きて湯沐・衣服を給し、或いは重訳を以て達す、故に蕃夷の情偽悉く之を得。祿山夷語に通じ、躬自尉撫し、皆俘囚を釈して戦士と為す、故に其の下死を輸するを楽みし、戦ふ所前に敵無し。邈最も謀有り、祿山を勧めて李光弼を取って左司馬と為さんとす、納れず。既にして之を悔ひ、憂ひ顔色に見え、久しくして曰く「史思明之に当たる可し」と。賊の未だ反せざる時、邈謀りて、生口を進むる声をし、直ちに洛陽らくようを取り、光翙を殺さず、天下当に未だ知る者有らざるべしと、賊従はず。何千年も亦賊を勧めて高秀巖をして兵三万を以て振武より出で、朔方を下し、諸蕃を誘ひ、塩・夏・鄜・坊を取り、李帰仁・張通儒をして兵二万を以て雲中より道し、太原を取り、弩士一万五千を団めて蒲関に入り、以て関中を動かし、祿山を勧めて自ら兵五万を将ひて梁河陽し、洛陽を取り、蔡希德・賈循をして兵二万を以て海を絶ちて淄・青を収め、以て江淮を揺がしめば、則ち天下復た事無からんと。祿山用ひず。

時に兵乱が突発し、州県が官庫の鎧や武器を出したが、皆穴が開き朽ちて鈍り折れて用をなさず、棒を持って戦うも、抗しきれず、官吏は皆城を棄てて隠れ、或いは自殺し、さもなくば捕らえられ、その日も絶えなかった。禁衛の兵は皆市井の徒であり、鎧を授けられた後も、弓袋や剣から抜くことができず、そこで左蔵庫の絹帛を用いて大々的に兵を募った。封常清を范陽・平盧節度使とし、郭子儀を朔方節度使・関内支度副大使とし、右羽林大将軍王承業を太原尹とし、衛尉卿張介然を汴州刺史とし、金吾将軍程千里を潞州長史とし、栄王を元帥とし、高仙芝をその副将として、駅伝を馳せて賊を討たせた。

禄山は鉅鹿に至り、留まろうとしたが、驚いて言うには、「鹿は我が名である」と。そこを去って沙河へ向かった。或る者は、漢の高祖こうそが柏人に宿らなかったように、賊を諂うためだと述べた。賊は河に草や倒れた木を投げ入れ、長い縄で舟を繋ぎ筏を集めて結びつけ、一夜で氷が合わさり、遂に河を渡り、霊昌郡を陥落させた。さらに三日後、陳留・滎陽けいようを落とした。罌子谷に駐屯すると、将軍の荔非守瑜がこれを迎え撃ち、数百人を殺し、流れ矢が禄山の輿に及んだため、敢えて前進せず、さらに谷の南に出た。守瑜は矢が尽き、河で戦死した。封常清を破り、東都を奪い、常清は陝に奔った。留守の李憕・御史中丞の盧弈を殺した。河南尹の達奚珣は賊に臣従した。時に高仙芝は陝に駐屯し、常清の敗北を聞くと、鎧を棄てて潼関を守り、太守の竇廷芝は河東に奔った。常山太守の顔杲卿が賊将の李欽湊を殺し、高邈・何千年を捕らえた。ここにおいて趙郡・鉅鹿・広平・清河・河間・景城の六郡は皆国を守り、禄山の所有は盧龍・密雲・漁陽・汲・鄴・陳留・滎陽・陝郡・臨汝のみであった。

賊が東京を占拠し、宮殿の壮麗雄大さを見て、僭号を切望したため、兵は久しく西に向かわず、諸道の兵は漸く集結することができた。尹子奇は陳留に駐屯し、東を攻略しようとしたが、済南太守の李隨・単父尉の賈賁・濮陽人の尚衡・東平太守で嗣呉王の李祗・真源令の張巡が相次いで兵を挙げ、十日で数万の衆となった。子奇は襄邑に至って引き返した。

翌年正月、僭って雄武皇帝と称し、国号を燕とし、元号を聖武と建て、子の慶緒を晋王とし、慶和を鄭王とし、達奚珣を左相とし、張通儒を右相とし、厳莊を御史大夫とし、百官を任命した。再び常山を奪い、顔杲卿を殺した。安思義は真定に駐屯したが、李光弼が土門を出て常山を救援すると、思義は降伏し、博陵もまた陥落し、ただ稿城・九門の二県のみが賊の守るところとなった。史思明・李立節・蔡希德は饒陽を包囲したが落とせず、軍を率いて石邑を攻めたが、張奉璋が堅く守った。朔方節度使の郭子儀が雲中より兵を率いて光弼と合流し、九門で思明を破り、李立節は戦死し、希德は鉅鹿に奔った。思明は趙郡に奔り、鼓城より博陵を襲い、再びこれを占拠した。光弼は趙郡を抜き、引き返して博陵を包囲し、恒陽に軍を置いた。希德は賊に援軍を請い、賊は二万騎を滹沱河を渡らせて博陵に入れ、牛廷玠が媯・檀等の兵一万人を発して助けに来たため、思明はますます強くなり、光弼と戦い、嘉山で敗れた。光弼は十三郡を回復し、河南諸郡は皆厳重に兵を守らせ、潼関は開かなかった。

禄山は恐れ、急いで范陽に戻り、厳莊・高尚を召して責めて言うには、「我が挙兵するに当たり、汝らは万全と言った。今、四方の兵は日増しに盛んとなり、関以西では、一歩も進まず、汝らの謀略はどこにあるのか、まだ我に会おうとするのか」と。尚らを出させた。数日後、田乾真が潼関より来て、禄山を諫めて言うには、「古より王者が興るには、戦いには勝敗があり、それによって大業を成すのであって、一挙に得る者はない。今、四方の兵は多いとはいえ、我が敵ではない。もし事が成らぬことがあっても、我は数万の衆を擁し、なお天下を横行し、十年の計を立てることができる。かつ高尚・厳莊は、佐命の元勲である。陛下は何故急に彼らを絶ち、自ら禍患を作られるのか」と。禄山は喜び、彼の幼名を呼んで言うには、「阿浩、汝でなくて誰が我を悟らせようか。ではどうすればよいか」と。乾真は言うには、「召し出して慰め安んじるのです」と。そこで尚らを内に入れ、酒宴を共にし、禄山自ら歌い、君臣は初めのようになった。即ち孫孝哲・安神威を遣わして西進し長安ちょうあんを攻めさせた。時に高仙芝らが死に、哥舒翰が潼関を守っていたが、田乾祐に敗れ、囚われた。賊は天子が急に去るとは思わず、兵を潼関に駐め、十日後に西進した。時に天子の行在所は既に扶風に至っており、ここにおいて汧・隴以東は皆賊に陥落した。禄山は張通儒に東京を守らせ、乾真を京兆尹とし、安守忠を苑中に駐屯させた。

禄山が長安に至る前に、士人は皆山谷に逃げ込み、東西二百里に連なった。宮嬪は散り隠れて泣きながら歩き、将相の邸宅は宝貨を委ねて数えきれず、群をなす不逞の輩がこれを奪い合い、数日経っても尽きなかった。また左蔵の大盈庫を掠奪し、百官の倉庫は空になり、残りを火で焼いた。禄山が到着し、怒って、大々的に三日間捜索し、民間の財産を全て掠め取り、府県は株連を根拠に牽連し、厳しく剥ぎ取り苛酷に急ぎ、百姓はますます騒然とした。禄山は慶宗の死を怨み、帝の近親である霍国長公主・諸王妃妾・子孫姻婿ら百余人を捕らえて害し、もって慶宗を祭った。天子に従った群臣は、その宗族を誅滅した。虜の性質は欲するものを得れば恣に残虐を働き、人々はますます従わなかった。諸大将が諮問決断を欲する時は、皆厳莊を通して会見した。下を統御するに恩が少なく、腹心の旧知であっても、皆仇敵となった。郡県は相次いで守将を殺し、王師を迎え、前後十数回反覆し、城邑は廃墟となった。

粛宗は霊武で兵を治め、天下は日に日に首を長くして待った。長安では太子が西より来ると伝えられ、人々は聞けば東へ走り、町中は空になり、都畿の豪傑が賊の官吏を殺して自ら帰順する者は日々絶えず、賊が斬り殺して懲らしめても止めることができなかった。また賊の将帥は概ね勇猛で遠謀がなく、日々酒に耽り、声色財利を嗜み、天子の車駕が危うくしょくに入ることができたが、終に進んで追撃する憂いはなかった。

帳下の李豬児は、元は降伏した小者で、幼い頃から禄山に仕えて甚だ謹直であり、宦官にさせられ、ますます親信された。禄山は腹が大きく膝まで垂れ、衣服を替える度に、左右が共に持ち上げ、豬児が帯を結んだ。華清宮で賜浴の時も、自ら随行することを許された。老いてますます肥え、股間の隠れた所に常に瘡があった。既に叛いてからは、憤りと恐れがないわけにはいかず、この頃には目もまた盲目となり、間もなく疽の病を得て、特に癇癪が強く、左右の給仕は、罪なくても死に、或いは鞭打ち辱めを受け、豬児は特にその回数が多く、厳莊のような親しく頼られる者でも、時々鞭打たれ罵られ、故に二人は深く禄山を怨んだ。初め、慶緒は騎射に優れ、元服前に鴻臚卿となった。賊が僭号すると、段夫人を寵愛し、その子の慶恩を愛し、彼を立てようとした。慶緒は立たれぬことを恐れ、莊もまた難が起こって己に不利となることを疑い、密かに慶緒に語って言うには、「君は大義親を滅すと聞いたことがあるか。古より固より已むを得ずして為す者がある」と。慶緒は密かに悟って言うには、「はいはい」と。また豬児に語って言うには、「汝が上に仕えて罪と数えられることは幾らあるか。大事を行わなければ、死は日に迫っている」と。遂に謀を定めた。至徳二載正月朔、禄山が群臣を朝見したが、創が甚だしく、罷めた。その夜、莊・慶緒は兵を持って門を護衛し、豬児が帳下に入り、大刀でその腹を斬った。禄山は盲目で、佩刀を探っても得られず、幄の柱を揺すって叫んで言うには、「これは家賊だ」と。間もなく腸が床に流れ出て、即死した。五十余歳であった。氈に包み、床下に埋めた。そこで病が甚だしいと伝え、偽詔を以て慶緒を皇太子と立て、また偽って禄山が慶緒に位を伝えたと称し、遂に偽って太上皇と尊んだ。

偽位を襲いし後、載初元年と改元し、即ち楽しみに耽り酒を飲み、政を厝に委ねて兄事す。張通儒・安守忠等をして長安に屯せしめ、史思明に范陽を領せしめ、恒陽軍を鎮めしめ、牛廷玠を安陽に屯せしめ、張誌忠を井陘に戍らせ、各々兵を募らしむ。

ここに広平王師を率いて東討し、李嗣業前軍を将し、郭子儀中軍を将し、王思禮後軍を将し、回紇葉護兵を以て従う。通儒等兵十万を裒めて長安中に陣し、賊は皆奚にして、素より回紇を畏る。既に合し、驚き且つ囂ぐ。王精兵を分かちて嗣業と合撃し、守忠等大敗し、引いて東す。通儒妻子を棄てて陝郡に奔る。王師長安に入り、思礼宮を清む。仆固懐恩回紇・南蛮・大食の兵を以て前駆とし、王悉く師をして賊を追わしむ。厝自ら兵十万を将いて通儒と合し、鉦鼓百余里に震う。尹子奇既に張巡を殺し、衆十万を悉くして来たり、力を併せて陝西に営し、曲沃に次ぐ。先に回紇南山に傍らひて伏を設け、軍を北崦に按じて待つ。厝新店に大戦し、騎を以て挑戦す。六たび遇ひて輒ち北す。王師之を逐ひ、賊の壘に入る。賊両翼を張りて之を攻め、追兵没し、王師乱れ、幾くんか軍をなす能はず。嗣業馳せて殊死に闘ひ、回紇南山より繚めて其の背を撃つ。賊驚き、遂に乱る。王師復た振ひ、合して之を攻め、殺掠算に勝へず。賊大敗し、奔るを追ふこと五十余里、屍髀藉藉として坑壑に満ち、鎧仗狼扈として、陝より洛に属す。厝跳ねて還り、慶緒・守忠・通儒等と劫りて残軍を以て鄴郡に走る。

王洛陽に入り、大いに兵を天津橋に陳ぶ。偽侍中陳希烈等三百人素服して叩頭し罪を待つ。王労して曰く、「公等脅かされて汚れしも、反するに非ず。天子詔有りて罪を赦し、皆復た而の官とせん」と。衆大いに喜ぶ。ここに陳留賊将尹子奇を殺して降る。厝の妻薛獲嘉に舍し、永王の女なりと紿言し、営に詣る。王に見えて、辞して曰く、「厝降らんと欲す。願くは一信を得ん」と。王子儀と謀り、厝若し至らば、余党諭して下すべし。乃ち厝に約し鉄券を賜ふ。厝乃ち降り、駅を乗りて京師に至る。粛宗引見し、其の死を釈し、司農卿を授く。阿史那承慶其の衆三万を以て恒・趙に奔り、或は范陽に趨る。其の慶緒に従ふ者は、痍卒纔か千余なり。

会に蔡希德上党より、田承嗣潁川より、武令珣南陽より、各々衆を以て来たり、邢・衛・洺・魏募兵稍々集まり、衆六万、賊復た振ふ。相州を以て成安府と為し、太守を尹と為し、元を天和と改め、高尚・平洌を宰相と為し、崔乾祐・孫孝哲・牛廷玠を将と為し、阿史那承慶を献城郡王と為し、安守忠左威衛大将軍、阿史那従礼左羽林大将軍と為す。然れども部党益々携解す。是れによりて能元皓偽淄青節度使を以て、高秀巌河東節度使を以て並びに順を納む。徳州刺史王柬・貝州刺史宇文寬皆賊を背きて自ら帰す。河北諸軍各々城を嬰して守り、賊蔡希德・安雄俊・安太清等をして兵を以て之を攻陷せしめ、市に於て戮し、其の肉を膾す。

慶緒人の己に貳するを懼れ、壇を設けて載書を加へ、血を以て群臣と盟す。然れども承慶等十余人は密款を送り、詔有りて承慶を太保・定襄郡王と為し、守忠を左羽林軍大将軍・帰徳郡王と為し、従礼を太傅・順義郡王と為し、蔡希徳を徳州刺史と為し、李廷譲を邢州刺史と為し、苻敬超を洺州刺史と為し、楊宗を太子左諭徳と為し、任瑗を明州刺史と為し、独孤允を陳州刺史と為し、楊日休を洋州刺史と為し、恭栄光を岐陽令と為す。裨校等より自り、数数国為りて賊を間す。而して慶緒宮室・観榭・塘沼を治め、楼舡を泛べて水嬉と為し、長夜飲す。通儒等権を争ひて一つに能はず。凡そ建白有れば、衆共に之を訾沮す。希徳最も謀有り、剛狷にして、慶緒を謀殺して内応せんとす。通儒他事を以て之を斬る。麾下数千皆亡去す。希徳素より士を得、挙軍恨嘆す。慶緒乾祐を以て天下兵馬使と為し、権中外に震ふ。愎悍にして恩少く、士附かず。

乾元元年秋九月、帝郭子儀に詔して九節度の兵凡そ二十万を率いて慶緒を討たしめ、衛州を攻め、遂に河を度り、師水を背にし壁して待つ。慶緒安太清を遣わして拒戦せしむ。衛州既に囲まるを聞き、則ち鼓して南し、三軍を作す。乾祐上軍を将し、雄俊・王福德之を佐く。田承嗣下軍を将し、栄敬之を佐く。慶緒自ら中軍を将し、孫孝哲・薛嵩之を佐く。既に戦ひ、王師偽りて却く。慶緒之を逐ふ。伏に遇ひて潰ゆ。慶緒走り、其の弟慶和を獲て、京師に於て斬る。子儀軍を引いて賊に躡ひ、愁思崗に戦ふ。賊復た敗る。是れより鋭兵尽きたり。因りて鄴を嬰して自ら固くし、薛嵩をして厚幣を以て史思明に求救ましむ。思明李帰仁を遣わして兵一万三千を将いて滏陽に壁す。未だ進まずして、王師の囲み已に固し。城隍を浚ひて三周し、安陽水を決して城を灌ぐ。城中棧して処り、糧尽き、口を易へて食す。米一斗銭七万余、一鼠銭数千、松を屑して馬に飼ひ、墻を隤して麦稭を取り、糞を濯して芻を取り、城中降らんと欲するも得ず。賊更に太清を以て乾祐に代はりて将と為す。

ここに思明衆十三万有り、其の軍を三分して鄴に趨る。明年三月、安陽に営す。慶緒急なり。乃ち太清を遣わして皇帝の璽綬を奉りて思明に譲る。思明書を軍中に示す。咸へて万歳と呼ぶ。乃ち慶緒と兄弟たらんことを約し、其の書を還す。慶緒大いに悦ぶ。王師利あらず。九節度奔りて還る。子儀河陽橋を断ち、谷水を戍る。思明進みて鄴南に屯す。慶緒官軍の余餉を収む。尚ほ十余万石有り。孝哲等を召して思明を拒がんことを謀る。諸将皆曰く、「今日安んぞ復た史王に背くを得んや」と。通儒・尚・洌皆自ら往きて思明に謝せんことを請ふ。慶緒許諾す。思明見るに、流涕を為し、厚礼して還す。三日、慶緒未だ出でず。思明慶緒に歃血の盟を請ふ。已むを得ず、五百騎を以て思明の軍に詣る。此れに先立ち、思明軍中に令して甲を擐げて待たしむ。慶緒至り、再拝して地に伏し謝して曰く、「臣克く負荷せず、両都を棄て、重囲に陥る。意はざりき大王太上皇の故を以て、師を暴して遠く来たるを。臣の罪、唯だ王之を図らん」と。思明恚りて曰く、「兵の利不利亦何事ぞ。而して人の子と為り、父を殺し位を求むるは、大逆に非ずや。吾乃ち太上皇の為に賊を討たん」と。顧みて左右に牽き出して斬らしむ。慶緒数たび周万誌に目す。万誌進みて曰く、「慶緒君と為りたり。宜しく死を賜ふべし」と。乃ち四弟と並びて縊る。又尚・孝哲・乾祐を誅し、殊にして膊す。思明祿山を改葬して王礼を以てし、偽りて燕剌王と謚す。祿山父子僭位凡そ三年にして滅ぶ。

初め、祿山東京を陷れ、張万頃を河南尹と為す。士人宗室頼りて免るる者衆し。粛宗其の仁を嘉し、濮陽太守に拝す。帝賊を国讎と為し、其の姓を聞くを悪む。京師の坊裏に「安」の字有る者は、悉く之を易ふ。

高尚

高尚は雍奴の人である。母は老いており、乞食して自らを養い、高尚は河朔に客居して帰ろうとしなかった。令狐潮と親しくし、その婢女と淫通して一女を生み、遂に留まり住んだ。然るに学問に篤く文辞に優れ、嘗て慨然として汝南の周銑に謂いて曰く、「我は賊となって死すべし、草根を齧って生きんと求むる能わず」と。李齊物が新平太守となった時、朝廷に推薦し、三万銭を贈り、高力士に紹介して会わせた。力士は才能ある者と認め、門下に置き、家事は全て彼に諮問し、近臣に勧めてその才能を上表させ、左領軍倉曹参そうしん軍に抜擢した。

力士が安禄山に語り、平盧掌書記に上表し、これにより臥内に出入りするようになった。禄山は眠ることを好み、高尚は嘗て筆を執って侍り、夜通し寝ず、これにより親愛された。遂に厳荘と語り図讖を論じ、禄山を導いて反逆させた。東都を陥落させると、偽りに中書侍郎に拝した。大抵賊が下した赦令は、皆高尚がこれを作った。厳荘が降伏した後、高尚独り政事を司り、偽りの侍中に至った。

孫孝哲

孫孝哲は、契丹部の人である。母は艶色で、禄山がこれと通じたため、孝哲は親しく近づくことができた。身長七尺、頑健で謀略あり。禄山が側門で召しを待つ時、衣帯が切れ、どうしてよいか分からなかった。孝哲は縫い針と糸を常備しており、ゆっくりと縫い繕った。禄山は大いに喜んだ。特に事に先んじて情勢を察するのに長けていた。禄山は体が大きく、孝哲が縫った衣でなければ着られなかった。天宝末、官は大将軍であった。

賊が僭位すると、偽りに殿中監・閑廄使に拝し、爵は王とされ、厳荘と寵を争って不和となった。裘馬は豪華奢侈で、食事は常に珍味であった。賊は張通儒らに長安を守らせ監視させ、人々は皆彼を注視した。妃・公主・宗室の子百余人を殺し、楊国忠・高力士の党与及び賊に逆らった者を数えきれぬほど誅殺し、首を刎ね四肢を裂き、道路に散乱させた。禄山が死ぬと、厳荘がその使職を奪って鄧季陽に与えた。慶緒が敗走する時、荘は図られることを恐れ、これにより降伏した。

商胡の康廉という者がいた。天宝中に安南都護となり、楊国忠に附き、官は将軍となった。上元中、家財を出して山南の駅伝の糧食を助け、粛宗はその救済を喜び、これを許し、累次試みて鴻臚卿となった。婿が賊中にあり、その反逆を告げる者がいて、坐して誅された。事は厳荘に連座し、獄に繋がれ、難江尉に貶された。京兆尹劉晏が吏を発してその家を防がせたので、荘はこれを恨んだ。俄かに詔して罪を釈し、荘が代宗に謁見すると、劉晏が常に功を誇り上を怨み、禁中の事を漏らしたと誣った。劉晏は遂に貶された。

史思明

史思明は、寧夷州の突厥の種族で、初名は窣於といい、玄宗がその名を賜った。姿は痩せて骨ばみ、肩は鳶の如く背は曲がり、目は深く鼻は横に張り、鬚髪は少なく、躁急で健壮、狡猾であった。安禄山と同郷で、禄山より一日早く生まれ、故に長く親善した。若くして特進烏知義に仕え、軽騎で賊を偵察し、多くを捕虜斬首した。六蕃の訳に通じ、また互市郎も務めた。間もなく、官銭を負い、償うことができず、奚へ逃げようとした。未だ到らぬ内に、邏騎に囲まれ、殺されそうになった。騙して曰く、「我は使いの者なり、若し天子の使者を殺すと聞けば、その国に不祥あらん、我を王に見せるに如かず、王我を生かせば、功は汝らが得る所とならん」と。邏騎は然りとし、王の所へ送った。拝礼せず、曰く、「天子の使いが小国の君に見えるに拝礼せざるは、礼なり」と。王は怒ったが、然し真の使者かと疑い、終に賓館を授け、礼をもって遇した。帰還する時、百人を従えて入朝させようとした。奚に部将の瑣高という者がおり、名は国中に聞こえていた。思明は彼を捕らえて罪を贖おうとし、王を唆して曰く、「我に従う者は多けれど、天子に見えるに足る者はなし、ただ高のみが才能あり、中国に至るべし」と。王は喜び、高に命じて帳下三百を率いさせた。平盧に到着すると、戍主に遣わして謂いて曰く、「奚兵数百、外は入朝と称すれど、内実は盗賊なり、備えられよ」と。主は密かに軍を出して迎え労い、その衆を殺し、高を囚えて献上した。幽州節度使張守珪はその功を奇とし、折衝に上表し、禄山と共に捉生となった。

天宝初め、累功して将軍・知平盧軍事に至った。入朝して奏上すると、帝は座を賜り語り、彼を奇とした。年齢を問うと、曰く、「四十なり」と。その背を撫でて曰く、「汝の貴いは晩年に在り、勉めよ!」と。大将軍・北平太守に遷った。禄山に従い契丹を討ち、禄山が敗れると、単騎で師州に逃れ、配下の左賢哥解・魚承仙を殺して自らを弁解した。思明は山中に逃れ、再び十日を経て、散卒を集めて七百を得、追って平盧で禄山に会った。禄山は喜び、手を握って曰く、「死んだと思い計らえり、今なお在り、我何を憂えん!」と。思明は親しく曰く、「我聞く、進退は時に在りと、向こう早く出でしならば、哥解に随いて地下に在りしならん」と。契丹が師州を取ると、守捉使劉客奴は逃げ去った。禄山は思明を使わしてこれを撃退させ、平盧兵馬使に上表した。

思明は若い時賤しく、郷里の者は彼を軽んじた。大豪の辛氏に娘がおり、婿を求めていた。思明を窺い、その親族に告げて曰く、「必ず我が思明に嫁がん」と。宗族は認めなかったが、娘は固くして嫁いだ。思明もまた負けずに曰く、「我が婦を得てより、官は止まず、男子多く生まれ、将に貴からんか!」と。

禄山が反すると、思明を使わして河北を平定略取させた。賈循が死ぬと会し、思明を留めて范陽を守らせた。而して常山の顔杲卿らが檄を伝えて賊に拒んだので、禄山は向潤客らを代わりに遣わし、思明を遣わして常山を攻めさせ、九日で杲卿を捕らえた。進んで饒陽に迫り、盧全誠が防ぎ守った。河間・景城・平原・楽安・清河・博平の六郡は漸く兵を募り自らを固めた。河間の李奐が兵七千で饒陽を救い、景城の李暐が兵八千を持って河間を助け、平原の顔真卿が兵六千で清河を助けたが、全て思明に敗れ、暐の子の李杞はこれに死し、饒陽はますます堅固となった。李光弼が常山を収めると会し、思明は急いで包囲を解いて迎え戦い、昼夜二百里を行き、持久して決せず。郭子儀が趙郡を取ると、合兵して賊を攻めた。凡そ再戦し、皆大敗し、博陵に逃げ込んだ。光弼は追って城に迫り、ほとんど陥落させんとした。潼関が潰えたに属し、粛宗が朔方・河東の兵を召し、光弼は引き返し、王俌に常山を守らせた。賊は井陘で光弼を尾行追撃し、敗れて帰った。平盧を攻め、劉正臣はこれを軽んじ、備えを設けず、敗れて北平に保ち、兵と物資二千乗が皆没した。思明はその精鋭兵を得て、大いに勢いを張り、常山を攻めんと謀った。王俌は降伏しようとしたが、諸将が彼を殺し、使いを信都に遣わして刺史の烏承恩を迎え鎮守させようとしたが、承恩は聞き入れなかった。思明は土門を攻め、城中に伏兵を置き偽って降伏し、賊が城に登ると、伏兵が起ち、賊は殲滅された。思明は戟を受け、支えられて免れた。再び攻めてこれを陥落させ、廬舎を焼き、種族を誅殺した。稿城を取り、守将の白嘉祐は趙郡に逃げた。思明は五日間これを包囲し、これを陥ち、嘉祐は太原に奔った。思明は再び常山を陥落させた。賊の別帥の尹子奇が河間を包囲し、顔真卿は和琳に兵万余を将いて往き救わせた。この時北風が激しく号し、鼓を打っても、兵士は進まなかった。賊は縦撃し、大敗させ、和琳を捕らえ、衆を率いて城を攻め、李奐を捕らえた。また景城を抜き、李暐は河に赴いて死んだ。楽安を招き、これを降した。遂に平原を攻め、未だ到らぬ内に、真卿は郡を棄て去った。進んで清河を破り、太守王懷忠を捕らえ、博平に入り、遂に信都を包囲した。初め、賊は先に承恩の母・妻及び子を捕らえていたので、承恩は降伏した。而して兵は尚ほ五万、騎三千あった。饒陽を撃ち、李系は自ら焼死した。

思明の兵の向かうところ、その部下に掠奪を恣にさせ、人の妻女を淫奪し、これにより兵士は最も奮い立った。この時、河北一帯はことごとく賊の手に落ち、生民の資産は地を掃うが如く、壮者は荷を負って逃げ、老幼は殺され、人を殺すことを戯れとした。禄山は偽って范陽節度使に任じた。初め、麾下の騎兵はわずか二千、同羅の歩兵曳落河は三千に過ぎなかったが、数勝するうちに兵は最も強くなり、猛犬の如く江・漢を喰らわんとする心を抱いた。精兵五万を尹子奇に与え、河を渡って北海を劫略し、淮・徐を震駭させようとした。ちょうど回紇が范陽を襲撃し、范陽は閉じて出なかったので、子奇は還って救援し、遂に北海を取れなかった。至徳二載、蔡希徳・高秀巖と合兵十万で太原を攻めた。この時、李光弼は部将張奉璋に兵を率いて故関を守らせたが、思明はこれを攻め落とし、奉璋は楽平に走った。思明は山東から攻城具を取ろうとしたが、奉璋は兵士を広陽に匿い、服を改めて賊の使者と偽り、その遅延を責めて数人を斬り、衆を率いて太原に還ることができた。時に光弼は固守すること十月に及び、抜くことができなかった。そして安慶緒が襲位すると、安の姓を賜り、名を栄国とし、媯川郡王に爵された。

賊が両京を陥れた時、常に駱駝に禁府の珍宝を載せて范陽に貯蔵し、丘阜の如くであった。思明は富強を見て、驕慢になり、自ら取ろうと欲した。やがて慶緒が相州に敗走し、残兵三万が北帰して所属するところがなかったので、思明は数千人を撃殺してこれを降した。慶緒はその二心を知り、阿史那承慶・安守忠・李立節を遣わして思明に議事させ、かつ共にこれを図らせた。判官耿仁智は大義をもって賊を動かそうとし、間を請うて言うには、「公は貴く且つ賢明で、下僚が謀るまでもないが、一言して死にたい。」思明は言った、「我がために言え。」答えて言うには、「方に禄山が強かった時、誰が敢えて服さなかったか。大夫がこれに事えたのは、固より罪ではない。今、天子は聡明勇智で、少康・宣王の風がある。公が誠に使者を発して誠を輸すれば、納れられないことはない。これ禍を転じて福に入る秋である。」思明は言った、「善い。」承慶らは未だ知らず、五千騎を率いて来た。思明は甲冑を着けて労い、前に進んで言った、「公らが至り、兵士は喜びに勝えないが、辺兵は元来使者の威を憚り、自ら安んぜず、弓を弛めて入ることを請う。」従った。思明は承慶らと飲むに及び、即ちこれを拘え、その兵を収め、資を与えて遣わし、守忠・立節を斬って示しとした。

李光弼はその慶緒と絶ったことを聞き、人を遣わして招いた。これより先、烏承恩は既に帰国しており、帝は詔を刻してこれを諭した。思明は牙門金如意に十三郡の兵八万の籍を奉じて朝廷に帰させた。ここにおいて高秀巖は河東をもって自ら帰した。詔があり、思明を帰義郡王・范陽長史・河北節度使とし、諸子を並べて卿とし、秀巖を雲中太守とし、またその諸子に官した。承恩と中人李思敬を遣わして尉撫させ、残賊を討つことを促した。思明は乃ち張忠誌をして幽州を守らせ、薛を仮に恒州刺史とし、趙州刺史陸済を招いて降らせ、朝義に兵五千を与えて冀州を守らせ、令狐彰を仮に博州刺史とし、滑州に戍らせた。

然るに思明は外は命に順い、内は実に賊に通じ、益々兵を募った。帝はこれを知り、その常に承恩の父知義に事えたことから、嫌いがないことを期待し、即ち承恩を河北節度副大使に擢げ、思明を図らせた。承恩が范陽に至り、痩せた服で夜に諸将を訪れ、密かに謀を告げた。諸将は返ってこれを思明に告げたが、疑って未だ験するものはなかった。ちょうど承恩と思敬が奏事して還る時、思明はこれを館に留め、寝床に帷を張り、二人を伏せた。承恩の子が入見し、因って留まって臥した。夜半、その子に語って言うには、「我は命を受けてこの逆胡を除く。」二人が思明に告げたので、乃ち承恩を捕え、衣囊を探ると賜った阿史那承慶の鉄券及び光弼の牒を得、また薄紙に書いた数枚の文書を得たが、皆誅すべき将士の姓名であった。賊は大いに罵って言うには、「我は何ぞ爾に負うところあって、ここに至るや!」故に答えて言うには、「これは太尉光弼の謀であって、上は知らない。」思明は官吏を廷に召し、西に向かって哭して言うには、「臣の赤心は国に負かず、何ぞ臣を殺すに至るや!」因って承恩父子及び支党二百余人を搒殺し、思敬を囚えて上聞した。帝は使者を遣わして諭して言うには、「事は承恩より出で、朕と光弼の意ではない。」また三司が陳希烈らの死を議したと聞き、思明は懼れて言うには、「希烈らは皆大臣で、上皇がこれを棄てて西し、既に位を復したのに、この輩は宜しく労せられるべきであるのに、返ってこれを殺す。況んや我は本より禄山に従って反した者であるぞ!」諸将は皆賊に勧めて天子に表して光弼を誅させた。思明は耿仁智・張不矜に上疏して光弼を斬ることを請わせ、然らずば、将に太原を攻めんとした。疏が函に入る時、仁智は輒ち取り替えた。左右が密かに思明に白したので、二人を執って言うには、「若は我に背くか!」命じて斬らせた。既にして又死を赦そうと欲し、再び召して責めて言うには、「仁智は我に事えること三十年、今日我は爾を忘れたか?」仁智は怒って言うには、「人固より死あり。大夫が邪説を納れ、再び反を図る。我は生きるも死ぬるに如かず!」思明は怒り、捶殺した。九節度が相州を急囲したので、慶緒は間道より救いを求め、思明は王師を懼れて未だ進まず。俄かに蕭華が魏州を挙げて天子に帰し、崔光遠が代わって守ったので、思明は乃ち兵を引いて魏を撃ち、これを抜き、数万人を殺した。

乾元二年正月朔、壇を築き、僭って大聖周王と称し、元号を応天と建て、周贄を司馬とした。相州を救い、王師を退け、慶緒を殺し、その衆を併せ、遂に西略しようとしたが、根本未だ固からざるを虞れ、即ち朝義を留めて相州を守らせ、自ら引いて還った。夏四月、国号を大燕と改め、元号を順天と建て、自ら応天皇帝と称した。妻辛を皇后とし、朝義を懐王とし、周贄を相とし、李帰仁を将とし、范陽を燕京と号し、洛陽を周京とし、長安を秦京と号した。また州を郡と改め、「順天得一」の銭を鋳た。郊祀及び藉田を行い、儒生を聘して制度を講ぜんと欲した。或る者が上書して言うには、「北に両蕃あり、西に二都あり、勝負未だ知るべからず。而して太平の事を行わんとするは、難い。」思明は悦ばず、遂に上帝を祠祀した。この日大風が起こり、郊祀できなかった。

子の朝清を留めて幽州を守らせ、阿史那玉・向貢・張通儒・高如震・高久仁・王東武らにこれを輔わせた。兵を四出して河南を寇し、身は濮陽より出で、令狐彰に黎陽を絶たせ、朝義は白高より出で、周萬誌は胡良より河を渡って汴州を囲んだ。ここにおいて節度使許叔冀、濮州刺史董秦、梁浦・田神功は皆賊に附き、即ち叔冀と李祥に命じて汴州を守らせ、秦らの家族を平盧に移し、浦・神功に江・淮を下らせ、約して言うには、「地を得れば、人は資二艫を取れ。」思明は勝に乗じて鼓行し、西して洛陽を陥し、汝・鄭・滑の三州を破り、李光弼を河陽に囲んだが、抜くことができなかった。安太清を遣わして懐州を取らせて守らせたが、光弼がこれを攻めると、太清は降った。思明はまた田承嗣を遣わして申・光等州を撃たせ、王同芝を遣わして陳を撃たせ、許敬釭を遣わして兗・鄆を撃たせ、薛を遣わして曹を撃たせた。上元二年二月、思明は計をもって光弼の兵を北邙に破り、王師は河陽・懐州を棄て、京師は震恐し、益々兵を増やして陝州に屯した。思明は遂に西し、朝義を先鋒とし、身は宜陽より進んだ。

朝義は陝を攻めたが、姜子阪で敗れ、永寧に退いて陣を構えた。思明は大いに怒り、朝義と駱悦・蔡文景・許季常を召し出し、誅殺しようとしたが釈放し、驚いて言うには、「朝義は臆病で、我が事を成し遂げられぬ!」と。朝清を呼び寄せて副将としようとした。また朝義に命じて三角城を築き糧食を貯蔵させたが、一日で完成させ、まだ塗り固めぬうちに思明が到着し、約束通りでないと怒り、朝義が言い訳して、「兵士が疲れて少し休んでいただけです」と言うと、思明は「お前は兵士を惜しんで我が命令に背くのか?」と言い、鞍に座ったまま塗り固めが終わるのを見届けて去り、振り返って言うには、「朝に陝を下り、夕べにはこの賊を斬れ」と。朝義は恐れた。思明は駅舎に滞在し、寵愛する曹将軍に命じて警戒の銅鑼を打たせ、警備を叱咤させた。駱悦らは責められ、すぐに共に朝義を説得して言うには、「先の戦いに敗れ、悦らと王は死ぬ日も近い。曹将軍を召して共に大事を計らうのがよい」と。朝義は顔色を変えず応じなかった。悦は言う、「王が本当に忍びないなら、我々は唐に帰順し、王に仕えることはできません」と。朝義はこれを許し、季常に命じて言葉で曹将軍を動かさせた。曹将軍は諸将を恐れ、拒むことができなかった。思明は俳優の滑稽な芸を愛し、寝食も常に側におき、俳優たちはその残忍さを憎んでいた。その夜、思明は驚き、床に寄りかかって怒鳴った。俳優が理由を尋ねると、答えて言うには、「我は群鹿が水を渡る夢を見た。鹿は死に、水は乾いた。これはどういうことか?」と。やがて厠に行くと、俳優たちは互いに言うには、「胡の命も尽きるのか!」と。しばらくして、悦が兵を率いて入り、思明の居場所を尋ね、答えぬうちに数人を殺し、共に厠を指さした。思明は乱があると知り、壁を越えて出て、厩舎の下に至り、馬に乗って逃げようとしたが、悦の配下の周子俊がその腕を射て、墜落した。乱の起こりを尋ねられ、「懐王(朝義)である」と言うと、思明は言う、「朝に失言したから、このようなことがあるべきだ。しかし我を殺すのは早すぎる。長安に至らせてくれなかった」と。懐王と三度叫び、「我を囚人にすることはできても、父を殺す名を取るな!」と。また曹将軍を罵って「胡が我を誤らせた!」と言った。左右の者が反対に手を縛り、柳泉の駅舎に送った。悦が戻って報告すると、朝義は言う、「聖人(思明)を驚かせたか?聖人を傷つけたか?」と。悦は「ありません」と言った。時に周贄・許叔冀が後軍を率いて福昌に駐屯していた。季常は叔冀の子である。朝義は命じて彼らに告げさせた。贄は聞いて驚き、地面に倒れた。賊が兵を率いて戻ると、贄らは出迎えたが、悦は彼らが二心を持つことを憎み、贄を殺した。柳泉に至り、悦は衆の不満を恐れ、思明を絞殺し、毛氈で屍を包み、駱駝に背負わせて東京に戻した。朝義は即位し、元号を顕聖と建てた。

初め、思明の諸子には嫡庶の区別がなく、年少の者が尊ばれた。朝義は庶出の長子で、寛厚であり、下々の多くが付き従った。難が起こると、密かに向貢・阿史那玉に命じて朝清を謀らせた。朝清は狩猟を好み、残忍な点は思明に似て、淫乱と酒乱はそれを超え、配下に三千人を養い、皆が略奪を働き命を軽んじた。貢は計略を用いて言う、「上(思明)が王を太子にしようとしていると聞きます。しかも車駕(思明)は遠方におられます。王は入朝して侍るべきです」と。朝清はもっともだと思い、急いで配下を出して装備を整えさせた。貢は高久仁・高如震に命じて壮士を率いて牙城に入らせた。朝清はその理由を尋ねると、ある者が「軍が叛いたのです」と言った。そこで鎧を着て楼に登り、貢らを責めた。兵士が楼下に陣を敷くと、朝清は自ら射て数人を殺し、阿史那玉の軍は偽って敗走した。朝清が下りると、捕らえられ、母の辛氏と共に死んだ。張通儒は知らず、兵を率いて城中で戦い、数日で勝てず、また死んだ。貢が軍事を代行したが、間もなく、玉が襲ってこれを殺し、自ら長史となり、朝清殺害の罪を裁き、久仁をさらし首にし、軍中に示した。如震は恐れ、兵を擁して守りを固めた。五日後、玉は武清に敗走した。朝義は人を遣わして招くと、東都に至り、胡の面をした者は、老若を問わず皆誅殺した。李懐仙を幽州節度使とし、如震を斬り、幽州はようやく平定された。

朝義は虚心に礼を尽くして下に接し、事は皆大臣に決させたが、経略の才はなかった。この時、洛陽諸郡では人々が互いに食い合い、城邑は荒廃し、また諸将は皆禄山の旧臣で、思明と同輩の間柄であり、朝義に屈することを恥じ、兵を召してもすぐには来ず、幽州に戻ろうとした。

時に雍王が河東・朔方・回紇の兵十余万を率いて賊を討ち、僕固懐恩と回紇の左殺が先鋒となり、魚朝恩・郭英乂が後衛となり、黽池から進入し、李抱玉が河陽に迫り、李光弼が陳留を直進し、合流した。初め、代宗は南北軍の諸将を召して賊討伐の計略を問うた。開府儀同三司の管崇嗣は言う、「我が回紇を得れば、勝たぬことはありません」と。帝は「まだだ」と言った。右金吾大将軍の薛景仙は言う、「我が勝たねば、勇士二万を請うて賊の鋒先を衝き死にます」と。帝は「壮なるかな!」と言った。右金吾大将軍の長孫全緒は言う、「賊がもし城を背にして戦えば、必ず破れるであろう。もし城を閉ざして死守すれば、取ることはできない。また回紇は攻城が不得手で、持久すれば勢い沮喪するであろう。我がもし兵士を休め勢いを張って賊を引きつけ、光弼に陳留を取らせ、抱玉に河北を衝かせ、先にその手足を断ち、それから賊中に間者を放てば、彼らの中の脅従者は互いに疑い、滅亡を待つばかりです」と。帝は「よろしい」と言い、潼関・陝に戒厳を命じた。軍は洛陽に駐屯し、兵を駆って懐州を下し、王師の部隊は静粛で厳重であり、賊は懼色を見せた。

朝義は十万の兵で横水に防ぎ、戦って大敗し、捕虜と斬首は合わせて六万に及び、牛馬・器甲の放棄は数えきれなかった。朝義は明堂を焼き、東へ汴州に奔ったが、偽節度使の張献誠は受け入れず、濮から北へ幽州に向かった。東都は再び乱れ、英乂・朝恩らは軍を統制できず、回紇と共に掠奪をほしいままにし、鄭・汝にまで及び、里巷には煙さえ立たなかった。寒さが厳しく、人々は皆紙を継ぎ合わせ書物を剥いで衣とした。賊は下博に逃げ至り、僕固玚が追い付き、朝義はまた敗れた。河東の戍将李竭誠・成徳の李令崇は皆賊に背き、犄角の勢いで戦った。漳水に至り、舟がなく、諸将が降伏を勧めたが、朝義は喜ばなかった。田承嗣は車を環状に並べて陣営とし、内側に女子を車中に収め、輜重をその次に置き、伏兵を待たせた。戦って後退すると、王師がこれを追い、財宝を争奪した。賊は奇兵を率いて回り出て、また伏兵が現れ、王師は数十里退いて止まった。朝義は遂に莫州に逃れ、玚が追撃して包囲した。四十日を経て、賊は八度戦い八度敗走した。翌年正月、精兵を閲し、決死の覚悟を決めた。承嗣は朝義に言う、「自らぎょう鋭を率いて幽州に戻り、懐仙に因って兵五万を尽くして戻り戦い、外に声势を張れば、勝利は万全です。臣は堅守を請います。玚が強くとも、すぐには落とせません」と。朝義はこれを認めて受け入れ、騎兵五千を率いて夜に出発した。出発に際し、承嗣の手を握り、存亡を託した。承嗣は頓首して涙を流した。出発しようとして、また言う、「一族百口、老いた母と幼い子、今、公に託します」と。承嗣は承諾した。しばらくして、諸将を集めて言う、「我と公らは燕に仕え、河北の百五十余城を下し、人の墳墓を発き、人の家屋を焼き、人の玉帛を掠め、壮者は鋒刃に死に、弱者は溝壑に埋まり、公らの名門の貴族は我がために奴隷となり、斉の姜氏・宋の子氏(名門の女性)は我がために掃除をした。今、天が照覧する。我らはどこに帰順すべきか?古より禍福も常ならず、過ちを改め今を修めれば、これ危険を転じて安泰に就くことである。明朝には降伏しよう。公らはどう思うか?」と。衆は皆「善し」と言った。黎明、人を遣わして城上に叫ばせた、「朝義は夜半に逃げた。どうして賊を追わぬのか?」と。玚は信じなかった。承嗣は朝義の母と妻子を率いて玚の陣営に赴いた。そこで諸軍は軽兵を率いてこれを追った。

朝義が范陽に至ると、懐仙の部将李抱忠は城門を閉じて受け入れず、曰く、「先頃既に天子の命を受け、一年のうちに、降りてはまた叛き、二心三心これより甚だしいものがあろうか」と。朝義が飢えを告げると、抱忠は野に食糧を送った。朝義が食事をし、軍もまた食事をした。食事が終わると、軍の子弟は次第に辞して去った。朝義は涙を流して承嗣を罵りて曰く、「老奴が我を誤らせた」と。去って梁郷に至り、思明の墓を拝し、東に広陽へ走ったが、受け入れられなかった。両蕃に奔らんと謀りしに、懐仙がこれを招き、漁陽より回って幽州に止まり、医巫閭祠の下にて縊死した。懐仙はその首を斬りて長安に伝え、故将を召してその屍を収めしめた。懐仙は喪服を改めて出て次に立ちてこれを哭し、士卒皆号慟した。葬に及んで、その所在を知る者なし。偽恒州刺史張忠誌、趙州刺史盧俶、定州刺史程元勝、徐州刺史劉如伶、相州節度使薛嵩及び懐仙、承嗣等は皆その地を挙げて帰順した。思明父子の僭号は凡そ四年にして滅びた。朝義の死後、部送された将士の妻子百余口が官に送られ、有司は司農に隷属すべしと請うたが、帝は曰く、「これ皆良家の子、脅迫掠奪されて此に至ったものなり」と。命じて食糧を与えてその親に還し、帰る所なき者は、官が資を出して遣わした。

贊に曰く、禄山、思明は夷の奴隷と飢えた捕虜より興り、天子の恩幸を仮りて、遂に天下を乱せり。彼は臣をもって君に反することを能くし、その子も亦たその父を賊殺することを能くす。事の好還、天道固より然り。然れども生民の厄会は、必ず人手を仮るを要す。故に二賊は暴に興りて亟に滅びたり。張謂は劉裕を譏りて「近くは曹・馬に希い、遠く桓・文を棄て、禍は徒らに両朝に及び、福は未だ三載に盈たず、八葉その世嗣を伝え、六君寿を以て終わらず。天の報施、その明験なるかな」と。杜牧は謂う、「相工が随文帝は帝たるべきと称したのは、後に篡窃して果たして之を得た。周末、楊氏は八柱国を作り、公侯相襲うこと久し。一旦男子として位号を偷み窃み、三二十年ならずして、壮も老も嬰児も皆その死を得ず。彼の相法を知る者は、当に曰く『此れ必ず楊氏の禍とならん』と。乃ち善く人に相を為すべし」と。張・杜の確論は、今に至るまで多く之を称誦す。禄山、思明の如きは、劉裕、楊堅に希いて至らざる者なり。是を以てその論を著す。