盧杞
盧杞、字は子良。父の弈は『忠義傳』に見ゆ。杞は弁舌に優れ、容貌は甚だ醜く、鬼の如き面立ちに青黒き色、粗衣粗食を恥じず、人はその不自然さに気づかず、皆その祖父の風節有りと謂えり。蔭を藉りて清道率府兵曹参軍となり、仆固懐恩に辟せられて朔方府掌書記となるも、病にて免ず。鴻臚丞を補し、出でて忠州刺史となる。節度使の衛伯玉に謁すれど、伯玉喜ばず、乃ち謝して帰る。稍く吏部郎中に遷り、虢州刺史となる。虢州に官豕三千ありて民の患いとなすと奏す。徳宗曰く「沙苑に移せ」と。杞曰く「同州も亦た陛下の百姓なり、臣はこれを食らうに便なりと謂う」と。帝曰く「虢を守りて他州を憂う、宰相の材なり」と。詔して豕を貧民に賜う。遂に柄任の意有り。俄に召されて御史中丞となり、論奏すること合わざる無し。年を踰えて大夫に遷り、旬を閲ずして門下侍郎・同中書門下平章事に擢でらる。
志を得てより、険賊の性次第に露わす。賢者は冒し、能者は忌み、小しく己に忤う者は、死地に傅えざるを止めず。将に大いに威を樹て、衆を脅し権を市いて自ら固めんとす。楊炎と杞俱に政を輔くも、炎は杞の才下るを鄙み、悦ばず、半歳ならずして炎を譖りて罷めしむ。時に大理卿厳郢は炎と隙有り、即ち郢を擢でて御史大夫とし以て自ら助け、炎遂に逐われて死す。張鎰は材裕にして忠懿、帝の倚愛する所、間うる所以無し。会に隴右兵を用う、杞乃ち帝に見え、偽りて行かんことを請う、帝許さず、即ち鎰を薦めて鳳翔を守らしむ。既にして又郢を悪む。時に幽州の朱滔は泚と違言有り、その軍司馬蔡廷玉が間鬩するを誣り、これを殺さんことを請う。俄にして滔反す、帝はこれを斥けて以て滔を悦ばしめんと欲し、御史鄭詹を下して状を按ぜしめ、柳州司戸参軍に貶し、吏を敕して護送せしむ。廷玉は滔の所に送らるるを疑い、因りて自ら河に沈む。杞奏して、泚が詔にて殺さるるを疑わんことを恐れ、願わくは詹を下して三司に雑治せしめ、並びに大夫郢を劾せんとす。初め、詹は張鎰に善し、毎に杞の隙を伺い、独り鎰に詣る、杞これを知る。他日詹の来るを伺い、即ち径ちに鎰の便坐に至る。詹は趨りて避く、杞遽に機事に及ぶ、鎰已むを得ずして曰く「鄭侍禦在り」と。杞陽に驚きて曰く「向に言える所は、外の得て聞くべきに非ず」と。是に至りて並びに按ず。詔有りて詹は杖死し、郢は費州に流さる。杜佑は度支を判ず、帝特に寵礼す。杞は短毀すること百緒、遂に蘇州刺史に貶ぜらる。李希烈反す、杞は素より顔真卿の挺正敢言を悪む、即ち令してその軍を宣慰せしめ、遂に賊に害せらる。故宰相李揆は雅望有り、復用を畏れ、遣わして吐蕃会盟使と為し、行中に卒す。李洧は徐州を以て降り、経略する所有り、使人誤って先ず鎰に白す、杞怒り、これを沮解し、功を有からしめず。その狙害隠毒、天下痛憤せざる無く、杞が君を得たるを以て、故に敢えて言わず。
是の時兵は河南・北に屯し、挐えて解けず、財用日々急なり。ここにおいて度支は軍の仰給する所を条し、月費緡百余万、而して蔵銭纔かに三月を支うるのみ。杞乃ち戸部侍郎趙贊を以て度支を判ぜしめ、その党の韋都賓等建てて言う「商賈儲銭千万は、自業を聴くべし。千万を過ぐる者は、その贏を貣いて以て軍を済すべし。軍罷みて、約して官に償いを取らん」と。帝これを許す。京兆は暴にその期を責め、校吏は頸を大いに廛裏に捜し、占列尽さざるを疑えば、則ち笞掠す、人は冤に勝えず、自ら溝瀆に殞る者相望み、京師囂然として日を闕かず。然れども悉く田宅奴婢の直、緡止むところ八十万。又僦櫝・質舎・居貿粟する者、四つに其一を貣い、僅かに二百万に至る。而して長安は肆を閉じ、民皆宰相に邀えて祈訴す。杞諭すべき無く、駆りて去らしむ。帝民の愁忿を知り、而して得る所師に給するに足らず、これを罷む。贊術窮まり、ここにおいて間架・除陌の暴縱る。その法、屋二架を一間と為し、差してこれに税し、上は二千、中は千、下は五百、吏は籌を執りて第室に入りこれを計り、隠して尽さざれば、率いて二架を以て罪に抵い、告ぐる者には銭五万を畀う。凡そ公私貿易、旧法は率いて千銭に二十を算す、請う五十を加えん、主儈は售る所に註し、その算を有司に入る。その自ら相市するは、私籍を為して自ら言い、隠して尽さざれば、率いて千銭に二万を没し、告ぐる者には万銭を畀う。ここにおいて主儈はその私を操りて以て奸を為すを得、公上の入る所常に半を得ず、而して恨誹の声天下に満つ。及び涇師乱る、市に呼びて曰く「商人の僦質を奪わずんばあらず、間架・除陌を税せずんばあらず」と。その倡和造作して以て怨を召し乱を挻くは、皆杞の為す所なり。
帝奉天に出ず、杞と関播従う。後数日、崔寧賊中より来たり、播遷の事を指して杞に及ぶ、杞即ち寧の反を誣り、帝これを殺す。霊武の杜希全は塩・夏二州の士六千を率いて来赴す、帝議す所従うべき道を、杞は漠谷を道とせんことを請う。渾瑊曰く「然らず、彼は険多く、且つ賊に乗ぜられん、乾陵の北を道とし、雞子堆を踰えて屯するに如かず、これと掎角を為せば、賊破るべし」と。帝杞の議に従う、賊果たして隘に拒み、兵入るを得ず、奔りて邠州に還る。
李懐光河北より還り、数え賊を破り、泚解けて去る。或ひと王翃・趙讚に謂いて曰く「聞く懐光嘗て宰相の謀ること能わざるを斥け、度支の賦斂重く、而して京兆軍賜を刻損すと、宜しくこれを誅して以て天下に謝すべし。方に懐光功有り、上必ずその言を用いることを聴かん、公等殆うし」と。二人以て杞に白す。杞懼れ、即ち帝に譎して曰く「懐光の勲は宗社に在り、賊これに憚りて破胆す、今その威に因り、一挙にして定むべし。若し来朝を許さば、則ち犒賜留連し、賊は裒整残餘して完守の計を為すを得、これを図るは実に難し、席勝して京師を平げしむるに如かず、破竹の勢なり」と。帝これを然りとす。詔して懐光に朝すること無からしめ、進みて便橋に屯せしむ。懐光自ら千里勤難し、大功有り、奸臣に沮間せられ、一たびも天子に見えず、内に怏怏として発する所無く、遂に謀反し、因りて暴に杞等の罪悪を言う。士議嘩沸し、皆杞を指目す、帝始めて寤り、新州司馬に貶ず。
初めに、尚父郭子儀が病篤く、百官が見舞いに訪れたが、侍女を退けなかった。盧杞が至ると、侍女を退け、机にもたれて待った。家人が怪しんでその故を問うと、子儀は言った、「彼は外見は醜いが内は険悪であり、左右の者が見れば必ず笑うであろう。後に権力を得させれば、我が一族は生き残れぬであろう」と。
崔胤
崔胤、字は垂休、宰相崔慎由の子である。進士第に擢でられ、累遷して中書舎人・御史中丞となった。陰謀を好み、権勢ある者に附き従い、外見は自ら簡素で重厚に振る舞うが、内は険悪で詭譎、畏るべきものであった。崔昭緯が度々これを推薦し、戸部侍郎より同中書門下平章事となった。時に王珙兄弟が河中を争い、胤を節度使としたが、赴任できず、半年後、再び中書侍郎として留まり政務を補佐した。昭緯が罪により誅殺されると、罷免されて武安節度使となった。陸扆が国政を執る時、王室は振るわず、南司・北司がそれぞれ党派を立て藩鎮と結び、内で互いに脅し合った。胤は平素より朱全忠と厚く、心を委ねて結びついた。全忠が胤に功あり、外任に処すべからずと上言したため、再び宰相となり陸扆を追いやった。
光化初め、昭宗が華州より帰還し、反逆者を安んじようとしたが、胤は密かに全忠のために地歩を築き、四方征討の兵権を専有させた。帝はその行いを醜とし、罷免して吏部尚書とし、再び陸扆を頼りに宰相とした。時に清海に帥が無く、そこで胤を清海節度使に拝した。初め、昭緯が死んだ時、皆王摶らがその奸を明るみに出し、胤はこれにより罷免を賜り、内心恨みを抱いた。摶と共に宰相となってから、胤は宦官を悉く除くことを議したが、摶は助けず、徐々に図るよう請うた。この時、外任を望まなかった胤は、直ちにその言葉を全忠に漏らし、摶が勅使と交わり共に国を危うくしたと上奏させ、誅殺に値する罪とした。胤が湖南に滞在する時、召還されて司空・門下侍郎・平章事を守り、度支・塩鉄・戸部使を兼ね、摶を賜死させ、中尉宋道弼・景務修を誅殺した。これにより権勢は天下に震い、宦官もまた息を殺した。ここに至り、四度宰相に拝され、世に「崔四入」と謂われた。
劉季述が帝を東内に幽閉し、徳王を立てて国事を監させたが、全忠の強勢を恐れ、胤を深く怨んでも殺さず、政事を罷めるに止めた。胤は全忠に西進を促し、帝を幽閉した事情を問うた。全忠は張存敬に河中を攻撃させ、晋・絳を掠め取った。神策軍大将孫徳昭は常に宦官が天子を廃し辱めることを憤り、胤は判官石戩をして交遊させ、隙を窺わせた。徳昭は酒に酔えば必ず泣いたので、胤はその心情を推し量り、戩をして説かせた、「季述が天子を廃して以来、天下の人は未だ忘れず、武夫義臣は手を搏って憤慨している。今謀反した者はただ季述・仲先のみであり、他の者は威に脅かされただけで関与していない。君がこの機に乗じて二豎を誅し、天子を復位させ、功名を取らんか。即ち早く計らねば、これを行う者が現れよう」と。徳昭は感覚し、胤の謀り事を告げた。徳昭は承諾し、胤は帯を斬って誓った。間もなく季述・仲先が誅殺され、功により司徒に進んだが就かず、再び政務を補佐し、使職も全て還された。帝はその功に報い、引見して名を呼ばず、字で呼び、寵遇は比類無かった。
初め、天復の後、宦官は特に胤に屈して事え、事ごとに諮らなかったことは無かった。毎度禁中で政を議する時、燭を継ぐまで及び、宦官を尽く誅し、宮人に内司の事を掌らせるよう請うた。韓全誨らは密かにこれを知り、共に帝の前で哀願した。そこで詔して胤に以後は密封すべく、口陳せざるよう命じた。宦官は益々恐れ、その謀り事を得ようと、知書の美人宗柔らを内左右に置いて陰事を探らせた。胤の計略は次第に露見し、宦官は或いは相泣き頼る所無く、自ら安んぜず、帝を劫いて幸わせる謀は固まった。
華州に居た時、全忠のために数々の醜計を画策した。全忠が兵を引いて河中に屯すると、胤は渭橋で迎え謁し、觴を奉って全忠の寿を祝い、自ら歌って酒を釂した。時に茂貞が全誨らを殺し、全忠と和を約した。帝は急ぎこれを召し、墨詔四度、朱劄三度もあったが、皆病気を理由に辞した。帝が鳳翔を出で、全忠の軍に幸した時、道で迎え謁し、再び平章事に拝され、司徒に進み、六軍諸衛事を判じ、詔して家を右軍に移し、帷帳器用十車を賜った。胤は遂に奏上した、「高祖・太宗の時は内侍が軍を典せず、天宝の後宦官が次第に盛んとなり、徳宗は羽林衛を左右神策軍に分け、宦官にこれを主とさせ、二千人を率とした。その後機密に参与し、内務百司悉く中人に帰し、共に相い不法を縫い、朝廷微弱となり、禍はここに始まった。左右神策・内諸司使・諸道監軍を罷めんことを請う」と。ここにおいて中外の宦官は悉く誅殺され、天子の詔命を伝導するには、只宮人寵顔らを用いたのみであった。
帝が鳳翔に在った時、廬光啓・蘇検を宰相としたが、胤は皆これを逐い殺し、従幸の近臣陸扆ら三十余人を分けて斥け、ただ裴贄のみ孤立して制し得るとして留め、共に政を執らせた。帝の動静は一に胤に決し、敢えて言う者は無かった。胤は皇子を元帥とし、全忠を副とすべく議し、その功を褒め崇めることを示した。全忠は内に輝王の幼少を利とし、故に胤はこれに藉りて請うた。帝は言った、「濮王は年長であるが、如何に」と。禁中に還り、翰林学士韓偓を召して謀った。偓は陰に胤を佐けたが、遂に退けることはできなかった。全忠が東に還り、長楽に到ると、群臣は班を列ねて辞したが、胤のみは霸橋に至り酒宴を設け、乙夜になってようやく還った。帝は即ち召して問うた、「全忠は安否や」と。飲ませ、宮人に舞剣曲を命じ、戊夜になってようやく出で、二宮人を賜ったが、固く辞してようやく許された。この時、天子は孤危で、威令は尽く去り、胤の劫持する様はこの如きものであった。侍中・魏国公に進んだ。
鳳翔より還り、全忠の簒奪せんとするを揣り、己が宰相たるを顧み、一日禍に及ぶを恐れ、兵を握りて自ら固めんと欲し、謬りに全忠に謂ひて曰く、「京師は茂貞に迫り、備無きべからず、軍を募りて守らしむべし。今左右龍武・羽林・神策は、播幸の餘り、見兵無し。請ふらくは軍に四歩将を置き、将毎に二百五十人、一騎将を置き、将百人。番休して遞に侍らしめん」と。京兆尹鄭元規を以て六軍諸衛副使と為し、陳班を威遠軍使と為し、市に於て卒を募る。全忠其の意を知り、陽に然りと相許す。胤乃ち浮図を毀ち、銅鉄を取て兵仗と為す。全忠陰に汴人数百をして応募せしめ、其の子友倫を以て宿衛に入らしむ。会ひて球戯を為すに、馬より墜ちて死す。全忠胤の陰計を疑ひ、大いに怒る。時に胤の将に帝を挟みて荊・襄に幸せんとすと伝ふ。而して全忠方に乗輿を脅し洛に都せんと謀り、其の異議を懼れ、密に表して胤の権を専らにし国を乱すとし、誅するを請ふ。即ち罷めて太子少傅と為す。全忠其の子友諒をして兵を以て開化坊の第を囲ましめ、胤を殺す。汴士皆突出し、市人争ひて瓦礫を投げて其の屍を撃つ。年五十一。元規・陳班等皆死す。実に天復四年正月なり。
胤の罷むるより凡そ三日にして死し、死して十日、全忠帝を脅し洛に遷す。長安の居人を発して悉く東せしめ、屋木を徹して渭に循ひ河を下る。老幼路に係り、啼號絶えず、皆大罵して曰く、「国賊崔胤、全忠を導きて社稷を売り、我をして此に及ばしむ」と。是に先だち、全忠は河南に拠るといへども、強き諸侯の相持するを顧み、未だ敢へて国を移すを決せず。胤の内隙を間するに及び、相結び、其の禍に梯りて、朝権を取りて強大を成し、終に天下を亡ぼす。胤は身屠り宗滅す。世に言ふ、慎由晩年に子無く、異なる浮屠に遇ひ、術を以て求めしに、乃ち胤を生む、字は緇郎。相と為るに及び、其の季父安潜唶して曰く、「吾が父兄刻苦して門戸を持す、終に緇郎の為に之を壊さる」と。
崔昭緯
崔昭緯、字は蘊曜、其の先は清河の人なり。進士第に及ぶ。昭宗の時に至り仕へ浸く顕れ、戸部侍郎同中書門下平章事を以て、位に居ること凡そ八年、累進して尚書右僕射と為る。性険刻にして、密かに中人と結び、外には強き諸侯に連なり、内には天子を制して以て其の権を固む。族人鋋をして王行瑜の邠寧幕府に事へしむ。毎に他の宰相建議し、或は詔令己に便ならざる有れば、必ず鋋をして密に行瑜に告げしめ、上書して訾訐せしめ、己は則ち陰に阿りて之を助く。是の時に方り、帝室微なり。人主贅斿の若し。初め、帝杜讓能に委ねて兵食を調へて鳳翔を討たしむ。昭緯方に李茂貞・行瑜を重しと為して倚り、陰に其の計を得れば、則ち走りて之に告げ、激して兵を称して闕に向はしめ、遂に讓能を殺す。後又三鎮の兵を導きて韋昭度等を殺す。帝の性剛明にして、忍ぶに堪へず。会ひて行瑜を誅し、乃ち昭緯を罷めて右僕射と為す。復た朱全忠に己を薦めしむるを請ひ、又諸王に厚く賂り、為に奏せられ、梧州司馬に貶せらる。詔を下し其の五罪を条し、死を賜ふ。行きて江陵に次ぐに、使者至り、之を斬る。鋋も亦誅せらる。
柳璨
柳璨、字は炤之、公綽の族孫なり。人と為り鄙野にして、其の家諸柳を以て歯せず。少く孤貧にして、学を好み、晝は薪を採りて費を給し、夜は葉を然して書を照し、強記にして、通渉する所多し。劉子玄の『史通』を譏訶し、『析微』を著す。時に或は之を称す。顏蕘史館を判じ、直学士に引く。是に由りて益く知名と為る。左拾遺に遷る。昭宗文を好み、李磎を待つこと最も厚し。磎死し、内常に磎に似たる者を求む。或は璨の才高きを薦む。文を試みしに、帝善しと称し、翰林学士に擢す。
崔胤死し、昭宗密かに璨を宰相とするを許す。外知る者無し。日暮れ禁中より出づるに、騶士伝呼して宰相とす。人皆大驚す。明日、帝学士承旨張文蔚に謂ひて曰く、「璨の材用ふべし。今擢して相と為す。応に何の官を授くべけんや」と。対へて曰く、「賢を用ふるに資を計らざるなり」と。帝曰く、「諫議大夫は可ならんや」と。曰く、「唯唯」と。遂に諫議大夫同中書門下平章事を以てす。布衣より起り、是に至るまで四歳ならず。其の暴貴すること近世未だ有らざる所なり。裴樞・獨孤損・崔遠は皆宿望の旧臣、同位とす。頗る之を軽んず。璨内に怨みと為す。朱全忠簒殺を図る。宿衛士は皆汴人なり。璨一に厚く之を結び、蔣玄暉・張廷範と尤も相得る。既に全忠を挟む。故に朝権皆之に帰す。中書侍郎・判戸部に進み、河東県男に封ぜらる。
玄暉は、少く賤しく、其の系著を得ず。朱全忠に事へて腹心と為る。昭宗東遷するに、玄暉枢密使と為る。帝陜州に駐まる。術家星緯常ならず、且つ大変有らんと言ふ。宜しく須らく冬を待ちて洛に幸すべしと。帝全忠必ず簒せんと度り、衛官高瑰に帛詔を持たしめて王建に賜ひ、脅遷を告げ、且つ言ふ、「全忠兵二万を以て洛陽を治め、将に我が左右を尽く去らんとす。君宜しく茂貞・克用・行密と同盟し、檄を襄・魏・幽・鎮に伝へ、各軍を以て我を迎へ還し京師にせしむべし」と。又全忠に詔して、「后方娠す。須らく十月にして乃ち東すべし」と。全忠帝謀有るを知り、寇彦卿をして趣き迫らしむ。天子已むを得ず、遂に行く。谷水に抵る。全忠左右の黄門・内園小児五百人を尽く殺し、悉く汴兵を以て衛と為す。初め、全忠鳳翔に至り、邠州を侵す。節度使楊崇本降り、其の家を質とす。崇本の妻美し。全忠之と乱る。故に崇本怒る。是に至り使者を遣はして克用・茂貞と会し、南に趙匡凝及び建に告げ、兵を同く挙げて劫遷の状を問はしむ。全忠大いに懼る。
帝は自ら関を出て、不測を畏れ、常に黙坐して涙を流した。玄暉と張廷範は内情を探り、必ず全忠に告げた。全忠は帝に伝禅の意なきを恨み、乃ち弑して人望を絶つことを謀り、因って其の属李振をして玄暉に諭させた。玄暉は龍武統軍朱友恭・氏叔琮と夜に勇士百人を選び行在を叩き、急奏有りと称し、帝に謁見を請うた。宮門開き、門に十人の士を留めて守らしむ。椒蘭院中に至り、夫人裴貞一が関を啓くや、之を殺し、乃ち殿下に趨る。玄暉曰く「上は安在か」と。昭儀季漸榮曰く「院使、宅家を傷つける毋れ、寧ろ我を殺せ」と。士剣を持ちて入る。帝聞き、遽かに単衣を着て走り、柱を環り、遂に弑せらる。漸榮身を以て帝を蔽い、亦死す。復た后を執る。后哀を求む。玄暉、全忠の弑する者は帝なりと為し、乃ち后を釈す。明日、宰相対請うも、日晏れども出でず。玄暉遺詔を矯り、帝夜に昭儀と博し、貞一・漸栄に弑せらると言い、二人の首を出す。全忠河中より来朝す。振曰く「晋文帝高貴郷公を殺し、罪を成済に帰す。今宜しく友恭等を誅し、天下の謗を解くべし」と。全忠西内に趨り臨み、嗣天子に対し自ら弑逆は本謀に非ざるを言い、皆友恭等の罪なりとし、因りて泣下し、罪人を討たんことを請う。是時洛城旱し、米一斗直ち銭六百、軍に糴を掠むる者有り、都人の怨み有り、故に因りて以て衆を悦ばしめ、友恭・叔琮を執りて斬る。全忠九錫を邀う。玄暉自ら詔を持ち汴に趨り之を言う。洛に還りて日を淹めず、全忠詔を矯りて収め有司に付し車裂に処し、兇逆百姓に貶し、屍を都門外に焚く。
廷範は、優人として全忠に愛せられ、東遷に扈従して禦営使と為り、進みて金吾衛将軍・河南尹と為る。全忠之を以て太常卿と為さんと欲す。宰相裴樞之を不可とし持す。繇りて樞罷め去る。柳璨旨に希い詔を下し、中外妄りに流品の清濁を言うを得ざるを責め、卒に廷範を用いて太常卿と為す。天子将に郊祀せんとすに会い、之を以て楽県を修める使と為し、又蘇楷等と昭宗の謚を駁す。全忠九錫の緩きを恚る。王殷其の璨等と天を祀り唐の祚を延ばさんとすと譖る。玄暉死し・璨誅せらるるに及び、即ち廷範を萊州司戸参軍に貶し、河南市にて轘す。
叔琮も亦汴州の人、中和の末感化軍に隷し、騎士として奮い、性沈壮にして胆力有り。全忠に従い黄巢を陳・許の間に撃ち、名諸将に右し、親校と為るを得たり。時溥・朱宣と戦い、以て多きに累ねて表し検校尚書右仆射と為り、宿州刺史と為る。趙匡凝を襄陽に攻むるも克たず。又李克用と洹水に戦い、曹州刺史に遷る。天復初、澤・潞を抜き、太原を撃ち、晋慈観察使を授かる。全忠鳳翔に屯す。克用絳州を襲い、臨汾を攻む。叔琮沙陀に類する二壮士を以て原に馬を牧し、克用軍と偕に行き、隙を伺い各々一虜を禽えて還る。克用大いに驚き、伏有りやと疑い、遂に蒲に退き屯す。朱友寧兵三万を以て来援すに会う。叔琮曰く「賊遁く矣、以て功を立つる無し」と。乃ち潜師して夜に遊騎を獵し、数百を殺し、進みて其の壘を破り、俘斬万級し、馬三千を収め、遂に長駆して汾州を取り、転戦して太原に薄きて還る。検校司空に遷り、再び進みて保大軍節度使と為る。
全忠帝を洛に遷さんと欲し、表して右龍武統軍と為す。帝を弑するに与る。故に全忠請うて白州司戸参軍に貶し、之を斬る。叔琮将に死せんとして呼びて曰く「朱溫我を売りて以て天下の容を取る、神理何を謂うや」と。
友恭は、本は李彥威なり。寿州の人、汴州に客す。財を殖し任侠す。全忠愛して子の如く畜う。長剣都を領し、功を積み、表して検校尚書左仆射と為す。乾寧中、汝州刺史を授かり、検校司空と為る。楊行密鄂州を侵す。友恭兵万余を将いて杜洪を援け、江州に至り、還りて黄州を攻め、之に入り、行密の将を獲、俘斬万計す。又安州を襲い、守将を殺す。潁州刺史・感化軍節度留後に遷る。帝東遷す、左龍武統軍と為り、崖州司戸参軍に貶せらる。刑に臨みて曰く「溫我を殺す、当に亦族を滅すべし」と。又張廷範に語りて曰く「公行きて此に及ぶ」と云う。
【贊】
贊に曰く、木将に壞せんとすれば、蟲実に之を生じ、国将に亡ばんとすれば、妖実に之を産す。故に三宰兇を嘯き牝辰を奪い、林甫蕃を将いて黄屋奔り、鬼質謀を敗りて元興蹙り、崔・柳倒れに持ちて李宗覆る。嗚呼、国家有る者は、戒めざるべけんや。