許敬宗
許敬宗、字は延族、杭州新城の人である。父の善心は隋に仕えて給事中となった。敬宗は幼くして文を綴ることを善くし、大業年間に秀才に挙げられて及第し、淮陽書佐に任じられ、まもなく謁者臺に直り、通事舍人の事務を奏上した。善心が宇文化及に殺害されると、敬宗は哀願して死を免れ、去って李密に依り記室となった。武徳初年、漣州別駕を補任された。太宗はその名を聞き、召して文学館学士に任じた。貞観年間、著作郎に任じられ、国史の修撰を兼ね、喜んで親しい者に言った、「官に仕えて著作(郎)とならなければ、家門を成すことはできない」。まもなく中書舎人に改められた。文徳皇后の喪に際し、群臣は喪服を着たが、率更令の欧陽詢は容貌が醜く異様であったので、敬宗は侮り笑って平然としていたため、洪州司馬に貶された。累進して給事中となり、再び国史を修し、功労により高陽県男に封ぜられ、検校黄門侍郎となった。高宗が東宮に在った時、太子右庶子に遷った。高麗の役に、太子が定州で国事を監理すると、敬宗は高士廉と共に機要劇務を司った。岑文本が卒すると、帝は駅伝で敬宗を召し、本官のまま検校中書侍郎とした。駐蹕山で賊を破り、馬前で詔勅を起草することを命じられ、帝はその文藻の機敏さを愛で、これより誥令を専ら掌るようになった。
初め、太子承乾が廃されると、その官属の張玄素・令狐徳棻・趙弘智・裴宣機・蕭鈞は皆除名されて民とされ、再び用いられなかった。敬宗が言上して、玄素らは直言のために嫌疑と忌避を受け、今一様に罪を受けたのは、洗雪と宥免が十分でない疑いがあると述べた。帝は悟り、多く甄別して復官させた。高宗が即位すると、礼部尚書に遷った。敬宗は貪欲で、ついに娘を蛮族の酋長馮盎の子に嫁がせ、私的に多額の聘財を得た。有司が弾劾して挙げたため、鄭州刺史に左遷された。まもなく官に復し、弘文館学士となった。
帝が武昭儀を皇后に立てようとすると、大臣は強く諫めたが、敬宗はひそかに帝の心中を推し量り、即ち妄りに言った、「田舎者が十斛の麦を余分に獲れば、なお故き妻を替えようとする。天子は四海を富有し、一人の后を立てるのに、不可というのは、どういうことか」。帝の意は遂に定まった。王皇后が廃されると、敬宗は皇后の家の官爵を削り、太子忠を廃して代王を立てることを請い、遂に太子賓客を兼ねた。帝は望みを遂げたので、詔して敬宗を武徳殿西闥に待詔させた。間もなく侍中に拝され、国史の監修を務め、郡公に爵せられた。
帝が東の泰山に封禅するに際し、敬宗を使者を統率させた。濮陽に宿営した時、帝が竇徳玄に問うた、「ここを帝丘というのは、なぜか」。徳玄は答えなかった。敬宗がすぐさま言った、「臣はこれを知ることができます。昔、帝顓頊が初めてこの地に居り、天下を王としました。その後、夏の后相がこれに因り、寒浞に滅ぼされました。后緡がちょうど妊娠しており、竇(穴)から逃れ出たのが、この地です。その後、昆吾氏がこれに因り、夏の伯となりました。昆吾が既に衰えると、湯がこれを滅ぼしました。その頌に『韋・顧既に伐たれ、昆吾・夏桀』とあるのはこれです。春秋の時に至り、衛の成公が楚丘からここに遷り居ましたが、『左氏伝』に『相(夏の后相)が我が享(祭祀)を奪う』と称するのは、旧地だからです。顓頊の居られた所であるゆえに、帝丘と言うのです。臣は聞きます、徳ある者はその国土を開き、道を失う者はその疆宇を喪うと。古来より大都会や美しい国は、居る者が一姓に限らず、故に国家を持つ者は慎まざるを得ません」。帝が言うには、「『書経』に『濟・漯に浮かぶ』とあるが、今の濟と漯は断じてつながっていない。どうしてそうなったのか」。答えて言うには、「夏の禹が沇水を導いて東流させて濟とし、河に入りました。今、漯から温に入って河に至り、水はここで地中に伏流して河を越えて南に出て、滎となる。また伏流して曹・濮に至り、地中に散出して合流し東に向かい、汶水が南からこれに入る。いわゆる『溢れて滎となり、東は陶丘の北に出で、また東は汶に会う』というのがこれです。古くは五行に皆官があり、水官が職を失わなければ、味と色を弁別することができました。潜って出で、合してまた分かれること、皆識別できたのです」。帝が言うには、「天下の洪流巨谷は、祀典に載せられていないのに、濟は甚だ細いのに四瀆にあるのは、なぜか」。答えて言うには、「瀆とは独の意味です。他の水に因らず、独りで海に赴くことができるからです。かつて天には五星があり、運行して四時となる。地には五嶽があり、流れて四瀆となる。人には五事があり、用いて四支となる。五は陽数、四は陰数であり、奇偶・陰陽があるのです。陽は光り輝き、陰は晦く昧い、故に辰(星)は隠れて見えにくい。濟は潜流して屡々絶えるが、形状は微細であっても、独りで尊いのです」。帝が言うには、「善い」。敬宗は退いて、誇って言った、「大臣は学がなければならない。先ほど徳玄が答えられなかったのは、我が恥ずかしい」。徳玄はこれを聞き、潔しとせずに言った、「人にはそれぞれ能がある。知らないことを強いるのは、我が能ではない」。李勣が言うには、「敬宗は博識で、美しい。竇が強いらないのも、また善いことではないか」。
初め、『高祖・太宗実録』は敬播が撰し、信頼でき詳細であった。敬宗が自ら国史を担当するに及んで、不公平に改竄し、専ら私意を出した。初め虞世基と善心が共に賊害に遭った時、封徳彜が常に言った、「昔、我は世基の死に際し、世南が匍匐して代わりを請うのを見た。善心の死に際し、敬宗は踊り跳ねて生を請うた」。世に口実とされたので、敬宗は憤りを抱いた。『徳彜伝』を立てるに至り、盛んに悪事を誣いた。敬宗の子は尉遅敬徳の孫娘を娶り、娘は銭九隴の子に嫁いだ。九隴は本来高祖の隷奴であったが、虚偽の門閥や功績の状を立て、ついに劉文静らと同伝に至らせた。太宗が長孫無忌に賜った『威鳳賦』を、敬宗はみだりに敬徳に賜ったものと称した。蛮族の酋長龐孝泰が兵を率いて高麗討伐に従ったが、賊はその懦弱を笑い、襲撃して破った。敬宗はその金を受け取ったため、かえって「屡々賊を破り、唐の将で驍勇と言う者は蘇定方と孝泰のみで、曹継叔・劉伯英は彼らよりはるかに劣る」と称した。しかし貞観以後、諸書を論じ編纂し、晋から隋まで、及び『東殿新書』・『西域図志』・『姓氏録』・『新礼』など数十種は皆敬宗が総轄して知り、賞賜は数え切れなかった。
敬宗は邸宅を華美に過ぎるまでに営み、ついに連楼を造り、諸妓をしてその上を走馬させ、酒を放縦にし音楽を奏して自ら楽しんだ。婢を寵愛し、これをもって後妻とし、虞姓を仮称した。子の昂がこれと淫通したので、敬宗は怒って虞を追い出し、昂を嶺外に斥けることを上奏し、久しくしてようやく表を奉じて還した。
咸亨の初め、特進をもって致仕し、なお朔望に朝参し、その俸祿を継続させた。卒す、年八十一。帝は哀悼の礼を挙げ、詔して百官にその邸で哭することを命じ、冊贈して開府儀同三司・揚州大都督とし、昭陵に陪葬させた。太常博士袁思古が議して言うには、「敬宗は子を荒僥に棄て、女を蠻落に嫁がせた。謚して繆とすべし」と。その孫の彦伯が、思古に私怨ありと訴えたので、詔して再議させた。博士王福畤が言うには、「何曾は忠にして孝なりしが、日食萬錢を以て謚を繆醜とされた。ましてや敬宗は忠孝ともに棄て、飲食男女の累はこれを過ぎている」と。議を改めようとしなかった。詔があり、尚書省に雑議させ、謚を改めて恭とした。
彦伯は昂の子なり、頗る文才あり。敬宗は晚年に筆を下さず、凡そ大典冊は悉く彦伯がこれを作った。嘗て昂に戯れて言うには、「吾が兒は若しの兒に及ばず」と。答えて言うには、「渠の父は昂の父に如かず」と。後にまた婢の讒言を容れ、奏して彦伯を嶺表に流し、赦に遇って還り、累官して太子舍人となった。既に思古と恨みあり、路において邀撃せんと欲したところ、思古は言う、「吾は先子の為に仇を報いるのみ」と。彦伯は慚じて止んだ。
垂拱年中、詔して敬宗を高宗廟廷に配饗させた。
李義府
李義府は、瀛州饒陽の人である。その祖は嘗て射洪丞となり、因って永泰に客居した。貞觀年中、李大亮が劍南を巡察し、義府の才を上表し、対策に及第して、門下省典儀に補せられた。劉洎・馬周が更にこれを推薦し、太宗は召見し、監察御史に転じ、詔して晉王に侍らせた。王が太子となると、舍人・崇賢館直学士を除かれ、司議郎来濟とともに文翰に顕れ、時に「来李」と称された。『承華箴』を献じ、末に云う、「佞諛に類あり、邪巧多方なり。其の萌え絶えず、其の害必ず彰る」と。義府は方に太子に諂事していたが、文はあたかも讜直の者の如くに致し、太子はこれを上表し、優詔して帛を賜った。
高宗が立つと、中書舍人に遷り、国史を修め、弘文館学士に進んだ。長孫無忌に憎まれ、奏して壁州司馬に斥けられた。詔が未だ下らぬうち、義府は舍人王德儉に計を問うた。德儉は許敬宗の甥なり、癭ありて智あり、事を揣むに巧みで、因って言うには、「武昭儀が方に寵あり、上は立って后と為さんと欲するが、宰相の議を畏れ、これを発する由なし。君が建白すれば、禍を転じて福と為すなり」と。義府は即ち德儉に代わって夜直し、閣を叩いて上表し、后を廃し昭儀を立てることを請うた。帝は悦び、召見して語り、珠一斗を賜い、司馬の詔書を停め、留めて復た侍らせた。武后が既に立つと、義府は敬宗・德儉及び御史大夫崔義玄・中丞袁公瑜・大理正侯善業と相推轂し、其の奸を助け、骨鯁の大臣を誅戮棄てしめたので、后は志を肆にし威柄を攘取するを得、天子は衽を斂めた。
義府は貌は柔恭、人と言うときは嬉怡として微笑むが、陰賊褊忌なること心に著しく、凡そ意に忤う者は、皆これを中傷した。時に義府を「笑中刀」と号した。また柔にして物を害することにより、「人猫」と号した。
永徽六年、中書侍郎・同中書門下三品を拝し、広平県男に封ぜられ、また太子右庶子を兼ね、爵は侯となった。洛州の女子淳於が姦により大理に繋がれたが、義府はその美を聞き、丞の畢正義に命じてこれを出させ、妾として納れた。卿の段竇玄が状を以て聞こえた。詔して給事中劉仁軌・侍御史張倫に鞫治させた。義府は窮まらんとし、正義を逼って獄中に縊せしめ、始めの謀を絶たせた。侍御史王義方が廷劾したが、義府は咎を引かず、三たびこれを叱して、然る後に趨り出た。義方は極めて其の悪を陳べたが、帝は密かに義府に徳ありとし、故にこれを貸して問わず、義方を抑え、これを逐った。未だ幾ばくもせず中書令に進み、検校御史大夫を加え、太子賓客を加え、更に河間郡公に封ぜられ、詔して私第を造らせた。諸子は褓負の者も皆清官に補せられた。
初め、杜正倫が黄門侍郎たりしとき、義府は才だに典儀であった。及んでともに政を輔けるに及び、正倫は先進を恃んで相下らず、密かに中書侍郎李友益と図りて義府を去らんとしたが、反って誣えられ、帝の前で互いに訟った。帝は両者を黜け、正倫を横州刺史とし、義府を普州刺史とし、友益を峰州に流した。明年、召されて吏部尚書・同中書門下三品となった。母喪により免ぜられたが、喪を奪って司列太常伯・同東西臺三品とした。更に其の先祖を永康陵の側に葬り、県人の牛車を役して土を輸送し墳を築かせ、助役した者は凡そ七県に及び、高陵令は労に勝えずして死んだ。公卿は争って賵遺した。葬日の日、詔して御史に哭を節せしめた。送車と従騎と相銜い、帷帟奠帳が灞橋より三原に属すること七十里絶えず、芻偶の需盾、僭侈にして法に不法、人臣の送葬の盛なること比する者無かった。殷王が出閣すると、また府長史を兼ね、稍く遷って右相となった。
義府は既に貴くなり、乃ち趙郡より出づると言い、諸李と昭穆を叙し、嗜進の者は往々にして父兄の行として尊んだ。給事中李崇德は引きて同譜と為したが、既に普州に謫せられると、急ぎこれを削り去った。義府はこれを恨み、及んで復た国政に当たると、その罪を傅致し、獄中に自殺せしめた。貞觀年中、高士廉・韋挺・岑文本・令狐德棻が『氏族志』を修し、凡そ升降は、天下その議を允とした。ここにおいて州は副本を蔵して長式と為した。時に許敬宗は武后の本望を載せざるを以てし、義府もまた先世の叙せられざるを恥じ、更に奏して刪正させた。孔誌約・楊仁卿・史玄道・呂才等に委ねて其の書を定めさせ、唐に仕えて官五品に至る者は皆士流に昇らしめた。ここにおいて兵卒で軍功により進む者は、悉く書限に入れ、更に号して『姓氏録』とし、搢紳共に嗤い靳り、号して「勛格」といった。義府は奏して悉く前の志を収めて焼き絶たせた。魏の太和年中に望族を定めて以来、七姓の子孫は迭りに婚姻を為し、後には益々衰えたが猶相誇尚した。義府が子の為に求婚して得られず、遂に奏して一切禁止させた。
既に選を主ると、品鑒の才無く、而して溪壑の欲は、惟だ賄を利とし、復た銓判せず、人人諮訕した。また母・妻・諸子が官を売り獄を市い、門は沸湯の如し。永徽以後、御史は多く制授され、吏部には調註あれども、門下に至りて覆留せられなかった。義府は乃ち自ら御史・員外・通事舍人を註し、有司敢えて卻けず。帝は嘗て従容として義府に戒めて言うには、「卿が兒子女婿が法を橈り過失多しと聞く。朕は卿の為に掩覆するが、少しこれを勖めよ」と。義府は内に后に倚り、群臣に敢えて其の罪を白する者無きを揣り、帝の知るを虞れず、乃ち勃然として色を変え、徐かに言う、「誰か陛下に此れを道する者ぞ」と。帝は言う、「何ぞ用いん、我の従うを得る所を問わんや」と。義府は謷然として謝せず、徐かに引き去り、帝はここより悦ばず。
上元の初年、妻子の赦免を許され洛陽に還った。如意年間、義府に揚州大都督を、崔義玄に益州大都督を、王德儉と袁公瑜にそれぞれ魏州刺史・相州刺史を追贈し、それぞれ実封を賜った。睿宗が即位すると、詔してこれを停止した。末子の李湛については、『李多祚伝』に見える。
傅遊藝
傅遊藝は、衛州汲県の人である。載初の初め、合宮主簿から再び左補闕に昇進した。武后が政権を奪うと、すぐに上書して詭説(こじつけた説)で符瑞を述べ、后に姓を革めて天命を受けたことを明らかにすべきと勧めた。后は喜び、給事中に抜擢した。三ヶ月を経て、同鳳閣鸞臺平章事に進み、すぐに鸞臺侍郎を拝命した。后はついに唐を廃して周と称し、唐の宗廟を廃し、自ら皇帝と称した。遊藝に武氏の姓を賜り、兄の神童を冬官尚書とした。遊藝はかつて湛露殿に登る夢を見た。目覚めた後、親しい者に話した。彼が謀反を企てていると告発する者がおり、投獄されて自殺した。五品の礼をもって葬った。
初め、遊藝は后の意を探り、宗室を誣告して殺させた。また六道の使者を派遣するよう請うたが、后はついにその言葉を用いた。万国俊らが派遣されると、天下はその残酷さに苦しんだ。遊藝は一年のうちに、青から紫までの袍を賜り、人々は「四時の仕宦」と呼んだ。しかしその年のうちに敗れ、前代にも比類が少ないと言われた。
李林甫
李林甫は、長平粛王李叔良の曾孫である。初め千牛直長となり、母方の叔父の姜皎に愛された。開元の初め、太子中允に遷った。源乾曜が政権を執っていたが、姜皎と姻戚関係にあり、乾曜の子が林甫のために司門郎中を求めた。乾曜は平素から彼を軽んじており、「郎官は才能と声望のある者が得るべきもので、哥奴がどうして郎中の器量であろうか」と言った。哥奴は林甫の幼名である。すぐに太子諭徳を授け、累進して国子司業となった。宇文融が御史中丞となると、彼を同列に引き入れ、やがて刑部侍郎・吏部侍郎を歴任した。初め、吏部は長名榜を設け、留任と放出を定めていた。寧王が十人を私的に謁見させようとした時、林甫は「一人を退けて公平さを示したい」と言った。そこでそのうちの一人を掲示して、「王の嘱託を受けたため、冬集(任官候補者の冬季集会)を免ずる」と記した。
当時、武恵妃は後宮で寵愛を一身に集め、子の寿王と盛王は特に愛されていた。林甫は宦官を通じて妃に、「寿王を護り、万歳(陛下)のために計らうことを願う」と申し入れ、妃はその恩に感じた。侍中の裴光庭の夫人は武三思の娘で、かつて林甫と私通しており、高力士はもともと武三思の家の出身であった。光庭が死去すると、夫人は力士に林甫を代わりの宰相にするよう頼んだ。力士は敢えて発言しなかったが、帝が蕭嵩の言葉によって、自ら韓休を用いることにした。ちょうど詔書を作成している時、夫人はその言葉を林甫に漏らし、休のために請願させた。休が宰相となると、林甫の恩徳を重んじ、蕭嵩と不和であったので、林甫に宰相の才があると推薦した。妃が密かにこれを助け、すぐに黄門侍郎を拝命した。まもなく礼部尚書・同中書門下三品となり、さらに兵部尚書に進んだ。
皇太子と鄂王、光王が讒言を受けると、帝は彼らを廃そうとした。張九齢が強く諫めたので、帝は不機嫌になった。林甫は何も知らないふりをして、ひそかに宦官に「天子の家事に、外の者がどうして干渉できようか」と言った。二十四年、帝が東都にいた時、長安に還ろうとした。裴耀卿らが「農民の場圃(脱穀場や菜園)の仕事が終わっておらず、冬になるのを待つべきです」と建言した。林甫は仮に足を引きずり、一人後ろに残った。帝がその理由を尋ねると、答えて言った。「臣は病気ではありません。奏上したいことがあります。二都(長安と洛陽)は本来、帝王の東西の宮であり、車駕が行幸されるのに、どうして時を待つ必要がありましょうか。仮に農事に差し支えるなら、通過する地域の租賦だけを免除すればよいのです」。帝は大いに喜び、すぐに車駕を西に向かわせた。初め九齢は文学によって進み、正義を守り慎重であったが、林甫は特にへつらい巧みであったので、大任を得ることができた。常に九齢を嫉み、密かに害そうとした。帝が朔方節度使の牛仙客に実封を加えようとした時、九齢は林甫に「封賞は名臣の大功を待つべきもので、辺境の将軍が一度上考を得ただけで、すぐに議論できるでしょうか。必ず公と共に固く争いましょう」と言った。林甫は承諾したように見せかけた。進見した時、九齢が極力論じると、林甫は沈黙して抑え、退出後その言葉を漏らした。仙客は翌日帝に謁見し、泣いて辞退した。帝はますます仙客を賞したいと思い、九齢は認めなかった。林甫は人に言った。「天子が人を用いるのに、何が不可ということがあろうか」。帝はこれを聞き、林甫が専断しないことを良しとした。これによってますます九齢を疎んじ軽んじ、まもなく耀卿と共に政事から罷免され、林甫を専任し、仙客を宰相とした。初め、三人の宰相が就席すると、二人(耀卿・九齢)は腰をかがめて小走りに進んだが、林甫は中央で昂然として少しも譲らず、喜びが眉宇の間にあふれていた。見ていた者はひそかに「一羽の鷲が二羽の兎を挟んでいる」と言った。しばらくして詔書が出ると、耀卿と九齢は左右丞相として罷免された。林甫は嗤って笑い、「まだ左右丞相か?」と言い、怒りの目で見送ってやっと止まり、公卿は震え上がった。ここにおいて林甫は進んで中書令を兼ねた。帝はついに彼の言葉を用いて三人の皇子を殺し、天下の人はこれを冤罪とした。大理卿の徐嶠が妄言して言った。「大理寺の獄には殺気が盛んで、鳥雀も棲もうとしません。今、刑部が死刑を断ずるのは、年にわずか五十八件で、烏や鵲が獄戸に巣を作り、ほとんど刑罰が用いられない状態です」。群臣が帝を祝賀すると、帝は功労を大臣に推し、林甫を晋国公に、仙客を豳国公に封じた。
帝が太子を立てようとした時、林甫は帝の意を探り、しばしば寿王を称賛した。その言葉は秘密で伝わらなかったが、帝の意は自ら忠王に属しており、寿王は立てられなかった。太子が定まると、林甫は謀が行われなかったことを恨み、かつ禍を恐れ、表面上韋堅に親しくした。堅は太子妃の兄であった。要職に就かせ、その家を滅ぼして、東宮を揺るがそうとした。そこで堅の罪をでっち上げたが、太子は妃を離縁して自らの潔白を明らかにしたので、林甫の計略は失敗した。杜良娣の父の杜有鄰は婿の柳勣と仲が悪かった。勣は軽薄で危険な人物で、林甫を助けようとして、有鄰が変事を謀っていると上告し、捕らえて詔獄に送り賜死させた。裴敦復や李邕らを引きずり込み、これらは皆林甫が平素から忌み嫌っていた者で、連座して殺した。太子も良娣を出して庶人とした。まもなく、済陽別駕の魏林をそそのかし、河西節度使の王忠嗣が兵を擁して太子を助けようとしていると誣告させた。帝は信じなかったが、それでも忠嗣は斥けられた。林甫はしばしば「太子は謀略を知っているはずです」と言った。帝は「我が子は内にいるのに、どうして外の者と通じることができようか。これは妄言だ」と言った。林甫はしばしば太子を危うくしようとしたが、志を得られなかった。ある日、何気なく言った。「古くは儲君を立てるには必ずまず賢徳を重んじ、宗廟社稷に対して大功がなければ、長子に及ぶものはありません」。帝はしばらくして「慶王は往年狩猟中に、豽(テンか)に顔面をひどく傷つけられた」と言った。林甫は答えて「顔を破ることは国を破るよりましではありませんか」。帝はかなり惑わされ、「朕はゆっくり考えよう」と言った。しかし太子は自ら謹厳で孝行であると評判で、内外に悪意ある言葉がなく、故に流言蜚語は入り込めず、帝もその猜疑心を発揮する機会がなかった。
林甫は上意を探るに巧みであり、時に帝は春秋高く、政務を聴き裁くことにやや倦み、規律を厭い、大臣との接対を重んじたが、林甫を得てよりは、疑うことなくこれを任用した。林甫は君の欲望を養うに善く、ここより帝は深居して安逸に耽り、衽席に沈溺し、君主の徳は衰えた。林甫は奏請するごとに必ずまず左右の者に贈り物をし、微かな意向を窺い探って恩信を固め、饔夫や禦婢に至るまで厚く懇ろにしたので、天子の動静は必ず詳細に知り得た。性質は陰密で、誅殺を忍び、喜怒を見せない。顔つきは柔らかで温和、初めは親しみやすそうであるが、既に崖や落とし穴のように深く険阻で、ついには近づくことができない。公卿でその門を経由せずに進んだ者は、必ず罪を得て左遷され、付き従う者は、たとえ小人であっても引き立てられた。同時の宰相たる九齢、李適之らは皆追放され、楊慎矜、張瑄、盧幼臨、柳升らに至っては連座して数百人、相次いで誅殺された。王鉷、吉溫、羅希奭を爪牙とし、しばしば大獄を起こし、士大夫は息をひそめた。適之の子の霅がかつて盛大に宴席を設けて賓客を招いたが、林甫を恐れて、終日一人として往く者無かった。林甫には偃月のような堂があり、月堂と号した。大臣を排斥し陥れようとするたびに、ここに居て、中傷する方法を考えた。もし喜んで出て来れば、その家は潰れたのである。子の岫は将作監となり、権勢の盛んなるを見て、恐れ慄き、常に後園に従って遊んだ時、輦を引く者を見て、跪いて涙を流して言うには、「大人が位に居ること久しく、枳棘が前に満ちています。一旦禍い至れば、この人のようになりたいと思っても得られましょうか」と。林甫は快からずして言うには、「勢いは既にこうなった、どうしようもない」と。
時に帝は天下の士で一芸ある者を闕下に詣でさせ選任することを詔したが、林甫は士が詔に対しあるいは己を指弾することを恐れ、即ち建言して言うには、「士は皆草茅の徒で、禁忌を知らず、ただ狂言を以て聖聴を乱すのみです。全て尚書省長官に委ねて試問させてください」と。御史中丞に監総させたが、一人として程に中る者は無かった。林甫はこれにより上を賀し、野に留まる才無しと為した。まもなく隴右・河西節度使を兼ねた。右相に改め、節度使を罷め、累ねて開府儀同三司を加えられ、実封三百戸を賜った。
咸寧太守趙奉璋は林甫の隠れた悪事二十条を得て、これを言おうとしたが、林甫は御史を唆して奉璋を捕らえ繫ぎ、妖言を劾して死罪に当てた。著作郎韋子春は厚く善しとしたことで連坐し貶された。帝がかつて勤政楼で大いに楽を陳べ、罷めた後、兵部侍郎盧絢が轡を按じて道を横切り去った。帝はその風采を愛で、これを称美した。明日、林甫は絢の子を召して言うには、「尊府は平素より声望があり、上は交州・広州の任に就かせようとしている。もし行くのを憚るなら、しばらく老齢を理由に辞職を請うがよい」と。絢は恐れ、これに従った。これにより華州刺史として出され、まもなく太子員外詹事を授けられ、絢はこれにより廃された。当時、材能と誉れで聞こえる者がいると、林甫は先んじることを護り、皆天子に得て遠ざけさせたので、在位中その恩寵に比ぶ者無かった。凡そ御府が貢進する遠方の珍しい鮮物は、使者が伝えて賜るのが相望んだ。帝が食べて美味しいものがあると、必ずこれを賜った。かつて百官に詔して尚書省で歳貢を閲覧させ、既にして挙げた貢物を悉く林甫に賜り、輦に載せてその家に運ばせた。華清宮に従幸した時は、御馬・武士百人・女楽二部を与えられた。薛王の別荘は京師で最も勝れて麗しく、これを林甫に賜り、他の邸第・田園・水硙も皆便利で上等の肥えた土地であった。車馬衣服は侈靡で、特に声伎を好んだ。侍姫は房に満ち、男女五十人。故事では、宰相は皆元勲盛徳の者で、権威に務めず、出入りの騎従は簡素で少なく、士庶もあまり避け引かなかった。林甫は自ら怨みを結ぶ者が多いのを見て、刺客が密かに発することを憂え、その出入りには、広く騶騎を配し、百歩先を先駆けさせ、声を伝えて衛りを清めさせ、金吾が清道し、公卿は避けて走った。居所には重関復壁を設け、板を絡め石を積み、一晩に二度も移り、家人も知らなかった。ある時帝が朝せずとも、諸司の要官は悉くその門に走り、台省は空となった。左相陳希烈は府に坐していても、ついに一人も入って謁する者は無かった。
林甫は学術無く、発言は陋鄙で、聞く者は窃かに笑った。苑咸・郭慎微を善しとし、書記を主らせた。然れども文法に練達し、その人を用いるに諂い附く者でない者は一様に格令を以てこれを取り扱ったので、小さな綱目は甚だ乱れず、人はその威権を畏れた。久しくして、また安西大都護・朔方節度使を兼ねた。まもなく単于副大都護を兼ねたが、朔方副使李献忠が反したため、節度使を辞退して返上した。
初め王鉷に厚くし、尽力した。及んで鉷が敗れると、詔して宰相にその罪状を治めさせた。林甫は大いに懼れ、鉷と面会することを敢えず、獄が決して署名するにも、また申し救うところ無かった。これにより楊国忠を代わりに御史大夫とした。林甫は国忠の材能が弱いと見做し、畏れるところ無く、また貴妃の故にこれを善しとした。及んでその権勢益々盛んとなり、貴さ天下に震うに及び、初めて悪しみ交わすこと仇敵の如くになった。然れども国忠は方や剣南節度使を兼ねており、南蛮が寇したので、林甫はこれに因んで鎮守に派遣することを建言し、離間しようとした。国忠が入朝して辞すと、帝は言うには、「処置が終わったら、急いで還れ。指日を待って卿を待つ」と。林甫はこれを聞いて憂い悶えた。この時既に疾に属し、次第に侵された。会に帝が温湯に幸し、詔して馬輿に従わせ、御医と珍膳が続いて至り、詔旨を以て慰問し、中官が起居を護った。病が劇すると、巫者が疾を見て言うには、「天子を見れば少し良くなるでしょう」と。帝はこれを見ようとしたが、左右が諫めて止めた。乃ち詔して林甫を廷中に出させ、帝は降聖閣に登り、絳巾を挙げてこれを招いた。林甫は起き上がることができず、左右が代わって拝した。まもなく国忠が蜀より至り、林甫の床下に謁して、涙を垂れて後事を託し、これにより食を絶って卒した。諸子が護って京に還り喪を発し、太尉・揚州大都督を贈られた。
林甫が相位に居ること凡そ十九年、寵を固め権を売り、天子の耳目を蔽い欺き、諫官は皆禄を保ち資を養うのみで、敢えて正言する者無かった。補闕杜琎が再び上書して政事を言うと、下邽令に斥けられた。これにより言葉を以てその余の者を動かして言うには、「明主が上に在り、群臣は順うに暇無く、また何を論ずることがあろうか。君らは独り立仗馬を見ないのか、終日声無くして、三品の芻豆に飽き足り、一声鳴けば、則ちこれを黜す。後になって鳴かずにいようとしても、得られようか」と。これにより諫争の路は絶えた。
貞観以来、蕃将を任ずる者は阿史那社爾・契何力の如きは皆忠力を奮って奮ったが、然れども尚上将とは為らず、皆大臣が総制したので、上には余権を以て下を制するに足りた。先天・開元中、大臣たる薛訥・郭元振・張嘉貞・王晙・張説・蕭嵩・杜暹・李適之らは、節度使より入って天子の相となった。林甫は儒臣が方略を以て辺境の労を積み、且つ大任に就くことを疾み、その本を杜って己の権を久しくせんと欲し、即ち帝に説いて言うには、「陛下の雄材を以てし、国家富強なるに、夷狄未だ滅びざるは、文吏を将と為すが故で、矢石を憚り、身を先にせざるからです。蕃将を用いるに如かず。彼らは生まれながらにして雄々しく、馬上に養われ、行陣に長じるは、天性然り。若し陛下感ずる所あってこれを用い、必ず死せしめれば、夷狄は図るに足りません」と。帝はこれを然りとし、これにより安思順に代わって林甫に節度を領させ、而して安禄山・高仙芝・哥舒翰らを抜擢して専ら大将と為した。林甫は彼らが胡虜であることを利とし、入相の資が無いので、故に禄山は三道の勁兵を専有し、十四年間動かず、天子は林甫の策を安んじ、疑わず、ついに兵を称して天下を蕩覆し、王室は遂に微となった。
初めに、林甫は色白で髯のある人物が己に迫る夢を見た。覚えて探し求めると、裴寬が夢に似ているのを得て、「寬は我を代わろうとしている」と言い、李適之の党に因って之を追いやった。その後、楊國忠が林甫に代わったが、容貌は寬に似ていたという。國忠は元より林甫を恨んでおり、未だ葬られぬうちに密かに安祿山にその短所を暴かせた。祿山は阿布思の降将をして朝に入らせ、林甫が思と父子の約を結び、異謀有りと告げさせた。事は有司に下り、その婿の楊齊宣は恐れて、妄りに林甫が上を厭い呪ったと言い、國忠はその奸を弾劾した。帝は怒り、詔して林甫が淫祀厭勝を行い、叛虜と結び、宗社を危うくせんと図ったとし、悉く官爵を奪い、棺を切り開いて含珠と金紫を取り去り、更に小槥に換え、庶人の礼をもって之を葬らせた。諸子の司儲郎中・太常少卿の嶼及び岫等は悉く嶺南・黔中に徙され、各奴婢三人を給し、その家を籍没した。諸婿の張博濟・鄭平・杜位・元撝、属子の復道・光は皆官を貶された。
博濟もまた憸薄で自ら放肆であった。戸部郎中となり、部に考堂有り、天下の歳会計を行う処であったが、博濟は之を廃して員外郎中の聴事とし、壮偉華敞で、供応の豊侈は千品に至った。別に都水監の地を取って考堂とし、諸州の籍帳の銭を費やすこと莫大で、有司は敢えて言わなかった。
帝の蜀に幸するに当たり、給事中裴士淹は弁学をもって寵遇を得た。時に肅宗は鳳翔に在り、毎に宰相を命ずるに、輒ち啓して聞かせた。房琯が将となるに及んで、帝は曰く「此れ賊を破るの才に非ず。若し姚元崇在らば、賊は滅ぼすに足らず」と。宋璟に至っては、「彼は直を売って以て名を取るのみ」と言い、因って十余人を歴評し、皆当たっていた。林甫に至り、「是の子は賢を妬み能を疾み、挙ぐるに比する者無し」と言う。士淹、因って曰く「陛下誠に之を知るならば、何ぞ久しく任すや」と。帝は黙して応えず。
至德中、両京平らぎ、大赦有り、唯だ祿山の支党及び林甫・楊國忠・王鉷の子孫は原赦せられず。天寶の時、嘗て玉を鏤りて玄元皇帝及び玄宗・肅宗の像を太清宮に作り、復た林甫・陳希烈の像を琢って左右の序に列ねた。代宗の時、或る者言う「林甫陰険にして、嘗て先帝に不利を図り、宗廟殆うく危うからんとした。奈何ぞ今に至るまで像を留めんや」と。詔有りて宮中に埋めた。廣明初、盧攜が太清宮使となり、地を発して其の像を得、輦に載せて京兆に送り毀たせたという。
陳希烈
陳希烈は、宋州の人である。博学で、特に黄老を深くし、文章に巧みであった。開元中、帝は経義に思いを蓄え、褚無量・元行沖が卒してより、希烈と康子元・馮朝隱が禁中に進講し、その詔問に応答し、微隠を敷き尽くすは、皆希烈が之に章句を為した。累遷して中書舍人となり、十九年に集賢院学士となり、進んで工部侍郎、知院事となった。帝に撰述有る度に、希烈は必ず助成した。門下侍郎に遷った。
林甫が朝を専らにするに及び、苟くも専制に用いる可き者を、引いて共に政を為さしめた。希烈が柔易なるを以て、且つ帝の眷み厚きにより、乃ち之を薦めた。五載、同中書門下平章事に進み、左丞相兼兵部尚書、許國公に遷り、又秘書省図書使を兼ね、寵は林甫と侔しかった。林甫は位に居ること久しく、その陰詭は固より自らを固うするに足りたが、亦た希烈が左右した。楊國忠が執政し、素より之を忌み、希烈は引いて避け、國忠は即ち韋見素を薦めて相に代え、罷めて太子太師となった。希烈は職を失い、内に忽忽として頼む所無し。祿山が京師を盗むに及んで、遂に達奚珣等と偕に賊の相となった。後、罪を論じて斬に当たるも、肅宗は上皇が素より遇したるを以て、家に於いて死を賜うた。