新唐書

巻二百二十二中 列傳第一百四十七中 南蠻中

南詔 續

元和三年、異牟尋死す。詔して太常卿武少儀に節を持たせて弔祭せしむ。子の尋閣勸立つ。或いは夢湊と謂う。自ら「驃信」と称す。夷語にて君なり。元和の印章を改めて賜う。明年死す。子の勸龍晟立つ。淫肆にして道に悖り、上下怨疾す。十一年、弄棟節度使王嵯巔に殺され、その弟の勸利を立てしむ。詔して少府少監李銑を冊立弔祭使とす。勸利は嵯巔を徳とし、蒙の氏を賜い、「大容」に封ず。蠻にて兄を「容」と謂う。長慶三年、初めて印を賜う。是歳死す。弟の豐祐立つ。豐祐は趫敢にして、その下を用いるに善く、中国を慕い、父の名を連ねるを肯わず。穆宗、京兆少尹韋審規を使わし節を持たせて臨冊せしむ。豐祐、洪成酋・趙龍些・楊定奇を遣わして天子に謝す。

ここに於いて、西川節度使杜元穎は治績無く、障候弛沓して相蒙る。時に大和三年なり。嵯巔乃ち衆を悉くして邛・戎・巂の三州を掩い、これを陥す。成都に入り、西郛に十日止まり、居人を慰賚し、市は擾肆せず。将に還らんとす。乃ち子女・工技数万を掠めて引きて南にゆく。人懼れて自殺するもの数え勝たず。救兵逐う。嵯巔身自ら殿し、大度河に至り、華人に謂いて曰く「此れ吾が南境なり。爾ら国を去るに当たり、哭すべし」と。衆号慟し、水に赴きて死するもの十三。南詔は是より工文織に巧みにて、中国と埒す。明年、表を上りて罪を請う。比年使者来朝す。開成・会昌の間再び至る。

大中の時、李琢安南経略使となり、苛墨にして私に利し、斗の塩をもって一牛を易う。夷人堪えず、南詔の将段酋遷と結び安南都護府を陥し、「白衣没命軍」と号す。南詔は朱弩佉苴三千を発して守りを助けしむ。然れども朝貢は猶歳毎に至り、従者多し。杜悰西川より入朝し、表して蛮傔を多く内すべからずとす。豐祐怒り、即ち慢言して質子を索む。会に宣宗崩じ、使者哀を告ぐ。是の時、豐祐亦死し、坦綽酋龍立つ。朝廷の弔恤せざるを恚り、又詔書は乃ち故王に賜うものなり。草具をもって使者に進めて遣わす。遂に僭して皇帝を称し、建元して建極とし、自ら大礼国と号す。懿宗その名の玄宗の嫌諱に近きを以て、朝貢を絶つ。乃ち播州を陥す。安南都護李鄠武州に屯す。咸通元年、蛮に攻められ、州を棄てて走る。天子鄠を斥け、王寬を以てこれに代う。明年、邕管を攻め、経略使李弘源兵少なくして拒ぐ能わず、巒州に奔る。南詔亦引き去る。詔して殿中監段文楚を経略使とす。数え条約を改む。衆悦ばず。胡懷玉を以てこれに代う。南詔辺人の困窮甚だしきを知り、剽掠するもの無く、寇せず。杜悰国を当たり、帝に謀り、使者を遣わし弔祭して恩信を示し、並びに詔して驃信に名の嫌うところあるを以て、冊命は未だ挙ぐべからず、必ず名を易えて乃ち封を得べしとす。帝乃ち左司郎中孟穆に命じ節を持たせて往かしむ。会に南詔巂州を陥す。穆行かず。

安南桃林の人、林西原に居り、七綰洞の首領李由獨これを主る。歳々辺を戍る。李琢の安南に在りしとき、防冬の兵六千人を罷むるを奏し、由獨を以て一隊に当たらしめ、蛮の入るを遏ぐべしと謂う。蛮酋、女を由獨の子に妻せしむ。七綰洞挙げて蛮に附く。王寬制す能わず。三年、湖南観察使蔡襲を以てこれに代え、諸道の兵二万を発して屯守せしむ。南詔怛畏して出でず。

会に詔して左庶子蔡京に嶺南を経制せしむ。襲の功を忌み、欲する所あり、これを沮壞し、乃ち言す「南方自ら虞無し。武夫幸功に乗じ、多く兵を聚めて饋運を耗す。戍兵を還して財用を惜しむを請う」と。襲執て不可とし、五千の兵を留めんことを願い、累表すれども報いず。即ち極めて陳す、南詔隙を伺うこと久しく、十の必死の状有りと。朝廷昏肆にして省みず。京還り奏す。得意甚だし。復詔して宣慰安撫使とす。即ち建てて広州を析きて嶺南東道とし、邕州を西道とし、龔・象・藤・巖を隷州とす。乃ち京を西道節度使に拝す。京褊忮貪克にして、条令を峻にし、炮熏刳斮の法を為し、下愁毒す。軍中に逐われ、藤州に走る。矯制して攻討使の印を作り、郷兵を召し比道の軍を以て邕州を攻むるも克たず。衆潰く。貶されて崖州に死す。桂管観察使鄭愚を以て節度に代う。

南詔交州を攻め、進んで安南を略す。襲救いを請う。湖・荊・桂の兵五千を発して邕州に屯せしむ。嶺南韋宙奏す「南詔必ずや邕管を襲わん。近きを防がずして遠きを図れば、虚を搗たれて糧道を絶たれ、且つ深く入らんことを恐る」と。乃ち詔して襲に軍を海門に按ぜしめ、詔して鄭愚に分兵してこれを禦えしむ。襲師の済るを請う。山南東道の兵千人を以てこれに赴かしむ。南詔の酋将楊思僭・麻光高、兵六千を以て城に薄きて屯す。四年正月、攻むること益々急なり。襲、異牟尋の盟言を録し矢に系してその営に射ち入るるも、答えず。俄にして城陥つ。襲、宗を闔して死者七十人。幕府の樊綽、襲の印を取って江を渡り走る。荊南の兵東郛に入り苦戦し、南詔二千級を斬る。是の夜、蛮遂に城を屠る。詔有りて諸軍に嶺南を保たしめ、更に秦州経略使高駢を以て安南都護とす。帝輸発の頻なるを見て、遊幸を罷め、楽を奏せず。宰相杜悰以て是に非ずとし、これを止む。

南詔稍く邕州に逼る。鄭愚自ら陳す、将帥の才に非ず、願わくは更に人を択ばんと。会に康承訓義成より来朝す。乃ち嶺南西道節度使を授け、荊・襄・洪・鄂の兵万人を発してこれに従わしむ。承訓兵寡なきを辞す。乃ち大いに諸道の兵五万を興して往かしむ。六月、行交州を海門に置き、進めて都護府とし、山東の兵万人を調えて益々戍らしめ、容管経略使張茵を以てこれを鎮めしむ。因って命じて安南を経略せしむ。茵逗留して敢えて進まず。安南の陥ちしとき、将吏遺人多く溪洞に客伏す。詔して所在にて招き還し救恤せしめ、安南の賦入を二年免ず。

韋宙、兵を分かちて容・藤に屯し蛮の勢いを披かんことを請う。五年、南詔回りて巂州を掠め以て西南を揺がす。西川節度使蕭鄴、属蛮の鬼主に率いられて南詔を大度河に邀え、これを敗る。明年、復た来りて攻む。会に刺史喻士珍貪獪にして、陰に両林東蛮の口を掠め縛りてこれを売り、以て蛮の金に易う。故に門を開きて降る。南詔戍卒を尽く殺す。而して士珍遂に蛮に臣す。安南久しく屯し、両河の鋭士瘴毒に死するもの十七。宰相楊收議して北軍を罷め、江西を以て鎮南軍とし、強弩二万を募りて節度を建て、且つ地便近にして、調発易しとす。詔して可とす。夏侯孜亦張茵の懦なるを以て事に足らざるとし、悉く兵を高駢に授く。駢選士五千を以て江を渡り、林邑の兵を邕州に敗り、南詔の龍州の屯を撃つ。蛮酋資畜を焼きて走る。酋龍、楊緝思を遣わし酋遷を助け共に安南を守らしめ、範胒些を以て安南都統とし、趙諾眉を扶邪都統とす。七年六月、駢交州に次ぐ。戦数え勝ち、士酣闘し、その将張詮を斬る。李溠龍衆万人を挙げて降る。波風の三壁を抜く。緝思出でて戦い、敗れて還り城に走る。士これに乗じ、堞を超えて入り、酋遷・脆些・諾眉を斬り、首三万級を上る。安南平ぐ。

初めに、酋龍は清平官の董成ら十九人を派遣して成都に至らせた。節度使の李福は廷上で彼らを引見しようとしたが、董成は辞して曰く、「皇帝は天命を奉じて正朔を改められました。どうか敵国の礼をもって引見されるようお願いいたします」と。福はこれを許さず、通訳を五度往復させたが、日は暮れ兵士は疲れ、議論は決しなかった。福は怒り、武士に命じて彼らを捕らえて辱め、械をかけて館に拘禁した。やがて劉潼が福に代わって節度使となると、直ちにその拘束を解き、上表して彼らを釈放して帰国させた。詔があり、董成らを京師に召し寄せ、別殿で引見し、賜り物は良く厚く、慰めて帰国させた。

翌年、酋龍は楊酋慶らを派遣して、囚人の釈放を謝しに来た。初め、李師望が建言した、「成都は蛮事を総括していますが、日を費やしても決断できません。どうか邛・しょく・嘉・眉・黎・雅・巂の七州を分けて定辺軍とし、節度使を立てて機事を制させ、近くかつ迅速に対処させてください」と。天子はこれを良しとし、直ちに詔して師望を節度使とし、邛州に治所を置かせた。邛州は成都からわずか五舎(百二十五里)の距離であるが、巂州は最も南にあり、邛州からは千里も離れており、緊急時には首尾相応じることができない。しかし師望は専制の利を貪り、このことを隠して言わなかった。収奪は飽くことを知らず、私的な賄賂は百万を数えた。また、蛮の怒りを煽って、幸いに功績を得ようと企て、楊酋慶らを殺害した。やがて戍兵が怒り、師望をひしおにして憤りを晴らそうとしたが、ちょうど召還され、竇滂が代わった。滂は貪欲で不法なこと師望より甚だしく、誅責は苛細で師望より酷かった。当時、蛮の侵攻はまだ始まっていなかったが、定辺軍はすでに疲弊していた。

酋龍はその使者を殺されたことを怨み、十年(咸通十年、869年)、ついに侵寇した。軍をもって青溪関を牽制し、密かに衆を引きいて木を伐り道を開き、雪皮を経由して進んだ。盛夏であったが、兵卒で凍死する者が二千人に及んだ。沐源から出て、嘉州を窺い、属蛮を破り、ついに沐源に駐屯した。滂は兗海の兵五百を派遣して戦わせたが、一軍全滅した。酋龍はみずから将となり、衆五万を督いて巂州を侵し、青溪関を攻撃した。屯将の杜再栄は大度河を渡って退却し、諸屯は皆、北岸を守って退いた。蛮は黎州を攻め、漢人の衣服を偽装して着用し、江を渡って犍為を襲撃し、これを破った。陵州・栄州の間を徘徊し、廬舎を焼き、糧食と家畜を掠奪した。嘉州に迫り、刺史の楊忞は南詔と江を挟んで軍を対峙させた。兵士が矢を集中して射たため、蛮は進むことができず、密かに上流から渡河し、背後から王師を撃ち、忠武将の顔慶師を殺害した。忞は逃走し、嘉州は陥落した。翌年正月、杜再栄を攻撃し、滂はみずから兵を率いて戦った。酋龍は使者十人を派遣して和を請うた。滂はこれを信じ、話が半分も終わらないうちに、蛮の筏が岸を争い、騒ぎながら進撃した。滂はどうしてよいか分からず、自殺しようとしたが、武寧将の苗全緒がこれを止め、必死で戦った。蛮は少し退却し、滂はようやく逃げ、全緒が殿軍となって退いた。黎州は陥落し、人々は走って山谷に隠れた。蛮は金帛を掠奪したが、運びきれぬほどであった。邛崍関から侵入し、雅州を包囲し、ついに邛州を攻撃した。この冬、滂は州を放棄し、導江に陣を構えたが、蓄えられた物資や武器はすべて失われてしまった。

酋龍は成都を進攻し、眉州に駐屯した。坦綽の杜元忠は日夜、酋龍に全蜀を取るよう教えた。ここにおいて西川節度使の廬耽はその副使の王偃と中人の張思広を派遣して和を約したが、蛮は強いて南面(臣下の礼)で拝礼させ、結局酋龍には会わせずに帰還させた。蛮は新津に駐屯し、耽は再び副使の譚奉祀を派遣して好意的な言葉で約束を申し入れたが、蛮は彼を留め置いた。耽は援軍がまだ集まっていないことを恐れ、直ちに飛奏して天子に大使を降らせて通好させ、その深入りを緩和するよう請うた。懿宗は急ぎ太仆卿の支詳を和蛮使として派遣した。

蛮はもともと謀略がなく、機会に乗じて鼓行して急進することができず、ただ蟻や蠅のように集まり、卑怯にも小利を掠めるばかりで、あちこちに駐屯を残した。そのため、蜀の老人や子供は皆、扶け合ってことごとく成都に入城することができた。町中は満員で、一戸あたりの占有面積は一床分を超えられず、雨が降れば箕や甕をかぶって身を守った。城中の井戸は枯れ、皆で摩訶池の水を飲んだため、争って溺死する者もあり、ある者は砂を漉して滴る水を飲んだ。死んでも棺を調えることができず、共同で穴を掘って埋葬した。故瀘州刺史の楊慶復が耽のために攻撃用具や藺石を整え、牢城兵を置き、八人の将がこれを統率した。柵を立て、夜には炬火を並べて城を照らし、守備の用具は雄大で新しかった。さらに精悍な兵士三千を選び、「突将」と号し、長刀や巨撾斧を持たせ、左右に分かれて番休し、日々軍に隷属させた。兵士の心は奮い立ち、戦おうとした。一方、酋龍は双流からゆっくりと進み、内心では董成が辱められたことを報復しようとし、耽を欺いて上介(高官の使者)を軍に派遣して議事するよう請うた。耽は節度副使の柳槃を派遣して杜元忠と和議を協議させた。元忠は妄りに言った、「皇帝が耽にお会いになるので、どうか車蓋や葆翣(儀仗の装飾)を整えてほしい」と。槃は決断できず、帰還した。蛮は三百騎で幄幕を背負って来て、大言壮語した、「供帳は隋の蜀王の聴事(政庁)に倣い、驃信(南詔王の称号)の行在所とする」と。耽は許さず、蛮は疾走して去った。

蛮は少し前進し、外郭に迫った。ここにおいて遊弈使の王晝が援兵三千を督いて毗橋に駐屯した。竇滂もまたその軍を率いて導江から来て、大軍と犄角の勢いをなそうとしたが、戦いにはあまり力を入れず、少しでも負けるとすぐに広漢を守った。みずから定辺を失ったことを悔やみ、成都が陥落すれば、その罪を軽減できると期待していた。ちょうど詔があって斥責され流罪となったため、軍はついに功績を挙げられなかった。

耽の部将に李自孝という者がおり、刺史の喻士珍と親しかった。士珍は蛮に臣従し、自孝は密かに賊と通じ、耽に城下に葦や稲を植え、水を溜めて城壁を崩すよう説いた。府中の者は誰もそれに気づかなかった。蛮が城を攻めると、自孝は城壁を守り、麾を立てて自らの位置を示した。麾の指す方向を、蛮は攻撃した。部下に気づかれたため、耽は自孝を殺して衆に示した。

城の左側に民家の楼や店舗があり、蛮はそこから城中を俯射した。耽は勇士を募ってこれを焼き払わせ、器械はことごとく尽きた。二月、蛮は雲梁や鵝車をもって四方から攻撃し、兵士が叫び呼んだ。鵝車がまだ到着しないうちに、城壁の守兵は巨索で鉤をかけて引き寄せ、膏のついた炬火を投げつけ、車を焼き、箱の中の蛮兵はことごとく死んだ。耽は李璹と張察に命じて突将を率いさせ城下で戦わせ、二千級を捕斬した。蛮は民家の障壁や村落を撤去して蓬籠(小屋)を作り、車輪のようにし、下に枕木を設けて前へ押し進め、城まで一丈に満たないところで、蛮兵をその中に隠して城壁に穴を穿たせようとした。楊忞は糞尿を貯めて蛮に浴びせかけ、蛮は居られなくなった。鉄の溶融液を注ぐと、蓬籠はすべて火だるまとなった。しかし南詔は衆を恃み、ますます器械を整え、斧や兵器の音が昼夜響き、錦楼を攻撃しようとしたので、衆は顔色を失った。耽は将を出撃させ、三面で苦戦し、蛮は引き下がった。蛮は夜の闇を利して、しばしば城に迫り、呼嘯を聞くと衆は一斉に奮い立った。城上には鉄籠に千の炬火を施し、賊が来ても隠れられず、守兵は終夜騒ぎ立てたため、蛮は侵すことができなかった。

支詳は間諜を派遣して和を約し、かつ耽に多く殺さないよう戒めて蛮の和を早めさせようとした。この時、救援軍が来たとの噂が立ち、城中はどよめいて門を開き、兵士は争って出て軍を迎えようとしたが、南詔は戦いを解かなかった。日が暮れて、判官の程克裕が北門の兵二千をもってこれに乗じたため、蛮はようやく逃走した。耽はなお蛮に書を送り、やむを得ず交戦したことを謝し、かつ和を請うた。兵士は鎧を脱いで支詳を迎え、詳は携えてきたものを陳列し、二本の旗を立て、「雲南に賜う幣物」と記した。蛮の使者に謂って曰く、「天子は詔して雲南と和解せよとされているが、兵が成都に迫っているのはどうしたことか。どうか退いて警備を撤き、友好を修めよ」と。ある者が詳に勧めた、「蛮は詐りが多い。死地に入るな」と。詳は行かなかった。蛮は再び成都を包囲し、夜に西北の隅を穿ち、夜明けになってようやく気づいた。直ちに枯れ草に火をつけて穴に投げ入れ、蛮は皆、穴の中で死んだ。鉄の縆(太い縄)で雲朋(攻城塔か)を引き倒し、焼き払った。しばらくしてすべて燃え尽き、守りはますます固くなった。

この時、帝は東川節度使顔慶復を大度河制置・剣南応接使とし、兵は新都に駐屯し、博野将曾元裕が蛮兵を破り、二千級を斬る。南詔の騎兵数万が朝早く官軍を圧して馳せ、大将宋威が忠武兵を以て戦い、五千の首級を斬り、四百尾の馬を獲る。南詔は退いて星宿山に屯し、威は進んで沱江を戍る。酋龍は酋望を遣わして支詳の所に至り和を請う、詳曰く、「今列城は固く守り、北軍は功を望む、帰りて汝が主に語れ、審らかに自ら度れ」と。耽は鋭将を遣わして蛮の壁壘に趣き攻具を焼き、二千人を殺すが、南詔に追跡され、退却して潰える。蛮は鳳翔・山南の軍が来んとするを聞き、乃ち毗橋に迎え戦うも勝たず、沱江に趨るも、伏兵に撃たれ、また敗れる。城中より突将を出し、夜に蛮の営を火攻ちす、酋龍・坦綽は身を以て督戦す。三日後、王師は升遷梁を奪い、蛮は大いに敗れ、夜に亭伝を焼き、火の向かう所に乗じ、雨の如く矢を射て王師を襲う。威は軍を疎らに行かせ、矢の発する叢に向かって射させる。両軍決せず、各々解いて去る。酋龍は敵せざるを知り、夜に営を撤して南に奔り、双流に至るも、江に橋なく、計窮まり、水に赴きて死なんとす、或る者これを止めて曰く、「今北軍と成都の兵と合わば、若し来たりて追わば、我ら類無からん。偽りて和して急を紡ぐに如かず、然らずば、死するも未だ晩からず」と。乃ち来たりて請う。三日にして橋成りて渡り、即ち橋を断ち、隊を按じて緩やかに駆る。黎州刺史厳師本は散卒を収めて邛州を保つ、酋龍懼れ、二日囲みて去る。蛮は華民を俘虜にすれば、必ず耳鼻を切りて已む、之を放つ、既にして居人は木を刻みて耳鼻とする者十の八なり。

慶復の来たりし時、衆は其の弟慶師が蛮に死せるを以て、必ず甘心せんとす。及んで成都破れず、己が功軽きを以て、乃ち軍を広溪に按じ、残寇を放つ、人人切歯す。初め、成都に隍塹無く、乃ち耽に教えて隍を浚わせ、広さ三丈、戦棚を埤に作り、左右に屯営を列ね、営別に五区。区の卒五十、皂莢を壕に夾みて植え、後三年にして合拱す。又大旝連弩を作る。是より南詔之を憚る。

酋龍は年少にして殺戮を嗜み、親戚にして己に異なる者は皆斬り、兵を出すに寧歳無く、諸国更に讎忿し、屡々衆を覆し、国耗虚す。蜀の役、男子十五以下悉く発し、婦は耕して以て軍に餉う。

十四年、坦綽また蜀を寇し、舟を大度河に縆ぎて以て渡らんとす、刺史黄景復に撃ち却けらる。衆は河に循って南し、夜に上流の兵を桴し、水に臨む諸屯を夾攻し、景復敗れ、走って黎州に還る。蛮は追跡すれど、景復に敗れらる。会に蛮踵きて来たり、還って大度河を攻め、旗を仆し鼓を息め、請うて曰く、「坦綽は上書して天子に冤事を白さんと欲す」と。戍兵之を信じ、戦わず。橋成りて渡り、黎州陥つ。遂に雅州を攻め、定辺軍を撃ち、卒潰えて邛州に入る。成都大いに震い、人玉壘関に亡入り、士城に乗る。坦綽は使者王保城等四十人を遣わし、驃信の書を賫して節度使牛叢に遺し、道を仮りて入朝せんと欲し、蜀王の故殿に憩わんことを請う。叢は之を許さんと欲すれど、楊慶諫めて曰く、「蛮に信無し、彼礼屈して辞甘んず、我を詐るなり。其の使を斬り、二人を留めて書を還すことを請う」と。叢因りて之を責めて曰く、「詔王の祖、六詔最小の夷なり。天子其の勤を録し、六詔を合して一と為し、俾く成都に附庸せしめ、国を以て之に名づけ、子弟の太学に入るを許し、華風を習わしむ、今乃ち自ら王命を絶つ。且つ雀蛇犬馬も、猶能く徳に報ゆ、王乃ち虫鳥に如かざるか。比に成都は武備修まらざるを以て、故に爾をして我が疆埸を突かしむ。然れども毗橋・沱江の敗れ、積胔城に附き、四年を経ずして復た来る。今吾十万の衆有り、其の半を捨てて未だ用いず。千人を以て軍と為す。十軍を以て部と為し、ぎょう将之を主る。凡そ部に強弩二百有り、镈斧之を輔く。勁弓二百、越銀刀之を輔く。長戈二百、掇刀之を輔く。短矛二百、連錘之を輔く。又軍四面、面に鉄騎五百有り。悉く芻薪・米粟・牛馬・犬豕を収め、野を清めて爾を待つ。吾又旁騎を以て爾が樵采を略する能くす。我日出ずるに一部を以て爾と戦い、部別に二番、日中にして代わる。日昃に一部至り、夜に屯し、月明なれば則ち戦い、黒ければ則ち休み、夜半にして代わる。凡そ我が兵五日に一たび敵を殺す、爾乃ち昼夜戦い、十日とせずして懵として且に死せん。州県甲を繕い兵を厲し、掎角相従い、皆蛮の深き讎なり、女子と雖も能く齽齘して賊に薄く、況んや強夫烈士をや。爾が祖嘗て西蕃に奴事し、爾が仇家と為り、今顧みて之に臣す、何の恩讎の戾れる邪。蜀王の故殿は先世の宝宮、辺夷の宜しく舎く所に非ず、神怒り人憤り、驃信且に死せん」と。叢は猶ほ郊民の室廬観閣に火を放ち、兵を厳しくして固守の計と為す。坦綽は新津に至りて還り、回って黔中を寇し、経略使秦匡謀懼れて、荊南に奔る。会に僖宗立ち、金吾将軍韓重を遣わし節を持ち往きて使わす。俄に黎州を攻むるも、景復之を撃ち走らす。乾符元年、巂・雅の間を劫略し、黎州を破り、邛崍関に入り、成都を掠め、成都三日閉じ、蛮乃ち去る。

詔して天平軍高駢を徙めて西川節度使を領せしむ、乃ち奏す、「蛮は小醜、勢い制し易し。而して蜀道険しく、館餉窮覂す。今左神策の発する長武・河東の兵多く、用度繁広し。且つ彼は皆羌戎を扼制す、備えを弛むべからず」と。詔して乃ち長武等の兵を罷む。駢は至ること淹月せず、精騎五千を閲し、蛮を逐って大度河に至り、鎧馬を奪い、酋長五十を執いて斬り、邛崍関を収め、復た黎州を取り、南詔遁れて還る。駢は景復を召し大度河の敗を責め、斬りて以て徇す。望星・清溪等の関を戍る。南詔懼れ、使者を遣わして駢に詣り好を結ぶも、而して踵きて兵を出して辺を寇し、駢其の使を斬る。初め、安南経略判官杜驤が蛮に俘えらる、其の妻は宗室の女なり、故に酋龍使して書を奉り和を丐わしむ。駢答えて曰く、「我且に百万の衆を将いて龍尾城に至りて爾が罪を問わん」と。酋龍大いに震う。南詔の叛くより、天子数たび其の境に使を遣わすも、酋龍肯えて拝せず、使者遂に絶つ。駢は其の俗浮屠法を尚ぶを以て、故に浮屠景仙を遣わし使を摂して往かしむ、酋龍其の下と迎謁し且つ拝し、乃ち盟を定めて還る。清平官酋望趙宗政・質子三十人を遣わし入朝して盟を乞い、兄弟若しくは舅甥たらんことを請う。詔して景仙を鴻臚卿・検校左散騎常侍さんきじょうじに拝す。駢は吐蕃の尚延心・嗢末魯耨月等を結び間と為し、戎州馬湖・沐源川・大度河の三城を築き、屯を列ねて険に拒ぎ、壮卒を料りて平夷軍と為す、南詔気を奪わる。酋龍恚り、疽を発して死す、偽りて景荘皇帝と謚す。子の法嗣ぎ、元を貞明・承智・大同と改め、自ら大封人と号す。

法は年少、畋獵酣逸を好み、絳紫の錦罽を衣、鏤金の帯す。国事は顓に大臣に決す。乾符四年、陀西段羌宝を遣わし邕州節度使辛讜に詣りて修好を請う、詔して使者答報す。未幾、西川を寇す、駢奏して和親を請う、右諫議大夫柳韜・吏部侍郎崔淡其の事を醜とし、上言す、「遠蛮の畔逆するは、乃ち浮屠に因りて誘致し、入りて和親を議し、後世に笑われん。駢は上将の職に在り、謀乗謬す、従うべからず」と。遂に寝す。蛮の使者再び入朝して和親を議す、而して駢は荊南に徙り、前の請いを堅持して置かず。宰相鄭畋・廬攜争いて決せず、皆賜わりて罷む。

辛讜は幕府の徐雲虔を代理の使者として派遣し、偵察に向かわせた。善闡府に到着すると、騎兵数十騎が長矛を引きずり、緋色の服を着た少年を擁し、朱色の絹で髪を束ねているのが見えた。典客の伽陀酋の孫慶が言うには、「これが驃信である」と。天子の安否を尋ね、下馬して客に揖し、使者の佩刀を取って見ると、自ら左右の鈕を解いて示した。そこで地面を整えて三丈の板を立て、左右の者に命じて馳射させた。一人が射るごとに、法に従って駿馬を走らせてこれを追わせて楽しみとし、数十発で止めた。客を幄舎に招き、侲子が瓶と盂を捧げ、四人の女子が楽を奏して飲み、夜になってようやく終わった。また客に『春秋』の大義を問い、使者を送り返した。

この時、高駢は鎮海に転任し、杜澹らが和議を妨げたと弾劾したが、帝は暗弱で事理を理解できず、詔を下して慰撫し和解させた。西川節度使崔安潜が上言して言うには、「蛮は鳥獣の心を蓄え、礼義を知らず、どうして賤しい隷属が貴い公主を娶ることができようか、国家の大礼を失うことになる。杜澹らの議論は採用すべきである。臣は義勇兵を募り、十戸ごとに一保とし、山東の鋭兵六千を発して諸州を守らせ、五年を経れば、蛮を奴隷とすることができましょう」と。久しくして、帝は手詔で安潜に和親のことを問うと、答えて言うには、「雲南の姚州は一県に譬えるべきもので、中国が彼らに何を資して重い使者を遣わし、厚い礼を加えようとするのか。彼らは妄りに朝廷が畏怯して無能であると思い、もし他の要求があれば、陛下はどう対処されようか。また天子の宗室の近親は、小蛮夷に下嫁させることはできない。臣は先に文書を送り、舅甥とは言わず、その僭称を退けた。もし蛮の使者が再び来なければ、間者を遣って隙を伺い、志を得ることができましょう」と。

南詔は蜀の強さを知っていたので、安南を襲い、これを陥落させ、都護曾袞は邕府に奔り、戍兵は潰走した。時に西川節度使陳敬瑄が和親の議を申し上げ、時に廬携が再び政を輔け、豆盧彖とともに高駢と親しくしていたので、巧みに帝を説いて言うには、「陛下が即位された初め、韓重を南詔に遣わされたが、官属を蜀に留めて一年を期し、費用は計り知れず、蛮は迎えようとしなかった。高駢が西川節度使となってからは、嗢末を招き、甲冑を繕い兵を訓練し、蛮夷は震動し、趙宗政を遣わして献上させ、天子に拝謁し、驃信に付き従って再拝した。徐雲虔の使者には、驃信が答拝した。その礼は少なくない。宣宗皇帝は三州七関を収め、江・嶺以南を平定され、大中十四年に至っては、内庫の財貨は山のように積み、戸部の延資庫は満ち溢れ、故宰相白敏中が西川を領した時には、庫の銭は三百万緡に至り、諸道も同様であった。咸通以来、蛮が初めて命に背き、再び安南・邕管に入り、一度は黔州を破り、四度は西川を侵し、遂に廬耽を囲み、東方から兵を召し、海門を戍らせ、天下は騒動し、十五年、賦税が京師に入らないものが過半となり、中蔵は空虚となり、兵士は瘴癘に死に、骨を焼き灰を伝え、人は家を思わず、亡命して盗賊となり、まことに痛心すべきである。前年、宗政らを留めた時は、南方に憂いがなく、送り返した後も、彼らはなお希望を抱いている。蒙法が立って三年、兵を出さず要害を防ぎ、力を蓄えて我が隙を狙っている。今、朝廷の府庫は乏しく、甲兵は少なく、牛叢には北兵七万がいるが、首尾奔衝して救うことができず、まして安南の客戍は単寡で、冬を越えれば寇禍が憂慮される。誠に使者を遣わして報じさせ、たとえ臣と称さなくとも、その謀を伐ち、外には蛮夷を繋ぎ服従させ、内には蜀を休息させることができましょう」と。帝はこれを然りとし、宗室の女を安化長公主として婚姻を許した。嗣曹王の李亀年を宗正少卿に拝し、雲南使とし、大理司直の徐雲虔をその副使とした。内常侍の劉光裕を雲南内使とし、霍承錫をその副使とした。帰還すると、驃信の誠意を詳しく言上し、陳敬瑄の功績としたので、進めて検校司空しくうとし、一子に官を賜った。

蒙法は宰相の趙隆眉・楊奇混・段義宗を行在所に派遣し、公主を迎えさせた。高駢は揚州から上言して言うには、「三人は南詔の心腹である。留めて毒殺すべきで、蛮を図ることができましょう」と。帝はこれに従った。隆眉らは皆死に、これより謀臣は尽き、蛮はますます衰えた。中和元年、再び使者を遣わして公主を迎え、珍怪な氈罽百床を献上した。帝は公主の車服を議しているところであると説明した。後二年、また布燮の楊奇肱を遣わして迎えさせ、詔して検校国子祭酒の張譙を礼会五礼使とし、徐雲虔をその副使とし、宗正少卿嗣虢王の李約を婚使とした。未だ行かずして黄巢が平定され、帝は東還されたので、その使者を帰した。

蒙法が死に、偽謚して聖明文武皇帝とした。子の舜化が立ち、建元して中興とした。使者を黎州に遣わして和好を修めようとしたが、昭宗は答えなかった。後、中国が乱れ、再び通じなかった。

八詔

先に、時傍・矣川羅識の二族があり、通称して「八詔」と号した。時傍の母は、帰義の女である。その女はまた閣羅鳳に嫁いだ。初め、咩羅皮が敗れた時、時傍は厓川州に入居し、上浪千余人を誘い、勢いがやや盛んになり、閣羅鳳に猜疑され、白厓城に移された。後、矣川羅識とともに神川都督ととくのもとに赴き、自立して詔となることを求めたが、謀が漏れて殺された。矣川羅識は神川に奔り、都督は彼を羅些城に送った。

蒙巂詔は最も大きかった。その王の巂輔首が死に、子がなく、弟の佉陽照が立った。佉陽照が死に、子の照原が立ったが、目が見えなくなり、子の原羅は南詔に人質となった。帰義は国を併せようと思い、その子の原羅を帰したので、衆は果たしてこれを立てた。数ヶ月経つと、人を遣わして照原を殺し、原羅を追い出し、遂にその地を有した。

越析詔は、あるいは磨些詔とも言い、故越析州に居り、西は曩蔥山まで一日の行程である。貞元年中、豪酋の張尋求がその王の波沖の妻と淫通し、波沖を殺した。剣南節度使が尋求を姚州に召し寄せ、これを殺した。部落に長がなく、地を南詔に帰した。

波沖の兄の了於贈は王の宝とする鐸鞘を持って東北に瀘水を渡り、龍佉河に邑を構え、わずか百里で、双舍と号した。部酋の楊墮を河東北に居らせた。帰義は壁を築いて於贈を侵したが、勝てなかった。閣羅鳳が自ら進んで楊墮を撃ちに行くことを請い、これを破り、於贈は瀘水に投身して死んだ。鐸鞘を得たので、故王は出軍する時は必ず双つでこれを執った。

浪穹詔は、その王の豊時が死に、子の羅鐸が立った。羅鐸が死に、子の鐸羅望が立った。浪穹州刺史となり、南詔と戦ったが勝てず、その部を率いて剣川に保ち、改めて剣浪と称した。死に、子の望偏が立った。望偏が死に、子の偏羅矣が立った。偏羅矣が死に、子の羅君が立った。貞元年中、南詔が剣川を撃破し、羅君を虜にし、永昌に移した。凡そ浪穹・邆睒・施浪を、浪人と言い、また「三浪」とも称した。

邆睒詔は、その王の豊咩が初め邆睒を拠り、御史の李知古に殺された。子の咩羅皮が自ら邆川州刺史となり、大厘城を治め、帰義が襲ってこれを破り、再び邆睒に入り、浪穹・施浪と合して帰義に抵抗した。戦うと、大敗し、帰義は邆睒を奪い、咩羅皮は野共川に奔って保った。死に、子の皮羅鄧が立った。皮羅鄧が死に、子の鄧羅顛が立った。鄧羅顛が死に、子の顛文托が立った。南詔が剣川を破り、これを虜にし、永昌に移した。

施浪詔は、その王の施望欠が矣苴和城に居た。施各皮という者がおり、これも八詔の裔で、石和城を拠った。閣羅鳳が攻めてこれを虜にし、施望欠は孤立したので、咩羅皮と合して帰義を攻めたが、勝てなかった。帰義は兵で脅してその部を降し、施望欠は一族を率いて永昌に走り、その女を献じて南詔に和を乞い、帰義はこれを許したが、蘭江を渡る途中で死んだ。弟の望千は吐蕃に走り、吐蕃は彼を詔として立て、剣川に納め、衆数万であった。望千が死に、子の千旁羅顛が立った。南詔が剣川を破り、千旁羅顛は瀘水の北に走った。三浪は悉く滅び、ただ千旁羅顛及び矣川羅識の子孫のみが吐蕃に在った。

小論

賛して言う。

唐の治世は両漢を超えることができず、しかも国土は三代よりも広く、民を労し財を費やし、禍の生ずる所以となった。晋の献公が嫡子を殺し、二公子を害したのは、暗君と称される。明皇が一日に三庶人を殺したのは、昏蔽甚だしい。嗚呼、父子信じずして、遠く閣羅鳳の罪を治め、士卒十万死し、当時これを冤とした。懿宗は相を任ずるに明らかでなく、藩鎮たびたび畔き、南詔内に侮り、屯戍乱を思い、龐勛これに乗じ、戈を倡えて横行す。凶渠殲夷すと雖も、兵連れて解けず、唐遂に以て亡ぶ。

『易経』に曰く、「牛を易に喪う」と。国ある者は西北の虞を知りて戒むるも、患い備えなきより生ずるを知らず。漢は董卓に亡び、而して兵の兆は冀州にあり。唐は黄巣に亡び、而して禍の基は桂林にあり。『易経』の意、深し。