新唐書

巻二百二十一上 列傳第一百四十六上 西域上

巻二百二十一上 列傳第一百四十六上 西域上

泥婆羅

原文泥婆羅

泥婆羅は、吐蕃とばんの西、楽陵川に直に位置する。土地には赤銅・犛牛が多い。風俗として髪を眉まで切りそろえ、耳に穴を穿ち、筒あるいは角を詰め、肩まで垂らすのを美しいとする。匙や箸はなく、手づかみで食べる。器物はすべて銅を用い、住居は板屋で壁に絵を描く。牛耕を知らないため、農作は少なく、商売に慣れる。一幅の布で身を覆い、日に数度沐浴する。博戯を重んじ、暦術に通じる。天神を祀り、石を刻んで像とし、日に浴させ、羊を煮て祭る。銅を鋳て銭とし、表面には人の形、裏面には牛馬の形を刻む。その君主は真珠・玻璃・車渠・珊瑚・琥珀を垂れ飾り、耳に金の鉤と玉の璫を付け、宝の伏突を佩き、獅子の大床に座り、堂に香を焚き花を敷くが、大臣は地面に座り敷物を用いない。左右に兵を持ち、数百人が列を作って侍る。宮中に七重の楼があり、銅瓦で覆い、柱や梁は大きな玉や雑宝で飾り、四隅に銅の槽を置き、下に金の龍があり、口から水を噴き上げて槽に注ぐ。

原文泥婆羅,直吐蕃之西樂陵川。土多赤銅、犛牛。俗翦發逮眉,穿耳,楦以筒若角,緩至肩者為姣好。無匕箸,攫而食。其器皆用銅,其居版屋畫壁。俗不知牛耕,故少田作,習商賈。一幅布蔽身,日數盥浴。重博戲,通推步歷術。祀天神,鐫石為象,日浴之,烹羊以祭。鑄銅為錢,面文人形,背牛馬形。其君服珠、頗黎、車渠、珊瑚、虎魄垂纓,耳金鉤玉珰,佩寶伏突,禦師子大床,燎香布花於堂,而大臣坐地不藉。左右持兵,數百列侍。宮中有七重樓,覆銅瓦,楹極皆大琲雜寶,四隅置銅槽,下有金龍,口激水仰註槽中。

初め、王那陵提婆の父がその叔父に殺され、提婆は出奔し、吐蕃がこれを迎え入れ、ついに吐蕃に臣従した。貞観年間、使者李義表が天竺に至る途中、その国を通り、提婆は大いに喜び、使者を招いてともに阿耆婆爾池を見物させた。池は広さ数十丈、水は常に沸き溢れ、旱魃や洪水があっても減りも溢れもしないと伝えられる。物を投げ込むと煙が生じ、その上に釜を置けば、しばらくして煮える。二十一年、使いを遣わして波棱・酢菜・渾提葱を献上した。永徽年間、その王屍利那連陀羅がまた使いを遣わして朝貢した。

原文初,王那陵提婆之父為其叔所殺,提婆出奔,吐蕃納之,遂臣吐蕃。貞觀中,遣使者李義表到天竺,道其國,提婆大喜,延使者同觀阿耆婆爾池。池廣數十丈,水常溢沸,共傳旱潦未始耗溢。或抵以物則生煙,釜其上,少選可熟。二十一年,遣使入獻波棱、酢菜、渾提蔥。永徽時,其王屍利那連陀羅又遣使入貢。

党項

原文党項

党項は、漢代の西羌の別種であり、魏・晋の後は甚だ微弱であった。周が宕昌・鄧至を滅ぼすと、党項は初めて強くなった。その地は古の析支である。東は松州に距たり、西は葉護に接し、南は舂桑・迷桑などの羌、北は吐谷渾に接する。山谷の険しい地にあり、おおよそ三千里。姓によって部を別ち、一姓がまた小部落に分かれ、大きいものは一万騎、小さいものは数千騎で、互いに統率することができず、よって細封氏・費聽氏・往利氏・頗超氏・野辭氏・房當氏・米禽氏・拓拔氏があり、拓拔氏が最も強い。土着し、棟宇があり、犛牛の尾や羊毛を織って屋根を覆い、一年ごとに替える。風俗は武を尚び、法令・賦役はない。人の寿命は多く百歳を超えるが、盗みを好み、互いに略奪し合う。特に復讐を重んじ、望みを得ない者は、髪を乱し顔を汚し、裸足で粗食し、殺害して初めて元に戻る。男女ともに裘褐を着、氈を被る。犛牛・馬・驢・羊を飼い食とし、耕作しない。地は寒く、五月に草が生え、八月に霜が降る。文字あざながなく、草木の様子で年を記す。三年に一度集まり、牛羊を殺して天を祭り、他国から麦を取って酒を醸す。庶母・伯叔母・兄嫁・弟嫁を妻とするが、同姓は娶らない。老いて死ねば、子孫は哭かず、若くして死ねば、夭折として悲しむ。

原文党項,漢西羌別種,魏、晉後微甚。周滅宕昌、鄧至,而党項始強。其地古析支也,東距松州,西葉護,南舂桑、迷桑等羌,北吐谷渾。處山谷崎嶇,大抵三千里。以姓別為部,一姓又分為小部落,大者萬騎,小數千,不能相統,故有細封氏、費聽氏,往利氏、頗超氏、野辭氏、房當氏、米禽氏、拓拔氏、而拓拔最強。土著,有棟宇,織犛尾、羊毛覆屋,歲一易。俗尚武,無法令、賦役。人壽多過百歲,然好為盜,更相剽奪。尤重復讎,未得所欲者,蓬首垢顏,跣足草食,殺已乃復。男女衣裘褐,被氈。畜犛牛、馬、驢、羊以食,不耕稼。地寒,五月草生,八月霜降。無文字,候草木記歲。三年一相聚,殺牛羊祭天,取麥他國以釀酒。妻其庶母、伯叔母、兄嫂、子弟婦,惟不娶同姓。老而死,子孫不哭;少死,則曰夭枉,乃悲。

貞観三年、南会州都督鄭元璹が諭しを刻んで告げると、その酋長細封歩頼が部を挙げて降った。太宗は璽書を下して慰撫し、歩頼はこれにより入朝し、宴と賜物は特に異例で、その地を軌州とし、直ちに刺史を授けた。歩頼は兵を率いて吐谷渾を討つことを請うた。その後、諸酋長はことごとく内属し、その地を居・奉・厳・遠の四州とし、直ちに首領に刺史を拝した。

原文貞觀三年,南會州都督鄭元璹鐫諭,其酋細封步賴舉部降。太宗璽詔慰撫,步賴因入朝,宴錫特異,以其地為軌州,即授刺史。步賴請率兵討吐谷渾。其後諸酋長悉內屬,以其地為居、奉、嚴、遠四州,即首領拜刺史。

拓拔赤辞という者がいた。初め吐谷渾に臣従し、慕容伏允は彼を厚く遇し、婚姻を結んだ。諸羌はすでに帰順したが、彼だけは至らなかった。李靖が吐谷渾を撃つと、赤辞は狼道峡に屯して王師に抗した。廓州刺史久且洛生が降伏を諭そうとしたが、赤辞は言った、「渾の主は腹心をもって我を待つ、他のことは知らない。速やかに去らねば、我が刀を汚すぞ」。洛生は怒り、軽騎を率いて肅遠山でこれを破り、数百級を斬首し、雑畜六千を虜にした。帝はその勝ちに乗じてまた降伏を約させると、赤辞の従子思頭が密かに帰順の意を示し、その部下の拓拔細豆も降った。赤辞は宗族が離反したことを知り、次第に自ら帰順しようとしたところ、岷州都督劉師立がまた誘い、直ちに思頭とともに内属した。その地を懿・嵯・麟・可など三十二州とし、松州を都督府とし、赤辞を西戎州都督に抜擢し、李氏の姓を賜い、貢職は遂に絶えなかった。ここにおいて河源の積石山より東は、すべて中国の地となった。後、吐蕃が次第に盛んになり、拓拔はその逼迫を恐れ、内徙を請うた。初めて詔して慶州に静辺等州を置き彼らを居住させた。地はついに吐蕃に入り、そこに留まった者はすべて吐蕃の役属とされ、さらに号して弭薬といった。

原文有拓拔赤辭者,初臣吐谷渾,慕容伏允待之厚,與結婚,諸羌已歸,獨不至。李靖擊吐谷渾,赤辭屯狼道峽抗王師。廓州刺史久且洛生欲諭降之,辭曰:「渾主以腹心待我,不知其佗,若速去,且汙吾刀。」洛生怒,引輕騎破之肅遠山,斬首數百級,虜雜畜六千。帝因其勝又令約降,赤辭從子思頭潛納款,其下拓拔細豆亦降。赤辭知宗族攜沮,稍欲自歸,岷州都督劉師立復誘之,即與思頭俱內屬。以其地為懿、嵯、麟、可三十二州,以松州為都督府,擢赤辭西戎州都督,賜氏李,貢職遂不絕。於是自河首積石山而東,皆為中國地。後吐蕃浸盛,拓拔畏逼,請內徙,始詔慶州置靜邊等州處之。地乃入吐蕃,其處者皆為吐蕃役屬,更號弭藥。

また黒党項という者がおり、赤水の西に居住する。その長は敦善王と号し、慕容伏允が敗走した時これに依った。吐谷渾が帰順した時、敦善王もまた貢を納めた。雪山に居住する者を破醜氏という。

原文又有黑党項者,居赤水西。其長號敦善王,慕容伏允之走也依之。及吐谷渾款附,敦善王亦納貢。居雪山者曰破醜氏。

また白蘭羌があり、吐蕃はこれを丁零と呼ぶ。左は党項に属し、右は多弥に接する。勝兵一万人、戦闘に勇猛で、兵器を作るのに長け、風俗は党項と同じ。武徳六年、使者が入朝した。翌年、その地を維・恭の二州とした。貞観六年、契苾数十万とともに内属した。永徽年間、特浪生羌の卜楼大首領凍就が衆を率いて来属し、その地を剣州とした。

原文又有白蘭羌,吐蕃謂之丁零,左屬党項,右與多彌接。勝兵萬人,勇戰鬥,善作兵,俗與党項同。武德六年,使者入朝。明年,以其地為維、恭二州。貞觀六年,與契數十萬內屬。永徽時,特浪生羌卜樓大首領凍就率眾來屬,以其地為劍州。

龍朔以後、白蘭・舂桑および白狗羌は吐蕃に臣従され、その兵を籍して前駆とした。白狗は東会州に接し、勝兵わずか千人。西北にいる者は、天授年間に内附し、戸数およそ二十万、その地を朝・呉・浮・帰など十州とし、霊・夏の間に散居した。至徳末年、吐蕃に誘われ、郷導として辺境を掠めた。まもなく悔悟し、再び来朝し、霊州の糧秣を助けたいと願った。乾元年間、中国はたびたび乱れ、これに乗じて邠・寧の二州を寇した。粛宗は郭子儀に朔方・邠寧・鄜坊節度事を都統させ、鄜州刺史杜冕・邠州刺史桑如圭に二隊を分けて出討させた。子儀が到着すると、党項は潰走した。

原文龍朔後,白蘭、舂桑及白狗羌為吐蕃所臣,籍其兵為前驅。白狗與東會州接,勝兵才千人。在西北者,天授中內附,戶凡二十萬,以其地為朝、吳、浮、歸十州,散居靈、夏間。至德末,為吐蕃所誘,使為鄉導鈔邊。俄悔悟,更來朝,願助靈州餉免。乾元間,中國數亂,因寇邠、寧二州,肅宗詔郭子儀都統朔方、邠寧、鄜坊節度事,以鄜州刺史杜冕、邠州刺史桑如圭分二隊出討。子儀至,党項潰去。

上元元年、涇・隴の部落十万の衆が鳳翔節度使せつどし崔光遠のもとに赴き降った。二年、渾・奴剌と連合し、宝鶏を寇し、吏民を殺し、財宝を掠め、大散関を焼き、鳳州に入り、刺史蕭𢘽を殺した。節度使李鼎が追撃してこれを走らせた。翌年、また梁州を攻め、刺史李勉は逃走した。進んで奉天を寇し、華原・同官を大いに掠めて去った。詔して臧希譲を李勉に代えて刺史とし、ここにおいて帰順・乾封・帰義・順化・和寧・和義・保善・寧定・羅雲・朝鳳の合わせて十州の部落が希譲のもとに赴き帰順を申し出、節度使の印綬を請うた。詔してこれを許した。

原文上元元年,在涇、隴部落十萬眾詣鳳翔節度使崔光遠降。二年,與渾、奴剌連和,寇寶雞,殺吏民,掠財珍,焚大散關,入鳳州,殺刺史蕭𢘽,節度使李鼎追擊走之。明年,又攻梁州,刺史李勉走;進寇奉天,大掠華原、同官去。詔臧希讓代勉為刺史,於是歸順、乾封、歸義、順化、和寧、和義、保善、寧定、羅雲、朝鳳凡十州部落詣希讓獻款,丐節印。詔可。

仆固懐恩が叛くと、党項・渾・奴剌を誘って入寇させ、衆数万で鳳翔・盩厔を掠めた。大酋鄭廷・郝徳が同州に入り、刺史韋勝は逃走し、節度使周智光が澄城でこれを破った。一か月後、また同州に入り、官私の家屋を焼き、馬蘭山に拠った。郭子儀が兵を遣わして襲撃すると、三堡に退いて守り、子儀は慕容休明を遣わして鄭廷・郝徳を諭し降伏させた。

原文仆固懷恩之叛,誘党項、渾、奴剌入寇,眾數萬,掠鳳翔、盩厔。大酋鄭廷、郝德入同州,刺史韋勝走,節度使周智光破之澄城。閱月,又入同州,焚官私室廬,壁馬蘭山。郭子儀遣兵襲之,退保三堡,子儀遣慕容休明諭降廷、德。

子儀は、党項・吐谷渾の部落が塩州・慶州などに散在し、その地が吐蕃に近接して脅かされやすいとみて、表を奉り、静辺州都督・夏州・楽容など六府の党項を銀州の北・夏州の東に、寧朔州の吐谷渾を夏州の西に移住させ、これを分断隔離しようとした。静辺州の大首領左羽林大将軍拓拔朝光ら五刺史を召し入朝させ、厚く賜与を与え、帰還させてその部族を安撫させた。先に、慶州には破醜氏族三、野利氏族五、把利氏族一があり、吐蕃と姻戚関係で結ばれ、賛普はこれらをすべて王として遇し、これによって辺境を擾乱すること十年に及んだ。子儀は、工部尚書路嗣恭を朔方留後とし、将作少監梁進用を押党項部落使とし、行慶州を置くことを上表した。また、「党項が密かに吐蕃と結託して変を起こそうとしている。使者を派遣して招慰し、その反逆の謀を除き、進用を慶州刺史とし、厳重に巡察して吐蕃との往来の道を絶つべきである」と述べた。代宗はこれを認めた。また、静辺・芳池・相興王州の都督・長史を置き、永平・旭定・清寧・寧保・忠順・静塞・万吉など七州の都督府を置くことを上表した。これにより、破醜・野利・把利の三部および思楽州刺史拓拔乞梅らは皆入朝し、宜定州刺史折磨布落・芳池州の野利部はともに綏州・延州に移住した。大暦の末、野利禿羅都が吐蕃とともに叛き、残りの部族を招いたが応じず、子儀がこれを撃ち、禿羅都を斬った。そして野利景庭・野利剛はその部数千人を率いて雞子川に帰附した。六州の部落は、野利越詩・野利龍兒・野利厥律・児黄・野海・野窣などという。慶州に居住する者は東山部と号し、夏州に居住する者は平夏部と号した。永泰の後、次第に石州に移住したが、後に永安将阿史那思柬が賦役を限りなく取り立てたため、ついに逃亡して河西に走った。

原文子儀以党項、吐谷渾部落散處鹽、慶等州,其地與吐蕃濱近,易相脅,即表徙靜邊州都督、夏州、樂容等六府党項於銀州之北、夏州之東、寧朔州吐谷渾住夏西,以離沮之。召靜邊州大首領左羽林大將軍拓拔朝光等五刺史入朝,厚賜賫,使還綏其部。先是,慶州有破醜氏族三、野利氏族五、把利氏族一,與吐蕃姻援,贊普悉王之,因是擾邊凡十年。子儀表工部尚書路嗣恭為朔方留後,將作少監梁進用為押党項部落使,置行慶州。且言:「党項陰結吐蕃為變,可遣使者招慰,芟其反謀,因令進用為慶州刺史,嚴邏以絕吐蕃往來道。」代宗然之。又表置靜邊、芳池、相興王州都督、長史,永平、旭定、清寧、寧保、忠順、靜塞、萬吉等七州都督府。於是破醜、野利、把利三部及思樂州刺史拓拔乞梅等皆入朝,宜定州刺史折磨布落、芳池州野利部並徙綏、延州。大歷末,野利禿羅都與吐蕃叛,招餘族不應,子儀擊之,斬禿羅都,而野利景庭、野利剛以其部數千人入附雞子川。六州部落,曰:野利越詩、野利龍兒、野利厥律、兒黃、野海、野窣等;居慶州者號東山部,夏州者號平夏部。永泰後稍徙石州,後為永安將阿史那思柬賦索無極,遂亡走河西。

元和の時、宥州を再び置き、党項を護った。大和の中頃になると次第に強盛となり、しばしば寇掠した。しかし器械は粗悪で、唐の精兵を恐れ、良馬で鎧を購い、良羊で弓矢を交易した。鄜坊道軍糧使李石は、商人が旗幟・甲冑・五兵を部落に持ち込むことを禁ずることを上表し、告発者には罪人の財産を与えるとした。開成の末に至り、種族部落はますます繁栄し、富商が繒宝を携えて羊馬を売り、藩鎮はその利に乗じて強制的に買い取り、あるいは代価を支払わず、部族の者は怨み、相率いて乱を起こし、霊州・塩州の道が通じなくなった。武宗は侍御史を使者として招定に当たらせ、三つの印に分け、邠州・寧州・延州を崔彦曾に、塩州・夏州・長沢を李雩鄠に、霊武・麟州・勝州を鄭賀に属させ、皆に緋衣銀魚を賜ったが、功を成すことはできなかった。

原文元和時復置宥州,護党項。至大和中寢強,數寇掠。然器械鈍苦,畏唐兵精,則以善馬購鎧,善羊貿弓矢。鄜坊道軍糧使李石表禁商人不得以旗幟、甲胄、五兵入部落,告者,舉罪人財畀之。至開成末,種落愈繁,富賈人賫繒寶鬻羊馬,藩鎮乘其利,強市之,或不得直,部人怨,相率為亂,至靈、鹽道不通。武宗以侍御史為使招定,分三印,以邠、寧、延屬崔彥曾,鹽、夏、長澤屬李雩鄠,靈武、麟、勝屬鄭賀,皆緋衣銀魚,而功不克。

宣宗大中四年、党項が内寇して邠州・寧州を掠め、詔して鳳翔李業・河東李拭に節度兵を合わせて討たせ、宰相白敏中を都統とした。帝は近苑に出て、ある者が一本の竹を舎外に植えるのを見た。竹はわずか一尺ほどで、遠く百歩ほど離れていた。帝は二本の矢を手にし、「党羌の窮寇は、毎年わが辺境を暴かしている。今、私は約束する。この竹に射当てれば彼らは自滅するだろう。当たらなければ、私は天下の兵を徴発してこれを殄滅し、決してこの賊を子孫に残さない」と言った。左右が注視する中、帝は一発で竹を分断し、矢は竹を貫いて外に出た。左右は万歳を呼んだ。一月も経たぬうちに、羌は果たして撃破殄滅され、残党は南山に逃げ込んだ。

原文宣宗大中四年,內掠邠、寧,詔鳳翔李業、河東李拭合節度兵討之,宰相白敏中為都統。帝出近苑,或以竹一個植舍外,見才尺許,遠且百步,帝屬二矢曰:「黨羌窮寇,仍歲暴吾鄙,今我約:射竹中則彼當自亡,不中,我且索天下兵翦之,終不以此賊遺子孫。」左右註目,帝一發竹分,矢徹諸外,左右呼萬歲。不閱月,羌果破殄,餘種竄南山。

初め、天宝の末、平夏部は戦功があり、容州刺史・天柱軍使に抜擢された。その裔孫の拓拔思恭は、咸通の末に宥州を窃拠し、刺史を称した。黄巢が長安に入ると、鄜州の李孝昌と壇を築き犠牲を埋めて誓い、賊を討つことを誓った。僖宗はこれを賢しとし、左武衛将軍・権知夏綏銀節度事に任じた。王橋に駐屯したが、黄巢に敗れ、さらに鄭畋ら四節度使と盟約を結び、渭橋に屯した。中和二年、詔して京城西面都統・検校司空・同中書門下平章事に任じられた。まもなく四面都統に進み、権知京兆尹を兼ねた。賊が平定されると、太子太傅を兼ね、夏国公に封ぜられ、李姓を賜った。嗣襄王煴の乱に際し、詔して思恭に賊を討たせたが、兵を出さずに卒去した。弟の思諫を代わりに定難節度使とし、思孝を保大節度・鄜坊凡翟等州観察使とし、ともに検校司徒・同中書門下平章事に任じた。王行瑜が反すると、思孝を北面招討使、思諫を東北面招討使とした。思孝もまた乱に乗じて鄜州を奪い、ついに節度使となり、累進して侍中を兼ねた。老齢を理由に弟の思敬を保大軍兵馬留後に推薦し、まもなく節度使とした。

原文始,天寶末,平夏部有戰功,擢容州刺史、天柱軍使。其裔孫拓拔思恭,咸通末竊據宥州,稱刺史。黃巢入長安,與鄜州李孝昌壇而坎牲,誓討賊,僖宗賢之,以為左武衛將軍,權知夏綏銀節度事。次王橋,為巢所敗,更與鄭畋四節度盟,屯渭橋。中和二年,詔為京城西面都統、檢校司空、同中書門下平章事。俄進四面都統,權知京兆尹。賊平,兼太子太傅,封夏國公,賜姓李。嗣襄王煴之亂,詔思恭討賊,兵不出,卒。以弟思諫代為定難節度使,思孝為保大節度、鄜坊凡翟等州觀察使,並檢校司徒、同中書門下平章事。王行瑜反,以思孝為北面招討使,思諫東北面招討使。思孝亦因亂取鄜州,遂為節度使,累兼侍中。以老薦弟思敬為保大軍兵馬留後,俄為節度使。

東女

原文東女

東女は、また蘇伐剌挐瞿咀羅ともいい、羌の別種である。西海にも女が自ら王となる国があるので、「東」と称して区別する。東は吐蕃・党項・茂州に接し、西は三波訶に属し、北は于闐に至り、東南は雅州の羅女蛮・白狼夷に属する。東西の行程は九日、南北の行程は二十日で尽きる。八十の城がある。女を君主とし、康延川に居住する。険しい岩に四方を囲まれ、弱水が南に流れ、革を縫い合わせて船とする。戸数四万、勝兵一万人。王の号は賓就といい、官は高霸黎といい、宰相を意味する。官で外にいる者は、概ね男子がこれに当たる。凡そ号令は、女官が内から伝え、男官がこれを受けて執行する。王の侍女は数百人で、五日に一度政務を聴く。王が死ぬと、国人は金銭数万を王族に納め、淑女二人を求めて立てる。次は小王となり、王が死ぬと、これによって嗣とし、あるいは姑が死ねば婦が継ぎ、簒奪はない。居住する所は皆、重層の家屋で、王は九層、国人は六層である。王は青毛綾の裙を着け、青袍をまとい、袖を地に垂らし、冬は羔裘を着て文錦で飾る。小さな鬟髻を結い、耳に璫を垂らす。足には〓索を曳く。〓索は履である。俗に男子を軽んじ、女で貴い者は皆侍男を持ち、髪を振り乱し、青で顔を塗り、ただ戦いと耕作に務めるのみである。子は母の姓に従う。地は寒く麦に適し、羊馬を畜い、黄金を産する。風俗は大抵天竺と同じである。十一月を正月とする。巫者は十月に山中に赴き、糟麦を撒き、群鳥を呪い呼ぶ。やがて鶏のような鳥が来て、これを割いて見ると、穀物があればその年は豊作、なければ災いがある。これを鳥卜という。喪に服すること三年、衣服を変えず、櫛で梳らず沐浴しない。貴人が死ぬと、その皮を剥いで蔵し、骨を甕の中に入れ、金屑を混ぜて埋める。王の葬儀には、殉死者が数十人に及ぶ。

原文東女,亦曰蘇伐剌挐瞿咀羅,羌別種也,西海亦有女自王,故稱「東」別之。東與吐蕃、党項、茂州接,西屬三波訶,北距於闐,東南屬雅州羅女蠻、白狼夷。東西行盡九日,南北行盡二十日。有八十城。以女為君,居康延川,巖險四繚,有弱水南流,縫革為船。戶四萬,勝兵萬人。王號賓就,官曰高霸黎,猶言宰相也。官在外者,率男子為之。凡號令,女官自內傳,男官受而行。王侍女數百,五日一聽政。王死,國人以金錢數萬納王族,求淑女二立之。次為小王,王死,因以為嗣,或姑死婦繼,無篡奪。所居皆重屋,王九層,國人六層。王服青毛綾裙,被青袍,袖委於地,冬羔裘,飾以文錦。為小鬟髻,耳垂珰。足曳〓索。〓索,履也。俗輕男子,女貴者咸有侍男,被發,以青塗面,惟務戰與耕而已。子從母姓。地寒宜麥,畜羊馬,出黃金。風俗大抵與天竺同。以十一月為正。巫者以十月詣山中,布糟麥,咒呼群鳥。俄有鳥來如雞狀,剖視之,有谷者歲豐,否即有災,名曰鳥卜。居喪三年,不易服,不櫛沐。貴人死,剝藏其皮,內骨甕中,糅金屑瘞之。王之葬,殉死至數十人。

武徳の時、王の湯滂氏が初めて使者を遣わして入貢した。高祖は厚く報いたが、突厥とっけつに掠められて通じなかった。貞観年中、使者が再び至り、太宗は璽書を以て慰撫した。顕慶の初め、使者の高霸黎文と王子の三廬が来朝し、右監門中郎将を授けられた。その王の斂臂が大臣を遣わして官号を請うたので、武后は斂臂を冊拜して左玉鈐衛員外将軍とし、瑞錦服を賜った。天授・開元の間、王と子が再び来朝し、詔して宰相と曲江で宴し、王の曳夫を帰昌王・左金吾衛大将軍に封じた。後に男子を王とした。

原文武德時,王湯滂氏始遣使入貢。高祖厚報,為突厥所掠不得通。貞觀中,使復至,太宗璽制慰撫。顯慶初,遣使高霸黎文與王子三廬來朝,授右監門中郎將。其王斂臂使大臣來請官號,武後冊拜斂臂左玉鈐衛員外將軍,賜瑞錦服。天授、開元間,王及子再來朝,詔與宰相宴曲江,封王曳夫為歸昌王、左金吾衛大將軍。後乃以男子為王。

高昌

原文高昌

高昌は、京師の西四千里余りのところに直にあり、その広さは東西八百里、南北五百里、凡そ二十一城がある。王都は交河城で、漢の車師前王の廷である。田地城は、戊己校尉の治所であった。勝兵一万人。土地は肥沃で、麦・禾ともに二毛作ができる。白疊という草があり、その花を摘んで布を織ることができる。俗に辮髻を結って後ろに垂らす。

原文高昌,直京師西四千里而贏,其橫八百里,縱五百里,凡二十一城。王都交河城,漢車師前王廷也。田地城,戊己校尉所治也。勝兵萬人。土沃,麥、禾皆再熟。有草名白疊,擷花可織為布。俗辮髻垂後。

その王曲伯雅は、隋の時に嘗て戚属の宇文氏の女を妻として娶り、華容公主と号した。武徳初め、伯雅死し、子の文泰立つ。使を遣わして来告す。高祖、使者に命じて臨吊せしむ。後五年、狗を献ず。高さ六寸、長さ一尺、馬を曳き燭を銜む能くす。云う、出づるは拂菻なりと。中国始めて拂菻狗有り。

原文其王曲伯雅,隋時嘗妻以戚屬宇文氏女,號華容公主。武德初,伯雅死,子文泰立,遣使來告,高祖命使者臨吊。後五年,獻狗高六寸,長尺,能曳馬銜燭,雲出拂菻,中國始有拂菻狗。

太宗即位す。玄狐裘を献ず。帝、妻の宇文に華钅奠一具を賜う。宇文も亦玉盤を上る。凡そ諸国の施為は輒ち以て聞かしむ。貞観四年、文泰遂に来朝す。礼賜厚きこと甚だし。宇文、宗籍に預からんことを求む。詔有りて氏を李と賜い、更に常楽公主に封ず。

原文太宗即位,獻玄狐裘,帝賜妻宇文華钅奠一具,宇文亦上玉盤。凡諸國施為輒以聞。貞觀四年,文泰遂來朝,禮賜厚甚。宇文求預宗籍,有詔賜氏李,更封常樂公主。

久しくして、文泰、西突厥と通ず。凡そ西域の朝貢、其の国を道とすれば、咸く壅掠せらる。伊吾は嘗て西突厥に臣す。是に至り内属す。文泰、葉護と共に之を撃つ。帝、詔を下して其の反覆を譲る。大臣冠軍阿史那矩を召して事を計らしむ。文泰遣わさず。長史曲雍を使わして来り謝罪す。初め、大業の末、華民多く突厥に奔る。及び頡利敗るるや、逃れて高昌に入る者有り。詔有りて護送せしむ。文泰苛く之を留む。又、西突厥の乙毗設と焉耆の三城を破り、其の人を虜う。焉耆王、諸朝に訴う。帝、虞部郎中李道裕を遣わして状を問わしむ。復た使を遣わして謝す。帝引きて責めて曰く、「而が主は数年朝貢に入らず、藩臣の礼無く、擅に官を置き、百僚に擬え效う。今歳首、万の君長悉く来るに、而が主至らず。日を我使人を往かすに、文泰猥りに曰く、『鷹は天に飛び、雉は蒿に竄り、猫は堂に遊び、鼠は穴に安んず。各其の所を得たり。豈に快からざらんや』と。西域の使者入貢するに、而が主悉く之を拘梗す。又、薛延陀に諗えて曰く、『既に自ら可汗と為り、唐の天子に等しきに、何事ぞ其の使を拝謁せん』と。明年、我当に兵を発して而が国を虜い、帰りて而が君に謂え、善く自ら図れ」と。時に薛延陀の可汗、軍の嚮導たらんことを請う。故に民部尚書唐儉、延陀に至りて堅く約す。

原文久之,文泰與西突厥通,凡西域朝貢道其國,鹹見壅掠。伊吾嘗臣西突厥,至是內屬,文泰與葉護共擊之。帝下詔讓其反覆,召大臣冠軍阿史那矩計事,文泰不遣,使長史曲雍來謝罪。初,大業末,華民多奔突厥,及頡利敗,有逃入高昌者,有詔護送,文泰苛留之。又與西突厥乙毗設破焉耆三城,虜其人,焉耆王訴諸朝。帝遣虞部郎中李道裕問狀,復遣使謝。帝引責曰:「而主數年朝貢不入,無藩臣禮,擅置官,擬效百僚。今歲首萬君長悉來,而主不至。日我使人往,文泰猥曰:『鷹飛於天,雉竄於蒿,貓遊於堂,鼠安於穴,各得其所,豈不快邪!』西域使者入貢,而主悉拘梗之。又諗薛延陀曰:『既自為可汗,與唐天子等,何事拜謁其使?』明年我當發兵虜而國,歸謂而君善自圖。」時薛延陀可汗請為軍向導,故民部尚書唐儉至延陀堅約。

帝復た璽書を下して文泰に禍福を示し、促して入朝せしむ。文泰遂に疾を称して至らず。乃ち侯君集を拝して交河道大総管と為し、左屯衛大将軍薛万均・薩孤吳仁を副とし、契何力を蔥山道副大総管と為し、武衛将軍牛進達を行軍総管と為し、突厥・契の騎数万を率いて之を討たしむ。群臣、万里を行く兵は志を得難く、且つ天界絶域、之を得ると雖も、守るべからずと諫む。帝聴かず。文泰、左右に謂いて曰く、「曩に吾朝に入り、秦・隴の北、城邑蕭条たるを見る。隋に比ぶるに非ず。今吾を伐つに、兵多ければ則ち糧餉逮わず。若し三万を下せば、吾能く之を制す。磧を度れば疲鈍す。逸を以て労を待ち、臥して其の弊を収むるのみ」と。十四年、王師の磧口に至ると聞き、悸駭して他計無く、発病して死す。子の智盛立つ。

原文帝復下璽書示文泰禍福,促使入朝,文泰遂稱疾不至。乃拜侯君集為交河道大總管,左屯衛大將軍薛萬均、薩孤吳仁副之,契何力為蔥山道副大總管,武衛將軍牛進達為行軍總管,率突厥、契騎數萬討之。群臣諫以行萬里兵難得誌,且天界絕域,雖得之,不可守。帝不聽。文泰謂左右曰:「曩吾入朝,見秦、隴北城邑蕭條,非有隋比。今伐我,兵多則糧付不逮;若下三萬,我能制之。度磧疲鈍,以逸待勞,臥收其弊耳。」十四年,聞王師至磧口,悸駭無它計,發病死,子智盛立。

君集、奄に田地城を攻む。契何力、前軍を以て鏖戦す。是の夜、星城中に墜つ。明日其の城を抜き、七千余人を虜う。中郎将辛獠兒、勁騎を以て夜其の都に逼る。智盛、書を以て君集に遺わして曰く、「天子に得罪する者は先王なり。咎深く譴積り、厥の命を震墜す。智盛嗣位すること未だ幾ばくもあらず。公其れ赦し見たまえ」と。君集曰く、「禍を悔ゆる能くする者は、当に面縛して軍門にせよ」と。智盛答えず。軍進み、隍を填めて沖車を引き、石を飛ばすこと雨の如し。城中大いに震う。智盛、大将曲士義を令して居守せしめ、身は綰曹曲徳俊と軍門に謁し、天子に事え改めんことを請う。君集、降るを諭し使わす。辞屈を示す。薛万均勃然として起ちて曰く、「当に先ず城を取るべし。小児何ぞ語るに与たらんや」と。麾して進む。智盛流汗して地に伏し曰く、「唯だ公の命に従う」と。乃ち降る。君集、兵を分かち略定す。凡そ三州・五県・二十二城、戸八千、口三万、馬四千。是に先立ち、其の国人謡いて曰く、「高昌の兵は、霜雪の如し。唐家の兵は、日月の如し。日月霜雪を照らせば、幾何ぞ自ら殄滅せん」と。文泰、謡の発する所を捕うるも、得ること能わず。

原文君集奄攻田地城,契何力以前軍鏖戰。是夜星墜城中,明日拔其城,虜七千餘人。中郎將辛獠兒以勁騎夜逼其都。智盛以書遺君集曰:「得罪於天子者,先王也,咎深譴積,震墜厥命。智盛嗣位未幾,公其見赦。」君集曰:「能悔禍者,當面縛軍門。」智盛不答。軍進,填隍引沖車,飛石如雨,城中大震。智盛令大將曲士義居守,身與綰曹曲德俊謁軍門,請改事天子。君集諭使降,辭示屈,薛萬均勃然起曰:「當先取城,小兒何與語!」麾而進,智盛流汗伏地曰:「唯公命!」乃降。君集分兵略定,凡三州、五縣、二十二城,戶八千,口三萬,馬四千。先是,其國人謠曰:「高昌兵,如霜雪;唐家兵,如日月。日月照霜雪,幾何自殄滅。」文泰捕謠所發,不能得也。

捷書聞こゆ。天子大いに悦び、群臣を宴し、賜を班ち功を策し、高昌の所部を赦し、其の地を披きて皆州県とし、西昌州と号す。特進魏徴諫めて曰く、「陛下即位し、高昌最先に朝謁す。俄かに商胡を掠め、貢献を遏むを以て、故に王誅加えらる。文泰死し、罪止む。其の人を撫し、其の子を立て、罪を伐ち民を吊うは、道なり。今其の土に利し、屯守常に千人、屯士数年一易、装資を弁じ、親戚を離れ、十年ならずして隴右且く空からん。陛下終に高昌の圭粒咫帛を得て中国の費を助けず。所謂有用を散じて無用に事うるなり」と。納れず。西昌州を改めて西州と曰い、更に安西都護府を置く。歳に千兵を調え、罪人を謫して以て戍らしむ。黄門侍郎褚遂良諫めて曰く、「古者は先ず函夏、後れ夷狄、務めて徳化を広め、荒逖を争わず。今高昌誅滅し、威四夷を動かす。然れども王師征を始めてより、河西役を供し、米を飛ばし芻を転ず。十室九匱し、五年復たすべからず。今又歳に屯戍を遣わし、行李万里、去る者は資装自ら営弁せしめ、菽粟を売り、機杼を傾け、道路死亡尚計わず。罪人は始め法を犯し、終わりに業に惰る。行に益無し。遣わす所復た亡命有り。官司捕逮し、株蔓相牽く。張掖・酒泉の塵飛び烽挙がるるが如き有らば、豈に高昌の一乗一卒及び事を得んや。必ず隴右・河西を発せん。然らば則ち河西は我が腹心、高昌は他人の手足なり。何ぞ必ず中華を耗し、無用に事えん。昔、陛下頡利・吐谷渾を平ぐるに、皆為に君を立てしは、蓋し罪有りて之を誅し、伏して之を立てしなり。百蛮の畏威慕徳する所以なり。今宜しく高昌の立てる可き者を択びて之を立て、首領を召して悉く本土に還し、長く藩翰と為し、中国擾わざらしむべし」と。書聞こゆるも省みず。

原文捷書聞,天子大悅,宴群臣,班賜策功,赦高昌所部,披其地皆州縣之,號西昌州。特進魏徵諫曰:「陛下即位,高昌最先朝謁。俄以掠商胡,遏貢獻,故王誅加焉。文泰死,罪止矣。撫其人,立其子,伐罪吊民,道也。今利其土,屯守常千人,屯士數年一易,辦裝資,離親戚,不十年隴右且空。陛下終不得高昌圭粒咫帛助中國費,所謂散有用事無用。」不納。改西昌州曰西州,更置安西都護府,歲調千兵,謫罪人以戍。黃門侍郎褚遂良諫曰:「古者先函夏,後夷狄,務廣德化,不爭荒逖。今高昌誅滅,威動四夷,然自王師始征,河西供役,飛米轉芻,十室九匱,五年未可復。今又歲遣屯戍,行李萬里,去者資裝使自營辦,賣菽粟,傾機杼,道路死亡尚不計。罪人始於犯法,終於惰業,無益於行。所遣復有亡命,官司捕逮,株蔓相牽。有如張掖、酒泉塵飛烽舉,豈得高昌一乘一卒及事乎?必發隴右、河西耳。然則河西為我腹心,高昌,他人手足也,何必耗中華,事無用?昔陛下平頡利、吐谷渾,皆為立君,蓋罪而誅之,伏而立之,百蠻所以畏威慕德也。今宜擇高昌可立者立之,召首領悉還本土,長為藩翰,中國不擾。」書聞不省。

初め、文泰、金を以て厚く西突厥の欲谷設に餉い、約す、急有れば表裏と為らんと。葉護をして可汗浮図城に屯せしむ。及び君集至るに及び、懼れて発する敢えず。遂に来り降る。其の地を以て庭州と為す。焉耆、高昌の奪いし五城の帰せんことを請い、兵を留めて以て守らしむ。

原文初,文泰以金厚餉西突厥欲谷設,約有急為表裏;使葉護屯可汗浮圖城。及君集至,懼不敢發,遂來降,以其地為庭州。焉耆請歸高昌所奪五城,留兵以守。

君集、石を勒して功を紀し、凱して旋る。智盛君臣を俘え観徳殿に献ず。飲至の礼を行い、酺すること三日。高昌の豪桀を中国に徙す。智盛を拝して左武衛将軍・金城郡公と為し、弟の智湛を右武衛中郎将・天山郡公と為す。曲氏、国に伝うること九世、百三十四年にして亡ぶ。

原文君集勒石紀功,凱而旋,俘智盛君臣獻觀德殿。行飲至禮,酺三日。徙高昌豪桀於中國,智盛拜左武衛將軍、金城郡公,弟智湛右武衛中郎將、天山郡公。曲氏傳國九世,百三十四年而亡。

智湛、麟徳中に左驍衛大将軍を以て西州刺史と為り、卒す。涼州都督を贈らる。子の昭有り、学を好む。異書を鬻ぐ者あり。母笥中の金を顧みて嘆きて曰く、「何ぞ此れを愛し、子に異聞有らしめざる」と。尽く持して之に易う。昭、司膳卿を歴たり、頗る辞章能くす。弟の崇裕武芸有り。永徽中に右武衛翊府中郎将と為り、交河郡王に封ぜられ、邑三千戸に至る。終わりに鎮軍大将軍。武后、為に哀を挙げ、美錦を以て襚い、賻賜甚だ厚し。封爵絶ゆ。

原文智湛,麟德中以左驍衛大將軍為西州刺史,卒,贈涼州都督。有子昭,好學。有鬻異書者,母顧笥中金嘆曰:「何愛此,不使子有異聞乎?」盡持易之。昭歷司膳卿,頗能辭章。弟崇裕有武藝,永徽中為右武衛翊府中郎將,封交河郡王,邑至三千戶。終鎮軍大將軍,武後為舉哀,襚以美錦,賻賜甚厚,封爵絕。

吐谷渾

原文吐谷渾

吐谷渾は甘松山の南、洮水の西に居り、南は白蘭に至り、地は数千里に及ぶ。城郭はあるが、居住せず。水草に従い、帳幕を住まいとし、肉を糧食とする。その官には長史・司馬・將軍・王・公・僕射・尚書・郎中があり、おそらく諸華を慕ってこれを設けたものであろう。俗に文字を識り、その王は椎髻に黒い帽子を被り、妻は錦の袍に織りの裙を着け、金の花で頭を飾る。男子は長い裙と絹の帽子を着け、あるいは瀍の冠を戴く。婦人は髪を編んで後ろに垂らし、珠や貝を綴りつける。婚礼は、富める家は厚く聘を納め、貧しき者は妻を窃んで去る。父が死ねば庶母を妻とし、兄が死ねば嫂を妻とする。喪には服喪があり、葬り終われば直ちに除く。民に常税はなく、用が足りなければ、富室や商人に徴収し、足りれば止む。凡そ人を殺す者や馬を盗む者は死罪とし、その他の罪は物をもって贖う。地は多く寒く、麦・菽・粟・蕪菁に適し、小馬・犛牛・銅・鉄・丹砂を産する。青海というものがあり、周囲八九百里、中に山があり、氷が結ぶのを待ち、牝馬をその上に遊ばせ、翌年駒を生ませ、これを龍種と号す。かつて波斯の馬を得て、海に放牧し、驄駒を生ませ、日に千里を歩む故、世に「青海驄」と称す。西北に流沙数百里あり、夏に熱風あり、行人を傷つく。風が起こらんとする時、老いた駱駝が首を伸ばして鳴き、鼻を沙の中に埋め、人はこれを察知し、氈で鼻口を覆えば恙無し。

原文吐谷渾居甘松山之陽,洮水之西,南抵白蘭,地數千里。有城郭,不居也。隨水草,帳室、肉糧。其官有長史、司馬、將軍、王、公、僕射、尚書、郎中,蓋慕諸華為之。俗識文字,其王椎髻黑冒,妻錦袍織裙,金花飾首。男子服長裙繒冒,或冠瀍。婦人辮發縈後,綴珠貝。婚禮,富家厚納聘,貧者竊妻去。父死妻庶母,兄死妻嫂。喪有服,葬已即除。民無常稅,用不足,乃斂富室商人,足而止。凡殺人若盜馬者死,它罪贖以物。地多寒,宜麥、菽、粟、蕪菁,出小馬、犛牛、銅、鐵、丹砂。有青海者,周八九百里,中有山,須冰合,遊牝馬其上,明年生駒,號龍種。嘗得波斯馬,牧於海,生驄駒,日步千里,故世稱「青海驄」。西北有流沙數百里,夏有熱風,傷行人。風將發,老駝引項鳴,埋鼻沙中,人候之,以氈蔽鼻口乃無恙。

隋の時、その王慕容伏允は歩薩缽と号し、嘗て辺境を寇した。煬帝は鉄勒を遣わしてこれを破らせ、西平に壁した。また観王雄に命じてその衆を破らせた。伏允は数十騎を率いて泥嶺に入り、逃げ去り、仙頭王は男女十余万を率いて降った。郡県鎮戍を置き、長子の順を人質とし、これに王位を継がせて余衆を統率させたが、やがて追い返した。伏允は党項に客居し、隋の乱に乗じて、故地を回復した。

原文隋時,其王慕容伏允號步薩缽,嘗寇邊。煬帝遣鐵勒敗之,壁西平;復命觀王雄破其眾。伏允以數十騎入泥嶺,亡去,仙頭王率男女十餘萬降。置郡縣鎮戍,以長子順為質,因王之,統餘眾,俄追還。伏允客党項,隋亂,因得復故地。

高祖が天命を受けると、順は江都より長安に還った。当時李軌が涼州を占拠していたので、帝は伏允と和を約し、軌を撃って自らの忠誠を示すよう命じ、順を護送すると約した。伏允は喜び、兵を率いて庫門で軌と戦ったが、互いに退却して止み、直ちに使者を遣わして順を請うたので、帝はこれを送った。順が至ると、大寧王と号した。

原文高祖受命,順自江都還長安,於時李軌據涼州,帝乃約伏允和,令擊軌自效,當護送順。伏允喜,引兵與軌戰庫門,交綏止,即遣使請順,帝遣之。順至,號為大寧王。

太宗の時、伏允は使者を遣わして入朝させたが、未だ帰らぬうちに、鄯州を寇した。帝は使者を遣わして責め、かつ伏允を召し出した。伏允は病気を理由に断り、子のために婚を請うて、帝の意向を探った。帝は子を召して親迎させたが、これもまた病気と称した。詔を下して婚姻を止め、中郎将康処真を遣わして臨み諭させた。また岷州を掠め、都督李道彦がこれを撃退し、名王二人を捕らえ、七百の首級を斬った。連年名王を遣わして朝貢した。やがて涼州を寇し、鄯州刺史李玄運が「吐谷渾が青海に牧馬しているので、軽兵でこれを襲えば、ことごとく捕らえられる」と上表した。そこで左驍衛大將軍段誌玄・左驍衛將軍梁洛仁に命じて契・党項の兵を率いてこれを撃たせた。三十里に至らぬうちに、誌玄らは戦わず、壁を築いて留まった。虜はこれを知り、牧馬を駆り立てて逃げた。副将李君羨が精騎を率いて懸水のほとりを追撃し、牛羊二万を得て還った。

原文太宗時,伏允遣使者入朝,未還,即寇鄯州。帝遣使者讓,且召伏允;以疾為解,而為子求婚,驗帝意。帝召子親迎,亦稱疾。有詔止婚,遣中郎將康處真臨諭。又掠岷州,都督李道彥擊走之,執名王二,斬級七百。連歲遣名王朝。俄寇涼州,鄯州刺史李玄運表吐谷渾牧馬青海,輕兵掩之,可盡致。乃命左驍衛大將軍段誌玄、左驍衛將軍梁洛仁率契、党項兵擊之,未至三十里,誌玄等不欲戰,壁而留。虜知之,驅牧馬走。副將李君羨率精騎尾襲懸水上,得牛羊二萬還。

この時、伏允は老耄して政事を執れず、その相の天柱王が権力を握り、天子の行人鴻臚丞趙徳楷を拘束した。帝は使者を遣わして諭し赦したが、十度往復しても、悔い改める言葉はなかった。貞観九年、詔して李靖を西海道行軍大総管とし、侯君集を積石道、任城王道宗を鄯善道、李道彦を赤水道、李大亮を且末道、高甑生を塩沢道の行軍総管とし、ともに突厥・契の兵を率いてこれを撃たせた。党項に内属した羌および洮州の羌は、皆刺史を殺して伏允に帰した。夏四月、道宗は庫山で伏允を破り、四百を捕虜・斬首した。伏允は磧に入って唐兵を疲弊させようと謀り、野草を焼いたので、李靖の軍馬は多く飢えた。道宗は言う、「柏海は河源に近く、古来至った者がない。伏允が西に走ったが、その所在は知れない。今、馬は痩せ糧は乏しく、遠く入るは難し。軍を鄯州に留めて、馬が壮健になるのを待ち、改めて図るのがよい」。君集は言う、「そうではない。先に段誌玄が鄯州に至った時、吐谷渾の兵は直ちに城に迫った。あの国はまだ完全で、逆賊の衆が命令に従ったからだ。今、虜は大敗し、斥候もおらず、君臣は互いに離散している。我らがその困窮に乗じれば、志を得ることができる。柏海は遠いが、鼓を鳴らして至ることができる」。靖は言う、「善い」。二軍に分かれた。靖と大亮・薛万均は一軍を率いて北に向かい、その右に出た。君集・道宗は一軍を率いて南に向かい、その左に出た。靖の将薩孤呉仁が軽騎で曼都山で戦い、名王を斬り、五百の首級を獲た。諸将は牛心堆・赤水源で戦い、虜の将南昌王慕容孝俊を捕らえ、雑畜数万を収めた。君集・道宗は漢哭山に登り、烏海で戦い、名王梁屈蔥を捕らえた。靖は赤海で天柱部落を破り、雑畜二十万を収めた。大亮は名王二十人を捕虜とし、雑畜五万を獲て、且末の西に駐屯した。伏允は図倫磧に逃げ、于闐に身を寄せようとした。万均が鋭騎を督して数百里を追撃し、またこれを破った。兵士は水に乏しく、馬を刺して血を飲んだ。君集・道宗は空漠の地を二千里行き、盛夏に霜が降り、水草に乏しく、兵士は氷を粥とし、馬は雪を飼料とした。一月を経て、星宿川に駐屯し、柏海に達し、積石山を望み、河源を観覧した。執失思力が馳せて虜の輜重しちょうを破った。両軍は大非川・破邏真谷で会合した。

原文是時,伏允耄不能事,其相天柱王用事,拘天子行人鴻臚丞趙德楷。帝遣使曉敕,十返,無悛言。貞觀九年,詔李靖為西海道行軍大總管,侯君集積石道,任城王道宗鄯善道,李道彥赤水道,李大亮且末道,高甑生鹽澤道,並為行軍總管,率突厥、契兵擊之。党項內屬羌及洮州羌,皆殺刺史歸伏允。夏四月,道宗破伏允於庫山,俘斬四百。伏允謀入磧疲唐兵,燒野草,故靖馬多饑。道宗曰:「柏海近河源,古未有至者。伏允西走,未知其在,方馬臒糧乏,難遠入,不如按軍鄯州,須馬壯更圖之。」君集曰:「不然。向者段誌玄至鄯州,吐谷渾兵輒傅城,彼國方完,逆眾用命也。今虜大敗,斥候無在,君臣相失,我乘其困,可以得誌。柏海雖遠,可鼓而至也。」靖曰:「善。」分二軍:靖與大亮、薛萬均以一軍趣北,出其右;君集、道宗以一軍趣南,出其左。靖將薩孤吳仁以輕騎戰曼都山,斬名王,獲五百級。諸將戰牛心堆、赤水源,獲虜將南昌王慕容孝俊,收雜畜數萬。君集、道宗登漢哭山,戰烏海,獲名王梁屈蔥。靖破天柱部落於赤海,收雜畜二十萬。大亮俘名王二十,雜畜五萬,次且末之西。伏允走圖倫磧,將托於闐,萬均督銳騎追亡數百里,又破之。士乏水,刺馬飲血。君集、道宗行空荒二千里,盛夏降霜,乏水草,士糜冰,馬秣雪。閱月,次星宿川,達柏海上,望積石山,覽觀河源。執失思力馳破虜車重。兩軍會於大非川、破邏真谷。

順が隋に人質となっていた時、金紫光禄大夫となり、伏允はその弟を太子に立てた。順が帰国すると、常に鬱々とし、自ら失位したことを思い、功を以て天子に結びつかんと欲し、天柱王を斬り、国を挙げて降った。伏允は恐れ、千余騎を率いて磧中に逃れ、衆は次第に離散し、従う者は僅か百騎となり、窮して頼るものなく、自ら縊死した。国人は順を立てて君とし、臣を称して内附したので、詔して四平郡王に封じ、越胡呂烏甘豆可汗と号した。帝はその国を定められぬことを恐れ、李大亮に精兵を率いさせて鎮撫・支援させた。

原文順之質隋,為金紫光祿大夫、伏允立其弟為太子。順歸,常鞅鞅,自以失位,欲以功自結天子,乃斬天柱王,舉國降。伏允懼,引千餘騎遁磧中,眾稍亡,從者才百騎,窮無聊,即自經死。國人立順為君,稱臣內附,詔封四平郡王,號越胡呂烏甘豆可汗。帝恐未能定其國,遣李大亮率精兵鎮援。

順は長く華に人質となっていたため、国人はこれに附かず、ついに下の者に殺され、その子の燕王諾曷鉢が立てられた。諾曷鉢は幼く、大臣が権力を争った。帝は侯君集に詔してこれを経営させ、初めて暦の頒布と子弟の入侍を請うた。詔して諾曷鉢を河源郡王に封じ、地也抜勒豆可汗と号し、淮陽郡王道明を遣わして節を持たせ冊命し、鼓纛を賜った。諾曷鉢は自ら入朝して謝し、ついに婚姻を請い、馬牛羊一万を献じた。毎年入朝したので、宗室の女を弘化公主として妻とし、詔して道明及び右武衛將軍慕容寶に節を持たせて公主を送らせた。その相の宣王が跋扈し、乱を謀り、公主を襲い、諾曷鉢を劫いて吐蕃に奔らせようとした。諾曷鉢はこれを知り、軽騎を率いて鄯城に走り、威信王が兵を以てこれを迎えた。果毅都尉席君買が兵を率いて威信王と共に討ち、その兄弟三人を斬ったので、国は大いに乱れた。帝はまた民部尚書唐儉・中書舎人馬周に詔して節を持たせて撫慰させた。

原文順久質華,國人不附,卒為下所殺,立其子燕王諾曷缽。諾曷缽幼,大臣爭權。帝詔侯君集就經紀之,始請頒歷及子弟入侍。詔封諾曷缽河源郡王,號為地也拔勒豆可汗,遣淮陽郡王道明持節冊命,賜鼓纛。諾曷缽身入謝,遂請婚,獻馬牛羊萬。比年入朝,乃以宗室女為弘化公主妻之,詔道明及右武衛將軍慕容寶持節送公主。其相宣王跋扈,謀作亂,欲襲公主,劫諾曷缽奔吐蕃。諾曷缽知之,引輕騎走鄯城,威信王以兵迎之。果毅都尉席君買率兵與威信王共討,斬其兄弟三人,國大擾。帝又詔民部尚書唐儉、中書舍人馬周持節撫慰。

高宗が立つと、公主の縁故により、駙馬都尉に拝した。また名馬を献じた。帝が馬の種性を問うと、使者は言う、「国の最も良き者です」。帝は言う、「良馬は人の愛する所である」。詔してその馬を返した。公主が表を奉って入朝を請うたので、左驍衛將軍鮮于匡済を遣わしてこれを迎えさせた。十一月、諾曷鉢が京師に至ると、帝はまた宗室の女金城県主をその長子蘇度摸末の妻とし、左領軍衛大將軍に拝した。久しくして摸末が死ぬと、公主と次子の右武衛大將軍梁漢王闥盧摸末が来朝して婚姻を請うたので、帝は宗室の女金明県主をその妻とした。やがて吐蕃と相攻ち、上書して曲直を争い、ともに来て師を請うたが、天子は両方とも許さなかった。吐谷渾の大臣素和貴が吐蕃に奔り、その内情を告げたので、吐蕃は兵を出して虚を衝き、その衆を黄河のほとりで破った。諾曷鉢は支えきれず、公主とともに数千帳を率いて涼州に走った。帝は左武衛大將軍蘇定方を安集大使として遣わし、両国の怨みを平らげさせた。吐蕃はついにその地を有した。

原文高宗立,以主故,拜駙馬都尉。又獻名馬,帝問馬種性,使者曰:「國之最良者。」帝曰:「良馬人所愛。」詔還其馬。公主表請入朝,遣左驍衛將軍鮮于匡濟迎之。十一月,及諾曷缽至京師,帝又以宗室女金城縣主妻其長子蘇度摸末,拜左領軍衛大將軍。久之,摸末死,主與次子右武衛大將軍梁漢王闥盧摸末來請婚,帝以宗室女金明縣主妻之。既而與吐蕃相攻,上書相曲直,並來請師,天子兩不許。吐谷渾大臣素和貴奔吐蕃,言其情,吐蕃出兵搗虛,破其眾黃河上。諾曷缽不支,與公主引數千帳走涼州。帝遣左武衛大將軍蘇定方為安集大使,平兩國怨。吐蕃遂有其地。

諾曷缽は内徙を請うた。乾封の初め、青海国王に改めて封ぜられる。帝はその部を涼州の南山に徙そうとしたが、群臣の議は一致せず、帝はこれを難事とした。咸亨元年、右威衛大将軍薛仁貴を邏娑道行軍大総管とし、左衛員外大将軍阿史那道真・左衛将軍郭待封を副とし、総兵五万を率いて吐蕃を討ち、かつ諾曷缽を故廷に納れんとした。王師は大非川に敗れ、吐谷渾の地はことごとく陥ち、諾曷缽は親近数千帳を従えて辛うじて免れた。三年、ついに浩水の南に徙す。諾曷缽は吐蕃の盛んなるを以て、勢い抗しがたく、また鄯州の地は狭いとして、さらに霊州に徙り、帝は安楽州を置き、すなわち刺史に拝し、その安らかならんことを欲し、かつ楽しませんとしたという。

原文諾曷缽請內徙。乾封初,更封青海國王。帝欲徙其部於涼州之南山,群臣議不同,帝難之。咸亨元年,乃以右威衛大將軍薛仁貴為邏娑道行軍大總管,左衛員外大將軍阿史那道真、左衛將軍郭待封副之,總兵五萬討吐蕃,且納諾曷缽於故廷。王師敗於大非川,舉吐谷渾地皆陷,諾曷缽與親近數千帳才免。三年,乃徙浩水南。諾曷缽以吐蕃盛,勢不抗,而鄯州地狹,又徙靈州,帝為置安樂州,即拜刺史,欲其安且樂雲。

諾曷缽が死ぬと、子の忠が立つ。忠が死ぬと、子の宣超が立つ。聖暦三年、左豹韜員外大将軍に拝し、故可汗の号を襲い、余部は涼・甘・粛・瓜・沙等州に詣でて降った。宰相張錫と右武衛大将軍唐休璟は、その人を秦・隴・豊・霊の間に徙し、畔去することを得ざらしめんと議した。涼州都督郭元振はこれに「吐谷渾を秦・隴に近づければ、監牧と雑処することとなり、豊・霊に置けば、また黙啜に近づく。仮に諸華にあっても、その性を急に移すことはない。先日、王孝傑が河源軍より耽爾乙句貴を徙して霊州に置いたが、すでにその叛き、牧坊に入って群馬を掠め、州県を瘢夷した。これは中土に遷すことの益なき成験である。かつて素和貴が叛去したときは、我に損なきも、ただ吐谷渾数十部を失ったに過ぎず、いずれ句貴と比すべきか。今の降虜は強服にあらず、皆矢刃を突き、吐蕃を棄てて来たるものなり。その情に循い、これが制を為すべきである。甘・粛・瓜・沙に降る者は、すなわちその所に置くべし。投ずる所に因って居らしめれば、情安んじやすく、数州を磔すれば勢い自ずから分かれる。その情に順い、その勢いを分ち、人を擾さず、戎心を奪うの善き者というべし。歳ごとに鎮遏使者を遣わし、宣超兄弟とともにこれを撫護し、相侵奪せしめず、生業固からしむるがよい。もし叛去するありとも、中国に損なきなり」と為した。詔して可とした。宣超が死ぬと、子の曦皓が立つ。曦皓が死ぬと、子の兆が立つ。吐蕃はふたたび安楽州を取る。残部は朔方・河東に徙り、語謬って「退渾」という。

原文諾曷缽死,子忠立。忠死,子宣超立,聖歷三年,拜左豹韜員外大將軍,襲故可汗號,餘部詣涼、甘、肅、瓜、沙等州降。宰相張錫與右武衛大將軍唐休璟議徙其人於秦、隴、豐、靈間,令不得畔去。涼州都督郭元振以為:「吐谷渾近秦、隴,則與監牧雜處;置豐、靈,又邇默啜;假在諸華,亦不遽移其性也。前日王孝傑自河源軍徙耽爾乙句貴置靈州,既其叛,乃入牧坊掠群馬,瘢夷州縣,是則遷中土無益之成驗。往素和貴叛去,於我無損,但失吐谷渾數十部,豈與句貴比邪?今降虜非強服,皆突矢刃,棄吐蕃而來,宜當循其情,為之制也。當甘、肅、瓜、沙降者,即其所置之。因所投而居,情易安,磔數州則勢自分。順其情,分其勢,不擾於人,可謂善奪戎心者也。歲遣鎮遏使者與宣超兄弟撫護之,無令相侵奪,生業固矣。有如叛去,無損中國。」詔可。宣超死,子曦皓立。曦皓死,子兆立。吐蕃復取安樂州,而殘部徙朔方、河東,語謬為「退渾」。

貞元十四年、朔方節度副使・左金吾衛大将軍慕容復を長楽都督・青海国王とし、可汗号を襲わしむ。復が死ぬと、襲封を停む。吐谷渾は晋の永嘉の時に国ありてより、龍朔三年に吐蕃がその地を取るに至るまで、凡そ三百五十年、ここに至り封嗣絶ゆ。

原文貞元十四年,以朔方節度副使、左金吾衛大將軍慕容復為長樂都督、青海國王,襲可汗號。復死,停襲。吐谷渾自晉永嘉時有國,至龍朔三年吐蕃取其地,凡三百五十年,及此封嗣絕矣。

焉耆国

原文焉耆國

焉耆国は京師の西七千里余に直し、横六百里、縦四百里。東は高昌に接し、西は亀茲、南は尉犁、北は烏孫なり。逗渠して田を溉ぎ、土は黍・蒲陶に宜しく、魚塩の利あり。俗は髪を祝し氈衣を着す。戸四千、勝兵二千、常に西突厥に役属す。俗は娛遨を尚び、二月朏に野に出て祀り、四月望日に林に遊び、七月七日には生祖を祀り、十月望日に王始めて出遊し、歳尽に至るまで止む。

原文焉耆國直京師西七千里而贏,橫六百里,縱四百里。東高昌,西龜茲,南尉犁,北烏孫。逗渠溉田,土宜黍、蒲陶,有魚鹽利。俗祝髮氈衣。戶四千,勝兵二千,常役屬西突厥。俗尚娛遨,二月朏出野祀,四月望日遊林,七月七日祀生祖,十月望日王始出遊,至歲盡止。

太原貞観六年、その王龍突騎支始めて使を遣わして来朝す。隋の乱より以来、磧路閉ざされ、故に西域の朝貢は皆高昌を道とせり。突騎支は大磧道を開きて行人の便とせんことを請う。帝これを許す。高昌怒り、大いにその辺を掠む。西突厥の莫賀設と咄陸弩失畢難を作し、来奔す。咄陸弩失畢ふたたびこれを攻む。使を遣わして状を言い、名馬を貢ぐ。咥利失可汗立ち、素より焉耆に善く、故に倚りて援とす。十二年、処月・処蜜と高昌、その五城を攻め陥し、千五百人を掠め、廬舎を焚く。侯君集高昌を討つに及び、使を遣わして相聞かしむ。突騎支喜び、兵を引いて唐を佐く。高昌破れ、向かいし所の俘虜及び城を帰し、使者を遣わして入謝す。

原文太原貞觀六年,其王龍突騎支始遣使來朝。自隋亂,磧路閉,故西域朝貢皆道高昌。突騎支請開大磧道以便行人,帝許之。高昌怒,大掠其邊。西突厥莫賀設與咄陸弩失畢作難,來奔,咄陸弩失畢復攻之,遣使言狀,並貢名馬。咥利失可汗立,素善焉耆,故倚為援。十二年,處月、處蜜與高昌攻陷其五城,掠千五百人,焚廬舍。侯君集討高昌,遣使與相聞,突騎支喜,引兵佐唐。高昌破,歸向所俘及城,遣使者入謝。

西突厥の臣屈利啜、弟のために突騎支の女を娶り、すなわち相約して輔車の勢いと為し、朝貢せず。安西都護郭孝恪これを討たんことを請う。時に王の弟頡鼻・栗婆準葉護等三人来降す。帝すなわち孝恪を西州道総管と命じ、兵を率いて銀山道より出で、栗婆準等を以て嚮導とす。初め、焉耆の都する所、周囲三十里、四面大山あり、海水その外を繚らし、故に恃みて虞とせず。孝恪倍道して水を絶ち、夜堞に傅り、曙を遅らせて噪ぎて登る。鼓角轟哄し、唐兵縦にし、国人擾乱して敗れ、千余級を斬り、突騎支を執る。栗婆準を以て国事を摂せしむ。初め、帝近臣に語りて曰く「孝恪八月十一日焉耆に詣り、二旬を閲すれば至るべし。二十二日にこれを破るべく、使者今至らん」と。俄かに遽人捷布を以て聞かす。突騎支及び妻子を囚えて洛陽に送る。詔ありて罪を赦す。

原文西突厥臣屈利啜為弟娶突騎支女,遂相約為輔車勢,不朝貢。安西都護郭孝恪請討之。會王弟頡鼻、栗婆準葉護等三人來降,帝即命孝恪為西州道總管,率兵出銀山道,以栗婆準等為向導。初,焉耆所都周三十里,四面大山,海水繚其外,故恃不為虞。孝恪倍道絕水,夜傅堞,遲曙噪而登,鼓角轟哄,唐兵縱,國人擾敗,斬千餘級,執突騎支,更以栗婆準攝國事。始,帝語近臣曰:「孝恪以八月十一日詣焉耆,閱二旬可至,當以二十二日破之,使者今至矣!」俄而遽人以捷布聞。囚突騎支及妻子送洛陽,有詔赦罪。

屈利啜兵を以て焉耆を救わんとす。しかるに孝恪還ること三日なり。屈利啜栗婆準を囚え、さらに吐屯をして王を摂せしめ、使を遣わして以て告ぐ。帝曰く「焉耆は我が下す所なり、爾乃ちこれを王とすや」と。吐屯懼れ、敢えて王たらず。焉耆栗婆準を立てんとす。従兄薛婆阿那支自ら王と為り、号して瞎幹と曰い、栗婆準を執りて亀茲に献じ、これを殺す。阿史那社爾亀茲を討つ。阿那支これに奔り、東境に壁して王師に抗す。社爾の禽うる所となり、その罪を数えて斬りて徇らしむ。突騎支の弟婆伽利を立てて王と為し、その地を焉耆都督府とす。

原文屈利啜以兵救焉耆,而孝恪還三日矣。屈利啜囚栗婆準,更使吐屯攝王,遣使以告。帝曰:「焉耆我所下,爾乃王之邪?」吐屯懼,不敢王。焉耆立栗婆準,而從兄薛婆阿那支自為王,號瞎幹,執栗婆準獻龜茲,殺之。阿史那社爾討龜茲,阿那支奔之,壁東境抗王師,為社爾所禽,數其罪,斬以徇。立突騎支弟婆伽利為王,以其地為焉耆都督府。

婆伽利死す。国人前王突騎支の還ることを請う。高宗これを許し、左衛大将軍に拝し、帰国せしむ。死す。龍嫩突立つ。武后長安の時、その国小人寡きを以て、過使客その労に堪えず、詔して四鎮経略使に禁じ、傔使の私馬・無品者の肉食を止めしむ。開元七年、龍嫩突死す。焉吐拂延立つ。ここにおいて十姓可汗碎葉に居らんことを請う。安西節度使湯嘉惠表して焉耆を以て四鎮に備えしむ。詔して焉耆・亀茲・疏勒・于闐に西域の賈を征し、各その征を食らわしむ。北道よりする者は輪臺これを征す。天宝に至るまで常に朝賀す。

原文婆伽利死,國人請還前王突騎支,高宗許之,拜左衛大將軍,歸國。死,龍嫩突立。武後長安時,以其國小人寡,過使客不堪其勞,詔四鎮經略使禁止傔使私馬、無品者肉食。開元七年,龍嫩突死,焉吐拂延立。於是十姓可汗請居碎葉,安西節度使湯嘉惠表以焉耆備四鎮。詔焉耆、龜茲、疏勒、於闐征西域賈,各食其征,由北道者輪臺征之。訖天寶常朝賀。

亀茲

原文龜茲

亀茲は、一に丘茲といい、一に屈茲という。東は京師より七千里余を距つ。焉耆より西南に歩すること二百里、小山を度り、大河二つを経、また歩すること七百里にして至る。横千里、縦六百里。土は麻・麦・粳稻・蒲陶に宜しく、黄金を出す。俗は歌楽を善くし、旁行の書を用い、浮図の法を貴ぶ。子を産むに木を以て首を圧す。俗は髪を断ちて頂を斉うす。ただ君のみは髪を翦らず。姓は白氏。伊邏廬城に居す。北は河羯田山に倚る。また白山といい、常に火あり。王は錦を以て頂を冒し、錦袍・宝帯を着す。歳朔、羊馬橐它を闘わすこと七日、勝負を観て以て歳の盈耗を卜すという。葱嶺以東の俗は淫を喜び、亀茲・于闐には女肆を置き、その銭を征す。

原文龜茲,一曰丘茲,一曰屈茲,東距京師七千里而贏,自焉耆西南步二百里,度小山,經大河二,又步七百里乃至。橫千里,縱六百里。土宜麻、麥、粳稻、蒲陶,出黃金。俗善歌樂,旁行書,貴浮圖法。產子以木壓首。俗斷髮齊頂,惟君不翦發。姓白氏。居伊邏廬城,北倚河羯田山,亦曰白山,常有火。王以錦冒頂,錦袍、寶帶。歲朔,鬥羊馬橐它七日,觀勝負以卜歲盈耗雲。蔥嶺以東俗喜淫,龜茲、於闐置女肆,征其錢。

高祖禅を受く。王蘇伐勃駃使を遣わして入朝す。時に死す。子蘇伐疊立つ。号して時健莫賀俟利発という。貞観四年馬を献ず。太宗璽書を賜い、撫慰を加うること等を加う。後に西突厥に臣す。郭孝恪焉耆を伐つに及び、すなわち兵を遣わして焉耆と影援し、ここより朝貢せず。

原文高祖受禪,王蘇伐勃駃遣使入朝。會死,子蘇伐疊立,號時健莫賀俟利發。貞觀四年獻馬,太宗賜璽書,撫慰加等。後臣西突厥。郭孝恪伐焉耆,乃遣兵與焉耆影援,自是不朝貢。

蘇伐疊が死に、弟の訶黎布失畢が立つ。二十一年、二度使者を遣わして朝貢したが、帝はその焉耆の叛を助けたことを怒り、討伐を議した。この夜、月が昴を食す。詔して曰く、「月は陰の精にして、刑を用いる兆なり。星は胡の分にして、数まさに終わらんとす」と。乃ち阿史那社爾を以て昆丘道行軍大総管と為し、契何力を副え、安西都護郭孝恪・司農卿楊弘禮・左武衛将軍李海岸等を率い、鉄勒十三部の兵十万を発してこれを討たしむ。社爾は五軍に分かれてその北を掠め、焉耆王阿那支を執る。亀茲大いに恐れ、酋長皆城を棄てて走る。社爾は磧石に次ぐ。王城より三百里。先に伊州刺史韓威を遣わし、千騎を以て前に居らしめ、右驍衛将軍曹継叔これに次ぐ。多褐に至り、王と遇う。その将羯獵顛の兵五万、合戦す。威偽りて北し、王、威の兵少なきを見て、麾して進む。威退きて継叔と合し、還りて戦い、大いにこれを破り、八十里を追奔す。王城に嬰る。社爾将にこれを囲まんとす。王、突騎を引きて西に走る。城遂に抜かる。孝恪居りて守る。沙州刺史蘇海政・行軍長史薛万備、精騎を以て六百里を窮めて躡う。王計窮まり、撥換城に保つ。社爾これを囲む。閲月、王及び羯獵顛を執る。その相那利、夜逸す。西突厥を併せ、国人万余を以て来たり戦う。孝恪及び子、これに死す。王師擾る。倉部郎中崔義起、兵を募りて城中に戦い、継叔・威、助け撃ちて之を斬ること三千級。那利敗れ、亡散を裒めて復振い、還りて王師を襲う。継叔これに乗じ、八千級を斬る。那利走る。或いは執えて軍に詣る。社爾凡そ五大城を破り、男女数万。使者を遣わし小城七百余を諭降せしむ。西域震懼す。西突厥・安両国、軍に餉を帰す。社爾、王弟葉護を立ててその国に王たらしめ、石を勒して功を紀す。

原文蘇伐疊死,弟訶黎布失畢立。二十一年,兩遣使朝貢,然帝怒其佐焉耆叛,議討之。是夜月食昴,詔曰:「月陰精,用刑兆也;星胡分,數且終。」乃以阿史那社爾為昆丘道行軍大總管,契何力副之,率安西都護郭孝恪、司農卿楊弘禮、左武衛將軍李海岸等發鐵勒十三部兵十萬討之。社爾分五軍掠其北,執焉耆王阿那支。龜茲大恐,酋長皆棄城走。社爾次磧石,去王城三百里。先遣伊州刺史韓威以千騎居前,右驍衛將軍曹繼叔次之。至多褐,與王遇,其將羯獵顛兵五萬合戰。威偽北,王見威兵少,麾而進,威退與繼叔合,還戰,大破之,追奔八十里。王嬰城,社爾將圍之,王引突騎西走,城遂拔,孝恪居守。沙州刺史蘇海政、行軍長史薛萬備以精騎窮躡六百里。王計窮,保撥換城,社爾圍之。閱月,執王及羯獵顛。其相那利夜逸,以西突厥並國人萬餘來戰,孝恪及子死之。王師擾,倉部郎中崔義起募兵戰城中,繼叔、威助擊之,斬首三千級。那利敗,裒亡散復振,還襲王師,繼叔乘之,斬八千級。那利走,或執以詣軍。社爾凡破五大城,男女數萬,遣使者諭降小城七百餘,西域震懼,西突厥、安兩國歸軍餉焉。社爾立王弟葉護王其國,勒石紀功。

書聞こゆ。帝喜び、群臣に見え従容として曰く、「夫れ楽には幾つかあり。朕嘗てこれを言えり。土城竹馬は童児の楽しみなり。金翠羅紈を飭るは婦人の楽しみなり。有無を貿遷するは商賈の楽しみなり。高官厚秩は士大夫の楽しみなり。戦いて前敵無きは将帥の楽しみなり。四海寧一なるは帝王の楽しみなり。朕今楽しむことあり」と。遂に遍く觴す。初め、孝恪の焉耆を撃つや、亀茲に浮屠ありて数に善くし、嘆いて曰く、「唐家終に西域を有たん。数年ならずして吾が国も亦亡びん」と。社爾、訶黎布失畢・那利・羯獵顛を執り、太廟に献ず。帝、俘を紫微殿に受く。帝責め謂う。君臣皆頓首して伏す。詔して罪を赦し、館を鴻臚寺に改め、布失畢を左武衛中朗将に拝す。始めて安西都護をその都に徙し、于闐・碎葉・疏勒を統べ、「四鎮」と号す。

原文書聞,帝喜,見群臣從容曰:「夫樂有幾,朕嘗言之:土城竹馬,童兒樂也;飭金翠羅紈,婦人樂也;貿遷有無,商賈樂也;高官厚秩,士大夫樂也;戰無前敵,將帥樂也;四海寧一,帝王樂也。朕今樂矣!」遂遍觴之。初,孝恪之擊焉耆也,龜茲有浮屠善數,嘆曰:「唐家終有西域,不數年吾國亦亡。」社爾執訶黎布失畢、那利、羯獵顛獻太廟,帝受俘紫微殿。帝責謂,君臣皆頓首伏。詔赦罪,改館鴻臚寺,拜布失畢左武衛中朗將。始徙安西都護於其都,統於闐、碎葉、疏勒,號「四鎮。」

高宗、復た訶黎布失畢を封じて亀茲王と為し、那利・羯獵顛とともに国に還す。久しくして、王来朝す。那利、その妻阿史那を烝す。王禁ずる能わず。左右請うてこれを殺さんとす。ここにより更に猜忌す。使者状を言う。帝並びに京師に召し至らしめ、那利を囚え、護りて王を還し遣わす。羯獵顛、内を拒みて納れず。使者を遣わして賀魯に降る。王進むを敢えず、悒悒として死す。詔して左屯衛大将軍楊胄に兵を発して羯獵顛を禽えしめ、部党を窮めて誅し、その地を以て亀茲都督府と為し、更に子素稽を立てて王と為し、右驍衛大将軍を授け、都督と為す。この歳、安西都護府をその国に徙し、故の安西を以て西州都督府と為し、即ち左驍衛大将軍兼安西都護曲智湛を拝して都督と為す。西域平ぐ。帝、使者を遣わし諸国を分行して風俗物産せしめ、詔して許敬宗に史官とともに『西域図志』を撰せしむ。

原文高宗復封訶黎布失畢為龜茲王,與那利、羯獵顛還國。久之,王來朝。那利烝其妻阿史那,王不能禁,左右請殺之,由是更猜忌。使者言狀,帝並召至京師,囚那利,護遣王還。羯獵顛拒不內,遣使降賀魯,王不敢進,悒悒死。詔左屯衛大將軍楊胄發兵禽羯獵顛,窮誅部黨,以其地為龜茲都督府,更立子素稽為王,授右驍衛大將軍,為都督。是歲,徙安西都護府於其國,以故安西為西州都督府,即拜左驍衛大將軍兼安西都護曲智湛為都督。西域平。帝遣使者分行諸國風俗物產,詔許敬宗與史官撰《西域圖志》。

上元中、素稽、銀頗羅・名馬を献ず。天授三年、王延田跌来朝す。初め、儀鳳の時、吐蕃焉耆より以西を攻め、四鎮皆没す。長寿元年、武威道総管王孝傑、吐蕃を破り、四鎮の地を復し、安西都護府を亀茲に置き、兵三万を以て鎮守す。ここにおいて沙磧荒絶し、民貲糧を供するに苦しむこと甚だし。議者これを棄てんことを請うも、武後聴かず。都護にして政勣華狄に称せらるる者は、田揚名・郭元振・張孝嵩・杜暹雲なり。開元七年、王白莫死に、子多幣立つ。名を改めて孝節と為す。十八年、弟孝義を遣わして来朝す。

原文上元中,素稽獻銀頗羅、名馬。天授三年,王延田跌來朝。始,儀鳳時,吐蕃攻焉耆以西,四鎮皆沒。長壽元年,武威道總管王孝傑破吐蕃,復四鎮地,置安西都護府於龜茲,以兵三萬鎮守。於是沙磧荒絕,民供貲糧苦甚,議者請棄之,武後不聽。都護以政勣稱華狄者,田揚名、郭元振、張孝嵩、杜暹雲。開元七年,王白莫死,子多幣立,改名孝節。十八年,遣弟孝義來朝。

亀茲より贏ること六百里、小沙磧を窬ゆれば、跋祿迦あり。小国なり。一に亟墨と曰う。即ち漢の姑墨国なり。横六百里、縦三百里。風俗文字は亀茲と同じく、言語少しく異なる。細氈褐を出す。西三百里、石磧を度りて淩山に至る。葱嶺の北原なり。水東流れ、春夏山谷に積雪す。西北五百里、素葉水城に至る。比国商胡雑居す。素葉より西数十城、皆君長を立て、役頟して突厥に属す。素葉水城より羯霜那国に至るまで、氈褐皮氎を衣、繒繚を以てす。素葉城より西四百里、千泉に至る。地贏ること二百里、南に雪山、三垂平陸、泉池多し。名これに因る。突厥可汗、歳中に避暑す。群鹿鈴镮を飾り、狎るべし。西贏ること百里、呾邏私城に至る。亦比国商胡雑居す。小城あり、三百、本華人、突厥に掠えられ、群れこれを保つ。尚華語を語る。西南贏ること二百里、白水城に至る。原隰膏腴なり。南五十里に笯赤建国あり。広さ千里、地沃にして稼に宜しく、蒲陶多し。また二百里にして即ち石国なり。

原文自龜茲贏六百里,窬小沙磧,有跋祿迦,小國也,一曰亟墨,即漢姑墨國,橫六百里,縱三百里。風俗文字與龜茲同,言語少異。出細氈褐。西三百里度石磧至淩山,蔥嶺北原也,水東流,春夏山谷積雪。西北五百里至素葉水城,比國商胡雜居。素葉以西數十城,皆立君長,役頟屬突厥。自素葉水城至羯霜那國,衣氈褐皮氎,以繒繚。素葉城西四百里至千泉,地贏二百里,南雪山,三垂平陸,多泉池,因名之,突厥可汗歲避暑其中。群鹿飾鈴镮,可狎也。西贏百里至呾邏私城,亦比國商胡雜居。有小城,三百,本華人,為突厥所掠,群保此,尚華語。西南贏二百里至白水城,原隰膏腴。南五十里有笯赤建國,廣千里,地沃宜稼,多蒲陶。又二百里即石國。

疏勒

原文疏勒

疏勒、一に佉沙と曰う。五千里を環らし、京師を距つこと九千里にして贏つ。沙磧多く、壤土少なし。俗は詭詐を尚び、子を生むも亦頭を夾りて褊を取る。その人、文身碧瞳なり。王姓は裴氏、自ら「阿摩支」と号し、迦師城に居る。突厥、女を以て妻と為す。勝兵二千人。俗、祅神を祠る。

原文疏勒,一曰佉沙,環五千里,距京師九千里而贏。多沙磧,少壤土。俗尚詭詐,生子亦夾頭取褊,其人文身碧瞳。王姓裴氏,自號「阿摩支」,居迦師城,突厥以女妻之。勝兵二千人。俗祠祅神。

貞観九年、使者を遣わして名馬を献じ、また四年、朱俱波・甘棠とともに方物を貢ぐ。太宗、房玄齢等に謂いて曰く、「曩に天下を一にするも、四夷に克ち勝つは、惟だ秦皇・漢武のみ。朕は三尺の剣を提げて四海を定め、遠夷率服す。二君に減ぜざるなり。然れども彼ら末路自ら保たず。公等宜しく相輔弼し、諛言を進めて朕を危亡に置くことなかれ」と。儀鳳の時、吐蕃その国を破る。開元十六年、始めて大理正喬夢松を遣わし鴻臚少卿を摂せしめ、その君安定を冊して疏勒王と為す。天宝十二載、首領裴国良来朝し、折沖都尉を授け、紫袍・金魚を賜う。

原文貞觀九年,遣使者獻名馬,又四年,與朱俱波、甘棠貢方物。太宗謂房玄齡等曰:「曩之一天下,克勝四夷,惟秦皇、漢武耳。朕提三尺劍定四海,遠夷率服,不減二君者。然彼末路不自保,公等宜相輔弼,毋進諛言,置朕於危亡也。」儀鳳時,吐蕃破其國。開元十六年,始遣大理正喬夢松攝鴻臚少卿,冊其君安定為疏勒王。天寶十二載,首領裴國良來朝,授折沖都尉,賜紫袍、金魚。

朱俱波

原文朱俱波

朱俱波は亦た朱俱槃と名づく。漢の子合国なり。並びに西夜・蒲犁・依耐・得若四種の地を有す。直に于闐の西千里、葱嶺の北三百里、西は喝盤陀を距ち、北九百里は疏勒に属し、南三千里は女国なり。勝兵二千人。浮屠法を尚び、文字は婆羅門と同じし。

原文朱俱波亦名朱俱槃,漢子合國也。並有西夜、蒲犁、依耐、得若四種地,直於闐西千里,蔥嶺北三百里,西距喝盤陀,北九百里屬疏勒,南三千里女國也。勝兵二千人。尚浮屠法,文字同婆羅門。

甘棠

原文甘棠

甘棠は、海の南に在り。昆侖の人なり。

原文甘棠,在海南,昆侖人也。

喝盤陀

原文喝盤陀

喝盤陀は、或いは漢陀、或いは渇館檀、また渇羅陀とも称す。疏勒より西南に進み、剣末谷・不忍領を経て六百里、その国に至る。瓜州より四千五百里、朱俱波の西に直し、南は懸度山に距り、北は疏勒に抵り、西は護密、西北は判汗国に接す。葱嶺の中に治し、都城は徙多河に負う。勝兵千人。その王は元来疏勒の人、世々相承けてこれに任ず。西南に即ち頭痛山あり。葱嶺は俗に極嶷山と号し、その国を環繞す。人勁悍にして、容貌・言語は於闐に似たり。その法、人を殺し剽劫する者は死罪、その他は贖罪を得。賦税は必ず服飾を輸納し、王は人床に坐す。後魏太延年中、初めて中国に通ず。貞観九年、使者を遣わして来朝す。開元年中、その国を破り平らげ、葱嶺守捉を置く、安西の極辺の戍なり。

原文喝盤陀,或曰漢陀,曰渴館檀,亦謂渴羅陀,由疏勒西南入劍末谷、不忍領六百里,其國也。距瓜州四千五百里,直朱俱波西,南距懸度山,北抵疏勒,西護密,西北判汗國也。治蔥嶺中,都城負徙多河。勝兵千人。其王本疏勒人,世相承為之。西南即頭痛山也。蔥嶺俗號極嶷山,環其國。人勁悍,貌、言如於闐。其法,殺人剽劫者死,餘得贖。賦必輸服飾,王坐人床。後魏太延中,始通中國。貞觀九年,遣使者來朝。開元中破平其國,置蔥嶺守捉,安西極邊戍也。

於闐

原文於闐

於闐は、或いは瞿薩旦那、また渙那、屈丹とも曰い、北狄は於遁と曰い、諸胡は豁旦と曰う。京師より九千七百里、瓜州よりは四千里を贏え、併せて漢の戎廬・桿彌・渠勒・皮山の五国の故地を有す。その居所を西山城と曰い、勝兵四千人。玉河あり、国人夜に月光の盛んなる処を視れば必ず美玉を得。王は絵室に居す。俗機巧にして、言迂大、祅神・浮屠法を喜び事とす、然れども貌恭謹にして、相見ゆる皆跪く。木を以て筆と為し、玉を以て印と為し、凡そ問遺の書を得れば、首に戴きて乃ちこれを発す。漢の武帝以来、中国の詔書符節は、その王伝えて以て相授く。人歌舞を喜び、紡勣に工なり。西に沙磧あり、鼠は猟の如く大にして、色金に類し、出入りに群鼠を従と為す。初め桑蠶無く、隣国に乞うも、肯って出さず、その王即ち婚を求め、許さる。将に迎えんとす、乃ち告げて曰く「国に帛無し、蠶を持ち自ら衣と為すべし」と。女聞き、蠶を帽絮の中に置く、関守敢えて験せず、是より始めて蠶有り。女石を刻みて約し、蠶を殺すこと無く、蛾飛び尽きて繭を治むるを得。

原文於闐,或曰瞿薩旦那,亦曰渙那,曰屈丹,北狄曰於遁,諸胡曰豁旦。距京師九千七百里,瓜州贏四千里,並有漢戎廬、桿彌、渠勒、皮山五國故地。其居曰西山城,勝兵四千人。有玉河,國人夜視月光盛處必得美玉。王居繪室。俗機巧,言迂大,喜事祅神、浮屠法,然貌恭謹,相見皆跪。以木為筆,玉為印,凡得問遺書,戴於首乃發之。自漢武帝以來,中國詔書符節,其王傳以相授。人喜歌舞,工紡勣。西有沙磧,鼠大如猬,色類金,出入群鼠為從。初無桑蠶,丐鄰國,不肯出,其王即求婚,許之。將迎,乃告曰:「國無帛,可持蠶自為衣。」女聞,置蠶帽絮中,關守不敢驗,自是始有蠶。女刻石約無殺蠶,蛾飛盡得治繭。

王は尉遅氏を姓とし、名は屋密、本より突厥に臣す。貞観六年、使者を遣わして入献す。後三年、子を遣わして入侍せしむ。阿史那社爾の亀茲を平らげし時、その王伏闍信大いに懼れ、子をして橐駝三百を献ぜしむ。長史薛万備、社爾に謂いて曰く「公亀茲を破り、西域皆震恐す、願わくは軽騎を仮りて於闐王を羈縻し京師に献ぜしめよ」と。社爾これを許す。於闐に至り、唐の威霊を陳べ、入りて天子に謁見するを勧む、伏闍信乃ち使者に随いて来る。会に高宗立つ、右衛大将軍を授け、子の葉護玷を右驍衛将軍と為し、袍帯を賜い、布帛六千段、第一区を賜い、数ヶ月留めてこれを遣わし、子弟を以て宿衛せんことを請う。上元初、身みずから子弟酋領七十人を率いて来朝す。吐蕃を撃つこと功有り、帝その地を以て毗沙都督府と為し、十州を析き、伏闍雄に都督を授く。死す、武后その子の敬を立てる。開元時、馬・駝・豽を献ず。敬死す、復た尉遅伏師戦を立てて王と為す。死す、伏闍達嗣ぐ、併せてその妻執失を冊して妃と為す。死す、尉遅圭嗣ぐ、妻の馬を妃と為す。圭死す、子の勝立つ。至徳初、兵を以て難に赴き、因りて留まり宿衛せんことを請う。乾元三年、その弟の左監門衛率葉護曜を大僕員外卿・同四鎮節度副使と為し、権をもって本国事を知らしむ。勝は自ら伝有り。

原文王姓尉遲氏,名屋密,本臣突厥,貞觀六年,遣使者入獻。後三年,遣子入侍。阿史那社爾之平龜茲也,其王伏阇信大懼,使子獻橐它三百。長史薛萬備謂社爾曰:「公破龜茲,西域皆震恐,願假輕騎羈於闐王獻京師。」社爾許之。至於闐,陳唐威靈,勸入見天子,伏阇信乃隨使者來。會高宗立,授右衛大將軍,子葉護玷為右驍衛將軍,賜袍帶,布帛六千段,第一區,留數月遣之,請以子弟宿衛。上元初,身率子弟酋領七十人來朝。擊吐蕃有功,帝以其地為毗沙都督府,析十州,授伏阇雄都督。死,武後立其子敬。開元時獻馬、駝、豽。敬死,復立尉遲伏師戰為王。死,伏阇達嗣,並冊其妻執失為妃。死,尉遲圭嗣,妻馬為妃。圭死,子勝立。至德初,以兵赴難,因請留宿衛。乾元三年,以其弟左監門衛率葉護曜為大仆員外卿、同四鎮節度副使,權知本國事。勝自有傳。

於闐の東三百里に建徳力河有り、七百里に精絶国有り。河の東に汗弥有り、達徳力城に居す、また拘弥城とも曰い、即ち寧弥の故城なり。皆小国なり。

原文於闐東三百里有建德力河,七百里有精絕國;河之東有汗彌,居達德力城,亦曰拘彌城,即寧彌故城。皆小國也。

初め、徳宗即位す、内給事朱如玉を安西に遣わし、玉を於闐に求めしむ。圭一、珂佩五、枕一、帯胯三百、簪四十、奩三十、釧十、杵三、瑟瑟百斤、並びに他の宝等を得たり。還るに及び、詐りて言う「回紇かいこつを仮道するも奪わる」と。久しくして事泄る、市いし所を得、恩州に流し死せしむ。

原文初,德宗即位,遣內給事朱如玉之安西,求玉於於闐,得圭一,珂佩五,枕一,帶胯三百,簪四十,奩三十,釧十,杵三,瑟瑟百斤,並它寶等。及還,詐言假道回紇為所奪。久之事泄,得所市,流死恩州。

天竺国

原文天竺國

天竺国は、漢の身毒国なり、或いは摩伽陀、婆羅門とも曰う。京師を去ること九千六百里、都護の治所より二千八百里。葱嶺の南に居し、幅圓三万里、東・西・南・北・中の五天竺に分かれ、皆城邑数百。南天竺は海に瀕し、師子・豹・𤟤・橐駝・犀・象・火斉・琅玕・石蜜・黒塩を出す。北天竺は雪山に距り、円く抱くこと璧の如く、南に谷有り、通じて国門と為す。東天竺は海に際し、扶南・林邑と接す。西天竺は罽賓・波斯と接す。中天竺は四天竺の会に在り、都城を茶鎛和羅城と曰い、迦毗黎河に濱す。別城数百有り、皆長を置く。別国数十、王を置く。曰く舎衛、曰く迦没路、戸を開く皆東に向う、曰く迦尸、或いは波羅奈、また波羅那斯とも曰う。その畜に稍割牛有り、黒色、角細く、長さ四尺許、十日に一割せずんば困憊し且つ死す。人その血を飲む、或いは曰く寿五百歳、牛の寿もまたこれに如しと。

原文天竺國,漢身毒國也,或曰摩伽陀,曰婆羅門。去京師九千六百里,都護治所二千八百里。居葱嶺南,幅圓三萬里,分東、西、南、北、中五天竺,皆城邑數百。南天竺瀕海,出師子、豹、𤟤、橐它、犀、象、火齊、琅玕、石蜜、黑鹽。北天竺距雪山,圜抱如璧,南有谷,通為國門。東天竺際海,與扶南、林邑接。西天竺與罽賓、波斯接。中天竺在四天竺之會,都城曰茶镈和羅城,濱迦毗黎河。有別城數百,皆置長;別國數十,置王。曰舍衛;曰迦沒路,開戶皆東嚮;曰迦尸,或曰波羅奈,亦曰波羅那斯。其畜有稍割牛,黑色,角細,長四尺許,十日一割,不然困且死。人飲其血,或曰壽五百歲,牛壽如之。

中天竺の王は乞利咥氏を姓とし、また刹利とも曰い、世々その国を有し、簒殺せず。土溽熱にして、稻歳に四熟す。禾の長き者は橐駝を没す。貝歯を以て貨と為す。金剛・旃檀・鬱金有り、大秦・扶南・交趾と相貿易す。人富楽にして、簿籍無く、王地を耕す者乃ち税を輸す。足を舐え踵を摩するを以て礼を致す。家に奇楽倡伎有り。王大臣皆錦罽を服し、頂に於いて螺髻を為し、余発は翦りて巻かしむ。男子耳を穿ち璫を垂れ、或いは金を懸く、耳緩き者を上類と為す。徒跣し、衣は白を重ぬ。婦人は項に金・銀・珠纓絡を飾り、死者は骸を燔き灰を取り、窣堵を建つ、或いは野中及び河に委ね、鳥獣魚鼈に餌とす、喪紀無し。謀反する者は幽閉して殺す。小罪は銭を贖う。不孝なる者は手足を断ち、耳鼻を劓ぎ、辺に徙す。文字有り、歩曆に善く、『悉曇章』を学び、妄りに梵天法と曰う。貝多葉に書して以て事を記す。浮図法を尚び、生を殺し酒を飲まず、国中処処に指して仏の故跡と曰う。盟誓を信じ、禁呪を伝え、能く龍を致して雲雨を起こす。

原文中天竺王姓乞利咥氏,亦曰刹利,世有其國,不篡殺。土溽熱,稻歲四熟。禾之長者沒橐它。以貝齒為貨。有金剛、旃檀、鬱金,與大秦、扶南、交趾相貿易。人富樂,無簿籍,耕王地者乃輸稅。以舐足摩踵為致禮。家有奇樂倡伎。王大臣皆服錦罽,為螺髻於頂,餘發翦使卷。男子穿耳垂璫,或懸金,耳緩者為上類;徒跣,衣重白。婦人項飾金、銀、珠纓絡,死者燔骸取灰,建窣堵,或委野中及河,餌鳥獸魚鼈,無喪紀。謀反者幽殺之;小罪贖錢;不孝者斷手足,劓耳鼻,徙于邊。有文字,善步曆,學《悉曇章》,妄曰梵天法。書貝多葉以記事。尚浮圖法,不殺生飲酒,國中處處指曰佛故跡也。信盟誓,傳禁呪,能致龍起雲雨。

隋の煬帝の時、裴矩を遣わして西域諸国を通ぜしむ、独り天竺・拂菻至らずして恨みと為す。武徳中、国大いに乱る、王尸羅逸多兵を勒して戦うに前なる無く、象は鞍を弛めず、士は甲を釈かず、因りて四天竺を討ち、皆北面してこれに臣す。会に唐の浮屠玄奘その国に至る、尸羅逸多召見して曰く「而が国に聖人出で、『秦王破陣楽』を作る、試みに我が為にその人為を言え」と。玄奘粗らかに太宗の神武、禍乱を平らげ、四夷賓服する状を言う。王喜びて曰く「我まさに東面してこれに朝せん」。貞観十五年、自ら摩伽陀王と称し、使者を遣わして上書す。帝命じて雲騎尉梁懷璥に節を持たせ尉撫せしむ、尸羅逸多驚きて国人に問う「古より亦た摩訶震旦の使者吾が国に至ること有りや」と。皆曰く「無し」と。戎言に中国を摩訶震旦と為す。乃ち出で迎え、膜拜して詔書を受け、これを頂に戴く、復た使者を遣わし随いて入朝せしむ。詔して衛尉丞李義表をしてこれに報ぜしむ、大臣郊迎し、都邑を傾けて縱観し、道上香を焚き、尸羅逸多群臣を率いて東面して詔書を受け、復た火珠・鬱金・菩提樹を献ず。

原文隋煬帝時,遣裴矩通西域諸國,獨天竺、拂菻不至為恨。武德中,國大亂,王尸羅逸多勒兵戰無前,象不弛鞍,士不釋甲,因討四天竺,皆北面臣之。會唐浮屠玄奘至其國,尸羅逸多召見曰:「而國有聖人出,作《秦王破陣樂》,試為我言其為人。」玄奘粗言太宗神武,平禍亂,四夷賓服狀。王喜,曰:「我當東面朝之。」貞觀十五年,自稱摩伽陀王,遣使者上書。帝命雲騎尉梁懷璥持節尉撫,尸羅逸多驚問國人:「自古亦有摩訶震旦使者至吾國乎?」皆曰:「無有。」戎言中國為摩訶震旦。乃出迎,膜拜受詔書,戴之頂,復遣使者隨入朝。詔衛尉丞李義表報之,大臣郊迎,傾都邑縱觀,道上焚香,尸羅逸多率羣臣東面受詔書,復獻火珠、鬱金、菩提樹。

二十二年、右衛率府長史王玄策を遣わしてその国に使わし、蒋師仁を副使とす。未だ至らざるに、尸羅逸多死し、国人乱れ、その臣那伏帝阿羅那順自立し、兵を発して玄策を拒ぐ。時に従騎僅かに数十、戦に勝たず、皆没し、遂に諸国の貢物を剽す。玄策は身を挺して吐蕃の西鄙に奔り、檄を飛ばして隣国の兵を召す。吐蕃は兵千人を以て来たり、泥婆羅は七千騎を以て来たり、玄策は部分して茶鏄和羅城に進戦し、三日にしてこれを破り、首三千級を斬り、溺死する者万人。阿羅那順は国を委ねて走り、散兵を合わせて復た陣す。師仁これを禽え、俘斬千計。余衆は王の妻子を奉じて乾陀衛江に阻まる。師仁これを撃ち、大いに潰え、その妃・王子を獲、男女一万二千人を虜にし、雑畜三万、城邑五百八十所を降す。東天竺王尸鳩摩は牛馬三万を送って軍に餽り、及び弓・刀・宝纓絡を献ず。迦没路国は異物を献じ、并せて地図を上り、老子の像を請う。玄策は阿羅那順を執りて闕下に献ず。有司宗廟に告ぐ。帝曰く、「夫人の耳目は声色に玩び、口鼻は臭味に耽る。これ敗徳の原なり。婆羅門、吾が使者を劫せずんば、寧ぞ俘虜に至らんや」と。玄策を擢て朝散大夫とす。

原文二十二年,遣右衛率府長史王玄策使其國,以蔣師仁為副;未至,尸羅逸多死,國人亂,其臣那伏帝阿羅那順自立,發兵拒玄策。時從騎纔數十,戰不勝,皆沒,遂剽諸國貢物。玄策挺身奔吐蕃西鄙,檄召鄰國兵。吐蕃以兵千人來,泥婆羅以七千騎來,玄策部分進戰茶鏄和羅城,三日破之,斬首三千級,溺水死萬人。阿羅那順委國走,合散兵復陣,師仁禽之,俘斬千計。餘衆奉王妻息阻乾陀衛江,師仁擊之,大潰,獲其妃、王子,虜男女萬二千人,雜畜三萬,降城邑五百八十所。東天竺王尸鳩摩送牛馬三萬餽軍,及弓、刀、寶纓絡。迦沒路國獻異物,并上地圖,請老子象。玄策執阿羅那順獻闕下。有司告宗廟,帝曰:「夫人耳目玩聲色,口鼻耽臭味,此敗德之原也。婆羅門不劫吾使者,寧至俘虜邪?」擢玄策朝散大夫。

方士那邏邇娑婆寐を得たり。自ら言う、寿二百歳、不死の術有りと。帝は館を改めて丹を治めしめ、兵部尚書崔敦礼に命じて護視せしむ。使者天下に馳せて怪薬異石を采り、又使者をして婆羅門諸国に走らしむ。所謂畔茶法水は、石臼の中に出で、石象の人これ守る。水に七種の色有り、或いは熱く或いは冷たく、草木金鉄を銷く能く、人手入れば輒ち爛る。橐它(駱駝)の髑髏を以て瓠中に転注す。樹有り名けて咀頼羅、葉は梨の如し、窮山の崖腹に生じ、前に巨虺穴を守りて到る可からず。葉を取らんと欲する者は、方鏃の矢を以て枝を射れば則ち落ち、群鳥これを銜び去れば、則ち又射ちて乃ちこれを得。その詭譎此の類の如し。後に術験せず、詔有りて還るを聴す。去ること能わず、長安に死す。高宗の時、廬伽逸多なる者、東天竺烏茶の人、亦た術を以て進み、懐化大将軍に拝す。

原文得方士那邏邇娑婆寐,自言壽二百歲,有不死術,帝改館使治丹,命兵部尚書崔敦禮護視。使者馳天下,采怪藥異石,又使者走婆羅門諸國。所謂畔茶法水者,出石臼中,有石象人守之,水有七種色,或熱或冷,能銷草木金鐵,人手入輒爛,以橐它髑髏轉注瓠中。有樹名咀賴羅,葉如梨,生窮山崖腹,前有巨虺守穴,不可到。欲取葉者,以方鏃矢射枝則落,為羣鳥銜去,則又射,乃得之。其詭譎類如此。後術不驗,有詔聽還,不能去,死長安。高宗時,廬伽逸多者,東天竺烏茶人,亦以術進,拜懷化大將軍。

摩掲它

原文摩揭它

摩掲它、一に摩伽陀と曰う。本は中天竺の属国なり。五千里を環し、土沃にして稼穡に宜しく、異なる稻巨粒有り、号して供大人米とす。王は拘阇掲羅布羅城に居る。或いは俱蘇摩補羅と曰い、波咤厘子城と曰う。北は克伽河に瀕す。貞観二十一年、始めて使者を遣わして自ら天子に通じ、波羅樹を献ず。樹は白楊に類す。太宗は使者を遣わして熬糖の法を取り、即ち詔して揚州に諸蔗を上らしめ、拃沈してその剤の如くせしむ。色味西域を愈えること遠し。高宗は又た王玄策を遣わしてその国の摩訶菩提祠に至りて碑を立つ。後に徳宗は自ら鐘銘を制し、那爛陀祠に賜う。

原文摩揭它,一曰摩伽陀,本中天竺屬國。環五千里,土沃宜稼穡,有異稻巨粒,號供大人米。王居拘阇揭羅布羅城,或曰俱蘇摩補羅,曰波咤厘子城,北瀕克伽河。貞觀二十一年,始遣使者自通於天子,獻波羅樹,樹類白楊。太宗遣使取熬糖法,即詔揚州上諸蔗,拃沈如其劑,色味愈西域遠甚。高宗又遣王玄策至其國摩訶菩提祠立碑焉。後德宗自制鐘銘,賜那爛陀祠。

又た那揭有り、亦た属国なり。貞観二十年、使者を遣わして方物を貢ぐ。

原文又有那揭者,亦屬國也,貞觀二十年,遣使者貢方物。

烏茶

原文烏茶

烏茶は、一に烏伏那と曰い、亦た烏萇と曰う。天竺の南に直し、地広さ五千里、東は勃律に距ること六百里、西は罽賓に距ること四百里。山谷相属し、金・鉄・蒲陶・郁金を産す。稻は歳に熟す。人柔詐にして、善く禁架の術を為す。国に殺刑無く、死に抵る者はこれを窮山に放つ。罪に疑有れば、薬を飲ませ、溲の清濁を視て軽重を決す。五城有り、王は術瞢蘗利城に居る。一に瞢掲厘城と曰う。東北に達麗羅川有り、即ち烏萇の旧地なり。貞観十六年、その王達摩因陀訶斯、使者を遣わして龍脳香を献じ、璽書を以て優しく答う。大食は烏萇の東鄙と接し、開元中数えこれを誘う。その王は骨咄・俱位の二王と臣たるを肯わず。玄宗は使者を命じて冊して王とす。

原文烏茶者,一曰烏伏那,亦曰烏萇,直天竺南,地廣五千里,東距勃律六百里,西罽賓四百里。山谷相屬,產金、鐵、蒲陶、郁金。稻歲熟。人柔詐,善禁架術。國無殺刑,抵死者放之窮山。罪有疑,飲以藥,視溲清濁而決輕重。有五城,王居術瞢蘗利城,一曰瞢揭厘城,東北有達麗羅川,即烏萇舊地。貞觀十六年,其王達摩因陀訶斯遣使者獻龍腦香,璽書優答。大食與烏萇東鄙接,開元中數誘之,其王與骨咄、俱位二王不肯臣,玄宗命使者冊為王。

章求抜国

原文章求拔國

章求抜国、或いは章掲抜と曰う。本は西羌の種なり。悉立の西南四山中に居り、後に山西に徙り、東天竺と接す。衣服略々相類し、因りてこれに附す。地袤八九百里、勝兵二千人。城郭無く、好んで鈔暴し、商旅これを患う。貞観二十年、その王羅利多菩伽、悉立国に因りて使者を遣わし入朝す。玄策の中天竺を討つに、兵を発して来り赴き、功有り。これにより職貢絶えず。

原文章求拔國,或曰章揭拔,本西羌種。居悉立西南四山中,後徙山西,與東天竺接。衣服略相類,因附之。地袤八九百里,勝兵二千人。無城郭,好鈔暴,商旅患之。貞觀二十年,其王羅利多菩伽因悉立國遣使者入朝。玄策之討中天竺,發兵來赴,有功,由是職貢不絕。

悉立は吐蕃の西南に当たり、戸五万、城邑多く澗溪に旁る。男子は繒を以て頭を束ね、氈褐を衣る。婦人は髪を辮じ、短裙を着す。婚姻は財を以て聘とせず。その谷は粳稻・麦・豆に宜し。死者は野に葬り、樹を封ぜず、喪制は黑衣と為し、満年にして除く。刑に刖・劓有り。常に吐蕃に羈属す。

原文悉立當吐蕃西南,戶五萬,城邑多旁澗溪。男子繒束頭,衣氈褐。婦人辮發,短裙。昏姻不以財聘。其谷宜粳稻、麥、豆。死者葬於野,不封樹,喪制為黑衣,滿年而除。刑有刖、劓。常羈屬吐蕃。

罽賓

原文罽賓

罽賓は、隋の漕国なり。葱嶺の南に居り、京師に距ること一万二千里余、南は舎衛に距ること三千里。王は脩鮮城に居り、常に大月氏に役属す。地は暑湿にして、人は象に乗り、俗は浮屠法を治む。

原文罽賓,隋漕國也,居蔥嶺南,距京師萬二千里而贏,南距舍衛三千里。王居脩鮮城,常役屬大月氏。地暑濕,人乘象,俗治浮屠法。

国人共に伝う、王の始祖を馨孽と曰い、曷擷支に至りて十二世を伝う。顕慶三年、その地を以て脩鮮都督府と為す。龍朔初、その王を拝して脩鮮等十一州諸軍事・脩鮮都督とす。開元七年、使者を遣わして天文及び秘方奇薬を献じ、天子その王を冊して葛邏達支特勒とす。後に烏散特勒灑年老し、子の拂菻罽婆を以て嗣がしむるを請う。これを聴す。天宝四載、その子勃匐準を冊して罽賓及び烏萇国王を襲わしむ。乾元初、使者朝貢す。

原文國人共傳王始祖曰馨孽,至曷擷支傳十二世。顯慶三年,以其地為脩鮮都督府。龍朔初,拜其王脩鮮等十一州諸軍事、脩鮮都督。開元七年,遣使獻天文及秘方奇藥,天子冊其王為葛邏達支特勒。後烏散特勒灑年老,請以子拂菻罽婆嗣,聽之。天寶四載,冊其子勃匐準為襲罽賓及烏萇國王。乾元初使者朝貢。