新唐書

巻二百二十一下 列傳第一百四十六下 西域下

康國

康國は、一に薩末鞬といい、また颯秣建ともいい、元魏のいわゆる悉斤である。その南は史國に百五十里を距たり、西北は西曹に百余里を距たり、東南は米國に百里を属し、北は中曹に五十里を距つ。那密水の南に在り、大城三十、小堡三百。君は姓は溫、本は月氏の人なり。初め祁連の北の昭武城に居し、突厥に破られ、稍々南に葱嶺に依り、即ち其の地を有つ。枝庶分れて王たり、安、曹、石、米、何、火尋、戊地、史と曰い、世に「九姓」と謂い、皆昭武を氏とす。土沃にして禾に宜しく、善馬を出し、兵諸國に強し。人は酒を嗜み、道に歌舞を好む。王は氈を帽とし、金雜寶を飾る。女子は髻を盤け、黑巾を蒙り、金花を綴る。兒を生めば石蜜を以て之を啖わしめ、膠を掌に置く、長じて甘言せんことを欲し、缶を持すること黏雲の若くならんとす。旁行書を習う。商賈に善くし、利を好み、丈夫年二十なれば、傍國に去り、利の在る所に至らざる無し。十二月を以て歲首と為し、浮圖法を尚び、祅神を祠り、機巧の技を出す。十一月に鼓舞して寒を乞い、水を以て交わいに潑ぎて樂と為す。

隋の時、其の王屈木支は西突厥の女を娶り、遂に突厥に臣す。武德十年、始めて使を遣わして来たりて献ず。貞觀五年、遂に臣たることを請う。太宗曰く、「朕は虚名を取りて百姓を害するを悪む。且つ康國朕に臣すとも、緩急には當に其の憂いを同じくすべし。師行萬里、豈に朕が志ならんや」と。卻けて受けず。俄かに又た使を遣わして師子獸を献ず。帝其の遠きを珍しみ、命じて秘書監虞世南に賦を作らしむ。是より歳貢に入り、金桃・銀桃を致し、詔して苑中に植えしむ。

高宗永徽の時、其の地を以て康居都督ととく府と為し、即ち其の王拂呼縵を授けて都督と為す。萬歳通天の中、大首領篤娑缽提を以て王と為す。死し、子の泥涅師師立つ。死し、國人突昏を立てて王と為す。開元初め、鎖子鎧・水精杯・碼瓶・駝鳥卵及び越諾・侏儒・胡旋女子を貢ぐ。其の王烏勒伽は大食と亟に戦いて勝たず、来たりて師を乞う。天子許さず。久しくして、其の子咄曷を封じて曹王と為し、默啜を米王と為さんことを請う。詔して許す。烏勒伽死し、使を遣わして咄曷を立て、欽化王に封じ、其の母可敦を以て郡夫人と為す。

安國

安國は、一に布豁といい、又た捕喝といい、元魏は忸蜜と謂う。東北は東安に至り、西南は畢に至るまで、皆百里ばかり。西は烏滸河に瀕し、阿濫謐城を治め、即ち康居の小君長罽王の故地なり。大城四十、小堡千。勇健なる者を募りて柘羯と為す。柘羯は、猶中國の戰士と言うが如し。武德の時、使を遣わして入朝す。貞觀の初め、方物を献じ、太宗厚く其の使を尉して曰く、「西突厥已に降る。商旅行うべし」と。諸胡大いに悦ぶ。其の王訶陵迦又た名馬を献じ、自ら言う、一姓相承すること二十二世と云う。是の歳、東安國も亦た入献し、言う、子姓相承すること十世と云う。

東安

東安は、或いは小國といい、喝汗といい、那密水の陽に在り、東は何國に二百里許りを距たり、西南は大安に四百里を至る。喝汗城を治め、亦た{{?|⿳𥫗䀠侯}}斤という。大城二十、小堡百。顯慶の時、阿濫を以て安息州と為し、即ち其の王昭武殺を以て刺史と為す。{{?|⿳𥫗䀠侯}}斤を以て木鹿州と為し、其の王昭武閉息を以て刺史と為す。開元十四年、其の王篤薩波提、弟の阿悉爛達拂耽發黎を遣わして来朝し、馬豹を納む。後八年、波斯の█婁二、拂菻の繡氍球一、郁金香・石蜜等を献じ、其の妻可敦は柘辟の大氍球二、繡氍球一を献じ、袍帶・鎧仗及び可敦の袿䙱裝澤を賜わらんことを丐う。

東曹

東曹は、或いは率都沙那、蘇對沙那、劫布呾那、蘇都識匿といい、凡そ四名あり。波悉山の陰に居し、漢の貳師城の地なり。東北は俱戰提に二百里を距たり、北は石國に至り、西は康國に至り、東北は寧遠に至るまで、皆四百里許り、南は吐火羅に五百里を至る。野叉城有り、城に巨窟有り、關鑰を以て嚴にし、歳再び祭る。人窟に向かいて立ち、中より即ち煙出で、先ず觸るる者は死す。武德の中、康國と同しく使を遣わして入朝す。其の使曰く、「本國臣を以て健兒と為す。秦王の神武を聞き、麾下に隷せんと欲す」と。高祖こうそ大いに悦ぶ。

西曹

西曹は、隋の時の曹國なり。南は史國及び波覽に接し、瑟底痕城を治む。東北の越於底城に得悉神祠有り、國人之を事う。金具の器有り、其の左に款して曰く、「漢の時、天子の賜わるところ」と。武德の中、入朝す。天寶元年、王哥邏仆羅、使者を遣わして方物を献じ、詔して懷德王に封ず。即ち上言して曰く、「祖考以来、天可汗に奉ず。願わくは唐人と同しく調發を受け、天子の征討を佐けん」と。十一載、東曹王設阿忽と安王、黑衣大食を撃たんことを請う。玄宗之を尉し、聽かず。

中曹

中曹国は、西曹の東、康国の北に位置する。王は迦底真城に治す。その人は長大にして、戦闘に巧みである。

柘支

石国は、あるいは柘支、あるいは柘折、あるいは赭時といい、漢代の大宛の北辺である。京師より九千里。東北は西突厥に距たり、西北は波臘、南二百里ばかりで俱戦提に至り、西南五百里は康国である。円形で千余里、右の涯は素葉河。王は石姓、柘折城に治す、もとは康居の小王の窳匿城の地である。西南に薬殺水あり、中国に入ってこれを真珠河といい、また質河ともいう。東南に大山あり、瑟瑟を産す。俗は戦闘に長じ、良馬が多い。隋の大業初め、西突厥がその王を殺し、特勒の匐職にその国を統べさせた。武徳・貞観の間、たびたび方物を献じた。顕慶三年、瞰羯城を大宛都督府とし、その王瞰土屯摂舍提於屈昭穆に都督を授けた。開元初め、その君莫賀咄吐屯を封じ、功あり、石国王とした。二十八年、また順義王に冊立した。明年、王伊捺吐屯屈勒が上言して「今、突厥はすでに天可汗に属しました。ただ大食が諸国の患いとなっております。どうかこれを討たれますよう」と。天子は許さなかった。天宝初め、王子の那俱車鼻施を懐化王に封じ、鉄券を賜う。久しくして、安西節度使高仙芝がその蕃臣の礼なきを劾し、討伐を請うた。王は降伏を約したが、仙芝は使者を遣わして開遠門まで護送させ、俘虜として献上し、闕下で斬った。ここにおいて西域は皆怨んだ。王子は大食に走って兵を乞い、怛邏斯城を攻め、仙芝の軍を破った。ここより大食に臣従す。宝応の時、使者を遣わして朝貢した。

碎葉

碎葉というものあり、安西を出て西北千里ばかりのところにあり、勃達嶺を得て、南は上国に至り、北は突騎施の南辺である。西南は葱嶺に直し、二千里余り。水は南に流れるものは中国を経て海に入り、北に流れるものは胡を経て海に入る。北へ三日行きて雪海を渡る。春夏も常に雨雪あり。勃達嶺より北へ行くこと千里余り、細葉川を得る。東は熱海といい、地は寒いが凍らない。西に碎葉城あり、天宝七載、北庭節度使王正見が安西を伐ち、これを毀った。川の長さ千里、異姓の突厥の兵数万あり、耕す者は皆甲を擐い、互いに掠って奴婢とする。西は怛邏斯城に属し、石国は常に兵を分けてこれを鎮める。ここより西海に至る。三月より九月まで、未だ雨なく、人は雪水をもって田を灌ぐ。

怖捍

石国の東南千余里に怖捍あり、山が四方をめぐらし、地は膏腴で、馬羊が多い。西千里で堵利瑟那に距たり、東は葉葉水に臨む。水は葱嶺の北原より出で、色濁く、西北に流れて大磧に入る。水草なく、大山を望み、遺胔を尋ねて指すところを知る。五百余里にしてすなわち康国である。

彌末

米国は、あるいは彌末、あるいは彌秣賀という。北百里で康国に距たる。その君は缽息德城に治す。永徽の時、大食に破られる。顕慶三年、その地を南謐州とし、その君昭武開拙に刺史を授く。ここより朝貢絶えず。開元の時、璧・舞筵・師子・胡旋女を献ず。十八年、大首領末野門来朝す。天宝初め、その君を恭順王に封じ、母を可敦郡夫人とする。

屈霜你迦

何国は、あるいは屈霜你迦、あるいは貴霜匿といい、すなわち康居の小王の附墨城の故地である。城の左に重楼あり、北に中華の古帝、東に突厥・婆羅門、西に波斯・拂菻等の諸王を絵す。その君は旦に詣でて拝すれば退く。貞観十五年、使者を遣わして入朝す。永徽の時、上言して「唐が師を出して西を討たれると聞き、願わくば軍に糧を輸せん」と。まもなくその地を貴霜州とし、その君昭武婆達地に刺史を授く。使者の缽底失を遣わして謝す。

火尋

火尋は、あるいは貨利習彌、あるいは過利といい、烏滸水の陽に居す。東南六百里で戊地に距たり、西南は波斯と接し、西北は突厥の曷薩に至る。すなわち康居の小王の奥城の故地である。その君は急多颶遮城に治す。諸胡の中でこの国にのみ車牛あり、商賈はこれに乗って諸国を行く。天宝十載、君の稍施芬、使者を遣わして朝し、黒塩を献ず。宝応の時、また入朝す。

羯霜那

史国は、あるいは佉沙、あるいは羯霜那といい、獨莫水の南の康居の小王の蘇薤城の故地に居す。西百五十里で那色波に距たり、北二百里は米国に属し、南四百里は吐火羅である。鉄門山あり、左右巉峭にして、石の色鉄の如く、関を以て二国を限り、金をもって闔を錮す。城に神祠あり、祭るごとに必ず千羊を用い、兵を用いるには類いて先ず祷りて乃ち行く。国に城五百あり。隋の大業中、その君狄遮始めて中国に通じ、最も強盛を号し、乞史城を築き、地方数千里。貞観十六年、君の沙瑟畢、方物を献ず。顕慶の時、その地を佉沙州とし、君の昭武失阿喝に刺史を授く。開元十五年、君の忽必多、舞女・文豹を献ず。後に君長は数え死に、立つも、然れども首領は時時入朝す。天宝中、詔して史を改めて来威国とす。

那色波

那色波はまた小史ともいい、史に隷属せしめられしものなり。吐火羅の故地に居し、東は葱嶺に厄せられ、西は波剌斯に接し、南は雪山なり。

呾蜜種

縛芻水の北に沿いて呾蜜種あり、また自ら国をなす。東西六百里ほど。また東に四種を逾えて、鑊沙というものあり、広さ三百里、長さ五百里、東の界は骨咄に接し、葱嶺に接するもの十八種あり。南に揭職あり、稍々大きく、幅員千里に準じ、陵阜連属し、菽麦多く、気候寒烈なり。東南に雪山に抵ること六百里、道は吐火羅を経、また五種を逾えて婆羅睹邏に至る。北に山を逾えて行くこと六百里、烏萇種を得。東北に行くこと二百里、河波羅水に至る。水は西南に流れ、春夏は涸れ凍る。北に十二種を歴て婆羅吸摩補羅あり、最大の種にして、地を綿ること四千里、山その外を周り、土沃にして、鍮・水精を産す。北に大雪山あり、即ち東女なり。十九種を歴て摩掲陀を得。また東に四種を過ぎ、大河を逾えて迦摩縷波あり、皆坂険にして、地は西南夷に接し、その人、類は蛮獠なり。二月行きてしょくの南辺を叩く。その東南は野象群暴す、故に戦には象軍を用う。また南に三十二種を歴て狼掲羅というものあり、地は数千里に及び、その君は窣菟黎濕伐羅城を治む。西北は即ち波剌斯、伝言に広さ万里、王は蘇剌薩儻那城を治む。土は温溽にして、水を引いて田と為し、人富饒なり。金・銀・水精を出す。工巧多く、錦・褐・氍毹を織る。善馬・橐它を産す。人は錦氎を服す。賦税は、口ごとに四銀錢を出し、また以て交易す。西北は拂菻に距たり、西南は海島に際し、西女種あり、皆女子にして、珍貨多く、拂菻に附し、拂菻の君長は歳ごとに男子を遣わして配す。俗、男を産めば挙げず。また臂・多・勢・羅の四種あり、西北に大山広川を逾え、小城聚を歴て、二千里行けば即ち謝なり。北五百里に弗栗恃薩儻那あり、地は横二千里、縦千里。その君は突厥種にして、護那城を治む。東北に大雪山あり、盛夏も常に凍り、氷を鑿ちて乃ち度るべし。下に安呾羅縛というものあり、地三千里。西北に嶺を逾えること四百里に闊悉多あり。西北三百里に活種あり、大さ二千里。この三種は皆吐火羅の故地に居し、突厥に臣し、君もまた突厥種、鉄門南の諸戎を主とし、遷徙常ならず。東にまた七種あり、東南の峽道甚だ険しく、およそ三百里にして俱蘭を得。東北に山行すること五百里、即ち護密、北は識匿なり。南に商弥あり、地は二千里余り、蒲陶多し。雌黄を生じ、石を鑿ちて乃ち得。東北に山を逾えること七百里、波謎羅川に至る。東西千里、南北百里、春夏雨雪す。南に缽露種あり、紫金多し。五百里行けば盤陀あり。東に八百里行きて葱嶺を出で、また八百里で烏鎩に至る。千里を環し、白・・青の三種の玉を出す。君長は世々盤陀に臣す。北に磧を径て、曠野五百里にして疏勒を得。東南五百里にして徙多水を済い、大沙嶺を逾え、斫句迦種あり、あるいは沮渠といい、地千里。東に領を逾えること八百里、即ち于闐なり。東に媲摩川あり。磧を度りて二百里行けば尼壤城を得。大沢の中にあり、地は墊洳し、蘆荒茂り、行者は道を鑿ちて城に趣き于闐に通ず。而して于闐は以て東関と為す。また東に行きて大流沙に入る。人の行くに跡なく、故に往復すれば輒ち迷い、骸を聚めて以て道を識る。水草なく、熱風多く、人及び六畜に触れば皆迷い仆す。四百里行きて故都邏に至る。また六百里で故折摩馱那に至る、古の且末なり。また千里で故納縛波に至る、古の楼蘭なり。

呾蜜以下より、諸種相与に群聚し、華人は皆国名を以て之を呼ぶ。故に未だ嘗て唐と通ぜず、伝記雑詭にして、考うるを得ず。然れどもその地は諸国と連属す。粗その名を序す。

寧遠

寧遠は、本は抜汗那、あるいは〓汗といい、元魏の時は破洛那と謂う。京師を去ること八千里。西城に居し、真珠河の北に在り。大城六、小城百あり。人多く寿なり。その王は魏・晋より相承して絶えず。毎年の元日、王及び首領は二朋を判じ、朋より一人を出して甲を被りて闘い、衆は瓦石を以て之に相い、死者あれば止め、以て歳の善悪を卜す。

貞観中、王契は西突厥の瞰莫賀咄に殺され、阿瑟那鼠匿その城を奪う。鼠匿死し、子の遏波之は契の兄の子阿了参を立てて王と為し、呼悶城を治む。遏波之は渴塞城を治む。顕慶初、遏波之は使いを遣わして朝貢し、高宗厚く慰諭す。三年、渴塞城を以て休循州都督と為し、阿了参に刺史を授く。是より歳ごとに朝貢す。玄宗開元二十七年、王阿悉爛達幹は吐火仙平定を助け、冊して奉化王と拝す。天宝三載、その国号を寧遠と改め、帝は外家の姓を以てその王に賜いて竇と曰い、また宗室の女を封じて和義公主と為し、これに降嫁す。十三載、王忠節は子の薛裕を遣わして朝し、宿衛に留まり華礼を習わんことを請う。これを聴き、左武衛将軍を授く。その唐に事うること最も謹みあり。

大勃律

大勃律は、あるいは布露という。吐蕃の西に直し、小勃律に接し、西は北天竺・烏萇に隣る。地は郁金に宜し。吐蕃に役属す。万歳通天より開元に逮ぶまで、三たび使者を遣わして朝し、故にその君蘇弗舍利支離泥を冊して王と為す。死し、また蘇麟陀逸之を冊して王を嗣がしむ。凡そ再び大首領を遣わして方物を貢す。

小勃律は京師を去ること九千里余り。東少南三千里にして吐蕃の贊普牙に距たり、東八百里は烏萇に属し、東南三百里は大勃律、南五百里は個失蜜、北五百里は護密の娑勒城に当たる。王は孽多城に居し、娑夷水に臨む。その西山の顛に大城あり、迦布羅と曰う。開元初、王没謹忙来朝し、玄宗は以て児子のごとく之を畜い、その地を以て綏遠軍と為す。国は吐蕃に迫られ、数えられて困らしめらる。吐蕃曰く、「我は爾が国を謀るに非ず、道を仮りて四鎮を攻めんと欲するのみ」と。久しくして、吐蕃その九城を奪う。没謹忙北庭に救を求め、節度使張孝嵩は疏勒副使張思礼を遣わし、鋭兵四千を率いて倍道して往かしむ。没謹忙因りて出兵し、大いに吐蕃を破り、その衆数万を殺し、九城を復す。詔して冊して小勃律王と為し、大首領察卓那斯摩没勝を遣わして謝に入らしむ。

沒謹忙が死す、子の難泥立つ。死す、兄の麻來兮立つ。死す、蘇失利之立つ、吐蕃に陰に誘われ、女を妻とす、故に西北二十餘國皆吐蕃に臣し、貢獻入らず。安西都護三たびこれを討つも功無し。天寶六載、詔して副都護高仙芝にこれを伐たしむ。先に將軍席元慶を遣わし千騎を馳せて蘇失利之に見えしめて曰く、「道を仮りて大勃律に趨らんことを請う」と。城中の大酋五六人、皆吐蕃の腹心なり。仙芝、元慶に約す、「吾が兵到らば、必ず山に走らん。詔書を出して召し慰め、繒彩を賜え。酋領を縛して我を待て」と。元慶、約の如くす。蘇失利之、妻を挟みて走り、その処を得ず。仙芝至り、吐蕃に為す者を斬り、娑夷橋を断つ。是の暮、吐蕃至るも、救う能わず。仙芝、王に降を約し、遂にその国を平ぐ。ここに於いて拂菻・大食諸胡七十二國皆震恐し、咸く歸附す。小勃律王及び妻を執りて京師に歸し、詔してその国號を歸仁と改め、歸仁軍を置き、千人を募りてこれを鎮む。帝、蘇失利之を誅せずして赦し、右威衛將軍を授け、紫袍・黃金帯を賜い、宿衛せしむ。

吐火羅

吐火羅は、或いは土豁羅と曰い、睹貨邏と曰い、元魏は吐呼羅と謂う。蔥嶺の西に居し、烏滸河の南、古の大夏の地なり。挹怛と雑処す。勝兵十万。国は土著し、少女多く男多し。北に頗黎山あり、その陽の穴中に神馬あり、国人遊牧して牝を側にすれば、駒を生めば輒ち汗血す。その王は「葉護」と号す。武德・貞觀の時再び献に入る。

永徽元年、大鳥を献ず、高さ七尺、色黒く、足は橐駝に類し、翅ありて行き、日に三百里、鉄を啖う能く、俗に駝鳥と謂う。顯慶中、その阿緩城を以て月氏都督府と為し、小城を析いて二十四州と為し、王阿史那に都督を授く。後二年、子を遣わして来朝し、俄にまた碼硇鐙樹を献ず、高さ三尺。神龍元年、王那都泥利弟の仆羅を遣わして入朝せしめ、宿衛に留む。開元・天寶の間数たび馬・█婁・異薬・乾陀婆羅二百品・紅碧玻黎を献じ、ここに於いてその君骨咄祿頓達度を冊して吐火羅葉護・挹怛王と為す。その後、隣胡の羯師、謀りて吐蕃を引きて吐火羅を攻めんとす、ここに於いて葉護失裏忙伽羅、安西兵を丐いて助討を請う、帝為に出師してこれを破る。乾元初め、西域九国と兵を発して天子の為に賊を討ち、肅宗詔して朔方行営に隷せしむ。

挹怛国

挹怛国は、漢の大月氏の種なり。大月氏、烏孫に奪われ、西に大宛を過ぎ、大夏を撃ちてこれを臣とす。藍氏城に治す。大夏は即ち吐火羅なり。嚈噠は、王の姓なり、後裔姓を以て国と為し、訛って挹怛と為り、亦た挹闐と曰う。俗は突厥に類し、天宝中使いを遣わして朝貢す。

俱蘭

俱蘭は、或いは俱羅弩と曰い、屈浪挐と曰い、吐火羅に接し、地を環すること三千里、南は大雪山、北は俱魯河。金精を出し、石を琢ちてこれを取る。貞觀二十年、その王忽提婆使いを遣わして来献し、書辞は浮屠の語に類す。

劫は、蔥嶺の中に居し、西及び南は賒彌に距たり、西北は挹怛なり。京師を去ること一万二千里。気常に熱く、稻・麥・粟・豆あり。羊馬を畜う。俗は死すれば山に棄つ。武德二年、使いを遣わして宝帯・玻黎・水精杯を献ず。

越底延

越底延は、南三千里天竺に距たり、西北千里賒彌に至り、東北五千里瓜州に至り、辛頭水の北に居す。その法は人を殺さず、重罪は流し、軽罪は放つ。租税無し。俗は発を翦り、錦袍を被り、貧しき者は白氎なり。自ら澡潔す。気温かく、稻・米・石蜜多し。

谢䫻

谢䫻は吐火羅の西南に居し、本は漕矩咤と曰い、或いは漕矩と曰い、顯慶の時は訶達羅支と謂い、武後今の号に改む。東は罽賓に距たり、東北は帆延、皆四百里。南は婆羅門、西は波斯、北は護時健。その王は鶴悉那城に居し、地七千里、亦た阿娑你城に治す。郁金・瞿草多し。瀵泉田を灌ぐ。国中に突厥・罽賓・吐火羅の種人雑居し、罽賓その子弟を取って兵を持ちて大食を禦ぐ。景雲初め、使いを遣わして朝貢し、後遂に罽賓に臣す。開元八年、天子葛達羅支頡利發誓屈爾を冊して王と為す。天宝中に至り数たび朝献す。

帆延

帆延は、あるいは望衍、梵衍那ともいう。斯卑莫運山の傍らに位置し、西北は護時健と接し、東南は罽賓に至り、西南は訶達羅支で、吐火羅と境を連ねる。地は寒く、人は穴居する。王は羅爛城を治め、大城が四五ある。水は北流して烏滸河に入る。貞観の初め、使者を遣わして入朝した。顕慶三年、羅爛城を以て寫鳳都督府とし、縛時城を悉萬州とし、王に寫鳳州都督、管内五州諸軍事を授け、これより朝貢絶えず。

石汗那

石汗那は、あるいは斫汗那という。縛底野より南に入り雪山を行くこと四百里にして帆延に至り、東は烏滸河に臨む。赤豹が多い。開元・天宝の中、たびたび朝献した。

識匿

識匿は、あるいは屍棄尼、瑟匿という。東南は京師に直に九千里、東五百里は蔥嶺守捉所に距たり、南三百里は護蜜に属し、西北五百里は俱蜜に至る。初め苦汗城を治め、後に山谷に散居す。大谷五つあり、酋長自ら治め、これを五識匿という。地は二千里、五穀なし。人は攻剽を好み、商賈を劫掠す。播蜜川の四谷はやや王の号令を用いず。俗は窟室に住む。貞観二十年、似没・役槃の二国の使者とともに来朝した。開元十二年、王の布遮波資に金吾衛大將軍を授く。天宝六載、王の跌失伽延は勃律討伐に従い戦死し、その子を都督・左武衛将軍に抜擢し、禄を与えて藩に居らしむ。

似没

似没は、北は石国に接す。土俗は康国と同じ。役槃もまた康国と隣接す。良馬を産す。

俱蜜

俱蜜は、山中を治む。吐火羅の東北に在り、南は黒河に臨む。その王は突厥延陀の種なり。貞観十六年、使者を遣わして入朝す。開元の中、胡旋舞女を献じ、その王那羅延は大食の暴賦に苦しむとしきりに言うも、天子はただ慰めて遣わすのみ。天宝の時、王の伊悉爛俟斤また馬を献ず。

護蜜

護蜜は、あるいは達摩悉鐵帝、鑊侃といい、元魏のいわゆる缽和なるもの、これも吐火羅の故地なり。東南は京師に直に九千里余、横千六百里、縦は狭くてわずか四五里。王は塞迦審城に居し、北は烏滸河に臨む。地は寒く、堆阜曲折し、沙石流漫す。豆・麦あり、木果に宜しく、善馬を出す。人は碧瞳なり。顕慶の時、その地を以て鳥飛州とし、王の沙缽羅頡利發を刺史とす。地は四鎮より吐火羅に入る道に当たるゆえ、吐蕃に役属す。開元八年、その王の羅旅伊陀骨咄祿多毗勒莫賀達摩薩爾を冊して王とす。十六年、米国の首領米忽汗とともに方物を献ず。明年、大酋の烏鶻達幹また朝す。王死し、その従弟の護真檀を冊して王を嗣がしむ。二十九年、身をもって入朝し、内殿に宴し、左金吾衛将軍を拝し、紫袍・金帯を賜う。天宝の初め、王子の頡吉匐、吐蕃を絶たんことを請い、鉄券を賜う。八載、真檀来朝し、宿衛を請い、詔して可とす。右武衛将軍を授け、久しくして遣わす。また首領を遣わして朝貢す。乾元元年、王の紇設伊俱鼻施来朝し、李氏を賜う。

個失蜜

個失蜜は、あるいは迦濕彌邏という。北は勃律に距ること五百里、地を環すること四千里、山これに回繚し、他国攻伐する能わず。王は撥邏勿邏布邏城を治め、西は彌那悉多大河に瀕す。地は稼穡に宜し。雪多く風なし。火珠・郁金・龍種馬を出す。俗は毛褐を着す。世に伝う、地はもと龍池にして、龍が移り水が竭きたゆえ、往きてこれに居すと。

開元の初め、使者を遣わして朝す。八年、詔してその王の真陀羅秘利を冊して王とす。間もなく胡薬を献ず。天木死し、弟の木多筆立ち、使者の物理多を遣わして来朝し、かつ言う、「国ある以来、並びに天可汗に臣し、調発を受く。国に象・馬・歩の三種の兵あり、臣は身をもって中天竺王とともに吐蕃の五大道を厄し、出入を禁じ、戦えばすなわち勝つ。もし天可汗の兵が勃律に至るものあらば、たとえ二十万の衆と雖も、糧を輸して助けん。また国に摩訶波多磨龍池あり、願わくは天可汗のために祠を営まん」と。よって王冊を請う、鴻臚訳して聞かしむ。詔して物理多を内に宴し中殿にて、賜賚優に備わり、木多筆を冊して王とす、これより職貢常あり。

その役属する五種、また国と名づく。いわゆる呾叉始羅は、地二千里、都城あり。東南余り七百里にして僧訶補羅を得、地三千余里、また都城を治む。東南山行すること五百里にして烏剌屍を得、地二千里、都城あり。稼穡に宜し。東南山を限ること千里にしてすなわち個失蜜。西南険を行くこと七百里にして半笯蹉を得、地二千里。また曷邏阇補羅を得、その大さ四千里、都城あり、山阜多く、人ぎょう勇なり。五種皆君長なしという。

骨咄

骨咄は、或いは珂咄羅ともいう。広さ長さともに千里ばかり。王は思助建城に治す。良馬・赤豹が多い。四大鹽山があり、山より烏鹽を出す。

開元十七年、王の俟斤が子の骨都施を遣わして来朝せしむ。二十一年、王の頡利發が女楽を献じ、また大首領の多博勒達幹を遣わして朝貢す。天寶十一載、その王羅全節を冊して葉護となす。

蘇毗

蘇毗は、もと西羌の族にして、吐蕃に併せられ、孫波と号す。諸部の中最も大なり。東は多彌に接し、西は鶻莽硤に距たり、戸三万。天寶の中、王の沒陵贊、内附を挙げんと欲すれども、吐蕃に殺さる。子の悉諾、首領を率いて隴右に奔り、節度使の哥舒翰、闕下に護送す。玄宗、厚くこれを礼す。

多彌

多彌もまた西羌の族にして、吐蕃に役属し、難磨と号す。犁牛河に濱り、土は黄金多し。貞観六年、使者を遣わして朝貢し、賜遣せらる。

伊吾城

伊吾城は、漢の宜禾都尉の治めし所なり。商胡雑居し、勝兵千、鉄勒に附す。人は驍悍にして、土は良沃なり。隋末、内属し、伊吾郡を置く。天下乱れ、復た突厥に臣す。貞観四年、城の酋長来朝す。頡利滅び、七城を挙げて降り、その地を列して西伊州となす。

師子

師子は、西南海中に居し、延袤二千余里。棱伽山あり、奇宝多く、宝を洲上に置き、商舶の償直を取って去る。後に隣国の人、稍々往きてこれに居す。師子を馴養する能く、因って以て国と名づく。

総章三年、使者を遣わして来朝す。天宝初め、王の屍羅迷迦、再び使を遣わして大珠・鈿金・宝瓔・象歯・白氎を献ず。

波斯

波斯は、達遏水の西に居し、京師に距ること一万五千里余り。東は吐火羅・康に接し、北は突厥の可薩部に隣り、西南は皆海に瀕し、西北は四千里余りにして、拂菻なり。人数十万、その先は波斯匿王、大月氏の別裔にして、王、因って以て姓とし、また国号となす。二城を治め、大城十余りあり。俗は右を尊び左を下す。天地日月水火を祠る。祠の夕、麝を以て蘇を揉み、顔鼻耳を澤耏す。西域の諸胡、その法を受け、以て祅を祠る。拝すること必ず股を交う。俗は徒跣し、丈夫は祝髮し、衣は襟を剖たず、青白を以て巾帔とし、錦を以て縁す。婦は辮發して後に著す。戦には象に乗り、一象に士百人、負くるや則ち尽く殺す。罪を断ずるに文書を為さず、廷に決す。叛する者は鉄を以てその舌を灼き、瘡の白きを以て直とし、黒きを曲となす。刑に髡・鉗・刖・劓あり、小罪は耏し、或いは木を頸に系ぎ、時月を以てして置く。劫盗は囚して終老し、偷む者は銀銭を輸す。凡そ死すれば、山に棄て、服は月を閲して除く。気は常に熱く、地は夷漫にして、耕種畜牧を知る。鷲鳥あり、羊を啖う能う。善犬・█婁・大驢多し。珊瑚を産し、高さ三尺に満たず。

隋末、西突厥の葉護可汗、その国を討ちて残し、王の庫薩和を殺す。その子の施利立ち、葉護は部帥をして監統せしむ。施利死し、遂に肯て臣せず。庫薩和の女を立てて王と為す。突厥またこれを殺す。施利の子の単羯方、拂菻に奔る。国人迎え立てて之と為す。これ伊怛支なり。死し、兄の子の伊嗣俟立つ。

貞観十二年、使者の沒似半を遣わして朝貢す。また活褥蛇を献ず、その状は鼠に類し、色は正青、長さ九寸、穴鼠を捕うる能ふ。伊嗣俟は君たらず、大酋に逐はれ、吐火羅に奔る。半道にして、大食撃ちて之を殺す。子の卑路斯は吐火羅に入りて以て免る。使者を遣わして難を告ぐ。高宗は遠くして師とすべからずとし、謝して遣はす。会に大食解きて去るに及び、吐火羅は兵を以て之を納る。

龍朔の初め、また訴えて大食に侵さるるところなり。是の時、天子方に使者を西域に遣わして州県を分置し、疾陵城を以て波斯都督府と為し、即ち卑路斯を都督に拝す。俄かに大食に滅ぼさる。国と為す能はざるも、咸亨中猶朝に入り、右武衛将軍を授けられ、死す。初め、其の子の泥涅師を質とす。調露元年、詔して裴行儉に兵を将ひて護還せしめ、将に復た其の国に王たらんとす。道遠きを以て、安西の碎葉に至り、行儉還る。泥涅師は因りて吐火羅に客すこと二十年、部落益々離散す。景龍の初め、復た来朝し、左威衛将軍を授けらる。病にて死す。西部独り存す。開元・天宝の間、使者十輩を遣わして碼床・火毛繡舞筵を献ず。乾元の初め、大食に従ひて広州を襲ひ、倉庫廬舎を焚き、浮海して走る。大暦の時、復た来りて献ず。

また陀抜斯單有り、或いは陀抜薩憚と曰ふ。其の国は三面山に阻まれ、北は小海に瀕す。婆裏城に居り、世々波斯の東大将と為る。波斯滅びて後、大食に臣するを肯はざりき。天宝五載、王の忽魯汗、使を遣わして朝に入り、帰信王に封ぜらる。後八年、子の自会羅を遣わして来朝せしめ、右武衛員外中郎将を拝し、紫袍・金魚を賜ひ、宿衛に留めらる。黑衣大食に滅ぼさる。

貞観の後、遠き小国の君、使者を遣はして来朝献す。有司未だ嘗て本末を参考せざる者、今左方に附す。曰く火辞彌、波斯に接す。貞観十八年、摩羅遊の使者と偕に朝す。二十一年、健達王有りて仏土菜を献ず。茎は五葉、赤華紫須。龍朔元年、多福王の難婆修強宜説、使者を遣はして来朝す。総章元年、末陀提王有り、開元五年、習阿薩般王の安殺有り、並びに使者を遣はして朝貢す。七年、訶毗施王の捺塞、吐火羅の大酋羅摩に因りて師子・五色鸚鵡を献ず。

天宝の時に来朝する者、曰く俱爛那、曰く舍摩、曰く威遠、曰く蘇吉利発屋蘭、曰く蘇利悉單、曰く建城、曰く新城、曰く俱位、凡そ八国。

俱位。

俱位、或いは商彌と曰ふ。阿賒師多城に治す。大雪山・勃律河の北に在り。地は寒く、五穀・蒲陶・若榴有り、冬は窟室にす。国人常に小勃律を助けて中国の候と為る。

新城の国は、石の東北贏百里に在り。弩室羯城有り、亦た新城と曰ひ、小石国城と曰ふ。後に葛邏祿に併さる。

拂菻。

拂菻は、古の大秦なり。西海上に居り、一に海西国と曰ふ。京師を去ること四万里、苫の西に在り、北は直に突厥の可薩部に当たり、西は海に瀕し、遅散城有り、東南は波斯に接す。地方万里、城四百、勝兵百万。十里に一亭、三亭に一置を設く。数十の小国を臣役し、名を以て通ずる者は澤散、驢分と曰ふ。澤散は直に東北に在り、其の道里を得ず。東に海を度ること二千里にして驢分国に至る。

石を重ねて都城と為し、広さ八十里。東門の高さ二十丈、黄金を以て扣く。王宮に三襲の門有り、皆異宝を飾る。中門の中に金の巨称一有り、金人を立てて作り、其の端に十二丸を属け、時を率ひて一丸落つ。瑟瑟を以て殿柱と為し、水精・琉璃を以て棁と為し、香木を梁とし、黄金を以て地と為し、象牙を闔とす。貴臣十二人を有し、共に国を治む。王出づれば、一人囊を挈いて従ひ、訟書有れば囊中に投ず。還りて枉直を省みる。国に大災異有れば、輒ち王を廃し更に賢者を立つ。王の冠は鳥の翼の如く、珠を綴る。錦繡を衣とし、前に襟無し。金の蘤榻に坐し、側に鳥有りて鵝の如く、緑毛、上食に毒有れば輒ち鳴く。陶瓦無く、白石を屑として屋を塈し、堅潤玉の如し。盛暑には水を引き上げ、流気を以て風と為す。男子は髪を翦り、繡を衣とし、右を袒ぎて帔し、輜軿の白蓋小車に乗り、出入に旌旗を建て、鼓を撃つ。婦人は錦巾す。家の訾億万なる者を上官と為す。

俗は酒を喜び、乾餅を嗜む。幻人多し、顔に火を発し、手に江湖を為し、口に幡毛を挙げ、足に珠玉を墮す能ふ。善医有りて脳を開き虫を出だして以て目の眚を愈す能ふ。土には金・銀・夜光璧・明月珠・大貝・車渠・碼・木難・孔翠・虎魄多し。水羊毛を織りて布と為し、海西布と曰ふ。海中に珊瑚洲有り、海人、大舶に乗じ、鉄網を水底に墮す。珊瑚は初め磐石上に生じ、白きこと菌の如く、一歳にして黄、三歳にして赤、枝格交錯し、高さ三四尺。鉄其の根を発し、網に系ぎて舶上にし、絞りて之を出だす。時を失すれば即ち腐るを敢へず。西海に市有り、貿易相見えず、直物を旁に置く、名づけて鬼市と曰ふ。有りて獣の名は、狗の如く大、獷悪にして力有り。北邑に羊有り、土中に生じ、臍地に属す。割かば必ず死す。俗、馬に介して走り、鼓を撃ちて以て之を驚かす。羔の臍絶つれば、即ち水草を逐ふも、群をなす能はず。

拂菻より西南に磧を度ること二千里、国有りて磨鄰、老勃薩と曰ふ。其の人黒くして性悍し。地は瘴癘有り、草木五穀無く、馬には槁魚を飼ひ、人は鶻莽を食す。鶻莽は波斯棗なり。烝報を恥とせず、夷狄の中に最も甚だしく、号して「尋」と曰ふ。其の君臣七日に一休し、出でて納交易せず、飲むこと窮夜に及ぶ。

大食。

大食は、本波斯の地なり。男子は鼻高く、黒くして髯有り。女子は白皙、出づれば輒ち面を鄣ふ。日に五たび天神を拝す。銀の帯、銀刀を佩き、酒を飲み楽を挙げず。礼堂有りて数百人を容れ、率ひて七日、王高く坐して下の為に説きて曰く、「敵に死する者は天上に生じ、敵を殺す者は福を受く」と。故に俗は闘ふに勇なり。土は礫に饒りて耕すべからず、猟して肉を食す。石蜜を刻みて廬と為すこと輿の状の如く、歳に貴人に献ず。蒲陶の大なるものは鶏卵の如し。千里馬有り、伝ふるに龍種と為す。

隋の大業年間、波斯国の人が俱紛摩地那山で放牧していたところ、獣が言うには、「山の西に三つの穴があり、鋭利な武器があり、黒い石に白い文様がある。これを得た者は王となる」と。走って見に行くと、その通りであった。石の文様には反乱すべき時とあり、そこで衆を欺き恒曷水のほとりに亡命者を集め、商旅を掠め、西の辺境を保って自ら王と称し、黒石を移してこれを宝とした。国人が討伐に向かったが、皆大敗して帰還し、ここに於いて遂に強盛となった。波斯を滅ぼし、拂菻を破り、初めて粟麦の倉庫を有した。南は婆羅門を侵し、諸国を併せ、勝兵四十万に至った。康・石は皆往ってこれに臣従した。その地は万里に広がり、東は突騎施に距り、西南は海に属す。

海の中に撥拔力種があり、どこにも附属していない。五穀は生ぜず、肉を食し、牛の血を刺して乳と和えて飲む。俗に衣服はなく、羊皮をもって自らを蔽う。婦人は明皙にして麗しい。象牙及び阿末香が多く、波斯の商人が往って交易しようとする時は、必ず数千人が氎を納め、鏨で血を刺して誓い、乃ち交易する。兵は多く牙角を有し、また弓・矢・鎧・槊があり、士は二十万に至り、数度大食に破られ略奪された。

永徽二年、大食王豃密莫末𧸐が初めて使者を遣わして朝貢し、自ら言うには、王は大食氏であり、国を有すること三十四年、二世を伝えたと。開元の初め、再び使者を遣わして馬・鈿帯を献上し、謁見して拝礼せず、有司がこれを弾劾しようとした。中書令張説が、殊俗の義を慕うは、罪に置くべからずと謂う。玄宗はこれを赦した。使者がまた来て、辞して曰く、「国人は天を拝するのみで、王を見ても拝礼せず」と。有司が厳しく責め、乃ち拝した。十四年、使者蘇黎満を遣わして方物を献じ、果毅に拝し、緋袍・帯を賜う。

或いは曰く、大食の族の中に孤列種あり、代々酋長となり、号して白衣大食と為す。種に二姓あり、一は盆尼末換、二は奚深と曰う。摩訶末と曰う者有り、勇にして智あり、衆これを立てて王と為す。地を三千里に辟き、夏臘城を克つ。十四世を伝え、末換に至り、兄伊疾を殺して自ら王と為し、下その残忍を怨む。呼羅珊木鹿の人並波悉林有り、これを討たんとし、衆に徇いて曰く、「我を助くる者は、皆黑衣たれ」と。俄かに衆数万、即ち末換を殺し、奚深種の孫阿蒲羅拔を求めて王と為し、更に号して黑衣大食と為す。蒲羅死し、弟阿蒲恭拂立つ。至徳の初め、使者を遣わして朝貢す。代宗その兵を取って両京を平らぐ。阿蒲恭拂死し、子迷地立つ。死し、弟訶論立つ。貞元の時、吐蕃と相攻ち、吐蕃は歳々西に師を出し、故に辺境を盗むこと鮮し。十四年、使者含嵯・烏雞・沙北の三人を遣わして朝し、皆中郎将に拝し、賚を遣わす。伝言に、その国の西南二千里の山谷の間に、木有りて花を生ずること人の首の如く、語れば輒ち笑い、則ち落つと。

東に末祿有り、小国なり。城郭を治め、木姓多く、五月を以て歳首と為し、画缸を以て相献ず。尋支瓜有り、大なる者は十人食して乃ち尽く。蔬に顆葱・葛藍・軍達・茇薤有り。

大食の西に苫者あり、亦国を自ら為す。北は突厥可薩部に距り、地数千里。五節度有り、勝兵万人。土に禾多し。大川有り、東流して亞俱羅に入る。商賈往来相望み雲の如し。

大食より西に十五日行きて都盤を得、西は羅利支に十五日行く;南は即ち大食、二十五日行く;北は勃達、一月行く。

勃達の東は大食に二月行く;西は岐蘭に二十日行く;南は都盤、北は大食、皆一月行く。

岐蘭の東南二十日行きて阿沒を得、或いは阿昧と曰う;東南は陀拔斯に十五日行く;南は沙蘭、一月行く;北は海に二日行く。你訶溫多城に居し、馬羊に宜しく、俗柔寬なり、故に大食は常にここに遊牧す。

沙蘭の東は羅利支に、北は恒満に、皆二十日行く;西は即ち大食、二十五日行く。

羅利支の東は都盤に、北は陀拔斯に、皆十五日行く;西は沙蘭、二十日行く;南は大食、二十五日行く。

怛満

怛満、或いは怛沒と曰う、東は陀拔斯、南は大食、皆一月行く;北は岐蘭、二十日行く;西は即ち大食、一月行く。烏滸河北の平川中に居す。獣に師子多し。西北は史と接し、鉄関を以て限りと為す。

天宝六載、都盤等六国は皆使者を遣わして入朝し、乃ち都盤王謀思健摩訶延を封じて順化王と曰い、勃達王摩俱澀斯を守義王と曰い、阿沒王俱那胡設を恭信王と曰い、沙蘭王卑路斯威を順礼王と曰い、羅利支王伊思俱習を義寧王と曰い、怛満王謝沒を奉順王と曰う。

贊に曰く、西方の戎は、古より未だ嘗て中国に通ぜず、漢に至りて始めて烏孫諸国の事を載す。後に名字を以て見ゆる者漸く多し。唐興り、次第に貢を脩め、蓋し百余国、皆万里を冒して至る、亦已に勤めり。然れども中国には報贈・冊吊・程糧・伝驛の費あり、東は高麗より、南は真臘より、西は波斯・吐蕃・堅昆より、北は突厥・契丹・靺鞨より、之を「八蕃」と謂い、其の外を「絶域」と謂い、地の遠近を視て費を給す。開元の盛時、西域の商胡に税して以て四鎮に供し、北道より出づる者は賦を輪臺に納む。地広ければ則ち費倍し、此れ盛王の鑒なり。