新唐書

巻二百二十 列傳第一百四十五 東夷

巻二百二十 列傳第一百四十五 東夷

高麗

原文高麗

高麗は、もと扶餘の別種なり。地は東は海を跨いで新羅しらぎに距たり、南もまた海を跨いで百濟に距たり、西北は遼水を渡って營州と接し、北は靺鞨まっかつに接す。その君は平壤城に居す、また長安城とも謂い、漢の樂浪郡なり、京師を去ること五千里餘り、山に隨い屈曲して繚りて郛と為し、南は浿水に涯し、王はその左に宮を築く。また國內城・漢城有り、別都と號す。水に大遼・少遼有り:大遼は靺鞨の西南山より出で、南に安市城を歴る;少遼は遼山の西より出で、亦た南に流れ、梁水は塞外より出で、西行して之と合す。馬訾水は靺鞨の白山より出で、色は鴨頭の若く、鴨淥水と號し、國內城の西を歴り、鹽難水と合し、また西南に至り安市にて、海に入る。而して平壤は鴨淥の東南に在り、巨艫を以て人を濟わし、因って恃みて以て塹と為す。

原文高麗,本扶餘別種也。地東跨海距新羅,南亦跨海距百濟,西北度遼水與營州接,北靺鞨。其君居平壤城,亦謂長安城,漢樂浪郡也,去京師五千里而贏,隨山屈繚爲郛,南涯浿水,王築宮其左。又有國內城、漢城,號別都。水有大遼、少遼:大遼出靺鞨西南山,南曆安市城;少遼出遼山西,亦南流,有梁水出塞外,西行與之合。有馬訾水出靺鞨之白山,色若鴨頭,號鴨淥水,曆國內城西,與鹽難水合,又西南至安市,入於海。而平壤在鴨淥東南,以巨艫濟人,因恃以爲塹。

官は凡そ十二級有り:曰く大對廬、或いは吐捽と曰う;曰く鬱折、圖簿を主る者;曰く太大使者;曰く帛衣頭大兄、所謂帛衣は、先人なり、國政を秉り、三歳に一易し、善く職すれば則ち然らず、凡そ代わる日に、服せざる者あれば則ち相攻め、王は為に宮を閉ざして守り、勝つ者は聽いて之を為さしむ;曰く大使者;曰く大兄;曰く上位使者;曰く諸兄;曰く小使者;曰く過節;曰く先人;曰く古鄒大加。その州縣六十。大城には傉薩を一置き、都督に比す;餘城には處閭近支を置き、また道使と號し、刺史に比す。參佐有り、幹を分つ。大模達有り、衛將軍に比す;末客有り、中郎將に比す。

原文官凡十二級:曰大對廬,或曰吐捽;曰鬱折,主圖簿者;曰太大使者;曰帛衣頭大兄,所謂帛衣者,先人也,秉國政,三歲一易,善職則否,凡代日,有不服則相攻,王爲閉宮守,勝者聽爲之;曰大使者;曰大兄;曰上位使者;曰諸兄;曰小使者;曰過節;曰先人;曰古鄒大加。其州縣六十。大城置傉薩一,比都督;餘城置處閭近支,亦號道使,比刺史。有參佐,分幹。有大模達,比衛將軍;末客,比中郎將。

五部に分つ:曰く內部、即ち漢の桂婁部なり、また黃部と號す;曰く北部、即ち絕奴部なり、或いは後部と號す;曰く東部、即ち順奴部なり、或いは左部と號す;曰く南部、即ち灌奴部なり、また前部と號す;曰く西部、即ち消奴部なり。

原文分五部:曰內部,即漢桂婁部也,亦號黃部;曰北部,即絕奴部也,或號後部;曰東部,即順奴部也,或號左部;曰南部,即灌奴部也,亦號前部;曰西部,即消奴部也。

王は五采の服を着け、白羅を以て冠を制し、革帶は皆金扣なり。大臣は青羅の冠、次は絳羅、兩鳥羽を珥し、金銀雜の扣、衫は筒袖、褲は大口、白韋の帶、黃革の履。庶人は褐を衣、弁を戴く。女子は首に巾幗す。俗は弈・投壺・蹴鞠を喜ぶ。食用には籩・豆・簠・簋・罍・洗を用う。居は山谷に依り、草を以て屋を茨く、惟だ王宮・官府・佛廬は瓦を以てす。窶民は盛冬に長坑を作り、煴火を以て暖を取る。その治め、峭法を以て下を繩し、故に犯すこと少なし。叛く者は炬を叢めて體を灼き、乃ち之を斬り、其の家を籍沒す。降る・敗る・人を殺し及び剽劫する者は斬り、盜む者は十倍取りて償わしめ、牛馬を殺す者は沒して奴婢と為し、故に道に遺物を掇わず。婚娶には幣を用いず、受くる者あれば之を恥ず。父母の喪に服すること三年、兄弟は月を逾えて除く。俗は淫祠多く、靈星及び日・箕子・可汗等の神を禮す。國の左に大穴有り神隧と曰い、毎十月、王皆自ら祭る。人は學を喜び、窮里の廝家に至るまで、亦た相矜み勉め、衢の側に悉く嚴屋を構え、局堂と號し、未婚の子弟は曹處し、經を誦し射を習う。

原文王服五采,以白羅制冠,革帶皆金扣。大臣青羅冠,次絳羅,珥兩鳥羽,金銀雜扣,衫筒袖,褲大口,白韋帶,黃革履。庶人衣褐,戴弁。女子首巾幗。俗喜弈、投壺、蹴鞠。食用籩、豆、簠、簋、罍、洗。居依山谷,以草茨屋,惟王宮、官府、佛廬以瓦。窶民盛冬作長坑,煴火以取暖。其治,峭法以繩下,故少犯。叛者叢炬灼體,乃斬之,籍入其家。降、敗、殺人及剽劫者斬,盜者十倍取償,殺牛馬者沒爲奴婢,故道不掇遺。婚娶不用幣,有受者恥之。服父母喪三年,兄弟逾月除。俗多淫祠,禮靈星及日、箕子、可汗等神。國左有大穴曰神隧,每十月,王皆自祭。人喜學,至窮里廝家,亦相矜勉,衢側悉構嚴屋,號局堂,子弟未婚者曹處,誦經習射。

隋末、其の王高元死し、異母弟建武嗣ぐ。武德初、再び使を遣わし入朝す。高祖は書を下して好を脩め、高麗人の中國に在る者は護送し、中國人の高麗に在る者は敕して遣り還さしむることを約す。ここにおいて建武は悉く亡命を搜して有司に歸し、且つ萬人。後三年、使者を遣わし拜して上柱國・遼東郡王・高麗王と為す。命じて道士を以て像法を往かしめ、為に『老子』を講ぜしむ。建武大いに悅び、國人を率いて共に之を聽き、日數千人。帝は左右に謂いて曰く「名實は須らく相副うべし。高麗は隋に臣と雖も、而して終に煬帝を拒みしは、何の臣たるや。朕は務めて人を安んず、何ぞ必ずしも其の臣たらんことを受けんや」と。裴矩・溫彥博諫めて曰く「遼東は本より箕子の國、魏晉の時の故き封內、臣たらざるべからず。中國と夷狄とは、猶お太陽の列星に対するが若し、以て降るべからず」と。乃ち止む。明年、新羅・百濟上書し、建武道を閉ざし、朝するを得ざらしめ、且つ數しば侵入すと言う。詔有りて散騎侍郎硃子奢をして節を持ちて諭和せしむ、建武罪を謝し、乃ち二國と平らかならんことを請う。太宗既に突厥とっけつの頡利を禽えしを以て、建武使者を遣わし賀し、并せて封域圖を上る。帝詔して廣州司馬長孫師をして臨みて隋の士の戰胔を瘞めしめ、高麗の立てし京觀を毀つ。建武懼れ、乃ち長城千里を築き、東北は首として扶餘に、西南は之を海に屬す。久しくして、太子桓權を遣わし入朝して方物を獻じ、帝厚く賜齎し、詔して使者陳大德をして節を持ちて答勞せしめ、且つ亹を觀せしむ。大德其の國に入り、厚く官守に餉い、悉く其の纖曲を得る。華人の流客たる者を見て、為に親戚の存亡を道い、人人涕を垂る、故に至る所士女道を夾みて觀る。建武盛んに兵を陳べて使者に見ゆ。大德還りて奏す、帝悅ぶ。大德又言す「高昌滅ぶを聞き、其の大對廬三たび館に至り、禮を加うること有り」と。帝曰く「高麗の地は四郡に止まる。我卒數萬を發して遼東を攻めば、諸城必ず救わん。我舟師を以て東萊より帆海して平壤に趨れば、固より易し。然れども天下甫く平らかにして、人を勞わすを欲せざるのみ」と。

原文隋末,其王高元死,異母弟建武嗣。武德初,再遣使入朝。高祖下書脩好,約高麗人在中國者護送,中國人在高麗者敕遣還。於是建武悉搜亡命歸有司,且萬人。後三年,遣使者拜爲上柱國、遼東郡王、高麗王。命道士以像法往,爲講《老子》。建武大悅,率國人共聽之,日數千人。帝謂左右曰:「名實須相副。高麗雖臣于隋,而終拒煬帝,何臣之爲?朕務安人,何必受其臣?」裴矩、溫彥博諫曰:「遼東本箕子國,魏晉時故封內,不可不臣。中國與夷狄,猶太陽於列星,不可以降。」乃止。明年,新羅、百濟上書,言建武閉道,使不得朝,且數侵入。有詔散騎侍郎硃子奢持節諭和,建武謝罪,乃請與二國平。太宗已禽突厥頡利,建武遣使者賀,并上封域圖。帝詔廣州司馬長孫師臨瘞隋士戰胔,毀高麗所立京觀。建武懼,乃築長城千里,東北首扶餘,西南屬之海。久之,遣太子桓權入朝獻方物,帝厚賜齎,詔使者陳大德持節答勞,且觀亹。大德入其國,厚餉官守,悉得其纖曲。見華人流客者,爲道親戚存亡,人人垂涕,故所至士女夾道觀。建武盛陳兵見使者。大德還奏,帝悅。大德又言:「聞高昌滅,其大對廬三至館,有加禮焉。」帝曰:「高麗地止四郡,我發卒數萬攻遼東,諸城必救,我以舟師自東萊帆海趨平壤,固易。然天下甫平,不欲勞人耳。」

蓋蘇文と曰う者有り、或いは蓋金と號し、姓は泉氏、自ら云う水中に生まるるを以て衆を惑わすと。性は忍暴なり。父は東部の大人・大對廬たり、死す。蓋蘇文當に嗣ぐべきも、國人之を惡み、立つことを得ず。頓首して衆に謝し、職を攝らんことを請い、不可有らば、廢すと雖も悔い無からんと。衆之を哀しみ、遂に位を嗣ぐ。殘凶にして道ならず、諸大臣建武と議して之を誅せんとす、蓋蘇文覺り、悉く諸部を召し、紿いて雲う大いに兵を閱すと、饌具を列べて大臣を請い臨視せしめ、賓至れば盡く之を殺し、凡そ百餘人。馳せて宮に入り建武を殺し、其の屍を殘して諸の溝に投ず。更に建武の弟の子藏を立てて王と為し、自ら莫離支と為り、國を專らにす、猶お唐の兵部尚書・中書令の職の如し云う。貌は魁秀、美須髯、冠服は皆金を以て飾り、五刀を佩き、左右敢えて仰ぎ視る者莫し。貴人をして諸の地に伏せしめ、踐みて以て馬に升らしむ。出入に兵を陳べ、長呼して禁切し、行人畏れて竄り、坑穀に投ずるに至る。

原文有蓋蘇文者,或號蓋金,姓泉氏,自云生水中以惑衆。性忍暴。父爲東部大人、大對廬,死。蓋蘇文當嗣,國人惡之,不得立。頓首謝衆,請攝職,有不可,雖廢無悔。衆哀之,遂嗣位。殘凶不道,諸大臣與建武議誅之,蓋蘇文覺,悉召諸部,紿雲大閱兵,列饌具請大臣臨視,賓至盡殺之,凡百餘人。馳入宮殺建武,殘其屍投諸溝。更立建武弟之子藏爲王,自爲莫離支,專國,猶唐兵部尚書、中書令職云。貌魁秀,美須髯,冠服皆飾以金,佩五刀,左右莫敢仰視。使貴人伏諸地,踐以升馬。出入陳兵,長呼禁切,行人畏竄,至投坑穀。

帝建武が下に為りて殺さるるを聞き、惻然として使者を遣わし節を持ちて弔祭せしむ。或いは帝に勧めて可なりとす遂に之を討つべしと、帝は喪に因りて罪を伐つを欲せず、乃ち藏を拜して遼東郡王・高麗王と為す。帝曰く「蓋蘇文君を殺し國を攘う。朕之を取るは易きのみ、人を勞わすを願わず、若何」と。司空房玄齡曰く「陛下の士は勇にして力餘り有り、戢めて用いざるは、所謂'戈を止めて武と為す'者なり」と。司徒長孫無忌曰く「高麗は一介の難を告ぐる無し、宜しく書を賜いて之を安尉し、其の患を隱し、其の存を撫でば、彼當に命を聽くべし」と。帝曰く「善し」と。

原文帝聞建武爲下所殺,惻然遣使者持節弔祭。或勸帝可遂討之,帝不欲因喪伐罪,乃拜藏爲遼東郡王、高麗王。帝曰:「蓋蘇文殺君攘國,朕取之易耳,不願勞人,若何?」司空房玄齡曰:「陛下士勇而力有餘,戢不用,所謂'止戈爲武'者。」司徒長孫無忌曰:「高麗無一介告難,宜賜書安尉之,隱其患,撫其存,彼當聽命。」帝曰:「善。」

時に新羅が使者を遣わして上書し、「高麗・百済くだらが連合し、まさに討伐せんとす。謹んで天子に帰命す」と申し上げた。帝が「如何にせば免れ得るか」と問うと、使者は「計策尽きたり。惟れ陛下の哀憐を乞う」と答えた。帝は「我が偏師を以て契丹きったん・靺鞨を率いて遼東に入らば、貴国は一年の憂いを免れ得る。これ第一の策なり。我が絳袍・丹幟数千を貴国に賜い、至れば之を陣に建てれば、二国は見て我が師の至れると謂い、必ず走らん。これ第二の策なり。百済は海を恃みて戎器を修めず、我が舟師数万を以て之を襲わば、貴国は女君なるが故に隣国より侮られしもの、我が宗室を以て貴国を主たらしめ、安んずるを待てば自ら之を守らん。これ第三の策なり。使者は孰れの計を取らんとするか」と言った。使者は答えることができなかった。ここにおいて司農丞相里玄奨を遣わし、璽書を以て高麗を譴責し、且つ攻撃を止めしめんとした。使者が未だ到らざるうちに、蓋蘇文は既に新羅の二城を取っていた。玄奨が帝の旨を諭すと、答えて「往時隋が侵した時、新羅は我が困窮に乗じて我が地五百里を奪いし。今尽く地を返さざれば、兵は止まじ」と言った。玄奨は「往事は何ぞ論ずるに足らんや。遼東は元来中国の郡県なり。天子も尚お取らざるに、高麗どうして詔に違えんや」と言ったが、従わなかった。玄奨が還って奏上すると、帝は「莫離支は君を殺し、その下を虐用すること擭阱の如し。怨痛道に溢る。我が出師するに名無からんや」と言った。諫議大夫褚遂良は「陛下の兵が遼を渡って克つは固より善し。万一功を遂げず、且つ再び師を用いんとすれば、安危は測り難し」と言った。兵部尚書李勣は「然らず。昔薛延陀が辺境を盗みし時、陛下は追撃せんと欲し、魏徴が苦諫して止めし。向に之を撃たば、一馬も生還せざりしならん。後に復た畔擾し、今に至るまで恨みとす」と言った。帝は「誠に然り。但だ一慮の失ありて之を尤めば、後誰か我が為に計らん者あらんや」と言った。新羅が数度援軍を請うたので、呉船四百艘を下して糧を輸送せしめ、詔して営州都督張儉等に幽・営の兵及び契丹・奚・靺鞨等を発して出討せしめた。時に遼水が溢れ、師は還った。莫離支は懼れ、使者を遣わして金を献上したが、帝は納れなかった。使者はまた「莫離支が官五十人を遣わして宿衛せしむ」と言った。帝は怒って使者を責めて「汝らは高武に委質しながら、節を伏して義に死せず、又逆子の謀に与する。赦すべからず」と言い、悉く之を獄に下した。

原文會新羅遣使者上書言:「高麗、百濟聯和,將見討。謹歸命天子。」帝問:「若何而免?」使者曰:「計窮矣,惟陛下哀憐!」帝曰:「我以偏兵率契丹、靺鞨入遼東,而國可紓一歲,一策也。我以絳袍丹幟數千賜而國,至,建以陣,二國見,謂我師至,必走,二策也。百濟恃海,不修戎械,我以舟師數萬襲之;而國女君,故爲鄰侮,我以宗室主而國,待安則自守之,三策也。使者計孰取?」使者不能對。於是遣司農丞相里玄獎以璽書讓高麗,且使止勿攻。使未至,而蓋蘇文已取新羅二城。玄獎諭帝旨,答曰:「往隋見侵,新羅乘邅奪我地五百里,今非盡反地,兵不止。」玄獎曰:「往事烏足論邪?遼東故中國郡縣,天子且不取,高麗焉得違詔?」不從。玄獎還奏,帝曰:「莫離支殺君,虐用其下如擭阱,怨痛溢道,我出師無名哉?」諫議大夫褚遂良曰:「陛下之兵度遼而克固善,萬分一不得逞,且再用師,再用師,安危不可億。」兵部尚書李勣曰:「不然。曩薛延陀盜邊,陛下欲追擊,魏徵苦諫而止。向若擊之,一馬不生返。後復畔擾,至今爲恨。」帝曰:「誠然。但一慮之失而尤之,後誰爲我計者?」新羅數請援,乃下吳船四百柁輸糧,詔營州都督張儉等發幽、營兵及契丹、奚、靺鞨等出討。會遼溢,師還。莫離支懼,遣使者內金,帝不納。使者又言:「莫離支遣官五十入宿衛。」帝怒責使者曰:「而等委質高武,而不伏節死義,又爲逆子謀,不可赦。」悉下之獄。

ここにおいて帝は自ら将として之を討たんと欲し、長安の耆老を召して労い、「遼東は元来中国の地なり。而るに莫離支は其の主を賊殺す。朕将に自ら行きて之を経略せんとす。故に父老と約す。子若しくは孫我に従いて行く者は、我能く之を拊循す。恤うる毋れ」と言い、即ち厚く布粟を賜った。群臣皆帝に行かざるよう勧めたが、帝は「吾之を知れり。本を去って末に就き、高きを捨てて下を取る。近きを釈して遠きに之く。此の三者は不祥なり。高麗を伐つは是なり。然れども蓋蘇文は君を弑し、又大臣を戮して以て逞しむ。一国の人は首を延べて救いを待つ。議者は顧みて未だ明らかにせざるのみ」と言った。ここにおいて北には粟を営州に輸送し、東には粟を古大人城に儲えた。帝は洛陽に幸し、乃ち張亮を平壤道行軍大総管とし、常何・左難當を副とし、冉仁德・劉英行・張文幹・龐孝泰・程名振を総管とし、江・呉・京・洛の募兵凡そ四万、呉船五百艘を率い、海を渡って平壤に趨らしめた。李勣を遼東道行軍大総管とし、江夏王李道宗を副とし、張士貴・張儉・執失思力・契苾何力・阿史那彌射・姜徳本・曲智盛・呉黒闥を行軍総管としてこれに隷属せしめ、騎士六万を率いて遼東に趨らしめた。詔して曰く「朕の過ぐる所、営頓は飾る毋れ。食は豊怪なる毋れ。水は渉る可き者は橋樑を作る毋れ。行在所に非ざる近州県は学生・耆老をして迎謁せしむるを得ざれ。朕昔戈を提げて乱を撥ねし時、盈月の儲え無かりしも、猶風靡する所なり。今幸いに家給人足なれど、只転餉に労するを恐る。故に牛羊を駆りて以て軍に飼わしむ。且つ朕必勝の理五あり。我が大を以て彼の小を撃ち、我が順を以て彼の逆を討ち、我が安を以て彼の乱に乗じ、我が逸を以て彼の労に敵し、我が悦を以て彼の怨に当たる。渠れ克たざるを憂えんや」と。又契丹・奚・新羅・百済諸君長の兵を発し悉く会せしめた。

原文於是帝欲自將討之,召長安耆老勞曰:「遼東故中國地,而莫離支賊殺其主,朕將自行經略之,故與父老約:子若孫從我行者,我能拊循之,毋庸恤也。」即厚賜布粟。群臣皆勸帝毋行,帝曰:「吾知之矣,去本而就末,舍高以取下,釋近而之遠,三者爲不祥,伐高麗是也。然蓋蘇文弑君,又戮大臣以逞,一國之人延頸待救,議者顧未亮耳。」於是北輸粟營州,東儲粟古大人城。帝幸洛陽,乃以張亮爲平壤道行軍大總管,常何、左難當副之,冉仁德、劉英行、張文幹、龐孝泰、程名振爲總管,帥江、吳、京、洛募兵凡四萬,吳艘五百,泛海趨平壤。以李勣爲遼東道行軍大總管,江夏王道宗副之,張士貴、張儉、執失思力、契苾何力、阿史那彌射、薑德本、曲智盛、吳黑闥爲行軍總管隸之,帥騎士六萬趨遼東。詔曰:「朕所過,營頓毋飭,食毋豐怪,水可涉者勿作橋樑,行在非近州縣不得令學生、耆老迎謁。朕昔提戈撥亂,無盈月儲,猶所響風靡。今幸家給人足,只恐勞於轉餉,故驅牛羊以飼軍。且朕必勝有五:以我大擊彼小,以我順討彼逆,以我安乘彼亂,以我逸敵彼勞,以我悅當彼怨,渠憂不克邪!」又發契丹、奚、新羅、百濟諸君長兵悉會。

十九年二月、帝は洛陽より定州に次いだ。左右に謂いて「今天下大定す。唯だ遼東未だ賓せず。後嗣士馬の盛強に因り、謀臣征討に導かば、喪乱方に始まらん。朕故に自ら之を取り、後世に憂いを遺さざらんとす」と言った。帝は城門に坐し、兵が過ぐるごとに人々を撫慰し、疾病の者は親しく之を視、州県に治療を勅し、士卒大いに悦んだ。長孫無忌が白奏して「天下の符魚悉く従うに、宮官は十人に止まる。天下以て神器を軽んずるなり」と言った。帝は「士卒遼を渡る者十万、皆家室を去る。朕十人を以て従うも、尚お其の多きを恥ず。公は止めて言う毋れ」と言った。帝は身に橐房を属け、両箙を鞍に結んだ。四月、李勣は遼水を渡った。高麗は皆城を嬰して守った。帝は大いに士卒を饗し、帳を幽州の南に張り、詔して長孫無忌に誓師せしめ、乃ち引いて東に向かった。

原文十九年二月,帝自洛陽次定州,謂左右曰:「今天下大定,唯遼東未賓,後嗣因士馬盛強,謀臣導以征討,喪亂方始,朕故自取之,不遺後世憂也。」帝坐城門,過兵,人人撫慰,疾病者親視之,敕州縣治療,士大悅。長孫無忌白奏:「天下符魚悉從,而宮官止十人,天下以爲輕神器。」帝曰:「士度遼十萬,皆去家室。朕以十人從,尚恧其多,公止勿言!」帝身屬橐房,結兩箙於鞍。四月,勣績濟遼水,高麗皆嬰城守。帝大饗士,帳幽州之南,詔長孫無忌誓師,乃引而東。

李勣は蓋牟城を攻め、これを抜き、戸二万、糧十万石を得、其の地を蓋州とした。程名振は沙卑城を攻め、夜その西に入り、城は潰え、その口八千を虜にし、鴨淥の上を遊兵した。李勣は遂に遼東城を囲んだ。帝は遼沢に次ぎ、詔して隋の戦士の露骼を瘞せしめた。高麗は新城・国内城より騎四万を発して遼東を救った。道宗は張乂君を率いて逆戦し、君乂は退いた。道宗は騎を馳せて之を攻め、虜兵は辟易し、其の梁を奪い、散卒を収め、高きに登って望むと、高麗の陣囂たるを見、急ぎ之を撃ち破り、首千余級を斬り、君乂を誅して以て徇せしめた。帝は遼水を渡り、杠彴を徹して、士心を堅くした。馬首山に営し、身を城下に到らしめ、士卒が塹を填めるを見て、分かち之を負い、重き者は馬上に持たしめた。群臣震懼し、争って塊を挟んで進んだ。城に朱蒙祠あり、祠に鎖甲・銛矛あり、妄りに前燕の世に天の降したる所と称す。囲み急なるに方り、美女を飾りて以て神に婦せしめ、誣言して朱蒙悦び、城必ず完からんと言った。李勣は抛車を列ね、大石を飛ばして三百歩を過ぎ、当たる所輒ち潰え、虜は木を積んで楼と為し、絙を結んで罔と為すも、拒ぐ能わず。沖車を以て陴屋を撞き、之を砕いた。時に百済が金旐鎧を献上し、又玄金を以て山五文の鎧と為し、士卒之を被って従った。帝と李勣が会し、甲光日を炫かせた。時に南風急なり、士卒火を放って西南を焚き、熛城中に延び、屋殆ど尽き、燎に死する者万余。衆は陴に登り、虜は盾を蒙って以て拒ぐも、士卒長矛を挙げて之を舂き、藺石雨の如く、城遂に潰え、勝兵一万、戸四万、糧五十万石を獲た。其の地を遼州とした。初め、帝は太子の所属より行在所に至るまで、一烽を置き、遼東を下せば烽を挙げんと約し、是の日燎が塞に入るまで伝わった。

原文勣攻蓋牟城,拔之,得戶二萬,糧十萬石,以其地爲蓋州。程名振攻沙卑城,夜入其西,城潰,虜其口八千,遊兵鴨淥上。勣遂圍遼東城。帝次遼澤,詔瘞隋戰士露骼。高麗發新城、國內城騎四萬救遼東。道宗率張乂君逆戰,君乂卻。道宗以騎馳之,虜兵辟易,奪其梁,收散卒,高以望,見高麗陣囂,急擊破之,斬首千餘級,誅君乂以徇。帝度遼水,徹杠彴,堅士心。營馬首山,身到城下,見士填塹,分負之,重者馬上持之'群臣震懼,爭挾塊以進。城有硃蒙祠,祠有鎖甲、銛矛,妄言前燕世天所降。方圍急,飾美女以婦神,誣言硃蒙悅,城必完。勣列拋車,飛大石過三百步,所當輒潰,虜積木爲樓,結絙罔,不能拒。以沖車撞陴屋,碎之。時百濟上金旐鎧,又以玄金爲山五文鎧,士被以從。帝與勣會,甲光炫日。會南風急,士縱火焚西南,熛延城中,屋幾盡,人死于燎者萬餘。衆登陴,虜蒙盾以拒,士舉長矛舂之,藺石如雨,城遂潰,獲勝兵萬,戶四萬,糧五十萬石。以其地爲遼州。初,帝自太子所屬行在,舍置一烽,約下遼東舉烽,是日傳燎入塞。

白崖城を攻撃す。城は山に背き崖水あり、険阻甚だし。帝は西北に壁す。虜の酋長孫伐音、密かに降を乞う。然れども城中一致せず。帝は幟を賜いて曰く、「若し降らば、堞に建てて信とせよ」と。俄かに幟を挙ぐ。城人は皆、唐兵登るものと思い、乃ち降る。初め、伐音は中に悔い、帝は怒り、虜の口を諸将に与うるを約す。是に及び、李勣曰く、「士卒奮いて先んずるは、虜の獲を貪るなり。今城危く抜かんとす、降を許して士心を孤にすべからず」と。帝曰く、「将軍の言是なり。然れども兵を放ち殺戮し、人の妻子を略するは、朕忍びず。将軍の麾下に功ある者は、朕庫物を以て之を賞し得べし。庶幾くは将軍に因りて一城を贖わんか」と。男女凡そ一万、兵二千を獲たり。其の地を以て岩州と為し、伐音を刺史に拝す。莫離支、加屍人七百を以て蓋牟を戍らしむ。勣之を俘う。自ら効せんことを請う。帝曰く、「而が家は加屍なり。乃ち我が為に戦わば、尽く戮さんとす。一姓を夷して一人の力を求むるは、不可なり」と。稟して之を放つ。

原文進攻白崖城,城負山有厓水,險甚。帝壁西北。虜酋孫伐音陰丐降,然城中不能一。帝賜幟曰:「若降,建於堞以信。」俄而舉幟,城人皆以唐兵登矣,乃降。初,伐音中悔,帝怒,約以虜口畀諸將。及是,李勣曰:「士奮而先,貪虜獲也。今城危拔,不可許降以孤士心。」帝曰:「將軍言是也。然縱兵殺戮,略人妻孥,朕不忍。將軍麾下有功者,朕能以庫物賞之,庶因將軍贖一城乎。」獲男女凡萬、兵二千。以其地爲岩州,拜伐音爲刺史。莫離支以加屍人七百戍蓋牟,勣俘之。請自效,帝曰:「而家加屍,乃爲我戰,將盡戮矣。夷一姓求一人力,不可。」稟而縱之。

安市に次ぐ。是に於いて高麗北部傉薩高延寿・南部傉薩高惠真、兵及び靺鞨の衆十五万を引きて来援す。帝曰く、「彼若し兵を勒して安市に連なりて壁し、高山に拠り、城中の粟を取って之を食らい、靺鞨を放って吾が牛馬を略せしめば、之を攻めて下すべからず。此れ上策なり。城を抜き夜去るは、中策なり。吾と鋒を争わば、則ち禽と為らん」と。大対廬有りて延寿に計りて曰く、「吾聞く、中国乱れ、豪雄並び奮い、秦王神武、敵に堅き無く、戦に前に無く、遂に天下を定め、南面して帝と為り、北狄・西戎臣ならざる無しと。今地を掃いて来たり、謀臣重将皆在り。其の鋒校うべからず。今は兵を頓てて日を曠くし、陰に奇兵を遣わして其の餉道を絶つに若かず。旬月を経ずして糧尽き、戦わんと欲して得ず、帰れば則ち路無し。乃ち取るべし」と。延寿従わず、軍を引きて安市より四十里に距りて屯す。帝曰く、「虜吾が策の中に堕つ」と。左衛大将軍阿史那社爾に命じ、突厥千騎を以て之を嘗めしむ。虜常に靺鞨の鋭兵を以て前に居らしむ。社爾の兵接して北す。延寿曰く、「唐は易く与す可し」と。一舍を進み、麓に倚りて陣す。帝、延寿に詔して曰く、「我は爾が強臣有りて其の主を賊殺するを以て、罪を問わんと来る。即ち交戦するは、我が意に非ず」と。延寿然りと謂い、甲を按じて俟つ。帝夜に諸将を召し、李勣に歩騎一万五千を率いさせ西嶺に陣して賊に当たらしめ、長孫無忌・牛進達に精兵万人をして虜の背の狭谷より出ださしむ。帝は騎四千を以て幟を偃げて虜の北山上に趨り、諸軍に令して曰く、「鼓声を聞きて而して放て」と。幄を張り朝堂と為し、曰く、「明日日中、此に降虜を納れん」と。是の夜、流星延寿の営に堕つ。旦日、虜勣の軍少なるを見て、即ち戦う。帝、無忌の軍の塵上がるを望み、鼓角を作すを命ず。兵幟四面に合す。虜惶惑し、将に兵を分けて之を禦せんとす。衆已に囂し。勣、歩槊を以て之を撃ち破る。無忌其の後に乗ず。帝山より馳せ下る。虜大いに乱る。首級二万を斬る。延寿余衆を収め山を負いて自ら固む。無忌・勣合して之を囲み、川梁を徹し、帰路を断つ。帝轡を按じて虜の営壘を観て曰く、「高麗国を傾けて来たり、一麾にして破る。天我を賛するなり」と。馬を下り再拝し、天に謝す。延寿等勢窮まるを度り、即ち衆を挙げて降る。轅門に入り、膝いて前に進み、手を拝して命を請う。帝曰く、「後敢えて天子と戦わんか」と。惶汗して対うるを得ず。帝、酋長三千五百人を料り、悉く之に官し、内徙を許す。余衆三万は之を放ち還す。靺鞨三千余人を誅し、馬牛十万、明光鎧一万領を獲たり。高麗震駭す。後、黄・銀二城自ら抜けて去り、数百里に舎煙無し。乃ち駅を以て太子に報じ、并せて諸臣に書を賜いて曰く、「朕自ら将うること此の若し、云何」と。因りて幸う所の山を号して駐蹕山と為し、破陣の状を図し、石に勒して功を紀す。延寿を鴻臚卿に拝し、惠真を司農卿に拝す。候騎、覘人を獲たり。帝其の縛を解く。自ら食わずして且つ三日と言う。飼うを命じ、屩を賜い、遣わして曰く、「帰りて莫離支に語れ。若し軍中の進退を須うれば、人を遣わして吾が所に至らしむべし」と。帝毎に営を作して塹壘を為さず、謹んで斥候するのみ。而して士卒糧を運ぶも、単騎なりと雖も、虜敢えて鈔せず。

原文次安市。於是高麗北部傉薩高延壽、南部傉薩高惠真引兵及靺鞨衆十五萬來援。帝曰:「彼若勒兵連安市而壁,據高山,取城中粟食之,縱靺鞨略吾牛馬,攻之不可下,此上策也。拔城夜去,中策也。與吾爭鋒,則禽矣。」有大對廬爲延壽計曰:「吾聞中國亂,豪雄並奮,秦王神武,敵無堅,戰無前,遂定天下,南面而帝,北狄、西戎罔不臣。今掃地而來,謀臣重將皆在,其鋒不可校。今莫若頓兵曠日,陰遣奇兵絕其餉道,不旬月糧盡,欲戰不得,歸則無路,乃可取也。」延壽不從,引軍距安市四十里而屯。帝曰:「虜墮吾策中矣。」命左衛大將軍阿史那社爾以突厥千騎嘗之,虜常以靺鞨銳兵居前,社爾兵接而北。延壽曰:「唐易與耳。」進一舍,倚麓而陣。帝詔延壽曰:「我以爾有強臣賊殺其主,來問罪,即交戰,非我意。」延壽謂然,按甲俟。帝夜召諸將,使李勣率步騎萬五千陣西嶺當賊,長孫無忌、牛進達精兵萬人出虜背狹穀,帝以騎四千偃幟趨虜北山上,令諸軍曰:「聞鼓聲而縱。」張幄朝堂,曰:「明日日中,納降虜於此。」是夜,流星墮延壽營。旦日,虜視勣軍少,即戰。帝望無忌軍塵上,命鼓角作,兵幟四合,虜惶惑,將分兵禦之,衆已囂。勣以步槊擊敗之,無忌乘其後,帝自山馳下,虜大亂,斬首二萬級。延壽收餘衆負山自固,無忌、勣合圍之,徹川梁,斷歸路。帝按轡觀虜營壘曰:「高麗傾國來,一麾而破,天贊我也。」下馬再拜,謝況于天。延壽等度勢窮,即舉衆降。入轅門,膝而前,拜手請命。帝曰:「後敢與天子戰乎?」惶汗不得對。帝料酋長三千五百人,悉官之,許內徙,餘衆三萬縱還之,誅靺鞨三千餘人,獲馬牛十萬,明光鎧萬領。高麗震駭,後黃、銀二城自拔去,數百里無舍煙。乃驛報太子,并賜諸臣書曰:「朕自將若此,云何?」因號所幸山爲駐蹕山,圖破陣狀,勒石紀功。拜延壽鴻臚卿,惠真司農卿。候騎獲覘人,帝解其縛,自言不食且三日,命飼之,賜以屩,遣曰:「歸語莫離支,若須軍中進退,可遣人至吾所。」帝每營不作塹壘,謹斥候而已,而士運糧,雖單騎,虜不敢鈔。

帝と勣、攻むる所を議す。帝曰く、「吾聞く、安市は地険にして衆悍し。莫離支之を撃ちて下す能わず、因りて之を与う。建安は険絶を恃み、粟多くして士少なし。若し其の不意に出でて之を攻めば、相救わざらん。建安を得れば、則ち安市吾が腹中に在り」と。勣曰く、「然らず。糧を遼東に積み、而して西して建安を撃たば、賊将に吾が帰路を梗せられん。安市を先に攻むるに若かず」と。帝曰く、「善し」と。遂に之を攻む。下す能わず。延寿・惠真謀りて曰く、「烏骨城の傉薩已に耄ゆ。朝に攻めて夕べに下すべし。烏骨抜かば、則ち平壤挙がらん」と。群臣亦た張亮の軍沙城に在るを以て、之を召せば一昔にして至らん。若し烏骨を取り、鴨淥を度り、其の腹心を迫ば、計の善き者なりとす。無忌曰く、「天子行師、徼幸せず。安市の衆十万吾が後に在り。之を先に破るに若かず。乃ち駆りて南せば、万全の勢なり」と。乃ち止む。城中帝の旌麾を見て、輒ち陴に乗じて噪く。帝怒る。勣、破るる日男子尽く誅すを請う。虜聞き、故に死戦す。江夏王道宗、距闉を築きて東南を攻む。虜陴を増して以て守る。勣其の西を攻む。撞車の壊す所、随いて輒ち柵を串ねて楼と為す。帝城中の鶏彘の声を聞きて曰く、「囲み久しく、突に黔煙無し。今鶏彘鳴くは、必ず殺して以て士に饗せんとす。虜且に夜出せん」と。兵を厳にすべしと詔す。丙夜、虜数百人縋りて下る。悉く之を禽す。道宗、樹の枚を以て土を裹みて之を積み、距闉成る。城に迫ること数丈に非ず。果毅都尉傅伏愛之を守る。高きよりして其の城を排す。城且に頽れんとす。伏愛私に其の部を去る。虜兵頽るる城より自ら出で、拠りて之を塹断し、火を積み盾を縈ぎ固く守る。帝怒り、伏愛を斬り、諸将に之を撃たしむるを敕す。三日克たず。

原文帝與勣議所攻,帝曰:「吾聞安市地險而衆悍,莫離支擊不能下,因與之。建安恃險絕,粟多而士少,若出其不意攻之,不相救矣。建安得,則安市在吾腹中。」勣曰:「不然。積糧遼東,而西擊建安,賊將梗我歸路,不如先攻安市。」帝曰:「善。」遂攻之,未能下。延壽、惠真謀曰:「烏骨城傉薩已耄,朝攻而夕可下。烏骨拔,則平壤舉矣。」群臣亦以張亮軍在沙城,召之一昔至,若取烏骨,度鴨淥,迫其腹心,計之善者。無忌曰:「天子行師不徼幸。安市衆十萬在吾後,不如先破之,乃驅而南,萬全勢也。」乃止。城中見帝旌麾,輒乘陴噪,帝怒。勣請破日男子盡誅。虜聞,故死戰。江夏王道宗築距闉攻東南,虜增陴以守。勣攻其西,撞車所壞,隨輒串柵爲樓。帝聞城中雞彘聲,曰:「圍久,突無黔煙。今雞彘鳴,必殺以饗士,虜且夜出。」詔嚴兵。丙夜,虜數百人縋而下,悉禽之。道宗以樹枚裹土積之,距闉成,迫城不數丈,果毅都尉傅伏愛守之,自高而排其城,城且頹,伏愛私去所部,虜兵得自頹城出,據而塹斷之,積火縈盾固守。帝怒,斬伏愛,敕諸將擊之,三日不克。

詔有りて師を班す。遼・蓋二州の人を抜きて以て帰る。兵城下を過ぐ。城中屏息し旗を偃げ、酋長城に登り再拝す。帝其の守りを嘉し、絹百匹を賜う。遼州の粟尚ほ十万斛こく、士卒取ること能わず尽くす。帝渤錯水に至り、淖に阻まる。八十里車騎通ぜず。長孫無忌・楊師道等、万人を率い樵を斬り道を築き、車を聯ねて梁と為す。帝薪を負い馬上にて役を助く。十月、兵畢く度る。雪甚だし。属に燎して以て済むを待たしむるを詔す。始め行くとき、士十万、馬一万匹。逮び還るに、物故裁ち千余、馬死すこと十八。船師七万、物故亦た数百。戦骸を集め柳城に葬り、乙太牢を以て祭るを詔す。帝臨みて哭く。従臣皆流涕す。帝総べて飛騎を率い臨渝関に入る。皇太子道左に迎う。初め、帝太子と別るるに、褐袍を御し、曰く、「爾を見て乃ち更えん」と。袍二時を歴て易えず、穴を穿つに至る。群臣服を更むるを請う。帝曰く、「士卒皆敝衣なり。吾新たなる服を可ならんや」と。是に及び、太子潔き衣を進む。乃ち御す。遼の降口一万四千、当に奴婢と為るべし。前に幽州に集め、将に分ちて士卒に賞せんとす。帝父子夫婦離析するを以て、有司に布帛を以て之を贖わしめ、原めて民と為すを詔す。列拝し歓舞す。三日止まず。延寿既に降り、憂いを以て死す。独り惠真長安に至る。

原文有詔班師,拔遼、蓋二州之人以歸。兵過城下,城中屏息偃旗,酋長登城再拜,帝嘉其守,賜絹百匹。遼州粟尚十萬斛,士取不能盡。帝至渤錯水,阻淖,八十里車騎不通。長孫無忌、楊師道等率萬人斬樵築道,聯車爲梁,帝負薪馬上助役。十月,兵畢度,雪甚,詔屬燎以待濟。始行,士十萬,馬萬匹;逮還,物故裁千余,馬死十八。船師七萬,物故亦數百。詔集戰骸葬柳城,祭乙太牢,帝臨哭,從臣皆流涕。帝總飛騎入臨渝關,皇太子迎道左。初,帝與太子別,御褐袍,曰:「俟見爾乃更。」袍曆二時弗易,至穿穴。群臣請更服,帝曰:「士皆敝衣,吾可新服邪?」及是,太子進潔衣,乃御。遼降口萬四千,當沒爲奴婢,前集幽州,將分賞士。帝以父子夫婦離析,詔有司以布帛贖之,原爲民,列拜歡舞,三日不息。延壽既降,以憂死,獨惠真至長安。

明年の春、藏は使者を遣わして方物を献上し、且つ罪を謝す。二姝口を献ず。帝はこれを還すことを敕し、使者に謂ひて曰く、「色は人の重んずる所なり、然れども其の親戚を去りて乃ち心を傷ましむるを湣れり、我れ取らざるなり」と。初め、師還るに、帝は弓服を以て蓋蘇文に賜ふ。之を受くるも、使者を遣わして謝せず。是に於て詔を下して朝貢を削棄す。

原文明年春,藏遣使者上方物,且謝罪;獻二姝口,帝敕還之,謂使者曰:「色者人所重,然湣其去親戚以傷乃心,我不取也。」初,師還,帝以弓服賜蓋蘇文,受之,不遣使者謝,於是下詔削棄朝貢。

又明年三月、詔して左武衛大將軍牛進達を青丘道行軍大總管と爲し、右武衛將軍李海岸之を副へ、萊州より海を度る。李勣を遼東道行軍大總管と爲し、右武衛將軍孫貳朗・右屯衛大將軍鄭仁泰之を副へ、營州都督の兵を率ゐ、新城道より以て進む。南蘇・木底に次ぐ。虜兵戰ひて勝たず、其の郛を焚く。七月、進達等石城を取り、積利城を攻め、斬首數千級、乃ち皆還る。藏は子莫離支高任武を遣わして來朝し、因りて罪を謝す。

原文又明年三月,詔左武衛大將軍牛進達爲青丘道行軍大總管,右武衛將軍李海岸副之,自萊州度海;李勣爲遼東道行軍大總管,右武衛將軍孫貳朗、右屯衛大將軍鄭仁泰副之,率營州都督兵,繇新城道以進。次南蘇、木底,虜兵戰不勝,焚其郛。七月,進達等取石城,進攻積利城,斬級數千,乃皆還。藏遣子莫離支高任武來朝,因謝罪。

二十二年、詔して右武衛大將軍薛萬徹を青丘道行軍大總管と爲し、右衛將軍裴行方之を副へ、海道より入る。部將古神感虜と曷山に戰ひ、虜潰く。虜暝を乘じて我が舟を襲ふも、伏兵之を破る。萬徹鴨淥を度り、泊灼城に次ぎ、四十里を距てて舍す。虜懼れ、皆邑居を棄てて去る。大酋所夫孫拒戰す。萬徹擊ちて之を斬り、遂に城を圍み、其の援兵三萬を破りて乃ち還る。帝長孫無忌と計りて曰く、「高麗吾が師の入るに困しみ、戶亡耗し、田歲に收穫せず、蓋蘇文城を築き陴を增し、下饑ゑて溝壑に臥死し、敝に勝へざるなり。明年三十萬の衆を以て、公大總管と爲り、一舉にして滅す可し」と。乃ち詔して劍南に大いに船を治めしむ。蜀人財を江南に輸するを願ひ、直を計りて舟を作る。舟縑千二百を取る。巴・蜀大いに騷ぎ、邛・眉・雅三州の獠皆反す。隴西・峽內の兵二萬を發して之を擊ち定む。初め、帝虜を取らんと決し、故に詔して陝州刺史孫伏伽・萊州刺史李道裕に糧械を三山浦・烏胡島に儲へしめ、越州都督に大艎偶舫を治めて以て待たしむ。會に帝崩ずるに及び、乃ち皆罷む。藏使者を遣わして奉慰す。

原文二十二年,詔右武衛大將軍薛萬徹爲青丘道行軍大總管,右衛將軍裴行方副之,自海道入。部將古神感與虜戰曷山,虜潰;虜乘暝襲我舟,伏兵破之。萬徹度鴨淥,次泊灼城,拒四十里而舍。虜懼,皆棄邑居去。大酋所夫孫拒戰,萬徹擊斬之,遂圍城,破其援兵三萬,乃還。帝與長孫無忌計曰:「高麗困吾師之入,戶亡耗,田歲不收,蓋蘇文築城增陴,下饑臥死溝壑,不勝敝矣。明年以三十萬衆,公爲大總管,一舉可滅也。」乃詔劍南大治船,蜀人願輸財江南,計直作舟,舟取縑千二百。巴、蜀大騷,邛、眉、雅三州獠皆反,發隴西、峽內兵二萬擊定之。始,帝決取虜,故詔陝州刺史孫伏伽、萊州刺史李道裕儲糧械於三山浦、烏胡島,越州都督治大艎偶舫以待。會帝崩,乃皆罷。藏遣使者奉慰。

永徽五年、藏靺鞨の兵を以て契丹を攻め、新城に戰ふ。大風、矢皆還り激し、契丹の乘ずる所と爲り、大敗す。契丹野に火して復た戰ひ、人死して相藉り、屍を積みて之を塚とす。使者を遣わして捷を告ぐ。高宗朝に露布を爲す。六年、新羅訴ふ、高麗・靺鞨三十六城を奪ふと、惟だ天子哀れみ救はんことを請ふ。詔有りて營州都督程名振・左衛中郎將蘇定方師を率ゐて之を討たしむ。新城に至り、高麗兵を敗り、外郛及び墟落に火し、引いて還る。顯慶三年、復た名振を遣わして薛仁貴を率ゐて之を攻めしむも、克つ能はざりき。後二年、天子既に百濟を平ぐ。乃ち左驍衛大將軍契苾力何・右武衛大將軍蘇定方・左驍衛將軍劉伯英を以て諸將を率ゐて浿江・遼東・平壤道より出でて之を討たしむ。龍朔元年、大いに兵を募り、諸將を拜置す。天子自ら行かんと欲す。蔚州刺史李君球建言す、「高麗小丑、何ぞ至りて中國を傾けて之に事えん。高麗既に滅せらるる有らば、必ず兵を發して守らん。少く發すれば則ち威振はず、多く發すれば人安からず、是れ天下轉戍に疲るるなり。臣謂ふ、之を征するは征せざるに如かず、之を滅すは滅さざるに如かず」と。亦た會に武后苦しく邀ふるに遭ひ、帝乃ち止む。八月、定方虜兵を浿江に破り、馬邑山を奪ひ、遂に平壤を圍む。明年、龐孝泰嶺南の兵を以て蛇水に壁す。蓋蘇文之を攻め、舉軍沒す。定方解きて歸る。

原文永徽五年,藏以靺鞨兵攻契丹,戰新城。大風,矢皆還激,爲契丹所乘,大敗。契丹火野復戰,人死相藉,積屍而塚之。遣使者告捷,高宗爲露布於朝。六年,新羅訴高麗、靺鞨奪三十六城,惟天子哀救。有詔營州都督程名振、左衛中郎將蘇定方率師討之。至新城,敗高麗兵,火外郛及墟落,引還。顯慶三年,復遣名振率薛仁貴攻之,未能克。後二年,天子已平百濟,乃以左驍衛大將軍契苾力何、右武衛大將軍蘇定方、左驍衛將軍劉伯英率諸將出浿江、遼東、平壤道討之。龍朔元年,大募兵,拜置諸將,天子欲自行,蔚州刺史李君球建言:「高麗小丑,何至傾中國事之?有如高麗既滅,必發兵以守,少發則威不振,多發人不安,是天下疲於轉戍。臣謂征之未如勿征,滅之未如勿滅。」亦會武后苦邀,帝乃止。八月,定方破虜兵于浿江,奪馬邑山,遂圍平壤。明年,龐孝泰以嶺南兵壁蛇水,蓋蘇文攻之,舉軍沒;定方解而歸。

乾封元年、藏子男福を遣わして天子に從ひ泰山を封ぜしめ、還りて蓋蘇文死す。子男生代はりて莫離支と爲る。弟男建・男產有りて相怨む。男生國內城に據り、子獻誠を遣わして入朝し救ひを求めしむ。蓋蘇文の弟淨土も亦た地を割きて降らんことを請ふ。乃ち詔して契苾何力を遼東道安撫大使と爲し、左金吾衛將軍龐同善・營州都督高偘を行軍總管と爲し、左武衛將軍薛仁貴・左監門將軍李謹行殿して行かしむ。九月、同善高麗兵を破る。男生師を率ゐて來會す。詔して男生を拜して特進・遼東大都督兼平壤道安撫大使と爲し、玄菟郡公に封ず。又李勣を以て遼東道行軍大總管兼安撫大使と爲し、契苾何力・龐同善と力を併せしむ。詔して獨孤卿雲に鴨淥道より、郭待封に積利道より、劉仁願に畢列道より、金待問に海穀道より、並びに行軍總管と爲り、勣の節度を受く。燕・趙の食廥を轉じて遼東に輸ぜしむ。明年正月、勣道を引き新城に次ぐ。諸將と謀りて曰く、「新城は賊の西鄙なり、先づ圖らざれば、餘城下り易からず」と。遂に西南山に壁し城に臨む。城人戍酋を縛りて出で降る。勣進みて城十有六を拔く。郭待封舟師を以て海を濟ひ、平壤に趨る。三年二月、勣仁貴を率ゐて扶餘城を拔き、他の城三十皆款を納む。同善・偘新城を守る。男建兵を遣わして之を襲ふ。仁貴偘を救ひ、金山に戰ふも勝たず。高麗鼓して進み、銳きこと甚だし。仁貴橫擊し、之を大破し、斬首五萬級、南蘇・木底・蒼岩の三城を拔き、兵を引き地を略し、勣と會す。侍御史賈言忠事を計りて還る。帝軍中の云ふ所を問ふ。對へて曰く、「必ず克つ。昔先帝罪を問ふ、志を得ざる所以の者は、虜に邅無かりしなり。諺に曰く、'軍媒無くんば、中道に回る'と。今男生兄弟鬩ぎて很し、我が爲に鄉導と爲り、虜の情偽、我盡く之を知る。將忠にして士力あり、臣故に必ず克つと曰ふ。且つ高麗祕記に曰く、'九百年に及ばず、當に八十大將有りて之を滅すべし'と。高氏漢より國有りて、今九百年、勣年八十なり。虜仍りて饑を薦め、人相掠ひ賣り、地震裂け、狼狐城に入り、蚡門に穴す。人心危駭す、是の行再び舉げず」と。

原文乾封元年,藏遣子男福從天子封泰山,還而蓋蘇文死,子男生代爲莫離支,有弟男建、男產相怨。男生據國內城,遣子獻誠入朝求救,蓋蘇文弟淨土亦請割地降。乃詔契苾何力爲遼東道安撫大使,左金吾衛將軍龐同善、營州都督高偘爲行軍總管,左武衛將軍薛仁貴、左監門將軍李謹行殿而行。九月,同善破高麗兵,男生率師來會。詔拜男生特進、遼東大都督兼平壤道安撫大使,封玄菟郡公。又以李勣爲遼東道行軍大總管兼安撫大使,與契苾何力、龐同善并力。詔獨孤卿云由鴨淥道,郭待封積利道,劉仁願畢列道,金待問海穀道,並爲行軍總管,受勣節度;轉燕、趙食廥遼東。明年正月,勣引道次新城,合諸將謀曰:「新城,賊西鄙,不先圖,餘城未易下。」遂壁西南山臨城,城人縛戍酋出降。勣進拔城十有六。郭待封以舟師濟海,趨平壤。三年二月,勣率仁貴拔扶餘城,它城三十皆納款。同善、偘守新城,男建遣兵襲之,仁貴救偘,戰金山,不勝。高麗鼓而進,銳甚。仁貴橫擊,大破之,斬首五萬級,拔南蘇、木底、蒼岩三城,引兵略地,與勣會。侍御史賈言忠計事還,帝問軍中云何。對曰:「必克。昔先帝問罪,所以不得志者,虜未有邅也。諺曰:'軍無媒,中道回'。今男生兄弟鬩很,爲我鄉導,虜之情偽,我盡知之,將忠士力,臣故曰必克。且高麗祕記曰:'不及九百年,當有八十大將滅之。'高氏自漢有國,今九百年,勣年八十矣。虜仍薦饑,人相掠賣,地震裂,狼狐入城,蚡穴于門,人心危駭,是行不再舉矣。」

男建兵五萬を以て扶餘を襲ふ。勣之を薩賀水上に破り、斬首五千級、俘口三萬、器械牛馬之に稱す。進みて大行城を拔く。劉仁願勣と會せんとす、後期す。召し還して誅すべしとすれども、赦して姚州に流す。契苾何力勣の軍と鴨淥に會し、辱夷城を拔き、悉く師をして平壤を圍ましむ。九月、藏男産を遣わして首領百人を率ゐて素幡を樹て降り、且つ入朝を請ふ。勣禮を以て見ゆ。而して男建猶ほ固く守り、出で戰ひて數北す。大將浮屠信誠諜を遣わして約し內應す。五日、闔啟き、兵噪きて入り、其の門に火し、鬱焰四興す。男建窘急し、自ら刺すも殊ならず。藏・男建等を執へ、凡そ五部百七十六城、戶六十九萬を收む。詔して勣に便道より俘を昭陵に獻ぜしめ、凱して還る。十二月、帝含元殿に坐し、勣等を引見し、廷に俘を數ふ。藏素より脅制せしを以て、赦して司平太常伯と爲し、男産を司宰少卿と爲す。男建を黔州に投じ、百濟王扶餘隆を嶺外に投ず。獻誠を以て司衛卿と爲し、信誠を銀青光祿大夫と爲し、男生を右衛大將軍と爲し、何力を行左衛大將軍と爲し、勣を兼ねて太子太師と爲し、仁貴を威衛大將軍と爲す。其の地を剖きて都督府と爲す者九、州四十二、縣百。復た安東都護府を置き、酋豪功有る者を擢でて都督・刺史・令を授け、華官と參り治ましむ。仁貴都護と爲り、總兵して之を鎮む。是歲郊祭し、高麗平ぐを以て、成を天に謝す。

原文男建以兵五萬襲扶餘,勣破之薩賀水上,斬首五千級,俘口三萬,器械牛馬稱之。進拔大行城。劉仁願與勣會,後期,召還當誅,赦流姚州。契苾何力會勣軍於鴨淥,拔辱夷城,悉師圍平壤。九月,藏遣男產率首領百人樹素幡降,且請入朝,勣以禮見。而男建猶固守,出戰數北。大將浮屠信誠遣諜約內應。五日,闔啟,兵噪而入,火其門,鬱焰四興,男建窘急,自刺不殊。執藏、男建等,收凡五部百七十六城,戶六十九萬。詔勣便道獻俘昭陵,凱而還。十二月,帝坐含元殿,引見勣等,數俘於廷。以藏素脅制,赦爲司平太常伯,男產司宰少卿;投男建黔州,百濟王扶餘隆嶺外;以獻誠爲司衛卿,信誠爲銀青光祿大夫,男生右衛大將軍,何力行左衛大將軍,勣兼太子太師,仁貴威衛大將軍。剖其地爲都督府者九,州四十二,縣百。復置安東都護府,擢酋豪有功者授都督、刺史、令,與華官參治。仁貴爲都護,總兵鎮之。是歲郊祭,以高麗平,謝成於天。

総章二年、高麗の民三万を江淮・山南に移す。大長の鉗牟岑が衆を率いて反し、蔵の外孫安舜を立てて主とした。詔して高偘を東州道に、李謹行を燕山道に、並びに行軍総管とし、これを討たせ、司平太常伯楊昉を遣わして亡余を綏納せしむ。舜は鉗牟岑を殺して新羅に走る。偘は都護府を遼東州に移して治め、安市において叛兵を破り、また泉山においてこれを敗り、新羅の援兵二千を俘う。李謹行は発廬河においてこれを破り、再戦して、俘馘万計を得たり。ここにおいて平壤は痍残して軍をなす能わず、相率いて新羅に奔る。凡そ四年にして乃ち平ぐ。初め、謹行は妻劉を留めて伐奴城を守らしむ。虜これを攻む。劉は甲を擐き兵を勒して守り、賊は去る。帝これを嘉し、燕郡夫人に封ず。

原文總章二年,徙高麗民三萬于江淮、山南。大長鉗牟岑率衆反,立藏外孫安舜爲主。詔高偘東州道,李謹行燕山道,並爲行軍總管討之,遣司平太常伯楊昉綏納亡餘。舜殺鉗牟岑走新羅。偘徙都護府治遼東州,破叛兵于安市,又敗之泉山,俘新羅援兵二千。李謹行破之於發廬河,再戰,俘馘萬計。於是平壤痍殘不能軍,相率奔新羅,凡四年乃平。始,謹行留妻劉守伐奴城,虜攻之,劉擐甲勒兵守,賊引去。帝嘉之,封燕郡夫人。

儀鳳二年、蔵に遼東都督を授け、朝鮮郡王に封じ、遼東に還して以て余民を安んぜしめ、先に僑内州に編まれたる者は皆原遣し、安東都護府を新城に移す。蔵は靺鞨と謀反す。未だ発せざるに、召還して邛州に放ち、その人を河南・隴右に廝し、弱窶なる者は安東に留む。蔵は永淳の初めに死す。衛尉卿を贈り、頡利の墓の左に葬り、その阡に碑を樹つ。旧城は往々新羅に入り、遺人は散奔して突厥・靺鞨に至る。ここによりて高氏の君長皆絶ゆ。垂拱中、蔵の孫宝元を以て朝鮮郡王となす。聖曆の初め、左鷹揚衛大將軍に進め、更に忠誠国王に封じ、安東の旧部を統べしむ。行わず。明年、蔵の子徳武を以て安東都督となす。後稍々国を自らす。元和の末に至り、使者を遣わして楽工を献ずと云う。

原文儀鳳二年,授藏遼東都督,封朝鮮郡王,還遼東以安餘民,先編僑內州者皆原遣,徙安東都護府於新城。藏與靺鞨謀反,未及發,召還放邛州,廝其人于河南、隴右,弱窶者留安東。藏以永淳初死,贈衛尉卿,葬頡利墓左,樹碑其阡。舊城往往入新羅,遺人散奔突厥、靺鞨,由是高氏君長皆絕。垂拱中,以藏孫寶元爲朝鮮郡王。聖曆初,進左鷹揚衛大將軍,更封忠誠國王,使統安東舊部,不行。明年,以藏子德武爲安東都督,後稍自國。至元和末,遣使者獻樂工云。

百濟

原文百濟

百濟は、扶餘の別種なり。京師の東六千里に直にして贏ち、海の陽に濱り、西は越州に界し、南は倭、北は高麗、皆海を逾えて乃ち至る。その東は新羅なり。王は東西二城に居す。官に内臣佐平あり、号令を宣納し、内頭佐平は帑聚を主り、内法佐平は礼を主り、衛士佐平は衛兵を典し、朝廷佐平は獄を主り、兵官佐平は外兵を掌る。六方あり、方は十郡を統ぶ。大姓八あり、沙氏、燕氏、軬氏、解氏、貞氏、国氏、木氏、䒤氏。その法、反逆する者は誅し、その家を籍す。人を殺す者は奴婢三を輸して罪を贖う。吏賕を受く及び盗む者は、三倍償い、終身錮す。俗は高麗と同じ。三島あり、黄漆を生ず。六月に刺し取りて沈め、色金の若し。王は大袖の紫袍を服し、青錦の褲、素皮の帯、烏革の履、烏羅の冠、金花を以て飾る。群臣は絳衣こうい、冠を銀花を以て飾る。民の絳紫を衣するを禁ず。文籍あり、時月を紀すること華人の如し。

原文百濟,扶餘別種也。直京師東六千里而贏,濱海之陽,西界越州,南倭,北高麗,皆逾海乃至,其東,新羅也。王居東、西二城,官有內臣佐平者宣納號令,內頭佐平主帑聚,內法佐平主禮,衛士佐平典衛兵,朝廷佐平主獄,兵官佐平掌外兵。有六方,方統十郡。大姓有八:沙氏,燕氏,軬氏,解氏,貞氏,國氏,木氏,䒤氏。其法:反逆者誅,籍其家;殺人者,輸奴婢三贖罪;吏受賕及盜,三倍償,錮終身。俗與高麗同。有三島,生黃漆,六月刺取沈,色若金。王服大袖紫袍,青錦褲,素皮帶,烏革履,烏羅冠飾以金花。群臣絳衣,飾冠以銀花。禁民衣絳紫。有文籍,紀時月如華人。

武徳四年、王扶餘璋始めて使者を遣わして果下馬を献ず。ここより数え朝貢す。高祖冊して帯方郡王・百濟王となす。後五年、明光鎧を献じ、且つ高麗の貢道を梗むるを訟う。太宗貞観の初め、詔して使者にその怨みを平げしむ。また新羅と世仇とし、数え相侵す。帝璽書を賜いて曰く、「新羅は朕が蕃臣、王の鄰国なり。数え相侵暴するを聞く。朕已に高麗・新羅に詔して和を申さしむ。王は前怨を忘れ、朕が本懐を識るべし」と。璋表を奉りて謝す。然れども兵も亦止まず。再び使を遣わして朝し、鉄甲雕斧を上る。帝これを優労し、帛段三千を賜う。十五年、璋死す。使者素服して表を奉りて曰く、「君の外臣百濟王扶餘璋卒す」と。帝為に玄武門において挙哀し、光禄大夫を贈り、賻賜甚だ厚し。祠部郎中鄭文表を命じ、その子義慈を冊して柱国とし、王を紹がしむ。

原文武德四年,王扶餘璋始遣使獻果下馬,自是數朝貢。高祖冊爲帶方郡王、百濟王。後五年,獻明光鎧,且訟高麗梗貢道。太宗貞觀初,詔使者平其怨。又與新羅世仇,數相侵,帝賜璽書曰:「新羅,朕蕃臣,王之鄰國。聞數相侵暴,朕已詔高麗、新羅申和,王宜忘前怨,識朕本懷。」璋奉表謝,然兵亦不止。再遣使朝,上鐵甲雕斧,帝優勞之,賜帛段三千。十五年,璋死,使者素服奉表曰:「君外臣百濟王扶餘璋卒。」帝爲舉哀玄武門,贈光祿大夫,賻賜甚厚。命祠部郎中鄭文表冊其子義慈爲柱國,紹王。

義慈は親に事えて孝、兄弟と友す。時に「海東の曾子」と号す。明年、高麗と連和して新羅を伐ち、四十余城を取り、兵を発してこれを守る。また棠項城を取らんと謀り、貢道を絶つ。新羅急を告ぐ。帝司農丞相裏玄奨を遣わし、詔書を齎して諭解せしむ。帝新たに高麗を討つを聞き、乃ち間を取って新羅の七城を取る。久しうして、また十余城を奪い、ここによりて朝貢せず。高宗立ち、乃ち使者を遣わして来る。帝義慈に詔して曰く、「海東の三国、基を開くこと旧し。地固より犬牙たり。比者隙争侵校して寧歳無し。新羅の高城重鎮皆王に併せられ、窮きを朕に帰し、王に地を帰せんことを丐う。昔斉桓一諸侯、尚お亡国を存す。況んや朕万方の主、その危きを恤わざるべけんや。王の兼ねたる城宜しくこれを還すべし。新羅の俘うるところも亦王に還し畀うべし。詔に如かざれば、王に任せて決戦せしむ。朕将に契丹諸国を発し、遼を度りて深入せん。王これを思え、後悔無かれ」と。

原文義慈事親孝,與兄弟友,時號「海東曾子」。明年,與高麗連和伐新羅,取四十餘城,發兵守之。又謀取棠項城,絕貢道。新羅告急,帝遣司農丞相裏玄獎齎詔書諭解。聞帝新討高麗,乃間取新羅七城;久之,又奪十餘城,因不朝貢。高宗立,乃遣使者來,帝詔義慈曰:「海東三國,開基舊矣,地固犬牙。比者隙爭侵校無寧歲,新羅高城重鎮皆爲王并,歸窮于朕,丐王歸地。昔齊桓一諸侯,尚存亡國,況朕萬方主,可不恤其危邪?王所兼城宜還之,新羅所俘亦畀還王。不如詔者,任王決戰,朕將發契丹諸國,度遼深入。王可思之,無後悔!」

永徽六年、新羅百濟・高麗・靺鞨の北境三十城を取るを訴う。顕慶五年、乃ち詔して左衛大將軍蘇定方を神丘道行軍大総管とし、左衛將軍劉伯英・右武衛將軍馮士貴・左驍衛將軍龐孝泰を率い、新羅兵を発してこれを討たしめ、城山より海を済く。百濟熊津口を守る。定方撃ちを縦す。虜大いに敗る。王師潮に乗じ帆を以て進み、真都城に趨ること一舎にして止まる。虜衆を悉くして拒ぐ。またこれを破り、首級万余を斬り、その城を抜く。義慈太子隆を挟みて北鄙に走る。定方これを囲む。次子泰自立して王と為り、衆を率いて固守す。義慈の孫文思曰く、「王・太子固より在り。叔乃ち自ら王と為る。若し唐兵解き去らば、我が父子を如何せん」と。左右と縋りて出づ。民皆これに従う。泰止むること能わず。定方士を令して堞を超え幟を立たしむ。泰門を開きて降る。定方義慈・隆及び小王孝演・酋長五十八人を執りて京師に送る。その国の五部・三十七郡・二百城、戸七十六万を平ぐ。乃ち熊津・馬韓・東明・金漣・徳安の五都督府を析置し、酋渠長を擢げてこれを治めしむ。郎将劉仁願を命じて百濟城を守らしめ、左衛郎将王文度を熊津都督となす。九月、定方俘うるところを以て見ゆ。詔して釈し誅せず。義慈病死す。衛尉卿を贈り、旧臣の臨に赴くを許し、詔して孫皓・陳叔宝の墓の左に葬らしむ。隆に司稼卿を授く。文度海を済いて卒す。劉仁軌を以てこれに代う。

原文永徽六年,新羅訴百濟、高麗、靺鞨取北境三十城。顯慶五年,乃詔左衛大將軍蘇定方爲神丘道行軍大總管,率左衛將軍劉伯英、右武衛將軍馮士貴、左驍衛將軍龐孝泰發新羅兵討之,自城山濟海。百濟守熊津口,定方縱擊,虜大敗。王師乘潮帆以進,趨真都城一舍止。虜悉衆拒,復破之,斬首萬餘級,拔其城。義慈挾太子隆走北鄙,定方圍之。次子泰自立爲王,率衆固守,義慈孫文思曰:「王、太子固在,叔乃自王,若唐兵解去,如我父子何?」與左右縋而出,民皆從之,泰不能止。定方令士超堞立幟,泰開門降,定方執義慈、隆及小王孝演、酋長五十八人送京師,平其國五部、三十七郡、二百城,戶七十六萬。乃析置熊津、馬韓、東明、金漣、德安五都督府,擢酋渠長治之。命郎將劉仁願守百濟城,左衛郎將王文度爲熊津都督。九月,定方以所俘見,詔釋不誅。義慈病死,贈衛尉卿,許舊臣赴臨,詔葬孫皓、陳叔寶墓左,授隆司稼卿。文度濟海卒,以劉仁軌代之。

璋の従子福信は嘗て兵を将いたりしが、乃ち浮屠道琛と共に周留城に拠りて反し、故王子扶餘豊を倭より迎へ、之を立てて王と為す。西部皆応じ、兵を引いて仁願を囲む。龍朔元年、仁軌は新羅の兵を発して往き救はしむ。道琛は二つの壁を熊津江に立て、仁軌は新羅の兵と共に之を夾撃す。壁に奔り入り、梁を争ひて墮溺する者万人、新羅の兵還る。道琛は任孝城を保ち、自ら領軍将軍と称し、福信は霜岑将軍と称し、仁軌に告げて曰く、「唐と新羅と約し、百済を破りては、老孺無く皆之を殺し、国を畀ふと聞く。我らは死を受くるよりは、戦はざるに若かず」と。仁軌は使いを遣はし書を齎して答へ説く。道琛甚だ倨り、使者を外に館し、嫚りて報じて曰く、「使人官小なり、我は国の大将、礼当に見るべからず」と。徒らに之を遣す。仁軌は衆少なるを以て、乃ち軍を休め威を養ひ、新羅と合して之を図らんことを請ふ。福信俄かに道琛を殺し、其の兵を併せ、豊は制すること能はず。二年七月、仁願等熊津に之を破り、支羅城を抜き、夜真峴に薄し、比明に入り之を斬ること八百級、新羅の餉道乃ち開く。仁願は師の済るを請ふ。詔して右威衛将軍孫仁師を熊津道行軍総管と為し、斉の兵七千を発して往かしむ。福信国を顓にし、豊を謀殺せんとす。豊は親信を率ひ福信を斬り、高麗・倭と連和す。仁願は既に斉兵を得、士気振ひ、乃ち新羅王金法敏と共に歩騎を率ひ、劉仁軌を遣はして舟師を率ひしめ、熊津江より偕に進み、周留城に趨る。豊の衆は白江口に屯し、四たび遇ひて皆克ち、四百艘を火とす。豊は走りて所在を知らず。偽王子扶餘忠勝・忠志は残衆及び倭人を率ひて命を請ひ、諸城皆復す。仁願は軍を勒して還り、仁軌を留めて守を代らしむ。

原文璋從子福信嘗將兵,乃與浮屠道琛據周留城反,迎故王子扶餘豐於倭,立爲王。西部皆應,引兵圍仁願。龍朔元年,仁軌發新羅兵往救,道琛立二壁熊津江,仁軌與新羅兵夾擊之,奔入壁,爭梁墮溺者萬人,新羅兵還。道琛保任孝城,自稱領軍將軍,福信稱霜岑將軍,告仁軌曰:「聞唐與新羅約,破百濟,無老孺皆殺之;畀以國。我與受死,不若戰。」仁軌遣使齎書答說,道琛倨甚,館使者于外,嫚報曰:「使人官小,我,國大將,禮不當見。」徒遣之。仁軌以衆少,乃休軍養威,請合新羅圖之。福信俄殺道琛,并其兵,豐不能制。二年七月,仁願等破之熊津,拔支羅城,夜薄真峴,比明入之,斬首八百級,新羅餉道乃開。仁願請濟師,詔右威衛將軍孫仁師爲熊津道行軍總管,發齊兵七千往。福信顓國,謀殺豐;豐率親信斬福信,與高麗、倭連和。仁願已得齊兵,士氣振,乃與新羅王金法敏率步騎,而遣劉仁軌率舟師,自熊津江偕進,趨周留城。豐衆屯白江口,四遇皆克,火四百艘;豐走不知所在。偽王子扶餘忠勝、忠志率殘衆及倭人請命,諸城皆復。仁願勒軍還,留仁軌代守。

帝は扶餘隆を以て熊津都督と為し、俾くは国に帰り、新羅の故憾を平げ、遺人を招還せしむ。麟徳二年、新羅王と熊津城に会し、白馬を刑して以て盟す。仁軌盟辞を作りて曰く、「往く百済の先王、逆順を顧みず、鄰を敦ねず、親を睦まず、高麗・倭と共に新羅を侵削し、邑を破り城を屠る。天子は百姓の無辜を憐れみ、行人をして好を脩めしむ。先王は険を負ひ遐を恃み、侮慢して恭ならず。皇赫斯く怒り、是を伐ち是を夷す。但し興亡継絶は、王者の通制、故に前太子隆を立てて熊津都督と為し、其の祭祀を守らしめ、新羅に附杖し、長く与国と為し、好を結び怨を除き、天子の命に恭しく、永く籓服と為す。右威衛将軍魯城県公仁願、親しく厥の盟に臨み、其の徳に貳する有らば、兵を興し衆を動かせば、明神之を監み、百殃是に降り、子孫育たず、社稷守る無く、世世敢へて犯す毋からん」と。乃ち金書鉄契を作り、新羅の廟中に蔵す。

原文帝以扶餘隆爲熊津都督,俾歸國,平新羅故憾,招還遺人。麟德二年,與新羅王會熊津城,刑白馬以盟。仁軌爲盟辭曰:「往百濟先王,罔顧逆順,不敦鄰,不睦親,與高麗、倭共侵削新羅,破邑屠城。天子憐百姓無辜,命行人脩好,先王負險恃遐,侮慢弗恭。皇赫斯怒,是伐是夷。但興亡繼絕,王者通制,故立前太子隆爲熊津都督,守其祭祀,附杖新羅,長爲與國,結好除怨,恭天子命,永爲籓服。右威衛將軍魯城縣公仁願,親臨厥盟,有貳其德,興兵動衆,明神監之,百殃是降,子孫不育,社稷無守,世世毋敢犯。」乃作金書鐵契,藏新羅廟中。

仁願等還る。隆は衆の携散を畏れ、亦京師に帰る。儀鳳の時、帯方郡王に進み、帰籓を遣す。是の時、新羅強く、隆は敢へて旧国に入らず、高麗に寄治して死す。武后は又其の孫敬を以て王を襲はしむ。而して其の地は既に新羅・渤海靺鞨に分たれ、百済遂に絶つ。

原文仁願等還,隆畏衆攜散,亦歸京師。儀鳳時,進帶方郡王,遣歸籓。是時,新羅強,隆不敢入舊國,寄治高麗死。武后又以其孫敬襲王,而其地已爲新羅、渤海靺鞨所分,百濟遂絕。

新羅

原文新羅

新羅は弁韓の苗裔なり。漢の楽浪の地に居し、横千里、縦三千里、東は長人に拒ぎ、東南は日本、西は百済、南は海に瀕し、北は高麗なり。而して王は金城に居し、環ること八里所、衛兵三千人。城を健牟羅と謂ひ、邑内を喙評と曰ひ、外を邑勒と曰ふ。喙評六有り、邑勒五十二有り。朝服は白を尚び、山神を祠るを好む。八月の望日、大いに宴して官吏に齎し、射る。其の官を建つるに、親属を以て上と為し、其の族名第一骨・第二骨を以て自ら別つ。兄弟の女・姑・姨・従姉妹、皆聘して妻と為す。王族は第一骨と為し、妻も亦其の族、生む子は皆第一骨と為し、第二骨の女を娶らず、仮令ひ娶るも、常に妾媵と為す。官に宰相・侍中・司農卿・太府令有り、凡そ十有七等、第二骨之を得て為す。事必ず衆と議し、「和白」と号す。一人異なれば則ち罷む。宰相の家は禄絶えず、奴僮三千人、甲兵牛馬猪之に称す。海中の山に畜牧し、食を須ふるに乃ち射る。人に穀米を息し、償ひ満たざれば、庸として奴婢と為す。王は姓は金、貴人は姓は朴、民は氏無く名有り。食は柳杯若しくは銅・瓦を用ふ。元日相慶し、是の日日月神を拝す。男子は褐褲。婦は長襦、人を見れば必ず跪き、則ち手を以て地に据ふるを恭と為す。粉黛せず、率ね美髮を以て首を繚ぎ、珠彩を以て之を飾る。男子は発を翦り鬻ぎ、黒巾を以て冒す。市は皆婦女の貿販なり。冬は則ち堂中に灶を作り、夏は食を氷上に置く。畜に羊無く、驢・驘少く、馬多し。馬は高大と雖も、行ふに善からず。

原文新羅,弁韓苗裔也。居漢樂浪地,橫千里,縱三千里,東拒長人,東南日本,西百濟,南瀕海,北高麗。而王居金城,環八里所,衛兵三千人。謂城爲健牟羅,邑在內曰喙評,外曰邑勒。有喙評六,邑勒五十二。朝服尚白,好祠山神。八月望日,大宴齎官吏,射。其建官,以親屬爲上,其族名第一骨、第二骨以自別。兄弟女、姑、姨、從姊妹,皆聘爲妻。王族爲第一骨,妻亦其族,生子皆爲第一骨,不娶第二骨女,雖娶,常爲妾媵。官有宰相、侍中、司農卿、太府令,凡十有七等,第二骨得爲之。事必與衆議,號「和白」,一人異則罷。宰相家不絕祿,奴僮三千人,甲兵牛馬豬稱之。畜牧海中山,須食乃射。息谷米於人,償不滿,庸爲奴婢。王姓金,貴人姓朴,民無氏有名。食用柳杯若銅、瓦。元日相慶,是日拜日月神。男子褐褲。婦長襦,見人必跪,則以手據地爲恭。不粉黛,率美髮以繚首,以珠彩飾之。男子翦發鬻,冒以黑巾。市皆婦女貿販。冬則作灶堂中,夏以食置冰上。畜無羊,少驢、驘,多馬。馬雖高大,不善行。

長人とは、人に類して長さ三丈、牙を鋸にし爪を鉤にし、黒毛身を覆ひ、火食せず、禽獣を噬ひ、或は人を搏ちて以て食ふ。婦人を得れば、以て衣服を治む。其の国は山を連ねること数十里、峡有り、固く鉄闔を以てし、関門と号す。新羅は常に弩士数千を屯して之を守る。

原文長人者,人類長三丈,鋸牙鉤爪,黑毛覆身,不火食,噬禽獸,或搏人以食;得婦人,以治衣服。其國連山數十里,有峽,固以鐵闔,號關門,新羅常屯弩士數千守之。

初め、百済高麗を伐つ。来たりて救ひを請ふ。悉く兵をして往きて之を破らしむ。是より相攻みて置かず。後に百済王を獲て之を殺し、怨を結ぶに滋し。武徳四年、王真平使いを遣はして入朝す。高祖詔して通直散騎侍郎庾文素に節を持たしめて答齎せしむ。後三年、柱国を拝し、楽浪郡王・新羅王に封ず。

原文初,百濟伐高麗,來請救,悉兵往破之,自是相攻不置。後獲百濟王殺之,滋結怨。武德四年,王真平遣使者入朝,高祖詔通直散騎侍郎庾文素持節答齎。後三年,拜柱國,封樂浪郡王、新羅王。

貞観五年、女楽二を献ず。太宗曰く、「林邑の鸚鵡を献ずるに比ぶれば、郷を思ひ言ひ、還るを丐ふ。況んや人に於てをや」と。使者に付して之を帰す。是歳、真平死す。子無く、女善徳を立てて王と為し、大臣乙祭国を柄とす。詔して真平に左光禄大夫を贈り、賻物段二百。九年、使いを遣はして善徳を冊し父の封を襲はしむ。国人聖祖皇姑と号す。十七年、高麗・百済に攻めらる。使い来たりて師を乞ふ。亦た会す帝親しく高麗を伐たんとす。詔して兵を率ひて以て虜の勢を披かしむ。善徳兵五万をして高麗の南鄙に入らしめ、水口城を抜きて以て聞かしむ。二十一年、善徳死す。光禄大夫を贈り、而して妹真徳王を襲ふ。明年、子文王及び弟伊賛子春秋を遣はして来朝す。文王を左武衛将軍に拝し、春秋に特進す。因りて章服を改むることを請ひ、中国の制に従ふ。内より珍服を出だして之を賜ふ。又国学に詣りて釈奠・講論を観す。帝賜ふ所制の『晋書』。辞して帰らんとす。三品以上に勅して郊餞せしむ。

原文貞觀五年,獻女樂二。太宗曰:「比林邑獻鸚鵡,言思鄉,丐還,況於人乎?」付使者歸之。是歲,真平死,無子,立女善德爲王,大臣乙祭柄國。詔贈真平左光祿大夫,賻物段二百。九年,遣使者冊善德襲父封,國人號聖祖皇姑。十七年,爲高麗、百濟所攻,使者來乞師,亦會帝親伐高麗,詔率兵以披虜勢。善德使兵五萬入高麗南鄙,拔水口城以聞。二十一年,善德死,贈光祿大夫,而妹真德襲王。明年,遣子文王及弟伊贊子春秋來朝,拜文王左武衛將軍,春秋特進。因請改章服,從中國制,內出珍服賜之。又詣國學觀釋奠、講論,帝賜所制《晉書》。辭歸,敕三品以上郊餞。

高宗永徽元年、百済を攻め、之を破り、春秋の子法敏を遣はして入朝せしむ。真徳錦を織りて頌を為し以て献じ、曰く、「巨唐洪業を開き、巍巍として皇猷昌なり。戈を止めて大定を成し、文を興して百王を継ぐ。天を統べて雨施を崇め、物を治めて体含章なり。深仁は日月に諧ひ、運を撫でて時康に邁る。幡旗既に赫赫たり、鉦鼓せいこ何ぞ鍠鍠たり。外夷命に違ふ者は、翦覆して天殃に被る。淳風は幽顕に凝り、遐邇競ひて祥を呈す。四時は玉燭に和し、七耀は万方を巡る。維れ嶽は宰輔を降し、維れ帝は忠良を任ず。三五一徳を成し、我が唐家の唐を昭す」と。帝其の意を美しとし、法敏を擢して太府卿と為す。

原文高宗永徽元年,攻百濟,破之,遣春秋子法敏入朝。真德織錦爲頌以獻,曰:「巨唐開洪業,巍巍皇猷昌。止戈成大定,興文繼百王。統天崇雨施,治物體含章。深仁諧日月,撫運邁時康。幡旗既赫赫,鉦鼓何鍠鍠。外夷違命者,翦覆被天殃。淳風凝幽顯,遐邇競呈祥。四時和玉燭,七耀巡萬方。維嶽降宰輔,維帝任忠良。三五成一德,昭我唐家唐。」帝美其意,擢法敏太府卿。

五年、真徳死す。帝之が為に挙哀し、開府儀同三司を贈り、彩段三百を賜ひ、太常丞張文収に命じ節を持たしめて弔祭せしめ、春秋を以て王を襲はしむ。明年、百済・高麗・靺鞨共に伐ち其の三十城を取る。使い来たりて救ひを請ふ。帝蘇定方に命じて之を討たしめ、春秋を隅夷道行軍総管と為し、遂に百済を平ぐ。龍朔元年、死す。法敏王を襲ふ。其の国を以て鶏林州大都督府と為し、法敏に都督を授く。

原文五年,真德死,帝爲舉哀,贈開府儀同三司,賜彩段三百,命太常丞張文收持節弔祭,以春秋襲王。明年,百濟、高麗、靺鞨共伐取其三十城。使者來請救,帝命蘇定方討之,以春秋爲隅夷道行軍總管,遂平百濟。龍朔元年,死,法敏襲王。以其國爲雞林州大都督府,授法敏都督。

咸亨五年、高麗の叛衆を容れ、百済の地を略してこれを守る。帝怒り、詔して官爵を削ぎ、その弟右驍衛員外大将軍・臨海郡公仁問を以て新羅王と為し、京師より帰国せしむ。詔して劉仁軌を雞林道大総管と為し、衛尉卿李弼・右領軍大将軍李謹行これを副え、兵を発して窮討せしむ。上元二年二月、仁軌その衆を七重城にて破り、靺鞨の兵を以て海を浮かび南境を略し、斬獲甚だ衆し。詔して李謹行を安東鎮撫大使と為し、買肖城に屯し、三戦し、虜皆北す。法敏使いを遣わし入朝して罪を謝し、貢篚相望み、仁問乃ち還り、王を辞し、詔して法敏の官爵を復す。然れども多く百済の地を取り、遂に高麗の南境に抵る。尚・良・康・熊・全・武・漢・朔・溟の九州を置き、州に都督有り、郡十あるいは二十を統べ、郡に太守有り、県に小守有り。開耀元年、死し、子政明王を襲う。使者を遣わし朝し、唐礼及び他の文辞を乞い、武后『吉凶礼』并びに文詞五十篇を賜う。死し、子理洪王を襲う。死し、弟興光王を襲う。

原文咸亨五年,納高麗叛衆,略百濟地守之。帝怒,詔削官爵,以其弟右驍衛員外大將軍、臨海郡公仁問爲新羅王,自京師歸國。詔劉仁軌爲雞林道大總管,衛尉卿李弼、右領軍大將軍李謹行副之,發兵窮討。上元二年二月,仁軌破其衆於七重城,以靺鞨兵浮海略南境,斬獲甚衆。詔李謹行爲安東鎮撫大使,屯買肖城,三戰,虜皆北。法敏遣使入朝謝罪,貢篚相望,仁問乃還,辭王,詔復法敏官爵。然多取百濟地,遂抵高麗南境矣。置尚、良、康、熊、全、武、漢、朔、溟九州,州有都督,統郡十或二十,郡有大守,縣有小守。開耀元年,死,子政明襲王。遣使者朝,丐唐禮及它文辭,武后賜《吉凶禮》并文詞五十篇。死,子理洪襲王。死,弟興光襲王。

玄宗開元中、数たび入朝し、果下馬・朝霞紬・魚牙紬・海豹皮を献ず。又二女を献ず、帝曰く「女は皆王の姑姊妹なり、本俗に違い、別に親を離る、朕留め忍びず」と。厚く賜いて還す。又子弟を遣わし太学に入り経術を学ばしむ。帝時に興光に瑞文錦・五色羅・紫繡紋袍・金銀精器を賜う。興光も亦異狗馬・黄金・美髢諸物を上る。初め、渤海靺鞨登州を掠む、興光これを撃ち走らす、帝興光を甯海軍大使に進め、靺鞨を攻めしむ。二十五年死す、帝特にこれを悼み、太子太保を贈り、邢璹をして鴻臚少卿を以て弔祭せしむ。子承慶王を襲う、詔して璹に曰く「新羅は君子国と号し、『詩』『書』を知る。卿の惇儒を以て、故に節を持ち往かしむ、宜しく経誼を演べ、大国の盛なるを知らしむべし」と。又国人の棋を善くするを以て、詔して率府兵曹参軍楊季鷹を副と為す。国の高弈皆その下に出ず、ここに於いて使者に金宝を厚く遺す。俄にその妻朴を冊して妃と為す。承慶死す、詔して使者を遣わし臨吊し、その弟憲英を以て王を嗣がしむ。帝蜀に在り、使いを遣わし江を溯り成都に至り正月を朝せしむ。

原文玄宗開元中,數入朝,獻果下馬、朝霞紬、魚牙紬、海豹皮。又獻二女,帝曰:「女皆王姑姊妹,違本俗,別所親,朕不忍留。」厚賜還之。又遣子弟入太學學經術。帝間賜興光瑞文錦、五色羅、紫繡紋袍、金銀精器。興光亦上異狗馬、黃金、美髢諸物。初,渤海靺鞨掠登州,興光擊走之,帝進興光甯海軍大使,使攻靺鞨。二十五年死,帝尤悼之,贈太子太保,命邢璹以鴻臚少卿弔祭。子承慶襲王,詔璹曰:「新羅號君子國,知《詩》、《書》。以卿惇儒,故持節往,宜演經誼,使知大國之盛。」又以國人善棋,詔率府兵曹參軍楊季鷹爲副。國高弈皆出其下,於是厚遺使者金寶。俄冊其妻朴爲妃。承慶死,詔使者臨吊,以其弟憲英嗣王。帝在蜀,遣使溯江至成都朝正月。

大暦初、憲英死し、子乾運立つ、甫丱にして、金隠居を遣わし入朝して命を待たしむ。詔して倉部郎中帰崇敬を遣わし往きて弔い、監察御史陸珽・顧愔を副と為し冊を授けてこれを冊授し、并びに母金を太妃と為す。会にその宰相権を争い相攻め、国大いに乱れ、三歳にして乃ち定まる。ここに於いて、歳ごとに朝献す。建中四年死す、子無く、国人共に宰相金良相を立て嗣がしむ。貞元元年、戸部郎中蓋塤を遣わし節を持ちてこれを命ず。是の年死す、良相の従父弟敬信を立て王を襲わしむ。十四年、死す、子無く、嫡孫俊邕を立てる。明年、司封郎中韋丹を遣わし冊を持たしむ、未だ至らざるに、俊邕死す、丹還る。子重興立つ、永貞元年、詔して兵部郎中元季方に冊命せしむ。後三年、使者金力奇来たり謝し、且つ言う「往年故主俊邕を冊して主と為し、母申を太妃と為し、妻を叔妃と為す。而るに俊邕不幸にして、冊今省中に留まる、臣請う授けて以て帰らしめん」と。又その宰相金彦升・金仲恭・王の弟蘇金添明の為に門戟を乞う、詔して皆可とす。凡そ再び朝貢す。七年死す、彦升立つ、来たり喪を告げ、職方員外郎崔廷を命じて弔い、且つ新王を命じ、以て妻貞を妃と為す。長慶・宝暦の間、再び使者を遣わし来朝し、宿衛に留まる。彦升死す、子景徽立つ。大和五年、太子左諭德源寂を以て冊吊儀の如くす。開成初、子義琮を遣わし謝し、衛に留まらんことを願い、聴かる。明年これを遣わす。五年、鴻臚寺質子及び学生の歳満する者一百五人を籍し、皆これを還す。

原文大曆初,憲英死,子乾運立,甫丱,遣金隱居入朝待命。詔倉部郎中歸崇敬往吊,監察御史陸珽、顧愔爲副冊授之,并母金爲太妃。會其宰相爭權相攻,國大亂,三歲乃定。於是,歲朝獻。建中四年死,無子,國人共立宰相金良相嗣。貞元元年,遣戶部郎中蓋塤持節命之。是年死,立良相從父弟敬信襲王。十四年,死,無子,立嫡孫俊邕。明年,遣司封郎中韋丹持冊,未至,俊邕死,丹還。子重興立,永貞元年,詔兵部郎中元季方冊命。後三年,使者金力奇來謝,且言:「往歲冊故主俊邕爲主,母申太妃,妻叔妃,而俊邕不幸,冊今留省中,臣請授以歸。」又爲其宰相金彥升、金仲恭、王之弟蘇金添明丐門戟,詔皆可。凡再朝貢。七年死,彥升立,來告喪,命職方員外郎崔廷吊,且命新王,以妻貞爲妃。長慶、寶曆間,再遣使者來朝,留宿衛。彥升死,子景徽立。大和五年,以太子左諭德源寂冊吊如儀。開成初,遣子義琮謝,願留衛,見聽,明年遣之。五年,鴻臚寺籍質子及學生歲滿者一百五人,皆還之。

張保皐・鄭年という者有り、皆闘戦を善くし、槍を用いるに巧みなり。年はまた海に没する能く、その地を五十里履みて噎せず、その勇健を角ぶるに、保皐及ばず。年は兄を以て保皐を呼び、保皐は歯を以てし、年は芸を以てし、常に相下らず。その国より皆来たりて武寧軍の小将と為る。後保皐新羅に帰り、その王に謁して曰く「中国に遍く新羅人を以て奴婢と為す、願わくは清海を鎮め、賊をして人を掠め西去することを得ざらしめん」と。清海は海路の要なり。王保皐に万人を与えてこれを守らしむ。大和後より、海上に新羅人を鬻ぐ者無し。保皐既にその国に貴く、年は饑寒して漣水に客す。一日、戍主馮元規に謂いて曰く「我東に帰らんと欲す、張保皐に食を乞わん」と。元規曰く「若と保皐の負うところ何如、奈何ぞ死をその手に取らん」と。年曰く「饑寒して死するは、兵に死するの快きに如かず、況んや故郷に死するをや」と。年遂に去る。至り、保皐に謁し、これを飲みて極めて歓ぶ。飲み未だ卒わらず、大臣その王を殺し、国乱れて主無しと聞く。保皐兵五千人を分かち年与え、年を持ちて泣きて曰く「子に非ざれば禍難を平ぐること能わず」と。年その国に至り、反者を誅し、王を立てて報ず。王遂に保皐を召して相と為し、年を以て代わり清海を守らしむ。会昌後、朝貢復た至らず。

原文有張保皋、鄭年者,皆善鬥戰,工用槍。年復能沒海,履其地五十里不噎,角其勇健,保皋不及也。年以兄呼保皋,保皋以齒,年以藝,常不相下。自其國皆來爲武甯軍小將。後保皋歸新羅,謁其王曰:「遍中國以新羅人爲奴婢,願得鎮清海,使賊不得掠人西去。」清海,海路之要也。王與保皋萬人守之。自大和後,海上無鬻新羅人者。保皋既貴于其國,年饑寒客漣水,一日謂戍主馮元規曰:「我欲東歸,乞食于張保皋。」元規曰:「若與保皋所負何如?奈何取死其手?」年曰:「饑寒死,不如兵死快,況死故鄉邪!」年遂去。至,謁保皋,飲之極歡。飲未卒,聞大臣殺其王,國亂無主。保皋分兵五千人與年,持年泣曰:「非子不能平禍難。」年至其國,誅反者,立王以報。王遂召保皋爲相,以年代守清海。會昌後,朝貢不復至。

賛に曰く、杜牧称す「安思順朔方節度たりし時、郭汾陽・李臨淮俱に牙門都将と為り、二人相能わず、同盤飲食すと雖も、常に睇み相視て、一言も交わさず。及んで汾陽思順に代わり、臨淮亡去せんと欲す、計未だ決せず。旬日、詔して臨淮に汾陽の半兵を分かち東に出で趙・魏にせしむ。臨淮入り請いて曰く『一死は固より甘んず、妻子を免れしめんことを乞う』と。汾陽趨り下り、手を持ちて堂に上り、曰く『今国乱れ主遷る、公に非ざれば東伐すること能わず、豈に私忿を懐く時ならんや』と。及んで別るるに、手を執り涕を泣き、忠義を以て相勉め、劇盗を平ぐるに訖るは、実に二公の力なり。その心叛かざるを知るは、その心を知るは、難きなり。忿れば必ず短を見る、その材を知るは、益々難きなり。此れ保皐と汾陽の賢等しきのみ。年保皐に投ずれば必ず曰く『彼は貴く我は賤し、我降り下之、旧忿を以て我を殺すに宜しからず』と。保皐果たして殺さず、人の常情なり。臨淮汾陽に請いて死せんとす、亦人の常情なり。保皐年を任ず、事は己より出づ、年且つ寒饑す、感動せしむるに易し。汾陽・臨淮、平生亢立す、臨淮の命は天子より出づ。保皐に榷るれば、汾陽優れり。此れ乃ち聖賢の成敗の際に疑い遲るるなり。世周・邵を称して百代の師と為す、周公は孺子を擁し而して邵公これを疑う。周公の聖を以て、邵公の賢を以て、少くは文王に事え、老いては武王を佐け、天下を平ぐる能くす。周公の心、邵公尚且つこれを知らず。苟くも仁義の心有らば、明を資とせずと雖も、邵公尚お爾り、況んやその下をや」と。嗟乎、怨毒を以て相槊せずして、先ず国家の憂いを為す、晋に祁奚有り、唐に汾陽・保皐有り、孰れか夷に人無しと謂わんや。

原文贊曰:杜牧稱:「安思順爲朔方節度時,郭汾陽、李臨淮俱爲牙門都將,二人不相能,雖同盤飲食,常睇相視,不交一言。及汾陽代思順,臨淮欲亡去,計未決。旬日,詔臨淮分汾陽半兵東出趙、魏,臨淮入請曰:『一死固甘,乞免妻子。』汾陽趨下,持手上堂,曰:'今國亂主遷,非公不能東伐,豈懷私忿時邪?'及別,執手泣涕,相勉以忠義,訖平劇盜,實二公之力。知其心不叛,知其心,難也;忿必見短,知其材,益難也。此保皋與汾陽之賢等耳。年投保皋必曰:'彼貴我賤,我降下之,不宜以舊忿殺我。'保皋果不殺,人之常情也。臨淮請死於汾陽,亦人之常情也。保皋任年,事出於己,年且寒饑,易爲感動。汾陽、臨淮,平生亢立,臨淮之命,出於天子。榷於保皋,汾陽爲優。此乃聖賢遲疑成敗之際也。世稱周、邵爲百代之師,周公擁孺子而邵公疑之,以周公之聖,邵公之賢,少事文王,老佐武王,能平天下,周公之心,邵公且不知之。苟有仁義之心,不資以明,雖邵公尚爾,況其下哉!」嗟乎,不以怨毒相槊,而先國家之憂,晉有祁奚,唐有汾陽、保皋,孰謂夷無人哉!

日本

原文日本

京師を去ること一万四千里、直に新羅の東南、海中に在り、島に居り、東西五月行、南北三月行。

原文去京師萬四千里,直新羅東南,在海中,島而居,東西五月行,南北三月行。

国に城郛無く、木を聯ねて柵落と為し、草を以て屋を茨う。

原文國無城郛,聯木爲柵落,以草茨屋。

左右小島五十余、皆自ら国と名づけ、而してこれに臣附す。

原文左右小島五十餘,皆自名國,而臣附之。

本率一人を置き、諸部を検察す。

原文置本(大)率一人,檢察諸部。

その俗は女多く男少なく、文字あざな有り、浮屠法を尚ぶ。

原文其俗多女少男,有文字,尚浮屠法。

その官十二等有り。

原文其官十有二等。

その王は姓を阿毎氏とし、自ら言うには初代の主は天御中主と号し、彦瀲に至るまで凡そ二十二世、皆「尊」を以て号とし、筑紫城に居す。

原文其王姓阿每氏,自言初主號天御中主,至彥瀲,凡二十二世,皆以「尊」爲號,居筑紫城。

次は綏靖、次は安寧、次は懿徳、次は孝昭、次は天安、次は孝霊、次は孝元、次は開化、次は崇神、次は垂仁、次は景行、次は成務、次は仲哀。

原文次曰綏靖,次安寧,次懿德,次孝昭,次天安,次孝靈,次孝元,次開化,次崇神,次垂仁,次景行,次成務,次仲哀。

次は応神、次は仁徳、次は履中、次は反正、次は允恭、次は安康、次は雄略、次は清寧、次は顕宗、次は仁賢、次は武烈、次は継体、次は安閑、次は宣化、次は欽明。

原文次應神,次仁德,次履中,次反正,次允恭,次安康,次雄略,次清寧,次顯宗,次仁賢,次武烈,次繼體,次安閑,次宣化,次欽明。

次は海達。

原文次海達。

次は用明、亦た目多利思比孤と曰う、隋の開皇の末に当たり、始めて中国と通ず。

原文次用明,亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通。

次は崇峻。

原文次崇峻。

次は舒明、次は皇極。

原文次舒明,次皇極。

その俗は椎髻にして冠帯無く、跣足にして行き、幅巾を以て後を蔽い、貴者は錦を冒す。婦人は純色の裠を衣とし、長き𦝫襦を着け、髪を後ろに結ぶ。

原文其俗椎髻,無冠帶,跣以行,幅巾蔽後,貴者冒錦;婦人衣純色裠,長𦝫襦,結髮于後。

煬帝に至り、その民に錦線冠を賜い、金玉を以て飾り、文布を以て衣と為し、左右に銀蘤を佩び、長さ八寸、多少を以て貴賤を明らかにす。

原文至煬帝,賜其民錦綫冠,飾以金玉,文布爲衣,左右佩銀蘤,長八寸,以多少明貴賤。

新州刺史高仁表を遣わして往き諭さしむ。王と礼を争い平らかならず、天子の命を宣せずして還る。

原文遣新州刺史高仁表往諭,與王爭禮不平,不肯宣天子命而還。

久しうして、更に新羅の使者に附して上書す。

原文久之,更附新羅使者上書。

時に新羅は高麗・百済に暴かれたり、高宗は璽書を賜い、兵を出して新羅を援けしむ。

原文時新羅爲高麗、百濟所暴,高宗賜璽書,令出兵援新羅。

未だ幾ばくもせず孝德死す、その子天豊財立つ。

原文未幾孝德死,其子天豐財立。

死す、子天智立つ。

原文死,子天智立。

明年、使者蝦蛦の人と偕に朝す。

原文明年,使者與蝦蛦人偕朝。

死す、子揔持立つ。

原文死,子揔持立。

後に漸く夏音に習ひ、倭の名を悪み、更に日本と号す。

原文後稍習夏音,惡倭名,更號日本。

使者自ら言ふ、「国は日の出づる所に近きを以て、名と為す。」と。

原文使者自言:「國近日所出,以爲名。」

或は云ふ、「日本は乃ち小国にして、倭に併せられし故に、其の号を冒す。」と。

原文或云:「日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。」

使者情を以てせざる故に、疑はしむ。

原文使者不以情,故疑焉。

又妄りに其の国都の方数千里を誇り、南・西は海に尽き、東・北は大山を限りとし、其の外は即ち毛人なりと云ふ。

原文又妄夸其國都方數千里,南、西盡海,東、北限大山,其外卽毛人云。

進徳冠を冠り、頂に華蘤四披あり、紫袍帛帯なり。

原文冠進德冠,頂有華蘤四披,紫袍帛帶。

死す、子聖武立つ、元を改めて白龜と曰ふ。

原文死,子聖武立,改元曰白龜。

其の副朝臣仲満、華を慕ひて去るを肯はず、姓名を易へて朝衡と曰ひ、左補闕・儀王友を歴任し、該識多く、久しくして乃ち還る。

原文其副朝臣仲滿慕華不肯去,易姓名曰朝衡,歷左補闕,儀王友,多所該識,久乃還。

死す、聖武の女高野姫を以て王と為す。

原文死,以聖武女高野姬爲王。

死す、白壁立つ。

原文死,白壁立。

其の学子橘免勢・浮屠空海、留まりて肄業せんことを願ひ、二十餘年を歴て、使者高階真人来りて免勢等の俱に還るを請ふ、詔して可とす。

原文其學子橘免勢、浮屠空海願留肄業,歷二十餘年,使者高階真人來請免勢等俱還,詔可。

次に諾樂立つ、次に嵯峨、次に浮和、次に仁明。

原文次諾樂立,次嵯峨,次浮和,次仁明。

次に文徳、次に清和、次に陽成。

原文次文德,次清和,次陽成。

次に光孝、直に光啟元年。

原文次光孝,直光啟元年。

その東の海の島中にまた邪古・波邪・多尼の三小王あり、北は新羅に距たり、西北は百濟、西南は直に越州に当たり、絲絮・怪珍ありと云ふ。

原文其東海嶼中又有邪古、波邪、多尼三小王,北距新羅,西北百濟,西南直越州,有絲絮、怪珍云。

流鬼

原文流鬼

流鬼は京師を去ること一萬五千里、直に黑水靺鞨の東北、少海の北に在り、三面皆海に阻まれ、其の北は窮まる所を知らず。人は嶼に依り散居し、沮澤多く、魚鹽の利あり。地は早く寒く、霜雪多く、木を以て廣さ六寸・長さ七尺を其上に繫ぎ、以て冰を踐み、走獸を逐ふ。土は狗多く、皮を以て裘と爲す。俗は髮を被る。粟は莠に似て小さく、蔬蓏其の他の穀無し。勝兵一萬人。南は莫曳靺鞨に隣り、東南は海を航すること十五日行きて、乃ち至る。貞觀十四年、其の王、子の可也余莫を遣はし、貂皮を更に三譯して來朝せしむ。騎都尉を授け、之を遣はす。

原文流鬼去京師萬五千里,直黑水靺鞨東北,少海之北,三面皆阻海,其北莫知所窮。人依嶼散居,多沮澤,有魚鹽之利。地蚤寒,多霜雪,以木廣六寸、長七尺系其上,以踐冰,逐走獸。土多狗,以皮爲裘。俗被發。粟似莠而小,無蔬蓏它穀。勝兵萬人。南與莫曳靺鞨鄰,東南航海十五日行,乃至。貞觀十四年,其王遣子可也余莫貂皮更三譯來朝。授騎都尉,遣之。

龍朔の初め、儋羅と云ふ者有り、其の王儒李都羅、使を遣はして入朝す。國は新羅の武州南の島上に居り、俗は樸陋にして、大豕の皮を衣とし、夏は革屋に居り、冬は窟室にす。地は五穀を生じ、耕すに牛を用ふるを知らず、鐵齒を以て土を杷く。初め百濟に附く。麟德の中、酋長來朝し、帝に從ひて太山に至る。後、新羅に附く。

原文龍朔初,有儋羅者,其王儒李都羅遣使入朝,國居新羅武州南島上,俗樸陋,衣大豕皮,夏居革屋,冬窟室。地生五穀,耕不知用牛,以鐵齒杷土。初附百濟。麟德中,酋長來朝,從帝至太山。後附新羅。