新唐書

巻二百二十 列傳第一百四十五 東夷

高麗

高麗は、もと扶餘の別種なり。地は東は海を跨いで新羅に距たり、南もまた海を跨いで百濟に距たり、西北は遼水を渡って營州と接し、北は靺鞨に接す。その君は平壤城に居す、また長安ちょうあん城とも謂い、漢の樂浪郡なり、京師を去ること五千里餘り、山に隨い屈曲して繚りて郛と為し、南は浿水に涯し、王はその左に宮を築く。また國內城・漢城有り、別都と號す。水に大遼・少遼有り:大遼は靺鞨の西南山より出で、南に安市城を歴る;少遼は遼山の西より出で、亦た南に流れ、梁水は塞外より出で、西行して之と合す。馬訾水は靺鞨の白山より出で、色は鴨頭の若く、鴨淥水と號し、國內城の西を歴り、鹽難水と合し、また西南に至り安市にて、海に入る。而して平壤は鴨淥の東南に在り、巨艫を以て人を濟わし、因って恃みて以て塹と為す。

官は凡そ十二級有り:曰く大對廬、或いは吐捽と曰う;曰く鬱折、圖簿を主る者;曰く太大使者;曰く帛衣頭大兄、所謂帛衣は、先人なり、國政を秉り、三歳に一易し、善く職すれば則ち然らず、凡そ代わる日に、服せざる者あれば則ち相攻め、王は為に宮を閉ざして守り、勝つ者は聽いて之を為さしむ;曰く大使者;曰く大兄;曰く上位使者;曰く諸兄;曰く小使者;曰く過節;曰く先人;曰く古鄒大加。その州縣六十。大城には傉薩を一置き、都督ととくに比す;餘城には處閭近支を置き、また道使と號し、刺史に比す。參佐有り、幹を分つ。大模達有り、衛將軍に比す;末客有り、中郎將に比す。

五部に分つ:曰く內部、即ち漢の桂婁部なり、また黃部と號す;曰く北部、即ち絕奴部なり、或いは後部と號す;曰く東部、即ち順奴部なり、或いは左部と號す;曰く南部、即ち灌奴部なり、また前部と號す;曰く西部、即ち消奴部なり。

王は五采の服を着け、白羅を以て冠を制し、革帶は皆金扣なり。大臣は青羅の冠、次は絳羅、兩鳥羽を珥し、金銀雜の扣、衫は筒袖、褲は大口、白韋の帶、黃革の履。庶人は褐を衣、弁を戴く。女子は首に巾幗す。俗は弈・投壺・蹴鞠を喜ぶ。食用には籩・豆・簠・簋・罍・洗を用う。居は山谷に依り、草を以て屋を茨く、惟だ王宮・官府・佛廬は瓦を以てす。窶民は盛冬に長坑を作り、煴火を以て暖を取る。その治め、峭法を以て下を繩し、故に犯すこと少なし。叛く者は炬を叢めて體を灼き、乃ち之を斬り、其の家を籍沒す。降る・敗る・人を殺し及び剽劫する者は斬り、盜む者は十倍取りて償わしめ、牛馬を殺す者は沒して奴婢と為し、故に道に遺物を掇わず。婚娶には幣を用いず、受くる者あれば之を恥ず。父母の喪に服すること三年、兄弟は月を逾えて除く。俗は淫祠多く、靈星及び日・箕子・可汗等の神を禮す。國の左に大穴有り神隧と曰い、毎十月、王皆自ら祭る。人は學を喜び、窮里の廝家に至るまで、亦た相矜み勉め、衢の側に悉く嚴屋を構え、局堂と號し、未婚の子弟は曹處し、經を誦し射を習う。

隋末、其の王高元死し、異母弟建武嗣ぐ。武德初、再び使を遣わし入朝す。高祖こうそは書を下して好を脩め、高麗人の中國に在る者は護送し、中國人の高麗に在る者は敕して遣り還さしむることを約す。ここにおいて建武は悉く亡命を搜して有司に歸し、且つ萬人。後三年、使者を遣わし拜して上柱國・遼東郡王・高麗王と為す。命じて道士を以て像法を往かしめ、為に『老子』を講ぜしむ。建武大いに悅び、國人を率いて共に之を聽き、日數千人。帝は左右に謂いて曰く「名實は須らく相副うべし。高麗は隋に臣と雖も、而して終に煬帝を拒みしは、何の臣たるや。朕は務めて人を安んず、何ぞ必ずしも其の臣たらんことを受けんや」と。裴矩・溫彥博諫めて曰く「遼東は本より箕子の國、魏晉の時の故き封內、臣たらざるべからず。中國と夷狄とは、猶お太陽の列星に対するが若し、以て降るべからず」と。乃ち止む。明年、新羅・百濟上書し、建武道を閉ざし、朝するを得ざらしめ、且つ數しば侵入すと言う。詔有りて散騎侍郎硃子奢をして節を持ちて諭和せしむ、建武罪を謝し、乃ち二國と平らかならんことを請う。太宗既に突厥の頡利を禽えしを以て、建武使者を遣わし賀し、へいせて封域圖を上る。帝詔して廣州司馬長孫師をして臨みて隋の士の戰胔を瘞めしめ、高麗の立てし京觀を毀つ。建武懼れ、乃ち長城千里を築き、東北は首として扶餘に、西南は之を海に屬す。久しくして、太子桓權を遣わし入朝して方物を獻じ、帝厚く賜齎し、詔して使者陳大德をして節を持ちて答勞せしめ、且つ亹を觀せしむ。大德其の國に入り、厚く官守に餉い、悉く其の纖曲を得る。華人の流客たる者を見て、為に親戚の存亡を道い、人人涕を垂る、故に至る所士女道を夾みて觀る。建武盛んに兵を陳べて使者に見ゆ。大德還りて奏す、帝悅ぶ。大德又言す「高昌滅ぶを聞き、其の大對廬三たび館に至り、禮を加うること有り」と。帝曰く「高麗の地は四郡に止まる。我卒數萬を發して遼東を攻めば、諸城必ず救わん。我舟師を以て東萊より帆海して平壤に趨れば、固より易し。然れども天下甫く平らかにして、人を勞わすを欲せざるのみ」と。

蓋蘇文と曰う者有り、或いは蓋金と號し、姓は泉氏、自ら云う水中に生まるるを以て衆を惑わすと。性は忍暴なり。父は東部の大人・大對廬たり、死す。蓋蘇文當に嗣ぐべきも、國人之を惡み、立つことを得ず。頓首して衆に謝し、職を攝らんことを請い、不可有らば、廢すと雖も悔い無からんと。衆之を哀しみ、遂に位を嗣ぐ。殘凶にして道ならず、諸大臣建武と議して之を誅せんとす、蓋蘇文覺り、悉く諸部を召し、紿いて雲う大いに兵を閱すと、饌具を列べて大臣を請い臨視せしめ、賓至れば盡く之を殺し、凡そ百餘人。馳せて宮に入り建武を殺し、其の屍を殘して諸の溝に投ず。更に建武の弟の子藏を立てて王と為し、自ら莫離支と為り、國を專らにす、猶お唐の兵部尚書・中書令の職の如し云う。貌は魁秀、美須髯、冠服は皆金を以て飾り、五刀を佩き、左右敢えて仰ぎ視る者莫し。貴人をして諸の地に伏せしめ、踐みて以て馬に升らしむ。出入に兵を陳べ、長呼して禁切し、行人畏れて竄り、坑穀に投ずるに至る。

帝建武が下に為りて殺さるるを聞き、惻然として使者を遣わし節を持ちて弔祭せしむ。或いは帝に勧めて可なりとす遂に之を討つべしと、帝は喪に因りて罪を伐つを欲せず、乃ち藏を拜して遼東郡王・高麗王と為す。帝曰く「蓋蘇文君を殺し國を攘う。朕之を取るは易きのみ、人を勞わすを願わず、若何」と。司空しくう房玄齡曰く「陛下の士は勇にして力餘り有り、戢めて用いざるは、所謂'戈を止めて武と為す'者なり」と。司徒しと長孫無忌曰く「高麗は一介の難を告ぐる無し、宜しく書を賜いて之を安尉し、其の患を隱し、其の存を撫でば、彼當に命を聽くべし」と。帝曰く「善し」と。

時に新羅が使者を遣わして上書し、「高麗・百済が連合し、まさに討伐せんとす。謹んで天子に帰命す」と申し上げた。帝が「如何にせば免れ得るか」と問うと、使者は「計策尽きたり。惟れ陛下の哀憐を乞う」と答えた。帝は「我が偏師を以て契丹・靺鞨を率いて遼東に入らば、貴国は一年の憂いを免れ得る。これ第一の策なり。我が絳袍・丹幟数千を貴国に賜い、至れば之を陣に建てれば、二国は見て我が師の至れると謂い、必ず走らん。これ第二の策なり。百済は海を恃みて戎器を修めず、我が舟師数万を以て之を襲わば、貴国は女君なるが故に隣国より侮られしもの、我が宗室を以て貴国を主たらしめ、安んずるを待てば自ら之を守らん。これ第三の策なり。使者は孰れの計を取らんとするか」と言った。使者は答えることができなかった。ここにおいて司農丞相里玄奨を遣わし、璽書を以て高麗を譴責し、且つ攻撃を止めしめんとした。使者が未だ到らざるうちに、蓋蘇文は既に新羅の二城を取っていた。玄奨が帝の旨を諭すと、答えて「往時隋が侵した時、新羅は我が困窮に乗じて我が地五百里を奪いし。今尽く地を返さざれば、兵は止まじ」と言った。玄奨は「往事は何ぞ論ずるに足らんや。遼東は元来中国の郡県なり。天子も尚お取らざるに、高麗どうして詔に違えんや」と言ったが、従わなかった。玄奨が還って奏上すると、帝は「莫離支は君を殺し、その下を虐用すること擭阱の如し。怨痛道に溢る。我が出師するに名無からんや」と言った。諫議大夫褚遂良は「陛下の兵が遼を渡って克つは固より善し。万一功を遂げず、且つ再び師を用いんとすれば、安危は測り難し」と言った。兵部尚書李勣は「然らず。昔薛延陀が辺境を盗みし時、陛下は追撃せんと欲し、魏徴が苦諫して止めし。向に之を撃たば、一馬も生還せざりしならん。後に復た畔擾し、今に至るまで恨みとす」と言った。帝は「誠に然り。但だ一慮の失ありて之を尤めば、後誰か我が為に計らん者あらんや」と言った。新羅が数度援軍を請うたので、呉船四百艘を下して糧を輸送せしめ、詔して営州都督張儉等に幽・営の兵及び契丹・奚・靺鞨等を発して出討せしめた。時に遼水が溢れ、師は還った。莫離支は懼れ、使者を遣わして金を献上したが、帝は納れなかった。使者はまた「莫離支が官五十人を遣わして宿衛せしむ」と言った。帝は怒って使者を責めて「汝らは高武に委質しながら、節を伏して義に死せず、又逆子の謀に与する。赦すべからず」と言い、悉く之を獄に下した。

ここにおいて帝は自ら将として之を討たんと欲し、長安の耆老を召して労い、「遼東は元来中国の地なり。而るに莫離支は其の主を賊殺す。朕将に自ら行きて之を経略せんとす。故に父老と約す。子若しくは孫我に従いて行く者は、我能く之を拊循す。恤うる毋れ」と言い、即ち厚く布粟を賜った。群臣皆帝に行かざるよう勧めたが、帝は「吾之を知れり。本を去って末に就き、高きを捨てて下を取る。近きを釈して遠きに之く。此の三者は不祥なり。高麗を伐つは是なり。然れども蓋蘇文は君をしいし、又大臣を戮して以て逞しむ。一国の人は首を延べて救いを待つ。議者は顧みて未だ明らかにせざるのみ」と言った。ここにおいて北には粟を営州に輸送し、東には粟を古大人城に儲えた。帝は洛陽らくように幸し、乃ち張亮を平壤道行軍大総管とし、常何・左難當を副とし、冉仁德・劉英行・張文幹・龐孝泰・程名振を総管とし、江・呉・京・洛の募兵凡そ四万、呉船五百艘を率い、海を渡って平壤に趨らしめた。李勣を遼東道行軍大総管とし、江夏王李道宗を副とし、張士貴・張儉・執失思力・契苾何力・阿史那彌射・姜徳本・曲智盛・呉黒闥を行軍総管としてこれに隷属せしめ、騎士六万を率いて遼東に趨らしめた。詔して曰く「朕の過ぐる所、営頓は飾る毋れ。食は豊怪なる毋れ。水は渉る可き者は橋樑を作る毋れ。行在所に非ざる近州県は学生・耆老をして迎謁せしむるを得ざれ。朕昔戈を提げて乱を撥ねし時、盈月の儲え無かりしも、猶風靡する所なり。今幸いに家給人足なれど、只転餉に労するを恐る。故に牛羊を駆りて以て軍に飼わしむ。且つ朕必勝の理五あり。我が大を以て彼の小を撃ち、我が順を以て彼の逆を討ち、我が安を以て彼の乱に乗じ、我が逸を以て彼の労に敵し、我が悦を以て彼の怨に当たる。渠れ克たざるを憂えんや」と。又契丹・奚・新羅・百済諸君長の兵を発し悉く会せしめた。

十九年二月、帝は洛陽より定州に次いだ。左右に謂いて「今天下大定す。唯だ遼東未だ賓せず。後嗣士馬の盛強に因り、謀臣征討に導かば、喪乱方に始まらん。朕故に自ら之を取り、後世に憂いを遺さざらんとす」と言った。帝は城門に坐し、兵が過ぐるごとに人々を撫慰し、疾病の者は親しく之を視、州県に治療を勅し、士卒大いに悦んだ。長孫無忌が白奏して「天下の符魚悉く従うに、宮官は十人に止まる。天下以て神器を軽んずるなり」と言った。帝は「士卒遼を渡る者十万、皆家室を去る。朕十人を以て従うも、尚お其の多きを恥ず。公は止めて言う毋れ」と言った。帝は身に橐房を属け、両箙を鞍に結んだ。四月、李勣は遼水を渡った。高麗は皆城を嬰して守った。帝は大いに士卒を饗し、帳を幽州の南に張り、詔して長孫無忌に誓師せしめ、乃ち引いて東に向かった。

李勣は蓋牟城を攻め、これを抜き、戸二万、糧十万石を得、其の地を蓋州とした。程名振は沙卑城を攻め、夜その西に入り、城は潰え、その口八千を虜にし、鴨淥の上を遊兵した。李勣は遂に遼東城を囲んだ。帝は遼沢に次ぎ、詔して隋の戦士の露骼を瘞せしめた。高麗は新城・国内城より騎四万を発して遼東を救った。道宗は張乂君を率いて逆戦し、君乂は退いた。道宗は騎を馳せて之を攻め、虜兵は辟易し、其の梁を奪い、散卒を収め、高きに登って望むと、高麗の陣囂たるを見、急ぎ之を撃ち破り、首千余級を斬り、君乂を誅して以て徇せしめた。帝は遼水を渡り、杠彴を徹して、士心を堅くした。馬首山に営し、身を城下に到らしめ、士卒が塹を填めるを見て、分かち之を負い、重き者は馬上に持たしめた。群臣震懼し、争って塊を挟んで進んだ。城に朱蒙祠あり、祠に鎖甲・銛矛あり、妄りに前燕の世に天の降したる所と称す。囲み急なるに方り、美女を飾りて以て神に婦せしめ、誣言して朱蒙悦び、城必ず完からんと言った。李勣は抛車を列ね、大石を飛ばして三百歩を過ぎ、当たる所輒ち潰え、虜は木を積んで楼と為し、絙を結んで罔と為すも、拒ぐ能わず。沖車を以て陴屋を撞き、之を砕いた。時に百済が金旐鎧を献上し、又玄金を以て山五文の鎧と為し、士卒之を被って従った。帝と李勣が会し、甲光日を炫かせた。時に南風急なり、士卒火を放って西南を焚き、熛城中に延び、屋殆ど尽き、燎に死する者万余。衆は陴に登り、虜は盾を蒙って以て拒ぐも、士卒長矛を挙げて之を舂き、藺石雨の如く、城遂に潰え、勝兵一万、戸四万、糧五十万石を獲た。其の地を遼州とした。初め、帝は太子の所属より行在所に至るまで、一烽を置き、遼東を下せば烽を挙げんと約し、是の日燎が塞に入るまで伝わった。

白崖城を攻撃す。城は山に背き崖水あり、険阻甚だし。帝は西北に壁す。虜の酋長孫伐音、密かに降を乞う。然れども城中一致せず。帝は幟を賜いて曰く、「若し降らば、堞に建てて信とせよ」と。俄かに幟を挙ぐ。城人は皆、唐兵登るものと思い、乃ち降る。初め、伐音は中に悔い、帝は怒り、虜の口を諸将に与うるを約す。是に及び、李勣曰く、「士卒奮いて先んずるは、虜の獲を貪るなり。今城危く抜かんとす、降を許して士心を孤にすべからず」と。帝曰く、「将軍の言是なり。然れども兵を放ち殺戮し、人の妻子を略するは、朕忍びず。将軍の麾下に功ある者は、朕庫物を以て之を賞し得べし。庶幾くは将軍に因りて一城を贖わんか」と。男女凡そ一万、兵二千を獲たり。其の地を以て岩州と為し、伐音を刺史に拝す。莫離支、加屍人七百を以て蓋牟を戍らしむ。勣之を俘う。自ら効せんことを請う。帝曰く、「而が家は加屍なり。乃ち我が為に戦わば、尽く戮さんとす。一姓を夷して一人の力を求むるは、不可なり」と。稟して之を放つ。

安市に次ぐ。是に於いて高麗北部傉薩高延寿・南部傉薩高惠真、兵及び靺鞨の衆十五万を引きて来援す。帝曰く、「彼若し兵を勒して安市に連なりて壁し、高山に拠り、城中の粟を取って之を食らい、靺鞨を放って吾が牛馬を略せしめば、之を攻めて下すべからず。此れ上策なり。城を抜き夜去るは、中策なり。吾と鋒を争わば、則ち禽と為らん」と。大対廬有りて延寿に計りて曰く、「吾聞く、中国乱れ、豪雄並び奮い、秦王神武、敵に堅き無く、戦に前に無く、遂に天下を定め、南面して帝と為り、北狄・西戎臣ならざる無しと。今地を掃いて来たり、謀臣重将皆在り。其の鋒校うべからず。今は兵を頓てて日を曠くし、陰に奇兵を遣わして其の餉道を絶つに若かず。旬月を経ずして糧尽き、戦わんと欲して得ず、帰れば則ち路無し。乃ち取るべし」と。延寿従わず、軍を引きて安市より四十里に距りて屯す。帝曰く、「虜吾が策の中に堕つ」と。左衛大将軍阿史那社爾に命じ、突厥千騎を以て之を嘗めしむ。虜常に靺鞨の鋭兵を以て前に居らしむ。社爾の兵接して北す。延寿曰く、「唐は易く与す可し」と。一舍を進み、麓に倚りて陣す。帝、延寿に詔して曰く、「我は爾が強臣有りて其の主を賊殺するを以て、罪を問わんと来る。即ち交戦するは、我が意に非ず」と。延寿然りと謂い、甲を按じて俟つ。帝夜に諸将を召し、李勣に歩騎一万五千を率いさせ西嶺に陣して賊に当たらしめ、長孫無忌・牛進達に精兵万人をして虜の背の狭谷より出ださしむ。帝は騎四千を以て幟を偃げて虜の北山上に趨り、諸軍に令して曰く、「鼓声を聞きて而して放て」と。幄を張り朝堂と為し、曰く、「明日日中、此に降虜を納れん」と。是の夜、流星延寿の営に堕つ。旦日、虜勣の軍少なるを見て、即ち戦う。帝、無忌の軍の塵上がるを望み、鼓角を作すを命ず。兵幟四面に合す。虜惶惑し、将に兵を分けて之を禦せんとす。衆已に囂し。勣、歩槊を以て之を撃ち破る。無忌其の後に乗ず。帝山より馳せ下る。虜大いに乱る。首級二万を斬る。延寿余衆を収め山を負いて自ら固む。無忌・勣合して之を囲み、川梁を徹し、帰路を断つ。帝轡を按じて虜の営壘を観て曰く、「高麗国を傾けて来たり、一麾にして破る。天我を賛するなり」と。馬を下り再拝し、天に謝す。延寿等勢窮まるを度り、即ち衆を挙げて降る。轅門に入り、膝いて前に進み、手を拝して命を請う。帝曰く、「後敢えて天子と戦わんか」と。惶汗して対うるを得ず。帝、酋長三千五百人を料り、悉く之に官し、内徙を許す。余衆三万は之を放ち還す。靺鞨三千余人を誅し、馬牛十万、明光鎧一万領を獲たり。高麗震駭す。後、黄・銀二城自ら抜けて去り、数百里に舎煙無し。乃ち駅を以て太子に報じ、并せて諸臣に書を賜いて曰く、「朕自ら将うること此の若し、云何」と。因りて幸う所の山を号して駐蹕山と為し、破陣の状を図し、石に勒して功を紀す。延寿を鴻臚卿に拝し、惠真を司農卿に拝す。候騎、覘人を獲たり。帝其の縛を解く。自ら食わずして且つ三日と言う。飼うを命じ、屩を賜い、遣わして曰く、「帰りて莫離支に語れ。若し軍中の進退を須うれば、人を遣わして吾が所に至らしむべし」と。帝毎に営を作して塹壘を為さず、謹んで斥候するのみ。而して士卒糧を運ぶも、単騎なりと雖も、虜敢えて鈔せず。

帝と勣、攻むる所を議す。帝曰く、「吾聞く、安市は地険にして衆悍し。莫離支之を撃ちて下す能わず、因りて之を与う。建安は険絶を恃み、粟多くして士少なし。若し其の不意に出でて之を攻めば、相救わざらん。建安を得れば、則ち安市吾が腹中に在り」と。勣曰く、「然らず。糧を遼東に積み、而して西して建安を撃たば、賊将に吾が帰路を梗せられん。安市を先に攻むるに若かず」と。帝曰く、「善し」と。遂に之を攻む。下す能わず。延寿・惠真謀りて曰く、「烏骨城の傉薩已に耄ゆ。朝に攻めて夕べに下すべし。烏骨抜かば、則ち平壤挙がらん」と。群臣亦た張亮の軍沙城に在るを以て、之を召せば一昔にして至らん。若し烏骨を取り、鴨淥を度り、其の腹心を迫ば、計の善き者なりとす。無忌曰く、「天子行師、徼幸せず。安市の衆十万吾が後に在り。之を先に破るに若かず。乃ち駆りて南せば、万全の勢なり」と。乃ち止む。城中帝の旌麾を見て、輒ち陴に乗じて噪く。帝怒る。勣、破るる日男子尽く誅すを請う。虜聞き、故に死戦す。江夏王道宗、距闉を築きて東南を攻む。虜陴を増して以て守る。勣其の西を攻む。撞車の壊す所、随いて輒ち柵を串ねて楼と為す。帝城中の鶏彘の声を聞きて曰く、「囲み久しく、突に黔煙無し。今鶏彘鳴くは、必ず殺して以て士に饗せんとす。虜且に夜出せん」と。兵を厳にすべしと詔す。丙夜、虜数百人縋りて下る。悉く之を禽す。道宗、樹の枚を以て土を裹みて之を積み、距闉成る。城に迫ること数丈に非ず。果毅都尉傅伏愛之を守る。高きよりして其の城を排す。城且に頽れんとす。伏愛私に其の部を去る。虜兵頽るる城より自ら出で、拠りて之を塹断し、火を積み盾を縈ぎ固く守る。帝怒り、伏愛を斬り、諸将に之を撃たしむるを敕す。三日克たず。

詔有りて師を班す。遼・蓋二州の人を抜きて以て帰る。兵城下を過ぐ。城中屏息し旗を偃げ、酋長城に登り再拝す。帝其の守りを嘉し、絹百匹を賜う。遼州の粟尚ほ十万斛、士卒取ること能わず尽くす。帝渤錯水に至り、淖に阻まる。八十里車騎通ぜず。長孫無忌・楊師道等、万人を率い樵を斬り道を築き、車を聯ねて梁と為す。帝薪を負い馬上にて役を助く。十月、兵畢く度る。雪甚だし。属に燎して以て済むを待たしむるを詔す。始め行くとき、士十万、馬一万匹。逮び還るに、物故裁ち千余、馬死すこと十八。船師七万、物故亦た数百。戦骸を集め柳城に葬り、乙太牢を以て祭るを詔す。帝臨みて哭く。従臣皆流涕す。帝総べて飛騎を率い臨渝関に入る。皇太子道左に迎う。初め、帝太子と別るるに、褐袍を御し、曰く、「爾を見て乃ち更えん」と。袍二時を歴て易えず、穴を穿つに至る。群臣服を更むるを請う。帝曰く、「士卒皆敝衣なり。吾新たなる服を可ならんや」と。是に及び、太子潔き衣を進む。乃ち御す。遼の降口一万四千、当に奴婢と為るべし。前に幽州に集め、将に分ちて士卒に賞せんとす。帝父子夫婦離析するを以て、有司に布帛を以て之を贖わしめ、原めて民と為すを詔す。列拝し歓舞す。三日止まず。延寿既に降り、憂いを以て死す。独り惠真長安に至る。

明年の春、藏は使者を遣わして方物を献上し、且つ罪を謝す。二姝口を献ず。帝はこれを還すことを敕し、使者に謂ひて曰く、「色は人の重んずる所なり、然れども其の親戚を去りて乃ち心を傷ましむるを湣れり、我れ取らざるなり」と。初め、師還るに、帝は弓服を以て蓋蘇文に賜ふ。之を受くるも、使者を遣わして謝せず。是に於て詔を下して朝貢を削棄す。

又明年三月、詔して左武衛大將軍牛進達を青丘道行軍大總管と爲し、右武衛將軍李海岸之を副へ、萊州より海を度る。李勣を遼東道行軍大總管と爲し、右武衛將軍孫貳朗・右屯衛大將軍鄭仁泰之を副へ、營州都督の兵を率ゐ、新城道より以て進む。南蘇・木底に次ぐ。虜兵戰ひて勝たず、其の郛を焚く。七月、進達等石城を取り、積利城を攻め、斬首數千級、乃ち皆還る。藏は子莫離支高任武を遣わして來朝し、因りて罪を謝す。

二十二年、詔して右武衛大將軍薛萬徹を青丘道行軍大總管と爲し、右衛將軍裴行方之を副へ、海道より入る。部將古神感虜と曷山に戰ひ、虜潰く。虜暝を乘じて我が舟を襲ふも、伏兵之を破る。萬徹鴨淥を度り、泊灼城に次ぎ、四十里を距てて舍す。虜懼れ、皆邑居を棄てて去る。大酋所夫孫拒戰す。萬徹擊ちて之を斬り、遂に城を圍み、其の援兵三萬を破りて乃ち還る。帝長孫無忌と計りて曰く、「高麗吾が師の入るに困しみ、戶亡耗し、田歲に收穫せず、蓋蘇文城を築き陴を增し、下饑ゑて溝壑に臥死し、敝に勝へざるなり。明年三十萬の衆を以て、公大總管と爲り、一舉にして滅す可し」と。乃ち詔して劍南に大いに船を治めしむ。しょく人財を江南に輸するを願ひ、直を計りて舟を作る。舟縑千二百を取る。巴・蜀大いに騷ぎ、邛・眉・雅三州の獠皆反す。隴西・峽內の兵二萬を發して之を擊ち定む。初め、帝虜を取らんと決し、故に詔して陝州刺史孫伏伽・萊州刺史李道裕に糧械を三山浦・烏胡島に儲へしめ、越州都督に大艎偶舫を治めて以て待たしむ。會に帝崩ずるに及び、乃ち皆罷む。藏使者を遣わして奉慰す。

永徽五年、藏靺鞨の兵を以て契丹を攻め、新城に戰ふ。大風、矢皆還り激し、契丹の乘ずる所と爲り、大敗す。契丹野に火して復た戰ひ、人死して相藉り、屍を積みて之を塚とす。使者を遣わして捷を告ぐ。高宗朝に露布を爲す。六年、新羅訴ふ、高麗・靺鞨三十六城を奪ふと、惟だ天子哀れみ救はんことを請ふ。詔有りて營州都督程名振・左衛中郎將蘇定方師を率ゐて之を討たしむ。新城に至り、高麗兵を敗り、外郛及び墟落に火し、引いて還る。顯慶三年、復た名振を遣わして薛仁貴を率ゐて之を攻めしむも、克つ能はざりき。後二年、天子既に百濟を平ぐ。乃ち左ぎょう衛大將軍契苾力何・右武衛大將軍蘇定方・左驍衛將軍劉伯英を以て諸將を率ゐて浿江・遼東・平壤道より出でて之を討たしむ。龍朔元年、大いに兵を募り、諸將を拜置す。天子自ら行かんと欲す。蔚州刺史李君球建言す、「高麗小丑、何ぞ至りて中國を傾けて之に事えん。高麗既に滅せらるる有らば、必ず兵を發して守らん。少く發すれば則ち威振はず、多く發すれば人安からず、是れ天下轉戍に疲るるなり。臣謂ふ、之を征するは征せざるに如かず、之を滅すは滅さざるに如かず」と。亦た會に武后苦しく邀ふるに遭ひ、帝乃ち止む。八月、定方虜兵を浿江に破り、馬邑山を奪ひ、遂に平壤を圍む。明年、龐孝泰嶺南の兵を以て蛇水に壁す。蓋蘇文之を攻め、舉軍沒す。定方解きて歸る。

乾封元年、藏子男福を遣わして天子に從ひ泰山を封ぜしめ、還りて蓋蘇文死す。子男生代はりて莫離支と爲る。弟男建・男產有りて相怨む。男生國內城に據り、子獻誠を遣わして入朝し救ひを求めしむ。蓋蘇文の弟淨土も亦た地を割きて降らんことを請ふ。乃ち詔して契苾何力を遼東道安撫大使と爲し、左金吾衛將軍龐同善・營州都督高偘を行軍總管と爲し、左武衛將軍薛仁貴・左監門將軍李謹行殿して行かしむ。九月、同善高麗兵を破る。男生師を率ゐて來會す。詔して男生を拜して特進・遼東大都督兼平壤道安撫大使と爲し、玄菟郡公に封ず。又李勣を以て遼東道行軍大總管兼安撫大使と爲し、契苾何力・龐同善と力を併せしむ。詔して獨孤卿雲に鴨淥道より、郭待封に積利道より、劉仁願に畢列道より、金待問に海穀道より、並びに行軍總管と爲り、勣の節度を受く。燕・趙の食廥を轉じて遼東に輸ぜしむ。明年正月、勣道を引き新城に次ぐ。諸將と謀りて曰く、「新城は賊の西鄙なり、先づ圖らざれば、餘城下り易からず」と。遂に西南山に壁し城に臨む。城人戍酋を縛りて出で降る。勣進みて城十有六を拔く。郭待封舟師を以て海を濟ひ、平壤に趨る。三年二月、勣仁貴を率ゐて扶餘城を拔き、他の城三十皆款を納む。同善・偘新城を守る。男建兵を遣わして之を襲ふ。仁貴偘を救ひ、金山に戰ふも勝たず。高麗鼓して進み、銳きこと甚だし。仁貴橫擊し、之を大破し、斬首五萬級、南蘇・木底・蒼岩の三城を拔き、兵を引き地を略し、勣と會す。侍御史賈言忠事を計りて還る。帝軍中の云ふ所を問ふ。對へて曰く、「必ず克つ。昔先帝罪を問ふ、志を得ざる所以の者は、虜に邅無かりしなり。諺に曰く、'軍媒無くんば、中道に回る'と。今男生兄弟鬩ぎて很し、我が爲に鄉導と爲り、虜の情偽、我盡く之を知る。將忠にして士力あり、臣故に必ず克つと曰ふ。且つ高麗祕記に曰く、'九百年に及ばず、當に八十大將有りて之を滅すべし'と。高氏漢より國有りて、今九百年、勣年八十なり。虜仍りて饑を薦め、人相掠ひ賣り、地震裂け、狼狐城に入り、蚡門に穴す。人心危駭す、是の行再び舉げず」と。

男建兵五萬を以て扶餘を襲ふ。勣之を薩賀水上に破り、斬首五千級、俘口三萬、器械牛馬之に稱す。進みて大行城を拔く。劉仁願勣と會せんとす、後期す。召し還して誅すべしとすれども、赦して姚州に流す。契苾何力勣の軍と鴨淥に會し、辱夷城を拔き、悉く師をして平壤を圍ましむ。九月、藏男産を遣わして首領百人を率ゐて素幡を樹て降り、且つ入朝を請ふ。勣禮を以て見ゆ。而して男建猶ほ固く守り、出で戰ひて數北す。大將浮屠信誠諜を遣わして約し內應す。五日、闔啟き、兵噪きて入り、其の門に火し、鬱焰四興す。男建窘急し、自ら刺すも殊ならず。藏・男建等を執へ、凡そ五部百七十六城、戶六十九萬を收む。詔して勣に便道より俘を昭陵に獻ぜしめ、凱して還る。十二月、帝含元殿に坐し、勣等を引見し、廷に俘を數ふ。藏素より脅制せしを以て、赦して司平太常伯と爲し、男産を司宰少卿と爲す。男建を黔州に投じ、百濟王扶餘隆を嶺外に投ず。獻誠を以て司衛卿と爲し、信誠を銀青光祿大夫と爲し、男生を右衛大將軍と爲し、何力を行左衛大將軍と爲し、勣を兼ねて太子太師と爲し、仁貴を威衛大將軍と爲す。其の地を剖きて都督府と爲す者九、州四十二、縣百。復た安東都護府を置き、酋豪功有る者を擢でて都督・刺史・令を授け、華官と參り治ましむ。仁貴都護と爲り、總兵して之を鎮む。是歲郊祭し、高麗平ぐを以て、成を天に謝す。

総章二年、高麗の民三万を江淮・山南に移す。大長の鉗牟岑が衆を率いて反し、蔵の外孫安舜を立てて主とした。詔して高偘を東州道に、李謹行を燕山道に、並びに行軍総管とし、これを討たせ、司平太常伯楊昉を遣わして亡余を綏納せしむ。舜は鉗牟岑を殺して新羅に走る。偘は都護府を遼東州に移して治め、安市において叛兵を破り、また泉山においてこれを敗り、新羅の援兵二千を俘う。李謹行は発廬河においてこれを破り、再戦して、俘馘万計を得たり。ここにおいて平壤は痍残して軍をなす能わず、相率いて新羅に奔る。凡そ四年にして乃ち平ぐ。初め、謹行は妻劉を留めて伐奴城を守らしむ。虜これを攻む。劉は甲を擐き兵を勒して守り、賊は去る。帝これを嘉し、燕郡夫人に封ず。

儀鳳二年、蔵に遼東都督を授け、朝鮮郡王に封じ、遼東に還して以て余民を安んぜしめ、先に僑内州に編まれたる者は皆原遣し、安東都護府を新城に移す。蔵は靺鞨と謀反す。未だ発せざるに、召還して邛州に放ち、その人を河南・隴右に廝し、弱窶なる者は安東に留む。蔵は永淳の初めに死す。衛尉卿を贈り、頡利の墓の左に葬り、その阡に碑を樹つ。旧城は往々新羅に入り、遺人は散奔して突厥・靺鞨に至る。ここによりて高氏の君長皆絶ゆ。垂拱中、蔵の孫宝元を以て朝鮮郡王となす。聖曆の初め、左鷹揚衛大將軍に進め、更に忠誠国王に封じ、安東の旧部を統べしむ。行わず。明年、蔵の子徳武を以て安東都督となす。後稍々国を自らす。元和の末に至り、使者を遣わして楽工を献ずと云う。

百濟

百濟は、扶餘の別種なり。京師の東六千里に直にして贏ち、海の陽に濱り、西は越州に界し、南は倭、北は高麗、皆海を逾えて乃ち至る。その東は新羅なり。王は東西二城に居す。官に内臣佐平あり、号令を宣納し、内頭佐平は帑聚を主り、内法佐平は礼を主り、衛士佐平は衛兵を典し、朝廷佐平は獄を主り、兵官佐平は外兵を掌る。六方あり、方は十郡を統ぶ。大姓八あり、沙氏、燕氏、軬氏、解氏、貞氏、国氏、木氏、䒤氏。その法、反逆する者は誅し、その家を籍す。人を殺す者は奴婢三を輸して罪を贖う。吏賕を受く及び盗む者は、三倍償い、終身錮す。俗は高麗と同じ。三島あり、黄漆を生ず。六月に刺し取りて沈め、色金の若し。王は大袖の紫袍を服し、青錦の褲、素皮の帯、烏革の履、烏羅の冠、金花を以て飾る。群臣は絳衣、冠を銀花を以て飾る。民の絳紫を衣するを禁ず。文籍あり、時月を紀すること華人の如し。

武徳四年、王扶餘璋始めて使者を遣わして果下馬を献ず。ここより数え朝貢す。高祖冊して帯方郡王・百濟王となす。後五年、明光鎧を献じ、且つ高麗の貢道を梗むるを訟う。太宗貞観の初め、詔して使者にその怨みを平げしむ。また新羅と世仇とし、数え相侵す。帝璽書を賜いて曰く、「新羅は朕が蕃臣、王の鄰国なり。数え相侵暴するを聞く。朕已に高麗・新羅に詔して和を申さしむ。王は前怨を忘れ、朕が本懐を識るべし」と。璋表を奉りて謝す。然れども兵も亦止まず。再び使を遣わして朝し、鉄甲雕斧を上る。帝これを優労し、帛段三千を賜う。十五年、璋死す。使者素服して表を奉りて曰く、「君の外臣百濟王扶餘璋卒す」と。帝為に玄武門において挙哀し、光禄大夫を贈り、賻賜甚だ厚し。祠部郎中鄭文表を命じ、その子義慈を冊して柱国とし、王を紹がしむ。

義慈は親に事えて孝、兄弟と友す。時に「海東の曾子」と号す。明年、高麗と連和して新羅を伐ち、四十余城を取り、兵を発してこれを守る。また棠項城を取らんと謀り、貢道を絶つ。新羅急を告ぐ。帝司農丞相裏玄奨を遣わし、詔書を齎して諭解せしむ。帝新たに高麗を討つを聞き、乃ち間を取って新羅の七城を取る。久しうして、また十余城を奪い、ここによりて朝貢せず。高宗立ち、乃ち使者を遣わして来る。帝義慈に詔して曰く、「海東の三国、基を開くこと旧し。地固より犬牙たり。比者隙争侵校して寧歳無し。新羅の高城重鎮皆王に併せられ、窮きを朕に帰し、王に地を帰せんことを丐う。昔斉桓一諸侯、尚お亡国を存す。況んや朕万方の主、その危きを恤わざるべけんや。王の兼ねたる城宜しくこれを還すべし。新羅の俘うるところも亦王に還し畀うべし。詔に如かざれば、王に任せて決戦せしむ。朕将に契丹諸国を発し、遼を度りて深入せん。王これを思え、後悔無かれ」と。

永徽六年、新羅百濟・高麗・靺鞨の北境三十城を取るを訴う。顕慶五年、乃ち詔して左衛大將軍蘇定方を神丘道行軍大総管とし、左衛將軍劉伯英・右武衛將軍馮士貴・左驍衛將軍龐孝泰を率い、新羅兵を発してこれを討たしめ、城山より海を済く。百濟熊津口を守る。定方撃ちを縦す。虜大いに敗る。王師潮に乗じ帆を以て進み、真都城に趨ること一舎にして止まる。虜衆を悉くして拒ぐ。またこれを破り、首級万余を斬り、その城を抜く。義慈太子隆を挟みて北鄙に走る。定方これを囲む。次子泰自立して王と為り、衆を率いて固守す。義慈の孫文思曰く、「王・太子固より在り。叔乃ち自ら王と為る。若し唐兵解き去らば、我が父子を如何せん」と。左右と縋りて出づ。民皆これに従う。泰止むること能わず。定方士を令して堞を超え幟を立たしむ。泰門を開きて降る。定方義慈・隆及び小王孝演・酋長五十八人を執りて京師に送る。その国の五部・三十七郡・二百城、戸七十六万を平ぐ。乃ち熊津・馬韓・東明・金漣・徳安の五都督府を析置し、酋渠長を擢げてこれを治めしむ。郎将劉仁願を命じて百濟城を守らしめ、左衛郎将王文度を熊津都督となす。九月、定方俘うるところを以て見ゆ。詔して釈し誅せず。義慈病死す。衛尉卿を贈り、旧臣の臨に赴くを許し、詔して孫皓・陳叔宝の墓の左に葬らしむ。隆に司稼卿を授く。文度海を済いて卒す。劉仁軌を以てこれに代う。

璋の従子福信は嘗て兵を将いたりしが、乃ち浮屠道琛と共に周留城に拠りて反し、故王子扶餘豊を倭より迎へ、之を立てて王と為す。西部皆応じ、兵を引いて仁願を囲む。龍朔元年、仁軌は新羅の兵を発して往き救はしむ。道琛は二つの壁を熊津江に立て、仁軌は新羅の兵と共に之を夾撃す。壁に奔り入り、梁を争ひて墮溺する者万人、新羅の兵還る。道琛は任孝城を保ち、自ら領軍将軍と称し、福信は霜岑将軍と称し、仁軌に告げて曰く、「唐と新羅と約し、百済を破りては、老孺無く皆之を殺し、国を畀ふと聞く。我らは死を受くるよりは、戦はざるに若かず」と。仁軌は使いを遣はし書を齎して答へ説く。道琛甚だ倨り、使者を外に館し、嫚りて報じて曰く、「使人官小なり、我は国の大将、礼当に見るべからず」と。徒らに之を遣す。仁軌は衆少なるを以て、乃ち軍を休め威を養ひ、新羅と合して之を図らんことを請ふ。福信俄かに道琛を殺し、其の兵を併せ、豊は制すること能はず。二年七月、仁願等熊津に之を破り、支羅城を抜き、夜真峴に薄し、比明に入り之を斬ること八百級、新羅の餉道乃ち開く。仁願は師の済るを請ふ。詔して右威衛将軍孫仁師を熊津道行軍総管と為し、斉の兵七千を発して往かしむ。福信国を顓にし、豊を謀殺せんとす。豊は親信を率ひ福信を斬り、高麗・倭と連和す。仁願は既に斉兵を得、士気振ひ、乃ち新羅王金法敏と共に歩騎を率ひ、劉仁軌を遣はして舟師を率ひしめ、熊津江より偕に進み、周留城に趨る。豊の衆は白江口に屯し、四たび遇ひて皆克ち、四百艘を火とす。豊は走りて所在を知らず。偽王子扶餘忠勝・忠志は残衆及び倭人を率ひて命を請ひ、諸城皆復す。仁願は軍を勒して還り、仁軌を留めて守を代らしむ。

帝は扶餘隆を以て熊津都督と為し、俾くは国に帰り、新羅の故憾を平げ、遺人を招還せしむ。麟徳二年、新羅王と熊津城に会し、白馬を刑して以て盟す。仁軌盟辞を作りて曰く、「往く百済の先王、逆順を顧みず、鄰を敦ねず、親を睦まず、高麗・倭と共に新羅を侵削し、邑を破り城を屠る。天子は百姓の無辜を憐れみ、行人をして好を脩めしむ。先王は険を負ひ遐を恃み、侮慢して恭ならず。皇赫斯く怒り、是を伐ち是を夷す。但し興亡継絶は、王者の通制、故に前太子隆を立てて熊津都督と為し、其の祭祀を守らしめ、新羅に附杖し、長く与国と為し、好を結び怨を除き、天子の命に恭しく、永く籓服と為す。右威衛将軍魯城県公仁願、親しく厥の盟に臨み、其の徳に貳する有らば、兵を興し衆を動かせば、明神之を監み、百殃是に降り、子孫育たず、社稷守る無く、世世敢へて犯す毋からん」と。乃ち金書鉄契を作り、新羅の廟中に蔵す。

仁願等還る。隆は衆の携散を畏れ、亦京師に帰る。儀鳳の時、帯方郡王に進み、帰籓を遣す。是の時、新羅強く、隆は敢へて旧国に入らず、高麗に寄治して死す。武后は又其の孫敬を以て王を襲はしむ。而して其の地は既に新羅・渤海靺鞨に分たれ、百済遂に絶つ。

新羅

新羅は弁韓の苗裔なり。漢の楽浪の地に居し、横千里、縦三千里、東は長人に拒ぎ、東南は日本、西は百済、南は海に瀕し、北は高麗なり。而して王は金城に居し、環ること八里所、衛兵三千人。城を健牟羅と謂ひ、邑内を喙評と曰ひ、外を邑勒と曰ふ。喙評六有り、邑勒五十二有り。朝服は白を尚び、山神を祠るを好む。八月の望日、大いに宴して官吏に齎し、射る。其の官を建つるに、親属を以て上と為し、其の族名第一骨・第二骨を以て自ら別つ。兄弟の女・姑・姨・従姉妹、皆聘して妻と為す。王族は第一骨と為し、妻も亦其の族、生む子は皆第一骨と為し、第二骨の女を娶らず、仮令ひ娶るも、常に妾媵と為す。官に宰相・侍中・司農卿・太府令有り、凡そ十有七等、第二骨之を得て為す。事必ず衆と議し、「和白」と号す。一人異なれば則ち罷む。宰相の家は禄絶えず、奴僮三千人、甲兵牛馬猪之に称す。海中の山に畜牧し、食を須ふるに乃ち射る。人に穀米を息し、償ひ満たざれば、庸として奴婢と為す。王は姓は金、貴人は姓は朴、民は氏無く名有り。食は柳杯若しくは銅・瓦を用ふ。元日相慶し、是の日日月神を拝す。男子は褐褲。婦は長襦、人を見れば必ず跪き、則ち手を以て地に据ふるを恭と為す。粉黛せず、率ね美髮を以て首を繚ぎ、珠彩を以て之を飾る。男子は発を翦り鬻ぎ、黒巾を以て冒す。市は皆婦女の貿販なり。冬は則ち堂中に灶を作り、夏は食を氷上に置く。畜に羊無く、驢・驘少く、馬多し。馬は高大と雖も、行ふに善からず。

長人とは、人に類して長さ三丈、牙を鋸にし爪を鉤にし、黒毛身を覆ひ、火食せず、禽獣をぜいひ、或は人を搏ちて以て食ふ。婦人を得れば、以て衣服を治む。其の国は山を連ねること数十里、峡有り、固く鉄闔を以てし、関門と号す。新羅は常に弩士数千を屯して之を守る。

初め、百済高麗を伐つ。来たりて救ひを請ふ。悉く兵をして往きて之を破らしむ。是より相攻みて置かず。後に百済王を獲て之を殺し、怨を結ぶに滋し。武徳四年、王真平使いを遣はして入朝す。高祖詔して通直散騎侍郎庾文素に節を持たしめて答齎せしむ。後三年、柱国を拝し、楽浪郡王・新羅王に封ず。

貞観五年、女楽二を献ず。太宗曰く、「林邑の鸚鵡を献ずるに比ぶれば、郷を思ひ言ひ、還るを丐ふ。況んや人に於てをや」と。使者に付して之を帰す。是歳、真平死す。子無く、女善徳を立てて王と為し、大臣乙祭国を柄とす。詔して真平に左光禄大夫を贈り、賻物段二百。九年、使いを遣はして善徳を冊し父の封を襲はしむ。国人聖祖皇姑と号す。十七年、高麗・百済に攻めらる。使い来たりて師を乞ふ。亦た会す帝親しく高麗を伐たんとす。詔して兵を率ひて以て虜の勢を披かしむ。善徳兵五万をして高麗の南鄙に入らしめ、水口城を抜きて以て聞かしむ。二十一年、善徳死す。光禄大夫を贈り、而して妹真徳王を襲ふ。明年、子文王及び弟伊賛子春秋を遣はして来朝す。文王を左武衛将軍に拝し、春秋に特進す。因りて章服を改むることを請ひ、中国の制に従ふ。内より珍服を出だして之を賜ふ。又国学に詣りて釈奠・講論を観す。帝賜ふ所制の『晋書』。辞して帰らんとす。三品以上に勅して郊餞せしむ。

高宗永徽元年、百済を攻め、之を破り、春秋の子法敏を遣はして入朝せしむ。真徳錦を織りて頌を為し以て献じ、曰く、「巨唐洪業を開き、巍巍として皇猷昌なり。戈を止めて大定を成し、文を興して百王を継ぐ。天を統べて雨施を崇め、物を治めて体含章なり。深仁は日月に諧ひ、運を撫でて時康に邁る。幡旗既に赫赫たり、鉦鼓何ぞ鍠鍠たり。外夷命に違ふ者は、翦覆して天殃に被る。淳風は幽顕に凝り、遐邇競ひて祥を呈す。四時は玉燭に和し、七耀は万方を巡る。維れ嶽は宰輔を降し、維れ帝は忠良を任ず。三五一徳を成し、我が唐家の唐を昭す」と。帝其の意を美しとし、法敏を擢して太府卿と為す。

五年、真徳死す。帝之が為に挙哀し、開府儀同三司を贈り、彩段三百を賜ひ、太常丞張文収に命じ節を持たしめて弔祭せしめ、春秋を以て王を襲はしむ。明年、百済・高麗・靺鞨共に伐ち其の三十城を取る。使い来たりて救ひを請ふ。帝蘇定方に命じて之を討たしめ、春秋を隅夷道行軍総管と為し、遂に百済を平ぐ。龍朔元年、死す。法敏王を襲ふ。其の国を以て鶏林州大都督府と為し、法敏に都督を授く。

咸亨五年、高麗の叛衆を容れ、百済の地を略してこれを守る。帝怒り、詔して官爵を削ぎ、その弟右驍衛員外大将軍・臨海郡公仁問を以て新羅王と為し、京師より帰国せしむ。詔して劉仁軌を雞林道大総管と為し、衛尉卿李弼・右領軍大将軍李謹行これを副え、兵を発して窮討せしむ。上元二年二月、仁軌その衆を七重城にて破り、靺鞨の兵を以て海を浮かび南境を略し、斬獲甚だ衆し。詔して李謹行を安東鎮撫大使と為し、買肖城に屯し、三戦し、虜皆北す。法敏使いを遣わし入朝して罪を謝し、貢篚相望み、仁問乃ち還り、王を辞し、詔して法敏の官爵を復す。然れども多く百済の地を取り、遂に高麗の南境に抵る。尚・良・康・熊・全・武・漢・朔・溟の九州を置き、州に都督有り、郡十あるいは二十を統べ、郡に太守有り、県に小守有り。開耀元年、死し、子政明王を襲う。使者を遣わし朝し、唐礼及び他の文辞を乞い、武后『吉凶礼』并びに文詞五十篇を賜う。死し、子理洪王を襲う。死し、弟興光王を襲う。

玄宗開元中、数たび入朝し、果下馬・朝霞紬・魚牙紬・海豹皮を献ず。又二女を献ず、帝曰く「女は皆王の姑姊妹なり、本俗に違い、別に親を離る、朕留め忍びず」と。厚く賜いて還す。又子弟を遣わし太学に入り経術を学ばしむ。帝時に興光に瑞文錦・五色羅・紫繡紋袍・金銀精器を賜う。興光も亦異狗馬・黄金・美髢諸物を上る。初め、渤海靺鞨登州を掠む、興光これを撃ち走らす、帝興光を甯海軍大使に進め、靺鞨を攻めしむ。二十五年死す、帝特にこれを悼み、太子太保を贈り、邢璹をして鴻臚少卿を以て弔祭せしむ。子承慶王を襲う、詔して璹に曰く「新羅は君子国と号し、『詩』『書』を知る。卿の惇儒を以て、故に節を持ち往かしむ、宜しく経誼を演べ、大国の盛なるを知らしむべし」と。又国人の棋を善くするを以て、詔して率府兵曹参そうしん軍楊季鷹を副と為す。国の高弈皆その下に出ず、ここに於いて使者に金宝を厚く遺す。俄にその妻朴を冊して妃と為す。承慶死す、詔して使者を遣わし臨吊し、その弟憲英を以て王を嗣がしむ。帝蜀に在り、使いを遣わし江を溯り成都に至り正月を朝せしむ。

大暦初、憲英死し、子乾運立つ、甫丱にして、金隠居を遣わし入朝して命を待たしむ。詔して倉部郎中帰崇敬を遣わし往きて弔い、監察御史陸珽・顧愔を副と為し冊を授けてこれを冊授し、并びに母金を太妃と為す。会にその宰相権を争い相攻め、国大いに乱れ、三歳にして乃ち定まる。ここに於いて、歳ごとに朝献す。建中四年死す、子無く、国人共に宰相金良相を立て嗣がしむ。貞元元年、戸部郎中蓋塤を遣わし節を持ちてこれを命ず。是の年死す、良相の従父弟敬信を立て王を襲わしむ。十四年、死す、子無く、嫡孫俊邕を立てる。明年、司封郎中韋丹を遣わし冊を持たしむ、未だ至らざるに、俊邕死す、丹還る。子重興立つ、永貞元年、詔して兵部郎中元季方に冊命せしむ。後三年、使者金力奇来たり謝し、且つ言う「往年故主俊邕を冊して主と為し、母申を太妃と為し、妻を叔妃と為す。而るに俊邕不幸にして、冊今省中に留まる、臣請う授けて以て帰らしめん」と。又その宰相金彦升・金仲恭・王の弟蘇金添明の為に門戟を乞う、詔して皆可とす。凡そ再び朝貢す。七年死す、彦升立つ、来たり喪を告げ、職方員外郎崔廷を命じて弔い、且つ新王を命じ、以て妻貞を妃と為す。長慶・宝暦の間、再び使者を遣わし来朝し、宿衛に留まる。彦升死す、子景徽立つ。大和五年、太子左諭德源寂を以て冊吊儀の如くす。開成初、子義琮を遣わし謝し、衛に留まらんことを願い、聴かる。明年これを遣わす。五年、鴻臚寺質子及び学生の歳満する者一百五人を籍し、皆これを還す。

張保皐・鄭年という者有り、皆闘戦を善くし、槍を用いるに巧みなり。年はまた海に没する能く、その地を五十里履みて噎せず、その勇健を角ぶるに、保皐及ばず。年は兄を以て保皐を呼び、保皐は歯を以てし、年は芸を以てし、常に相下らず。その国より皆来たりて武寧軍の小将と為る。後保皐新羅に帰り、その王に謁して曰く「中国に遍く新羅人を以て奴婢と為す、願わくは清海を鎮め、賊をして人を掠め西去することを得ざらしめん」と。清海は海路の要なり。王保皐に万人を与えてこれを守らしむ。大和後より、海上に新羅人を鬻ぐ者無し。保皐既にその国に貴く、年は饑寒して漣水に客す。一日、戍主馮元規に謂いて曰く「我東に帰らんと欲す、張保皐に食を乞わん」と。元規曰く「若と保皐の負うところ何如、奈何ぞ死をその手に取らん」と。年曰く「饑寒して死するは、兵に死するの快きに如かず、況んや故郷に死するをや」と。年遂に去る。至り、保皐に謁し、これを飲みて極めて歓ぶ。飲み未だ卒わらず、大臣その王を殺し、国乱れて主無しと聞く。保皐兵五千人を分かち年与え、年を持ちて泣きて曰く「子に非ざれば禍難を平ぐること能わず」と。年その国に至り、反者を誅し、王を立てて報ず。王遂に保皐を召して相と為し、年を以て代わり清海を守らしむ。会昌後、朝貢復た至らず。

賛に曰く、杜牧称す「安思順朔方節度たりし時、郭汾陽・李臨淮俱に牙門都将と為り、二人相能わず、同盤飲食すと雖も、常に睇み相視て、一言も交わさず。及んで汾陽思順に代わり、臨淮亡去せんと欲す、計未だ決せず。旬日、詔して臨淮に汾陽の半兵を分かち東に出で趙・魏にせしむ。臨淮入り請いて曰く『一死は固より甘んず、妻子を免れしめんことを乞う』と。汾陽趨り下り、手を持ちて堂に上り、曰く『今国乱れ主遷る、公に非ざれば東伐すること能わず、豈に私忿を懐く時ならんや』と。及んで別るるに、手を執り涕を泣き、忠義を以て相勉め、劇盗を平ぐるに訖るは、実に二公の力なり。その心叛かざるを知るは、その心を知るは、難きなり。忿れば必ず短を見る、その材を知るは、益々難きなり。此れ保皐と汾陽の賢等しきのみ。年保皐に投ずれば必ず曰く『彼は貴く我は賤し、我降り下之、旧忿を以て我を殺すに宜しからず』と。保皐果たして殺さず、人の常情なり。臨淮汾陽に請いて死せんとす、亦人の常情なり。保皐年を任ず、事は己より出づ、年且つ寒饑す、感動せしむるに易し。汾陽・臨淮、平生亢立す、臨淮の命は天子より出づ。保皐に榷るれば、汾陽優れり。此れ乃ち聖賢の成敗の際に疑い遲るるなり。世周・邵を称して百代の師と為す、周公は孺子を擁し而して邵公これを疑う。周公の聖を以て、邵公の賢を以て、少くは文王に事え、老いては武王を佐け、天下を平ぐる能くす。周公の心、邵公尚且つこれを知らず。苟くも仁義の心有らば、明を資とせずと雖も、邵公尚お爾り、況んやその下をや」と。嗟乎、怨毒を以て相槊せずして、先ず国家の憂いを為す、晋に祁奚有り、唐に汾陽・保皐有り、孰れか夷に人無しと謂わんや。

日本

京師を去ること一万四千里、直に新羅の東南、海中に在り、島に居り、東西五月行、南北三月行。

国に城郛無く、木を聯ねて柵落と為し、草を以て屋を茨う。

左右小島五十余、皆自ら国と名づけ、而してこれに臣附す。

本率一人を置き、諸部を検察す。

その俗は女多く男少なく、文字有り、浮屠法を尚ぶ。

その官十二等有り。

その王は姓を阿毎氏とし、自ら言うには初代の主は天御中主と号し、彦瀲に至るまで凡そ二十二世、皆「尊」を以て号とし、筑紫城に居す。

次は綏靖、次は安寧、次は懿徳、次は孝昭、次は天安、次は孝霊、次は孝元、次は開化、次は崇神、次は垂仁、次は景行、次は成務、次は仲哀。

次は応神、次は仁徳、次は履中、次は反正、次は允恭、次は安康、次は雄略、次は清寧、次は顕宗、次は仁賢、次は武烈、次は継体、次は安閑、次は宣化、次は欽明。

次は海達。

次は用明、亦た目多利思比孤と曰う、隋の開皇の末に当たり、始めて中国と通ず。

次は崇峻。

次は舒明、次は皇極。

その俗は椎髻にして冠帯無く、跣足にして行き、幅巾を以て後を蔽い、貴者は錦を冒す。婦人は純色の裠を衣とし、長き𦝫襦を着け、髪を後ろに結ぶ。

煬帝に至り、その民に錦線冠を賜い、金玉を以て飾り、文布を以て衣と為し、左右に銀蘤を佩び、長さ八寸、多少を以て貴賤を明らかにす。

新州刺史高仁表を遣わして往き諭さしむ。王と礼を争い平らかならず、天子の命を宣せずして還る。

久しうして、更に新羅の使者に附して上書す。

時に新羅は高麗・百済に暴かれたり、高宗は璽書を賜い、兵を出して新羅を援けしむ。

未だ幾ばくもせず孝德死す、その子天豊財立つ。

死す、子天智立つ。

明年、使者蝦蛦の人と偕に朝す。

死す、子揔持立つ。

後に漸く夏音に習ひ、倭の名を悪み、更に日本と号す。

使者自ら言ふ、「国は日の出づる所に近きを以て、名と為す。」と。

或は云ふ、「日本は乃ち小国にして、倭に併せられし故に、其の号を冒す。」と。

使者情を以てせざる故に、疑はしむ。

又妄りに其の国都の方数千里を誇り、南・西は海に尽き、東・北は大山を限りとし、其の外は即ち毛人なりと云ふ。

進徳冠を冠り、頂に華蘤四披あり、紫袍帛帯なり。

死す、子聖武立つ、元を改めて白龜と曰ふ。

其の副朝臣仲満、華を慕ひて去るを肯はず、姓名を易へて朝衡と曰ひ、左補闕・儀王友を歴任し、該識多く、久しくして乃ち還る。

死す、聖武の女高野姫を以て王と為す。

死す、白壁立つ。

其の学子橘免勢・浮屠空海、留まりて肄業せんことを願ひ、二十餘年を歴て、使者高階真人来りて免勢等の俱に還るを請ふ、詔して可とす。

次に諾樂立つ、次に嵯峨、次に浮和、次に仁明。

次に文徳、次に清和、次に陽成。

次に光孝、直に光啟元年。

その東の海の島中にまた邪古・波邪・多尼の三小王あり、北は新羅に距たり、西北は百濟、西南は直に越州に当たり、絲絮・怪珍ありと云ふ。

流鬼

流鬼は京師を去ること一萬五千里、直に黑水靺鞨の東北、少海の北に在り、三面皆海に阻まれ、其の北は窮まる所を知らず。人は嶼に依り散居し、沮澤多く、魚鹽の利あり。地は早く寒く、霜雪多く、木を以て廣さ六寸・長さ七尺を其上に繫ぎ、以て冰を踐み、走獸を逐ふ。土は狗多く、皮を以て裘と爲す。俗は髮を被る。粟は莠に似て小さく、蔬蓏其の他の穀無し。勝兵一萬人。南は莫曳靺鞨に隣り、東南は海を航すること十五日行きて、乃ち至る。貞觀十四年、其の王、子の可也余莫を遣はし、貂皮を更に三譯して來朝せしむ。騎都尉を授け、之を遣はす。

龍朔の初め、儋羅と云ふ者有り、其の王儒李都羅、使を遣はして入朝す。國は新羅の武州南の島上に居り、俗は樸陋にして、大豕の皮を衣とし、夏は革屋に居り、冬は窟室にす。地は五穀を生じ、耕すに牛を用ふるを知らず、鐵齒を以て土を杷く。初め百濟に附く。麟德の中、酋長來朝し、帝に從ひて太山に至る。後、新羅に附く。