高麗
高麗は、もと扶餘の別種なり。地は東は海を跨いで新羅に距たり、南もまた海を跨いで百濟に距たり、西北は遼水を渡って營州と接し、北は靺鞨に接す。その君は平壤城に居す、また長安城とも謂い、漢の樂浪郡なり、京師を去ること五千里餘り、山に隨い屈曲して繚りて郛と為し、南は浿水に涯し、王はその左に宮を築く。また國內城・漢城有り、別都と號す。水に大遼・少遼有り:大遼は靺鞨の西南山より出で、南に安市城を歴る;少遼は遼山の西より出で、亦た南に流れ、梁水は塞外より出で、西行して之と合す。馬訾水は靺鞨の白山より出で、色は鴨頭の若く、鴨淥水と號し、國內城の西を歴り、鹽難水と合し、また西南に至り安市にて、海に入る。而して平壤は鴨淥の東南に在り、巨艫を以て人を濟わし、因って恃みて以て塹と為す。
官は凡そ十二級有り:曰く大對廬、或いは吐捽と曰う;曰く鬱折、圖簿を主る者;曰く太大使者;曰く帛衣頭大兄、所謂帛衣は、先人なり、國政を秉り、三歳に一易し、善く職すれば則ち然らず、凡そ代わる日に、服せざる者あれば則ち相攻め、王は為に宮を閉ざして守り、勝つ者は聽いて之を為さしむ;曰く大使者;曰く大兄;曰く上位使者;曰く諸兄;曰く小使者;曰く過節;曰く先人;曰く古鄒大加。その州縣六十。大城には傉薩を一置き、都督に比す;餘城には處閭近支を置き、また道使と號し、刺史に比す。參佐有り、幹を分つ。大模達有り、衛將軍に比す;末客有り、中郎將に比す。
五部に分つ:曰く內部、即ち漢の桂婁部なり、また黃部と號す;曰く北部、即ち絕奴部なり、或いは後部と號す;曰く東部、即ち順奴部なり、或いは左部と號す;曰く南部、即ち灌奴部なり、また前部と號す;曰く西部、即ち消奴部なり。
蓋蘇文と曰う者有り、或いは蓋金と號し、姓は泉氏、自ら云う水中に生まるるを以て衆を惑わすと。性は忍暴なり。父は東部の大人・大對廬たり、死す。蓋蘇文當に嗣ぐべきも、國人之を惡み、立つことを得ず。頓首して衆に謝し、職を攝らんことを請い、不可有らば、廢すと雖も悔い無からんと。衆之を哀しみ、遂に位を嗣ぐ。殘凶にして道ならず、諸大臣建武と議して之を誅せんとす、蓋蘇文覺り、悉く諸部を召し、紿いて雲う大いに兵を閱すと、饌具を列べて大臣を請い臨視せしめ、賓至れば盡く之を殺し、凡そ百餘人。馳せて宮に入り建武を殺し、其の屍を殘して諸の溝に投ず。更に建武の弟の子藏を立てて王と為し、自ら莫離支と為り、國を專らにす、猶お唐の兵部尚書・中書令の職の如し云う。貌は魁秀、美須髯、冠服は皆金を以て飾り、五刀を佩き、左右敢えて仰ぎ視る者莫し。貴人をして諸の地に伏せしめ、踐みて以て馬に升らしむ。出入に兵を陳べ、長呼して禁切し、行人畏れて竄り、坑穀に投ずるに至る。
帝建武が下に為りて殺さるるを聞き、惻然として使者を遣わし節を持ちて弔祭せしむ。或いは帝に勧めて可なりとす遂に之を討つべしと、帝は喪に因りて罪を伐つを欲せず、乃ち藏を拜して遼東郡王・高麗王と為す。帝曰く「蓋蘇文君を殺し國を攘う。朕之を取るは易きのみ、人を勞わすを願わず、若何」と。司空房玄齡曰く「陛下の士は勇にして力餘り有り、戢めて用いざるは、所謂'戈を止めて武と為す'者なり」と。司徒長孫無忌曰く「高麗は一介の難を告ぐる無し、宜しく書を賜いて之を安尉し、其の患を隱し、其の存を撫でば、彼當に命を聽くべし」と。帝曰く「善し」と。
ここにおいて帝は自ら将として之を討たんと欲し、長安の耆老を召して労い、「遼東は元来中国の地なり。而るに莫離支は其の主を賊殺す。朕将に自ら行きて之を経略せんとす。故に父老と約す。子若しくは孫我に従いて行く者は、我能く之を拊循す。恤うる毋れ」と言い、即ち厚く布粟を賜った。群臣皆帝に行かざるよう勧めたが、帝は「吾之を知れり。本を去って末に就き、高きを捨てて下を取る。近きを釈して遠きに之く。此の三者は不祥なり。高麗を伐つは是なり。然れども蓋蘇文は君を弑し、又大臣を戮して以て逞しむ。一国の人は首を延べて救いを待つ。議者は顧みて未だ明らかにせざるのみ」と言った。ここにおいて北には粟を営州に輸送し、東には粟を古大人城に儲えた。帝は洛陽に幸し、乃ち張亮を平壤道行軍大総管とし、常何・左難當を副とし、冉仁德・劉英行・張文幹・龐孝泰・程名振を総管とし、江・呉・京・洛の募兵凡そ四万、呉船五百艘を率い、海を渡って平壤に趨らしめた。李勣を遼東道行軍大総管とし、江夏王李道宗を副とし、張士貴・張儉・執失思力・契苾何力・阿史那彌射・姜徳本・曲智盛・呉黒闥を行軍総管としてこれに隷属せしめ、騎士六万を率いて遼東に趨らしめた。詔して曰く「朕の過ぐる所、営頓は飾る毋れ。食は豊怪なる毋れ。水は渉る可き者は橋樑を作る毋れ。行在所に非ざる近州県は学生・耆老をして迎謁せしむるを得ざれ。朕昔戈を提げて乱を撥ねし時、盈月の儲え無かりしも、猶風靡する所なり。今幸いに家給人足なれど、只転餉に労するを恐る。故に牛羊を駆りて以て軍に飼わしむ。且つ朕必勝の理五あり。我が大を以て彼の小を撃ち、我が順を以て彼の逆を討ち、我が安を以て彼の乱に乗じ、我が逸を以て彼の労に敵し、我が悦を以て彼の怨に当たる。渠れ克たざるを憂えんや」と。又契丹・奚・新羅・百済諸君長の兵を発し悉く会せしめた。
十九年二月、帝は洛陽より定州に次いだ。左右に謂いて「今天下大定す。唯だ遼東未だ賓せず。後嗣士馬の盛強に因り、謀臣征討に導かば、喪乱方に始まらん。朕故に自ら之を取り、後世に憂いを遺さざらんとす」と言った。帝は城門に坐し、兵が過ぐるごとに人々を撫慰し、疾病の者は親しく之を視、州県に治療を勅し、士卒大いに悦んだ。長孫無忌が白奏して「天下の符魚悉く従うに、宮官は十人に止まる。天下以て神器を軽んずるなり」と言った。帝は「士卒遼を渡る者十万、皆家室を去る。朕十人を以て従うも、尚お其の多きを恥ず。公は止めて言う毋れ」と言った。帝は身に橐房を属け、両箙を鞍に結んだ。四月、李勣は遼水を渡った。高麗は皆城を嬰して守った。帝は大いに士卒を饗し、帳を幽州の南に張り、詔して長孫無忌に誓師せしめ、乃ち引いて東に向かった。
李勣は蓋牟城を攻め、これを抜き、戸二万、糧十万石を得、其の地を蓋州とした。程名振は沙卑城を攻め、夜その西に入り、城は潰え、その口八千を虜にし、鴨淥の上を遊兵した。李勣は遂に遼東城を囲んだ。帝は遼沢に次ぎ、詔して隋の戦士の露骼を瘞せしめた。高麗は新城・国内城より騎四万を発して遼東を救った。道宗は張乂君を率いて逆戦し、君乂は退いた。道宗は騎を馳せて之を攻め、虜兵は辟易し、其の梁を奪い、散卒を収め、高きに登って望むと、高麗の陣囂たるを見、急ぎ之を撃ち破り、首千余級を斬り、君乂を誅して以て徇せしめた。帝は遼水を渡り、杠彴を徹して、士心を堅くした。馬首山に営し、身を城下に到らしめ、士卒が塹を填めるを見て、分かち之を負い、重き者は馬上に持たしめた。群臣震懼し、争って塊を挟んで進んだ。城に朱蒙祠あり、祠に鎖甲・銛矛あり、妄りに前燕の世に天の降したる所と称す。囲み急なるに方り、美女を飾りて以て神に婦せしめ、誣言して朱蒙悦び、城必ず完からんと言った。李勣は抛車を列ね、大石を飛ばして三百歩を過ぎ、当たる所輒ち潰え、虜は木を積んで楼と為し、絙を結んで罔と為すも、拒ぐ能わず。沖車を以て陴屋を撞き、之を砕いた。時に百済が金旐鎧を献上し、又玄金を以て山五文の鎧と為し、士卒之を被って従った。帝と李勣が会し、甲光日を炫かせた。時に南風急なり、士卒火を放って西南を焚き、熛城中に延び、屋殆ど尽き、燎に死する者万余。衆は陴に登り、虜は盾を蒙って以て拒ぐも、士卒長矛を挙げて之を舂き、藺石雨の如く、城遂に潰え、勝兵一万、戸四万、糧五十万石を獲た。其の地を遼州とした。初め、帝は太子の所属より行在所に至るまで、一烽を置き、遼東を下せば烽を挙げんと約し、是の日燎が塞に入るまで伝わった。
白崖城を攻撃す。城は山に背き崖水あり、険阻甚だし。帝は西北に壁す。虜の酋長孫伐音、密かに降を乞う。然れども城中一致せず。帝は幟を賜いて曰く、「若し降らば、堞に建てて信とせよ」と。俄かに幟を挙ぐ。城人は皆、唐兵登るものと思い、乃ち降る。初め、伐音は中に悔い、帝は怒り、虜の口を諸将に与うるを約す。是に及び、李勣曰く、「士卒奮いて先んずるは、虜の獲を貪るなり。今城危く抜かんとす、降を許して士心を孤にすべからず」と。帝曰く、「将軍の言是なり。然れども兵を放ち殺戮し、人の妻子を略するは、朕忍びず。将軍の麾下に功ある者は、朕庫物を以て之を賞し得べし。庶幾くは将軍に因りて一城を贖わんか」と。男女凡そ一万、兵二千を獲たり。其の地を以て岩州と為し、伐音を刺史に拝す。莫離支、加屍人七百を以て蓋牟を戍らしむ。勣之を俘う。自ら効せんことを請う。帝曰く、「而が家は加屍なり。乃ち我が為に戦わば、尽く戮さんとす。一姓を夷して一人の力を求むるは、不可なり」と。稟して之を放つ。
安市に次ぐ。是に於いて高麗北部傉薩高延寿・南部傉薩高惠真、兵及び靺鞨の衆十五万を引きて来援す。帝曰く、「彼若し兵を勒して安市に連なりて壁し、高山に拠り、城中の粟を取って之を食らい、靺鞨を放って吾が牛馬を略せしめば、之を攻めて下すべからず。此れ上策なり。城を抜き夜去るは、中策なり。吾と鋒を争わば、則ち禽と為らん」と。大対廬有りて延寿に計りて曰く、「吾聞く、中国乱れ、豪雄並び奮い、秦王神武、敵に堅き無く、戦に前に無く、遂に天下を定め、南面して帝と為り、北狄・西戎臣ならざる無しと。今地を掃いて来たり、謀臣重将皆在り。其の鋒校うべからず。今は兵を頓てて日を曠くし、陰に奇兵を遣わして其の餉道を絶つに若かず。旬月を経ずして糧尽き、戦わんと欲して得ず、帰れば則ち路無し。乃ち取るべし」と。延寿従わず、軍を引きて安市より四十里に距りて屯す。帝曰く、「虜吾が策の中に堕つ」と。左衛大将軍阿史那社爾に命じ、突厥千騎を以て之を嘗めしむ。虜常に靺鞨の鋭兵を以て前に居らしむ。社爾の兵接して北す。延寿曰く、「唐は易く与す可し」と。一舍を進み、麓に倚りて陣す。帝、延寿に詔して曰く、「我は爾が強臣有りて其の主を賊殺するを以て、罪を問わんと来る。即ち交戦するは、我が意に非ず」と。延寿然りと謂い、甲を按じて俟つ。帝夜に諸将を召し、李勣に歩騎一万五千を率いさせ西嶺に陣して賊に当たらしめ、長孫無忌・牛進達に精兵万人をして虜の背の狭谷より出ださしむ。帝は騎四千を以て幟を偃げて虜の北山上に趨り、諸軍に令して曰く、「鼓声を聞きて而して放て」と。幄を張り朝堂と為し、曰く、「明日日中、此に降虜を納れん」と。是の夜、流星延寿の営に堕つ。旦日、虜勣の軍少なるを見て、即ち戦う。帝、無忌の軍の塵上がるを望み、鼓角を作すを命ず。兵幟四面に合す。虜惶惑し、将に兵を分けて之を禦せんとす。衆已に囂し。勣、歩槊を以て之を撃ち破る。無忌其の後に乗ず。帝山より馳せ下る。虜大いに乱る。首級二万を斬る。延寿余衆を収め山を負いて自ら固む。無忌・勣合して之を囲み、川梁を徹し、帰路を断つ。帝轡を按じて虜の営壘を観て曰く、「高麗国を傾けて来たり、一麾にして破る。天我を賛するなり」と。馬を下り再拝し、天に謝す。延寿等勢窮まるを度り、即ち衆を挙げて降る。轅門に入り、膝いて前に進み、手を拝して命を請う。帝曰く、「後敢えて天子と戦わんか」と。惶汗して対うるを得ず。帝、酋長三千五百人を料り、悉く之に官し、内徙を許す。余衆三万は之を放ち還す。靺鞨三千余人を誅し、馬牛十万、明光鎧一万領を獲たり。高麗震駭す。後、黄・銀二城自ら抜けて去り、数百里に舎煙無し。乃ち駅を以て太子に報じ、并せて諸臣に書を賜いて曰く、「朕自ら将うること此の若し、云何」と。因りて幸う所の山を号して駐蹕山と為し、破陣の状を図し、石に勒して功を紀す。延寿を鴻臚卿に拝し、惠真を司農卿に拝す。候騎、覘人を獲たり。帝其の縛を解く。自ら食わずして且つ三日と言う。飼うを命じ、屩を賜い、遣わして曰く、「帰りて莫離支に語れ。若し軍中の進退を須うれば、人を遣わして吾が所に至らしむべし」と。帝毎に営を作して塹壘を為さず、謹んで斥候するのみ。而して士卒糧を運ぶも、単騎なりと雖も、虜敢えて鈔せず。
帝と勣、攻むる所を議す。帝曰く、「吾聞く、安市は地険にして衆悍し。莫離支之を撃ちて下す能わず、因りて之を与う。建安は険絶を恃み、粟多くして士少なし。若し其の不意に出でて之を攻めば、相救わざらん。建安を得れば、則ち安市吾が腹中に在り」と。勣曰く、「然らず。糧を遼東に積み、而して西して建安を撃たば、賊将に吾が帰路を梗せられん。安市を先に攻むるに若かず」と。帝曰く、「善し」と。遂に之を攻む。下す能わず。延寿・惠真謀りて曰く、「烏骨城の傉薩已に耄ゆ。朝に攻めて夕べに下すべし。烏骨抜かば、則ち平壤挙がらん」と。群臣亦た張亮の軍沙城に在るを以て、之を召せば一昔にして至らん。若し烏骨を取り、鴨淥を度り、其の腹心を迫ば、計の善き者なりとす。無忌曰く、「天子行師、徼幸せず。安市の衆十万吾が後に在り。之を先に破るに若かず。乃ち駆りて南せば、万全の勢なり」と。乃ち止む。城中帝の旌麾を見て、輒ち陴に乗じて噪く。帝怒る。勣、破るる日男子尽く誅すを請う。虜聞き、故に死戦す。江夏王道宗、距闉を築きて東南を攻む。虜陴を増して以て守る。勣其の西を攻む。撞車の壊す所、随いて輒ち柵を串ねて楼と為す。帝城中の鶏彘の声を聞きて曰く、「囲み久しく、突に黔煙無し。今鶏彘鳴くは、必ず殺して以て士に饗せんとす。虜且に夜出せん」と。兵を厳にすべしと詔す。丙夜、虜数百人縋りて下る。悉く之を禽す。道宗、樹の枚を以て土を裹みて之を積み、距闉成る。城に迫ること数丈に非ず。果毅都尉傅伏愛之を守る。高きよりして其の城を排す。城且に頽れんとす。伏愛私に其の部を去る。虜兵頽るる城より自ら出で、拠りて之を塹断し、火を積み盾を縈ぎ固く守る。帝怒り、伏愛を斬り、諸将に之を撃たしむるを敕す。三日克たず。
詔有りて師を班す。遼・蓋二州の人を抜きて以て帰る。兵城下を過ぐ。城中屏息し旗を偃げ、酋長城に登り再拝す。帝其の守りを嘉し、絹百匹を賜う。遼州の粟尚ほ十万斛、士卒取ること能わず尽くす。帝渤錯水に至り、淖に阻まる。八十里車騎通ぜず。長孫無忌・楊師道等、万人を率い樵を斬り道を築き、車を聯ねて梁と為す。帝薪を負い馬上にて役を助く。十月、兵畢く度る。雪甚だし。属に燎して以て済むを待たしむるを詔す。始め行くとき、士十万、馬一万匹。逮び還るに、物故裁ち千余、馬死すこと十八。船師七万、物故亦た数百。戦骸を集め柳城に葬り、乙太牢を以て祭るを詔す。帝臨みて哭く。従臣皆流涕す。帝総べて飛騎を率い臨渝関に入る。皇太子道左に迎う。初め、帝太子と別るるに、褐袍を御し、曰く、「爾を見て乃ち更えん」と。袍二時を歴て易えず、穴を穿つに至る。群臣服を更むるを請う。帝曰く、「士卒皆敝衣なり。吾新たなる服を可ならんや」と。是に及び、太子潔き衣を進む。乃ち御す。遼の降口一万四千、当に奴婢と為るべし。前に幽州に集め、将に分ちて士卒に賞せんとす。帝父子夫婦離析するを以て、有司に布帛を以て之を贖わしめ、原めて民と為すを詔す。列拝し歓舞す。三日止まず。延寿既に降り、憂いを以て死す。独り惠真長安に至る。
明年の春、藏は使者を遣わして方物を献上し、且つ罪を謝す。二姝口を献ず。帝はこれを還すことを敕し、使者に謂ひて曰く、「色は人の重んずる所なり、然れども其の親戚を去りて乃ち心を傷ましむるを湣れり、我れ取らざるなり」と。初め、師還るに、帝は弓服を以て蓋蘇文に賜ふ。之を受くるも、使者を遣わして謝せず。是に於て詔を下して朝貢を削棄す。
又明年三月、詔して左武衛大將軍牛進達を青丘道行軍大總管と爲し、右武衛將軍李海岸之を副へ、萊州より海を度る。李勣を遼東道行軍大總管と爲し、右武衛將軍孫貳朗・右屯衛大將軍鄭仁泰之を副へ、營州都督の兵を率ゐ、新城道より以て進む。南蘇・木底に次ぐ。虜兵戰ひて勝たず、其の郛を焚く。七月、進達等石城を取り、積利城を攻め、斬首數千級、乃ち皆還る。藏は子莫離支高任武を遣わして來朝し、因りて罪を謝す。
男建兵五萬を以て扶餘を襲ふ。勣之を薩賀水上に破り、斬首五千級、俘口三萬、器械牛馬之に稱す。進みて大行城を拔く。劉仁願勣と會せんとす、後期す。召し還して誅すべしとすれども、赦して姚州に流す。契苾何力勣の軍と鴨淥に會し、辱夷城を拔き、悉く師をして平壤を圍ましむ。九月、藏男産を遣わして首領百人を率ゐて素幡を樹て降り、且つ入朝を請ふ。勣禮を以て見ゆ。而して男建猶ほ固く守り、出で戰ひて數北す。大將浮屠信誠諜を遣わして約し內應す。五日、闔啟き、兵噪きて入り、其の門に火し、鬱焰四興す。男建窘急し、自ら刺すも殊ならず。藏・男建等を執へ、凡そ五部百七十六城、戶六十九萬を收む。詔して勣に便道より俘を昭陵に獻ぜしめ、凱して還る。十二月、帝含元殿に坐し、勣等を引見し、廷に俘を數ふ。藏素より脅制せしを以て、赦して司平太常伯と爲し、男産を司宰少卿と爲す。男建を黔州に投じ、百濟王扶餘隆を嶺外に投ず。獻誠を以て司衛卿と爲し、信誠を銀青光祿大夫と爲し、男生を右衛大將軍と爲し、何力を行左衛大將軍と爲し、勣を兼ねて太子太師と爲し、仁貴を威衛大將軍と爲す。其の地を剖きて都督府と爲す者九、州四十二、縣百。復た安東都護府を置き、酋豪功有る者を擢でて都督・刺史・令を授け、華官と參り治ましむ。仁貴都護と爲り、總兵して之を鎮む。是歲郊祭し、高麗平ぐを以て、成を天に謝す。
百濟
百濟は、扶餘の別種なり。京師の東六千里に直にして贏ち、海の陽に濱り、西は越州に界し、南は倭、北は高麗、皆海を逾えて乃ち至る。その東は新羅なり。王は東西二城に居す。官に内臣佐平あり、号令を宣納し、内頭佐平は帑聚を主り、内法佐平は礼を主り、衛士佐平は衛兵を典し、朝廷佐平は獄を主り、兵官佐平は外兵を掌る。六方あり、方は十郡を統ぶ。大姓八あり、沙氏、燕氏、軬氏、解氏、貞氏、国氏、木氏、䒤氏。その法、反逆する者は誅し、その家を籍す。人を殺す者は奴婢三を輸して罪を贖う。吏賕を受く及び盗む者は、三倍償い、終身錮す。俗は高麗と同じ。三島あり、黄漆を生ず。六月に刺し取りて沈め、色金の若し。王は大袖の紫袍を服し、青錦の褲、素皮の帯、烏革の履、烏羅の冠、金花を以て飾る。群臣は絳衣、冠を銀花を以て飾る。民の絳紫を衣するを禁ず。文籍あり、時月を紀すること華人の如し。
武徳四年、王扶餘璋始めて使者を遣わして果下馬を献ず。ここより数え朝貢す。高祖冊して帯方郡王・百濟王となす。後五年、明光鎧を献じ、且つ高麗の貢道を梗むるを訟う。太宗貞観の初め、詔して使者にその怨みを平げしむ。また新羅と世仇とし、数え相侵す。帝璽書を賜いて曰く、「新羅は朕が蕃臣、王の鄰国なり。数え相侵暴するを聞く。朕已に高麗・新羅に詔して和を申さしむ。王は前怨を忘れ、朕が本懐を識るべし」と。璋表を奉りて謝す。然れども兵も亦止まず。再び使を遣わして朝し、鉄甲雕斧を上る。帝これを優労し、帛段三千を賜う。十五年、璋死す。使者素服して表を奉りて曰く、「君の外臣百濟王扶餘璋卒す」と。帝為に玄武門において挙哀し、光禄大夫を贈り、賻賜甚だ厚し。祠部郎中鄭文表を命じ、その子義慈を冊して柱国とし、王を紹がしむ。
義慈は親に事えて孝、兄弟と友す。時に「海東の曾子」と号す。明年、高麗と連和して新羅を伐ち、四十余城を取り、兵を発してこれを守る。また棠項城を取らんと謀り、貢道を絶つ。新羅急を告ぐ。帝司農丞相裏玄奨を遣わし、詔書を齎して諭解せしむ。帝新たに高麗を討つを聞き、乃ち間を取って新羅の七城を取る。久しうして、また十余城を奪い、ここによりて朝貢せず。高宗立ち、乃ち使者を遣わして来る。帝義慈に詔して曰く、「海東の三国、基を開くこと旧し。地固より犬牙たり。比者隙争侵校して寧歳無し。新羅の高城重鎮皆王に併せられ、窮きを朕に帰し、王に地を帰せんことを丐う。昔斉桓一諸侯、尚お亡国を存す。況んや朕万方の主、その危きを恤わざるべけんや。王の兼ねたる城宜しくこれを還すべし。新羅の俘うるところも亦王に還し畀うべし。詔に如かざれば、王に任せて決戦せしむ。朕将に契丹諸国を発し、遼を度りて深入せん。王これを思え、後悔無かれ」と。
永徽六年、新羅百濟・高麗・靺鞨の北境三十城を取るを訴う。顕慶五年、乃ち詔して左衛大將軍蘇定方を神丘道行軍大総管とし、左衛將軍劉伯英・右武衛將軍馮士貴・左驍衛將軍龐孝泰を率い、新羅兵を発してこれを討たしめ、城山より海を済く。百濟熊津口を守る。定方撃ちを縦す。虜大いに敗る。王師潮に乗じ帆を以て進み、真都城に趨ること一舎にして止まる。虜衆を悉くして拒ぐ。またこれを破り、首級万余を斬り、その城を抜く。義慈太子隆を挟みて北鄙に走る。定方これを囲む。次子泰自立して王と為り、衆を率いて固守す。義慈の孫文思曰く、「王・太子固より在り。叔乃ち自ら王と為る。若し唐兵解き去らば、我が父子を如何せん」と。左右と縋りて出づ。民皆これに従う。泰止むること能わず。定方士を令して堞を超え幟を立たしむ。泰門を開きて降る。定方義慈・隆及び小王孝演・酋長五十八人を執りて京師に送る。その国の五部・三十七郡・二百城、戸七十六万を平ぐ。乃ち熊津・馬韓・東明・金漣・徳安の五都督府を析置し、酋渠長を擢げてこれを治めしむ。郎将劉仁願を命じて百濟城を守らしめ、左衛郎将王文度を熊津都督となす。九月、定方俘うるところを以て見ゆ。詔して釈し誅せず。義慈病死す。衛尉卿を贈り、旧臣の臨に赴くを許し、詔して孫皓・陳叔宝の墓の左に葬らしむ。隆に司稼卿を授く。文度海を済いて卒す。劉仁軌を以てこれに代う。
仁願等還る。隆は衆の携散を畏れ、亦京師に帰る。儀鳳の時、帯方郡王に進み、帰籓を遣す。是の時、新羅強く、隆は敢へて旧国に入らず、高麗に寄治して死す。武后は又其の孫敬を以て王を襲はしむ。而して其の地は既に新羅・渤海靺鞨に分たれ、百済遂に絶つ。
新羅
長人とは、人に類して長さ三丈、牙を鋸にし爪を鉤にし、黒毛身を覆ひ、火食せず、禽獣を噬ひ、或は人を搏ちて以て食ふ。婦人を得れば、以て衣服を治む。其の国は山を連ねること数十里、峡有り、固く鉄闔を以てし、関門と号す。新羅は常に弩士数千を屯して之を守る。
貞観五年、女楽二を献ず。太宗曰く、「林邑の鸚鵡を献ずるに比ぶれば、郷を思ひ言ひ、還るを丐ふ。況んや人に於てをや」と。使者に付して之を帰す。是歳、真平死す。子無く、女善徳を立てて王と為し、大臣乙祭国を柄とす。詔して真平に左光禄大夫を贈り、賻物段二百。九年、使いを遣はして善徳を冊し父の封を襲はしむ。国人聖祖皇姑と号す。十七年、高麗・百済に攻めらる。使い来たりて師を乞ふ。亦た会す帝親しく高麗を伐たんとす。詔して兵を率ひて以て虜の勢を披かしむ。善徳兵五万をして高麗の南鄙に入らしめ、水口城を抜きて以て聞かしむ。二十一年、善徳死す。光禄大夫を贈り、而して妹真徳王を襲ふ。明年、子文王及び弟伊賛子春秋を遣はして来朝す。文王を左武衛将軍に拝し、春秋に特進す。因りて章服を改むることを請ひ、中国の制に従ふ。内より珍服を出だして之を賜ふ。又国学に詣りて釈奠・講論を観す。帝賜ふ所制の『晋書』。辞して帰らんとす。三品以上に勅して郊餞せしむ。
玄宗開元中、数たび入朝し、果下馬・朝霞紬・魚牙紬・海豹皮を献ず。又二女を献ず、帝曰く「女は皆王の姑姊妹なり、本俗に違い、別に親を離る、朕留め忍びず」と。厚く賜いて還す。又子弟を遣わし太学に入り経術を学ばしむ。帝時に興光に瑞文錦・五色羅・紫繡紋袍・金銀精器を賜う。興光も亦異狗馬・黄金・美髢諸物を上る。初め、渤海靺鞨登州を掠む、興光これを撃ち走らす、帝興光を甯海軍大使に進め、靺鞨を攻めしむ。二十五年死す、帝特にこれを悼み、太子太保を贈り、邢璹をして鴻臚少卿を以て弔祭せしむ。子承慶王を襲う、詔して璹に曰く「新羅は君子国と号し、『詩』『書』を知る。卿の惇儒を以て、故に節を持ち往かしむ、宜しく経誼を演べ、大国の盛なるを知らしむべし」と。又国人の棋を善くするを以て、詔して率府兵曹参軍楊季鷹を副と為す。国の高弈皆その下に出ず、ここに於いて使者に金宝を厚く遺す。俄にその妻朴を冊して妃と為す。承慶死す、詔して使者を遣わし臨吊し、その弟憲英を以て王を嗣がしむ。帝蜀に在り、使いを遣わし江を溯り成都に至り正月を朝せしむ。
張保皐・鄭年という者有り、皆闘戦を善くし、槍を用いるに巧みなり。年はまた海に没する能く、その地を五十里履みて噎せず、その勇健を角ぶるに、保皐及ばず。年は兄を以て保皐を呼び、保皐は歯を以てし、年は芸を以てし、常に相下らず。その国より皆来たりて武寧軍の小将と為る。後保皐新羅に帰り、その王に謁して曰く「中国に遍く新羅人を以て奴婢と為す、願わくは清海を鎮め、賊をして人を掠め西去することを得ざらしめん」と。清海は海路の要なり。王保皐に万人を与えてこれを守らしむ。大和後より、海上に新羅人を鬻ぐ者無し。保皐既にその国に貴く、年は饑寒して漣水に客す。一日、戍主馮元規に謂いて曰く「我東に帰らんと欲す、張保皐に食を乞わん」と。元規曰く「若と保皐の負うところ何如、奈何ぞ死をその手に取らん」と。年曰く「饑寒して死するは、兵に死するの快きに如かず、況んや故郷に死するをや」と。年遂に去る。至り、保皐に謁し、これを飲みて極めて歓ぶ。飲み未だ卒わらず、大臣その王を殺し、国乱れて主無しと聞く。保皐兵五千人を分かち年与え、年を持ちて泣きて曰く「子に非ざれば禍難を平ぐること能わず」と。年その国に至り、反者を誅し、王を立てて報ず。王遂に保皐を召して相と為し、年を以て代わり清海を守らしむ。会昌後、朝貢復た至らず。
賛に曰く、杜牧称す「安思順朔方節度たりし時、郭汾陽・李臨淮俱に牙門都将と為り、二人相能わず、同盤飲食すと雖も、常に睇み相視て、一言も交わさず。及んで汾陽思順に代わり、臨淮亡去せんと欲す、計未だ決せず。旬日、詔して臨淮に汾陽の半兵を分かち東に出で趙・魏にせしむ。臨淮入り請いて曰く『一死は固より甘んず、妻子を免れしめんことを乞う』と。汾陽趨り下り、手を持ちて堂に上り、曰く『今国乱れ主遷る、公に非ざれば東伐すること能わず、豈に私忿を懐く時ならんや』と。及んで別るるに、手を執り涕を泣き、忠義を以て相勉め、劇盗を平ぐるに訖るは、実に二公の力なり。その心叛かざるを知るは、その心を知るは、難きなり。忿れば必ず短を見る、その材を知るは、益々難きなり。此れ保皐と汾陽の賢等しきのみ。年保皐に投ずれば必ず曰く『彼は貴く我は賤し、我降り下之、旧忿を以て我を殺すに宜しからず』と。保皐果たして殺さず、人の常情なり。臨淮汾陽に請いて死せんとす、亦人の常情なり。保皐年を任ず、事は己より出づ、年且つ寒饑す、感動せしむるに易し。汾陽・臨淮、平生亢立す、臨淮の命は天子より出づ。保皐に榷るれば、汾陽優れり。此れ乃ち聖賢の成敗の際に疑い遲るるなり。世周・邵を称して百代の師と為す、周公は孺子を擁し而して邵公これを疑う。周公の聖を以て、邵公の賢を以て、少くは文王に事え、老いては武王を佐け、天下を平ぐる能くす。周公の心、邵公尚且つこれを知らず。苟くも仁義の心有らば、明を資とせずと雖も、邵公尚お爾り、況んやその下をや」と。嗟乎、怨毒を以て相槊せずして、先ず国家の憂いを為す、晋に祁奚有り、唐に汾陽・保皐有り、孰れか夷に人無しと謂わんや。
日本
京師を去ること一万四千里、直に新羅の東南、海中に在り、島に居り、東西五月行、南北三月行。
国に城郛無く、木を聯ねて柵落と為し、草を以て屋を茨う。
左右小島五十余、皆自ら国と名づけ、而してこれに臣附す。
本率一人を置き、諸部を検察す。
その俗は女多く男少なく、文字有り、浮屠法を尚ぶ。
その官十二等有り。
その王は姓を阿毎氏とし、自ら言うには初代の主は天御中主と号し、彦瀲に至るまで凡そ二十二世、皆「尊」を以て号とし、筑紫城に居す。
次は綏靖、次は安寧、次は懿徳、次は孝昭、次は天安、次は孝霊、次は孝元、次は開化、次は崇神、次は垂仁、次は景行、次は成務、次は仲哀。
次は応神、次は仁徳、次は履中、次は反正、次は允恭、次は安康、次は雄略、次は清寧、次は顕宗、次は仁賢、次は武烈、次は継体、次は安閑、次は宣化、次は欽明。
次は海達。
次は用明、亦た目多利思比孤と曰う、隋の開皇の末に当たり、始めて中国と通ず。
次は崇峻。
次は舒明、次は皇極。
その俗は椎髻にして冠帯無く、跣足にして行き、幅巾を以て後を蔽い、貴者は錦を冒す。婦人は純色の裠を衣とし、長き𦝫襦を着け、髪を後ろに結ぶ。
煬帝に至り、その民に錦線冠を賜い、金玉を以て飾り、文布を以て衣と為し、左右に銀蘤を佩び、長さ八寸、多少を以て貴賤を明らかにす。
新州刺史高仁表を遣わして往き諭さしむ。王と礼を争い平らかならず、天子の命を宣せずして還る。
久しうして、更に新羅の使者に附して上書す。
時に新羅は高麗・百済に暴かれたり、高宗は璽書を賜い、兵を出して新羅を援けしむ。
未だ幾ばくもせず孝德死す、その子天豊財立つ。
死す、子天智立つ。
明年、使者蝦蛦の人と偕に朝す。
死す、子揔持立つ。
後に漸く夏音に習ひ、倭の名を悪み、更に日本と号す。
使者自ら言ふ、「国は日の出づる所に近きを以て、名と為す。」と。
或は云ふ、「日本は乃ち小国にして、倭に併せられし故に、其の号を冒す。」と。
使者情を以てせざる故に、疑はしむ。
又妄りに其の国都の方数千里を誇り、南・西は海に尽き、東・北は大山を限りとし、其の外は即ち毛人なりと云ふ。
進徳冠を冠り、頂に華蘤四披あり、紫袍帛帯なり。
死す、子聖武立つ、元を改めて白龜と曰ふ。
其の副朝臣仲満、華を慕ひて去るを肯はず、姓名を易へて朝衡と曰ひ、左補闕・儀王友を歴任し、該識多く、久しくして乃ち還る。
死す、聖武の女高野姫を以て王と為す。
死す、白壁立つ。
其の学子橘免勢・浮屠空海、留まりて肄業せんことを願ひ、二十餘年を歴て、使者高階真人来りて免勢等の俱に還るを請ふ、詔して可とす。
次に諾樂立つ、次に嵯峨、次に浮和、次に仁明。
次に文徳、次に清和、次に陽成。
その東の海の島中にまた邪古・波邪・多尼の三小王あり、北は新羅に距たり、西北は百濟、西南は直に越州に当たり、絲絮・怪珍ありと云ふ。
流鬼
流鬼は京師を去ること一萬五千里、直に黑水靺鞨の東北、少海の北に在り、三面皆海に阻まれ、其の北は窮まる所を知らず。人は嶼に依り散居し、沮澤多く、魚鹽の利あり。地は早く寒く、霜雪多く、木を以て廣さ六寸・長さ七尺を其上に繫ぎ、以て冰を踐み、走獸を逐ふ。土は狗多く、皮を以て裘と爲す。俗は髮を被る。粟は莠に似て小さく、蔬蓏其の他の穀無し。勝兵一萬人。南は莫曳靺鞨に隣り、東南は海を航すること十五日行きて、乃ち至る。貞觀十四年、其の王、子の可也余莫を遣はし、貂皮を更に三譯して來朝せしむ。騎都尉を授け、之を遣はす。
龍朔の初め、儋羅と云ふ者有り、其の王儒李都羅、使を遣はして入朝す。國は新羅の武州南の島上に居り、俗は樸陋にして、大豕の皮を衣とし、夏は革屋に居り、冬は窟室にす。地は五穀を生じ、耕すに牛を用ふるを知らず、鐵齒を以て土を杷く。初め百濟に附く。麟德の中、酋長來朝し、帝に從ひて太山に至る。後、新羅に附く。