新唐書

巻二百一十九 列傳第一百四十四 北狄

契丹

契丹は、もと東胡の種族であり、その祖先は匈奴に撃破され、鮮卑山に保った。魏の青龍年間、部族の酋長比能はやや桀驁で、幽州刺史王雄に殺され、衆は遂に衰微し、潢水の南、黄龍の北に逃れた。元魏に至り、自ら契丹と号す。地は京師の東北五千里余に直し、東は高麗に距り、西は奚、南は営州、北は靺鞨・室韋に接し、冷陘山を阻んで自らを固む。射猟し、居処は常なし。その君は大賀氏、勝兵四万あり、八部に析け、突厥に臣し、俟斤と為す。凡そ調発攻戦するときは、則ち諸部畢会し、猟するときは則ち部ごとに自ら行うことを得。奚と平らかならず、毎たび闘いて利あらず、輒ち遁れて鮮卑山に保つ。風俗は突厥と大抵略侔う。死して墓せず、馬車に屍を載せて山に入り、樹の顛に置く。子孫死すれば、父母旦夕に哭し、父母死すれば則ちせず、亦た喪期なし。

武徳年間、その大酋孫敖曹は靺鞨の長突地稽とともに人を遣わして来朝し、而して君長或いは小に辺を寇す。後二年、君長乃ち使者を遣わして名馬・豊貂を上る。貞観二年、摩会来降す。突厥の頡利可汗は外夷の唐と合するを欲せず、乃ち梁師都を以て契丹に易えんことを請う。太宗曰く、「契丹・突厥は類を同じくせず、今已に我に降る、尚た索むべけんや。師都は唐の編戸、我が州部を盗み、突厥輒ち助けと為す、我将に之を禽にせん、誼として降者を易うるべからず」と。明年、摩会復た入朝し、鼓纛を賜い、ここより常貢有り。帝高麗を伐ち、悉く酋長と奚の首領を発して軍に従わしむ。帝還り、営州を過ぎ、尽く其の長窟哥及び老人を召し、差等に繒采を賜い、窟哥を以て左武衛将軍と為す。

大酋辱紇主曲据また衆を率いて帰し、即ち其の部を玄州と為し、曲据に刺史を拝し、営州都督ととく府に隷す。未だ幾ばくもあらざるに、窟哥部を挙げて内属す。乃ち松漠都督府を置き、窟哥を以て使持節十州諸軍事・松漠都督と為し、無極男に封じ、氏を李と賜う。達稽部を以て峭落州と為し、紇便部を以て弾汗州と為し、独活部を以て無逢州と為し、芬問部を以て羽陵州と為し、突便部を以て日連州と為し、芮奚部を以て徒河州と為し、墜斤部を以て万丹州と為し、伏部を以て匹黎・赤山の二州と為し、俱に松漠府に隷し、即ち辱紇主を以て之が刺史と為す。

窟哥死し、奚と連りて叛く。行軍総管阿史徳枢賓等、松漠都督阿卜固を執りて東都に献ず。窟哥に二孫有り。曰く枯莫離、左衛将軍・弾汗州刺史と為り、帰順郡王に封ぜらる。曰く尽忠、武衛大将軍・松漠都督と為る。而して敖曹に孫有り、曰く万栄、帰誠州刺史と為る。ここにおいて営州都督趙文翽驕遝にして、数たび其の下を侵侮す。尽忠等皆怨望す。万栄は本侍子として入朝し、中国の険易を知り、乱を挟みて疑わず、即ち共に兵を挙げ、文翽を殺し、営州を盗んで反す。尽忠自ら無上可汗と号し、万栄を将と為し、兵を縦して四略し、向かう所輒ち下り、重ねて浹せず、衆数万、妄りに十万と言い、崇州を攻め、討撃副使許欽寂を執る。武后怒り、詔して鷹揚将軍曹仁師・金吾大将軍張玄遇・右武威大将軍李多祚・司農少卿麻仁節等二十八将に之を撃たしむ。梁王武三思を以て榆関道安撫大使と為し、納言姚璹之が副と為す。更に万栄を万斬と号し、尽忠を尽滅と号す。諸将西硤石黄麞谷に戦い、王師敗績し、玄遇・仁節皆虜に禽せらる。平州を進攻すれども克たず。敗書聞こえ、后乃ち右武衛大将軍建安王武攸宜を以て清辺道大総管と為し、契丹を撃たしむ。天下の人奴にして勇有る者を募り、官主直を畀え、悉く発して以て虜を撃たしむ。万栄枚を銜みて夜檀州を襲い、清辺道副総管張九節死士数百を募りて薄戦し、万栄敗れて山に走る。俄にして尽忠死し、突厥の黙啜其の部を襲い破る。万栄散兵を収めて復た振い、別将駱務整・何阿小をして冀州に入らしめ、刺史陸宝積を殺し、数千人を掠む。

武后尽忠の死を聞き、更に詔して夏官尚書王孝傑・羽林衛将軍蘇宏暉に兵十七万を率いて契丹を討たしむ。東硤石に戦い、師敗れ、孝傑之に死す。万栄已が勝に席し、遂に幽州を屠る。攸宜将を遣わして討捕すれども、克つこと能わず。乃ち右金吾衛大将軍河内郡王武懿宗を命じて神兵道大総管と為し、右粛政台御史大夫婁師徳を清辺道大総管と為し、右武威衛大将軍沙吒忠義を清辺中道前軍総管と為し、兵凡そ二十万、賊を撃たしむ。万栄鋭甚だしく、鼓して南し、瀛州の属県を残し、恣肆して憚る所なし。ここにおいて神兵道総管楊玄基奚軍を率いて其の尾を掩い、契丹大敗し、何阿小を獲、別将李楷固・駱務整を降し、仗械を収むること積むが如し。万栄軍を委ねて走り、残隊復た合し、奚と搏つ。奚四面より攻め、乃ち大潰し、万栄左に馳す。張九節三伏を為して之を伺い、万栄窮し、家奴と軽騎にて潞河東に走り、憊ること甚だしく、林下に臥す。奴其の首を斬り、九節之を東都に伝え、余衆潰ゆ。攸宜凱して還り、后喜び、天下を赦し、元を改めて神功と為す。

契丹立つこと能わず、遂に突厥に附く。久視元年、詔して左玉鈐衛大将軍李楷固・右武威衛将軍駱務整に契丹を討たしめ、之を破る。此の両人皆虜の善将、嘗て辺を犯し、数たび官軍を窘しめし者なり、及んで是に功有り。

可突於なる者有り、静析軍副使と為り、悍勇にして衆を得、娑固之を去らんと欲すれども、未だ決せず。可突於反って娑固を攻め、娑固営州に奔る。都督許欽澹州甲五百を以て、奚の君長李大酺の兵と合し、共に可突於を攻む。勝たず、娑固・大酺皆死す。欽澹懼れ、軍を徙して榆関に入る。可突於娑固の従父弟郁于を奉じて君と為し、使者を遣わして謝罪す。詔有りて即ち郁于を松漠郡王に拝し、而して可突於を赦す。郁于来朝し、率更令を授け、宗室の出づる女慕容を以て燕郡公主と為し、之に妻す。可突於も亦来朝し、左羽林衛将軍に擢でらる。郁于死し、弟吐于嗣ぎ、可突於と隙有り、其の下を定むること能わず、公主を携えて来奔し、遼陽郡王に封ぜられ、宿衛に留まる。可突于尽忠の弟邵固を奉じて衆を統べしめ、詔して王を襲うことを許す。天子封禅し、邵固諸蕃の長と皆行在に従う。明年、左羽林衛大将軍を拝し、王を徙めて広化郡と為し、宗室の出づる女陳を以て東華公主と為し、邵固に妻し、詔して其の部酋長百余りを官し、邵固子を以て入侍せしむ。

可突於が再び来朝したが、宰相李元紘に礼遇されず、不満を抱いて去った。張説が言うには、「彼らは獣の心を持ち、ただ利益のみに向かう。しかも今は国政を執り、下々の者たちが付き従っている。礼をもって遇さなければ、再び来朝することはあるまい」。三年後、可突于は邵固を殺し、屈烈を王に立て、奚の衆を脅して共に突厥に降った。公主は平廬軍に逃れた。詔して幽州長史・知范陽節度事趙含章にこれを撃たしむ。中書舍人裴寛・給事中薛偘を遣わして大いに壮士を募り、忠王浚を河北道行軍元帥に拝し、御史大夫李朝隱・京兆尹裴伷先をその副とし、程伯献・張文儼・宋之悌・李東蒙・趙万功・郭英傑等八総管の兵を率いて契丹を撃たしめた。後にまた忠王を河東道諸軍元帥を兼ねさせたが、王は出発しなかった。礼部尚書信安郡王禕を持節河北道行軍副元帥とし、含章と共に塞外に出て虜を捕え、大いにこれを破った。可突于は逃走し、奚の衆は降伏した。王は二蕃の捕虜と首級を以て諸廟に告げた。

翌年、可突于が辺境を侵すと、幽州長史薛楚玉・副総管郭英傑・呉克勤・烏知義・羅守忠が万騎を率いて奚と共にこれを撃ち、都山の下で戦った。可突于が突厥兵を率いて来ると、奚は恐れて両端を持し、衆は険阻な地に逃れた。知義・守忠は敗れ、英傑・克勤はこれに死し、唐兵万人が殺された。帝は張守珪を抜擢して幽州長史とし、これを経略させた。守珪は良将であったので、可突于は恐れ、表面上は臣下を請うて次第に西北に趨り突厥に倚った。その衙官李過折は可突于と内に不和であったので、守珪は客の王悔をして密かにこれを誘い、兵で可突于を包囲させると、過折は即夜に可突于・屈烈及びその支党数十人を斬り、自ら帰順した。守珪は過折にその部を統べさせ、可突于等の首を函に収めて東都に伝送させた。過折を北平郡王に拝し、松漠都督とした。可突于の残党が過折を撃ち殺し、その一家を屠った。一子の剌乾は安東に逃れ、左ぎょう衛将軍に拝された。二十五年、守珪が契丹を討ち、再びこれを破った。詔があり、今後戦いに功あれば必ず廟に告げよと。

契丹は開元・天宝の間、朝献の使者を遣わすことおよそ二十回に及んだ。故事により、范陽節度使を以て奚・契丹押使とし、至徳以後は、藩鎮が地を擅にして自らの安泰を務め、障戍と斥候を厳重にし、辺境で事を起こさなかった。奚・契丹もまた寇をなすことは稀で、毎年酋豪数十人を選んで長安ちょうあんに入朝会させ、引見の度に賜与は秩序あり、その下の者数百人は皆幽州の館に駐在した。至徳・宝応の時に再び朝献し、大曆中は十三回、貞元間は三回、元和年中は七回、大和・開成間は凡そ四回であった。然れども天子はその外に回鶻に附くことを憎み、渠長に官爵を与えることを復さなかった。会昌二年、回鶻が破れると、契丹の酋長屈戍は初めて内附を復し、雲麾将軍・守右武衛将軍に拝された。ここにおいて幽州節度使張仲武が回鶻から与えられた旧印を改め、唐の新印「奉国契丹之印」を賜った。

咸通年中、その王習爾之が再び使者を遣わして入朝し、部落は次第に強盛となった。習爾之が死ぬと、族人の欽徳が嗣いだ。光啓の時、天下に盗賊が興り、北疆に事変多きに乗じ、奚・室韋を掠奪し、小さき部種は皆これを役して服従させ、ついで幽・薊に寇入した。劉仁恭は軍を窮めて摘星山を逾えてこれを討ち、毎年塞下の草を焼き、留まって牧畜することを得ざらしめ、馬多く死んだ。契丹は乃ち盟を乞い、良馬を献じて牧地を求め、仁恭はこれを許した。また約を破って寇入し、劉守光が平州を戍ると、契丹は万騎で侵入した。守光は偽って和し、野外に帳を設けて酒宴を具え、伏兵を発してその大将を擒らえた。群胡慟哭し、馬五千匹を納めて贖わんことを願ったが、許さなかった。欽徳は重賂を輸送してこれを求め、乃ち盟を結び、十年間辺境に近づかなかった。

欽徳の晩節は政事振わず、その八部の大人は法として常に三年ごとに代わるが、時に耶律阿保機が鼓旗を建てて一部と為り、代わることを肯ぜず、自ら王と号して国を有した。ここにおいて大賀氏は遂に亡んだ。

奚もまた東胡の種であり、匈奴に破られて烏丸山に保った。漢の曹操がその帥蹋頓を斬ったのは、蓋しその後裔である。元魏の時に自ら庫真奚と号し、鮮卑の故地に居り、京師の東北四千里に直す。その地は東北は契丹に接し、西は突厥、南は白狼河、北は霫である。突厥と俗を同じくし、水草を逐って畜牧し、氈廬に居り、車を環らして営と為す。その君長は常に五百人の兵を持って牙中を衛し、余部は山谷の間に散在し、賦入なく、射獵を以て資と為す。稼穡は多く穄であり、収穫後は山下に窖蔵する。木を断ちて臼と為し、瓦鼎を以て飦と為し、寒水を雑えて食す。戦闘を好み、兵に五部あり、部ごとに一俟斤これを主る。その国は西は大洛泊に抵り、回紇の牙より三千里、多くは土護真水に依る。その馬は登攀に優れ、その羊は黒い。盛夏には必ず冷陘山に徙って保ち、この山は媯州の西北に直す。隋に至って初めて「庫真」を去り、ただ奚と曰う。

武徳年中、高開道がその兵を借りて再び幽州を寇し、長史王詵がこれを撃破した。太宗貞観三年に初めて来朝し、十七年の間に凡そ四回朝貢した。帝が高麗を伐つ時、大酋蘇支が従軍して戦功あり。数年を経ずして、その長可度者が内附し、帝は為に饒楽都督府を置き、可度者を使持節六州諸軍事・饒楽都督に拝し、楼煩県公に封じ、李氏を賜った。阿会部を以て弱水州と為し、処和部を祁黎州と為し、奥失部を洛瑰州と為し、度稽部を太魯州と為し、元俟折部を渇野州と為し、各その酋領辱紇主を刺史とし、饒楽府に隷属させた。また営州に東夷都護府を置き、松漠・饒楽の地を兼ねて統べ、東夷校尉こういを置いた。

顕慶年間に可度者が死ぬと、奚は遂に叛した。五年、定襄都督阿史徳枢賓・左武候将軍延陀梯真・居延州都督李含珠を冷陘道行軍総管と為す。翌年、詔して尚書右丞崔余慶を持節総護定襄等三都督とし、これを討たしむ。奚は恐れて降伏を乞い、その王匹帝を斬った。万歳通天年中、契丹が反すると、奚もまた叛き、突厥と相表裏して「両蕃」と号した。延和元年、左羽林衛大将軍幽州都督孫佺・左驍衛将軍李楷洛・左威衛将軍周以悌に兵十二万を帥い、三軍と為し、その部を襲撃させた。冷陘に次ぐと、前軍の楷洛が奚の酋李大酺と戦って利あらず。佺は懼れ、軍を収め、大酺に詐って曰く、「我は詔を奉じて汝らを慰撫せんと来たりしに、楷洛が節度に違いて輒ち戦いを交えしは、天子の意に非ず、方にこれを戮して衆に示さんとす」と。大酺曰く、「誠に我を慰撫せんとするなら、賜る所あるか」と。佺は軍中の繒帛・袍帯を出してこれに与えた。大酺は謝し、佺に還師を請うた。全軍は脱するを得たが、先を争って部伍なく、大酺の兵がこれを追撃し、遂に大敗して殺傷数万に及んだ。佺・以悌は共に虜に禽えられ、默啜のもとに送られて害された。朝廷は方に事変多く、討伐の暇あらず。

玄宗の開元二年、使節の奧蘇悔落をして降伏を請わしめ、饒樂郡王に封じ、左金吾衛大將軍・饒樂都督とした。詔して宗室の出女辛を固安公主とし、大酺に嫁がせた。翌年、自ら入朝して婚礼を成した。この時、初めて營州都督府を復活させ、右領軍將軍李濟に節を持たせ護送させた。大酺は後に契丹の可突於と戦い、死んだ。弟の魯蘇がその部を統率し、王を継いだ。詔して保塞軍經略大使を兼ねさせた。牙官の塞默羯が謀叛を企てたので、公主は酒宴を設けて誘い出して殺した。帝はその功を嘉し、公主に累万を賜った。やがてその母と互いに告訴し合って罪を得たため、改めて盛安公主の娘の韋を東光公主として彼に娶せた。三年後、魯蘇を奉誠郡王に封じ、右羽林衛將軍とし、その首領二百人ばかりを皆、郎将の位に抜擢した。

長くして、契丹の可突於が反逆し、奚の衆を脅迫して共に突厥に附した。魯蘇はこれを制することができず、榆關に奔り、公主は平廬に奔った。幽州長史趙含章が清夷軍を発して討ち破り、衆は次第に自ら帰順した。翌年、信安王李禕がその酋長李詩鎖高等の部落五千帳を降伏させ、その地を歸義州とし、これにより李詩を王とし、左羽林軍大將軍・本州都督に拝し、帛十万を賜い、その部を幽州の辺りに置いた。

李詩が死ぬと、子の延寵が嗣ぎ、契丹とまた叛き、幽州の張守珪に困らされた。延寵が降伏すると、再び饒樂都督・懷信王に拝し、宗室の出女楊を宜芳公主として彼に娶せた。延寵は公主を殺してまた叛き、詔して他の酋長婆固を立てて昭信王・饒樂都督とし、その部を安定させた。安祿山が范陽の節度使となると、辺境の戦功を偽り、しばしば激戦し、捕虜を飾って献上し、その君長李日越を誅し、捕虜の中の驍壮な者を選んで雲南に戍らせた。帝の世の終わりまで、合わせて八回朝献し、至徳・大曆の間には十二回あった。

この後、契丹が盛んとなり、奚はこれに抗することができず、挙部してその支配に服属した。虜(契丹)の政が苛酷であったので、奚はこれを怨み、その酋長去諸が別部を率いて内附し、媯州の北山を保ち、遂に東奚・西奚となった。

室韋

室韋は、契丹の別種、東胡の北辺にあり、蓋し丁零の苗裔である。地は黃龍の北に据わり、峱越河に傍い、京師の東北七千里に直し、東は黑水靺鞨、西は突厥、南は契丹、北は海に臨む。その国に君長はなく、ただ大酋のみで、皆「莫賀咄」と号し、その部を管轄して突厥に附していた。小さいものは千戸、大きいものは数千戸、川や谷に沿って散居し、水草を逐って処り、租税を徴収しない。狩猟のたびに互いに呼び集まり、事が終われば去り、互いに臣従して統制しないので、猛悍で戦いを好むものの、遂に強国となることはできなかった。木を削って犁とし、人が引いて耕し、田の収穫は甚だ少ない。気候は多く寒く、夏は霧雨、冬は霜や霰がある。その習俗は、富人は五色の珠を領に垂れ、婚嫁には男が先に女の家で三年間労役に服し、その後財産を分けて与え、婦と共に車に乗り、鼓舞しながら還る。夫が死んでも再嫁しない。各部ごとに共同で大棚を構え、死者はその上に屍を置き、喪期は三年である。土には金鉄が少なく、多くは高麗に依存する。器には角弓・楛矢があり、人は特に射撃に長ける。毎年蒸し暑い夏には、西の貣勃・次對の二山に保つ。山には草木鳥獣が多いが、飛ぶ蚊に苦しめられるので、巣居して避ける。酋帥が死ぬと、子弟が継ぎ、いなければ豪傑を推して立てる。多くは牛車に乗り、蘧蒢で室を作り、川を渡るときは薪を束ねて筏とし、あるいは皮で舟とする。馬には皆、草の鞍・繩の手綱とくつわを用いる。住居は皮で室を覆うか、木を曲げて蘧蒢で覆い、移徙するときは載せて運ぶ。その家畜には羊がなく馬は少なく、牛はあっても用いず、大きな豕がいてこれを食べ、その皮を韋(なめし皮)にして服や敷物とする。その言語は、靺鞨のものである。

分部は凡そ二十余り:嶺西部・山北部・黃頭部は、強部である。大如者部・小如者部・婆萵部・訥北部・駱丹部は、悉く柳城の東北に処り、近いものは三千里、遠いものは六千里余りである。最西に烏素固部があり、回紇と接し、俱倫泊の西南に当たる。泊より東に移塞沒部がある。稍々東に塞曷支部があり、最強の部で、啜河の陰に居り、また燕支河ともいう。さらに東に和解部・烏羅護部・那禮部・嶺西部がある。真北を訥比支部といい、北に大山があり、山の外を大室韋といい、室建河に臨む。河は俱倫から出て、東へと延びる。河南に蒙瓦部があり、その北に落坦部がある。水は東流して那河・忽汗河と合し、また東へ貫いて黑水靺鞨を通る。故に靺鞨は水を跨いで南北部があり、東へ注いで海となる。峱越河は東南もまた那河と合し、その北に東室韋があり、蓋し烏丸の東南の辺鄙に残った者である。

貞観五年、初めて豊かな貂を貢ぎ、後に再び入朝した。長寿二年に叛き、將軍李多祚が撃って平定した。景龍の初め、また朝献し、突厥討伐を助けんことを請うた。開元・天宝の間、凡そ十回朝献し、大曆の中には十一回あった。貞元四年、奚と共に振武を寇し、節度使唐朝臣が天子の使者を郊外で労っていたところを驚いて軍に走り、室韋は詔使を捕らえ、大いに殺掠して去った。翌年、使者が来て謝罪した。大和の中に三回朝献した。大中の中に一回来朝した。咸通の時、大酋の怛烈が奚と共に使者を京師に遣わしたが、しかし顕著な夷狄の後裔ではなく、史官が伝えることを失った。

靺鞨

黑水靺鞨は肅慎の地に居り、また挹婁ともいい、元魏の時は勿吉といった。京師の東北六千里に直し、東は海に臨み、西は突厥に属し、南は高麗、北は室韋である。離れて数十部となり、酋長は各々自治する。その著しいものは粟末部といい、最も南に居り、太白山に抵り、また徒太山ともいい、高麗と接し、粟末水に依って居る。水源は山の西に発し、北へ流れて它漏河に注ぐ。稍々東北は汨咄部、また次は安居骨部、さらに東は拂涅部、居骨の西北は黑水部、粟末の東は白山部である。部の間の遠いものは三四百里、近いものは二百里である。

白山部は本来高麗に臣従していたが、王師が平壤を取ると、その衆多くは唐に入り、汨咄・安居骨などは皆奔散し、次第に微かになって聞こえなくなり、遺民は迸出して渤海に入った。ただ黑水部だけが完く強く、十六落に分かれ、南北をもって称し、蓋しその居住が最も北方にあるためである。人は勁健で、歩戦に長け、常に他部を悩ますことができた。俗に髪を編み、野豕の牙を綴り、雉の尾を挿して冠の飾りとし、自ら諸部と別れた。性質は忍悍で、射猟に長け、憂い悲しむことがなく、壮を貴び老を賤しむ。住居に室廬はなく、山水に背負って地を坎り、その上に梁木を渡し、土で覆い、丘塚のようである。夏は出て水草に随い、冬は入って処る。溺で顔を洗い、夷狄の中で最も濁穢である。死者は埋め、棺槨はなく、乗っていた馬を殺して祭る。その酋長を大莫拂瞞咄といい、世々相承けて長となる。書契はない。その矢は石鏃で、長さ二寸、蓋し楛砮の遺法である。家畜は豕が多く、牛羊はいない。車馬があり、田は耦で耕し、車は歩いて推す。粟麥がある。土には貂鼠・白兔・白鷹が多い。塩泉があり、気が蒸発して薄く、塩が樹の梢に凝る。

初め、黑水の西北にまた思慕部があり、さらに北へ十日行くと郡利部を得、東北へ十日行くと窟說部を得、また屈設とも号し、稍々東南へ十日行くと莫曳皆部を得、また拂涅・虞婁・越喜・鐵利などの部があった。その地は南は渤海に距り、北・東は海に際し、西は室韋に抵り、南北の長さ二千里、東西千里である。拂涅・鐵利・虞婁・越喜は時々中国と通じたが、郡利・屈設・莫曳皆は自ら通じることができなかった。今、その京師に朝した者を左方に附して存する。

拂涅はまた大拂涅とも称し、開元・天宝の間に八度来朝し、鯨の眼・貂鼠・白兎の皮を献じた。鉄利は開元の間に六度来朝した。越喜は七度来朝し、貞元の間に一度来朝した。虞婁は貞観の間に二度来朝し、貞元の間に一度来朝した。後に渤海が盛んになると、靺鞨は皆これに隷属し、もはや王会に参与しなくなった。

渤海

渤海は、本来は粟末靺鞨で高麗に附いていた者であり、姓は大氏である。高麗が滅びると、衆を率いて挹婁の東牟山を保った。地は営州の東二千里に当たり、南は新羅に接し、泥河を境とし、東は海に至り、西は契丹に接する。城郭を築いて居住し、高麗の逃亡残党が次第に帰附した。

万歳通天年中、契丹の李尽忠が営州都督趙翽を殺して反すると、舍利乞乞仲象という者がおり、靺鞨の酋長乞四比羽及び高麗の残党と共に東走し、遼水を渡り、太白山の東北を保ち、奥婁河に阻まれ、柵を築いて自らを固めた。武后は乞四比羽を許国公に、乞乞仲象を震国公に封じ、その罪を赦した。比羽は命を受けず、后は詔して玉鈐衛大将軍李楷固・中郎将索仇にこれを撃ち斬らせた。この時仲象は既に死んでおり、その子の大祚栄が残った傷病兵を率いて遁走した。楷固は窮追し、天門嶺を越えた。祚栄は高麗・靺鞨の兵を率いて楷固を迎え撃ち、楷固は敗れて還った。ここにおいて契丹は突厥に附き、王師の道は絶え、討つことができなかった。祚栄は即ち比羽の衆を併せ、荒遠の地を恃み、乃ち国を建て、自ら震国王と号し、使者を遣わして突厥と交わり、地方五千里、戸十余万、勝兵数万を有した。頗る書契を知り、扶餘・沃沮・弁韓・朝鮮海北の諸国をことごとく得た。中宗の時、侍御史張行岌を遣わして招慰すると、祚栄は子を入侍させた。睿宗先天年中、使者を遣わして祚栄を左驍衛大将軍・渤海郡王に拝し、その統べる所を忽汗州とし、忽汗州都督を領せしめた。ここより初めて靺鞨の号を去り、専ら渤海と称した。

玄宗開元七年、祚栄が死ぬと、その国は私諡して高王とした。子の武芸が立ち、土宇を拡大し、東北の諸夷は畏れて臣従し、私かに年号を仁安と改めた。帝は典冊を賜い、王を襲封させ、その領する所も同様とした。間もなく、墨水靺鞨の使者が入朝した。帝はその地に黒水州を建て、長史を置いて統轄させた。武芸はその臣下を召して謀りて曰く、「黒水は初め我を仮道して唐と通じ、かつて突厥に吐屯を請うた時も、皆先ず我に告げた。今唐の官を請うて我に告げず、これは必ず唐と腹背より我を攻めんとするものである」と。乃ち弟の門芸及び舅の任雅相に兵を発して黒水を撃たせた。門芸はかつて京師に質していたことがあり、利害を知って、武芸に謂いて曰く、「黒水が官吏を請うているのに我がこれを撃つのは、唐に背くことです。唐は大国であり、兵は我の万倍です。これと怨みを生じれば、我はまさに亡びましょう。昔、高麗が盛んな時、兵三十万で唐に抗して敵と為り、雄強と言うべきでしたが、唐兵が一たび臨めば、掃地の如く尽きてしまいました。今、我が衆は高麗の三分の一に比するのみです。王がこれに違おうとされるのは、なりません」と。武芸は従わなかった。兵が境に至ると、また書を以て固く諫めた。武芸は怒り、従兄の大壹夏を遣わして将を代えさせ、門芸を召し、これを殺そうとした。門藝は懼れ、間道より自ら帰唐した。詔して左驍衛将軍に拝した。武芸は使者を遣わして門芸の罪悪を暴き、これを誅するよう請うた。詔があり、これを安西に処置し、好意的に報じて曰く、「門芸は窮して我に帰したので、情誼上殺すことはできず、既に悪地に投じてある」と。併せて使者を留めて遣わさず、別に詔して鴻臚少卿李道邃・源復に旨を諭させた。武芸はこれを知り、上書して「陛下は妄りに天下に示すべきではない」と斥言し、必ず門芸を殺すことを求めた。帝は道邃・復が国事を漏らしたことを怒り、皆左遷し、而して陽に門芸を斥けることで報いた。

その後十年、武芸は大将張文休を遣わして海賊を率い登州を攻撃させた。帝は急ぎ門芸を遣わし幽州の兵を発してこれを撃たせた。太僕卿金思蘭を新羅に使いさせ、兵を督してその南を攻撃させた。時に大寒に会し、雪が丈余に積もり、兵士の凍死者が半ばを過ぎ、功無くして還った。武芸はその弟を恨みやまず、客を募って東都に入らせ、道中で狙撃刺殺させようとした。門芸がこれを撃退したので、死なずに済んだ。河南が刺客を捕らえ、悉くこれを殺した。

武芸が死ぬと、その国は私諡して武王とした。子の欽茂が立ち、年号を大興と改めた。詔があり王位を嗣ぎ、その領する所も同様とした。欽茂はこれにより境内を赦した。天宝末、欽茂は上京に遷都した。旧国の三百里東、忽汗河の東に当たる。帝(玄宗)の世が終わるまで、朝献すること二十九回。宝応元年、詔して渤海を国とし、欽茂をその王とし、検校太尉に進めた。大曆年中、二十五回来朝し、日本の舞女十一人を朝廷に献じた。貞元の時、東南に遷って東京に都した。欽茂が死ぬと、私諡して文王とした。子の宏臨は早世し、族弟の元義が立ったが一年で、猜疑暴虐であったため、国人がこれを殺した。宏臨の子の華璵を推して王とし、再び上京に還り、年号を中興と改めた。死んで、諡して成王という。

欽茂の少子の嵩鄰が立ち、年号を正暦と改めた。詔があり右驍衛大将軍を授け、王を嗣がせた。建中・貞元の間に凡そ四回来朝した。死んで、諡して康王という。子の元瑜が立ち、年号を永徳と改めた。死んで、諡して定王という。弟の言義が立ち、年号を朱雀と改め、並びに故事に従い王を襲封した。死んで、諡して僖王という。弟の明忠が立ち、年号を太始と改めたが、立って一年で死に、諡して簡王という。従父の仁秀が立ち、年号を建興と改めた。その四世の祖の野勃は、祚栄の弟である。仁秀はよく海北の諸部を討伐し、境宇を大きく開き、功があった。詔して検校司空しくう・王を襲封させた。元和年中、凡そ十六回朝献し、長慶に四回、宝暦に凡そ二回。大和四年、仁秀が死に、諡して宣王という。子の新德は早世し、孫の彝震が立ち、年号を咸和と改めた。明年、詔して爵を襲がせた。文宗の世が終わるまで来朝十二回、会昌に凡そ四回。彝震が死に、弟の虔晃が立った。死んで、玄錫が立った。咸通の時、三回朝献した。

初め、その王は数回諸生を京師の太学に遣わし、古今の制度を習識させた。ここに至って遂に海東の盛国となり、地に五京・十五府・六十二州を有した。肅慎の故地を上京とし、龍泉府と曰い、龍・湖・渤の三州を領した。その南を中京とし、顕徳府と曰い、廬・顕・鉄・湯・栄・興の六州を領した。𧴖貃の故地を東京とし、龍原府と曰い、また柵城府とも曰い、慶・塩・穆・賀の四州を領した。沃沮の故地を南京とし、南海府と曰い、沃・睛・椒の三州を領した。高麗の故地を西京とし、鴨淥府と曰い、神・桓・豊・正の四州を領した。長嶺府と曰い、瑕・河の二州を領した。扶餘の故地を扶餘府とし、常に勁兵を屯して契丹を防ぎ、扶・仙の二州を領した。鄚頡府は鄚・高の二州を領した。挹婁の故地を定理府とし、定・潘の二州を領した。安辺府は安・瓊の二州を領した。率賓の故地を率賓府とし、華・益・建の三州を領した。拂涅の故地を東平府とし、伊・蒙・沱・黒・比の五州を領した。鉄利の故地を鉄利府とし、広・汾・蒲・海・義・帰の六州を領した。越喜の故地を懐遠府とし、達・越・懐・紀・富・美・福・邪・芝の九州を領した。安遠府は寧・郿・慕・常の四州を領した。また郢・銅・涑の三州は独奏州とした。涑州はその近くに涑沫江があるためで、いわゆる粟末水であろう。龍原の東南は海に臨み、日本への道である。南海は新羅への道である。鴨淥は朝貢の道である。長嶺は営州への道である。扶餘は契丹への道である。

俗に王を「可毒夫」といい、「聖王」といい、「基下」という。その命令を「教」という。王の父を「老王」といい、母を「太妃」といい、妻を「貴妃」といい、長子を「副王」といい、諸子を「王子」という。官に宣詔省あり、左相・左平章事・侍中・左常侍・諫議がこれに居る。中台省あり、右相・右平章事・内史・詔誥舍人がこれに居る。政堂省あり、大内相一人、左右相の上に居る。左・右司政各一人、左右平章事の下に居り、僕射に比す。左・右允は二丞に比す。左六司、忠・仁・義部各一卿、司政の下に居り、支司として爵・倉・膳部あり、部に郎中・員外あり。右六司、智・礼・信部、支司として戎・計・水部あり、卿・郎は左に准ず。六官に比す。中正台、大中正一人、御史大夫に比し、司政の下に居る。少正一人。また殿中寺・宗属寺あり、大令あり。文籍院に監あり。令・監には皆少あり。太常・司賓・大農寺、寺に卿あり。司蔵・司膳寺、寺に令・丞あり。胄子監に監長あり。巷伯局に常侍等の官あり。その武員に左右猛賁・熊衛・羆衛、南左右衛、北左右衛あり、各大将軍一人・将軍一人。おおよそ中国の制度を模倣することこの如し。品を以て秩と為し、三秩以上は紫を服し、牙笏・金魚を用う。五秩以上は緋を服し、牙笏・銀魚を用う。六秩・七秩は浅緋衣、八秩は緑衣、皆木笏を用う。

俗に貴ぶものは、太白山の菟、南海の昆布、柵城の豉、扶余の鹿、鄚頡の豕、率賓の馬、顕州の布、沃州の綿、龍州の紬、位城の鉄、廬城の稲、湄沱湖の鯽なり。果物に九都の李、楽遊の梨あり。その他の習俗は高麗・契丹とほぼ等しい。幽州節度府と相聘問し、営州・平州より京師に至るはおよそ八千里の遠きに及ぶ。後に朝貢の至るや否や、史家に伝を失い、故に叛附を考うるに由なし。

賛して曰く、唐の徳は大なるかな。天の覆う所に際し、悉く臣としてこれに属し、海内を薄くし、州県と為らざるはなく、遂に天子を尊んで「天可汗」と曰う。三王以来、これを過ぐるものなし。荒遠の区の君長に至るまで、唐の璽纛を待ちて乃ち国を能くし、一たび賓と為らざれば、随いて輒ち夷縛せらる。故に蛮琛夷宝、踵を相いて廷に逮う。極めて熾にして衰え、その禍は内に移り、天宝の後、区夏は痍破し、王官の戍、北は河を逾えず、西は秦・邠に止まり、陵夷すること百年、亡に逮りて、顧みて痛まざらんや。故に曰く、己を治め人を治むるは、惟だ聖人のみ能く之を為す、と。