契丹
契丹は、もと東胡の種族であり、その祖先は匈奴に撃破され、鮮卑山に保った。魏の青龍年間、部族の酋長比能はやや桀驁で、幽州刺史王雄に殺され、衆は遂に衰微し、潢水の南、黄龍の北に逃れた。元魏に至り、自ら契丹と号す。地は京師の東北五千里余に直し、東は高麗に距り、西は奚、南は営州、北は靺鞨・室韋に接し、冷陘山を阻んで自らを固む。射猟し、居処は常なし。その君は大賀氏、勝兵四万あり、八部に析け、突厥に臣し、俟斤と為す。凡そ調発攻戦するときは、則ち諸部畢会し、猟するときは則ち部ごとに自ら行うことを得。奚と平らかならず、毎たび闘いて利あらず、輒ち遁れて鮮卑山に保つ。風俗は突厥と大抵略侔う。死して墓せず、馬車に屍を載せて山に入り、樹の顛に置く。子孫死すれば、父母旦夕に哭し、父母死すれば則ちせず、亦た喪期なし。
大酋辱紇主曲据また衆を率いて帰し、即ち其の部を玄州と為し、曲据に刺史を拝し、営州都督府に隷す。未だ幾ばくもあらざるに、窟哥部を挙げて内属す。乃ち松漠都督府を置き、窟哥を以て使持節十州諸軍事・松漠都督と為し、無極男に封じ、氏を李と賜う。達稽部を以て峭落州と為し、紇便部を以て弾汗州と為し、独活部を以て無逢州と為し、芬問部を以て羽陵州と為し、突便部を以て日連州と為し、芮奚部を以て徒河州と為し、墜斤部を以て万丹州と為し、伏部を以て匹黎・赤山の二州と為し、俱に松漠府に隷し、即ち辱紇主を以て之が刺史と為す。
窟哥死し、奚と連りて叛く。行軍総管阿史徳枢賓等、松漠都督阿卜固を執りて東都に献ず。窟哥に二孫有り。曰く枯莫離、左衛将軍・弾汗州刺史と為り、帰順郡王に封ぜらる。曰く尽忠、武衛大将軍・松漠都督と為る。而して敖曹に孫有り、曰く万栄、帰誠州刺史と為る。ここにおいて営州都督趙文翽驕遝にして、数たび其の下を侵侮す。尽忠等皆怨望す。万栄は本侍子として入朝し、中国の険易を知り、乱を挟みて疑わず、即ち共に兵を挙げ、文翽を殺し、営州を盗んで反す。尽忠自ら無上可汗と号し、万栄を将と為し、兵を縦して四略し、向かう所輒ち下り、重ねて浹せず、衆数万、妄りに十万と言い、崇州を攻め、討撃副使許欽寂を執る。武后怒り、詔して鷹揚将軍曹仁師・金吾大将軍張玄遇・右武威大将軍李多祚・司農少卿麻仁節等二十八将に之を撃たしむ。梁王武三思を以て榆関道安撫大使と為し、納言姚璹之が副と為す。更に万栄を万斬と号し、尽忠を尽滅と号す。諸将西硤石黄麞谷に戦い、王師敗績し、玄遇・仁節皆虜に禽せらる。平州を進攻すれども克たず。敗書聞こえ、后乃ち右武衛大将軍建安王武攸宜を以て清辺道大総管と為し、契丹を撃たしむ。天下の人奴にして勇有る者を募り、官主直を畀え、悉く発して以て虜を撃たしむ。万栄枚を銜みて夜檀州を襲い、清辺道副総管張九節死士数百を募りて薄戦し、万栄敗れて山に走る。俄にして尽忠死し、突厥の黙啜其の部を襲い破る。万栄散兵を収めて復た振い、別将駱務整・何阿小をして冀州に入らしめ、刺史陸宝積を殺し、数千人を掠む。
武后尽忠の死を聞き、更に詔して夏官尚書王孝傑・羽林衛将軍蘇宏暉に兵十七万を率いて契丹を討たしむ。東硤石に戦い、師敗れ、孝傑之に死す。万栄已が勝に席し、遂に幽州を屠る。攸宜将を遣わして討捕すれども、克つこと能わず。乃ち右金吾衛大将軍河内郡王武懿宗を命じて神兵道大総管と為し、右粛政台御史大夫婁師徳を清辺道大総管と為し、右武威衛大将軍沙吒忠義を清辺中道前軍総管と為し、兵凡そ二十万、賊を撃たしむ。万栄鋭甚だしく、鼓して南し、瀛州の属県を残し、恣肆して憚る所なし。ここにおいて神兵道総管楊玄基奚軍を率いて其の尾を掩い、契丹大敗し、何阿小を獲、別将李楷固・駱務整を降し、仗械を収むること積むが如し。万栄軍を委ねて走り、残隊復た合し、奚と搏つ。奚四面より攻め、乃ち大潰し、万栄左に馳す。張九節三伏を為して之を伺い、万栄窮し、家奴と軽騎にて潞河東に走り、憊ること甚だしく、林下に臥す。奴其の首を斬り、九節之を東都に伝え、余衆潰ゆ。攸宜凱して還り、后喜び、天下を赦し、元を改めて神功と為す。
可突於なる者有り、静析軍副使と為り、悍勇にして衆を得、娑固之を去らんと欲すれども、未だ決せず。可突於反って娑固を攻め、娑固営州に奔る。都督許欽澹州甲五百を以て、奚の君長李大酺の兵と合し、共に可突於を攻む。勝たず、娑固・大酺皆死す。欽澹懼れ、軍を徙して榆関に入る。可突於娑固の従父弟郁于を奉じて君と為し、使者を遣わして謝罪す。詔有りて即ち郁于を松漠郡王に拝し、而して可突於を赦す。郁于来朝し、率更令を授け、宗室の出づる女慕容を以て燕郡公主と為し、之に妻す。可突於も亦来朝し、左羽林衛将軍に擢でらる。郁于死し、弟吐于嗣ぎ、可突於と隙有り、其の下を定むること能わず、公主を携えて来奔し、遼陽郡王に封ぜられ、宿衛に留まる。可突于尽忠の弟邵固を奉じて衆を統べしめ、詔して王を襲うことを許す。天子封禅し、邵固諸蕃の長と皆行在に従う。明年、左羽林衛大将軍を拝し、王を徙めて広化郡と為し、宗室の出づる女陳を以て東華公主と為し、邵固に妻し、詔して其の部酋長百余りを官し、邵固子を以て入侍せしむ。
翌年、可突于が辺境を侵すと、幽州長史薛楚玉・副総管郭英傑・呉克勤・烏知義・羅守忠が万騎を率いて奚と共にこれを撃ち、都山の下で戦った。可突于が突厥兵を率いて来ると、奚は恐れて両端を持し、衆は険阻な地に逃れた。知義・守忠は敗れ、英傑・克勤はこれに死し、唐兵万人が殺された。帝は張守珪を抜擢して幽州長史とし、これを経略させた。守珪は良将であったので、可突于は恐れ、表面上は臣下を請うて次第に西北に趨り突厥に倚った。その衙官李過折は可突于と内に不和であったので、守珪は客の王悔をして密かにこれを誘い、兵で可突于を包囲させると、過折は即夜に可突于・屈烈及びその支党数十人を斬り、自ら帰順した。守珪は過折にその部を統べさせ、可突于等の首を函に収めて東都に伝送させた。過折を北平郡王に拝し、松漠都督とした。可突于の残党が過折を撃ち殺し、その一家を屠った。一子の剌乾は安東に逃れ、左驍衛将軍に拝された。二十五年、守珪が契丹を討ち、再びこれを破った。詔があり、今後戦いに功あれば必ず廟に告げよと。
咸通年中、その王習爾之が再び使者を遣わして入朝し、部落は次第に強盛となった。習爾之が死ぬと、族人の欽徳が嗣いだ。光啓の時、天下に盗賊が興り、北疆に事変多きに乗じ、奚・室韋を掠奪し、小さき部種は皆これを役して服従させ、ついで幽・薊に寇入した。劉仁恭は軍を窮めて摘星山を逾えてこれを討ち、毎年塞下の草を焼き、留まって牧畜することを得ざらしめ、馬多く死んだ。契丹は乃ち盟を乞い、良馬を献じて牧地を求め、仁恭はこれを許した。また約を破って寇入し、劉守光が平州を戍ると、契丹は万騎で侵入した。守光は偽って和し、野外に帳を設けて酒宴を具え、伏兵を発してその大将を擒らえた。群胡慟哭し、馬五千匹を納めて贖わんことを願ったが、許さなかった。欽徳は重賂を輸送してこれを求め、乃ち盟を結び、十年間辺境に近づかなかった。
奚
奚もまた東胡の種であり、匈奴に破られて烏丸山に保った。漢の曹操がその帥蹋頓を斬ったのは、蓋しその後裔である。元魏の時に自ら庫真奚と号し、鮮卑の故地に居り、京師の東北四千里に直す。その地は東北は契丹に接し、西は突厥、南は白狼河、北は霫である。突厥と俗を同じくし、水草を逐って畜牧し、氈廬に居り、車を環らして営と為す。その君長は常に五百人の兵を持って牙中を衛し、余部は山谷の間に散在し、賦入なく、射獵を以て資と為す。稼穡は多く穄であり、収穫後は山下に窖蔵する。木を断ちて臼と為し、瓦鼎を以て飦と為し、寒水を雑えて食す。戦闘を好み、兵に五部あり、部ごとに一俟斤これを主る。その国は西は大洛泊に抵り、回紇の牙より三千里、多くは土護真水に依る。その馬は登攀に優れ、その羊は黒い。盛夏には必ず冷陘山に徙って保ち、この山は媯州の西北に直す。隋に至って初めて「庫真」を去り、ただ奚と曰う。
長くして、契丹の可突於が反逆し、奚の衆を脅迫して共に突厥に附した。魯蘇はこれを制することができず、榆關に奔り、公主は平廬に奔った。幽州長史趙含章が清夷軍を発して討ち破り、衆は次第に自ら帰順した。翌年、信安王李禕がその酋長李詩鎖高等の部落五千帳を降伏させ、その地を歸義州とし、これにより李詩を王とし、左羽林軍大將軍・本州都督に拝し、帛十万を賜い、その部を幽州の辺りに置いた。
李詩が死ぬと、子の延寵が嗣ぎ、契丹とまた叛き、幽州の張守珪に困らされた。延寵が降伏すると、再び饒樂都督・懷信王に拝し、宗室の出女楊を宜芳公主として彼に娶せた。延寵は公主を殺してまた叛き、詔して他の酋長婆固を立てて昭信王・饒樂都督とし、その部を安定させた。安祿山が范陽の節度使となると、辺境の戦功を偽り、しばしば激戦し、捕虜を飾って献上し、その君長李日越を誅し、捕虜の中の驍壮な者を選んで雲南に戍らせた。帝の世の終わりまで、合わせて八回朝献し、至徳・大曆の間には十二回あった。
この後、契丹が盛んとなり、奚はこれに抗することができず、挙部してその支配に服属した。虜(契丹)の政が苛酷であったので、奚はこれを怨み、その酋長去諸が別部を率いて内附し、媯州の北山を保ち、遂に東奚・西奚となった。
室韋
分部は凡そ二十余り:嶺西部・山北部・黃頭部は、強部である。大如者部・小如者部・婆萵部・訥北部・駱丹部は、悉く柳城の東北に処り、近いものは三千里、遠いものは六千里余りである。最西に烏素固部があり、回紇と接し、俱倫泊の西南に当たる。泊より東に移塞沒部がある。稍々東に塞曷支部があり、最強の部で、啜河の陰に居り、また燕支河ともいう。さらに東に和解部・烏羅護部・那禮部・嶺西部がある。真北を訥比支部といい、北に大山があり、山の外を大室韋といい、室建河に臨む。河は俱倫から出て、東へと延びる。河南に蒙瓦部があり、その北に落坦部がある。水は東流して那河・忽汗河と合し、また東へ貫いて黑水靺鞨を通る。故に靺鞨は水を跨いで南北部があり、東へ注いで海となる。峱越河は東南もまた那河と合し、その北に東室韋があり、蓋し烏丸の東南の辺鄙に残った者である。
靺鞨
黑水靺鞨は肅慎の地に居り、また挹婁ともいい、元魏の時は勿吉といった。京師の東北六千里に直し、東は海に臨み、西は突厥に属し、南は高麗、北は室韋である。離れて数十部となり、酋長は各々自治する。その著しいものは粟末部といい、最も南に居り、太白山に抵り、また徒太山ともいい、高麗と接し、粟末水に依って居る。水源は山の西に発し、北へ流れて它漏河に注ぐ。稍々東北は汨咄部、また次は安居骨部、さらに東は拂涅部、居骨の西北は黑水部、粟末の東は白山部である。部の間の遠いものは三四百里、近いものは二百里である。
白山部は本来高麗に臣従していたが、王師が平壤を取ると、その衆多くは唐に入り、汨咄・安居骨などは皆奔散し、次第に微かになって聞こえなくなり、遺民は迸出して渤海に入った。ただ黑水部だけが完く強く、十六落に分かれ、南北をもって称し、蓋しその居住が最も北方にあるためである。人は勁健で、歩戦に長け、常に他部を悩ますことができた。俗に髪を編み、野豕の牙を綴り、雉の尾を挿して冠の飾りとし、自ら諸部と別れた。性質は忍悍で、射猟に長け、憂い悲しむことがなく、壮を貴び老を賤しむ。住居に室廬はなく、山水に背負って地を坎り、その上に梁木を渡し、土で覆い、丘塚のようである。夏は出て水草に随い、冬は入って処る。溺で顔を洗い、夷狄の中で最も濁穢である。死者は埋め、棺槨はなく、乗っていた馬を殺して祭る。その酋長を大莫拂瞞咄といい、世々相承けて長となる。書契はない。その矢は石鏃で、長さ二寸、蓋し楛砮の遺法である。家畜は豕が多く、牛羊はいない。車馬があり、田は耦で耕し、車は歩いて推す。粟麥がある。土には貂鼠・白兔・白鷹が多い。塩泉があり、気が蒸発して薄く、塩が樹の梢に凝る。
初め、黑水の西北にまた思慕部があり、さらに北へ十日行くと郡利部を得、東北へ十日行くと窟說部を得、また屈設とも号し、稍々東南へ十日行くと莫曳皆部を得、また拂涅・虞婁・越喜・鐵利などの部があった。その地は南は渤海に距り、北・東は海に際し、西は室韋に抵り、南北の長さ二千里、東西千里である。拂涅・鐵利・虞婁・越喜は時々中国と通じたが、郡利・屈設・莫曳皆は自ら通じることができなかった。今、その京師に朝した者を左方に附して存する。
拂涅はまた大拂涅とも称し、開元・天宝の間に八度来朝し、鯨の眼・貂鼠・白兎の皮を献じた。鉄利は開元の間に六度来朝した。越喜は七度来朝し、貞元の間に一度来朝した。虞婁は貞観の間に二度来朝し、貞元の間に一度来朝した。後に渤海が盛んになると、靺鞨は皆これに隷属し、もはや王会に参与しなくなった。
渤海
渤海は、本来は粟末靺鞨で高麗に附いていた者であり、姓は大氏である。高麗が滅びると、衆を率いて挹婁の東牟山を保った。地は営州の東二千里に当たり、南は新羅に接し、泥河を境とし、東は海に至り、西は契丹に接する。城郭を築いて居住し、高麗の逃亡残党が次第に帰附した。
万歳通天年中、契丹の李尽忠が営州都督趙翽を殺して反すると、舍利乞乞仲象という者がおり、靺鞨の酋長乞四比羽及び高麗の残党と共に東走し、遼水を渡り、太白山の東北を保ち、奥婁河に阻まれ、柵を築いて自らを固めた。武后は乞四比羽を許国公に、乞乞仲象を震国公に封じ、その罪を赦した。比羽は命を受けず、后は詔して玉鈐衛大将軍李楷固・中郎将索仇にこれを撃ち斬らせた。この時仲象は既に死んでおり、その子の大祚栄が残った傷病兵を率いて遁走した。楷固は窮追し、天門嶺を越えた。祚栄は高麗・靺鞨の兵を率いて楷固を迎え撃ち、楷固は敗れて還った。ここにおいて契丹は突厥に附き、王師の道は絶え、討つことができなかった。祚栄は即ち比羽の衆を併せ、荒遠の地を恃み、乃ち国を建て、自ら震国王と号し、使者を遣わして突厥と交わり、地方五千里、戸十余万、勝兵数万を有した。頗る書契を知り、扶餘・沃沮・弁韓・朝鮮海北の諸国をことごとく得た。中宗の時、侍御史張行岌を遣わして招慰すると、祚栄は子を入侍させた。睿宗先天年中、使者を遣わして祚栄を左驍衛大将軍・渤海郡王に拝し、その統べる所を忽汗州とし、忽汗州都督を領せしめた。ここより初めて靺鞨の号を去り、専ら渤海と称した。
玄宗開元七年、祚栄が死ぬと、その国は私諡して高王とした。子の武芸が立ち、土宇を拡大し、東北の諸夷は畏れて臣従し、私かに年号を仁安と改めた。帝は典冊を賜い、王を襲封させ、その領する所も同様とした。間もなく、墨水靺鞨の使者が入朝した。帝はその地に黒水州を建て、長史を置いて統轄させた。武芸はその臣下を召して謀りて曰く、「黒水は初め我を仮道して唐と通じ、かつて突厥に吐屯を請うた時も、皆先ず我に告げた。今唐の官を請うて我に告げず、これは必ず唐と腹背より我を攻めんとするものである」と。乃ち弟の門芸及び舅の任雅相に兵を発して黒水を撃たせた。門芸はかつて京師に質していたことがあり、利害を知って、武芸に謂いて曰く、「黒水が官吏を請うているのに我がこれを撃つのは、唐に背くことです。唐は大国であり、兵は我の万倍です。これと怨みを生じれば、我はまさに亡びましょう。昔、高麗が盛んな時、兵三十万で唐に抗して敵と為り、雄強と言うべきでしたが、唐兵が一たび臨めば、掃地の如く尽きてしまいました。今、我が衆は高麗の三分の一に比するのみです。王がこれに違おうとされるのは、なりません」と。武芸は従わなかった。兵が境に至ると、また書を以て固く諫めた。武芸は怒り、従兄の大壹夏を遣わして将を代えさせ、門芸を召し、これを殺そうとした。門藝は懼れ、間道より自ら帰唐した。詔して左驍衛将軍に拝した。武芸は使者を遣わして門芸の罪悪を暴き、これを誅するよう請うた。詔があり、これを安西に処置し、好意的に報じて曰く、「門芸は窮して我に帰したので、情誼上殺すことはできず、既に悪地に投じてある」と。併せて使者を留めて遣わさず、別に詔して鴻臚少卿李道邃・源復に旨を諭させた。武芸はこれを知り、上書して「陛下は妄りに天下に示すべきではない」と斥言し、必ず門芸を殺すことを求めた。帝は道邃・復が国事を漏らしたことを怒り、皆左遷し、而して陽に門芸を斥けることで報いた。
その後十年、武芸は大将張文休を遣わして海賊を率い登州を攻撃させた。帝は急ぎ門芸を遣わし幽州の兵を発してこれを撃たせた。太僕卿金思蘭を新羅に使いさせ、兵を督してその南を攻撃させた。時に大寒に会し、雪が丈余に積もり、兵士の凍死者が半ばを過ぎ、功無くして還った。武芸はその弟を恨みやまず、客を募って東都に入らせ、道中で狙撃刺殺させようとした。門芸がこれを撃退したので、死なずに済んだ。河南が刺客を捕らえ、悉くこれを殺した。
欽茂の少子の嵩鄰が立ち、年号を正暦と改めた。詔があり右驍衛大将軍を授け、王を嗣がせた。建中・貞元の間に凡そ四回来朝した。死んで、諡して康王という。子の元瑜が立ち、年号を永徳と改めた。死んで、諡して定王という。弟の言義が立ち、年号を朱雀と改め、並びに故事に従い王を襲封した。死んで、諡して僖王という。弟の明忠が立ち、年号を太始と改めたが、立って一年で死に、諡して簡王という。従父の仁秀が立ち、年号を建興と改めた。その四世の祖の野勃は、祚栄の弟である。仁秀はよく海北の諸部を討伐し、境宇を大きく開き、功があった。詔して検校司空・王を襲封させた。元和年中、凡そ十六回朝献し、長慶に四回、宝暦に凡そ二回。大和四年、仁秀が死に、諡して宣王という。子の新德は早世し、孫の彝震が立ち、年号を咸和と改めた。明年、詔して爵を襲がせた。文宗の世が終わるまで来朝十二回、会昌に凡そ四回。彝震が死に、弟の虔晃が立った。死んで、玄錫が立った。咸通の時、三回朝献した。
初め、その王は数回諸生を京師の太学に遣わし、古今の制度を習識させた。ここに至って遂に海東の盛国となり、地に五京・十五府・六十二州を有した。肅慎の故地を上京とし、龍泉府と曰い、龍・湖・渤の三州を領した。その南を中京とし、顕徳府と曰い、廬・顕・鉄・湯・栄・興の六州を領した。𧴖貃の故地を東京とし、龍原府と曰い、また柵城府とも曰い、慶・塩・穆・賀の四州を領した。沃沮の故地を南京とし、南海府と曰い、沃・睛・椒の三州を領した。高麗の故地を西京とし、鴨淥府と曰い、神・桓・豊・正の四州を領した。長嶺府と曰い、瑕・河の二州を領した。扶餘の故地を扶餘府とし、常に勁兵を屯して契丹を防ぎ、扶・仙の二州を領した。鄚頡府は鄚・高の二州を領した。挹婁の故地を定理府とし、定・潘の二州を領した。安辺府は安・瓊の二州を領した。率賓の故地を率賓府とし、華・益・建の三州を領した。拂涅の故地を東平府とし、伊・蒙・沱・黒・比の五州を領した。鉄利の故地を鉄利府とし、広・汾・蒲・海・義・帰の六州を領した。越喜の故地を懐遠府とし、達・越・懐・紀・富・美・福・邪・芝の九州を領した。安遠府は寧・郿・慕・常の四州を領した。また郢・銅・涑の三州は独奏州とした。涑州はその近くに涑沫江があるためで、いわゆる粟末水であろう。龍原の東南は海に臨み、日本への道である。南海は新羅への道である。鴨淥は朝貢の道である。長嶺は営州への道である。扶餘は契丹への道である。
俗に王を「可毒夫」といい、「聖王」といい、「基下」という。その命令を「教」という。王の父を「老王」といい、母を「太妃」といい、妻を「貴妃」といい、長子を「副王」といい、諸子を「王子」という。官に宣詔省あり、左相・左平章事・侍中・左常侍・諫議がこれに居る。中台省あり、右相・右平章事・内史・詔誥舍人がこれに居る。政堂省あり、大内相一人、左右相の上に居る。左・右司政各一人、左右平章事の下に居り、僕射に比す。左・右允は二丞に比す。左六司、忠・仁・義部各一卿、司政の下に居り、支司として爵・倉・膳部あり、部に郎中・員外あり。右六司、智・礼・信部、支司として戎・計・水部あり、卿・郎は左に准ず。六官に比す。中正台、大中正一人、御史大夫に比し、司政の下に居る。少正一人。また殿中寺・宗属寺あり、大令あり。文籍院に監あり。令・監には皆少あり。太常・司賓・大農寺、寺に卿あり。司蔵・司膳寺、寺に令・丞あり。胄子監に監長あり。巷伯局に常侍等の官あり。その武員に左右猛賁・熊衛・羆衛、南左右衛、北左右衛あり、各大将軍一人・将軍一人。おおよそ中国の制度を模倣することこの如し。品を以て秩と為し、三秩以上は紫を服し、牙笏・金魚を用う。五秩以上は緋を服し、牙笏・銀魚を用う。六秩・七秩は浅緋衣、八秩は緑衣、皆木笏を用う。
俗に貴ぶものは、太白山の菟、南海の昆布、柵城の豉、扶余の鹿、鄚頡の豕、率賓の馬、顕州の布、沃州の綿、龍州の紬、位城の鉄、廬城の稲、湄沱湖の鯽なり。果物に九都の李、楽遊の梨あり。その他の習俗は高麗・契丹とほぼ等しい。幽州節度府と相聘問し、営州・平州より京師に至るはおよそ八千里の遠きに及ぶ。後に朝貢の至るや否や、史家に伝を失い、故に叛附を考うるに由なし。
賛して曰く、唐の徳は大なるかな。天の覆う所に際し、悉く臣としてこれに属し、海内を薄くし、州県と為らざるはなく、遂に天子を尊んで「天可汗」と曰う。三王以来、これを過ぐるものなし。荒遠の区の君長に至るまで、唐の璽纛を待ちて乃ち国を能くし、一たび賓と為らざれば、随いて輒ち夷縛せらる。故に蛮琛夷宝、踵を相いて廷に逮う。極めて熾にして衰え、その禍は内に移り、天宝の後、区夏は痍破し、王官の戍、北は河を逾えず、西は秦・邠に止まり、陵夷すること百年、亡に逮りて、顧みて痛まざらんや。故に曰く、己を治め人を治むるは、惟だ聖人のみ能く之を為す、と。