新唐書

巻二百一十八 列傳第一百四十三 沙陀

沙陀は、西突厥の別部たる処月種なり。初め、突厥は東西に分かれて烏孫の故地を治め、処月・処蜜と雑居す。貞観七年、太宗は鼓纛を以て利邲咄陸可汗を立てしが、族人の歩真は望みを欠き、その弟の彌射を併せて自ら立たんと謀る。彌射は懼れ、処月等を率いて入朝す。而して歩真は勢い窮まり、亦た国に帰す。其の留まる者は、咄陸は射匱特勒劫越の子の賀魯を以てこれを統ぶ。

西突厥は次第に強盛となり、内に相攻ち、其の大酋たる乙毗咄陸可汗は廷を鏃曷山の西に建て、北庭と号し、而して処月等はまたこれに隷属す。処月は金娑山の陽、蒲類の東に居り、大磧あり、沙陀と名づく、故に沙陀突厥と号すという。

咄陸は伊州を寇し、二部の兵を引きて天山を囲む。安西都護の郭孝恪これを撃ち走らせ、処月俟斤の城を抜く。後に乙毗可汗敗れ、吐火羅に奔る。賀魯来降し、詔して瑤池都督ととくに拝し、其の部を庭州の莫賀城に徙す。処月の朱邪闕俟斤阿厥もまた内属を請う。

永徽初め、賀魯反し、而して朱邪孤註もまた招慰使を殺して連和し、兵を引きて牢山を拠る。ここにおいて射脾俟斤沙陀那速は従わず、高宗は賀魯の領する所を以てこれを授く。明年、弓月道総管の梁建方・契何力、兵を引きて孤註を斬り、九千人を俘う。また明年、瑤池都督府を廃し、即ち処月の地に金満・沙陀の二州を置き、皆都督を領せしむ。賀魯亡び、安撫大使の阿史那彌射、伊麗水に次ぐに及び、処月来帰す。乃ち昆陵都護府を置き、咄陸部を統べ、彌射を都護とす。

龍朔初め、処月の酋長たる沙陀金山をして武衛将軍の薛仁貴に従いて鉄勒を討たしめ、墨離軍討撃使を授く。長安ちょうあん二年、金満州都督に進み、累ねて張掖郡公に封ぜらる。金山死し、子の輔国嗣ぐ。先天初め、吐蕃を避け、部を北庭に徙し、其の下を率いて入朝す。開元二年、再び金満州都督を領し、其の母の鼠尼施を鄯国夫人に封ず。輔国は累ねて爵を永寿郡王とす。死し、子の骨咄支嗣ぐ。

天宝初め、回紇内附し、骨咄支を以て回紇副都護を兼ねしむ。肅宗に従い安禄山を平ぐるに及び、特進・ぎょう衛上将軍を拝す。死し、子の尽忠嗣ぎ、累ねて金吾衛大将軍・酒泉県公に遷る。至徳・宝応の間、中国に事多く、北庭・西州は閉ざして通ぜず、朝奏使は皆回紇より道を出づ。而して虜は多く漁擷し、特にこれを苦しむ。沙陀の北庭に倚る者といえども、亦た其の暴斂に困す。

貞元中、沙陀部七千帳、吐蕃に附き、これと共に北庭を寇し、これを陥す。吐蕃は其の部を甘州に徙し、尽忠を軍大論とす。吐蕃辺を寇するに、常に沙陀を前鋒とす。

久しくして、回鶻涼州を取り、吐蕃は尽忠が両端を持つを疑い、沙陀を河外に徙さんと議す。挙部愁恐す。尽忠と朱邪執宜謀りて曰く、「我が世々唐臣たり、不幸にして汚れに陥る。今若し蕭関に走りて自ら帰せば、絶種に愈れることあらざらんや」。尽忠曰く「善し」。元和三年、悉く衆三万落をして烏徳山に循いて東す。吐蕃これを追う。行きて且つ戦い、洮水の傍、石門を奏し、転闘して解けず、部衆略く尽き、尽忠これに死す。執宜は瘢傷を裒め、士裁二千、騎七百、雑畜橐它千計、霊州の塞に款く。節度使の範希朝これを聞す。詔して其の部を塩州に処し、陰山府を置き、執宜を以て府兵馬使とす。沙陀は素より健闘なり、希朝はこれをもって虜を捍がんと欲し、牛羊を市い、畜牧を広め、これを休養す。其の童耄にして鳳翔・興元・太原の道より帰る者は、皆その部に還す。尽忠の弟の葛勒阿波、残部七百を率いて振武を叩きて降り、左武衛大将軍を授け、陰山府都督を兼ぬ。

執宜長安に朝し、金幣袍馬万計を賜い、特進・金吾衛将軍を授く。然れども議者は霊武は吐蕃に迫り、後に反覆して変を生ずるを恐れ、又辺に濱り、口を益せば則ち食の価翔る。頃にして、希朝太原に鎮す。因りて詔して沙陀に挙軍してこれに従わしむ。希朝は乃ち其の勁騎千二百を料り、沙陀軍と号し、軍使を置き、而して余衆を定襄川に処す。執宜は乃ち神武川の黄花堆を保ち、更に陰山北沙陀と号す。是の時、天子鎮州を伐つ。執宜は軍七百を以て前鋒たり、王承宗の衆数万、木刀溝に伏し、執宜と遇い、飛矢雨の如く集る。執宜は軍を提げて横に賊陣を貫き鏖闘し、李光顔等これに乗じ、首級一万を斬る。鎮兵解け、蔚州刺史に進む。王鍔太原を節度し、言を建てて曰く、「朱邪の族孳熾にして、北川に散居す。野心を啓くを恐る。願わくは其の族を析きて諸州に隷せしめ、勢い分かれて弱きに易からん」。遂に十府を建てて沙陀を処す。八年、回鶻磧を過ぎて南し、西城・柳谷を取り、詔して執宜に天徳に屯せしむ。明年、呉元済を伐ち、又詔して執宜を李光顔に隷せしめ、蔡人を時曲に破り、凌雲柵を抜く。元済平ぎ、検校刑部尚書を授くも、猶光顔の軍に隷す。長慶初め、鎮州を伐ち、悉く沙陀を発し、易定軍と掎角し、賊を深州に破る。執宜入朝し、宿衛に留め、金吾衛将軍を拝す。大和中、柳公綽河東を領し、奏して陘北の沙陀は素より九姓・六州の畏るる所なりとし、執宜に委ねて雲・朔の塞下の廃府十一を治めしめ、部人三千を料りて北辺を禦えしめ、代北行営と号し、執宜に陰山府都督・代北行営招撫使を授け、河東節度に隷せしむ。

執宜死し、子の赤心嗣ぐ。開成四年、回鶻径に磧口よりして、榆林塞に抵る。宰相の掘羅勿、良馬三百を以て赤心に遺し、共に彰信可汗を攻めんことを約す。可汗死し、節度使の劉沔、沙陀を以て回鶻を殺胡山に撃つ。久しくして、潞を伐ち、劉稹を誅す。詔して赤心に代北の騎軍三千を率いしめ、石雄に隷して前軍と為し、石会関を破り、王宰を助けて天井を下し、太原軍と合し、榆社に次ぎ、監軍使の呂義忠と楊弁を禽す。潞州平ぎ、朔州刺史に遷り、仍って代北軍使と為す。

大中初め、吐蕃党項及び回鶻の残衆を合わせて河西を寇す。太原の王宰、代北の諸軍を統べて進討す。沙陀は常に深入し、諸軍に冠たり。赤心の向かう所、虜は輒ち披靡し、曰く「吾れ赤馬将軍の火の頭上に生ずるを見る」と。初め、沙陀は吐蕃に臣す。其の左は老い右は壮にして、男女を混じ、略々これと同じ。而して馳射趫悍はこれを過ぐ。虜は其の兵に倚り、常に辺を苦しむ。及んで国に帰すに及び、吐蕃はここより亦た衰う。宣宗既に三州・七関を復し、西戍を征するは皆罷む。乃ち赤心を蔚州刺史・雲州守捉使に遷す。

龐勛の乱に際し、詔により義成軍の康承訓を行營招討使とし、赤心は突騎三千を率いて従軍した。承訓の軍が渙水を渡り、伏兵に遭い、包囲の中に陥って危うく滅びんとした時、赤心は騎兵五百でこれを救い出した。龐勛が速戦を望み、八万の兵で短兵相接する中、赤心は精鋭の騎兵を率いて賊陣に突入し、官軍と挟撃してこれを破った。その弟の赤衰は千騎を率いて亳州の東でこれを追撃した。龐勛が平定されると、大同軍節度使に進み、李の姓を賜り、名を国昌とし、鄭王の属籍に預かり、親仁里に甲第を賜った。回鶻が榆林を叩き、霊州・塩州を擾乱したため、詔して国昌を鄜延節度使とした。また天徳を寇したため、節度使を振武に移し、検校司徒しとに進んだ。王仙芝が荊州・襄州を陥落させると、朝廷は諸州の兵を発して討捕させ、国昌は劉遷に雲中の突騎を統率させて賊を追撃させ、数度功を立てた。

乾符三年、段文楚が代北水陸発運使・雲州防禦使となった。この時は凶年であり、文楚が用度を削減したため、下々は皆怨んだ。辺境の将校である程懐信・王行審・蓋寓・李存璋・薛鉄山・康君立らが集まって議して言うには、「世は多難であり、丈夫たる者は隙間に投じて功を立てるべきである。段公は儒者であり、共に計を立てるのは難しい。沙陀は雄勁であり、李振武父子の勇は諸軍に冠たるものがある。我らが彼らを推戴すれば、応じない者はなく、代北は唾手のうちに平定できよう。富貴を拾い取るのはどうか。」皆が言うには、「善いことだ。」そこで夜に国昌の子で雲中守捉使の克用を訪ねて言うには、「凶年で食糧が削減され、我らは餓死するに忍びない。公の家は威徳が著しく聞こえております。どうか虐げる師帥を誅し、部内を安んじてください。」克用はこれを許し、兵士一万人を募り、雲州へ向かい、闘鶏台に駐屯した。城中で文楚を捕らえて来て、これを殺した。州を占拠して上聞し、共に克用を大同防禦留後とするよう請願した。朝廷は許さず、諸道の兵を発して進軍捕縛させたが、諸道はあまり力を入れず、黄巢がちょうど江を渡って北上していたため、朝廷は制することができないと判断し、ついにこれを赦し、国昌を大同軍防禦使とした。国昌は命を受けず、詔して河東節度使崔彦昭・幽州の張公素に共同でこれを撃たせたが、功がなかった。

国昌が党項と戦い、決着がつかないうちに、大同川の吐渾赫連鐸が振武を襲撃し、その資財・器械をことごとく奪い取った。国昌は窮し、騎兵五百を率いて雲州に戻ったが、州は受け入れず、鐸はついに雲州を取った。克用は蔚州・朔州の間を転々とし、兵をかき集めてわずか三千、新城に屯した。鐸は一万の兵を率いてこれを包囲し、坑道を掘って攻撃したが、三日経っても陥落せず、鐸の兵は殺傷が甚だしかった。国昌が蔚州から来ると、鐸は兵を引いて去った。僖宗は鐸に大同節度使を領させ、国昌討伐を委ねた。六年、詔して昭義軍の李鈞を北面招討使とし、潞州・太原の兵を督いて代州に屯させた。幽州の李可挙が赫連鐸と会して蔚州を攻めると、国昌は一隊をもってこれに当たった。克用は兵を分けて遮虜城に至り李鈞を拒んだ。天は大雪となり、兵士は倒れ、李鈞の兵衆は潰走し、代州に戻ったが、軍はついに乱れ、李鈞は兵乱の中で死んだ。広明元年、李琢を蔚朔招討都統とし、数万の兵を率いて代州に屯させた。克用は傅文達を使者として蔚州・朔州の兵を徴発させようとしたが、朔州刺史高文集がこれを縛って李琢に送った。李琢が蔚州を攻撃すると、国昌は敗れ、克用と共に一族を挙げて達靼に奔った。赫連鐸は密かにその酋長に命じて克用らを図らせた。克用はその計略を知り、豪傑を集めた大会で馳射を行い、百歩外の針の先ほどの木の葉にも必ず中て、部族の者は大いに驚いた。そこで声をあげて言うには、「今、黄巢が北に寇して中原の患いとなっている。一日でも天子が我らを赦し給うならば、公らと共に南に向かって天下を定めたいものだ。どうして砂漠で老い終われるものか。」達靼は彼らが留まらないことを知り、やめた。

黄巢が潼関を攻め、京師に入ると、詔して河東監軍陳景思に代北の軍を発させた。時に沙陀都督李友金は興唐軍に屯し、薩葛の首領米海万・安慶都督史敬存は感義軍に屯し、克用は塞下に客居し、数千の兵衆は所属するところがなかった。景思は天子が西に去ったと聞き、李友金と共に騎兵五千を選んで絳州に入り居ったが、兵士が勝手に庫蔵を掠奪して私物とした。代州に戻り、さらに兵士三万を募り、崞県の西に屯したが、兵士は喧騒で勝手気ままであり、友金は制することができず、謀って言うには、「今、大衆を集めながら、威名ある宿将を得なければ、功を立てることはできない。我が兄の司徒父子は、才があり雄にして、衆人の推畏するところである。以前朝廷に罪を得て、北部に僑居して守り、敢えて還らなかった。今もし彼らを召し寄せて兵を将わせれば、代北の豪傑は一呼のもとに集まり、行伍を整え、鼓を鳴らして南進すれば、賊を平定するに足りない。」景思は言う、「善いことだ。」そこで国昌を赦すよう請願し、賊を討って罪を贖わせた。詔があり、克用を代州刺史・忻代兵馬留後に任じ、本軍を促して賊を討たせた。克用は達靼一万人を募り、代州へ向かい、南に進んで太原を通ろうとした。節度使鄭従讜が石嶺関を塞いだため、前進できず、克用は別の道から太原に至り、城下に五日間営し、糧食・資財を要求したが、従讜は応じなかった。そこで大いに略奪し、代州に戻って屯した。

中和二年、蔚州刺史蘇祐が赫連鐸の兵と会して代州を攻めようとした。克用は騎兵五百を率いて先に蔚州を襲い、これを陥落させた。蘇祐は美女谷に屯した。赫連鐸と幽州の李可挙が兵衆七万で蔚州を攻め、柵を連ねて相属した。克用は直ちに敵営を衝き、蔚州に入り、府庫を焼き、放棄して去り、雁門に屯した。国昌は達靼から兵を率いて代州に帰った。汾州・へい州・楼煩を擾乱し、鎧を脱がなかった。帝は詔して克用に軍を朔州に還らせた。

ここにおいて義武節度使王処存・河中節度使王重栄が詔を伝えて克用を招き、共に黄巢を討たせた。克用は喜び、直ちに雁門で大閲兵を行い、忻州・代州・蔚州・朔州・達靼の兵衆三万・騎兵五千を得て南進した。ここにおいて国昌は代州を守った。鄭従讜は仮道を許さず、克用の軍は太原に迫って営し、幣帛と馬を従讜に贈り、自ら数騎を従えて呼びかけた、「私は西に向かおうとしている。公と一言話したい。」従讜は城壁に登って慰労激励し、貨幣と食糧を贈った。克用はついに陰地から晋州へ向かい、河中で合流した。帝はこれを聞き、克用を雁門節度使・神策天寧軍鎮遏使・忻代観察使に抜擢した。翌年、宰相王鐸が承制して、克用を東北面行営都統に任じ、河東監軍陳景思を監軍使とした。克用は弟の克脩に彀騎五百を率いさせて河を渡らせ、克用は自ら夏陽から渡河し、薛阿檀を留めて津口を扼させ、同州に次ぎ、乾坑に壁し、賊と梁田坡で戦い、これを破った。進んで渭橋に壁し、ついに京師を回復した。功は第一であり、同中書門下平章事・隴西郡公に進んだ。国昌は代北軍節度使となった。間もなく、克用に河東節度使を領させた。

黄巢が秦宗権と合流して河南を寇した。四年、克用は河東・代北の兵を率いて沢州・潞州から天井関を下ろうとしたが、河陽の諸葛爽が井戸を埋めて拒んだため、克用はついに河中から渡河し、許州へ向かい、徐州・汴州の兵と合流して太康で尚譲を破った。西華で戦い、またこれを破った。賊は逃走し、河南は平定された。敗走する賊を曹州まで追撃し、戻る途中汴州を通った。朱全忠がこれを招待し、克用は兵を郊外に留め、上源館に入って宿泊した。夜、帳中で酒宴が催され、全忠自ら饗応を助け、珍宝を進上し、手を握ってねんごろに労った。この時、全忠は克用が傑出して邁進し制し難いことを忌み、車を連ねて外を囲み、兵を道の左右に陳列させた。克用は酔っていた。そこで館を攻撃し、下が防戦した。親将の郭景銖が燭を消して克用を支え、落ち着いて告げたが、まだ酒に酔っており、弓を引いて射た。ちょうど煙が四方から湧き起こり、雷鳴が激しく轟いた。克用は薛誌勤らと共に苦労して南譙門に登り、縄で降りて営に逃げ帰った。部下の死者は数百人に上り、得た賊の乗輿や物は全て失った。克用は兵衆を整えて太原に帰り、さらに兵を訓練し、仇を報いようとし、弟の克勤に一万騎を率いさせて河中に屯させ、ついに朱全忠を撃つことを請願した。使者は八度往復し、内外は震恐した。帝は内謁者を遣わして慰撫し和解させた。まもなく位を進めて検校太傅・隴西郡王とした。

光啓元年、幽州の李可挙と鎮州の王景崇が言うには、「易定はもと燕・趙の境であり、これを取って分かち合いたい」と。そこで可挙は易州を攻めてこれを陥れ、景崇は無極を攻めた。易定節度使王処存が克用に救援を求め、克用は自ら将兵を率いて無極を救い、鎮兵を破り、馬頭を攻め、新城を固めた。鎮兵は逃走し、処存は再び易州を奪回した。鳳翔の李昌符と邠寧の朱玫は全忠と連合し、観軍容使田令孜は克用と王重栄が合するのを憎み、建言して言うには、「近輔に処すべからず、王処存を河中に授け、重栄を易定に移せば、克用は孤立するであろう」と。帝はこれに従った。重栄がこれを告げると、克用は怒って言うには、「私は公と共に鼓を提げて汜水関を出て全忠を誅し、戻って穴鼠を殲滅しよう」と。重栄は計略を述べて言うには、「公の兵が朝に関を出れば、邠・岐の兵は夕に我が堞に迫るでしょう。まず邠・岐を治めることを願います」と。克用はそこで上表して言うには、「朱玫・李昌符が全忠と連なり乱を為す。兵十五万を以て河を渡り二豎を梟し、その後汴を平らげて大恥を雪ぎたい。願わくは陛下は戒厳し、賊に動揺せられぬように」と。帝は使者を遣わして慰撫し制止したが、使者は背中合わせに見えるほどであった。克用は詔を奉じず、朱玫もまた邠・鳳の兵を率いて沙苑に営した。克用が薄戦すると、朱玫は敗れ、夜に逃走した。克用は河中に還り、天子は鳳翔へ向かって出奔し、途中で兵が来ると伝えられ、即座に宝鶏へ向かった。克用と重栄は連名で上奏し、還宮を請い、兵を留めて京師を衛らせ、即座に鎮に還ることを願った。帝は懼れ、大散関へ走り、興元に駐った。克用は引き帰った。嗣襄王李煴の偽詔が太原に至ると、克用はこれを焼き、その使者を捕らえ、間道より興元に表を奉った。初め朝廷は朱玫が克用と結んで乗輿を迫ったと思っていたが、表が至ると群臣に示し、そこで山南諸鎮に伝え知らせたため、行在は少し安んじた。王行瑜が朱玫を斬り、克用は千騎を以て京畿を経略した。三年、国昌が卒去した。やがて昭宗が即位し、克用を進めて検校太師兼侍中とした。

大順初め、克用は自ら雲州において赫連鐸を攻め、東郭を抜いた。幽州の李匡威が兵三万を以てこれを救い、その将安金俊を殺し、克用は逃走した。赫連鐸と李匡威は共に建言して言うには、「山南の乱は、克用が実にその首魁である。今その敗に乗じ、伐って取るべきである」と。全忠もまた河北三鎮と共にこれを討つことを請うた。宰相張浚はこの計に賛同し、そこで制を下して克用の官爵と属籍を削り、張浚を兵馬招討・制置・宣慰使とし、京兆尹孫揆をその副使とし、枢密使駱全諲を行営都監とし、華州節度使韓建を行営馬歩都虞候兼供軍糧料使とし、王镕に河東東面を領させ、全忠に南面を、李匡威に北面を領させ、並びに行営招討使とした。赫連鐸は李匡威の副とし、先に薄戦した。克用は潞州の兵を追ったが、彼らは行くことを肯ぜず、共に守将李克恭を殺し、汴に款を通じ、南を首として闕下に送った。更に詔して孫揆を昭義節度使としたが、克用の将李存孝が孫揆を長子で邀撃してこれを殺した。李匡威と赫連鐸は並びに吐蕃・黠戛斯の衆十万を率いて遮虜軍を攻め、その将劉胡子を殺した。克用はそこで渾河川に屯し、李存孝が赫連鐸と楽安で戦い、赫連鐸は敗走した。張浚は陰地関に入り、汾・隰に壁し、薛鉄山と李承嗣は洪洞に営して迎戦した。李存孝は趙城に駐屯し、韓建は夜に壮士三百を出してその営を襲ったが、李存孝は伏兵で待ち受け、韓建の兵は大いに奔った。李存孝は絳州を攻めたが、未だ陥さず、晋州刺史張行恭は城を棄てて逃走し、韓建と張浚は遁走して還った。明年、克用は上表して自らを陳述し、そこで再び検校太師・守中書令・隴西郡王に拝された。

克用は兵を悉くして赫連鐸の雲州を攻め、騎将薛阿檀を前軍とし、河上に伏兵を設けた。赫連鐸は騎兵を放って薛阿檀を追ったが、伏兵に遇って奔った。赫連鐸は吐渾に亡入した。克用は雲州を取って、部将石善友を刺史・大同軍防禦使とした。

景福初め、鎮州の王镕が堯山を攻めたので、克用は李嗣勛を遣わしてこれを撃たせ、三万の首級を斬り、克用は遂に天長を抜き、常山を攻略し、滹沱河を渡り、その郭を焼いた。地を巡って趙に至り、鼓・槁の二城を取った。赫連鐸が衆八万を率いて天成軍を攻めたので、克用は飛檄を発して太原より軍を発し、李匡威は既に雲州北郊に壁していたが、克用は神堆より軍を率いて夜に雲州に入り、死戦してこれを走らせた。乾寧元年、克用は新城に駐屯し、赫連鐸は膝行して軍門に詣でて降伏したので、克用は鞭打ってこれを放った。進んで武州を下し、新州を攻めた。李匡籌が歩騎七万を率いてこれを救ったので、克用は迎戦し、一万の首級を斬り、少将三百を俘虜とし、城下に示して回ると、新州は降った。媯州を取り、李匡籌は幽州を棄てて逃走した。明年、幽州が降伏し、克用は劉仁恭を留後とし、そこで凱旋した。

王行瑜・韓建・李茂貞が連合して兵を南闕下に進め、李渓を殺した。克用は北部の兵を尽く調発して河を渡り、絳州を抜き、刺史王瑤を斬った。河中に駐屯し、王珂が道中で謁見した。同州の王行約は京師に奔った。華州において韓建を包囲すると、京師は震動し、帝は石門・莎城に行幸し、内謁の郗廷昱を遣わして慰労させ、かつ李茂貞が盩厔に屯し、王行瑜が興平に屯していると伝えた。克用はそこで進んで渭橋に営した。帝は嗣延王李戒丕と嗣丹王李允を以て克用に詔し、邠・鳳を撃たせた。克用は詔を奉じ、渭北に屯し、史儼に票騎三千を率いさせて石門を護らせ、かつ王珂に命じて河中の粟を輸送させ行在に備えさせた。帝は赤詔を以て嘉賞して答え、克用を諸道兵馬都招討使に進め、二嗣王に命じて兄事させ、王行瑜を討つことを促した。克用は帝に京師に還ることを請い、二千騎を以て乗輿を衛らせた。当時宮室は焼け残っており、尚書省に駐まり、百官は馬を喪っていたので、克用は乗輿に金具装の馬二駟を進め、また百乗を上って従官に給した。太師・兼中書令・邠寧四面行営都統に進んだ。

王行瑜は梨園に堅く壁し、李茂貞は自ら師三万を率いて咸陽に迫って屯した。克用は帝に請い、李茂貞を責めて兵を罷めさせ、官爵を削り、河中共にこれを討つことを願った。帝は詔して、王行瑜を弟事し、李茂貞を赦し、好を結ばせた。朱詔を賜って魏国夫人陳氏とした。陳氏は襄陽の人で、書を善くし、帝の愛する者であり、賊を急いで平定したいが故にこれを与えたのである。李茂貞は兵を以て龍泉を援け、克用は李罕之と李存審を遣わし、夜に兵を率いてその糧餉を劫掠させた。援兵は亡び、王行瑜は潰走し、万を数えるほど追撃して殺した。王行瑜は邠州に入り、帰順を請うたので、克用は史儼を遣わしてその城に入らせた。王行瑜は慶州で死に、その首は京師に伝えられた。帝は悉く幕府の官属及び諸子の功を論じ、爵を封じ、克用には「忠貞平難功臣」の号を賜り、晋王に進封した。

克用は雲陽に屯し、李習吉を入朝させ、かつ王珂と力を尽くして李茂貞を討つことを請うたが、帝は許さなかった。克用は使者に私的に言うには、「叛の根を除かざれば、憂いは未だ艾がれぬであろう」と。天子は度支の銭三十万緡を発してその軍を労った。時に鄆州の朱宣兄弟が全忠に困らせられ、使者を遣わして告げてきたので、克用は魏を通ってこれを救うことを請うた。兵が解けて再び戦い、克用は自ら将兵を率いて往き、李存信に兵三万を率いさせて史儼等と共に莘に駐屯させたが、魏兵に破られた。克用は怒り、大いに相・魏を略奪して去った。

初め、李茂貞は李克用に討伐されることを畏れ、藩臣の如く貢献を修めた。しかし克用が帰還すると、貢献を絶ち、韓建と謀って兵を率いて朝廷に入ろうとした。帝は恐れ、克用に詔して京師を守衛せしめた。帝は河を渡って太原に幸することを謀り、延王を克用の軍に入らせて天子を迎えるよう促した。既に渭北に駐屯したが、韓建は固く華州に幸するよう請うた。克用は王に言う、「患は決断せざるに本づく、願わくは上自ら之を為せ」と。李存信が魏を攻めると、葛従周が三萬の衆を率いて来援し、洹水の上で戦い、汴人は夜に野に坎を穿ち、哄然として合戦し、克用の子落落は馬が陥りて顛倒し、克用がこれを救うも、亦顛倒す。追兵迫り、之を射て乃ち免る。存信は既に魏城に傅き、克用は力を併せ、羅弘信は捉生して逆戦し、克用に敗れ、郛に追及し、闔を叩いて還る。ここに於いて陜州の王珙が河中を攻め、李嗣昭が王珂を援け、再戦再勝し、王珙の囲み解く。

帝は延王に節を持たせて太原に至らせ、克用に謂う、「卿の計を用いざる故に、此に逮る、言うべき無し。今我華に寄る、百司群官託する所無し、卿に非ざれば尚誰と憂いを同じくせん。然らずんば則ち復た宗廟を見ず」と。王が太原に至ると、克用は累月留め、毎に大いに飲宴を張れば、王は必ず舞を以て克用に属し、因って国事を陳べ、涕数行下り、之を感動せんことを冀う。時に劉仁恭は幽州に拠り、克用に貳し、数たび兵を召すも応ぜず、克用は書を以て之を譲る。仁恭書を得て、地に抵し、遂に顕に絶つ。故に克用は内に幽州を憂え、好辞を以て王に謝し、復た西を望む意無し。俄に自ら将として蔚州に屯し、会うに晨大雺冥し、仁恭来たりて薄戦し、克用大敗し、太原に走り、大将多く死す。

朱全忠は邢・磁・洺の三州を奪い、李茂貞は克用が沮橈し、師を出す能わざるを度り、乃ち韓建と謾に好を通じ、書を致して帝が累年暴露するを言い、共に宮室を治めて天子を迎えんことを請う。初め、長安は石門の奔より、宮殿焚け圮ち、及び岐人の再逆に及び、火閭里皆尽き、宮城昏夜狐貊啼き、人跡無し。帝は華西溪に幸し、旧京を望めば必ず泫然として流涕し、左右淒塞して語るを得ず。王建は方に両川を盗み、茂貞は其の鄙を披きて之を私せんと欲し、数たび南師し、東を暇せず。而して全忠は洛陽らくようを繕治し、茂貞は因って克用と約して其の労を共にせんとし、克用辞窮し、乃ち貲を出して助けと為す。

光化初め、帝は京師に還り、詔して克用と全忠に仇を解かしめ、宰相徐彦若・崔胤皆之を勧む。克用の勢既に折るるも、然れども尚ほ功高く位全忠の上に在るを以て、先だって之に下るを恥じ、時に王镕は方に汴と睦まじく、乃ち書を镕に遺し、己が為に倡えしむ。全忠は即ち使者を遣わし書幣を奉ること恭甚だしく、克用も亦之に報ず。然れども汴は日に益々張り、窮闘して置かず。王珙は汴兵を請いて河中を攻め、克用は李嗣昭・張漢瑜をして之を援けしむ。汴兵走る。葛従周は承天軍を取り、氏叔琮は遼州・楽平を取り、進んで榆次に壁す。克用は周徳威をして逐い出さしむ。李嗣昭は歩騎三万を以て太行を下り、河内を略し、懐州を抜き、進んで河陽を攻む。汴人の閻宝之を救い、嗣昭は退きて懐を保つ。天復元年、全忠は晋・絳を取り、河中に逼り、王珂告急し、使相望む。汴人は空道を扼し、晋兵前進を得ず、遂に珂を虜う。珂の妻は克用の女なり、救う能わず。全忠は遂に河中を有ち、克用の朝貢の道も亦梗まる。

全忠は克用が迮して振わざるを知り、乃ち大挙して太原を攻め、鋭将氏叔琮等を分遣して魏博・兗鄆・邢洺・義武・晋絳の兵を率い環りて之に入らしむ。晋の城邑多く下る。会うに大雨、汴兵糧乏しく、士瘧癘し、遂に解く。克用は内に憤悒すれども、全忠の強きを憚りて争い難く、乃ち厚く幣馬を致して謝し、復た好を修めんことを請う。全忠は遂に同・華を取り、渭上に屯す。帝は鳳翔に如く。李茂貞・韓全誨は克用を召して入衛せしめんことを請う。克用は間道より使者を遣わし奔問し、並びに書を全忠に詒して汴に還るを勧む。全忠答えず。

克用は兵を率いて平陽に趨り、吉上堡を攻め、汴軍を晋州に破る。李嗣昭・周徳威は慈・隰を下し、進んで河中に屯す。汴将朱友寧は兵十万を以て其の南に壁す。全忠は自ら晋州に屯す。晋人は全忠の至るを聞き、皆色を失う。時に虹有りて徳威の営を貫く。氏叔琮は壘に薄きて疾闘し、晋兵大敗し、仗械輜儲皆尽きる。友寧は長駆して汾・慈・隰州を略し、皆下り、遂に太原を囲み、西門を攻む。徳威・嗣昭は山に循りて余衆を挈きて帰るを得る。克用大いに恐れ、身に版築を荷い、士を率いて拒守し、陰に嗣昭・徳威と謀りて雲州に奔らんとす。李存信曰く、「北蕃に依るに如かず」と。国昌の妻劉氏、克用に語りて曰く、「王の城を委ねて蕃に入らんと欲するを聞く、審かや。計は誰か出だす」と。曰く、「存信等此を為す」と。劉曰く、「彼は牧羊の奴、安んぞ遠計を弁ぜん。王は常に王行瑜の城を失いて走りて死するを笑う、何ぞ之を效さん。且つ王は頃に達靼に居りしも、危うく免れず。必ず一朝此を去らば、禍は跬を旋たずして至らん、渠ぞ能く北虜に及ばんや」と。克用悟り、乃ち止む。数日居るに、散士復た集まる。嗣昭は夜に友寧の営を擾し、汴人驚き、引いて去る。徳威之を追い、白壁関に抵り、復た慈・隰・汾の三州を収む。三年、克用は晋州を攻め、帝が鳳翔より京師に還るを聞き、乃ち去る。雲州都将王敬暉は刺史劉再立を殺し、地を劉仁恭に予う。李嗣昭之を討つ。仁恭は敬暉を援け、嗣昭は楽安に壁し、戦わんと欲す。仁恭は敬暉を取り、城を棄てて去る。

帝は東遷し、詔は太原に至る。克用は泣きて其の下に謂う、「乗輿復た西せず」と。使者を遣わして行在に奔問せしむ。俄に号を加えて「協盟同力功臣」とす。李茂貞・王建と邠州の楊崇本は使者を遣わして来たり義挙を約す。克用は顧みるに藩鎮皆汴に附し、共に功を同じくすべからず、惟だ契丹の阿保機尚ほ用いる可しと、乃ち卑辞を以て之を召す。保機は身から雲中に到り、克用と会い、兄弟と約し、十日留まりて去り、馬千匹・牛羊万計を遺し、期して冬に大挙して河を度らんとす。会うに昭宗しいせられて止む。四年、王建・李茂貞は克用と大挙を約す。建の将康晏は歩騎二万と克用の監軍張承業と会して鳳翔す。是の時、汴将王重師は長安を守り、劉知俊は同州を守り、之と長安西に戦い、建の兵敗れ、遂に振わず。

唐亡び、王建と淮南の楊渥は克用に自ら一方に王たらんことを請う。賊平ぎて唐の宗室を訪ねて之を立つべしと。建は悉くしょくの工を以て乗輿禦物を制せんことを請う。克用答えて曰く、「自ら王たるは、吾が志に非ず」と。建は又茂貞を勧めて岐に王たらしめんとす。茂貞は孱褊にして、亦敢えて当たらず、但だ府第を侈り、宮禁を僭するのみ。建・渥は乃ち自ら王と為る。是の歳、克用疾有り、城門自ら壊る。明年卒す。

賛して曰く、沙陀は始めて天子に帰命し、辺に仰哺し、世に喋血して征討を助け、常に辺兵の雄と為る。克用に至りて王室の乱に逢い、遂に太原を有つ。虜の性は惇固にして、他腸少なく、自ら材果を負い、天下を経営せんと欲して而も克たず。兵は勝つと雖も、然れども数たび敗れ、地は得ると雖も、輒ち復た失う。故に熟視して帝の劫遷するも、頸を縮めて汗を羞じ、景を偷みて僵を待つ、亦た鄙ならずや。其の子の慓銳に頼り、抑えられて復た振る。是の時、兵を提げて勤王に托する者五族有り。然れども卒に朱氏を亡ぼして唐の恥を滌ぐ者は、沙陀なり。克用をして稍々古今を知り、能く斉桓・晋文の如くせしめば、唐遽かに亡びんや。