新唐書

巻二百一十七下 列傳第一百四十二下 回鶻下

回鶻が婚姻を請うたが、有司が費用を推計すると五百万に当たるとし、帝は内に強藩を討伐している最中であったので、宗正少卿李誠・太常博士殷侑を遣わして不可を諭させた。穆宗が立つと、回鶻はまた合達幹らを使わして固く婚姻を求め、これを許した。やがて可汗が死に、使者が臨んで冊立し、その嗣を登囉羽録没蜜施句主毘伽崇徳可汗とした。可汗が既に立つと、伊難珠・句録・都督ととく思結らを遣わし、葉護公主を以て女を迎えに来させ、部衆二千人、馬二万匹、駱駝千頭を納めた。四夷の使者が中国に来るのに、その衆がこれほど多かったことはなかった。詔して五百人を長安ちょうあんに至らせることを許し、残りは太原に留めさせた。詔して太和公主を降嫁させる。主は憲宗の女である。帝は主のために府を建て、左金吾衛大将軍胡証・光禄卿李憲に節を持たせ護送させ、太府卿李説を婚礼使とし、主を冊拝して仁孝端麗明智上寿可敦とし、廟に告げ、天子は通化門に御して主を餞り、群臣は道に列して辞した。公主が塞を出て、回鶻の牙帳まで百里のところで、可汗は先に主と間道より私見しようとしたが、胡証が許さず、虜人は言う、「昔、咸安公主はそうなされた」と。証は言う、「天子は我に詔して公主を送り可汗に授けよとされた。今未だ見ずして、先にはできぬ」と。そこで止めた。ここにおいて可汗は楼に昇り坐し、東に向かい、下に毳幔を設けて公主を住まわせ、胡衣を襲うことを請うた。一人の傅姆が侍して出、西に向かって拝し終わり、退いて次に就き、可敦の服を被り、絳の通裾大襦、金冠を冠り、前後が鋭く、再び出て拝し終わり、すなわち曲輿に昇り、九人の相が分かれて負い、右に廷を旋ること九回、輿を降りて楼に昇り、可汗と連坐し、東に向かい、群臣が次に拝謁した。可敦もまた自ら牙帳を建て、二人の相が帳中に出入りした。証らが帰るとき、可敦は大いに宴し、悲啼して眷慕した。可汗は使者に厚く贈り物をした。

この時、裴度がまさに幽・鎮を討伐しており、回鶻は渠帥の李義節に兵三千を以て天子を佐け河北を平定させようとしたが、議者は前の患いを懲らしめ、聞き入れず、兵は既に豊州に及び、使者に厚く賜って去らせた。

敬宗が即位した年、可汗が死に、その弟の曷薩特勒が立ち、使者を遣わして冊し、愛登里羅汨没密施合毘伽昭礼可汗とし、幣帛十二車を賜った。文宗の初め、また馬の代価として絹五十万匹を賜った。大和六年、可汗がその下の者に殺され、従子の胡特勒が立ち、使者が来て告げた。明年、左ぎょう衛将軍唐弘実と嗣沢王溶に節を持たせ、冊し、愛登里羅汨没蜜施合句録毘伽彰信可汗とした。開成四年、その相の掘羅勿が難を起こし、沙陀を引き連れて共に可汗を攻め、可汗は自殺し、国人は{廠盍}馺特勒を立てて可汗とした。時に歳飢饉であり、ついに疫病が起こり、また大雪で羊・馬が多く死に、冊命に及ばなかった。武宗が即位し、嗣沢王溶をして臨告させて、その国の乱れを知った。

やがて渠長の句録莫賀が黠戛斯と合流し騎兵十万で回鶻城を攻め、可汗を殺し、掘羅勿を誅し、その牙帳を焼き、諸部は潰走した。その相の馺職と厖特勒の十五部は葛邏禄に奔り、残衆は吐蕃・安西に入った。ここにおいて、可汗牙帳部の十三姓は烏介特勒を奉じて可汗とし、南に錯子山を保った。黠戛斯は既に回鶻を破り、太和公主を得た。また自ら李陵の後裔とし、唐と同宗であるとして、故に使者の達幹を遣わし主を奉じて帰還させようとした。烏介は怒り、達幹を追撃して殺し、主を劫って南に磧を渡り、辺人は大いに恐れた。天徳城を攻撃し、振武節度使劉沔が雲伽関に屯してこれを拒ぎ退けた。宰相李徳裕が建言する、「回鶻はかつて功があり、今飢えかつ乱れており、可汗に帰る所が無い。撃つべからず、宜しく使者を遣わして安んずべきである」と。帝は兵部郎中李拭を行かせ辺境の状況を探らせた。ここにおいて、その相の赤心と王子の嗢没斯・特勒那頡啜がその部を率いて自ら帰順しようとし、公主もまた使者を遣わし来て言うに、烏介が既に立ったので、よって命を請うた。また大臣の頡干伽思らが表して振武を仮りて公主・可汗を住まわせることを請うた。帝はすなわち詔して右金吾衛大将軍王会に節を持たせその衆を慰撫させ、糧二万斛を輸送させ、振武を借りることは許さず、中人に好語を以て開諭させた。また詔して使者に冊を持たせて往かせたが、密かにその行きを留め、事態の変化を待った。

明年、回鶻は主を奉じて漠南に至り、雲・朔に入り、横水を剽掠し、殺掠甚だ多く、天徳・振武の間を転々し、勝手に畜牧を盗んだ。そこで諸道の兵を召集して合討させた。嗢没斯は赤心が奸悪で、要領を得難いとみて、すなわち密かに天徳の戍将田牟と約し、赤心を誘って帳下で斬らせた。那頡啜は赤心の衆七千帳を収めて東に振武・大同へ走り、室韋・黒沙を頼り南に幽州を窺うたが、節度使張仲武がこれを破り、その衆を悉く得た。那頡啜は走り、烏介が捕らえて殺した。しかし烏介の兵は尚強く、十万と号し、牙帳を大同北の閭門山に駐めた。そして特勒の厖俱遮・阿敦寧ら凡そ四部、及び将軍曹磨你の衆三万が、仲武に降り、嗢没斯もまた使者に附して帰順の意を送った。帝は可汗を助けて国を復させようとしたが、可汗は既に雲州を攻め、劉沔と戦って敗れた。嗢没斯は三部及び特勒・大酋二千騎を率いて振武に詣で降った。詔して嗢没斯を右金吾衛大将軍に拝し、爵は懐化郡王とし、天徳を帰義軍とし、すなわち帰義軍使に拝した。阿歴支は寧辺郡公、習勿啜は昌化郡公、烏羅思は寧朔郡公とし、並びに冠軍大将軍・左威衛大将軍とした。愛邪勿は寧塞郡公とし、右領軍大将軍とした。嗢没斯に牙旗・豹尾・刀器諸物を加賜し、その属に冠帯を与えた。詔して宰相徳裕に秦・漢以来、殊俗より興り忠効卓異なる者凡そ三十人を采り、『異域帰忠伝』を撰して寵賜させた。嗢没斯は族を太原に留め、昆弟を率いて天子のために辺境を捍ぐことを請うた。帝は劉沔に命じ、雲・朔の間に列舎を建ててその家を処置させた。可汗は使者を遣わし兵を借りて故廷に還りたいとし、かつ天徳城を仮りようとしたが、帝は許さなかった。可汗は憤り、進んで大同川を略し、転戦して雲州を攻め、刺史は壁を嬰いて敢えて出なかった。詔して益々諸鎮の兵を発し太原以北に屯させた。

嗢沒斯らが既に朝見すると、皆李氏を賜り、名を嗢沒斯は思忠と曰い、阿歷支は思貞と曰い、習勿啜は思義と曰い、烏羅思は思禮と曰う。愛邪勿は弘順と曰い、即ち帰義軍副使に拝された。ここにおいて、詔して劉沔を回鶻南面招撫使と為し、張仲武を東面招撫使と為し、思忠を河西党項都將・西南面招討使と為し、沔は雁門に営した。また詔して銀州刺史何清朝・蔚州刺史契通に、蕃・渾の兵を率いて振武より出で、沔・仲武と合流し、漸く回鶻に迫らしむ。思忠は数たび深く入りてその配下を諭し降した。沔は沙陀の兵を分けて思忠を益し、河中軍は騎兵五百をもって弘順を益す。沔は進んで雲州に次し、思忠は保大柵に屯し、河中・陳許の兵を率いて回鶻と戦い、これを破る。明年、また弘順に破られた。沔は天德行営副使石雄と勁騎及び沙陀・契等の雑虜を料し、夜に雲州を出で、馬邑に走り、安衆塞に抵り、虜に逢い、戦ってこれを破る。烏介方に振武に迫るや、雄は馳せ入り、夜に壘を穴として出で兵を鏖し、烏介驚き、引き去る。雄は北を追いて殺胡山に至り、烏介は創を受け走る。雄は公主に遇い、主を奉じて還り、特勒以下の衆数万を降し、尽く輜重帑蔵及び賜わった詔書を収む。可汗は残る所を収めて黒車子に依り往く。詔して弘順・清朝に窮めて躡わしむ。弘順は厚く黒車子に利を啖わし、烏介を殺すことを募る。初め、可汗に従いて亡びた者は既に軍を為す能わず、往々にして幽州に詣で降り、留まる者は皆饑寒痕夷し、僅かに数千を裁す。黒車子はその残るを幸い、即ち烏介を殺す。その下またその弟遏撚特勒を奉じて可汗と為す。帝詔して徳裕に功を紀し石に銘せしむることを幽州に於いて、以て後世に誇らしむ。

思忠らは国亡びたるを以て、皆入朝を願い、聴かれ、遂に帰義軍を罷め、思忠を左監門衛上將軍兼撫王傅に擢で、両つながらその俸を稟し、第を永楽坊に賜い、その兵を分かちて諸節度に賜う。虜人は諸道に隷し食するを憚り、滹沱河に拠りて叛く。劉沔は三千人を坑殺す。詔して回鶻の営する功德使にして二京に在る者は、悉く冠帯せしむ。有司は摩尼の書及び象を収めて道に焼き、産財は官に入る。

遏撚可汗は残部五千を裒め、奚の大酋碩舍朗に食を仰ぐ。大中初、仲武奚を討ち、これを破り、回鶻は漸く耗滅し、存する所の名王貴臣五百余、転じて室韋に依る。仲武諭して可汗等を羈致せしむるを令す。遏撚懼れ、妻葛祿・子特勒毒斯を挟みて九騎に馳せ、夜に衆を委ねて西に走る。部人は皆慟哭す。室韋七姓は回鶻を析きてこれに隷す。黠戛斯怒り、その相阿播と兵七万を将いて室韋を撃ち、悉く回鶻を収めて磧北に還す。遺帳は山林の間に伏し、狙いに諸蕃を盗み自給し、漸く厖特勒に帰す。是の時、特勒は既に自ら可汗と称し、甘州に居り、磧西諸城を有す。宣宗は荒遠を綏柔するを務め、使者を遣わして霊州に抵りその酋長を省みしむ。回鶻は因りて人を遣わし使者に随いて京師に来る。帝は即ち冊拝して嗢祿登裏邏汨没蜜施合俱錄毗伽懐建可汗と為す。後十余年、一再たび方物を献ず。

懿宗の時、大酋仆固俊自ら北庭より吐蕃を撃ち、論尚熱を斬り、尽く西州・輪臺等の城を取り、達幹米懐玉を使わして朝し且つ俘を献じ、因りて命を請う。詔して可とす。その後王室乱れ、貢会常ならず、史その伝を亡う。

昭宗鳳翔に幸す。霊州節度使韓遜表して回鶻の兵を率いて難に赴かんことを請う。翰林学士韓偓曰く、「虜は国仇旧し。会昌の時より辺を伺い、羽翼未だ成らず、逞うるを得ず。今我が危きに乗じて冀幸せんとす。開くべからず。」遂に格して報ぜず。然れどもその国卒く振わず、時に玉・馬を以て辺州と相市すと云う。

薛延陀は、先に薛種と雑居し、後に延陀部を滅ぼしてこれを有し、薛延陀と号し、姓は一利咥氏。鉄勒諸部中最も雄張し、風俗は大抵突厥と同し。

西突厥処羅可汗の鉄勒諸酋を殺すや、その下往々相率いて叛き去り、契哥楞を推して易勿真莫賀可汗と為し、貪汗山に拠り、薛延陀乙失缽を奉じて野咥可汗と為し、燕末山を保つ。而して突厥射匱可汗復た強く、二部は可汗の号を黜して往きてこれに臣す。回紇・抜野古・阿跌・同羅・仆骨・白霫にして郁督軍山に在る者は、東に始畢可汗に附き、乙失缽にして金山に在る者は、西に葉護可汗に役せらる。

貞観二年、葉護死し、その国乱る。乙失缽の孫を夷男と曰い、部帳七万を率いて頡利可汗に附く。後突厥衰え、夷男反って頡利を攻め、これを弱くす。ここにおいて諸姓多く頡利に叛き、これに帰する者共に推して主と為す。夷男敢えて当たらず。明年、太宗方に頡利を図り、遊撃將軍喬師望を遣わし路より詔書・鼓纛を賫し、冊拝して夷男を真珠毗伽可汗と為す。夷男既に命を受け、使いを遣わし謝し、方物を帰す。乃ち牙を郁督軍山に樹つ。京師西北六千里に直し、東は靺鞨、西は葉護突厥、南は沙磧、北は俱倫水、地大にして衆附き、ここにおいて回紇等諸部伏属せざる莫し。その弟統特勒入朝す。帝は精刀・宝鞭を賜いて曰く、「下に大過有らば、吾が鞭を以てこれを鞭て。」夷男これを寵と為す。頡利可汗の滅び、塞隧空荒す。夷男その部を率いて稍く東し、都尉楗山独邏水の陰を保つ。京師より遠きこと纔に三千里にして贏ち、東は室韋、西は金山、南は突厥、北は瀚海、蓋し古の匈奴の地なり。勝兵二十万、二子大度設・突利失を以て分かち将い、南・北部と号す。七年の間、使者八たび朝す。帝後強大にして患いと為らんことを恐れ、その禍を産さんと欲し、乃ち詔を下してその二子を拝すること皆小可汗と為す。

十五年、帝李思摩を以て可汗と為し、始めて河を度り、漠南に牙す。夷男これを悪み、未だ発せず。方に帝洛陽らくように幸し、将に泰山を封ぜんとす。夷男その下と謀りて曰く、「天子泰山を封ずれば、万国皆兵を助け、悉く行在に会し、辺鄣空単なり。思摩取るべし。」乃ち大度設を使わし兵二十万を勒し、南に漠を絶ち、白道川に壁し、一兵に四馬を得る率い、思摩を撃つ。思摩朔州に走り、状を言い、且つ師を請う。ここにおいて詔して営州都督張儉に統べしむる所の部と奚・霫・契丹をしてその東に乗ぜしめ、朔州道行軍総管李勣衆六万・騎三千、朔州に営し、霊州道行軍総管李大亮衆四万・騎五千、霊武に屯し、慶州道行軍総管張士貴衆万七千雲中より出で、涼州道行軍総管李襲誉これを経略せしむ。帝諸将に敕して曰く、「延陀漠を度りて、馬已に疲る。夫れ兵を用うる者は、利を見れば疾く進み、利あらざれば亟に去る。今虜急に思摩を撃たず、また速やかに還らず、勢い必ず敗るべし。卿等戦うことなかれ、その帰るを須ち、撃つべし。」既にして延陀の使者来たり、突厥と平らかならんことを求む。帝曰く、「我は漠以北を約す、延陀これを制し、漠以南は突厥これを専らにす。輒く相掠う者有れば、誅して赦さず。延陀は我に父事して而して首めて詔に違う。乱に非ずや。而して曰く突厥と和すは、乃ち故の約なり。尚何をか請わん。」報ぜず。

大度設は長城に至り、思摩は既に南へ逃走したので、大度設は捕らえられぬと悟り、人を遣わして長城に登り罵らせた。丁度李勣の軍勢が到着し、砂埃が天を覆う中、慌てて衆を率いて赤柯へ走り、青山を越えたが、道は迂遠であったため、李勣は敢死の士と突騎を選び、臘河を直進し、白道へ向かい、大度設に追いつき、執拗に追尾した。大度設は逃れられぬと見て、諾真水を渡り、陣を布いて待ち受けた。以前、延陀が沙缽羅及び阿史那社爾を撃った時は、いずれも歩兵戦で勝利したが、今回は騎兵を用いず、五人を一伍とし、一人が馬を執り、四人が前進して戦い、命令して曰く「勝てば騎馬で追撃し、負けた者は死に、その家を没収して戦士に償う」と。戦いが始まると、突厥兵は圧迫され、延陀は躍り出て追撃した。李勣が救援すると、延陀は矢を放ち、馬は次々と死んだ。李勣は歩兵百人を一隊とし、その隙間を突くと、虜は潰走した。部将薛萬徹が精鋭騎兵を率いて先に馬を執る者を捕らえたため、延陀は逃走できず、数千級を斬首し、一万五千頭の馬を獲た。大度設は逃亡し、萬徹は追及できなかった。残兵は漠北へ奔ったが、大雪に見舞われ、衆のうち凍傷で倒れ死ぬ者が十の八に及んだ。初め延陀は術を用いて神に祈り雪を降らせ、李勣軍を困らせようとしたが、かえって自らを疲弊させたという。

李勣は定襄に還ると、天子は使者を遣わし璽書を賜って労い、功を賞し死者を弔った。留め置かれていた延陀の使者は、帝が悉く返し、曰く「汝の可汗に帰って伝えよ。汝は自らその強さを恃み、突厥を弱しとし、重く誅求し、また首領を人質に取った。かつ朕は天下の主であるが、かつて汝から賦役を徴発したことがあろうか。後の利害については、謹んで考えよ、軽率に動くな」と。延陀は乃ち使いを遣わして謝罪し、またその仲父沙缽羅を遣わして馬三千頭を献上し、縁組を請うた。帝は曰く「延陀は元は一俟斤に過ぎぬ。朕が立てたのである。その力を推し量れば、頡利と比べてどうか。それで敢えて辺境を撓ませるのか」と。縁組を許さなかった。

翌年、使いを遣わして更に馬・牛・羊・駱駝を献上し、固く縁組を請うた。帝は大臣と計って曰く「延陀は屈強である。朕の策は二つある。士十万を選んでこれを撃ち、種を遺さず、百年の計とすること。縁組を絶ち羈縻し、辺境の憂い無からしめ、三十年の計とすること。さてどちらが利か」と。房玄齢は曰く「今大乱の余りの民は、傷つき破れて未だ完からず。戦いは勝つとも、猶危険な道です。和親に如かず」と。帝は曰く「善し」と。新興公主を降嫁することを許し、突利失を召して大饗を催し、群臣を侍らせ、宝器を陳列し、『慶善』・『破陣』の盛んな楽及び十部伎を奏し、突利失は頓首して千万歳の寿を上った。詔して夷男に親迎させ、帝は霊州に幸して縁組の事を成そうとした。夷男は大いに喜び、誇って曰く「我は鉄勒部の者に過ぎぬ。上が我を可汗と為し、公主は我に娘を娶らせ、乗輿は我がために辺境に幸する。誰が我より栄えようか」と。乃ち諸下に賦課して羊馬を徴発し、財貨とした。或る者が夷男に説いて曰く「可汗と唐は、皆一国の主である。何故往きて朝するのか。もしも款待されぬことがあれば、尚後悔できるか」と。夷男は曰く「そうではない。我は聞く、唐天子は徳有り、四方共に之に臣すと。仮に独り我を留め置くとも、磧北にも亦主を須うべし。然れども我を捨てて他を求むれば、計に非ず」と。下は乃ち敢えて言わなかった。

時に帝は有司に詔して献上物を受け取らせたが、延陀には府庫が無く、下から調斂するも、急に集まらず、また磧を越えるに水草乏しく、馬羊多く死に、納貢が期に後れたため、帝もまた行幸を止めた。畜産は消耗死して僅かに半ばとなり、議者は謂う「夷狄は嘗て中国に私するも、今礼が備わらずして縁組すれば、後に中国を軽んずる心を生ずる恐れあり」と。乃ち詔を下して縁組を絶ち、その使いを謝絶した。或いは曰く「既に許した以上、信を失うべからず」と。帝は曰く「公等の計は違う。昔、漢の時、匈奴強く、中国抗えず、故に子女を飾って単于に嫁がせた。今、北狄弱く、我之を制することができ、而して延陀が方に我に謹んで事えるのは、新たに立ち、我に倚って衆を服せしめんとするが故である。彼の同羅・仆骨は力足りて延陀を制するも発せず、我を懼れるのである。我又之に妻せば、固より中国の婿となり、名重くして援堅く、諸部将之に帰す。戎狄は野心有り、自立できれば則ち叛く。今縁組を絶てば、諸姓之を聞き、争って延陀を撃たん。滅亡は待つべし」と。李思摩は果たして侵掠した。延陀は突利失を遣わして定襄を寇し、詔して李勣に塞外へ逐い出させた。俄かに使いを遣わして師を率いて高麗征伐を助けんと請い、以て帝の意を探った。帝は使者を引いて謂いて曰く「帰って汝の可汗に語れ。我が父子東征するに、辺境を寇する能わば即ち来たれ」と。夷男は沮喪萎縮し、敢えて謀らず、使いを以て謝し、固く軍を助けんと請うた。帝は嘉して答えた。高麗の莫離支は靺鞨に命じて厚利を以て夷男を誘い、連和せんとしたが、夷男は気力素より索莫として、発せず、亦た病没に会した。帝は行在所に於いて祭った。

初め、延陀は庶子の曳莽を突利失可汗と為し東方を統べ、嫡子の拔灼を肆葉護可汗と為し西方を統べることを請うた。白道の役に、曳莽は実に之を謀り、国人多く怨んだ。葬儀に会するや、曳莽は急ぎ部に還り、拔灼は兵を分けて襲撃し之を殺し、自立して頡利俱利失薛沙多彌可汗と為った。丁度この時、王師は猶遼に在り、因って即ち辺境を寇した。帝は江夏王李道宗を遣わして朔州に屯させ、代州都督薛萬徹と左驍衛大将軍阿史那社爾を勝州に屯させ、左武候大将軍薩孤呉仁を霊州に屯させ、執失思力に突厥と共に塞下で掎角させた。虜は備え有るを知り、乃ち去った。

拔灼は性卞克にして、父の時の貴臣を多く殺し親昵の者を任用したため、国人安からず。而して阿波設が唐の使者と靺鞨の東鄙で遭遇し、小戦して利あらず、還って国人を怖して曰く「唐兵至れり」と。衆大いに擾い、諸部遂に潰えた。多彌可汗は十余騎で遁走し、阿史那時健に依ったが、俄かに回紇に殺され、その宗族を尽く屠られた。衆五六万は西域へ奔り、真珠毗伽可汗の昆弟子の咄摩支を立て、伊特勿失可汗と号し、使者を遣わして上言して曰く「願わくは郁督軍山を保たん」と。詔して兵部尚書崔敦礼と李勣に尉安せしめ、その国を定めしめた。

鉄勒諸部は素より延陀に服していたが、咄摩支は衰微孤子と雖も、尚之を臣畏した。帝は卒に患いと為らんことを恐れ、勣等に詔して曰く「降れば則ち之を撫し、叛けば則ち之を撃て」と。勣が至ると、咄摩支は大いに駭き、密かに拒戦せんと欲したが、表向きは好言して降伏を乞うた。勣は之を知り、兵を放って撃ち、五千余級を斬り、老幼三万人を捕虜とし、遂にその国を滅ぼした。咄摩支は天子の使者蕭嗣業が回紇に在ると聞き、自ら嗣業の許に詣り降伏を請い、入朝して右武衛将軍に拝され、田宅を賜った。初め、延陀の滅びんとする時、その部に食を乞う者が有り、客を帳中に延いた。妻が客人を見ると狼の首であり、主人は気付かぬ内に、客は既に食した。妻が部人に語って共に追うと、郁督軍山に至り、二人の者を見て、曰く「我は神なり。薛延陀将に滅びん」と。追う者は懼れ、退き走り、遂に之を失った。至るに果たしてこの山下で敗れた。

帝は延陀が滅んだことを以て、契苾等を併せて降伏させんと欲し、再び道宗に阿史那社爾等を率いさせて分かれて窮討させ、帝は霊州に幸し、諸将を節度した。ここにおいて鉄勒十一部は皆天子に帰命し、官吏を請うて内属した。道宗等は磧を径て延陀の余衆阿波達幹を撃ち、千余級を斬首し、北に二百里を逐う。万徹は北道に抵り、回紇諸酋を諭して降した。虜の遣わした使者は帝の行在に踵き及んで、凡そ数千人に及び、上言して曰く、「天至尊を可汗と為し、世々奴として事え、死して恨みなし」と。帝は其の地を剖いて州県と為し、北荒遂に平らぐ。諸姓に来朝する者有り、帝は労して曰く、「爾来るは、鼠の穴を得るが若く、魚の泉を得るが若し、我れ爾が為に之を深く広くせん」と。又曰く、「我れ在り、天下の四夷に安からざれば之を安んじ、楽しまざれば之を楽しましむ、驥尾に蒼蠅を受くるが如く、日に千里を走らしむべし」と。ここにおいて功を太廟に告げ、民に三日の酺を賜う。後三年、余部叛く、右領軍大将軍執失思力を以て討ち平らぐ。永徽に至り、延陀部の亡散する者悉く還る、高宗は為に奚弾州を置きて之を安んず。

抜野古は一に抜野固と曰い、或いは抜曳固と為す、磧北に漫散し、地千里、直に仆骨の東にし、靺鞨に隣る。帳戸六万、兵万人。地に薦草有り、良馬・精鉄を産す。川有り康幹河と曰い、松を断ちて之に投ずれば、三年にして輒ち石と化し、色蒼致なり、然れども節理猶在り、世に康幹石と謂う者は是なり。俗は狩猟射を嗜み、耕獲少なく、木に乗りて氷上に鹿を逐う。風俗は大抵鉄勒なり、言語少しく異なる。貞観三年、仆骨・同羅・奚・霫と同に入朝す。二十一年、大俟利発屈利失挙部内属し、幽陵都督府を置き、屈利失を右武衛大将軍に拝し、即ち都督と為す。顕慶の時、思結・仆固・同羅と叛き、左武衛大将軍鄭仁泰を以て之を撃ち、其の渠首を斬る。天宝の間に至り、能く自ら来朝す。

仆骨は亦た仆固と曰い、多覧葛の東に在り。帳戸三万、兵万人。地最も北に在り、俗梗驁にして、召率し難し。始め突厥に臣し、後に薛延陀に附す。延陀滅び、其の酋娑匐俟利発歌濫抜延始めて内属し、其の地を以て金微州と為し、歌濫抜延を右武衛大将軍・州都督に拝す。開元初め、首領仆固に為って殺され、朔方に詣りて降る、有司之を誅す。子曰く懐恩、至徳の時に功を以て朔方節度使に至り、自ら伝有り。

同羅は薛延陀の北、多覧葛の東に在り、京師を距ること七千里余り、勝兵三万。貞観二年、使者を遣わして入朝す。久しくして、内属を請い、亀林都督府を置き、酋俟利発時健啜を左領軍大将軍に拝し、即ち都督を授く。安禄山反し、其の兵を劫いて之を用い、号して「曳落河」と為す者なり。曳落河は、猶言わく健児と云う。

渾は諸部中最も南なる者なり。突厥頡利敗れたる時、俟利発阿貪支有りて塞に款く。薛延陀の滅び、大俟利発渾汪挙部内向し、其の地を以て臯蘭都督府と為し、後に東・西州に分つ。太宗は阿貪支が汪に属して尊きを以て、訳者を遣わし汪を諷す、汪欣然として位を避く。帝其の譲を嘉し、阿貪支を右領軍衛大将軍・臯蘭州刺史と為し、汪を雲麾将軍兼俟利発と為して其の副とす。阿貪支死し、子回貴嗣ぐ。回貴死し、子大寿嗣ぐ。大寿死し、子釈之嗣ぐ。釈之は鷙勇凡ならず、哥舒翰に従い石堡城を抜き、右武衛大将軍に遷り、汝南郡公に封ぜらる。李光弼河陽を保つに、釈之は朔方都知兵馬使を以て裨将と為り、寧朔郡王に進み、朔方節度留後を知る。仆固懐恩の走るや、声は帰鎮と為す。釈之曰く、「是れ必ず衆潰けん」と。将に之を拒がんとす、其の甥張韶曰く、「彼悔禍して鎮に還らば、渠か納れざらんや?」と。釈之之を信じ、乃ち懐恩を納る。懐恩已に入り、韶をして釈之を殺さしめ、其の軍を収む。已にして韶を悪み、罵りて曰く、「若し舅に負くば、肯て我に忠ならんや?」と。其の脛を折り、弥峨城に囚して死せしむ。釈之の子瑊は、建中の功臣なり、自ら伝有り。

契苾は亦た契苾羽と曰い、焉耆西北の鷹娑川、多覧葛の南に在り。其の酋哥楞自ら易勿真莫賀可汗と号し、弟莫賀咄特勒、皆勇有り。莫賀咄死し、子何力尚紐其の部を率いて来帰す、時に貞観六年なり。詔して之を甘・涼の間に処し、其の地を以て榆渓州と為す。永徽四年、其の部を以て賀蘭都督府と為し、燕然都護に隷す。何力は戦功有り、忠節の臣なり。大和の中、其の種帳振武に附すと云う。

多覧葛は亦た多濫と曰い、薛延陀の東に在り、同羅水に濱り、勝兵万人。延陀已に滅び、其の酋俟斤多濫葛末回紇と皆朝し、其の地を以て燕然都督府と為し、右衛大将軍を授け、即ち府都督と為す。死し、多濫葛塞匐を大俟利発と為し、継いで都督と為す。

阿跌は、亦た訶咥と曰い、或いは跌と為す。始め抜野古等と皆朝し、其の地を以て鶏田州と為す。開元の中、跌思泰自ら突厥黙啜の所より来降す。其の後、光進・光顔皆戦功を以て大官に至り、李氏を賜い、属籍に附し、自ら伝有り。

葛邏禄は本より突厥諸族、北庭の西北・金山の西に在り、仆固振水に跨り、多怛嶺を包み、車鼻部に接す。三族有り:一は謀落、或いは謀刺と為す;二は熾俟、或いは婆匐と為す;三は踏實力。永徽初め、高偘の車鼻可汗を伐つに、三族皆内属す。顕慶二年、謀落部を以て陰山都督府と為し、熾俟部を大漠都督府と為し、踏実力部を玄池都督府と為し、即ち其の酋長を以て都督と為す。後に熾俟部を分ちて金附州を置く。三族は東・西突厥の間に当たり、常に其の興衰を視、附叛常ならず。後稍々南に徙り、自ら「三姓葉護」と号し、兵強く、闘を甘んじ、廷州以西の諸突厥皆之を畏る。開元初め、再び来朝す。天宝の時、回紇・抜悉蜜と共に烏蘇米施可汗を攻め殺し、又回紇と抜悉蜜を撃ち、其の可汗阿史那施を北庭に走らしめ、京師に奔らしむ。葛禄は九姓と復た回紇葉護を立て、所謂懐仁可汗なる者なり。ここにおいて葛禄の烏徳犍山に処する者は回紇に臣し、金山・北庭に在る者は自ら葉護を立て、歳来朝す。久しくして、葉護頓毗伽突厥の叛酋阿布思を縛し、進めて金山郡王に封ぜらる。天宝の間、凡そ五朝す。至徳の後、葛邏禄浸く盛んにして、回紇と強を争い、十姓可汗の故地に徙り、尽く碎葉・怛邏斯諸城を有す。然れども回紇に限らる、故に朝会自ら朝に達すること能わず。

抜悉蜜は、貞観二十三年始めて来朝す。天宝初め、回紇葉護と突厥可汗を撃殺し、抜悉蜜の大酋阿史那施を立てて賀臘毗伽可汗と為し、使者を遣わして入謝す、玄宗紫文袍・金鈿帯・魚袋を賜う。三歳ならずして、葛邏禄・回紇に破られ、北庭に奔る。後に京師に朝し、左武衛将軍に拝せらる。地と衆は回紇に帰す。

都播は、また都波ともいう。その地は北は小海に臨み、西は堅昆に接し、南は回紇に接する。三部に分かれ、いずれも独自に統制する。その習俗には歳時がない。草を結んで廬とする。畜牧はなく、耕作のことを知らず、土には百合草が多く、その根を摘んで飯とし、魚・鳥・獣を捕らえて食う。貂や鹿の皮を衣とし、貧しい者は鳥の羽を綴じて衣服とする。その婚姻は、富める者は馬を納め、貧しき者は鹿皮や草の根を贈る。死ぬと木の棺に納めて山中に置き、あるいは樹に繋ぐ。葬送の哭泣は突厥と同じである。刑罰はなく、盗みを働いた者は贓物の倍を償わせる。貞観二十一年、骨利幹に因って入朝し、また使者を通じて中国に通じた。

骨利幹は瀚海の北にあり、勝兵五千。草には百合が多い。良馬を産し、頭は橐駝に似て、筋骨骨格が壮大で、日中に数百里を馳せる。その地は北は海に至り、京師から最も遠く、また北に海を渡れば則ち昼長夜短となり、日が入って羊の肩甲骨を煮ると、熟する頃には東方は既に明るく、これは日の出る所に近いためである。既に入朝したので、詔して雲麾将軍康蘇蜜を遣わして労い答えさせ、その地を玄闕州とした。その大酋の俟斤が使者に因って馬を献上し、帝はその異なるものを取り十驥と号し、皆美名を付けた。曰く「騰霜白」、曰く「皎雪驄」、曰く「凝露驄」、曰く「懸光驄」、曰く「決波騟」、曰く「飛霞驃」、曰く「発電赤」、曰く「流金𤫩」、曰く「翔麟紫」、曰く「奔虹赤」。その使者を厚く礼遇した。龍朔年中、玄闕州を余吾州と改め、瀚海都督府に隷属させた。延載初年、また来朝した。

白霫は鮮卑の故地に居り、京師の東北五千里に直し、同羅・仆骨に接する。薛延陀を避けて、奥支水・冷陘山を保ち、南は契丹、北は烏羅渾、東は靺鞨、西は抜野古に接し、地は円く広がること二千里、山が外を巡り、勝兵一万人。射猟を業とし、赤皮で衣の縁を飾り、婦人は銅の釧を貫き、子鈴を襟に綴じる。その部には三つあり、居延・無若没・潢水という。その君長は突厥の頡利可汗に臣として俟斤となる。貞観年中に再び来朝し、後にその地を寘顔州とし、別部を以て居延州とし、即ち俟斤を用いて刺史とした。顕慶五年、酋長李含珠を居延都督に授けた。含珠が死ぬと、弟の厥都が継いだ。後は聞くところがない。

斛薛は多濫葛の北にあり、勝兵一万人。奚結は同羅の北にあり、思結は延陀の故牙に在り、二部合わせて兵は凡そ二万。既に来朝したので、その地を州県として列した。太宗の時、北狄で自ら通じたものに、また烏羅渾があり、あるいは烏洛侯、烏羅護といい、京師の東北六千里余に直し、東は靺鞨、西は突厥、南は契丹、北は烏丸に接し、大抵風俗は皆靺鞨と同じである。烏丸はあるいは古丸という。

また鞠があり、あるいは祴といい、抜野古の東北に居り、木はあるが草はなく、地には苔が多い。羊馬はなく、人は鹿を牛馬のように飼い、ただ苔を食い、習俗として車を駕する。また鹿の皮を以て衣とし、木を集めて屋を作り、尊卑共に住む。また俞折というものがあり、地はやや大きく、習俗は抜野古とほぼ等しい。羊馬は少なく、貂鼠が多い。

また駁馬というものがあり、あるいは弊剌、遏羅支といい、突厥の北に直し、京師から一万四千里。水草に従うが、しかし山に居ることを好み、勝兵三万。地は常に積雪し、木は枯れない。馬で田を耕し、馬の色は皆駁であるため、これによって国名としたという。北は海に極まり、馬を畜うが乗らず、湩酪を資として食う。結骨と戦うことを好み、人の容貌は多く結骨に似るが、言葉は通じない。皆髪を剃り、樺皮の帽をかぶる。木を構えて井幹の類いとし、樺を覆って室とする。それぞれ小君長があり、互いに臣とすることはできない。

大漢は、鞠の北にあり、羊馬に富み、人物は背が高いので、自ら名とした。鞠と共に黠戛斯の剣海の辺に隣接する。これらは皆古来未だ賓服しなかったもので、貞観から永徽に至るまで、貂や馬を奉じて入朝し、あるいは一再至った。

黠戛斯は、古の堅昆国である。地は伊吾の西、焉耆の北、白山の傍に当たる。あるいは居勿、結骨という。その種族は丁零と雑じ、すなわち匈奴の西の辺鄙である。匈奴は漢の降将李陵を右賢王とし、衛律を丁零王に封じた。後、郅支単于が堅昆を破り、当時東は単于廷から七千里、南は車師から五千里で、郅支は留まってここを都とした。故に後世その地を得た者が訛って結骨とし、稍々に紇骨と号し、また紇扢斯ともいう。衆数十万、勝兵八万、回紇の西北三千里に直し、南は貪漫山に依る。地は夏は沮洳し、冬は積雪する。人は皆長大で、赤髪・皙面・緑瞳、黒髪を不祥とする。黒瞳の者は、必ずや李陵の苗裔だという。男少なく女多く、環を以て耳に貫き、習俗は軽捷で剛直、男子は男たるやその手にげいし、女は既に嫁げば項に黥す。雑居して多く淫佚である。

歳首を茂師哀と呼び、三哀を以て一時とし、十二の物を以て年を紀し、歳が寅にあるならば則ち虎年という。気候は寒さが多く、大河といえども半ば氷る。禾・粟・大小麦・青稞があり、歩硙で粉にして糜とする。穄は三月に種を播き、九月に獲り、飯とし、酒を醸すが、果蔬はない。畜は、馬は非常に壮大で、善く闘うものを頭馬とし、橐駝・牛・羊があり、牛が多く、富める農家は数千に至る。その獣には野馬・骨咄・黄羊・原羝・鹿・黒尾があり、黒尾は獐に似て、尾が大きく黒い。魚には、蔑というものは長さ七八尺、莫痕というものは骨がなく、口が頤の下から出る。鳥には、雁・鶩・烏鵲・鷹・隼がある。木には、松・樺・榆・柳・蒲がある。松の高いものは仰ぎ射ても頂に及ばず、而して樺は特に多い。金・鉄・錫があり、雨の度に、俗に必ず鉄を得、迦沙と号し、兵器として極めて犀利で、常に突厥に輸した。その戦いには弓矢・旗幟があり、その騎士は木を析いて盾とし、股足を蔽い、また円盾を肩に付け、矢刃を防ぐ。

その君を「阿熱」といい、遂に姓を阿熱氏とし、一つの纛を建て、下は皆赤を尚び、余は部落を以てその号とする。服は貂・豽を貴び、阿熱は冬は貂の帽、夏は金釦の帽で、頂は鋭く末は巻き、諸下は皆白氈の帽をかぶり、喜んで刀礪を佩き、賤しき者は皮を衣とし帽をかぶらず、女は毳毼・錦・罽・綾を衣とし、これは安西・北庭・大食で貿易販売されたものである。阿熱は青山に牙を駐め、柵を巡らして垣に代え、氈を聯ねて帳とし、「密的支」と号し、他の首領は小帳に居る。凡そ兵を調発する時は、諸部で役属する者は悉く行く。内では貂鼠・青鼠を賦とする。その官には、宰相・都督・職使・長史・将軍・達幹の六等がある。宰相七、都督三、職使十、皆兵を掌る。長史十五、将軍・達幹は員数なし。諸部は肉及び馬の酪を食うが、惟だ阿熱のみ餅餌を設ける。楽には笛・鼓・笙・觱篥・盤鈴がある。戯には弄駝・師子・馬伎・縄伎がある。神を祠るには惟だ水草を主とし、祭る時はなく、巫を「甘」と呼ぶ。婚姻には羊馬を納めて聘とし、富める者は或いは百千を数える。喪には面を剺かず、三たび屍を巡って哭し、乃ちこれを火にし、その骨を収め、一年して乃ち墓とし、然る後に器泣に節がある。冬は室に処り、木の皮を以て覆う。その文字言語は、回鶻と全く同じである。法は最も厳しく、陣に臨んで橈む者・使を奉じて称せざる者・妄りに国を議する者・盗みを働く者は皆首を断つ。子が盗みを働けば、その首を父の頸に着け、死ななければ脱がせない。

阿熱の牙帳から回鶻の牙帳に至るまで、駱駝で四十日の行程である。使者の道は天徳を出て右に二百里ほどで西受降城に至り、北に三百里ほどで〓鵜泉に至る。泉の西北から回鶻の牙帳まで千五百里ほどで、東・西二道があり、泉の北は東道である。回鶻の牙帳の北六百里に仙娥河があり、河の東北を雪山といい、地には水泉が多い。青山の東に、剣河という水があり、たまたま舟を用いて渡る。水はすべて東北に流れ、その国を経て合流し、北に流れて海に入る。

東は木馬突厥の三部落に至り、都播・彌列・哥餓支といい、その酋長は皆頡斤と為す。樺皮で室を覆い、良馬多く、俗に木馬に乗って氷上を馳せ、板を以て足を支え、木を曲げて腋を支え、蹴ればすなわち百歩、勢い迅疾である。夜は鈔盗し、昼は伏匿し、堅昆の人は以て之を役属す。

堅昆は、もと強国なり。地は突厥と等しく、突厥は女を以て其の酋豪に妻とす。東は骨利幹に至り、南は吐蕃、西南は葛邏祿なり。初め薛延陀に隷し、延陀は頡利発一人を以て国を監せしむ。其の酋長三人、訖悉輩・居沙波輩・阿米輩と曰い、共に其の国を治め、未だ嘗て中国と通ぜず。貞観二十二年、鉄勒等已に臣に入れりと聞き、すなわち使者を遣わして方物を献ず。其の酋長俟利発失缽屈阿棧、身自ら朝に入る。太宗之を労いて饗し、群臣に謂いて曰く、「往時渭橋にて三突厥を斬り、自ら功多しと謂えり。今俟利発席に在り、更に之に過ぐるを覚ゆ」と。俟利発酒酣に、願わくは笏を執るを得んと奏す。帝其の地を以て堅昆府と為し、俟利発を左屯衛大将軍に拝し、即ち都督と為し、燕然都護に隷す。高宗の世、再び朝す。景龍中、方物を献ず。中宗使者を引いて之を労し曰く、「而が国は我と宗を同じくす、他の蕃に比ぶるに非ず」と。酒を以て属けしむ。使者頓首す。玄宗の世、四たび朝献す。

乾元中、回紇に破られ、自ら是より中国に通ずる能わず。後に狄語訛って黠戛斯と為す。蓋し回鶻之を謂う、黄赤面の雲の若しと曰うなり。又訛って戛戛斯と為す。然れども常に大食・吐蕃・葛禄と相依仗す。吐蕃の往来する者は回鶻の剽鈔を畏れ、必ず葛禄に住し、以て黠戛斯の護送を待つ。大食に重錦あり、其の載すること二十駱駝にして乃ち勝つ。既に兼ねて負うべからず、故に裁ちて二十匹と為し、毎に三歳に一たび黠戛斯に餉る。而して回鶻は其の君長阿熱に官を授けて「毗伽頓頡斤」と為す。

回鶻稍々衰う。阿熱すなわち自ら可汗と称す。其の母は突騎施の女なり、母可敦と為す。妻は葛禄葉護の女なり、可敦と為す。回鶻宰相を遣わして之を伐つも、勝たず。挐斗二十年解けず。阿熱勝ちに恃み、乃ち肆に詈りて曰く、「爾が運尽きたり。我将に爾が金帳を収め、爾が帳前に我が馬を馳せ、我が旗を植えん。爾能く抗わば、亟に来れ。即ち能わざれば、当に疾く去るべし」と。回鶻討つ能わず。其の将句録莫賀、阿熱を導きて回鶻可汗を破り殺す。諸特勒皆潰く。阿熱身自ら将たり。其の牙及び公主の廬したる金帳(回鶻可汗常に坐す所なり)を焚く。乃ち悉く其の宝貲を収め、併せて太和公主を得、遂に牙を牢山の南に徙す。牢山は亦た賭満と曰う。回鶻の旧牙より馬行十五日の距離なり。阿熱、公主は唐の貴女なるを以て、使者を遣わし衛送して公主を還朝せしむ。回鶻の烏介可汗之を邀え取り、併せて使者を殺す。

会昌中、阿熱、使者の殺されたるを以て、朝に通ずる由無く、復た註吾合素を遣わし上書して状を言う。註吾は虜の姓なり。合は猛を言い、素は左なり。武猛にして善く左射する者を謂う。行くこと三歳にして京師に至る。武宗大いに悦び、渤海の使者の上に班し、其の処の窮遠なるに在りて能く職貢を脩むるを以て、命じて太僕卿趙蕃に節を持たしめて其の国を臨慰せしめ、詔して宰相に即ち鴻臚寺に使者を見えしめ、訳官をして山川国風を考せしむ。宰相徳裕上言す、「貞観の時、遠国皆来たり、中書侍郎顔師古周の史臣の四夷の朝事を集めて『王会篇』と為さんことを請う。今黠戛斯大いに中国に通ず。宜しく『王会図』を為して以て後世に示すべし」と。詔有りて鴻臚の得たる所の繖を以て之を著す。又詔して阿熱に宗正の属籍を著せしむ。

是の時、烏介可汗の余衆は黒車子に托る。阿熱願わくは秋馬肥えるに乗じて之を撃ち取らんとし、天子に表して師を請う。帝給事中劉濛をして巡辺使と為さしむ。朝廷亦た河・隴四鎮十八州久しく戎狄に淪ちたるを以て、幸いに回鶻破れ弱り、吐蕃乱れ、相残嚙む、其の衰に乗ずべしとす。乃ち右散騎常侍さんきじょうじ李拭を以て黠戛斯に使わし、君長を冊して宗英雄武誠明可汗と為す。未だ行かずして武宗崩ず。宣宗位を嗣ぎ、先帝の意の如くせんと欲す。或いは謂う、黠戛斯は小種、唐と抗するに足らずと。詔して宰相と臺省四品以上の官に議せしむ。皆曰く、「回鶻盛時の冊号有り。今幸いに衰亡し、又黠戛斯に加う。後且つ患いを生ぜん」と。乃ち止む。大中元年に至り、卒に詔して鴻臚卿李業に節を持たしめて黠戛斯を冊し英武誠明可汗と為す。咸通の間に逮び、三たび来朝す。然れども卒に回鶻を取る能わず。後の朝聘冊命は、史臣伝うるを失う。

賛に曰く、夷狄は悍貪を資とし、人外にして獣内、惟だ剽奪を是れ視る。故に湯・武の興るも、未だ嘗て之と功を共にせず。蓋し疏にして戚ならざるなり。太宗初め興り、嘗て突厥を用いしも、其の暴に勝えず、卒に縛して之を臣とす。粛宗回紇を用いしも、華人を略し、太子を辱しめ、近臣を笞殺し、求索倪無きに至る。徳宗又吐蕃を用いしも、平涼を劫し、上将を敗り、西陲を空しく破る。所謂外禍を引いて内乱を平らぐる者なり。夫れ之を用うるに権を以てし、之を制するに謀を以てするは、惟だ太宗能く之く。若し二主懦昏にして、狃れて之を狎すれば、烏ぞ其の弊に勝えんや。彼之を親くれば則ち責償も多く、慊として満たざれば則ち怨みを滋し、仁義を以て化すれば則ち頑なり。法を以て示せば則ち忿り、我が険易に熟すれば則ち患い博くして惨なり。餒を療するに冶葛を以てす、何の時か可ならん。故に『春秋』夷狄を許す者は、一に足らず。信なるかな。