新唐書

巻二百一十七下 列傳第一百四十二下 回鶻下

巻二百一十七下 列傳第一百四十二下 回鶻下

回鶻が婚姻を請うたが、有司が費用を推計すると五百万に当たるとし、帝は内に強藩を討伐している最中であったので、宗正少卿李誠・太常博士殷侑を遣わして不可を諭させた。穆宗が立つと、回鶻はまた合達幹らを使わして固く婚姻を求め、これを許した。やがて可汗が死に、使者が臨んで冊立し、その嗣を登囉羽録没蜜施句主毘伽崇徳可汗とした。可汗が既に立つと、伊難珠・句録・都督思結らを遣わし、葉護公主を以て女を迎えに来させ、部衆二千人、馬二万匹、駱駝千頭を納めた。四夷の使者が中国に来るのに、その衆がこれほど多かったことはなかった。詔して五百人を長安に至らせることを許し、残りは太原に留めさせた。詔して太和公主を降嫁させる。主は憲宗の女である。帝は主のために府を建て、左金吾衛大将軍胡証・光禄卿李憲に節を持たせ護送させ、太府卿李説を婚礼使とし、主を冊拝して仁孝端麗明智上寿可敦とし、廟に告げ、天子は通化門に御して主を餞り、群臣は道に列して辞した。公主が塞を出て、回鶻の牙帳まで百里のところで、可汗は先に主と間道より私見しようとしたが、胡証が許さず、虜人は言う、「昔、咸安公主はそうなされた」と。証は言う、「天子は我に詔して公主を送り可汗に授けよとされた。今未だ見ずして、先にはできぬ」と。そこで止めた。ここにおいて可汗は楼に昇り坐し、東に向かい、下に毳幔を設けて公主を住まわせ、胡衣を襲うことを請うた。一人の傅姆が侍して出、西に向かって拝し終わり、退いて次に就き、可敦の服を被り、絳の通裾大襦、金冠を冠り、前後が鋭く、再び出て拝し終わり、すなわち曲輿に昇り、九人の相が分かれて負い、右に廷を旋ること九回、輿を降りて楼に昇り、可汗と連坐し、東に向かい、群臣が次に拝謁した。可敦もまた自ら牙帳を建て、二人の相が帳中に出入りした。証らが帰るとき、可敦は大いに宴し、悲啼して眷慕した。可汗は使者に厚く贈り物をした。

原文回鶻之請昏,有司度費當五百萬,帝方內討強節度,故遣宗正少卿李誠、太常博士殷侑往諭不可。穆宗立,回鶻又使合達幹等來固求昏,許之。俄而可汗死,使者臨冊所嗣為登啰羽錄沒蜜施句主毗伽崇德可汗。可汗已立,遣伊難珠、句錄、都督思結等以葉護公主來逆女,部渠二千人,納馬二萬、橐它千。四夷之使中國,其眾未嘗多此。詔許五百人至長安,余留太原。詔以太和公主下降。主,憲宗女也。帝為主建府,以左金吾衛大將軍胡證、光祿卿李憲持節護送,太府卿李說為昏禮使,冊拜主為仁孝端麗明智上壽可敦,告於廟,天子禦通化門餞主,群臣班辭於道。公主出塞,距回鶻牙百里,可汗欲先與主由間道私見,胡證不可,虜人曰:「昔鹹安公主行之。」證曰:「天子詔我送公主授可汗,今未見,不可先也。」乃止。於是可汗升樓坐,東向,下設毳幔以居公主,請襲胡衣,以一姆侍出,西向拜已,退即次,被可敦服,絳通裾大襦,冠金冠,前後銳,復出拜已,乃升曲輿,九相分負,右旋於廷者九,降輿升樓,與可汗聯坐,東向,群臣以次謁。可敦亦自建牙,以二相出入帳中。證等歸,可敦大宴,悲啼眷慕。可汗厚贈使者。

この時、裴度がまさに幽・鎮を討伐しており、回鶻は渠帥きょすいの李義節に兵三千を以て天子を佐け河北を平定させようとしたが、議者は前の患いを懲らしめ、聞き入れず、兵は既に豊州に及び、使者に厚く賜って去らせた。

原文是時,裴度方伐幽、鎮,回鶻使渠將李義節以兵三千佐天子平河北,議者懲艾前患,不聽,兵已及豐州,使者厚賜乃去。

敬宗が即位した年、可汗が死に、その弟の曷薩特勒が立ち、使者を遣わして冊し、愛登里羅汨没密施合毘伽昭礼可汗とし、幣帛十二車を賜った。文宗の初め、また馬の代価として絹五十万匹を賜った。大和六年、可汗がその下の者に殺され、従子の胡特勒が立ち、使者が来て告げた。明年、左驍衛将軍唐弘実と嗣沢王溶に節を持たせ、冊し、愛登里羅汨没蜜施合句録毘伽彰信可汗とした。開成四年、その相の掘羅勿が難を起こし、沙陀を引き連れて共に可汗を攻め、可汗は自殺し、国人は{廠盍}馺特勒を立てて可汗とした。時に歳飢饉であり、ついに疫病が起こり、また大雪で羊・馬が多く死に、冊命に及ばなかった。武宗が即位し、嗣沢王溶をして臨告させて、その国の乱れを知った。

原文敬宗即位之年,可汗死,其弟曷薩特勒立,遣使者冊為愛登裏羅汨沒密施合毗伽昭禮可汗,賜幣十二車。文宗初,又賜馬直絹五十萬。大和六年,可汗為其下所殺,從子胡特勒立,使者來告。明年,遣左驍衛將軍唐弘實與嗣澤王溶持節冊為愛登裏羅汨沒蜜施合句錄毗伽彰信可汗。開成四年,其相掘羅勿作難,引沙陀共攻可汗,可汗自殺,國人立{廠盍}馺特勒為可汗。方歲饑,遂疫,又大雪,羊、馬多死,未及命。武宗即位,以嗣澤王溶臨告,乃知其國亂。

やがて渠長の句録莫賀が黠戛斯と合流し騎兵十万で回鶻城を攻め、可汗を殺し、掘羅勿を誅し、その牙帳を焼き、諸部は潰走した。その相の馺職と厖特勒の十五部は葛邏禄に奔り、残衆は吐蕃とばん・安西に入った。ここにおいて、可汗牙帳部の十三姓は烏介特勒を奉じて可汗とし、南に錯子山を保った。黠戛斯は既に回鶻を破り、太和公主を得た。また自ら李陵の後裔とし、唐と同宗であるとして、故に使者の達幹を遣わし主を奉じて帰還させようとした。烏介は怒り、達幹を追撃して殺し、主を劫って南に磧を渡り、辺人は大いに恐れた。天徳城を攻撃し、振武節度使せつどし劉沔が雲伽関に屯してこれを拒ぎ退けた。宰相李徳裕が建言する、「回鶻はかつて功があり、今飢えかつ乱れており、可汗に帰る所が無い。撃つべからず、宜しく使者を遣わして安んずべきである」と。帝は兵部郎中李拭を行かせ辺境の状況を探らせた。ここにおいて、その相の赤心と王子の嗢没斯・特勒那頡啜がその部を率いて自ら帰順しようとし、公主もまた使者を遣わし来て言うに、烏介が既に立ったので、よって命を請うた。また大臣の頡干伽思らが表して振武を仮りて公主・可汗を住まわせることを請うた。帝はすなわち詔して右金吾衛大将軍王会に節を持たせその衆を慰撫させ、糧二万斛こくを輸送させ、振武を借りることは許さず、中人に好語を以て開諭させた。また詔して使者に冊を持たせて往かせたが、密かにその行きを留め、事態の変化を待った。

原文俄而渠長句錄莫賀與黠戛斯合騎十萬攻回鶻城,殺可汗,誅掘羅勿,焚其牙,諸部潰其相馺職與厖特勒十五部奔葛邏祿,殘眾入吐蕃、安西。於是,可汗牙部十三姓奉烏介特勒為可汗,南保錯子山。黠戛斯已破回鶻,得太和公主;又自以李陵後,與唐同宗,故遣使者達幹奉主來歸。烏介怒,追擊達幹殺之,劫主南度磧,邊人大恐。進攻天德城,振武節度使劉沔屯雲伽關拒卻之。宰相李德裕建言:「回鶻曩有功,今饑且亂,可汗無歸,不可擊,宜遣使者贍安之。」帝用兵部郎中李拭行邊刺狀。於是,其相赤心與王子嗢沒斯、特勒那頡啜將其部欲自歸,而公主亦遣使者來言烏介已立,因請命。又大臣頡幹伽思等表假振武居公主、可汗。帝乃詔右金吾衛大將軍王會持節慰撫其眾,輸糧二萬斛,不許借振武,令中人好語開諭;又詔使者持冊往,潛稽其行,須變。

明年、回鶻は主を奉じて漠南に至り、雲・朔に入り、横水を剽掠し、殺掠甚だ多く、天徳・振武の間を転々し、勝手に畜牧を盗んだ。そこで諸道の兵を召集して合討させた。嗢没斯は赤心が奸悪で、要領を得難いとみて、すなわち密かに天徳の戍将田牟と約し、赤心を誘って帳下で斬らせた。那頡啜は赤心の衆七千帳を収めて東に振武・大同へ走り、室韋・黒沙を頼り南に幽州を窺うたが、節度使張仲武がこれを破り、その衆を悉く得た。那頡啜は走り、烏介が捕らえて殺した。しかし烏介の兵は尚強く、十万と号し、牙帳を大同北の閭門山に駐めた。そして特勒の厖俱遮・阿敦寧ら凡そ四部、及び将軍曹磨你の衆三万が、仲武に降り、嗢没斯もまた使者に附して帰順の意を送った。帝は可汗を助けて国を復させようとしたが、可汗は既に雲州を攻め、劉沔と戦って敗れた。嗢没斯は三部及び特勒・大酋二千騎を率いて振武に詣で降った。詔して嗢没斯を右金吾衛大将軍に拝し、爵は懐化郡王とし、天徳を帰義軍とし、すなわち帰義軍使に拝した。阿歴支は寧辺郡公、習勿啜は昌化郡公、烏羅思は寧朔郡公とし、並びに冠軍大将軍・左威衛大将軍とした。愛邪勿は寧塞郡公とし、右領軍大将軍とした。嗢没斯に牙旗・豹尾・刀器諸物を加賜し、その属に冠帯を与えた。詔して宰相徳裕に秦・漢以来、殊俗より興り忠効卓異なる者凡そ三十人を采り、『異域帰忠伝』を撰して寵賜させた。嗢没斯は族を太原に留め、昆弟を率いて天子のために辺境を捍ぐことを請うた。帝は劉沔に命じ、雲・朔の間に列舎を建ててその家を処置させた。可汗は使者を遣わし兵を借りて故廷に還りたいとし、かつ天徳城を仮りようとしたが、帝は許さなかった。可汗は憤り、進んで大同川を略し、転戦して雲州を攻め、刺史は壁を嬰いて敢えて出なかった。詔して益々諸鎮の兵を発し太原以北に屯させた。

原文明年,回鶻奉主至漠南,入雲、朔,剽橫水,殺掠甚眾,轉側天德、振武間,盜畜牧自如。乃召諸道兵合討。嗢沒斯以赤心奸桀,難得要領,即密約天德戍將田牟,誘赤心斬帳下。那頡啜收赤心眾七千帳東走振武、大同,因室韋、黑沙南窺幽州,節度使張仲武破之,悉得其眾。那頡啜走,烏介執而殺之。然烏介兵尚強,號十萬,駐牙大同北閭門山。而特勒厖俱遮、阿敦寧等凡四部,及將軍曹磨你眾三萬,因仲武降,嗢沒斯亦附使者送款。帝欲使助可汗復國,而可汗已攻雲州,劉沔與戰,敗績。嗢沒斯率三部及特勒、大酋二千騎詣振武降。詔拜嗢沒斯為右金吾衛大將軍,爵懷化郡王,以天德為歸義軍,即拜歸義軍使;阿歷支寧邊郡公,習勿啜昌化郡公,烏羅思寧朔郡公,並為冠軍大將軍、左威衛大將軍;愛邪勿寧塞郡公,為右領軍大將軍。加賜嗢沒斯牙旗、豹尾、刀器諸物,給其屬冠帶。詔宰相德裕采秦、漢以來興殊俗、忠效卓異者凡三十人,為《異域歸忠傳》寵賜之。嗢沒斯請留族太原,率昆弟為天子捍邊,帝命劉沔為列舍雲、朔間處其家。可汗遣使者藉兵欲還故廷,且假天德城,帝不許。可汗恚,進略大同川,轉戰攻雲州,刺史嬰壁不敢出。詔益發諸鎮兵屯太原以北。

嗢沒斯らが既に朝見すると、皆李氏を賜り、名を嗢沒斯は思忠と曰い、阿歷支は思貞と曰い、習勿啜は思義と曰い、烏羅思は思禮と曰う。愛邪勿は弘順と曰い、即ち帰義軍副使に拝された。ここにおいて、詔して劉沔を回鶻南面招撫使と為し、張仲武を東面招撫使と為し、思忠を河西党項都將・西南面招討使と為し、沔は雁門に営した。また詔して銀州刺史何清朝・蔚州刺史契通に、蕃・渾の兵を率いて振武より出で、沔・仲武と合流し、漸く回鶻に迫らしむ。思忠は数たび深く入りてその配下を諭し降した。沔は沙陀の兵を分けて思忠を益し、河中軍は騎兵五百をもって弘順を益す。沔は進んで雲州に次し、思忠は保大柵に屯し、河中・陳許の兵を率いて回鶻と戦い、これを破る。明年、また弘順に破られた。沔は天德行営副使石雄と勁騎及び沙陀・契等の雑虜を料し、夜に雲州を出で、馬邑に走り、安衆塞に抵り、虜に逢い、戦ってこれを破る。烏介方に振武に迫るや、雄は馳せ入り、夜に壘を穴として出で兵を鏖し、烏介驚き、引き去る。雄は北を追いて殺胡山に至り、烏介は創を受け走る。雄は公主に遇い、主を奉じて還り、特勒以下の衆数万を降し、尽く輜重しちょう帑蔵及び賜わった詔書を収む。可汗は残る所を収めて黒車子に依り往く。詔して弘順・清朝に窮めて躡わしむ。弘順は厚く黒車子に利を啖わし、烏介を殺すことを募る。初め、可汗に従いて亡びた者は既に軍を為す能わず、往々にして幽州に詣で降り、留まる者は皆饑寒痕夷し、僅かに数千を裁す。黒車子はその残るを幸い、即ち烏介を殺す。その下またその弟遏撚特勒を奉じて可汗と為す。帝詔して徳裕に功を紀し石に銘せしむることを幽州に於いて、以て後世に誇らしむ。

原文嗢沒斯等既朝,皆賜李氏,名嗢沒斯曰思忠,阿歷支曰思貞,習勿啜曰思義,烏羅思曰思禮;愛邪勿曰弘順,即拜歸義軍副使。於是,詔劉沔為回鶻南面招撫使,張仲武東面招撫使,思忠為河西党項都將、西南面招討使,沔營雁門。又詔銀州刺史何清朝、蔚州刺史契通,以蕃、渾兵出振武,與沔、仲武合,稍逼回鶻。思忠數深入諭降其下。沔分沙陀兵益思忠,河中軍以騎五百益弘順。沔進次雲州,思忠屯保大柵率河中、陳許兵與回鶻戰,敗之。明年,又為弘順所破。沔與天德行營副使石雄料勁騎及沙陀、契等雜虜,夜出雲州,走馬邑,抵安眾塞,逢虜,與戰破之。烏介方薄振武,雄馳入,夜穴壘出鏖兵,烏介驚,引去,雄追北至殺胡山,烏介被創走。雄遇公主,奉主還,降特勒以下眾數萬,盡收輜帑及所賜詔書。可汗收所餘往依黑車子,詔弘順、清朝窮躡。弘順厚啖黑車子以利,募殺烏介。初,從可汗亡者既不能軍,往往詣幽州降,留者皆饑寒痕夷,裁數千。黑車子幸其殘,即殺烏介。其下又奉其弟遏撚特勒為可汗。帝詔德裕紀功銘石於幽州,以誇後世。

思忠らは国亡びたるを以て、皆入朝を願い、聴かれ、遂に帰義軍を罷め、思忠を左監門衛上將軍兼撫王傅に擢で、両つながらその俸を稟し、第を永楽坊に賜い、その兵を分かちて諸節度に賜う。虜人は諸道に隷し食するを憚り、滹沱河に拠りて叛く。劉沔は三千人を坑殺す。詔して回鶻の営する功德使にして二京に在る者は、悉く冠帯せしむ。有司は摩尼の書及び象を収めて道に焼き、産財は官に入る。

原文思忠等以國亡,皆願入朝,見聽,遂罷歸義軍,擢思忠左監門衛上將軍兼撫王傅,兩稟其奉,賜第永樂坊,分其兵賜諸節度。虜人憚隸食諸道,據滹沱河叛,劉沔坑殺三千人。詔回鶻營功德使在二京者,悉冠帶之。有司收摩尼書若象燒於道,產貲入之官。

遏撚可汗は残部五千を裒め、奚の大酋碩舍朗に食を仰ぐ。大中初、仲武奚を討ち、これを破り、回鶻は漸く耗滅し、存する所の名王貴臣五百余、転じて室韋に依る。仲武諭して可汗等を羈致せしむるを令す。遏撚懼れ、妻葛祿・子特勒毒斯を挟みて九騎に馳せ、夜に衆を委ねて西に走る。部人は皆慟哭す。室韋七姓は回鶻を析きてこれに隷す。黠戛斯怒り、その相阿播と兵七万を将いて室韋を撃ち、悉く回鶻を収めて磧北に還す。遺帳は山林の間に伏し、狙いに諸蕃を盗み自給し、漸く厖特勒に帰す。是の時、特勒は既に自ら可汗と称し、甘州に居り、磧西諸城を有す。宣宗は荒遠を綏柔するを務め、使者を遣わして霊州に抵りその酋長を省みしむ。回鶻は因りて人を遣わし使者に随いて京師に来る。帝は即ち冊拝して嗢祿登裏邏汨没蜜施合俱錄毗伽懐建可汗と為す。後十余年、一再たび方物を献ず。

原文遏撚可汗裒殘部五千,仰食於奚大酋碩舍朗。大中初,仲武討奚,破之,回鶻浸耗滅,所存名王貴臣五百餘,轉依室韋。仲武諭令羈致可汗等,遏撚懼,挾妻葛祿、子特勒毒斯馳九騎夜委眾西走,部人皆慟哭。室韋七姓析回鶻隸之。黠戛斯怒,與其相阿播將兵七萬擊室韋,悉收回鶻還磧北。遺帳伏山林間,狙盜諸蕃自給,稍歸厖特勒。是時,特勒已自稱可汗,居甘州,有磧西諸城。宣宗務綏柔荒遠,遣使者抵靈州省其酋長,回鶻因遣人隨使者來京師,帝即冊拜嗢祿登裏邏汨沒蜜施合俱錄毗伽懷建可汗。後十餘年,一再獻方物。

懿宗の時、大酋仆固俊自ら北庭より吐蕃を撃ち、論尚熱を斬り、尽く西州・輪臺等の城を取り、達幹米懐玉を使わして朝し且つ俘を献じ、因りて命を請う。詔して可とす。その後王室乱れ、貢会常ならず、史その伝を亡う。

原文懿宗時,大酋仆固俊自北庭擊吐蕃,斬論尚熱盡取西州、輪臺等城,使達幹米懷玉朝且獻俘,因請命,詔可。其後王室亂,貢會不常,史亡其傳。

昭宗鳳翔に幸す。霊州節度使韓遜表して回鶻の兵を率いて難に赴かんことを請う。翰林学士韓偓曰く、「虜は国仇旧し。会昌の時より辺を伺い、羽翼未だ成らず、逞うるを得ず。今我が危きに乗じて冀幸せんとす。開くべからず。」遂に格して報ぜず。然れどもその国卒く振わず、時に玉・馬を以て辺州と相市すと云う。

原文昭宗幸鳳翔,靈州節度使韓遜表回鶻請率兵赴難,翰林學士韓偓曰:「虜為國仇舊矣。自會昌時伺邊,羽翼未成,不得逞。今乘我危以冀幸,不可開也。」遂格不報。然其國卒不振,時時以玉、馬與邊州相市雲。

薛延陀は、先に薛種と雑居し、後に延陀部を滅ぼしてこれを有し、薛延陀と号し、姓は一利咥氏。鉄勒諸部中最も雄張し、風俗は大抵突厥とっけつと同し。

原文薛延陀者,先與薛種雜居,後滅延陀部有之,號薛延陀,姓一利咥氏。在鐵勒諸部最雄張,風俗大抵與突厥同。

西突厥処羅可汗の鉄勒諸酋を殺すや、その下往々相率いて叛き去り、契哥楞を推して易勿真莫賀可汗と為し、貪汗山に拠り、薛延陀乙失缽を奉じて野咥可汗と為し、燕末山を保つ。而して突厥射匱可汗復た強く、二部は可汗の号を黜して往きてこれに臣す。回紇かいこつ・抜野古・阿跌・同羅・仆骨・白霫にして郁督軍山に在る者は、東に始畢可汗に附き、乙失缽にして金山に在る者は、西に葉護可汗に役せらる。

原文西突厥處羅可汗之殺鐵勒諸酋也,其下往往相率叛去,推契哥楞為易勿真莫賀可汗,據貪汗山,奉薛延陀乙失缽為野咥可汗,保燕末山。而突厥射匱可汗復強,二部黜可汗號往臣之。回紇、拔野古、阿跌、同羅、仆骨、白霫在郁督軍山者,東附始畢可汗;乙失缽在金山者,西役葉護可汗。

貞観二年、葉護死し、その国乱る。乙失缽の孫を夷男と曰い、部帳七万を率いて頡利可汗に附く。後突厥衰え、夷男反って頡利を攻め、これを弱くす。ここにおいて諸姓多く頡利に叛き、これに帰する者共に推して主と為す。夷男敢えて当たらず。明年、太宗方に頡利を図り、遊撃將軍喬師望を遣わし路より詔書・鼓纛を賫し、冊拝して夷男を真珠毗伽可汗と為す。夷男既に命を受け、使いを遣わし謝し、方物を帰す。乃ち牙を郁督軍山に樹つ。京師西北六千里に直し、東は靺鞨まっかつ、西は葉護突厥、南は沙磧、北は俱倫水、地大にして衆附き、ここにおいて回紇等諸部伏属せざる莫し。その弟統特勒入朝す。帝は精刀・宝鞭を賜いて曰く、「下に大過有らば、吾が鞭を以てこれを鞭て。」夷男これを寵と為す。頡利可汗の滅び、塞隧空荒す。夷男その部を率いて稍く東し、都尉楗山独邏水の陰を保つ。京師より遠きこと纔に三千里にして贏ち、東は室韋、西は金山、南は突厥、北は瀚海、蓋し古の匈奴の地なり。勝兵二十万、二子大度設・突利失を以て分かち将い、南・北部と号す。七年の間、使者八たび朝す。帝後強大にして患いと為らんことを恐れ、その禍を産さんと欲し、乃ち詔を下してその二子を拝すること皆小可汗と為す。

原文貞觀二年,葉護死,其國亂,乙失缽孫曰夷男,率部帳七萬附頡利可汗。後突厥衰,夷男反攻頡利,弱之,於是諸姓多叛頡利,歸之者共推為主,夷男不敢當。明年,太宗方圖頡利,遣遊擊將軍喬師望路賫詔書、鼓纛,冊拜夷男為真珠毗伽可汗。夷男已受命,遣使謝,歸方物,乃樹牙郁督軍山,直京師西北六千里,東靺鞨,西葉護突厥,南沙磧,北俱倫水,地大眾附,於是回紇等諸部莫不伏屬。其弟統特勒入朝,帝以精刀、寶鞭賜之曰:「下有大過者,以吾鞭鞭之。」夷男以為寵。頡利可汗之滅,塞隧空荒,夷男率其部稍東,保都尉楗山獨邏水之陰,遠京師才三千里而贏,東室韋,西金山,南突厥,北瀚海,蓋古匈奴地也。勝兵二十萬,以二子大度設、突利失分將之,號南、北部。七年間,使者八朝。帝恐後強大為患,欲產其禍,乃下詔拜其二子皆為小可汗。

十五年、帝李思摩を以て可汗と為し、始めて河を度り、漠南に牙す。夷男これを悪み、未だ発せず。方に帝洛陽に幸し、将に泰山を封ぜんとす。夷男その下と謀りて曰く、「天子泰山を封ずれば、万国皆兵を助け、悉く行在に会し、辺鄣空単なり。思摩取るべし。」乃ち大度設を使わし兵二十万を勒し、南に漠を絶ち、白道川に壁し、一兵に四馬を得る率い、思摩を撃つ。思摩朔州に走り、状を言い、且つ師を請う。ここにおいて詔して営州都督張儉に統べしむる所の部と奚・霫・契丹きったんをしてその東に乗ぜしめ、朔州道行軍総管李勣衆六万・騎三千、朔州に営し、霊州道行軍総管李大亮衆四万・騎五千、霊武に屯し、慶州道行軍総管張士貴衆万七千雲中より出で、涼州道行軍総管李襲誉これを経略せしむ。帝諸将に敕して曰く、「延陀漠を度りて、馬已に疲る。夫れ兵を用うる者は、利を見れば疾く進み、利あらざれば亟に去る。今虜急に思摩を撃たず、また速やかに還らず、勢い必ず敗るべし。卿等戦うことなかれ、その帰るを須ち、撃つべし。」既にして延陀の使者来たり、突厥と平らかならんことを求む。帝曰く、「我は漠以北を約す、延陀これを制し、漠以南は突厥これを専らにす。輒く相掠う者有れば、誅して赦さず。延陀は我に父事して而して首めて詔に違う。乱に非ずや。而して曰く突厥と和すは、乃ち故の約なり。尚何をか請わん。」報ぜず。

原文十五年,帝以李思摩為可汗,始度河,牙於漠南。夷男惡之,未發。方帝幸洛陽,將遂封泰山,夷男與其下謀曰:「天子封泰山,萬國皆助兵,悉會行在,邊鄣空單,思摩可取也。」乃使大度設勒兵二十萬,南絕漠,壁白道川,率一兵得四馬,擊思摩。思摩走朔州,言狀,且請師。於是詔營州都督張儉統所部與奚、霫、契丹乘其東,朔州道行軍總管李勣眾六萬、騎三千,營朔州,靈州道行軍總管李大亮眾四萬、騎五千,屯靈武,慶州道行軍總管張士貴眾萬七千出雲中,涼州道行軍總管李襲譽經略之。帝敕諸將曰:「延陀度漠,馬已疲。夫用兵者,見利疾進,不利亟去。今虜不急擊思摩,又不速還,勢必敗,卿等勿與戰,須其歸,可擊也。」既而延陀使者來,求與突厥平。帝曰:「我約漠以北,延陀制之,漠以南,突厥專之,有輒相掠,誅不赦。延陀父事我而首違詔,得非亂邪?而曰與突厥和,乃故約也,尚何請?」不報。

大度設は長城に至り、思摩は既に南へ逃走したので、大度設は捕らえられぬと悟り、人を遣わして長城に登り罵らせた。丁度李勣の軍勢が到着し、砂埃が天を覆う中、慌てて衆を率いて赤柯へ走り、青山を越えたが、道は迂遠であったため、李勣は敢死の士と突騎を選び、臘河を直進し、白道へ向かい、大度設に追いつき、執拗に追尾した。大度設は逃れられぬと見て、諾真水を渡り、陣を布いて待ち受けた。以前、延陀が沙缽羅及び阿史那社爾を撃った時は、いずれも歩兵戦で勝利したが、今回は騎兵を用いず、五人を一伍とし、一人が馬を執り、四人が前進して戦い、命令して曰く「勝てば騎馬で追撃し、負けた者は死に、その家を没収して戦士に償う」と。戦いが始まると、突厥兵は圧迫され、延陀は躍り出て追撃した。李勣が救援すると、延陀は矢を放ち、馬は次々と死んだ。李勣は歩兵百人を一隊とし、その隙間を突くと、虜は潰走した。部将薛萬徹が精鋭騎兵を率いて先に馬を執る者を捕らえたため、延陀は逃走できず、数千級を斬首し、一万五千頭の馬を獲た。大度設は逃亡し、萬徹は追及できなかった。残兵は漠北へ奔ったが、大雪に見舞われ、衆のうち凍傷で倒れ死ぬ者が十の八に及んだ。初め延陀は術を用いて神に祈り雪を降らせ、李勣軍を困らせようとしたが、かえって自らを疲弊させたという。

原文大度設次長城,思摩已南走,大度設度不可得,乃遣人乘長城罵之。適會勣兵至,行壒屬天,遽率眾走赤柯,度青山,然道回遠,勣選敢死士與突騎徑臘河,趣白道,及大度設,尾之不置。大度設顧不脫,度諾真水,陣以待。先是,延陀擊沙缽羅及阿史那社爾,皆以徒戰勝,至是卻騎不用,率五人為伍,一執馬,四前鬥,令曰:「勝則騎而逐,負者死,沒其家以償戰士。」及戰,突厥兵迮,延陀騰逐,勣救之,延陀縱射,馬輒死。勣乃以步士百人為隊,搗其罅,虜潰,部將薛萬徹率勁騎先收執馬者,故延陀不能去,斬首數千級,獲馬萬五千。大度設亡去,萬徹追弗及。殘卒奔漠北,會雪甚,眾皸踣死者十八。始延陀能以術禬神致雪,冀困勣師,及是反自敝雲。

李勣は定襄に還ると、天子は使者を遣わし璽書を賜って労い、功を賞し死者を弔った。留め置かれていた延陀の使者は、帝が悉く返し、曰く「汝の可汗に帰って伝えよ。汝は自らその強さを恃み、突厥を弱しとし、重く誅求し、また首領を人質に取った。かつ朕は天下の主であるが、かつて汝から賦役を徴発したことがあろうか。後の利害については、謹んで考えよ、軽率に動くな」と。延陀は乃ち使いを遣わして謝罪し、またその仲父沙缽羅を遣わして馬三千頭を献上し、縁組を請うた。帝は曰く「延陀は元は一俟斤に過ぎぬ。朕が立てたのである。その力を推し量れば、頡利と比べてどうか。それで敢えて辺境を撓ませるのか」と。縁組を許さなかった。

原文勣還入定襄,天子遣使者賫璽書勞問,賞功恤死。延陀之使留待命者,帝悉還之,曰:「歸語爾可汗,爾自負其強,以突厥為弱,厚誅斂之,又取首領以為質,且我為天下主,渠嘗賦發於爾邪?後有利害,當謹思,毋遽也。」延陀乃遣使謝罪,又遣其仲父沙缽羅獻馬三千,因請昏。帝曰:「延陀本一俟斤,我則立之,度其力孰與頡利比,而敢橈邊乎?」不許昏。

翌年、使いを遣わして更に馬・牛・羊・駱駝を献上し、固く縁組を請うた。帝は大臣と計って曰く「延陀は屈強である。朕の策は二つある。士十万を選んでこれを撃ち、種を遺さず、百年の計とすること。縁組を絶ち羈縻し、辺境の憂い無からしめ、三十年の計とすること。さてどちらが利か」と。房玄齢は曰く「今大乱の余りの民は、傷つき破れて未だ完からず。戦いは勝つとも、猶危険な道です。和親に如かず」と。帝は曰く「善し」と。新興公主を降嫁することを許し、突利失を召して大饗を催し、群臣を侍らせ、宝器を陳列し、『慶善』・『破陣』の盛んな楽及び十部伎を奏し、突利失は頓首して千万歳の寿を上った。詔して夷男に親迎させ、帝は霊州に幸して縁組の事を成そうとした。夷男は大いに喜び、誇って曰く「我は鉄勒部の者に過ぎぬ。上が我を可汗と為し、公主は我に娘を娶らせ、乗輿は我がために辺境に幸する。誰が我より栄えようか」と。乃ち諸下に賦課して羊馬を徴発し、財貨とした。或る者が夷男に説いて曰く「可汗と唐は、皆一国の主である。何故往きて朝するのか。もしも款待されぬことがあれば、尚後悔できるか」と。夷男は曰く「そうではない。我は聞く、唐天子は徳有り、四方共に之に臣すと。仮に独り我を留め置くとも、磧北にも亦主を須うべし。然れども我を捨てて他を求むれば、計に非ず」と。下は乃ち敢えて言わなかった。

原文明年,以使來益獻馬、牛、羊、橐它,固求昏。帝與大臣計曰:「延陀屈強,朕策顧有二:選士十萬擊之,使無遺種,百年計也;絕昏羈縻,使無邊憂,三十年計也。然則孰利?」房玄齡曰:「今大亂余氓,痍破未完,戰雖勝,猶危道也。不如和親。」帝曰:「善。」許以新興公主下嫁,召突利失大享,群臣侍,陳寶器,奏《慶善》、《破陣》盛樂及十部伎,突利失頓首上千萬歲壽。詔夷男親迎,帝將幸靈州以成昏事。夷男大喜,詫曰:「我鐵勒部人耳,上以我為可汗,公主以女我,乘輿為我幸邊,誰與我榮?」乃搜賦諸下羊馬為貲。或說夷男曰:「可汗與唐,皆一國主,奈何往朝?有如見款,尚可悔?」夷男曰:「不然。吾聞唐天子有德,四方共臣之,借獨留我,磧北亦須有主,然舍我而求它,非計也。」下乃不敢言。

時に帝は有司に詔して献上物を受け取らせたが、延陀には府庫が無く、下から調斂するも、急に集まらず、また磧を越えるに水草乏しく、馬羊多く死に、納貢が期に後れたため、帝もまた行幸を止めた。畜産は消耗死して僅かに半ばとなり、議者は謂う「夷狄は嘗て中国に私するも、今礼が備わらずして縁組すれば、後に中国を軽んずる心を生ずる恐れあり」と。乃ち詔を下して縁組を絶ち、その使いを謝絶した。或いは曰く「既に許した以上、信を失うべからず」と。帝は曰く「公等の計は違う。昔、漢の時、匈奴強く、中国抗えず、故に子女を飾って単于に嫁がせた。今、北狄弱く、我之を制することができ、而して延陀が方に我に謹んで事えるのは、新たに立ち、我に倚って衆を服せしめんとするが故である。彼の同羅・仆骨は力足りて延陀を制するも発せず、我を懼れるのである。我又之に妻せば、固より中国の婿となり、名重くして援堅く、諸部将之に帰す。戎狄は野心有り、自立できれば則ち叛く。今縁組を絶てば、諸姓之を聞き、争って延陀を撃たん。滅亡は待つべし」と。李思摩は果たして侵掠した。延陀は突利失を遣わして定襄を寇し、詔して李勣に塞外へ逐い出させた。俄かに使いを遣わして師を率いて高麗征伐を助けんと請い、以て帝の意を探った。帝は使者を引いて謂いて曰く「帰って汝の可汗に語れ。我が父子東征するに、辺境を寇する能わば即ち来たれ」と。夷男は沮喪萎縮し、敢えて謀らず、使いを以て謝し、固く軍を助けんと請うた。帝は嘉して答えた。高麗の莫離支は靺鞨に命じて厚利を以て夷男を誘い、連和せんとしたが、夷男は気力素より索莫として、発せず、亦た病没に会した。帝は行在所に於いて祭った。

原文時帝詔有司受所獻,延陀無府庫,調斂於下,不亟集,又度磧,水草乏,馬羊多死,納貢後期,帝亦止行。畜口耗死僅半,議者謂:「夷狄嘗為中國私,今禮不具而與昏,恐後有輕中國心。」乃下詔絕昏,謝其使。或曰:「既許之,信不可失。」帝曰:「公等計非也。昔漢匈奴強,中國不抗,故飾子女嫁單於。今北狄弱,我能制之,而延陀方謹事我者,顧新立,倚我以服眾。彼同羅、仆骨力足制延陀而不發,懼我也。我又妻之,固中國婿,名重而援堅,諸部將歸之,戎狄野心,能自立則叛矣。今絕昏,使諸姓聞之,將爭擊延陀,亡可待也。」李思摩果侵掠之。延陀遣突利失寇定襄,詔李勣逐出塞。俄遣使請率師助伐高麗,以刺帝意,帝引使者謂曰:「歸語爾可汗,我父子東征,能寇邊者可即來。」夷男沮縮,不敢謀,以使謝,固請助軍。帝嘉答。高麗莫離支令靺鞨以厚利啖夷男,欲與連和,夷男氣素索,不發,亦會病死,帝為祭於行。

初め、延陀は庶子の曳莽を突利失可汗と為し東方を統べ、嫡子の拔灼を肆葉護可汗と為し西方を統べることを請うた。白道の役に、曳莽は実に之を謀り、国人多く怨んだ。葬儀に会するや、曳莽は急ぎ部に還り、拔灼は兵を分けて襲撃し之を殺し、自立して頡利俱利失薛沙多彌可汗と為った。丁度この時、王師は猶遼に在り、因って即ち辺境を寇した。帝は江夏王李道宗を遣わして朔州に屯させ、代州都督薛萬徹と左驍衛大将軍阿史那社爾を勝州に屯させ、左武候大将軍薩孤呉仁を霊州に屯させ、執失思力に突厥と共に塞下で掎角させた。虜は備え有るを知り、乃ち去った。

原文始延陀請以庶子曳莽為突利失可汗,統東方;嫡子拔灼為肆葉護可汗,統西方。白道之役,曳莽實為之謀,國人多怨。及會葬,曳莽亟還部,拔灼分兵襲殺之,自立為頡利俱利失薛沙多彌可汗。方是時,王師猶在遼,因即寇邊。帝遣江夏王道宗屯朔州,代州都督薛萬徹與左驍衛大將軍阿史那社爾屯勝州,左武候大將軍薩孤吳仁屯靈州,執失思力與突厥掎角塞下,虜知有備,乃去。

拔灼は性卞克にして、父の時の貴臣を多く殺し親昵の者を任用したため、国人安からず。而して阿波設が唐の使者と靺鞨の東鄙で遭遇し、小戦して利あらず、還って国人を怖して曰く「唐兵至れり」と。衆大いに擾い、諸部遂に潰えた。多彌可汗は十余騎で遁走し、阿史那時健に依ったが、俄かに回紇に殺され、その宗族を尽く屠られた。衆五六万は西域へ奔り、真珠毗伽可汗の昆弟子の咄摩支を立て、伊特勿失可汗と号し、使者を遣わして上言して曰く「願わくは郁督軍山を保たん」と。詔して兵部尚書崔敦礼と李勣に尉安せしめ、その国を定めしめた。

原文拔灼性卞克,多殺父時貴臣而任所親昵,國人不安,而阿波設與唐使者遇於靺鞨東鄙,小戰不利,還怖國人曰:「唐兵至矣!」眾大擾,諸部遂潰。多彌可汗以十餘騎遁去,依阿史那時健,俄為回紇所殺,盡屠其宗,眾五六萬奔西域,立真珠毗伽可汗昆弟子咄摩支,號伊特勿失可汗,遣使者上言:「願保郁督軍山。」常詔兵部尚書崔敦禮與李勣尉安之,俾定其國。

鉄勒諸部は素より延陀に服していたが、咄摩支は衰微孤子と雖も、尚之を臣畏した。帝は卒に患いと為らんことを恐れ、勣等に詔して曰く「降れば則ち之を撫し、叛けば則ち之を撃て」と。勣が至ると、咄摩支は大いに駭き、密かに拒戦せんと欲したが、表向きは好言して降伏を乞うた。勣は之を知り、兵を放って撃ち、五千余級を斬り、老幼三万人を捕虜とし、遂にその国を滅ぼした。咄摩支は天子の使者蕭嗣業が回紇に在ると聞き、自ら嗣業の許に詣り降伏を請い、入朝して右武衛将軍に拝され、田宅を賜った。初め、延陀の滅びんとする時、その部に食を乞う者が有り、客を帳中に延いた。妻が客人を見ると狼の首であり、主人は気付かぬ内に、客は既に食した。妻が部人に語って共に追うと、郁督軍山に至り、二人の者を見て、曰く「我は神なり。薛延陀将に滅びん」と。追う者は懼れ、退き走り、遂に之を失った。至るに果たしてこの山下で敗れた。

原文鐵勒諸部素伏延陀,而咄摩支雖衰孑,尚臣畏之。帝恐卒為患,詔勣等曰:「降則撫之,叛則擊之。」勣至,咄摩支大駭,陰欲拒戰,外好言乞降。勣知之,縱兵擊,斬五千餘級,系老孺三萬,遂滅其國。咄摩支聞天子使者蕭嗣業在回紇,身詣嗣業丐降,入朝,拜右武衛將軍,賜田宅。初,延陀將滅,有丐食於其部者,延客帳中,妻視客人而狼首,主不覺,客已食,妻語部人共追之,至郁督軍山,見二人焉,曰:「我神也,薛延陀且滅。」追者懼,卻走,遂失之。至是果敗此山下。

帝は延陀が滅んだことを以て、契苾等を併せて降伏させんと欲し、再び道宗に阿史那社爾等を率いさせて分かれて窮討させ、帝は霊州に幸し、諸将を節度した。ここにおいて鉄勒十一部は皆天子に帰命し、官吏を請うて内属した。道宗等は磧を径て延陀の余衆阿波達幹を撃ち、千余級を斬首し、北に二百里を逐う。万徹は北道に抵り、回紇諸酋を諭して降した。虜の遣わした使者は帝の行在に踵き及んで、凡そ数千人に及び、上言して曰く、「天至尊を可汗と為し、世々奴として事え、死して恨みなし」と。帝は其の地を剖いて州県と為し、北荒遂に平らぐ。諸姓に来朝する者有り、帝は労して曰く、「爾来るは、鼠の穴を得るが若く、魚の泉を得るが若し、我れ爾が為に之を深く広くせん」と。又曰く、「我れ在り、天下の四夷に安からざれば之を安んじ、楽しまざれば之を楽しましむ、驥尾に蒼蠅を受くるが如く、日に千里を走らしむべし」と。ここにおいて功を太廟に告げ、民に三日の酺を賜う。後三年、余部叛く、右領軍大将軍執失思力を以て討ち平らぐ。永徽に至り、延陀部の亡散する者悉く還る、高宗は為に奚弾州を置きて之を安んず。

原文帝以延陀滅,欲並契等降之,復遣道宗率阿史那社爾等分部窮討,帝幸靈州,節度諸將。於是鐵勒十一部皆歸命天子,請吏內屬。道宗等徑磧擊延陀餘眾阿波達幹,斬首千餘級,逐北二百里。萬徹抵北道,諭降回紇諸酋。虜所遣使踵及帝行在,凡數千人,上言:「天至尊為可汗,世世以奴事,死不恨。」帝剖其地為州縣,北荒遂平。諸姓有來朝者,帝勞曰:「爾來,若鼠得穴、魚得泉,我為爾深廣之。」又曰:「我在,天下四夷有不安安之,不樂樂之,如驥尾受蒼蠅,可使日千里也。」於是告功太廟,賜民三日酺。後三年,餘部叛,以右領軍大將軍執失思力討平之。至永徽時,延陀部亡散者悉還,高宗為置奚彈州處安之。

抜野古は一に抜野固と曰い、或いは抜曳固と為す、磧北に漫散し、地千里、直に仆骨の東にし、靺鞨に隣る。帳戸六万、兵万人。地に薦草有り、良馬・精鉄を産す。川有り康幹河と曰い、松を断ちて之に投ずれば、三年にして輒ち石と化し、色蒼致なり、然れども節理猶在り、世に康幹石と謂う者は是なり。俗は狩猟射を嗜み、耕獲少なく、木に乗りて氷上に鹿を逐う。風俗は大抵鉄勒なり、言語少しく異なる。貞観三年、仆骨・同羅・奚・霫と同に入朝す。二十一年、大俟利発屈利失挙部内属し、幽陵都督府を置き、屈利失を右武衛大将軍に拝し、即ち都督と為す。顕慶の時、思結・仆固・同羅と叛き、左武衛大将軍鄭仁泰を以て之を撃ち、其の渠首を斬る。天宝の間に至り、能く自ら来朝す。

原文拔野古一曰拔野固,或為拔曳固,漫散磧北,地千里,直仆骨東,鄰於靺鞨。帳戶六萬,兵萬人。地有薦草,產良馬、精鐵。有川曰康幹河,斷松投之,三年輒化為石,色蒼致,然節理猶在,世謂康幹石者。俗嗜獵射,少耕獲,乘木逐鹿冰上。風俗大抵鐵勒也,言語少異。貞觀三年,與仆骨、同羅、奚、霫同入朝。二十一年,大俟利發屈利失舉部內屬,置幽陵都督府,拜屈利失右武衛大將軍,即為都督。顯慶時,與思結、仆固、同羅叛,以左武衛大將軍鄭仁泰擊之,斬其渠首。至天寶間,能自來朝。

仆骨は亦た仆固と曰い、多覧葛の東に在り。帳戸三万、兵万人。地最も北に在り、俗梗驁にして、召率し難し。始め突厥に臣し、後に薛延陀に附す。延陀滅び、其の酋娑匐俟利発歌濫抜延始めて内属し、其の地を以て金微州と為し、歌濫抜延を右武衛大将軍・州都督に拝す。開元初め、首領仆固に為って殺され、朔方に詣りて降る、有司之を誅す。子曰く懐恩、至徳の時に功を以て朔方節度使に至り、自ら伝有り。

原文仆骨亦曰仆固,在多覽葛之東。帳戶三萬,兵萬人。地最北,俗梗驁,難召率。始臣突厥,後附薛延陀。延陀滅,其酋娑匐俟利發歌濫拔延始內屬,以其地為金微州,拜歌濫拔延為右武衛大將軍、州都督。開元初,為首領仆固所殺,詣朔方降,有司誅之。子曰懷恩,至德時以功至朔方節度使,自有傳。

同羅は薛延陀の北、多覧葛の東に在り、京師を距ること七千里余り、勝兵三万。貞観二年、使者を遣わして入朝す。久しくして、内属を請い、亀林都督府を置き、酋俟利発時健啜を左領軍大将軍に拝し、即ち都督を授く。安禄山反し、其の兵を劫いて之を用い、号して「曳落河」と為す者なり。曳落河は、猶言わく健児と云う。

原文同羅在薛延陀北,多覽葛之東,距京師七千里而贏,勝兵三萬。貞觀二年,遣使者入朝。久之,請內屬,置龜林都督府,拜酋俟利發時健啜為左領軍大將軍,即授都督。安祿山反,劫其兵用之,號「曳落河」者也。曳落河,猶言健兒雲。

渾は諸部中最も南なる者なり。突厥頡利敗れたる時、俟利発阿貪支有りて塞に款く。薛延陀の滅び、大俟利発渾汪挙部内向し、其の地を以て臯蘭都督府と為し、後に東・西州に分つ。太宗は阿貪支が汪に属して尊きを以て、訳者を遣わし汪を諷す、汪欣然として位を避く。帝其の譲を嘉し、阿貪支を右領軍衛大将軍・臯蘭州刺史と為し、汪を雲麾将軍兼俟利発と為して其の副とす。阿貪支死し、子回貴嗣ぐ。回貴死し、子大寿嗣ぐ。大寿死し、子釈之嗣ぐ。釈之は鷙勇凡ならず、哥舒翰に従い石堡城を抜き、右武衛大将軍に遷り、汝南郡公に封ぜらる。李光弼河陽を保つに、釈之は朔方都知兵馬使を以て裨将ひしょうと為り、寧朔郡王に進み、朔方節度留後を知る。仆固懐恩の走るや、声は帰鎮と為す。釈之曰く、「是れ必ず衆潰けん」と。将に之を拒がんとす、其の甥張韶曰く、「彼悔禍して鎮に還らば、渠か納れざらんや?」と。釈之之を信じ、乃ち懐恩を納る。懐恩已に入り、韶をして釈之を殺さしめ、其の軍を収む。已にして韶を悪み、罵りて曰く、「若し舅に負くば、肯て我に忠ならんや?」と。其の脛を折り、弥峨城に囚して死せしむ。釈之の子瑊は、建中の功臣なり、自ら伝有り。

原文渾在諸部最南者。突厥頡利敗時,有俟利發阿貪支款塞。薛延陀之滅,大俟利發渾汪舉部內向,以其地為臯蘭都督府,後分東、西州。太宗以阿貪支於汪屬尊,遣譯者諷汪,汪欣然避位。帝嘉其讓,以阿貪支為右領軍衛大將軍、臯蘭州刺史,汪雲麾將軍兼俟利發為之副。阿貪支死,子回貴嗣。回貴死,子大壽嗣。大壽死,子釋之嗣。釋之鷙勇不凡,從哥舒翰拔石堡城,遷右武衛大將軍,封汝南郡公。李光弼保河陽,釋之以朔方都知兵馬使為裨將,進寧朔郡王,知朔方節度留後。仆固懷恩之走,聲為歸鎮。釋之曰:「是必眾潰。」將拒之,其甥張韶曰:「彼如悔禍還鎮,渠可不納?」釋之信之,乃納懷恩。懷恩已入,使韶殺釋之,收其軍。已而惡韶,罵曰:「若負舅,肯忠於我?」折其脛,囚死彌峨城。釋之子瑊,建中功臣也,自有傳。

契苾は亦た契苾羽と曰い、焉耆西北の鷹娑川、多覧葛の南に在り。其の酋哥楞自ら易勿真莫賀可汗と号し、弟莫賀咄特勒、皆勇有り。莫賀咄死し、子何力尚紐其の部を率いて来帰す、時に貞観六年なり。詔して之を甘・涼の間に処し、其の地を以て榆渓州と為す。永徽四年、其の部を以て賀蘭都督府と為し、燕然都護に隷す。何力は戦功有り、忠節の臣なり。大和の中、其の種帳振武に附すと云う。

原文契亦曰契羽,在焉耆西北鷹娑川,多覽葛之南。其酋哥楞自號易勿真莫賀可汗,弟莫賀咄特勒,皆有勇。莫賀咄死,子何力尚紐率其部來歸,時貞觀六年也。詔處之甘、涼間,以其地為榆溪州。永徽四年,以其部為賀蘭都督府,隸燕然都護。何力有戰功,忠節臣也。大和中,其種帳附於振武雲。

多覧葛は亦た多濫と曰い、薛延陀の東に在り、同羅水に濱り、勝兵万人。延陀已に滅び、其の酋俟斤多濫葛末回紇と皆朝し、其の地を以て燕然都督府と為し、右衛大将軍を授け、即ち府都督と為す。死し、多濫葛塞匐を大俟利発と為し、継いで都督と為す。

原文多覽葛亦曰多濫,在薛延陀東,濱同羅水,勝兵萬人。延陀已滅,其酋俟斤多濫葛末與回紇皆朝,以其地為燕然都督府,授右衛大將軍,即為府都督。死,以多濫葛塞匐為大俟利發,繼為都督。

阿跌は、亦た訶咥と曰い、或いは跌と為す。始め抜野古等と皆朝し、其の地を以て鶏田州と為す。開元の中、跌思泰自ら突厥黙啜の所より来降す。其の後、光進・光顔皆戦功を以て大官に至り、李氏を賜い、属籍に附し、自ら伝有り。

原文阿跌,亦曰訶咥,或為跌。始與拔野古等皆朝,以其地為雞田州。開元中,跌思泰自突厥默啜所來降。其後,光進、光顏皆以戰功至大官,賜李氏,附屬籍,自有傳。

葛邏禄は本より突厥諸族、北庭の西北・金山の西に在り、仆固振水に跨り、多怛嶺を包み、車鼻部に接す。三族有り:一は謀落、或いは謀刺と為す;二は熾俟、或いは婆匐と為す;三は踏實力。永徽初め、高偘の車鼻可汗を伐つに、三族皆内属す。顕慶二年、謀落部を以て陰山都督府と為し、熾俟部を大漠都督府と為し、踏実力部を玄池都督府と為し、即ち其の酋長を以て都督と為す。後に熾俟部を分ちて金附州を置く。三族は東・西突厥の間に当たり、常に其の興衰を視、附叛常ならず。後稍々南に徙り、自ら「三姓葉護」と号し、兵強く、闘を甘んじ、廷州以西の諸突厥皆之を畏る。開元初め、再び来朝す。天宝の時、回紇・抜悉蜜と共に烏蘇米施可汗を攻め殺し、又回紇と抜悉蜜を撃ち、其の可汗阿史那施を北庭に走らしめ、京師に奔らしむ。葛禄は九姓と復た回紇葉護を立て、所謂懐仁可汗なる者なり。ここにおいて葛禄の烏徳犍山に処する者は回紇に臣し、金山・北庭に在る者は自ら葉護を立て、歳来朝す。久しくして、葉護頓毗伽突厥の叛酋阿布思を縛し、進めて金山郡王に封ぜらる。天宝の間、凡そ五朝す。至徳の後、葛邏禄浸く盛んにして、回紇と強を争い、十姓可汗の故地に徙り、尽く碎葉・怛邏斯諸城を有す。然れども回紇に限らる、故に朝会自ら朝に達すること能わず。

原文葛邏祿本突厥諸族,在北庭西北、金山之西,跨仆固振水,包多怛嶺,與車鼻部接。有三族:一謀落,或為謀刺;二熾俟,或為婆匐;三踏實力。永徽初,高偘之伐車鼻可汗,三族皆內屬。顯慶二年,以謀落部為陰山都督府,熾俟部為大漠都督府,踏實力部為玄池都督府,即用其酋長為都督。後分熾俟部置金附州。三族當東、西突厥間,常視其興衰,附叛不常也。後稍南徙,自號「三姓葉護」,兵強,甘於鬥,廷州以西諸突厥皆畏之。開元初,再來朝。天寶時,與回紇、拔悉蜜共攻殺烏蘇米施可汗,又與回紇擊拔悉蜜,走其可汗阿史那施於北庭,奔京師。葛祿與九姓復立回紇葉護,所謂懷仁可汗者也。於是葛祿之處烏德犍山者臣回紇,在金山、北庭者自立葉護,歲來朝。久之,葉護頓毗伽縛突厥叛酋阿布思,進封金山郡王。天寶間,凡五朝。至德後,葛邏祿浸盛,與回紇爭強,徙十姓可汗故地,盡有碎葉、怛邏斯諸城。然限回紇,故朝會不能自達於朝。

抜悉蜜は、貞観二十三年始めて来朝す。天宝初め、回紇葉護と突厥可汗を撃殺し、抜悉蜜の大酋阿史那施を立てて賀臘毗伽可汗と為し、使者を遣わして入謝す、玄宗紫文袍・金鈿帯・魚袋を賜う。三歳ならずして、葛邏禄・回紇に破られ、北庭に奔る。後に京師に朝し、左武衛将軍に拝せらる。地と衆は回紇に帰す。

原文拔悉蜜,貞觀二十三年始來朝。天寶初,與回紇葉護擊殺突厥可汗,立拔悉蜜大酋阿史那施為賀臘毗伽可汗,遣使者入謝,玄宗賜紫文袍、金鈿帶、魚袋。不三歲,為葛邏祿、回紇所破,奔北庭。後朝京師,拜左武衛將軍,地與眾歸回紇。

都播は、また都波ともいう。その地は北は小海に臨み、西は堅昆に接し、南は回紇に接する。三部に分かれ、いずれも独自に統制する。その習俗には歳時がない。草を結んで廬とする。畜牧はなく、耕作のことを知らず、土には百合草が多く、その根を摘んで飯とし、魚・鳥・獣を捕らえて食う。貂や鹿の皮を衣とし、貧しい者は鳥の羽を綴じて衣服とする。その婚姻は、富める者は馬を納め、貧しき者は鹿皮や草の根を贈る。死ぬと木の棺に納めて山中に置き、あるいは樹に繋ぐ。葬送の哭泣は突厥と同じである。刑罰はなく、盗みを働いた者は贓物の倍を償わせる。貞観二十一年、骨利幹に因って入朝し、また使者を通じて中国に通じた。

原文都播,亦曰都波,其地北瀕小海,西堅昆,南回紇,分三部,皆自統制。其俗無歲時。結草為廬。無畜牧,不知稼穡,土多百合草,掇其根以飯,捕魚、鳥、獸食之。衣貂鹿皮,貧者緝鳥羽為服。其昏姻,富者納馬,貧者效鹿皮草根。死以木櫝斂置山中,或系於樹,送葬哭泣,與突厥同。無刑罰,盜者倍輸其贓。貞觀二十一年,因骨利幹入朝,亦以使通中國。

骨利幹は瀚海の北にあり、勝兵五千。草には百合が多い。良馬を産し、頭は橐駝に似て、筋骨骨格が壮大で、日中に数百里を馳せる。その地は北は海に至り、京師から最も遠く、また北に海を渡れば則ち昼長夜短となり、日が入って羊の肩甲骨を煮ると、熟する頃には東方は既に明るく、これは日の出る所に近いためである。既に入朝したので、詔して雲麾将軍康蘇蜜を遣わして労い答えさせ、その地を玄闕州とした。その大酋の俟斤が使者に因って馬を献上し、帝はその異なるものを取り十驥と号し、皆美名を付けた。曰く「騰霜白」、曰く「皎雪驄」、曰く「凝露驄」、曰く「懸光驄」、曰く「決波騟」、曰く「飛霞驃」、曰く「発電赤」、曰く「流金𤫩」、曰く「翔麟紫」、曰く「奔虹赤」。その使者を厚く礼遇した。龍朔年中、玄闕州を余吾州と改め、瀚海都督府に隷属させた。延載初年、また来朝した。

原文骨利幹處瀚海北,勝兵五千。草多百合。產良馬,首似橐它,筋骼壯大,日中馳數百里。其地北距海,去京師最遠,又北度海則晝長夜短,日入亨羊胛,熟,東方已明,蓋近日出處也。既入朝,詔遣雲麾將軍康蘇蜜勞答,以其地為玄闕州。其大酋俟斤因使者獻馬,帝取其異者號十驥,皆為美名:曰「騰霜白」,曰「皎雪驄』,曰「凝露驄」,曰「縣光驄」,曰「決波騟』,曰「飛霞驃」,曰「發電赤」,曰「流金〓瓜」,曰「翔麟紫」,曰「奔虹赤」,厚禮其使。龍朔中,以玄闕州更為余吾州,隸瀚海都督府。延載初,亦來朝。

白霫は鮮卑の故地に居り、京師の東北五千里に直し、同羅・仆骨に接する。薛延陀を避けて、奥支水・冷陘山を保ち、南は契丹、北は烏羅渾、東は靺鞨、西は抜野古に接し、地は円く広がること二千里、山が外を巡り、勝兵一万人。射猟を業とし、赤皮で衣の縁を飾り、婦人は銅の釧を貫き、子鈴を襟に綴じる。その部には三つあり、居延・無若没・潢水という。その君長は突厥の頡利可汗に臣として俟斤となる。貞観年中に再び来朝し、後にその地を寘顔州とし、別部を以て居延州とし、即ち俟斤を用いて刺史とした。顕慶五年、酋長李含珠を居延都督に授けた。含珠が死ぬと、弟の厥都が継いだ。後は聞くところがない。

原文白霫居鮮卑故地,直京師東北五千里,與同羅、仆骨接。避薛延陀,保奧支水、冷陘山,南契丹,北烏羅渾,東靺鞨,西拔野古,地圓袤二千里,山繚其外,勝兵萬人。業射獵,以赤皮緣衣,婦貫銅釧,以子鈴綴襟。其部有三:曰居延,曰無若沒,曰潢水。其君長臣突厥頡利可汗為俟斤。貞觀中再來朝,後列其地為寘顏州,以別部為居延州,即用俟斤為刺史。顯慶五年,授酋長李含珠為居延都督。含珠死,弟厥都繼之。後無聞焉。

斛薛は多濫葛の北にあり、勝兵一万人。奚結は同羅の北にあり、思結は延陀の故牙に在り、二部合わせて兵は凡そ二万。既に来朝したので、その地を州県として列した。太宗の時、北狄で自ら通じたものに、また烏羅渾があり、あるいは烏洛侯、烏羅護といい、京師の東北六千里余に直し、東は靺鞨、西は突厥、南は契丹、北は烏丸に接し、大抵風俗は皆靺鞨と同じである。烏丸はあるいは古丸という。

原文斛薛處多濫葛北,勝兵萬人。奚結處同羅北,思結在延陀故牙,二部合兵凡二萬。既來朝,列其地州縣之。太宗時,北狄能自通者,又有烏羅渾,或曰烏洛侯,曰烏羅護,直京師東北六千里而贏,東靺鞨,西突厥,南契丹,北烏丸,大抵風俗皆靺鞨也。烏丸或曰古丸。

また鞠があり、あるいは祴といい、抜野古の東北に居り、木はあるが草はなく、地には苔が多い。羊馬はなく、人は鹿を牛馬のように飼い、ただ苔を食い、習俗として車を駕する。また鹿の皮を以て衣とし、木を集めて屋を作り、尊卑共に住む。また俞折というものがあり、地はやや大きく、習俗は抜野古とほぼ等しい。羊馬は少なく、貂鼠が多い。

原文又有鞠,或曰祴,居拔野古東北,有木無草,地多苔。無羊馬,人豢鹿若牛馬,惟食苔,俗以駕車。又以鹿皮為衣,聚木作屋,尊卑共居。又有俞折者,地差大,俗與拔野古相埒。少羊馬,多貂鼠。

また駁馬というものがあり、あるいは弊剌、遏羅支といい、突厥の北に直し、京師から一万四千里。水草に従うが、しかし山に居ることを好み、勝兵三万。地は常に積雪し、木は枯れない。馬で田を耕し、馬の色は皆駁であるため、これによって国名としたという。北は海に極まり、馬を畜うが乗らず、湩酪を資として食う。結骨と戦うことを好み、人の容貌は多く結骨に似るが、言葉は通じない。皆髪を剃り、樺皮の帽をかぶる。木を構えて井幹の類いとし、樺を覆って室とする。それぞれ小君長があり、互いに臣とすることはできない。

原文又有駁馬者,或曰弊剌,曰遏羅支,直突厥之北,距京師萬四千里。隨水草,然喜居山,勝兵三萬。地常積雪,木不雕。以馬耕田,馬色皆駁,因以名國雲。北極於海,雖畜馬而不乘,資湩酪以食。好與結骨戰,人貌多似結骨,而語不相通。皆劗發,樺皮帽。構木類井幹,覆樺為室。各有小君長,不能相臣也。

大漢は、鞠の北にあり、羊馬に富み、人物は背が高いので、自ら名とした。鞠と共に黠戛斯の剣海の辺に隣接する。これらは皆古来未だ賓服しなかったもので、貞観から永徽に至るまで、貂や馬を奉じて入朝し、あるいは一再至った。

原文大漢者,處鞠之北,饒羊馬,人物頎大,故以自名。與鞠俱鄰於黠戛斯劍海之瀕。此皆古所未賓者,當貞觀逮永徽,奉貂馬入朝,或一再至。

黠戛斯は、古の堅昆国である。地は伊吾の西、焉耆の北、白山の傍に当たる。あるいは居勿、結骨という。その種族は丁零と雑じ、すなわち匈奴の西の辺鄙である。匈奴は漢の降将李陵を右賢王とし、衛律を丁零王に封じた。後、郅支単于が堅昆を破り、当時東は単于廷から七千里、南は車師から五千里で、郅支は留まってここを都とした。故に後世その地を得た者が訛って結骨とし、稍々に紇骨と号し、また紇扢斯ともいう。衆数十万、勝兵八万、回紇の西北三千里に直し、南は貪漫山に依る。地は夏は沮洳し、冬は積雪する。人は皆長大で、赤髪・皙面・緑瞳、黒髪を不祥とする。黒瞳の者は、必ずや李陵の苗裔だという。男少なく女多く、環を以て耳に貫き、習俗は軽捷で剛直、男子は男たるやその手に黥し、女は既に嫁げば項に黥す。雑居して多く淫佚である。

原文黠戛斯,古堅昆國也。地當伊吾之西,焉耆北,白山之旁。或曰居勿,曰結骨。其種雜丁零,乃匈奴西鄙也。匈奴封漢降將李陵為右賢王,衛律為丁零王。後郅支單於破堅昆,於時東距單於廷七千里,南車師五千里,郅支留都之。故後世得其地者訛為結骨,稍號紇骨,亦曰紇扢斯雲。眾數十萬,勝兵八萬,直回紇西北三千里,南依貪漫山。地夏沮洳,冬積雪。人皆長大,赤發、皙面、綠瞳,以黑髮為不祥。黑瞳者,必曰陵苗裔也。男少女多,以環貫耳,俗趫伉,男子有男黥其手,女已嫁黥項。雜居多淫佚。

歳首を茂師哀と呼び、三哀を以て一時とし、十二の物を以て年を紀し、歳が寅にあるならば則ち虎年という。気候は寒さが多く、大河といえども半ば氷る。禾・粟・大小麦・青稞があり、歩硙で粉にして糜とする。穄は三月に種を播き、九月に獲り、飯とし、酒を醸すが、果蔬はない。畜は、馬は非常に壮大で、善く闘うものを頭馬とし、橐駝・牛・羊があり、牛が多く、富める農家は数千に至る。その獣には野馬・骨咄・黄羊・原羝・鹿・黒尾があり、黒尾は獐に似て、尾が大きく黒い。魚には、蔑というものは長さ七八尺、莫痕というものは骨がなく、口が頤の下から出る。鳥には、雁・鶩・烏鵲・鷹・隼がある。木には、松・樺・榆・柳・蒲がある。松の高いものは仰ぎ射ても頂に及ばず、而して樺は特に多い。金・鉄・錫があり、雨の度に、俗に必ず鉄を得、迦沙と号し、兵器として極めて犀利で、常に突厥に輸した。その戦いには弓矢・旗幟があり、その騎士は木を析いて盾とし、股足を蔽い、また円盾を肩に付け、矢刃を防ぐ。

原文謂歲首為茂師哀,以三哀為一時,以十二物紀年,如歲在寅則曰虎年。氣多寒,雖大河亦半冰。稼有禾、粟、大小麥、青稞,步硙以為面糜。穄以三月種,九月獲,以飯,以釀酒,而無果蔬。畜,馬至壯大,以善鬥者為頭馬,有橐它、牛、羊,牛為多,富農至數千。其獸有野馬、骨咄、黃羊、原羝、鹿、黑尾,黑尾者似獐,尾大而黑。魚,有蔑者長七八尺,莫痕者無骨,口出頤下。鳥,雁、鶩、烏鵲、鷹、隼。木,松、樺、榆、柳、蒲。松高者仰射不能及顛,而樺尤多。有金、鐵、錫,每雨,俗必得鐵,號迦沙,為兵絕犀利,常以輸突厥。其戰有弓矢、旗幟,其騎士析木為盾,蔽股足,又以圓盾傅肩,而捍矢刃。

その君を「阿熱」といい、遂に姓を阿熱氏とし、一つの纛を建て、下は皆赤を尚び、余は部落を以てその号とする。服は貂・豽を貴び、阿熱は冬は貂の帽、夏は金釦の帽で、頂は鋭く末は巻き、諸下は皆白氈の帽をかぶり、喜んで刀礪を佩き、賤しき者は皮を衣とし帽をかぶらず、女は毳毼・錦・罽・綾を衣とし、これは安西・北庭・大食で貿易販売されたものである。阿熱は青山に牙を駐め、柵を巡らして垣に代え、氈を聯ねて帳とし、「密的支」と号し、他の首領は小帳に居る。凡そ兵を調発する時は、諸部で役属する者は悉く行く。内では貂鼠・青鼠を賦とする。その官には、宰相・都督・職使・長史・将軍・達幹の六等がある。宰相七、都督三、職使十、皆兵を掌る。長史十五、将軍・達幹は員数なし。諸部は肉及び馬の酪を食うが、惟だ阿熱のみ餅餌を設ける。楽には笛・鼓・笙・觱篥・盤鈴がある。戯には弄駝・師子・馬伎・縄伎がある。神を祠るには惟だ水草を主とし、祭る時はなく、巫を「甘」と呼ぶ。婚姻には羊馬を納めて聘とし、富める者は或いは百千を数える。喪には面を剺かず、三たび屍を巡って哭し、乃ちこれを火にし、その骨を収め、一年して乃ち墓とし、然る後に器泣に節がある。冬は室に処り、木の皮を以て覆う。その文字あざな言語は、回鶻と全く同じである。法は最も厳しく、陣に臨んで橈む者・使を奉じて称せざる者・妄りに国を議する者・盗みを働く者は皆首を断つ。子が盗みを働けば、その首を父の頸に着け、死ななければ脱がせない。

原文其君曰「阿熱」,遂姓阿熱氏,建一纛,下皆尚赤,余以部落為之號。服貴貂、豽,阿熱冬帽貂,夏帽金扣,銳頂而卷末,諸下皆帽白氈,喜佩刀礪,賤者衣皮不帽,女衣毳毼、錦、罽、綾,蓋安西、北庭、大食所貿售也。阿熱駐牙青山,周柵代垣,聯氈為帳,號「密的支」,它首領居小帳。凡調兵,諸部役屬者悉行。內貂鼠、青鼠為賦。其官,宰相、都督、職使、長史、將軍、達幹六等。宰相七,都督三、職使十,皆典兵;長史十五,將軍、達幹無員。諸部食肉及馬酪,惟阿熱設餅餌。樂有笛、鼓、笙、觱篥、盤鈴。戲有弄駝、師子、馬伎、繩伎。祠神惟主水草,祭無時,呼巫為「甘」。昏嫁納羊馬以聘,富者或百千計。喪不剺面,三環屍哭,乃火之,收其骨,歲而乃墓,然後器泣有節。冬處室,木皮為覆。其文字言語,與回鶻正同。法最嚴,臨陣橈、奉使不稱、妄議國若盜者皆斷首;子為盜,以首著父頸,非死不脫。

阿熱の牙帳から回鶻の牙帳に至るまで、駱駝で四十日の行程である。使者の道は天徳を出て右に二百里ほどで西受降城に至り、北に三百里ほどで〓鵜泉に至る。泉の西北から回鶻の牙帳まで千五百里ほどで、東・西二道があり、泉の北は東道である。回鶻の牙帳の北六百里に仙娥河があり、河の東北を雪山といい、地には水泉が多い。青山の東に、剣河という水があり、たまたま舟を用いて渡る。水はすべて東北に流れ、その国を経て合流し、北に流れて海に入る。

原文阿熱牙至回鶻牙所,橐它四十日行。使者道出天德右二百里許抵西受降城,北三百里許至〓鵜泉,泉西北至回鶻牙千五百里許,而有東、西二道,泉之北,東道也。回鶻牙北六百里得仙娥河,河東北曰雪山,地多水泉。青山之東,有水曰劍河,偶艇以度,水悉東北流,經其國,合而北入於海。

東は木馬突厥の三部落に至り、都播・彌列・哥餓支といい、その酋長は皆頡斤と為す。樺皮で室を覆い、良馬多く、俗に木馬に乗って氷上を馳せ、板を以て足を支え、木を曲げて腋を支え、蹴ればすなわち百歩、勢い迅疾である。夜は鈔盗し、昼は伏匿し、堅昆の人は以て之を役属す。

原文東至木馬突厥三部落,曰都播、彌列、哥餓支,其酋長皆為頡斤。樺皮覆室,多善馬,俗乘木馬馳冰上,以板藉足,屈木支腋,蹴輒百步,勢迅激。夜鈔盜,晝伏匿,堅昆之人得以役屬之。

堅昆は、もと強国なり。地は突厥と等しく、突厥は女を以て其の酋豪に妻とす。東は骨利幹に至り、南は吐蕃、西南は葛邏祿なり。初め薛延陀に隷し、延陀は頡利発一人を以て国を監せしむ。其の酋長三人、訖悉輩・居沙波輩・阿米輩と曰い、共に其の国を治め、未だ嘗て中国と通ぜず。貞観二十二年、鉄勒等已に臣に入れりと聞き、すなわち使者を遣わして方物を献ず。其の酋長俟利発失缽屈阿棧、身自ら朝に入る。太宗之を労いて饗し、群臣に謂いて曰く、「往時渭橋にて三突厥を斬り、自ら功多しと謂えり。今俟利発席に在り、更に之に過ぐるを覚ゆ」と。俟利発酒酣に、願わくは笏を執るを得んと奏す。帝其の地を以て堅昆府と為し、俟利発を左屯衛大将軍に拝し、即ち都督と為し、燕然都護に隷す。高宗の世、再び朝す。景龍中、方物を献ず。中宗使者を引いて之を労し曰く、「而が国は我と宗を同じくす、他の蕃に比ぶるに非ず」と。酒を以て属けしむ。使者頓首す。玄宗の世、四たび朝献す。

原文堅昆,本強國也,地與突厥等,突厥以女妻其酋豪,東至骨利幹,南吐蕃,西南葛邏祿。始隸薛延陀,延陀以頡利發一人監國。其酋長三人,曰訖悉輩,曰居沙波輩,曰阿米輩,共治其國,未始與中國通。貞觀二十二年,聞鐵勒等已入臣,即遣使者獻方物,其酋長俟利發失缽屈阿棧身入朝,太宗勞享之,謂群臣曰:「往渭橋斬三突厥,自謂功多,今俟利發在席,更覺過之。」俟利發酒酣,奏願得持笏,帝以其地為堅昆府,拜俟利發左屯衛大將軍,即為都督,隸燕然都護。高宗世,再來朝。景龍中,獻方物,中宗引使者勞之曰:「而國與我同宗,非它蕃比。」屬以酒,使者頓首。玄宗世,四朝獻。

乾元中、回紇に破られ、自ら是より中国に通ずる能わず。後に狄語訛って黠戛斯と為す。蓋し回鶻之を謂う、黄赤面の雲の若しと曰うなり。又訛って戛戛斯と為す。然れども常に大食・吐蕃・葛禄と相依仗す。吐蕃の往来する者は回鶻の剽鈔を畏れ、必ず葛禄に住し、以て黠戛斯の護送を待つ。大食に重錦あり、其の載すること二十駱駝にして乃ち勝つ。既に兼ねて負うべからず、故に裁ちて二十匹と為し、毎に三歳に一たび黠戛斯に餉る。而して回鶻は其の君長阿熱に官を授けて「毗伽頓頡斤」と為す。

原文乾元中,為回紇所破,自是不能通中國。後狄語訛為黠戛斯,蓋回鶻謂之,若曰黃赤面雲,又訛為戛戛斯。然常與大食、吐蕃、葛祿相依杖,吐蕃之往來者畏回鶻剽鈔,必住葛祿,以待黠戛斯護送。大食有重錦,其載二十橐它乃勝,既不可兼負,故裁為二十匹,每三歲一餉黠戛斯。而回鶻授其君長阿熱官為「毗伽頓頡斤」。

回鶻稍々衰う。阿熱すなわち自ら可汗と称す。其の母は突騎施の女なり、母可敦と為す。妻は葛禄葉護の女なり、可敦と為す。回鶻宰相を遣わして之を伐つも、勝たず。挐斗二十年解けず。阿熱勝ちに恃み、乃ち肆に詈りて曰く、「爾が運尽きたり。我将に爾が金帳を収め、爾が帳前に我が馬を馳せ、我が旗を植えん。爾能く抗わば、亟に来れ。即ち能わざれば、当に疾く去るべし」と。回鶻討つ能わず。其の将句録莫賀、阿熱を導きて回鶻可汗を破り殺す。諸特勒皆潰く。阿熱身自ら将たり。其の牙及び公主の廬したる金帳(回鶻可汗常に坐す所なり)を焚く。乃ち悉く其の宝貲を収め、併せて太和公主を得、遂に牙を牢山の南に徙す。牢山は亦た賭満と曰う。回鶻の旧牙より馬行十五日の距離なり。阿熱、公主は唐の貴女なるを以て、使者を遣わし衛送して公主を還朝せしむ。回鶻の烏介可汗之を邀え取り、併せて使者を殺す。

原文回鶻稍衰,阿熱即自稱可汗。其母,突騎施女也,為母可敦;妻葛祿葉護女,為可敦。回鶻遣宰相伐之,不勝,挐鬥二十年不解。阿熱恃勝,乃肆詈曰:「爾運盡矣!我將收爾金帳,於爾帳前馳我馬,植我旗,爾能抗,亟來,即不能,當疾去。」回鶻不能討,其將句錄莫賀導阿熱破殺回鶻可汗,諸特勒皆潰。阿熱身自將,焚其牙及公主所廬金帳者,回鶻可汗常坐也。乃悉收其寶貲,並得太和公主,遂徙牙牢山之南。牢山亦曰賭滿,距回鶻舊牙度馬行十五日。阿熱以公主唐貴女,遣使者衛送公主還朝,為回鶻烏介可汗邀取之,並殺使者。

会昌中、阿熱、使者の殺されたるを以て、朝に通ずる由無く、復た註吾合素を遣わし上書して状を言う。註吾は虜の姓なり。合は猛を言い、素は左なり。武猛にして善く左射する者を謂う。行くこと三歳にして京師に至る。武宗大いに悦び、渤海の使者の上に班し、其の処の窮遠なるに在りて能く職貢を脩むるを以て、命じて太僕卿趙蕃に節を持たしめて其の国を臨慰せしめ、詔して宰相に即ち鴻臚寺に使者を見えしめ、訳官をして山川国風を考せしむ。宰相徳裕上言す、「貞観の時、遠国皆来たり、中書侍郎顔師古周の史臣の四夷の朝事を集めて『王会篇』と為さんことを請う。今黠戛斯大いに中国に通ず。宜しく『王会図』を為して以て後世に示すべし」と。詔有りて鴻臚の得たる所の繖を以て之を著す。又詔して阿熱に宗正の属籍を著せしむ。

原文會昌中,阿熱以使者見殺,無以通於朝,復遣註吾合素上書言狀。註吾,虜姓也;合,言猛;素者,左也,謂武猛善左射者。行三歲至京師,武宗大悅,班渤海使者上,以其處窮遠,能脩職貢,命太仆卿趙蕃持節臨慰其國,詔宰相即鴻臚寺見使者,使譯官考山川國風。宰相德裕上言:「貞觀時,遠國皆來,中書侍郎顏師古請如周史臣集四夷朝事為《王會篇》。今黠戛斯大通中國,宜為《王會圖》以示後世。」有詔以鴻臚所得繢著之。又詔阿熱著宗正屬籍。

是の時、烏介可汗の余衆は黒車子に托る。阿熱願わくは秋馬肥えるに乗じて之を撃ち取らんとし、天子に表して師を請う。帝給事中劉濛をして巡辺使と為さしむ。朝廷亦た河・隴四鎮十八州久しく戎狄に淪ちたるを以て、幸いに回鶻破れ弱り、吐蕃乱れ、相残嚙む、其の衰に乗ずべしとす。乃ち右散騎常侍李拭を以て黠戛斯に使わし、君長を冊して宗英雄武誠明可汗と為す。未だ行かずして武宗崩ず。宣宗位を嗣ぎ、先帝の意の如くせんと欲す。或いは謂う、黠戛斯は小種、唐と抗するに足らずと。詔して宰相と臺省四品以上の官に議せしむ。皆曰く、「回鶻盛時の冊号有り。今幸いに衰亡し、又黠戛斯に加う。後且つ患いを生ぜん」と。乃ち止む。大中元年に至り、卒に詔して鴻臚卿李業に節を持たしめて黠戛斯を冊し英武誠明可汗と為す。咸通の間に逮び、三たび来朝す。然れども卒に回鶻を取る能わず。後の朝聘冊命は、史臣伝うるを失う。

原文是時,烏介可汗餘眾托黑車子,阿熱願乘秋馬肥擊取之,表天子請師。帝令給事中劉濛為巡邊使,朝廷亦以河、隴四鎮十八州久淪戎狄,幸回鶻破弱,吐蕃亂,相殘嚙,可乘其衰。乃以右散騎常侍李拭使黠戛斯,冊君長為宗英雄武誠明可汗。未行,而武宗崩。宣宗嗣位,欲如先帝意,或謂黠戛斯小種,不足與唐抗,詔宰相與臺省四品以上官議,皆曰:「回鶻盛時有冊號,今幸衰亡,又加黠戛斯,後且生患。」乃止。至大中元年,卒詔鴻臚卿李業持節冊黠戛斯為英武誠明可汗。逮咸通間,三來朝。然卒不能取回鶻。後之朝聘冊命,史臣失傳。

賛に曰く、夷狄は悍貪を資とし、人外にして獣内、惟だ剽奪を是れ視る。故に湯・武の興るも、未だ嘗て之と功を共にせず。蓋し疏にして戚ならざるなり。太宗初め興り、嘗て突厥を用いしも、其の暴に勝えず、卒に縛して之を臣とす。粛宗回紇を用いしも、華人を略し、太子を辱しめ、近臣を笞殺し、求索倪無きに至る。徳宗又吐蕃を用いしも、平涼を劫し、上将を敗り、西陲を空しく破る。所謂外禍を引いて内乱を平らぐる者なり。夫れ之を用うるに権を以てし、之を制するに謀を以てするは、惟だ太宗能く之く。若し二主懦昏にして、狃れて之を狎すれば、烏ぞ其の弊に勝えんや。彼之を親くれば則ち責償も多く、慊として満たざれば則ち怨みを滋し、仁義を以て化すれば則ち頑なり。法を以て示せば則ち忿り、我が険易に熟すれば則ち患い博くして惨なり。餒を療するに冶葛を以てす、何の時か可ならん。故に『春秋』夷狄を許す者は、一に足らず。信なるかな。

原文贊曰:夷狄資悍貪,人外而獸內,惟剽奪是視。故湯、武之興,未嘗與共功,蓋疏而不戚也。太宗初興,嘗用突厥矣,不勝其暴,卒縛而臣之。肅宗用回紇矣,至略華人,辱太子,笞殺近臣,求索無倪。德宗又用吐蕃矣,劫平涼,敗上將,空破西陲。所謂引外禍平內亂者也。夫用之以權,制之以謀,惟太宗能之。若二主懦昏,狃而狎之,烏勝其弊哉!彼親之則責償也多,慊而不滿則滋怨,化以仁義則頑,示以法則忿,熟我險易則為患也博而慘,療餒以冶葛,何時可哉?故《春秋》許夷狄者,不一而足,信矣。