新唐書

巻二百一十七上 列傳第一百四十二上 回鶻上

回紇は、その先祖は匈奴である。俗に高輪車に乗ることが多く、元魏の時もまた高車部と号し、あるいは敕勒といい、訛って鉄勒となった。その部落は袁紇・薛延陀・契苾・都播・骨利幹・多覧葛・仆骨・抜野古・同羅・渾・思結・斛薛・奚結・阿跌・白霫の十五種あり、みな磧北に散処していた。

袁紇は、また烏護ともいい、烏紇ともいい、隋に至って韋紇といった。その人はぎょう強で、初め酋長はなく、水草を逐って転徙し、騎射に長じ、盗鈔を好み、突厥に臣従し、突厥はその財力を資として北荒に雄たった。大業年中、処羅可汗が鉄勒部を攻めて脅し、その財を裒めて責め、既にしてまたその怨みを恐れ、則ち渠豪数百を集めて悉く坑にしたので、韋紇は乃ち仆骨・同羅・抜野古とともに叛き去り、自ら俟斤となり、回紇と称した。

回紇は薬羅葛氏を姓とし、薛延陀の北の娑陵水上に居り、京師より七千里。衆十万、勝兵はその半ば。地は磧鹵にして、畜は多く大足羊。時に健俟斤という者あり、衆始めて推して君長となす。子は菩薩といい、材勇謀あり、狩猟射撃を嗜み、戦えば必ず身を先んじ、向かうところ輒ち摧破したので、故に下皆畏れて附き、時健に逐われた。時健死す、部人は菩薩を賢しとし、これを立てた。母は烏羅渾といい、性厳明にして、能く部の事を決平した。回紇はここより浸く盛んとなる。薛延陀とともに突厥の北辺を攻め、頡利は欲谷設に騎十万を領してこれを討たせたが、菩薩は身みずから五千騎を将いてこれを馬鬛山に破り、北を追って天山に至り、大いにその部人を俘え、声北方に震う。ここより薛延陀に附き、唇歯を相し、活頡利発と号し、牙を独楽水上に樹てた。

貞観三年、始めて来朝し、方物を献ず。突厥既に亡び、惟だ回紇と薛延陀とが最も雄強となった。菩薩死す、その酋胡祿俟利発吐迷度は諸部とともに薛延陀を攻め、これを残滅し、併せてその地を有し、遂に南に賀蘭山を逾え、諸河に境した。使者を遣わして款を献じ、太宗は霊州に幸し、涇陽に次いで、その功を受けた。ここにおいて鉄勒十一部皆来りて言う、「延陀は大國に事えず、以て自ら亡を取る。その下麕駭鳥散し、之く所を知らず。今各分地有り、願わくは天子に帰命し、唐官を置くことを請う」と。詔ありて張飲高会し、渠長等を引見し、唐官を以てこれに官し、凡そ数千人。

明年また入朝す。乃ち回紇部を以て瀚海とし、多覧葛部を燕然とし、仆骨部を金微とし、抜野古部を幽陵とし、同羅部を亀林とし、思結部を盧山とし、皆都督ととく府と号す。渾を以て臯蘭州とし、斛薛を高闕州とし、阿跌を鶏田州とし、契苾を榆渓州とし、奚結を鶏鹿州とし、思結別部を蹛林州とし、白霫を窴顔州とす。その西北の結骨部を堅昆府とし、北の骨利幹を玄闕州とし、東北の俱羅勃を燭龍州とす。皆酋領を以て都督・刺史・長史・司馬とし、即ち故の単于台に燕然都護府を置きてこれを統べ、六都督・七州皆隷属せしめ、李素立を燕然都護とす。その都督・刺史には玄金魚符を与え、黄金を以て文とす。天子方に遠夷を招寵し、絳黄瑞錦文袍・宝刀・珍器を作りてこれを賜う。帝は秘殿に坐し、十部楽を陳べ、殿前に高坫を設け、朱提瓶をその上に置き、潜泉より浮酒し、左閣より坫趾に通じて瓶に注ぎ、転じて百斛の鐐盎を受け、回紇数千人飲み畢りても、尚ほ半ばに及ばず。また文武五品官以上に詔して尚書省中に祖飲せしむ。渠領共に言う、「荒陋の地に生れ、聖化に帰身し、天至尊官爵を賜い、百姓と為り、唐に依ること父母の如し。回紇・突厥部に大塗を治め、『参天至尊道』と号し、世々唐臣と為らんことを請う」と。乃ち詔して磧南の〓鵜泉の陽に過郵六十八所を置き、群馬・湩・肉を具えて使客を待ち、歳内に貂皮を以て賦とす。乃ち吐迷度を拝して懐化大将軍・瀚海都督とす。然れども私自かに可汗と号し、官吏を署し、壹に突厥の如く、外宰相六・内宰相三有り、また都督・将軍・司馬の号有り。帝更に詔して時健俟斤の它部を祁連州とし、霊州都督に隷し、白霫の它部を居延州とす。

吐迷度の兄の子烏紇は吐迷度の妻を烝し、遂に俱陸莫賀達干俱羅勃とともに謀乱して車鼻可汗に帰せんとす。二人は皆車鼻の婿なり、故に烏紇は騎を領して夜に吐迷度を劫いてこれを殺す。燕然副都護元礼臣は使者を遣わして烏紇を紿し、白して都督と為すことを許す。烏紇疑わず、即ち往きて謝す。因りて斬りて以て徇す。帝は諸部の携解を恐れ、兵部尚書崔敦礼に命じて節を持ち臨撫せしめ、吐迷度に左衛大将軍を贈り、賻祭備厚くし、その子婆閏を擢て左驍衛大将軍とし、父の領する所を襲わしむ。俱羅勃既に朝に入るも、帝は遣わさず。阿史那賀魯の北庭を盗むに、婆閏は騎五万を以て契苾何力等を助け賀魯を破り、北庭を収む。また伊麗道行軍総管任雅相等に従い再び賀魯を金牙山に破り、右衛大将軍に遷り、高麗を討つに従い功有り。

婆閏死す、子比栗嗣ぐ。龍朔年中、燕然都護府を以て回紇を領し、更に瀚海都護府と号し、磧を以て限りとし、大抵北の諸蕃悉くこれに隷す。比栗死す、子独解支嗣ぐ。武后の時、突厥の默啜方に強く、鉄勒の故地を取る。故に回紇は契苾・思結・渾の三部とともに磧を度り、甘・涼の間に徙る。然れども唐は常にその壮騎を取って赤水軍を佐けしむという。独解支死す、子伏帝匐立つ。明年、唐を助けて默啜を攻め殺す。ここにおいて別部の移健頡利発は同羅・霫等とともに皆来り、詔してその部を大武軍の北に置く。伏帝匐死す、子承宗立つ。涼州都督王君〓その罪を誣暴し、流死瀬州す。この時に当たり、回紇稍く循まず、族子の瀚海府司馬護輸は衆怨に乗じ、共に君〓を殺し、安西諸国の朝貢道を梗絶す。久しくして、突厥に奔り、死す。

子の骨力裴羅が立つ。時に突厥に乱あり、天宝初め、裴羅は葛邏祿とともに左右葉護を自称し、抜悉蜜を助けて烏蘇可汗を撃ち走らす。後三年、抜悉蜜を襲い破り、頡跌伊施可汗を斬り、使者を遣わして状を上り、自ら骨咄禄毗伽闕可汗と称す。天子は奉義王となし、南は突厥の故地に居り、牙を烏徳山・昆河の間に移す。南は西城より千七百里、西城は漢の高闕塞なり。北は磧口を尽くすこと三百里、九姓の地を悉く有す。九姓とは、薬羅葛、胡咄葛、啒羅勿、貊歌息訖、阿勿嘀、葛薩、斛嗢素、薬勿葛、奚牙勿という。薬羅葛は回紇の姓なり、仆骨・渾・抜・野古・同羅・思結・契の六種と相い夷等しく、数に列せず。後に抜悉蜜・葛邏祿を破り有し、総じて十一姓とし、並びに都督を置き、号して十一部落という。是より、戦には常に二客部を以て先鋒とす。詔ありて骨咄禄毗伽闕懐仁可汗に拝す。前殿に仗を列ね、中書令内案にて冊授の使者を授け、使者門を出でて輅に升り、皇城門に至りて馬に降り乗り、幡節導きて行かしむ。凡そ可汗を冊するに、率ね此の礼を用う。明年、裴羅また突厥の白眉可汗を攻め殺し、頓啜羅達干を遣わして来たり功を上る。裴羅を左驍衛員外大将軍に拝し、地を斥くること愈広く、東は室韋に極み、西は金山、南は大漠を控え、古の匈奴の地を尽く得たり。裴羅死し、子の磨延啜立つ、号して葛勒可汗という。剽悍にして兵を用いるに善く、歳毎に使者を遣わして入朝す。

粛宗即位す。使者来たりて禄山を討つを助けんことを請う。帝詔して敦煌郡王承寀と約せしめ、而して仆固懐恩に王を送らしめ、因りて其の兵を召す。可汗喜び、可敦の妹を女と為し、承寀に妻せしめ、渠領を遣わして来たり和親を請う。帝其の心を固めんと欲し、即ち虜の女を毗伽公主に封ず。ここにおいて可汗自ら将し、朔方節度使郭子儀と合して同羅諸蕃を討ち、之を河上に破る。子儀と呼延谷に会す。可汗其の強きを恃み、兵を陳べて子儀を引き、狼纛を拝して後に見ゆ。帝彭原に駐まり、使者葛羅支見ゆ。班下を恥じ、帝鞅鞅たらしむるを欲せず、引きて殿に升らしめ、慰めて遣わす。俄にして大将軍多攬等朝を造り、及び太子葉護身将として四千騎来たり、惟う所の命に従う。帝因りて毗伽公主を王妃と冊し、承寀を宗正卿に擢ぐ。可汗も亦た承寀を葉護に封じ、四節を与え、其の葉護と共に将せしむ。帝命じて広平王葉護に見えしめ、昆弟と約す。葉護大いに喜び、首領達干等をして先ず扶風に到り子儀に見えしむ。子儀三日間犒飲す。葉護辞して曰く「国多難、我逆を討つを助く、何ぞ敢えて食らわんや」と。固く命じて乃ち留まる。既に行き、日ごとに牛四十角・羊八百蹄・米四十斛を賜う。

香積の戦い、澧上に陣す。賊詭りて騎を伏せ王師の左に在り、将に我を襲わんとす。仆固懐恩回紇を麾して之に馳せしめ、其の伏を尽く翦り、乃ち賊の背に出で、鎮西・北庭節度使李嗣業と夾<広多>に之を撃ち、賊大いに敗れ、進みて長安ちょうあんを収む。懐恩回紇・南蛮・大食の衆を率い都を繚りて南し、浐東に壁し、進みて陜西に次ぎ、新店に戦う。初め、回紇曲沃に至り、葉護将軍鼻施吐撥裴羅をして南山に旁りて東に出でしめ、賊の谷中に伏するを搜し、之を殲し、山陰に営す。子儀等賊と戦い、軍を傾けて北に逐い、乱れて却く。回紇望み見て、即ち西嶺を逾え、旗を曳きて賊に趨い、其の後に出づ。賊反顧し、遂に大いに潰え、奔を追うこと数十里、人馬相騰蹂し、死者計うべからず、仗械を収むること丘の如し。厳莊安慶緒を挟み東京を棄てて河を北に度る。回紇大いに東都を掠ること三日、奸人之を導く。府庫窮殫す。広平王止めんと欲すれども不可なり。而して耆老繒錦万匹を以て回紇に賂し、剽掠を止む。葉護京師に還る。帝群臣を遣わし之を長楽に労す。帝前殿に坐し、葉護を召し階に升らしめ、酋領を下に席し、宴し且つ之を労い、人ごとに錦繍繒器を賜う。葉護頓首して言う「兵を沙苑に留め、臣帰りて馬を料し、以て范陽を収め、残盗を除き訖らん」と。帝曰く「朕が為に義勇を竭くし、大事を成すは、卿等の力なり」と。詔して司空しくうに進め、爵して忠義王とし、歳ごとに絹二万匹を与え、朔方軍に至りて賜を受かしむ。

乾元元年、回紇の使者多彦阿波と黑衣大食の酋閣之等俱に朝し、長を争う。有司門を異にして並び進ましむ。又た昏を請う使わしめ、之を許す。帝幼女寧国公主を以て下嫁し、即ち磨延啜を英武威遠毗伽可汗と冊す。詔して漢中郡王瑀を摂御史大夫と為し冊命使とし、宗子右司郎中巽を兼ね御史中丞と為し礼会使とし、並びに瑀を副え、尚書右僕射裴冕をして境に送らしむ。帝公主を餞し、因りて咸陽に幸し、数え尉勉す。主泣いて曰く「国方に多事、死すとも恨みなし」と。瑀虜に至る。而して可汗胡帽赭袍を以て帳中に坐し、儀衛光厳なり。瑀を引きて帳外に立たしめ、問うて曰く「王、天可汗何の属ぞ」と。瑀曰く「従昆弟なり」と。時に中人雷霊俊瑀の上に立つ。又た問う「王の上に立つ者は誰ぞ」と。瑀曰く「中人なり」と。可汗曰く「中人奴爾、顧みて郎の上に立つか」と。霊俊趨りて下る。ここにおいて瑀を引きて入る。瑀拝せず。可汗曰く「国君を見るに、礼拝せざる無し」と。瑀曰く「天子顧み可汗功有り、愛女を以て好を結ぶ。比来中国と夷狄婚するは、皆宗室の子なり。今寧国は乃ち帝の玉女、徳容有り、万里来り降る。可汗天子の婿、当に礼を以て見るべし、安んぞ踞して詔を受くべきや」と。可汗慚じ、乃ち起ちて詔を奉じ、拝して冊を受く。翌日、主を尊びて可敦と為す。瑀の賫する賜物、可汗尽く其の牙下の酋領に与う。瑀還り、馬五百匹・貂裘・白氈等を献ず。乃ち王子骨啜特勒・宰相帝德等をして騎三千を率い賊を討つを助けしむ。帝因りて仆固懐恩に之を総せしむ。又た大首領蓋将軍と三女子を遣わし婚を謝し、並びに堅昆を破れる功を告げしむ。明年、骨啜九節度と相州に戦い、王師潰ゆ。帝德等京師に奔る。帝厚く賜い其の意を尉し、乃ち還る。俄にして可汗死す。国人公主を以て殉せんと欲す。主曰く「中国人婿死すれば、朝夕臨み、喪期三年、此れ終の礼なり。回紇万里昏を結ぶ、本より中国を慕う。吾殉ずるべからず」と。乃ち止む。然れども面を剺ぎて哭く、亦た其の俗に従うという。後に子無きを以て、還るを得たり。

初め葉護太子前に罪を得て死す。故に次子移地健立つ、号して牟羽可汗という。其の妻は仆固懐恩の女なり。始め可汗少子の為に昏を請う。帝之に妻す。是に至りて可敦と為る。明年、大臣俱録莫賀達干等をして入朝せしめ、並びに公主の起居を問わしめ、使人を通して延英殿に謁せしむ。

代宗即位の時、史朝義が未だ滅びざるを以て、また中人劉清潭を遣わして好を結び、且つ其の兵を発せしむ。使者の至るに及んで、回紇は既に朝義に説かれて曰く、「唐は屡々喪有り、国に主無く、且つ乱る。回紇に入りて府庫を収めしむるを請う、其の富は計り難し」と。可汗は即ち兵を引きて南す、宝応元年八月の事なり。清潭詔を齎して其の帳に至る、可汗曰く、「人の言うに唐は已に亡ぶと、安んぞ使有らんや」と。清潭為に言う、「先帝は天を棄つと雖も、広平王は已に天子の位に即く。其の仁聖英武は先帝に類す、故に葉護と二京を収め、安慶緒を破りし者は、是れ可汗と素より厚く、且つ唐は歳毎に回紇に繒絹を与う、豈に之を忘れんや」と。是の時、回紇は已に三城を逾え、州県の榛萊を見、烽障守る無きを以て、唐を軽んずる色有り。乃ち使いを遣わして北に単于府の兵・倉庫を収め、数回語を以て清潭を凌ぎて嘲る。清潭密かに帝に白す、「回紇兵十万塞に向かう」と。朝廷驚き震え、殿中監薬子昂を遣わして迎え労し、且つ軍を視さしむ、太原にて遇い、密かに其の兵裁四千、孺弱万余、馬四万、可敦と偕に来るを識る。帝は懐恩に回紇と会せしむ。因りて使いを遣わし書を上り、天子を助けて賊を討たんことを請う。回紇は蒲関に入り、径ちに沙苑を経て東せんと欲す、子昂説いて曰く、「寇乱以来、州県残虚し、供億資る所無し、且つ賊は東京に在り、若し井陘に入り、以て邢・洺・衛・懐を取り、賊の財帑を収め、乃ち鼓して南すは、上策なり」と。聴かず。子昂曰く、「然らば則ち懐に趨き太行道を行き、南に河陽を拠え、賊の喉衿を扼せん」と。又聴かず。曰く、「太原倉の粟を食み、右に陜に次ぎ、沢潞・河南・懐鄭の兵と合せん」と。回紇之に従う。

詔して雍王を以て天下兵馬元帥と為し、子昂を進めて兼ねて御史中丞と為し、右羽林衛将軍魏琚と左右廂兵馬使と為し、中書舎人韋少華を元帥判官と為し、御史中丞李進を行軍司馬と為し、東に回紇と会せしむ。勅して元帥を諸軍の先鋒と為し、諸節度と陜州に会せしむ。時に可汗は陜州の北に壁す、王往きて之を見る、可汗は王の蹈舞せざるを責む。子昂辞して曰く、「王は嫡皇孫、二宮殯に在り、礼蹈舞すべからず」と。回紇廷に詰めて曰く、「可汗は唐天子の弟、王に於いては叔父の行なり、蹈舞せざる有らんや」と。子昂固く拒み、即ち言う、「元帥は唐の太子なり、将に中国を君とせんとす、而るを可汗に見えて舞蹈せんや」と。回紇の君臣度りて屈せしむる能わず、即ち子昂・進・少華・琚を引きて之を搒ちて百、少華・琚は一夕にして死し、王は還りて営す。官軍は王の辱めを見るを以て、将に回紇を合せて誅せんとす、王は賊未だ滅びざるを以て之を止む。

ここに於いて、懐恩と虜の左殺と先駆と為る。朝義は反間を使わしむ、左殺は執りて献じ、諸将と同く賊を撃ち、横水に戦い、之を走らしめ、進みて東都を収む。可汗は抜賀那を使わして天子を賀し、朝義の旗物を献ぜしむ。雍王は霊宝に還り、可汗は河陽に屯し、三月留まり、屯傍の人剽辱に困る。仆固玚は回紇兵を率い朝義と挐戦し、血を蹀りて二千里、其の首を梟し、河北悉く平ぐ。懐恩は相州西山の崞口を道として還りて屯し、可汗は沢・潞より出で、懐恩と会い、太原を道として去る。

初め、回紇東京に至り、兵を放ちて攘剽し、人皆遁れて聖善・白馬の二祠の浮屠に保ちて之を避く、回紇怒り、浮屠を火し、万余人を殺す、是に及びて益々横暴に、官吏を詬り折り、夜に兵を以て含光門を斫り、鴻臚寺に入るに至る。其の時、陜州節度使郭英乂は東都に留守し、魚朝恩及び朔方軍と驕肆し、回紇に因りて暴を為し、亦汝・鄭の間を掠め、郷に完き廬無く、皆紙を蔽いて裳と為し、賊よりも虐し。

帝は少華等の死を念い、故に少華に左散騎常侍さんきじょうじを贈り、琚に揚州大都督を贈り、一子に六品官を賜う。ここに於いて可汗を冊して曰く頡咄登里骨啜蜜施合倶録英義建功毘伽可汗、可敦を曰く娑墨光親麗華毘伽可敦、左散騎常侍王翊を使者と為し、即ち其の牙に命ず、可汗より宰相に至るまで共に実封二万戸を賜う。又左殺を以て雄朔王と為し、右殺を寧朔王と為し、胡祿都督を金河王と為し、抜鑒将軍を静漠王と為し、十都督は皆国公と為す。

永泰初め、懐恩反し、回紇・吐蕃を誘いて入寇せしむ。俄かに懐恩死す、二虜長を争う、回紇の首領潜かに涇陽に詣り郭子儀を見、事を改むるを請う。子儀は麾下を率いて回紇の営を叩く。回紇曰く、「令公を見んことを願う」と。子儀は旗門より出づ、回紇曰く、「甲を釈せんことを請う」と。子儀は服を易う。酋長相顧みて曰く、「真に是れ公なり」と。時に李光進・路嗣恭介馬して側に在り、子儀は酋長に示して曰く、「此れ渭北節度使某、朔方軍糧使某なり」と。酋長は馬を下りて拝し、子儀も亦下りて之を見る。虜数百環りて視る、子儀の麾下も亦至る、子儀は左右を麾して却らしめ、且つ酒を命じて与に飲み、纏頭彩三千を遺し、可汗の弟合胡祿等を召して手を持たしめ、因りて譲りて曰く、「上は回紇の功を念い、爾に報いること固より厚し、何を負いて来るや。今即ち汝と戦わんとす、何ぞ遽かに降るや。我将に独り爾が営に入らん、我を殺すと雖も、吾が将士能く汝を撃たん」と。酋長詟服して曰く、「懐恩我を詭して曰く『唐天子南に走り、公は廃せらる』と、是を以て来る。今天可汗在り、公恙無し、吾等は還りて吐蕃を撃ちて以て厚恩に報いんことを願う。然れども懐恩の子は、可敦の弟なり、死を赦さんことを願う」と。ここに於いて子儀は酒を持ち、胡祿は盟を請うて飲み、子儀曰く、「唐天子万歳、回紇可汗も亦万歳、二国の将相之の如し。もし約に負く有らば、身は行陣に死し、家は屠戮せらる」と。時に当たり、虜の宰相磨咄莫賀達干・頓莫賀達干等言を聞きて皆気を奪われ、酒の其の所に至るに、輒ち曰く、「公の誓いを易うること無かれ」と。初め、虜に二巫有り、言う「此の行必ず戦わず、当に大人を見て還るべし」と;是に及びて相顧みて笑いて曰く、「巫は吾を紿かさず」と。

朔方先鋒兵馬使白元光は回紇兵と霊台に於いて合し、会うに雪厳晦し、吐蕃は営を閉ざし備えを撤く、乃ち之を撃ちて縦し、斬首五万級、生擒一万人、馬・橐它・牛・羊を獲、俘われし唐戸五千を収む。仆固名臣降る、合胡祿都督等二百人皆来朝し、賜与計る可からず。子儀は名臣を見す。名臣は懐恩の兄の子、鋭将なり。

大暦三年、光親可敦卒す、帝は右散騎常侍蕭昕を遣わし節を持ちて吊祠す。明年、懐恩の幼女を以て崇徽公主と為し継室とし、兵部侍郎李涵に節を持たしめて冊拝して可敦と為し、繒彩二万を賜う。是の時、財用屈し、公卿の騾・橐它を税して行に給し、宰相は中渭橋に餞す。

京師に留まっていた回紇の者どもは、徒党を組んで市で女子を掠奪し、騎兵を率いて含光門を犯し、皇城の門はすべて閉ざされた。詔して劉清潭を遣わし慰撫させて止めさせた。また出てきては市中で暴れ物を奪い、長安令邵説の馬を奪ったが、役人は敢えて詰問しなかった。乾元(758-760年)以後より、ますます功に恃み、馬一匹を納めるごとに代価として縑四十匹を取り、毎年数万匹分の馬を売りつけようとし、使者は相踵ぎ、鴻臚寺に留まって宿泊し、駄馬で使い物にならなかった。帝は厚く賜って恥じ入らせようとしたが、彼らは悟らなかった。また馬一万匹を持って来たので、帝は重ねて民を煩わせるに忍びず、六千匹分の代価を支払った。十年(775年)、回紇が人を殺して道を横行し、京兆尹黎幹がこれを捕らえたが、詔して宥して糾劾させなかった。また東市で人を刺し、万年県の獄に縛送されたが、首領が囚人を奪い取り、獄吏を傷つけて去った。都人は苦しみ厭った。

十三年(778年)、回紇が振武を襲い、東陘を攻め、太原に侵入寇掠した。河東節度使鮑防が陽曲でこれと戦い、防は敗績し、一万人が殺害された。代州都督張光晟がまた羊虎谷で戦い、これを破り、虜は去った。

徳宗が立つと、中人を使者として喪を告げさせ、かつ友好を修めようとした。時に九姓胡が可汗を勧めて入寇させようとし、可汗は全軍を率いて塞に向かおうとしたが、使者に礼を為さなかった。宰相頓莫賀達干が言うには、「唐は大国であり、我らに背いたことはない。先日太原に入り、羊馬数万を取ったが、国に帰るまでにほとんど消耗し尽くした。今、挙国を挙げて遠く戦おうとするが、もし勝たなければ、どこに帰ろうというのか」。可汗は聞き入れず、頓莫賀は怒り、そこでこれを撃ち殺し、併せてその支党と九姓胡合わせて二千人近くを誅戮し、即ち自立して合骨咄禄毗伽可汗となった。長建達干を使者に従わせて入朝させた。建中元年(780年)、詔して京兆少尹源休に節を持たせ、頓莫賀を武義成功可汗に冊立した。

初め回紇が中国に来るとき、常に九姓胡を交え、往々にして京師に留まり、千人に至り、財を蓄え産業を営んで甚だ豊かであった。時に酋長の突董・翳蜜施・大小梅録等が帰国するにあたり、荷物が道に連なり、振武に三月留まり、供応は珍味豊かで、費用は計り知れなかった。軍使張光晟が密かにこれを窺うと、皆、女子を袋に詰めて盛っており、光晟は駅吏に長錐で刺させ、それで知った。やがて頓莫賀が新たに立ち、多くの九姓胡人を殺したと聞き、恐れて帰国できず、往々にして逃亡したので、突董は監視を厳しくした。群胡が光晟に献策し、回紇を悉く斬ることを請うたので、光晟はこれを許し、即ち上言した。「回紇は元より強くはなく、これを助けているのは九胡だけである。今その国は乱れ、兵がまさに相争っている。そして虜は利あれば赴き、財あれば結びつく。財も利もなければ、一度乱れて再び振るわない。この時に乗じず、人と幣を帰したならば、いわゆる賊に兵を借し、盗に糧を資するようなものである」。そこで裨校に命じて陽に礼を失わせると、突董は果たして怒り、これを鞭打った。光晟はそこで兵を率いて回紇の群胡を尽く殺し、駱駝・馬数千頭、繻錦十万を収め、かつ告げて言った。「回紇が大将を鞭打ち、振武を奪おうと謀ったので、謹んで先んじてこれを誅した」。部を分けて女子を長安に送り返した。帝は光晟を召し還し、彭令方を代わりに任じ、中人と回紇の使者聿達干を遣わしてその経緯を伝えさせ、そこで虜と絶交しようとした。源休に命じて太原で詔命を待たせた。明年、ようやく行き、そこで突董等四名の遺体を送還した。突董は可汗の諸父である。源休が到着すると、可汗は大臣に命じて車馬を整え出迎えさせた。その大相頡幹迦斯は踞坐して休等を責め、突董の件について問うた。休は言った。「彼らは自ら張光晟と戦って死んだのであり、天子の命によるものではない」。また言った。「使者は皆、死罪を負っている。唐が自ら誅戮しないのに、どうして我らに手を借りようとするのか」。しばらくして罷め去り、休等は危うく死ぬところであった。五十日留められ、ついに可汗に謁見できなかった。可汗は伝えて休に言った。「国人は皆、汝を死なせようとしているが、我だけはそうは思わない。突董等は既に亡くなった。今また汝を殺せば、血で血を洗うようなもので、ただ汚れを増すだけだ。我が水で血を洗うのは、善いことではないか。役人のために言え、負っている馬の代価一百八十万を、速やかに我に償え」。散支将軍康赤心等を遣わし、休に随行して来朝させた。帝は忍び、金と繻を賜った。

後三年(787年)、使者を遣わして方物を献じ、和親を請うた。帝は以前の恨みが未だ収まらず、宰相李泌に言った。「和親は子孫に図らせることとし、朕はできない」。泌が言うには、「陛下はまさか陝州の旧憾のためでしょうか」。帝は言った。「そうだ。朕は天下多難の折、報いることができず、しばらく和親は議するな」。泌が言うには、「少華等を辱めたのは牟羽可汗です。陛下が即位すれば必ず怨みを償われると知り、先んじて辺境を苦しめようと謀りましたが、兵は未だ出さず、今の可汗に殺されました。今の可汗は初めて立ち、使者を遣わして来告し、髪を垂れたまま剪らず、天子の命を待っています。そして張光晟が突董等を殺しました。使者を幽閉したとはいえ、結局無事に帰したのですから、罪はありません」。帝は言った。「卿の言うことはその通りだが、朕は少華等に背くことはできない。どうすればよいか」。泌が言うには、「臣は陛下が少華に背いたのではなく、少華が陛下に背いたと考えます。かつて北虜の君長が身を挺して難に赴かれた時、陛下は藩王の身で、年若く、軽々しく河を渡ってその営に入られました。いわゆる豺虎の場を冒すものです。少華等のためを計るなら、先ず会見の礼を定めるべきでした。臣でさえ危惧したのに、どうして独りで赴かれたのでしょう。臣が昔、先帝の行軍司馬を務めていた時、葉護が来た折、先帝はただ府で宴を設けさせただけでした。征討を議する時は会いませんでした。葉護が臣を営に招きましたが、帝は許さず、よく言わせました。『主は客を労うべきであり、客が返って主を労うことがあろうか』。東進して京師を収める時、約束しました。『土地・人衆は我に帰し、玉帛・子女は回紇に与える』と。戦勝後、葉護が大掠しようとした時、代宗は馬から下りてこれを拝し、回紇はようやく東に向かって洛陽らくようへ行きました。臣はなお、元帥が葉護を馬前で拝したことを、左右の過ちと恨みましたが、先帝は言われました。『王は仁孝であり、朕の事をよく為し得る』と。詔を下して慰勉されました。葉護は牟羽の諸父です。牟羽が来た時、陛下は元子として帳下で拝礼されず、可汗は陛下に対して少しも失礼することがありませんでした。ならば陛下は屈したわけではありません。先帝が葉護を拝したのは、京城を全うするためでした。陛下が可汗を拝さなかったのは、固より虜に対して威を伸ばしたのであり、何の恨みがありましょう。しかし香積寺・陝州の事を考えれば、己を屈するのが正しいのか、威を伸ばすのが正しいのか。仮に少華等が陛下をして可汗に謁見させ、壁を閉ざして五日間、陛下と酒宴を張ったならば、天下は寒心しなかったでしょうか。そして天が威神を助け、豺狼を馴服させ、牟羽の母が陛下に貂裘を捧げ、左右を叱って騎を命じるよう促し、自ら営を送り出されました。これが少華等が陛下に背いた所以です。仮に牟羽に罪があったとしても、今の可汗が既にこれを殺し、立った者は牟羽の従父兄であり、これは功があるのです。どうしてこれを忘れられましょうか。かつて回紇可汗は石に銘を刻んで国門に立てました。『唐の使来たらば、我が前後の功を知らしむべし』と。今、和を請うのは、必ず部を挙げて南を望んでいるからです。陛下がこれに答えられなければ、その怨みは必ず深くなります。婚姻を聴き容れ、開元の故事に倣って約束し、突厥可汗が称臣したように、使者は二百人を超えず、市馬は千頭を超えず、唐人を塞外に出さないならば、不可ということもありません」。帝は言った。「善い」。そこで公主降嫁を許し、回紇も約束通りにすることを請うた。詔して咸安公主を下嫁させ、また詔して使者合闕達干を麟徳殿で公主に謁見させ、中謁者に公主の画図を持たせて可汗に賜った。

翌年、可汗は宰相夾跌都督ら千余の衆を遣わし、またその妹の骨咄禄毗伽公主に大酋の妻五十人を率いさせて公主を迎え、且つ聘礼を納めさせた。夾跌が振武に至ると、室韋に掠奪され、戦死した。詔してその配下七百人を皆入朝することを許し、鴻臚寺に宿泊させ、帝は延喜門に御して使者を見た。この時、可汗の上書は甚だ恭順で、「昔は兄弟であったが、今は婿であり、半子である。陛下もし西戎を患うならば、子が兵を以てこれを除くことを請う」と言い、また回紇を回鶻と改称することを請い、「敏捷にして鷙鳥の如く、恰も鶻のようである」と言った。帝は回鶻公主を饗応しようとし、李泌に礼を問うと、対えて言うには、「粛宗は敦煌王の従祖兄であり、回鶻は女を妻とし、彭原で帝に謁見した時、独り廷下で拝し、帝は『婦』と呼び、『嫂』とは名指さなかった。艱難の時に当たり、その用を藉りる時でさえ、なお臣として遇した。況んや今日においてをや」と。ここにおいて回鶻公主を銀台門に導き入れ、長公主三人が内で待ち受け、訳史が伝導し、拝すれば必ず答礼し、揖して進ませた。帝は秘殿に御し、長公主が先に入って侍し、回鶻公主が入り、拝謁し終えると、内司賓が導いて長公主の所に至り、また訳史が伝問し、乃ち共に入った。宴所に至ると、賢妃が階を降りて待ち、回鶻公主が拝し、賢妃が答拝した。また召しに拝した後、西階より昇り、乃ち坐した。賜物があれば降りて拝し、帝の賜でなければ席を避けて拝し、妃・公主は皆答拝した。終わって帰り、凡そ二度饗応した。帝はまた咸安公主の官属を全て建て、王府に準じた。嗣滕王湛然を婚礼使とし、右僕射関播を護送させ、且つ冊書を将いて可汗を汩咄禄長寿天親毗伽可汗とし、公主を智恵端正長寿孝順可敦と拝するためであった。

貞元五年、可汗が死に、子の多邏斯が立ち、国人は「泮官特勒」と号し、鴻臚卿郭鋒に節を持たせ冊拝して愛登里邏汩没蜜施俱録毗伽忠貞可汗とした。

初め、安西・北庭は天宝末より関・隴を失い、朝貢の道が隔絶していた。伊西北庭節度使李元忠・四鎮節度留後郭昕が数度使者を遣わし表を奉ったが、皆長安に至らなかった。貞元二年、元忠らの遣わした使者が回鶻を仮道して、乃ち長安に至ることができた。帝は元忠を北庭大都護に進め、昕を安西大都護とした。これより後、道は通じたが、虜の求取は際限がなかった。沙陀の別部六千帳は、北庭と相依っていたが、虜の収奪にも厭き、三葛禄・白眼突厥といった元より回鶻に臣従していた者らは特に怨み苦しみ、皆密かに吐蕃に附き、故に吐蕃は沙陀を因って共に北庭を寇し、頡干迦斯が戦ったが勝てず、北庭は陥落した。ここにおいて都護楊襲古が兵を率いて西州に奔った。回鶻は壮卒数万を以て襲古を召し、将に還って北庭を取らんとしたが、吐蕃に撃たれ大敗し、士卒は大半が死に、迦斯は奔還した。襲古が余衆を率いて西州に入らんとすると、迦斯は欺いて言うには、「弟は我と共に帰り、公を唐に還らせよう」と。襲古が帳に至ると、これを殺した。葛禄はまた深図川を取ったので、回鶻は大いに恐れ、稍々その部落を南に移してこれを避けた。

この年、可汗は少可敦葉公主に毒殺され、可敦もまた僕固懐恩の孫であり、懐恩の子が回鶻の葉護であったので、女は葉公主と号したという。可汗の弟が乃ち自立した。迦斯が吐蕃を攻めている時、その大臣が国人を率いて共にさんさんだつ者を殺し、可汗の幼子阿啜を嗣がせた。迦斯が還ると、可汗らが出迎えて労い、皆俯伏して廃立の状を言い、大相の生死を決するのみとした。郭鋒の賜った器幣を悉く発して迦斯に贈った。可汗は拝して且つ泣いて言うには、「今幸いに絶えたものを継ぐことができ、父に仰いで食うものである」と。迦斯はその柔弱な屈従ぶりを見て、乃ち相い持って哭し、遂に臣事し、器幣を悉く将士に与え、私することなく、その国は遂に安んじた。達北特勒梅録将軍を遣わして来告し、且つ命を聴かせた。詔して鴻臚少卿庾鋋に阿啜を奉誠可汗に冊拝させた。俄かに律支達干を以て来告し、少寧国公主の喪を告げた。主は栄王の女である。初め寧国公主が降嫁した時、また媵として従った。寧国公主は後に帰国したが、因って回鶻中に留まり可敦となり、「少寧国」と号し、英武・英義の二可汗に歴配した。天親可汗の時に至り、始めて外に居した。その英義可汗に配して生んだ二子は、皆天親可汗に殺された。この年、回鶻は北庭において吐蕃・葛禄を撃ち、勝ち、且つ俘虜を献じた。翌年、薬羅葛炅を使者として来朝させた。炅は本来唐人の呂氏で、可汗の養子となり、遂に可汗の姓に従った。帝はその権勢を認め、賜賚を殊に優厚にし、検校尚書右僕射に拝した。

十一年、可汗が死に、子がなく、国人はその相の骨咄禄を立てて可汗とし、使者を以て来朝したので、詔して秘書監張薦に節を持たせ冊拝して愛滕里邏羽録没蜜施合胡禄毗伽懐信可汗とした。骨咄禄は本来夾跌氏で、幼くして孤となり、大首領に養われ、弁敏で武材に優れ、天親可汗の時に数度兵を主とし、諸酋に尊畏された。この時に至り、薬羅葛氏が代々功があったので、敢えて自らの族を名乗らず、可汗の子孫を悉く朝廷に内附させた。

永貞元年、可汗が死に、詔して鴻臚少卿孫杲に臨吊させ、嗣ぐ者を滕里野合俱録毗伽可汗に冊した。

元和の初め、再び朝献し、初めて摩尼が至る。その法は日暮れに食し、水を飲み葷を茹で、湩酪を屏う。可汗は常にこれと国を共にする者なり。摩尼は京師に至り、歳ごとに西市に往来し、商賈は頗るこれと囊橐を為して奸をなす。三年、来たりて咸安公主の喪を告ぐ。主は四可汗を歴て、回鶻に居ること凡そ二十一歳。幾ばくもなく、可汗もまた死す。憲宗、宗正少卿李孝誠を遣わして愛登裏羅汨蜜施合毗伽保義可汗を冊拝せしむ。三歳を閲し、使者再び朝し、伊難珠を遣わして再び昏を請う。未だ報ぜず。可汗、三千騎を以て〓鵜泉に至る。ここにおいて振武、兵を以て黒山に屯し、天徳城を治めて虜に備う。礼部尚書李絳、奏言す、「回鶻盛強にして、北辺空虚、一たび風塵と為らば、則ち弱卒は抗敵の夫に非ず、孤城は不守の地と為らん。儻し陛下此を懐かば、甲兵を増し、城壘を飭し、中夏の長策、生人の大幸なり。臣、今日の処置を観るに、未だ其の要を得ず。夫れ辺憂に五あり、請う歴に之を言わん。北狄貪没にして、唯だ利を視るのみ。比来馬を進めて直を規るも、再歳至らず。豈に繒帛の利を厭うや。殆ど風高く馬肥えて、侵軼を肆わんと欲するなり。故に外に攘ぎ内に備うるは、必ず朝廷を煩わす。一に憂うべし。兵力未だ完からず、斥候未だ明らかならず、戈甲未だ備わらず、城池未だ固からず。天徳を飾れば則ち虜必ず疑い、西城を虚しくすれば則ち磧道倚る所無し。二に憂うべし。夫れ城は要害を保ち、攻守は険易あり。当に之を辺将に謀るべし。今は乃ち河塞の外を規り、廟堂の上に裁す。虜猝かに塞を犯せば、応接便を失わん。三に憂うべし。脩好以来、山川の形勝、兵戍の満虚、虜皆これを悉くす。賊諸州を掠めば、調発は旬朔の外に在り、其の係累の人畜は旦夕の内に在り。王師の至るに比すれば則ち虜已に帰す。寇能く久しく留まらば、役も亦転た広からん。四に憂うべし。北狄西戎、素より相攻討す。故に辺虞無し。今、回鶻馬を市せず。若し吐蕃と結約して仇を解かば、則ち将臣壁を閉ざして戦を憚り、辺人拱手して禍を受くべし。五に憂うべし。又、淮西の呉少陽垂死す。其の変に乗ずべし。諸道興発すれば、役且つ十倍せん。臣謂う、宜しく其の婚を聴き、蕃礼を守らしむべし。所謂三利なり。和親すれば則ち烽燧驚かず、城堞治むべく、兵を盛んにして以て力を畜え、粟を積みて以て軍を固くす。一なり。既に北顧の憂い無ければ、南に淮右に事え、令を垂尽の寇に申すべし。二なり。北虜我が戚を恃めば、則ち西戎の怨み愈々深く、内寧かならず、国家坐して其の安を受くべく、寇掠長く息まん。三なり。今、三利を捨てて五憂を取るは、甚だ計に非ず。或いは曰く、主を降すは費多しと。臣謂う、然らず。我れ天下の賦を三分し、以て一を以て辺に事う。今、東南の大県の賦は歳二十万緡なり。一県の賦を以て婚貲と為すは、寡きを損じて大なるを得るに非ずや。今、婚費を惜しんで与えず。仮令王師北征し、兵三万・騎五千に非ざれば能く捍ぎ且つ馳せず。又、十全の勝を保たんとし、一歳輒ち罷むとせば、其の饋餉供擬、豈に一県の賦に止まらんや」と。帝聴かず。