新唐書

巻二百一十六下 列傳第一百四十一下 吐蕃下

永泰・大暦の間、再び使者を遣わして来聘し、ここにおいて戸部尚書薛景仙をして往きて報ぜしむ。詔して宰相に吐蕃の使者と盟せしむ。俄かに霊州を寇し、宜禄を掠め、郭子儀精甲三万を以て涇陽に戍し、奉天に入りて屯す。霊州の兵、虜二万を破り、首級五百を上ぐ。景仙、倫泣陵と偕に来り、境を鳳林関に請う。而して路悉等十五人また来る。三年、虜、衆十万を引きて復た霊州を攻め、邠州を略す。是に先立ち、尚悉結、宝応の後より数たび辺に入り、功高きを以て老を請う。而して贊磨之に代わり、東面節度使と為り、河・隴を専らす。邠寧の馬璘・朔方の将白元光、再び其の衆を破り、馬羊数千を獲、剣南も亦た虜万人を破る。尚悉摩復た来朝す。天子、虜の数たび塞に入るを以て、詔して守障を治め、当・悉・柘・静・恭の五州を徙し、皆険に拠りて以て守らしむ。

八年、虜六万騎、霊州を侵し、民の稼を敗り、進みて涇・邠を寇す。渾瑊之と戦いて利あらず、副将死し、数千戸を略す。瑊、卒を整えて夜其の営を襲う。涇原の馬璘、兵を以て之を潘原に掩い、豹皮の将を射て死せしむ。軍中哭し、乃ち遁去す。璘、俘はれし士及び男女を収めて還る。郭子儀又た其の衆十万を破る。

九年、帝、諫議大夫呉損を遣わして好を修めしむ。虜も亦た使者をして入朝せしむ。ここにおいて子儀は邠州に屯し、李抱玉は高壁に屯し、馬璘は原州に屯し、李忠臣は涇州に屯し、李忠誠は鳳翔に屯し、臧希譲は渭北に屯し、虜の入るを備う。明年、西川節度使崔寧、虜を西山に破る。虜、臨涇・隴州を攻め、普潤に次ぎ、人畜を焚掠す。抱玉と義寧に戦い、之を破る。涇州を道す。璘、尾追し、之を百里に敗る。又た明年、崔寧、虜の故洪節度・氐・蛮・党項等の兵を破り、首級一万を斬り、酋領千人を禽え、牛羊廩鎧甚だ衆く、之を朝に献ず。吐蕃志を得ず、黎・雅に入り掠む。ここにおいて剣南の兵、南詔と合して与に戦い、之を破り、大籠官論器然を禽う。又た坊州を侵し、党項の牧馬を取る。崔寧、望漢城を攻め、之を破る。山南西道節度使張献恭、岷州に戦い、吐蕃走る。寧、西山三路及び邛南の兵を破り、首級八千を斬る。十三年、虜の大酋馬重英、四万騎を以て霊州を寇し、漢・御史・尚書の三渠を塞ぎて以て屯田を擾わす。朔方留後常謙光に逐はれ、重英、塩・慶を残して去る。乃ち南に南詔の衆二十万を合して茂州を攻め、扶・文を略し、遂に黎・雅を侵す。時に天子已に幽州の兵を発して馳せて拒がしむ。虜大いに奔破す。

初め、虜の使数たび至り、留めて遣わさず。俘はれし虜口は、悉く部送して江南に送る。徳宗即位し、先ず内に方鎮を靖め、顧みて歳と虜と確とす。其の亡獲相償い、徳を以て之を綏懐せんと欲し、太常少卿韋倫を遣わし節を持して其の俘五百を帰し、厚く衣褚を与え、切に辺吏に勅して亭障を護り、輒くも虜地を侵すこと無からしむ。吐蕃始めて聞きて未だ信ぜず。使者境に入り、乃ち皆感畏す。是の時、乞立贊、贊普と為り、姓は戸虜提氏、曰く、「我れ乃ち三恨有り。天子の喪を知らず、及ばずて吊せず、一なり。山陵に及ばずて賻せず、二なり。舅の即位を知らずして、兵を発して霊州を攻め、扶・文に入り、灌口を侵す、三なり」と。即ち使者を発して倫に随い入朝せしむ。帝又た倫を遣わしてしょくの俘を還す。虜、倫の再び至るを以て、歓び甚だしく、館を授け、声楽を作し、九日留め、論欽明思等五十人を以て従え方物を献ぜしむ。

明年、殿中少監崔漢衡往きて使す。贊普猥りに曰く、「我れ唐と舅甥の国たり。詔書乃ち臣礼を用いて我を卑しむ」と。又た雲州より西は賀蘭山に尽きるを吐蕃の境と為さんことを請い、漢衡を邀えて天子に奏せしむ。乃ち入蕃使判官常魯と論悉諾羅を遣わし入朝せしめ、道に贊普の語を引き、且つ景龍の詔書を引きて曰く、「唐使至れば、甥先ず与に盟し、蕃使至れば、舅も亦た将に親しく盟せん」と。贊普曰く、「其の礼本均し」と。帝之を許し、「献」を「進」と為し、「賜」を「寄」と為し、「領取」を「領之」と為す。以前の宰相楊炎故事を通ぜざるを以て解と為し、並びに地を賀蘭に約す。其の大相尚悉結は殺人を嗜み、剣南の敗未だ報ぜざるを以て、和議を助けず。次相尚結贊は謀有り、固く請うて辺人を休息せしむ。贊普卒に結贊を用いて大相と為し、乃ち好を講ず。漢衡其の使区頰贊と偕に来り、境上に盟を約す。漢衡を鴻臚卿に拝し、都官員外郎樊沢を計会使と為し、結贊と約せしむ。且つ隴右節度使張鎰に告げて同盟せしむ。沢、結贊と清水に盟を約し、牛馬を以て牲と為す。鎰其の礼を末にせんと欲し、乃ち結贊を紿いて曰く、「唐は牛無くして田せず、蕃は馬無くして戦わず。犬・豕・羊を用いんことを請う」と。結諾を聴く。将に盟せんとす。乃ち地を除きて壇と為し、二国各二千士を以て壝外に列し、冗従は壇下に立つ。鎰と幕府の斉映・斉抗、鴻臚の漢衡、計会使の於頔及び沢・魯、皆朝服す。結贊と論悉頰蔵・論臧熱・論利陀・論力徐等、対いて壇に升り、壇の北に牲を刑し、其の血を雑えて以て進む。約す、「唐の地は涇州右は弾箏峡に尽き、隴州右は清水に極まり、鳳州西は同谷に尽き、剣南は西山・大度水に尽く。吐蕃は鎮蘭・渭・原・会を守り、西は洮に臨み、東は成州に成り、剣南西の磨些諸蛮・大度水の西南に抵る。大河の北は新泉軍より大磧に抵り、南は賀蘭橐它嶺に極まり、其の間を閑田と為す。二国の棄つる戍地には兵を増さず、城堡を創めず、辺田を耕さず」と。既に盟し、鎰を請いて壇の西南隅の浮屠幄に詣り誓わしむ。ここにおいて壇に升り大いに饗し、献酬して乃ち還る。

帝、宰相・尚書に命じて虜の使者と長安ちょうあんに盟せしむ。而して清水の約は、疆埸定まらず、復た漢衡をして贊普に決せしむ。乃ち盟を克つ。ここにおいて宰相李忠臣・盧杞・関播・崔寧、工部尚書喬琳、御史大夫於頎、太府卿張献恭、司農卿段秀実、少府監李昌夔、京兆尹王翃、金吾衛大将軍渾瑊と区頰贊等、京師の右郊に同盟す。礼は清水の如し。前二月廟に告げ、斎すこと三日、関播跪いて載書を読み、已に盟し、乃ち大いに饗す。詔して左僕射李揆を入蕃会盟使と為し、区頰贊等を還す。

朱泚の乱、吐蕃助けて賊を討たんことを請う。詔して右散騎常侍さんきじょうじ於頎に節を持して慰撫せしめ、太常少卿沈房を安西・北庭宣慰使と為して以て之に報ぜしむ。渾瑊、論莽羅の兵を用いて泚の将韓旻を武亭川に破る。初め、虜と約す、長安を得ば、涇・霊の四州を以て之に畀えんと。会に大疫有り、虜輒ち引き去る。及び泚平ぐるに及び、先の約を責めて地を求む。天子其の労を薄し、第に詔書を賜い、結贊・莽羅等に帛一万匹を償う。ここにおいて虜以て怨と為す。

貞元二年、詔して倉部郎中趙建をして往きて使わしむ、而して虜は既に涇・隴・邠・寧を犯し、人畜を掠め、田稼を敗り、内州は皆壁を閉づ。遊騎は好畤に至り、左金吾将軍張献甫・神策将李升曇等は咸陽に屯し、河中の渾瑊・華州の駱元光之を援く。左監門将軍康成を以て焉れに使わす。尚結贊は上砦原に屯し、亦た使を令して論乞陀を来らしめて盟を請わしむ。鳳翔の李晟は部将王佖を遣わして鋭兵三千を以て夜に汧陽に入り、明日、其の中軍に薄し、虜驚き潰走し、結贊僅かに自ら脱す。虜の衆二万鳳翔を侵し、李晟之を撃ちて却け、因りて摧沙堡を襲い破り、儲廥を焼き、守者を斬る。吐蕃は塩・夏を攻め、刺史杜彦光・拓拔乾暉守る能わず、其の衆を悉くして南に奔り、虜遂に其の地を有す。天子は辺人の残没を以て、詔を下して正殿を避け、痛く自ら咎む。詔して駱元光に塩・夏を経略せしむ。

三年、左庶子崔瀚・李銛を命じて使を踵がしむ。結贊は塩・夏を得て、皆兵を以て戍し、乃ち自ら鳴沙に屯す、然れども饋餉数困す。ここにおいて駱元光・韓遊瑰は塞に濱して屯し、而して燧は石州に次ぎ、河を跨いで相掎角す。結贊大いに懼れ、屢盟を請う、天子許さず。即ち貴将論頰熱を以て厚く賂して燧に乞和し、燧は情と為し、身を入れて天子に見え、諸将は燧の入るを以て、皆壁を守りて戦わず。結贊遽かに還り走り、馬多く死に、士歩く能わず、饑色有り。瀚始めて鳴沙に至り、詔を伝えて結贊に約を破り塩・夏を陥れたるを譲る、対えて曰く、「本武亭の功未だ償わざるを以て来り、又碑の仆るるを候い、疆埸明らかならず、故に境上行く。涇州は城に乗じて自ら保ち、鳳翔の李令は吾が使を納れず、康成等来たりと雖も、皆委曲を致す能わず。我日大臣を望みて卒に至る者無し、我故に引還す。塩・夏の守将は吾が衆を懼れ、城を以て我に丐う、我敢えて攻むるに非ざるなり。若し天子復た盟を許さば、虜の願なり、唯命に従い、当に塩・夏を以て唐に還すべし」と。又清水の盟を言い、大臣少なきを以て、故に約易く壞る、請う悉く宰相元帥二十一人を遣わして会盟せしむ。並びに霊塩節度使杜希全・涇原節度使李観は、外蕃の信ずる所なり、盟を主らんことを請う、と。帝復た瀚をして結贊に報ぜしめて曰く、「希全は霊州を守り、分地有り、境を越ゆべからず。観は既に官を徙す、渾瑊を以て盟会使と為す」と。五月に清水に盟するを約し、先ず二州を效わしめて、以て虜の信を験わさしむ。結贊清水は吉地に非ざるを辞し、原州の土梨樹に会するを請い、乃ち二州を帰す。天子之に従う。

瑊来たりて命を受け、漢衡を兵部尚書に拝して以て瑊を副わしむ。瑊は師二万を率いて期を待ち、詔して駱元光之を助けしむ。宰相盟する所の地を議し、左神策将馬有鄰建言す、「土梨樹は林薈巖阻し、兵詭伏し易く、平涼の夷漫坦直なるに如かず、且つ涇に近く、緩急保つべし」と。乃ち平涼に盟を定む。瑊は結贊と約し、主客均しく兵三千を以て壇外に至り、誕従四百壇を叩き、遊軍を以て交邏相入らしむ。将に盟せんとす、結贊は精騎三万を西に伏せ、邏騎を縦して出入り瑊の軍にせしめ、瑊の将梁奉貞亦た馬を駷ちて虜の軍営に入り、陰に之を執る、而して瑊知らず。客は瑊等に冠剣を具うるを請い、皆幄に就きて衣を更え、従容胖肆す。虜忽ち三たび鼓を伐ち、衆噪きて興り、瑊出ずる所を知らず、幄の後に走り、馬を得て銜まずして馳せ、十里にして始めて銜むを得。虜追い、矢雨の若くも傷つけず、元光の営に至りて乃ち脱す。裨将辛栄の兵数百は北阜に拠りて虜と戦い、矢尽きて乃ち降る。判官韓弇・監軍宋鳳朝之に死す。漢衡と判官鄭叔矩路泌・掌書記袁同直・列将扶余準馬寧孟日華李至言楽演明範澄馬弇・中人劉延邕俱文珍李朝清等六十人皆捕えられ、士死者五百、生獲する者千余人。漢衡虜に語りて曰く、「我は崔尚書なり、結贊は我と善し。若し我を殺さば、結贊も亦た若を殺すべし」と。乃ち死せず。人各一木を負い、縄を以て三たび之を約し、其の髪を系ぎて之を駆る。夜は則ち地に杙して系ぎて仆し、罽を以て蒙い、守者其の上に寝す。初め結贊は希全・観を劫かんとし、急に鋭兵を以て直ちに京師に趣かんとし、既に克たず、又た瑊等を禽えんと欲し、虚を搗きて入寇せんとす、其の謀本然たり。既に引き去り、故原州に至り、帳中に坐して漢衡等を見、慢りて言う、「渾瑊の武功に戦うは、我が力なり。地を裂きて我に償うを許し、而して自ら其の言を食らう。吾既に金枷を作り、将に必ず瑊を得て以て贊普に見えんとす、乃ち今之を失い、徒に公等を致す、益無し。当に人をして帰り報ぜしむべし」と。初め、漢衡乱に遇い、従史呂温身を蔽いて兵を蔽い、温傷つきて漢衡脱す、虜人其の義を嘉し、厚く給養す。結贊は石門に屯し、俱文珍・馬寧・馬弇を以て唐に帰し、而して漢衡・叔矩を河州に囚い、辛栄を廓州に、扶余準を鄯州にす。帝猶た中人をして詔書を賫して結贊に賜わしむ、拒みて受けず。虜は塩・夏を戍し、春に渉りて疫大いに興り、皆帰を思う。結贊は騎三千を以て之を迎え、二州の廬舎に火し、郛堞を頽して去り、杜希全は兵を分けて之を保つ。帝は漢衡等の陷辱を哀しみ、詔を下して其の子に七品官を賜い、叔矩・泌・弇・日華・栄・至言・澄・良賁・演明一子に八品官を、袁同直以下一子に九品官を賜う。決勝軍使唐良臣を以て潘原に屯し、神策将蘇太平を隊州に屯せしむ。結贊は漢衡・日華・延邕を召して石門に至らしめ、五騎を以て境上に送り、使者を遣わして表を奉じて来らしむ。李観曰く、「詔有りて吐蕃の使者を内れず」と。漢衡等を受け、其の使を放つ。

結贊は羌・渾の兵を率いて潘口に駐屯し、青石嶺に沿って、兵を三分して隴州・汧陽の間に向かい、連営すること数十里、中軍は鳳翔から一舎の距離にあり、漢の服を着て偽り、邢君牙の兵と号し、呉山・宝鶏に入り、村落を焼き、家畜・壮丁を略奪し、老幼を殺し、手を断ち目を抉り、去った。李晟はかつて大木を伐り倒して安化の隘路を塞いだが、虜が通り過ぎると、悉く焼かれた。詔して神策将の石季章に武功に駐屯させ、良臣は兵を移して百里城に駐めた。虜はまた汧陽・華亭の男女一万人を略奪して羌・渾に与え、塞を出んとして、東に向かって国に辞することを命じた。衆は慟哭し、塹や谷に投身して死ぬ者千数に及んだ。吐蕃はまた豊義に入り、華亭を包囲し、水汲みの道を絶った。守将の王仙鶴が隴州に救援を請うと、刺史の蘇清沔が太平の兵と合流して赴いた。虜は逆襲して戦い、太平は勝たず、引き返した。虜は日に千騎で四方を略奪し、隴の兵は出撃できなかった。虜は薪を積んで華亭を焼かんとし、仙鶴は衆を率いて降った。清沔は密かに兵を大象龕に進め、夜半、城中と約して火を挙げて天を照らすと、虜衆は驚き、そこでその営を襲い、去った。さらに連雲堡を攻め、飛石を投じて中に当て、井戸は皆満ちた。虚梁を作って塹を渡り登り、守将の張明遠は虜に降った。虜は山間に逃れた者や牛羊を捕らえておよそ万を数え、涇・隴・邠の民は蕩然として尽きた。諸将はついに一人の捕虜も得られず、ただ賊が塞を出たことを賀するのみであった。連雲堡は涇の要地であり、三方は切り立って絶え、北は高所を占め、虜の進退する所で、烽火の連絡が容易であった。これを失ってからは、城下は即ち虜の境となり、毎年耕作する時は必ず野に兵を陳列しなければならず、故に多く時を失った。この年、三州では麦を植え付けられなかった。虜数千騎が長武城を犯すと、城使の韓全義がこれを防いだ。韓遊瑰は兵を出さず、ここにおいて虜は安んじて邠・涇の間を行き、諸屯の西門は皆閉じ、虜は故原州を修復して守った。帝は捕らえた吐蕃の生口二百人足らずを取って、諸市に示し、京師を安んじた。

四年五月、虜三万騎が涇・邠・寧・慶・鄜の五州の辺境を略奪し、役所や民家を焼き、数万人を捕らえた。韓全義が陳許の兵を率いて長武で戦ったが、功がなかった。初め、吐蕃は塞を盗み犯す時、春夏の疫病を恐れ、常に盛秋を期した。この時唐の俘虜を得て、多く産物を厚く与え、その妻子を人質としたので、盛夏に辺境に入った。尚悉董星・論莽羅らがまた寧州を寇し、張献甫が防いで斬ったのは僅か百級、転じて鄜・坊を略奪して去った。

五年、韋臯が剣南の兵を率いて台登で戦い、虜将の乞臧遮遮・悉多楊朱を殺し、西南は少し安まった。三年と経たずに、巂州の地を悉く得た。久しくして、北庭の沙陀別部が叛き、吐蕃はこれによって北庭都護府を陥とし、安西への道は絶えた。ただ西州の人だけがなお唐のために守った。

八年、霊州を寇し、水口を陥とし、営田渠を塞いだ。河東・振武の兵を発し、神策軍と合わせてこれを撃つと、虜は引き返した。また涇州を寇し、田軍千人を掠奪し、守捉使の唐朝臣は戦って利あらず。山南西道節度使の厳震が芳州で虜を破り、黒水壁を奪い、積聚を焼いた。虜が塩州を得て以来、塞防に遮るものがなく、霊武は孤立して露わになり、鄜・坊は侵迫され、寇は日に日に驕り、数度入って辺境の患いとなった。帝はまた詔してこれを築城させ、涇原・剣南・山南に深入りして窮め討たせ、その兵を分かち、専ら東方に向かわせないようにした。詔して朔方河中晋絳邠寧兵馬副元帥の渾瑊・朔方霊塩豊夏綏銀節度都統の杜希全・邠寧節度使の張献甫・右神策軍行営節度使の邢君牙・夏綏銀節度使の韓潭・鄜坊丹延節度使の王棲曜・振武麟勝節度使の範希朝に兵三万を合わせさせ、左神策将軍の胡堅・右神策将軍の張昌を塩州行営節度使とし、板築を行わせ、役夫は六千人、残りは皆城下に陣した。九年にようやく築き始め、二旬を経て完工し、虜兵は出て来ず、ここにおいて兼御史大夫の紇幹遂と兼中丞の杜彦光にこれを守らせた。この時、韋臯の功が最も多く、堡壁五十余所を破り、その南道元帥の論莽熱没籠乞悉蓖を破った。また南詔とともに神川・鉄橋でこれを破り、臯は捕虜と首級三万を獲、首領の論乞髯湯没蔵悉諾硉を降した。

十二年、慶州及び華池を寇し、官吏人民を殺掠した。この年、尚結贊が死んだ。明年、贊普が死に、その子の足之煎が立った。邢君牙が隴州に永信城を築いて虜に備えると、虜の使者の農桑昔が来て和好を修めんことを請うたが、朝廷はその信なきを以て受け入れなかった。韋臯が新城を取ると、虜は剣山・馬嶺を修治し、進んで台登を寇し、巂州刺史の曹高仕がこれを撃退し、籠官を生け捕りにし、三百級を斬り、馬・糧・器械数千を獲た。

十四年、韓全義が塩州で虜を破った。十六年、霊州が烏蘭橋で虜を破り、韋臯が末恭・頬の二城を抜いた。十七年、塩州を寇し、麟州を陥とし、刺史の郭鋒を殺し、濠を埋め城壁を壊し、住民を捕らえ、党項諸部を掠奪し、横槽烽に駐屯した。虜将の徐舍人なる者が、捕虜の道人延素に語って言うには、「我は司空しくう英公の裔孫である。武后の時、我が祖父が兵を挙げて王室を尊ぼうとして成らず、子孫は絶域に奔り、今や三世となる。我は兵を握るといえども、心は帰ることを忘れたことはなく、ただ自ら抜け出せないだけである」と。密かに延素をして夜逃げさせた。また言うには、「我は辺境を巡って資糧を求め、麟に至って守る者に備えがなかったので、遂に入った。郭使君が勲臣の家であることを知り、全うして安んじようとしたが、不幸にも乱兵に死んだ」と。語り終わらぬうちに、飛鳥使が至り、その軍を召し還したので、遂に引き去った。飛鳥とは、伝騎のようなものである。韋臯が西山より出て虜と戦い、雅州でこれを破った。籠官の馬定德はもと虜の兵法を知り策慮ある者で、山川の険易を周知し、用兵の度ごとに常に駅馬を馳せて計議し、諸将に授けて行かせた。近年黎・巂を寇するも、臯は常にその兵を挫き、定德は罪を得ることを畏れ、遂に来降し、これによって昆明諸蛮を平定した。吐蕃は以下たびたび叛き、大いに霊州を侵した。時に臯が維州を包囲すると、贊普は論莽熱没籠乞悉蓖を松州五道節度兵馬都統・群牧大使兼ねさせ、兵十万を率いて維州を救援させた。臯は南詔兵を率いて険に迫り伏兵を設けて待ち、僅かに千人を使って敵を誘い、乞悉蓖は兵が寡ないのを見て、衆を悉く追わせ、伏兵の中に陥り、兵が四方から合して急撃し、遂にこれを生け捕りにし、京師に献じた。明年、吐蕃の使者の論頬熱がまた来朝し、右龍武大将軍の薛伾が往って報いた。

二十年、贊普が死に、工部侍郎の張薦を遣わして弔祠し、その弟が嗣立し、再び使者を遣わして入朝した。

順宗が立つと、左金吾衛将軍の田景度・庫部員外郎の熊執易を遣わして節を持たせて往かせた。永貞元年、論乞縷勃蔵が金幣・馬牛を献じて崇陵の助けとし、詔して太極殿の廷中に陳列させた。

憲宗の初め、使者を遣わして和好を修め、かつその俘虜を還した。また使者を以て順宗の喪を告げると、吐蕃もまた論勃蔵を以て来朝した。その後比年ごとに来朝したが、五万騎を以て振武の拂鶙泉に入り、一万騎が豊州の大石谷に至り、回鶻に帰国する者を掠奪した。

五年、祠部郎中徐復を遣わして使いとし、併せて鉢闡布に書を賜う。鉢闡布とは、虜(吐蕃)の浮屠(僧侶)で国政に参与する者であり、また「鉢掣逋」ともいう。徐復は鄯州に至り勝手に帰還し、その副使李逢が命を奉じて贊普に伝えたため、徐復は罪に坐して貶された。虜は論思邪熱を遣わして謝罪させ、かつ鄭叔矩・路泌の柩を返し、ついで秦州・原州・安楽州の返還を願い出た。詔して宰相杜佑らに中書で議わせ、論思邪熱は廷で拝礼し、杜佑は堂上で答拝し、さらに鴻臚少卿李銛・丹王府長史呉暈を遣わしてこれに報いた。ここより朝貢は毎年入るようになった。また隴州の塞に款き、互市を請うたので、詔してこれを許した。

十二年、贊普が死に、使者論乞髯が来朝し、右衛将軍烏重玘・殿中侍御史段鈞を以てこれを吊祭した。可黎可足が立てられて贊普となり、烏重玘は扶余準・李驂を伴って帰還した。扶余準は東明の人で、もと朔方の騎将であり、李驂は隴西の人で、貞元初年に虜に戦没した者である。使者が死んでいないと知り、これを求め、ついに還すことができた。詔して扶余準を澧王府司馬とし、李驂を嘉王友とした。

吐蕃の使者論矩立蔵が来朝したが、未だ国境を出ないうちに、吐蕃が宥州を寇し、霊州の兵と定遠城で戦い、虜は勝たず、二千級を斬首した。平涼鎮遏使郝玼はまた虜兵二万を破り、夏州節度使田縉はその衆三千を破ったので、詔して論矩立蔵らを留めて遣わさなかった。剣南の兵は峨和城・棲鶏城を抜いた。十四年、ようやく論矩立蔵らを帰した。吐蕃の節度論二摩・宰相尚塔蔵・中書令尚綺心児が兵十五万を総べて塩州を囲み、飛梯・鵞車を以て城を攻めたが、刺史李文悦がこれを防ぎ、城が壊れると直ちに補修し、夜にはその営を襲い、昼には出て戦い、虜一万人を破り、三十日を経ても陥落させることができなかった。朔方の将史敬奉が奇兵を以て虜の背後に回り出て大いにこれを破り、包囲を解いて去った。

初め、沙州刺史周鼎が唐のために固守していた時、贊普は帳を南山に移し、尚綺心児にこれを攻めさせた。周鼎は回鶻に救援を請うたが、一年を過ぎても至らず、城郭を焼き、衆を率いて東奔することを議したが、皆これを不可とした。周鼎は都知兵馬使閻朝に壮士を率いて水草を視察させようとしたが、閻朝が朝に謁して辞行する際、周鼎の親吏周沙奴と共に射戯をし、弓を引き揖讓するふりをして、周沙奴を射て即死させ、周鼎を捕らえて縊殺し、自ら州事を領した。城を守ること八年、綾一端を出して麦一斗を募ると、応じる者甚だ多かった。閻朝は喜んで言うには、「民に食あらん、以て死守すべし」と。さらに二年、糧食・器械ともに尽き、城に登って呼んで言うには、「もし他境に移さずば、城を以て降らんことを請う」と。綺心児はこれを許諾したので、ここに出て降った。攻城よりここに至るまで凡そ十一年。贊普は綺心児を以て代わりに守らせた。後に閻朝が謀変を疑い、靴の中に毒を置いて死なせた。州人は皆胡服を着て虜に臣し、毎年父祖を祀る時には、中国の服を着て、号慟してこれを蔵めた。

穆宗が即位し、秘書少監田洎を遣わして告げさせると、使者も来朝した。虜は兵を引いて霊武に入り屯したが、霊州の兵がこれを撃退した。また青塞烽を犯し、進んで涇州を寇し、水辺に営し、五十里に連なった。初め田洎が牙帳に至った時、虜は長武で会盟しようとし、田洎は曖昧にこれを応じた。ここに至って公然と言うには、「田洎が我に盟を許したので、我はここに来た」と。涇州まで一舎(三十里)の所に進んで止まった。詔して右軍中尉梁守謙を左右神策軍・京西北行営都監とし、兵卒を発して八鎮の兵を合わせて涇州を援けさせ、田洎を郴州司戸参軍に流し、太府少卿邵同を持節の和好使とした。初め、夏州の田縉が貪婪であったため、党項がこれを怨み、虜を導いて鈔掠させたが、郝玼がこれと戦い、その衆を多く殺した。李光顔もまた邠州の兵を率いて至ったので、虜は引き去った。再び使者を遣わして来朝した。南は雅州を略したので、詔して方鎮で虜と接する者は辺備を厳にせしめた。

長慶元年、回鶻と和親したと聞き、清塞堡を犯したが、李文悦に逐われた。そこで使者尚綺力陀思を遣わして来朝させ、かつ盟を乞うたので、詔してこれを許した。崔植・杜元穎・王播が政を輔け、告廟しようと議した。礼官が言うには、「粛宗・代宗は皆嘗て吐蕃と盟し、告廟せず。徳宗の建中の盟は、その約を重んぜんとし、始めて詔して告廟した。会平涼に至っては、告廟せず、殺されたからである」と。そこで止めた。大理卿劉元鼎を盟会使とし、右司郎中劉師老をその副とし、詔して宰相と尚書右僕射韓臯・御史中丞牛僧孺・吏部尚書李絳・兵部尚書蕭俛・戸部尚書楊於陵・礼部尚書韋綬・太常卿趙宗儒・司農卿裴武・京兆尹柳公綽・右金吾将軍郭鏦及び吐蕃の使者論訥羅と京師西郊で盟した。贊普は盟言を以て約して言うには、「二国相寇讎すること無く、生け捕りにした者は尋問し、衣服・食糧を与えて帰す」と。詔してこれを可とした。盟に与った大臣は皆名を策に載せた。盟した時、吐蕃は壮騎を以て魯州に屯し、霊州節度使李進誠が大石山でこれと戦い、これを破った。虜は使者趙国章を遣わし、かつ宰相の信幣を致した。

明年、疆候を定めることを請うたので、劉元鼎が論訥羅と共にその国で盟に就き、虜の大臣にも列名するよう勅した。劉元鼎は成紀・武川を過ぎ、河広武梁に至ったが、旧時の城郭は未だ毀れておらず、蘭州の地は皆杭稲が植わり、桃・李・榆柳が茂り、戸は皆唐人で、使者の麾蓋を見て、道を挟んで観た。龍支城に至ると、耋老千人が拝して泣き、天子の安否を問い、言うには、「頃年軍に従ってここに没し、今子孫未だ唐服を忘れ忍ばず、朝廷なおこれを念うや。兵は何日に来るか」と。言い終わると皆嗚咽した。密かに問うと、豊州の人であった。石堡城を過ぎると、崖壁は峭豎し、道は回屈し、虜は鉄刀城と言った。右に数千里行くと、土石皆赤く、虜は赤嶺と言った。信安王李禕・張守珪の定めた封石は皆倒れ、独り虜の立てた石のみ存した。赤嶺は長安より三千里余りで、蓋し隴右の故地である。悶怛盧川と言い、邏娑川の南百里に直し、臧河の流れる所である。河の西南は、地砥の如く、原野秀沃で、河を挟んで多く檉柳あり。山には柏が多く、坡には皆丘墓があり、傍らに屋を作り、赭色に塗り、白虎を描く。皆虜の貴人で戦功ある者であり、生きてはその皮を衣とし、死しては以て勇を旌し、殉死者はその傍らに葬る。悉結羅嶺を度ると、石を鑿って車を通し、金城公主の道を逆った。麋谷に至り、館に就いた。臧河の北川は、贊普の夏の牙帳である。周りを槍で累ね、おおよそ十歩ごとに百本の長槊を植え、中に大幟を立てて三門とし、相距ること皆百歩。甲士が門を持ち、巫祝は鳥冠虎帯で鼓を撃ち、凡そ入る者は搜索されて進む。中に高臺あり、宝楯を以て環らし、贊普は帳中に坐し、黄金を以て蛟螭虎豹を飾り、身に素褐を被り、朝霞を結んで首を冒し、金鏤の剣を佩く。鉢掣逋は右に立ち、宰相は臺下に列す。唐の使者が初めて至ると、給事中論悉答熱が来て盟を議し、牙帳の右で大いに饗し、飯を挙げ酒を行い、華の制と略等しく、楽は『秦王破陣曲』を奏し、また『涼州』・『胡渭』・『録要』・雑曲を奏し、百伎は皆中国人であった。盟壇は広さ十歩、高さ二尺。使者と虜の大臣十余対が位し、酋長百余が壇下に坐し、上に巨榻を設け、鉢掣逋が昇り、盟を告げ、一人が傍らから訳して下に授けた。すでに歃血し、鉢掣逋は歃さず。盟が終わると、浮屠を以て重ねて誓い、郁金水を引いて飲み、使者と慶び交わし、ようやく降壇した。

元鼎が帰還すると、虜の元帥尚塔蔵は客を大夏川に館し、東方節度の諸将百余りを集めて盟策の台上に置き、遍くこれを諭し、且つ各々境を保ち、暴犯相侵さざることを戒めた。策には彜泰七年と署した。尚塔蔵は元鼎に語って曰く、「回鶻は小国なり、我嘗てこれを討ち、城より三日にして危うく破らんとす、会に国に喪有りて乃ち還る、我が敵に非ず。唐は何を畏れて、乃ち厚くするや」と。元鼎曰く、「回鶻は功有り、且つ約の如く、未だ嘗て妄りに兵を以て尺寸の地を取ること無し、是を以て厚くす」と。塔蔵は黙然たり。元鼎は湟水を逾え、龍泉谷に至り、西北に殺胡川を望めば、哥舒翰の故壁多く在り。湟水は蒙谷より出で、龍泉に抵りて河と合す。河の上流は、洪済梁より西南に二千里行けば、水益々狭く、春は渉ること可く、秋夏に至りて乃ち舟に勝つ。其の南三百里に三山有り、中高くして四下り、紫山と曰い、直に大羊同国に当たり、古の所謂昆侖なる者なり、虜は悶摩黎山と曰う、東は長安より五千里、河源其の間に在り、流れ澄みて緩やかに下り、稍々衆流を合わせ、色赤く、行くこと益々遠く、他の水並びに注げば則ち濁る、故に世挙げて西戎の地を河湟と謂う。河源は東北に直に莫賀延磧の尾に当たり殆ど五百里、磧の広さ五十里、北は沙州より、西南は吐谷渾に入りて浸く狭く、故に磧尾と号す。其の地を隠測すれば、蓋し剣南の西なり。元鼎の経見する所、大略此の如し。

虜は論悉諾息等を遣わして入謝せしめ、天子は左衛大将軍令狐通・太僕少卿杜載を命じてこれに答えしむ。是の歳、尚綺心児は兵を以て回鶻・党項を撃ち、小相尚設塔は衆三万を率いて木蘭梁に馬を牧す。比歳、使者は金盎・銀冶犀・鹿を献じ、牦牛を貢ぐ。

宝暦より大和に至るまで、再び使者を遣わして朝す。五年、維州守将悉怛謀は城を挈して降り、剣南西川節度使李徳裕これを受け、符章・仗鎧を収め、更に将虞蔵儉を遣わしてこれを拠らしむ。州は南は江陽岷山に抵り、西北は隴山を望み、一面崖、三涯江、虜は無憂城と号し、西南の要捍たり。会に牛僧孺国を当にし、議して悉怛謀を還し、其の城を帰す。吐蕃は夷誅して遺種無く、以て諸戎を怖しむ。是より比五年虜使来たり、必ず報ず。貢ぐ所に玉帯・金皿・獺褐・牦牛尾・霞氈・馬・羊・橐它有り。

贊普立つこと幾三十年、病みて事をせず、大臣に委任す、故に中国に抗すること能わず、辺候晏然たり。死し、弟達磨を以て嗣ぐ。達磨は酒を嗜み、畋獵を好み、内を喜び、且つ凶愎にして恩少なく、政益々乱る。開成四年、太子詹事李景儒を遣わして往き使わしむ、吐蕃は論集熱を以て来朝し、玉器・羊馬を献ず。是より国中地震裂け、水泉湧き、岷山崩る。洮水逆流すること三日、鼠稼を食い、人饑疫し、死者相枕藉す。鄯・廓の間夜に鼙鼓の声を聞き、人相驚く。

会昌二年、贊普死し、論贊熱等来りて告ぐ、天子は将作監李璟を命じて吊祠せしむ。子無く、妃綝の兄尚延力の子乞離胡を以て贊普と為す、始めて三歳、妃共に其の国を治む。大相結都那は乞離胡を見て拝せんことを肯わず、曰く、「贊普の支属尚ほ多く、何ぞ至って綝氏の子を立つるに至らんや」と。哭して出で、用事者共にこれを殺す。

別将尚恐熱は落門川討撃使たり、姓は末、名は農力、「熱」は猶中国の号する「郎」の如し、譎詭にして幻を善くし、三部を約して万騎を得、鄯州節度使尚婢婢を撃ち、地を略して渭州に至り、宰相尚与思羅と薄寒山に戦う。思羅敗走して松州に走り、蘇毗・吐渾・羊同の兵八万を合わせて洮河を保ち自守す、恐熱は蘇毗等に謂いて曰く、「宰相兄弟は贊普を殺し、天神我をして義兵を挙げて不道を誅せしむ、爾属乃ち逆を助け国に背くや」と。蘇毗等は疑いて戦わず、恐熱は軽騎を麾して河を渉り、諸部先ず降り、其の衆を併せて十余万に至り、思羅を禽えて縊殺す。

婢婢は、姓は没盧、名は贊心牙、羊同国の人、世々吐蕃の貴相たり、寛厚にして、略く書記に通じ、仕を喜ばず、贊普強いてこれを官す。三年、国人は贊普の立つる所是に非ざるを以て、皆叛き去る。恐熱自ら宰相と号し、兵二十万を以て婢婢を撃つ、鼓鼙・牛馬・橐它連なること千余里、鎮西軍に至り、大風雷電、部将震死する者十余人、羊・馬・橐它も亦数百。恐熱これを悪み、軍を按じて進まず。婢婢これを聞き、厚く幣を以て書を詒して約す、恐熱大いに喜びて曰く、「婢婢は書生、焉ぞ軍事を知らん。我が贊普と為らば、当に家居の宰相を以てこれを処せん」と。是に於いて退きて大夏川に営す。婢婢は将厖結心・莽羅薛呂を遣わして恐熱を河州の南に撃たしむ、伏兵四万、結心は山に拠りて書を射して極めて罵り、恐熱怒り甚だしく、盛んに兵を出して闘う。結心偽りて北し、恐熱は数十里に追い至り、莽羅薛呂は伏兵を以て衷撃し、大風雨、河溢れ、溺死すること甚だ衆く、恐熱は単騎にして逃ぐ。既に志を得ず、尤も猜忍にして殺戮し、部将岌蔵・豊贊は皆降り、婢婢は厚くこれらを遇す。明年、恐熱復た鄯州を攻め、婢婢は兵を分かち五道として拒守し、恐熱は東谷山を保ち、堅壁して出でず。岌蔵は重柵を以てこれを繚らし、汲道を断つ、旬日、恐熱は薄寒山に走り、散卒を募りて稍々至り、数千人を得、復た鹖鶏山に戦い、再び南谷に戦い、皆大いに敗る。兵拿れて仍歳解けず。

大中三年、婢婢は兵を河源に屯し、恐熱の河を度らんと謀るを聞き、急ぎこれを撃つも、恐熱に敗られる。婢婢は鋭兵を統べて橋を扼すも、亦勝たず、橋を焚きて還る。恐熱は間を出でて鶏頂嶺関を出で、硤に馮りて梁を為し婢婢を攻め、白土嶺に至り、其の将尚鐸羅榻蔵を敗り、進んで牦牛硤に戦う。婢婢の将燭盧鞏力は硤を負いて自ら固め以て恐熱を困らんと欲す、大将磨離羆子従わず、乃ち疾を辞して先に帰る。羆子は急ぎ恐熱を撃ち、一戦にして死す。婢婢は糧尽き、衆を引いて甘州西境に趨き、拓抜懐光を以て居守せしめ、恐熱の麾下多くこれに帰す。

恐熱は大いに鄯・廓・瓜・肅・伊・西等州を略し、過ぐる所捕戮し、積屍狼藉、麾下内に怨み、皆これを図らんと欲す。乃ち声を揚げて将に唐兵五十万を請いて共に其の乱を定め、渭州を保ち、冊を求めて贊普と為り、表を奉じて唐に帰せんとす。宣宗は詔して太僕卿陸耽に節を持たしめて慰労せしめ、涇原・霊武・鳳翔・邠寧・振武等の兵を命じて迎援せしむ。恐熱既に至り、詔して尚書左丞李景讓をして就きて所欲を問わしむ。恐熱は倨誇自大にして、且つ河渭節度使を求め、帝許さず。還りて咸陽橋を過ぎ、咄嘆して曰く、「我は大事を挙げ、冀くは此の河を済えて唐と境を分かたんことを得ん」と。是に於いて復た落門川に趨きて散卒を収め、将に辺を寇せんとす、会に久雨糧絶え、恐熱は還りて廓州に奔る。

ここに於いて鳳翔節度使李比は清水を回復し、涇原節度使康季榮は原州を回復して石門等六関を奪取し、人畜数万を得、霊武節度使李欽は安楽州を奪取し、詔して威州と為し、邠寧節度使張欽緒は蕭関を回復し、鳳翔は秦州を収め、山南西道節度使鄭涯は扶州を得た。鳳翔兵は吐蕃と隴州に戦い、首級五百を斬る。是の歳、河・隴の高齢者千余人が闕下に参じ、天子は延喜楼に御して冠帯を賜い、皆争って辮髪を解き服を易えた。因って詔して四道の兵に差等を以て賜い、功労有る者を録し、三州七関の地の肥沃なる者は民に墾芸を聴し、五歳の賦を貸し、温池は度支に委ねて其の塩を専売し、以て辺を贍い、四道の兵に営田能くする者は牛種を与え、戍る者は其の資餉を倍加し、再歳毎に代え、商賈辺に往来する者は関鎮留め何うること無く、兵田を墾かんと欲する者は民と同様とせしむ。

初め、太宗は薛仁杲を平らげて隴上の地を得、李軌を虜にして涼州を得、吐谷渾・高昌を破りて四鎮を開き、玄宗は継いで黄河積石・宛秀等の軍を収め、中国に斥候の警無きこと凡そ四十年、輪臺・伊吾の屯田は禾菽望みに満ち、開遠門に候署を掲げて「西極道九千九百里」と曰い、戍人に万里の行無きことを示した。乾元の後、隴右・剣南西山三州七関の軍鎮監牧三百所皆之を失う。憲宗は常に天下図を覧て河湟の旧封を見、赫然として之を経略せんと思えども、未だ暇あらず。是に至り群臣奏言して曰く、「王者の功を建て業を立つるは、必ず以て世に光表する者有り。今一卒を勤めず、一刃に血せずして河湟自ら帰す。請う、天子の尊号を上らん。」帝曰く、「憲宗は嘗て河・湟を念い、業未だ就かずして殂落す。今祖宗の烈を述べんとす。其れ順・憲二廟の謚号を上るを議し、後世に誇顕せよ。」又詔して曰く、「朕は民を姑息す。其の山外諸州は、須らく後に之を経営せん。」

明年、沙州の首領張義潮、瓜・沙・伊・肅・甘等十一州の地図を奉じて献ず。初め、義潮は密かに豪英を結びて唐に帰せんとし、一日、衆甲を擐き州門に噪き、漢人皆之を助け、虜の守る者驚き走り、遂に州事を摂る。甲兵を繕い、耕し且つ戦い、余州悉く復す。部校十輩を以て皆挺を操り、其の中に表を内し、東北に走りて天徳城に至り、防禦使李丕以て聞く。帝其の忠を嘉し、使者を命じて詔を賫し収慰せしめ、義潮を沙州防禦使に擢げ、俄に帰義軍と号し、遂に節度使と為す。其の後、河・渭州の虜将尚延心、国破れて亡ぶを以て、亦款を献ず。秦州刺史高駢、延心及び渾末部万帳を誘降し、遂に二州を収め、延心を武衛将軍に拝す。駢は鳳林関を収め、延心を河・渭等州都遊弈使と為す。

八年、義潮朝に入り、右神武統軍と為り、第及び田を賜い、族子淮深を命じて帰義を守らしむ。十三年卒す。沙州は長史曹義金を以て州務を領せしめ、遂に帰義節度使を授く。後、中原多故にして王命及ばず、甘州は回鶻に併せられ、帰義諸城多く没す。

渾末は、亦嗢末と曰い、吐蕃の奴部なり。虜の法、出師には必ず豪室を発し、皆奴を以て従い、平居は散処して耕牧す。及て恐熱乱れて帰する所無く、共に相嘯合し数千人、嗢末を以て自ら号し、甘・肅・瓜・沙・河・渭・岷・廓・疊・宕の間に居り、其の蕃牙に近き者は最も勇にして、馬は尤も良しと云う。

賛して曰く、唐興りて、四夷に率いざる者有れば、皆利兵を以て之を移し、其の牙を蹙め、其の廷を犁いて後に已む。惟だ吐蕃・回鶻は強雄と号し、中国の患と為ること最も久し。贊普遂に河湟を尽く盗み、王畿に薄れて東境と為り、京師を犯し、近輔を掠め、華人を残馘す。謀夫虓帥、圜視して共に計るも、卒に要領を得ず。晩節二姓自ら亡び、而して唐も亦衰う。夫れ外を撫で内を寧んずるは、惟だ聖人のみ譲らず。玄宗は逸徳有りて、而して拓地太大にし、遠功を務め、近虞を忽せにし、逆賊一奮するに、中原封裂し、二百年に訖りて復た完からず、而して陵夷に至る。然らば則ち内先づ自ら治め、四夷を釈きて外懼と為すは、守成の良資なり。