新唐書

巻二百一十五上 列傳第一百四十上 突厥上

夷狄が中国に患いをなすは、久しきことなり。前世に在りし者は、史家類く能く之を言う。唐興りて、蛮夷は盛衰を更へ、嘗て中国と亢衡したる者四あり:突厥・吐蕃・回鶻・雲南是なり。其の時に方り、群臣の献議盈廷に満ち、或いは聴き或いは置き、班然として睹るべし。

劉貺以爲へらく:

嚴尤は辯にして未だ詳ならず、班固は詳にして未だ盡きず、其の至當を榷むるに、周は上策を得、秦は其中を得、漢は策無し。何を以て之を言ふ?荒服の外は、聲教の逮ばざる所、其の叛くは之が爲に勞師せず、其の降るは之が爲に備を釋かず、嚴に守禦を守り、險に走集を險くし、其の寇を爲す能はざらしめ、臣を爲すを得ざらしむ。「此の中夏を惠み、以て四方を綏ぶ」は、周の道なり、故に曰く周は上策を得たりと。《易》に稱す:「王侯險を設けて以て其の國を固む。」と。長城を築き、障塞を脩むるは、險を設くる所以なり。趙簡子長城を起して胡に備へ、燕・秦も亦た長城を築きて中外を限り、益〻城塹を理め、城全くして國滅び、人歸咎す。後魏長城を築き、議者以爲へらく、人一步を治め、方千里、役三十萬人、旬朔を俟たずして久逸を獲ると。故に曰く秦は中策を得たりと。漢は宗女を以て匈奴に嫁し、而して高祖こうそも亦た魯元の趙王の逆謀を止むる能はざるを審らかにし、匈奴の叛を息むる能ふと謂ふは、非なり。且つ冒頓手ずから其の親をしいし、而して其の外祖と強を爭はざるを冀ふは、豈に惑はざらんや?然らば則ち和親の久安の計に非ざるを知りて之を爲す者は、天下初めて定まり、歲月の禍を紆らんが爲のみ。武帝の時、中國艾安し、胡寇益〻希なり、疏にして之を絕つ、此れ其の時なり。方に更に華夏を糜耗し、兵を連ね年を積む、故に嚴尤以爲へらく下策なりと。然れども漢昭・宣に至り、武士練習し、斥候精明なり、匈奴跡を收めて遠く徙り、猶ほ奉春の過舉を襲ひ、府藏を傾けて西北に給し、歲二億七十萬。皇室の淑女、穹廬に嬪し;掖庭の良人、沙漠に降る。夫れ子女方物を貢ぐは、臣仆の職なり。《詩》に曰く:「敢へて來享せざる莫く、敢へて來王せざる莫し。」と。荒服其の來を稱し、往を言はざるなり。公及び吳と盟し、諱して書かず。奈何ぞ天子の尊を以て、匈奴と約して兄弟と爲り、帝女の號、胡おうと並び禦し;母を蒸し子に報ひ、其の汚俗に從はんや?中國蠻夷に異なる者は、父子男女の別有るなり。婉冶の姿、節を毀ち異類に異り、垢辱甚だし。漢の君臣、之を恥とせざるなり。魏・晉羌狄塞垣に居り、資奉昔に逾へり。百人の酋、千口の長、金印紫綬を賜ひ、王侯の俸を食む。牧馬の童、羊に乘る隸、毳毼を賫り利を邀ふ者、路に相錯る。耒耨の利、絲枲の生ずる所、數萬里の外に散ず。胡夷歲〻驕り、華夏日〻蹙る。其の強きに方り、人力を竭くして之を征し;其の服するや、之を養ふこと初めの如し。病なれば則ち養を受け、強ければ則ち內攻し、中國羌胡の爲に服役すること且つ千載、悲しまざらんや!誠に能く其の財を移して戍卒を賞すれば、則ち民富み;其の爵を移して守臣を餌とすれば、則ち將良し。富利我に歸し、危亡彼に移り、女を納るるの辱無く、傳送の勞無し。此れを棄てて爲さざる、故に曰く漢は策無しと。嚴尤古に上策無しと謂ふは、之を臣妾とす能はざるを謂ふなり、誠に能くして用ゐざるのみ。秦は策無しと謂ふは、狄を攘ひて國を亡ぼすを謂ふなり。秦の亡ぶは、狄を攘ふに非ざるなり。漢は下策を得たりと謂ふは、胡を伐ちて人病むを謂ふ。人既に病めり、又た人を役して之を奉る、策無きなり。故に曰く嚴尤は辯にして未だ詳ならずと。班固「其の來りて義を慕へば、則ち禮讓を以て之に接す。」と謂ふ。何者ぞ?禮讓は以て君子と交はる、禽獸夷狄に接する所以に非ざるなり。纖麗外に散ずれば、則ち戎羯の心生じ;戎羯の心生ずれば、則ち侵盜の本なり。聖人飲食聲樂之と共にせず、來朝して門外に坐し、舌人體委して以て之を食はしめ、馨香嘉味を知らしめざるなり。漢氏驕虜を習玩し、之をして燕・趙の色を悅ばしめ、太官の珍を甘んぜしめ、文綺羅紈を以て服せしめ、供すれば則ち求を增し、絕てば則ち怨を招く、是れ豺狼に良肉を飽かしめて、其の獵ぜいを縱るなり。華人の步卒は險阻に利あり、虜人の騎兵は平地に利あり、堅守して追奔競逐に與からず、來れば則ち險を杜ちて進むを得ざらしめ、去れば則ち險を閉ぢて還るを得ざらしめ、長戟を以て沖き、強弩を以て臨む、勝を求むるに非ざるなり、諸れの蟲豸虺蜴に譬ふるが如し、何の禮讓の接する有らんや?故に曰く班固は詳にして未だ盡きざる者、此れなりと。

杜佑謂へらく:

秦は區區の關中を以て六強國を滅ぼし、今萬方の財を竭くして上京師に奉り、外に犬戎の恁陵有りて城數百を陷し、內に兵革未だ寧からず、三紀なり。豈に制置異術、古今時を殊にするや?周制、步百を畝と爲し、畝百一夫に給す。商鞅秦を佐け、以爲へらく地利盡きずと、更に二百四十步を以て畝と爲し、百畝一夫に給す。又た秦地曠にして人寡く、晉地狹にして人夥しきを以て、三晉の人を誘ひて耕し其の田宅を優にし、復た子孫に及び、秦人をして外に敵に應ぜしめ、農と戰とに非ざれば官に入るを得ざらしむ。大率百人五十人を農と爲し、五十人戰を習ふ、故に兵強く國富む。其の後仕宦の途多く、末業日〻滋す。今大率百人纔に十人を農と爲し、餘皆他技を習ふ。又た秦・漢鄭渠田四萬頃を溉ぎ、白渠田四千五百頃を溉ぎ、永徽中、兩渠灌浸萬頃に過ぎず、大歷初、減じて六千畝に至る。畝晙一斛、歲に四五百萬斛少なし。地利耗け、人力散ず、強富を求めんと欲すれども、得べからず。漢時、長安ちょうあん北七百里即ち匈奴の地、侵掠未だ嘗て暫く息まず。其の舉國の衆を計るに、漢の一大郡に過ぎず、鼉錯障塞を備ふるを請ふ、故に北邊妥安なり。今潼關の西、隴山の東、鄜坊の南、終南の北、十餘州の地、已に數十萬家。吐蕃綿力薄材、食鮮く藝拙く、中國に及ばず遠く甚だし、誠に能く兩渠の饒を復し、農夫を誘ひて耕に趣かしめ、險要を擇び、城壘を繕ひ、田を屯し力を蓄はば、河・隴復たすべし、豈に自守のみならんや。

佑の孫牧に至りても亦た曰く:

天下に事なき時、大臣は栄華安逸に安んじ、戦士は離散し、兵甲は鈍弊し、車馬は磨耗して弱く、天下雑然として盗賊起こるや、疾駆して戦う、これを宿敗の師と謂う。これ練兵せざる過ち、その敗一なり。

百人が戈を荷い、県官に食を仰ぐや、則ち千夫の名を挟み、大将小裨その余剰を操り、虜の壮健なるを幸いとし、兵を執る者は常に少なく、食を糜く者は常に多く、塁を築く未だ乾かざるに、公の囊すでに虚し。これ実を責めざる過ち、その敗二なり。

戦いに小勝すれば則ちその功を張皇し、奔走して状を献じて賞を邀い、或いは一日に再び賜い、一月に累ねて封じ、凱歌未だ歌わざるに、書品すでに崇く、爵命極まり、田宮広く、金繒溢れ、子孫官なり、肯んぞ外に死して我に勤めんや。これ賞厚き過ち、その敗三なり。

多く兵士を喪い、大都を顛覆すれば、則ち身を跳ねて来たり、邦を刺して去り、回って刀鋸を視れば、菜色甚だ安らか、一歳未だ更えざるに、すでに壇墀の上に立つ。これ罰軽き過ち、その敗四なり。

大将兵を将うるに、柄専らに得ず、一日は偃月と為し、一日は魚麗と為し、三軍万夫、環旋翔佯し、愰駭の間に、虜騎これに乗ず。これ専任せざる過ち、その敗五なり。

元和の時、兵数十万を団めて以て蔡を誅せんとし、天下乾耗し、四歳にして然る後にこれを取る、蓋し五敗去らざればなり。長慶初、盗の子若くは孫悉く来たりて命に走る、未幾にして燕・趙乱れ、師を引き将を起こし、五敗益甚だしく、反虜に威を加うること能わず。二杜の論かくの如し。

広徳・建中の間、吐蕃再び岷江に飲馬し、常に南詔を以て前鋒と為し、倍尋の戟を操り、且つ戦い且つ進み、しょく兵は刃を折り鏃を吞み、一戎を斃すこと能わず。

戎兵日深く、疫死日衆く、自ら度りて留まること能わずと、輒ち引き去る。蜀人の語に曰く、「西戎は尚し可なり、南蛮は我を残す」と。

四年、頡利は一万騎を率いて苑君璋と合流し、雁門を寇し、定襄王李大恩がこれを撃退した。頡利は我が使者の漢陽公瓌、太常卿鄭元璹、左ぎょう衛大將軍長孫順德を捕らえ、帝もまたその使者を捕らえて相応の処置をとった。これにより代州を寇し、行軍総管王孝基を破り、河東を略奪し、原州を犯し、延州の塞を突破し、諸将がこれと戦ったが、捕虜を得ることはできなかった。

翌年、順德らを返還し、かつ和を請い、魚膠を贈り、欺いて言うには、「固く二国の好を結ぶためである」と。帝は未だ真情を信じなかったが、その使者の特勒熱寒らを釈放し、厚く金を与えて帰した。大恩が上言して言うには、「突厥は飢えており、馬邑を攻略すべきである」と。詔して殿中少監獨孤晟に共にこれを撃たしめた。晟は後約し、大恩は進むことを敢えず、新城に屯し、頡利は自ら数万騎を率いて劉黒闥と合流しこれを包囲し、大恩は戦死し、士卒の死者数千人に及んだ。忻州を進撃したが、李高遷に破られた。黒闥は突厥の兵一万を以て山東を擾乱し、また定州を破壊した。頡利は志を得ず、乃ち十五万騎を率いて雁門に入り、へい州を包囲し、深く汾・潞を掠奪し、男女五千人を捕らえ、数千騎を分けて原・霊の間を転掠した。ここにおいて太子建成は兵を将いて豳州道より出で、秦王は兵を将いて蒲州道より出でてこれを撃ち、李子和は兵を以て雲中に向かい、可汗の後方を掩い、段徳操は夏州より出でてその帰路を狙った。并州総管襄邑王神符は汾東で戦い、虜五百の首を斬り、馬二千を奪い、汾州刺史蕭顗は捕虜五千を献上した。虜は大震関を陥とし、兵を放って弘州を掠奪したが、総管宇文歆・霊州の楊師道がこれを防ぎ、馬・駱駝数千を獲た。頡利は秦王が将に至らんとするを聞き、塞外に引き出で、王師は還った。また翌年、黒闥・君璋らと共に小規模に定・匡・原・朔等州に寇し、屯将と勝負を争った。帝は太子建成を遣わして再び北辺に屯し、秦王を并州に屯して虜に備えさせ、久しくしてやっと罷めた。俄かにまた代の地の一屯を破り、渭・豳二州を進撃し、馬邑を奪ったが、保有せず、また和を請い、我が馬邑を返還した。

七年、原・朔二州を攻め、代の地に入ったが勝てず、更に君璋と合流して隴州及び陰般城を攻め、並の地を分撃した。秦王と斉王元吉は豳州道に屯して胡に備えた。君璋は虜と共に原・朔・忻・並の地に出没し、掠奪騒然として、数度諸将に駆逐された。その八月、頡利と突利の兵が悉く起こり、原州より連営して南に進み、所在震恐し、秦王・斉王がこれを防いだ。

初め、関中に長雨洪水があり、糧道が絶え、軍は豳州に駐屯した。可汗の一万騎が急に至り、五龍阪に陣し、数百騎を以て挑戦したので、全軍色を失った。秦王は百騎を馳せて陣を掠め、大言して曰く、「国家は突厥に負うところ無し、何ぞ深く入るや。我は秦王なり、故に自ら来たりて可汗と決せんとす。若し固く戦わば、我が才百騎のみ、徒らに殺傷を広むるも益無し」と。頡利は笑って答えず。また騎を馳せて突利に語りて曰く、「爾は往時我と盟し、急難相助けんとし、今香火の情無きか。一決せんや」と。突利もまた答えず。王将に水を絶ちて進まんとす。頡利は兵少なく、また突利との語を聞き、陰に相忌み、即ち使者を遣わして来たりて曰く、「王苦しむ毋れ、我固より戦わず、将に王と事を議せんとす」と。ここにおいて引き退いた。秦王は反間を放ち、突利は乃ち帰心し、戦わんと欲せず、頡利もまた以てこれを強いること能わず、乃ち突利及び夾畢特勒思摩を遣わして和を請わしめ、帝はこれを許した。突利は遂に自ら王に托して昆弟となす。帝は思摩を見、引きて御榻に昇らしむ。思摩頓首して辞す。帝曰く、「我若を見ること猶お頡利のごとし」と。乃ち命を聴かしめた。

突厥は既に毎年辺境を盗み、或る者が帝に説いて曰く、「虜が数度内寇するは、府庫子女の在る所なるを以てなり。我が長安を去らば、則ち戎の心止まん」と。帝は中書侍郎宇文士及をして南山を越えさせ、樊・鄧を行き巡らせ、将に都をここに遷さんとす。群臣遷都を賛し、秦王独り曰く、「夷狄は古より中国の患いなり、周・漢の遷都せしを聞かず。願わくは数年を仮し、請う可汗を取って以て報いん」と。帝は乃ち止めた。頡利は既に和し、また甚だしい雨に会い、弓矢皆弛み悪くなり、遂に解いて還った。帝は群臣を会して以て辺境を備うる所以を問う。将作大匠於筠は五原・霊武に舟師を河に置き、その侵入を扼せんことを請う。中書侍郎温彦博曰く、「魏は長塹を以て匈奴を遏えたり、今用いるべし」と。帝は桑顕和をして辺境の大道に塹を穿たしめ、江南の船工を召し大いに卒を発して戦艦を治めしむ。頡利は使者を遣わして来たり、願わくは北楼関に款き互市を請うと。帝は拒むこと能わず。帝は天下を兼ね始め、十二軍を罷め、文治を尚ぶ。ここに至りて虜患方に張るを以て、乃ちこれを復置し、以て卒を練り騎を搜めしむ。

八年、頡利は霊・朔を攻め、代州都督ととく藺謩と新城で戦い、謩は敗績した。ここにおいて張瑾は兵を石嶺に屯し、李高遷は大谷に屯し、秦王は蒲州道に屯した。初め、帝は突厥を待つに敵国の礼を用いた。ここに至りて怒りて曰く、「往時吾は天下未だ定まらざるを以て、虜に厚くして吾が辺境を紓かにせり。今卒に約を敗る、朕将にこれを撃滅せん、姑息する毋れ」と。命じて有司に与うる所の書を更めて詔若しくは勅となす。瑾未だ屯に至らざるに、虜は既に石嶺を逾え、并州を包囲し、霊州を攻め、転じて潞・沁を擾乱す。李靖は兵を以て潞州道より出で、行軍総管任瑰は太行に屯す。瑾は大谷で戦い敗績し、中書侍郎温彦博は賊に陥ち、鄆州都督張徳政はこれに死す。遂に広武を攻めたが、任城王道宗に破られた。その欲谷設は綏州を掠め、和を請いて去った。并州の数県を破り、蘭・鄯・彭州の諸屯に入り、或いは小勝したが、制することができず。俄かに原州を寇し、折威将軍楊屯がこれを撃ち、且つ士卒を発して大谷に屯した。

九年、原州・霊州を攻め、また涼州を囲み、涇州・原州に進犯す。李靖、霊州においてこれと戦い、虜は退去す。西会州を寇し、烏城を囲み、隴州・渭州の間を徘徊す。平道将軍柴紹、秦州においてこれを破り、一特勒・三大将を斬り、虜千級を獲る。おおよそ虜は志を得れば則ち深入りし、敗れれば則ち和を請う、恥とせざるなり。その七月、頡利自ら十万騎を将いて武功を襲い、京師戒厳す。高陵を攻む。尉遅敬徳、涇陽においてこれと戦い、俟斤烏没啜を獲、斬首千級余。頡利、謀臣執失思力を遣わし入朝して我を覘わしめ、因りて誇説して曰く「二可汗の兵百万、今至れり」と。太宗曰く「我と可汗は嘗て面約して和し、爾は則ちこれを背けり。かつ義師の初め、爾父子身をもって我に従い、遺賜する玉帛は多きこと計うべからざるに至れり。何ぞ妄りに兵をもって我が都畿に入り、自ら盛強を誇るや。今我まさに先ず爾を戮さん」と。思力懼れ、命を請う。蕭瑀・封徳彜、帝に諫めて、礼をもってこれを遣わすに如かずとす。帝許さず、門下省に繋ぐ。乃ち侍中高士廉・中書令房玄齢・将軍周範等とともに六騎を馳せて玄武門を出で、渭上に幸し、可汗と水を隔てて語り、かつその約を負うを責む。群酋、帝を見て皆驚き、下馬して拝す。俄にして衆軍至り、旗鎧光明に、部隊静厳にして、虜大いに駭く。帝と頡利、轡を按じ、即ち軍を麾して退きて陣せしむ。蕭瑀、帝の軽敵を以て、馬に叩いて諫む。帝曰く「我思うこと熟せり、爾の知る所に非ざるなり。夫れ突厥、地を掃いて入寇するは、我新たに内難有るを以て、師と為す能わざるを謂うなり。我もし城を闔せば、彼まさに大いに我が境を掠めん。故に我独り出でて、畏るる所なきを示し、又兵を盛んにして必ず戦うを知らしめ、我が能くその始謀を沮ぐを意いせざらしむ。彼我が地に入ること既に深く、返す能わざるを懼る。故にこれと戦えば則ち克ち、和すれば則ち固く、賊の命を制するは、この挙に在り」と。是の日、頡利果たして和を請う。これを許す。翌日、白馬を刑し、頡利と便橋上に盟う。突厥引き還る。蕭瑀曰く「頡利の来たるや、諸将多く戦うを請う。陛下聴かず。既にして虜自ら退く。その策いかん」と。帝曰く「突厥は衆にして整わず、君臣は利を惟みて視る。可汗は水西に在りて、酋帥は皆来たりて我を謁す。我酔わせてこれを縛すれば、その勢い甚だ易し。又我長孫無忌・李靖に勅して潜かに師を幽州にし、以て須う。若し大軍その後を躡き、伏兵前に邀えれば、これを取ること掌を反覆するが如し。然れども我新たに即位し、国を為す者は要は安静に在り。一たび虜と校すれば、殺傷必ず多し。彼敗れて未だ亡びず、懼れて徳を脩め、我と怨みを為せば、その当たるべけんや。今、械を仆し鎧を巻き、玉帛を以て啖えば、虜の志必ず驕る。驕れば則ち亡びの端なり。故に曰く『将にこれを取らんと欲すれば、必ず固くこれに与う』と」。瑀再拝して曰く「臣の愚の及ぶ所に非ざりき」と。乃ち詔して殿中監豆盧寛・将軍趙綽に突厥を護送せしむ。頡利、馬三千匹・羊一万頭を献ず。帝納れず、詔して我に俘虜を帰す。

貞観元年、薛延陀・回紇・抜野古諸部皆叛く。突利を使わしてこれを討たしむ。勝たず、軽騎にて走る。頡利怒り、これを囚う。突利ここより怨望す。是の歳大雪、羊馬多く凍死し、人饑う。王師その敝に乗ずるを懼れ、即ち兵を引いて朔州の地に入り、声言して会獵すとす。議者、その約を敗るを責め、因りてこれを伐たんことを請う。帝曰く「匹夫も信ならざるを為すべからず、況んや国においてをや。我既にこれと盟う。豈にその災を利し、険を邀えてこれを取らんや。その我に礼無きを須ち、乃ちこれを伐たん」と。

明年、突利自ら陳べて頡利に攻めらるるを以て、救いを求む。帝曰く「朕は頡利と盟い、又突利と昆弟の約有り。救わざるべからず。いかんせん」と。兵部尚書杜如晦曰く「夷狄に信無し。我約の如くすと雖も、彼常にこれを負く。今乱れてこれを撃つは、亡ぶを侮るの道なり」と。乃ち詔して将軍周範に太原に壁し経略せしむ。頡利も亦兵を擁して辺を窺う。或いは古の長城を築き、民を発して塞に乗ぜんことを請う。帝曰く「突厥盛夏にして霜降り、五日並び出で、三月連ねて明らか、赤気野に満つ。彼災を見て徳を務めず、天を畏れざるなり。遷徙常無く、六畜多く死す、地を用いざるなり。俗は死すれば則ち焚く。今葬ること皆墓を起す、父祖の命に背き、鬼神を謾るなり。突利と睦まず、内相攻め残し、親に和せざるなり。この四者有りて、まさに亡びんとす。まさに公等の為にこれを取らん。安んぞ障塞を築くに在らんや」と。突厥の俗は素より質略なり。頡利、華士趙徳言を得て、その人を才とし、委ねてこれを信じ、稍々国を専にす。又諸胡に政を委ね、宗族を斥遠して用いず、師を興して歳々辺に入り、下苦しむに堪えず。胡の性は冒沓にして、数えず翻覆して信なく、号令常無し。歳大いに饑え、裒斂苛重にして、諸部愈々貳す。

又明年、属部薛延陀自ら可汗と称し、使を以て来る。詔して兵部尚書李靖に虜を馬邑に撃たしむ。頡利走る。九俟斤衆を以て降る。抜野古・仆骨・同羅諸部・習奚の渠長皆来朝す。ここにおいて詔して并州都督李世勣を通漠道より出でしめ、李靖を定襄道より出でしめ、左武衛大将軍柴紹を金河道より出でしめ、霊州大都督任城王道宗を大同道より出でしめ、幽州都督衛孝節を恒安道より出でしめ、営州都督薛万淑を暢武道より出でしめ、凡そ六総管、師十余万、皆靖に節度を授けて以てこれを討たしむ。道宗、霊州に戦い、人畜万計を俘う。突利及び郁射設・蔭奈特勒、帥をして部を将いて来奔せしむ。捷書日夜至る。帝群臣に謂いて曰く「往くに国家初めて定まり、太上皇は百姓の故を以て、突厥に奉じ、詭りてこれを臣とす。朕常に心痛み首を病み、思うこと一たび天下に恥を刷さん。今天諸将を誘い、向う所輒ち克つ。朕まさに遂に成功有らんか」と。

四年正月、靖進みて悪陽嶺に屯す。夜、頡利を襲う。頡利驚き、牙を磧口に退く。大酋康蘇蜜等、隋の蕭皇后・楊正道を以て降る。或いは言う、中国人嘗て密かに書を後に通ぜりと。中書舎人陽文瓘、劾治を請う。帝曰く「天下未だ一ならず、人或いはまさに隋を思わん。今反側既に安んず。何ぞ治むるに足らんや」と。置いて劾せず。頡利窘り、走りて鉄山を保つ。兵猶お数万。執失思力を来たらしめ、陽りて哀言し謝罪し、内属を請う。帝詔して鴻臚卿唐儉・将軍安脩仁等に節を持たしめ慰撫せしむ。靖、儉の虜の所に在るを知り、虜必ず安んずるを以て、乃ちこれを襲撃し、尽くその衆を獲る。頡利千里馬を得て、独り沙鉢羅に奔る。行軍副総管張宝相、これを禽す。沙鉢羅設・蘇尼失、衆を以て降る。その国遂に亡ぶ。復た定襄・恒安の地を定め、境を斥けて大漠に至る。

頡利京師に至る。太廟に俘を告ぐ。帝順天楼に御し、仗衛を陳べ、士民縦観す。吏、可汗を執いて至る。帝曰く「而が罪五つ有り。而が父の国破れ、隋に頼りて以て安んず。一鏃の力を以てこれを助けず、その廟社をして血食せざらしむ、一なり。我と鄰して信を棄て辺を擾わす、二なり。兵を恃んで戢えず、部落怨みを携う、三なり。華民を賊し、禾稼を暴す、四なり。和親を許して遷延自ら遁る、五なり。朕爾を殺すも名無きに非ず。顧みるに渭上の盟いこれを忘れざるを以て、故に窮責せず」と。乃ち悉くその家属を還し、太仆に館し、食を稟す。

思結俟斤が四万の衆を率いて降伏し、可汗の弟欲谷設は高昌に奔ったが、やがてこれも降って来た。伊吾城の長は平素より突厥に臣従していたが、七城を挙げて献上したので、その地を以て西伊州とした。制詔して曰く、突厥は往時疫癘に遭い、長城の南に暴骨丘の如し、有司は酒脯を以て祭り、これを瘞蔵せよ。また詔して曰く、隋の乱に、華民多く虜に没せり、使者を遣わし金帛を以て男女八万口を贖い、還して平民と為せ。

頡利は屋敷に住まず、常に穹廬を廷中に設け、久しく鬱々として自ら楽しむことなく、家人と悲歌を相和して泣き、その状貌は羸せ衰えていた。帝はこれを見て憐れみ、虢州は山を負い麕麋多く、射獵の娯楽あるを以て、乃ち刺史に拝せんとしたが、辞して往かず、遂に右衛大将軍を授け、美田宅を賜う。帝曰く、「昔、啓民国を失いし時、隋文帝は粟帛を吝まず、士衆を興し、営護して存立せしめしに、始畢に至りて稍々強くなり、則ち兵を以て煬帝を雁門に囲めり。今その滅びたるは、殆ど徳に背き義を忘れたるに致るか」と。頡利の子疊羅支は至性あり、京師に留め置かれてより、諸婦は品供を得たるに、羅支もまたこれに預かった。その母は最後に至り、給せられず、羅支は品肉を敢えて嘗めず。帝聞きて嘆じて曰く、「天稟の仁孝、豈に華夷を限らんや」と。厚くこれを賜い、遂に母に肉を与う。

八年、頡利死す。帰義王を贈り、諡して荒と曰う。国人に葬らしむることを詔し、その礼に従い、屍を火葬し、冢を灞東に起つ。その臣胡祿達官の吐谷渾邪なる者は、頡利の母婆施の媵臣なり。頡利始めて生まるるや、渾邪に授けられしが、ここに至りて哀慟し、乃ち自殺す。帝これを異とし、中郎将を贈り、頡利の冢の傍に葬らしむることを命じ、中書侍郎岑文本に詔してその事を頡利・渾邪の墓碑に刻ましむ。俄にして蘇尼失もまた死を以て殉ず。尼失は、啓民可汗の弟なり。始畢、沙鉢羅設と為し、帳部五万、牙を霊州西北に直し、姿雄にして趫捷、仁恵を以て下を禦ぎ、人多くこれに帰す。頡利の政乱るるも、その部独り貳せず。突利降るや、頡利これを小可汗と為す。頡利既に敗れたる後、乃ち衆を挙げて来たり、漠南の地遂に空し。北寧州都督・右衛大将軍を授け、懐徳王に封ず。

頡利の亡びし後、その下は或いは薛延陀に走り、或いは西域に入り、而して来降する者尚ほ十余万。詔して処すべき所を議わしむ。咸に言う、「突厥は中国を擾わすこと久し、今天これを喪わしむ。義を慕いて自ら帰するに非ず。請う、悉く降俘を籍し、兗・の内に閑処せしめ、耕織を習わしめよ。百万の虜も、化して斉人と為すべし。是れ中国に戸を加え、而して漠北遂に空しからん」と。中書令温彦博請う、「漢の建武の時の如く、降匈奴を置きて五原塞に留め、その部落を全うし、以て捍蔽と為し、その俗を革めず、因ってこれを撫で、実に空虚の地にして、且つ猜る所なきを示さん。若し兗・豫の内に置かば、則ち本性に乖き、函育の道に非ず」と。秘書監魏征建言す、「突厥は世々中国の仇なり。今その来降するや、即ち誅滅せずとも、当に河北に遣還すべし。彼は鳥獣の野心、我が族類に非ず。弱ければ則ち伏し、強ければ則ち叛く、その天性なり。且つ秦・漢の鋭師猛将を以て河南の地を撃ち取り郡県と為せるは、以て中国に近づかしめざらんと欲するが故なり。陛下奈何ぞ河南にこれを居らしむるや。且つ降者十万、若し数年を令せば、孳息略々倍し、而して畿甸に近ければ、心腹の疾なり」と。彦博曰く、「然らず。天子の四夷に対するは、天地の万物を養うが若し。覆載して全安せん。今突厥破滅し、余種命に帰す。哀憐を加えずしてこれを棄つは、天地蒙覆の義に非ず、而して四夷を阻むの嫌いあり。臣謂う、河南に処するは、蓋し死してこれを生かし、亡びてこれを存せしむるなり。彼世々徳を懐かん、何の叛くことかあらん」と。徴曰く、「魏の時に胡落ありて近郡に分処す。晋既に呉を平げしに、郭欽・江統武帝を勧めてこれを逐い出ださしむるも、用いられず。劉・石の乱、卒に中夏を傾けたり。陛下必ずや突厥を引きて河南に居らしめんと欲せば、所謂虎を養いて自ら患いを遺すなり」と。彦博曰く、「聖人の道は通ぜざる無し。故に曰く『教え有りて類無し』と。彼は創残の余、窮して我に帰す。我これに援護し、内に収めて処し、将に礼法を教え、耕農を職と為さしめ、又酋良を選びて宿衛に入らしめば、何の患いを恤わんや。且つ光武南単于を置きて、卒に叛亡無し」と。ここにおいて中書侍郎顔師古・給事中杜楚客・礼部侍郎李百薬等皆、帝を勧めて河北に処せしむるは如かずとし、首長を樹て、俾くは部落を統べしめ、地の多少を視て、相い臣がしめず、国小さく権分かれて、終に中国と亢衡することを得ざらしむるは、長轡遠馭の道なりとす。帝は彦博の語を主とし、卒に朔方の地を度り、幽州より霊州に属し、順・祐・化・長の四州を建てて都督府と為し、頡利の故地を剖ち、左に定襄都督・右に雲中都督の二府を置きてこれを統べしむ。酋豪を擢でて将軍・郎将と為す者五百人、朝請を奉ずる者且つ百員、長安に入り自ら籍する者数千戸。乃ち突利可汗を以て順州都督と為し、その下を率いて部に就かしむ。

突利は初め泥歩設と為り、隋の淮南公主を得て以て妻と為す。頡利の立つや、次弟を以て延陀設と為し、延陀部を主とし、歩利設は霫部を主とし、統特勒は胡部を主とし、斛特勒は斛薛部を主とし、突利可汗を以て契丹・靺鞨部を主とせしめ、牙を樹てて南は幽州に直し、東方の衆皆これに属す。突利は斂取に法無く、下附せず。故に薛延陀・奚・霫等皆内属す。頡利遣わしてこれを撃たしむるも、又大敗し、衆騒ぎ離る。頡利これを囚え捶ち、久しくして乃ち赦す。突利は嘗て自ら太宗に結びつく。頡利の衰えしに及び、驟ちに兵を突利に追うも、肯わず従わず、因って相い攻むるを起こす。突利は入朝を請う。帝左右に謂いて曰く、「古、国を為す者は己を労して以て人を憂うれば、則ち祚系く長し。人を役して以て己を奉すれば、則ち亡ぶ。今突厥喪乱するは、可汗君たらずによる。突利は至親と雖も、自ら保たずして来る。夷狄弱ければ則ち辺境安し。然れども彼の亡ぶるを観れば、我懼うること無きべからず。逮わざる者あれば、禍紓ぐべけんや」と。突利至るや、礼見良く厚くし、膳を輟めて以てこれを賜い、右衛大将軍に拝し、北平郡王に封じ、食戸七百。都督と為るに及び、太宗敕して曰く、「而が祖啓民は破亡せしに、隋は則ちこれを復せり。徳を棄てて報いず、而が父始畢は反って隋の敵と為れり。爾今窮して我に帰す。所以に爾を立てて可汗と為さざるは、前の敗れを鑑みるなり。我は中国の安からんことを欲し、爾が宗族の亡びざらんことを欲するが故に、爾に都督を授く。相い侵掠すること無く、長く我が北藩と為れ」と。突利頓首して命を聴く。後に入朝し、并州の道中に死す。年二十九。帝為に挙哀し、また文本文に詔してその墓を文わしむ。子賀邏鶻嗣ぐ。

帝九成宮に幸す。突利の弟結社率は郎将として宿衛す。陰に種人を結び謀反し、賀邏鶻を劫いて北還せんとし、その党に謂いて曰く、「我聞く、晋王は丁夜に辟仗を得て出づと。我間を乗じて突進せば、行在を犯すべし」と。この夕、大風冥く、王出でず。結社率は謀の漏るるを恐れ、即ち中営に射込み、噪いて人を殺す。衛士等共にこれを撃つ。乃ち走り、廄人を殺し馬を盗み、渭を度らんと欲す。僥邏これを禽え斬る。賀邏鶻を赦し、嶺外に投ず。ここにおいて群臣更に言う、突厥を中国に処するは是に非ずと。帝もまたこれを患い、乃ち阿史那思摩を立てて乙彌泥孰俟利可汗と為し、氏を李と賜い、牙を河北に樹て、悉く突厥を還して故地に徙す。

思摩は、頡利の族の者なり、父は咄六設と曰ふ。初め、啓民が隋に奔るや、磧北の諸部は思摩を奉じて可汗と為し、啓民が国に帰るに及びて、乃ち可汗の号を去る。性開敏にして、占対に善く、始畢・処羅皆之を愛す。然れども胡に似たる貌を以て、阿史那の種に非ざるを疑ひ、故に但だ夾畢特勒と為すのみにして、設と為るを得ず。武徳の初め、数たび使者を以て来たり、高祖其の誠を嘉し、和順郡王に封ず。諸部の款を納るるに及び、思摩独り留まり、頡利と俱に禽らる、太宗忠と為し、右武候大将軍・化州都督を授け、頡利の故部を統べて河南に居らしめ、懐化郡王に徙す。是に及びて将に徙らんとす、内に薛延陀を畏れ、敢へて塞を出でず。帝詔して司農卿郭嗣本に節を持たしめて延陀に書を賜ひ、言ふ、「中国の礼義は、未だ嘗て人の国を滅ぼさず、頡利の暴残を以て、伐ちて之を取るは、其の地と人とを貪るに非ず。故に降部を河南に処し、薦草美泉を薦め、其の畜牧を利し、衆日々に孳蕃す、今復た思摩を以て可汗と為し、其の故疆に還す。延陀は命を受くること前に在り、突厥に長じ、磧以北を挙げて、延陀之を主とす;其の南は、突厥之を保つ。各其の境を守りて、相鈔犯すること無く、約に負く有らば、我自ら兵を以て之を誅せん」と。思摩乃ち行く、帝為に酒を置き、思摩を引きて前にして曰ふ、「一草一木を蒔きて、其の溺廡を見て以て喜ぶ、況んや我爾が部人を養ひ、爾が馬羊を息ますこと、昔に減ぜざらんや!爾が父母の墳墓は河北に在り、今旧廷に復す、故に宴を以て行を慰む」と。思摩泣下し、觴を奉じて万歳の寿を上ぐ、且つ言ふ、「破亡の余、陛下骨を存して旧郷に使はしむ、願はくは子孫世々唐に事へ、以て厚徳に報ぜん」と。是に於て趙郡王孝恭・鴻臚卿劉善をして思摩の部に就かしめ、壇場を河上に築き、冊を受けて拝し、鼓纛を賜ひ、又詔して左屯衛将軍阿史那忠を左賢王と為し、左武衛将軍阿史那泥孰を右賢王と為し、之を相はしむ。

薛延陀、突厥の北に在るを聞き、其の衆の奔亡して磧を度らんことを恐れ、兵を勒して以て待つ。使者の至るに及びて、乃ち謝して曰ふ、「天子詔して相侵す毋れと、謹んで頓首して詔を奉ず。然れども突厥酣乱翻覆し、其の未だ亡びざる時、中国人を殺すこと麻の如し、陛下其の国を滅ぼし、種落を収めて皆奴婢と為し、以て唐人に償ふべしと謂ふべし。乃ち之を養ふこと子の如くす、而して結社率竟に反す、此れ信ずべからざること甚だ明らかなり。後に乱有らば、請ふ終に陛下の為に之を誅せん」と。十五年、思摩衆十余万・勝兵四万・馬九万匹を帥ひて始めて河を度り、故定襄城に牙す、其の地は南は大河、北は白道、畜牧広衍し、龍荒の最も壤れるもの、故に突厥之に利を争ふ。思摩使いを遣はして謝して曰ふ、「恩を蒙りて落長に立つ、実に世々国一犬と為り、天子の北門を守りて吠へんことを望む、延陀の侵逼する有ること有らば、願はくは長城に入りて保たん」と。詔して之を許す。

三年居るも、能く其の衆を得ず、下多く携背す、思摩慚じ、因りて朝に入りて宿衛に留まらんことを願ひ、更めて右武衛将軍に拝す。遼を伐つに従ひ、流矢に中り、帝為に血を吮む、其の顧厚此の類の如し。還りて、京師に卒す、兵部尚書・夏州都督を贈り、昭陵に陪葬し、墳を築いて白道山に象り、其の労を刊する為に、碑を化州に建つ。

右賢王阿史那泥孰は、蘇尼失の子なり。初めて国に帰り、宗女を以て妻と為し、忠と名を賜ふ。思摩に従ひて塞を出づるに及び、中国を思慕し、使者を見れば必ず流涕して入侍を求め、之を許す。

思摩既に国と為る能はず、残衆稍々南に河を度り、勝・夏二州に分ち処る。帝遼を伐つ、或ひは言ふ、突厥河南に処り、京師に邇し、請ふ帝東す毋れと。帝曰く、「夫れ君と為る者は、豈に猜貳有らんや!湯・武桀・紂の民を化し、善に遷らざる無し、隋に道無く、天下を挙げて皆叛く、夷狄に止まらず。朕突厥の亡ぶるを閔み、河南に内して以て之を振贍す、彼延陀に近く走らずして遠く我に帰るは、我を懐ふこと深し、朕五十年中国に突厥の患無からんと策す」と。思摩の衆既に南す、車鼻可汗乃ち盗み其の地を有つ。

車鼻も亦た阿史那の族にして、而して突利の部の人なり、名は斛勃、世々小可汗と為る。頡利敗るるや、諸部共に之を君長せんと欲す、会ふ薛延陀可汗と称す、乃ち往きて之に帰す。其の人沈果にして智数有り、衆頗る便附す、延陀逼るるを畏れ、将に之を殺さんとす、乃ち率ひて所部遯去し、騎数千尾追すも、勝たず。金山の北に竄る、三垂鬥絶し、惟だ一面車騎を容るる可く、壤土夷博なり、即ち之を拠り、勝兵三万、自ら乙註車鼻可汗と称し、長安を距ること万里、西は葛邏祿、北は結骨、皆並び之を統べ、時時に出でて延陀の人畜を掠む。延陀後衰へ、車鼻勢益々張る。

二十一年、子沙鉢羅特勒を遣はして方物を献じ、且つ身を入朝せんことを請ふ。帝雲麾将軍安調遮・右屯衛郎将韓華を遣はして往きて之を迎へしむ、至れば則ち車鼻偃然として入朝の意無し、華葛邏祿と共に之を劫はんと謀る、車鼻覚り、華車鼻の子陟特勒と鬥ひて死し、調遮殺さる。帝怒り、右驍衛郎将高偘を遣はして回紇・仆骨の兵を発し之を撃たしむ、其の大酋長歌邏祿泥孰闕俟利発・処木昆莫賀咄俟斤等次第に降る。偘師阿息山を攻む、部落戦ふことを肯はざれば、車鼻愛妾を携へ、数百騎に従ひて走る;金山に追ひ至り、之を獲て、京師に献ず。高宗責めて曰く、「頡利敗るるや、爾輔へず、親無きなり;延陀破るるや、爾遯亡す、忠ならざるなり。而して罪死に当る、然れども朕先帝の獲たる酋長は必ず之を宥すを見る、今原して死せしむ」と。乃ち縛を解き、俘を数へて社廟に献じ、又昭陵に見ゆ。左武衛将軍に拝し、居第を賜ひ、其の衆を郁督軍山に処し、詔して狼山都督府を建てて之を統べしむ。初め、其の子羯漫陀泣きて車鼻を諫め、国に帰らんことを請ふ、聴かず。乃ち子庵鑠を遣はして入朝せしめ、後来降し、左屯衛将軍に拝し、新黎州を建て、其の衆を領せしむ。是に於て突厥尽く封疆の臣と為る。始めて単于都護府を置きて狼山雲中桑乾三都督・蘇農等二十四州を領し、瀚海都護府を置きて金微新黎等七都督・仙萼賀蘭等八州を領す。即ち酋を擢げて都督・刺史と為す。麟徳の初め、燕然を改めて瀚海都護府と為し、回紇を領し、故瀚海都護府を古雲中城に徙し、雲中都護府と号し、磧以北の蕃州悉く瀚海に隷し、南は雲中に隷す。雲中は、義成公主の居る所なり、頡利滅び、李靖突厥の羸破数百帳を徙して之に居らしめ、阿史德を以て之が長と為し、衆稍々盛んに成り、即ち建言して願はくは諸王を以て可汗と為し、遥かに之を統べんとす。帝曰く、「今の可汗は、古の単于なり」と。乃ち雲中府を改めて単于大都護府と為し、殷王旭輪を以て単于都護と為す。帝封禅し、都督葛邏祿叱利等三十余人皆従ひて泰山の下に至り、已に封じて、詔して名を封禅の碑に勒して曰く雲。凡そ三十年北方戎馬の警無し。

調露元年、単于府の大酋長温傅・奉職の二部が反し、阿史那泥孰匐を立てて可汗と為し、二十四州の酋長皆叛きてこれに応ず。乃ち鴻臚卿単于大都護府長史蕭嗣業・左領軍衛将軍苑大智・右千牛衛将軍李景嘉を以てこれを討たしむ。勝ちに恃みて備えを設けず、雨雪に会い、士卒は寒さに凍え、反って虜に襲われ、大いに敗れ、殺略すること万余人、大智等は余卒を収め、行きながら戦い、乃ち免る。ここにおいて嗣業は桂州に流され、余は官を免ぜらる。更に礼部尚書裴行儉を拝して定襄道行軍大総管と為し、太僕少卿李思文・営州都督周道務・西軍程務挺・東軍李文柬を率い、士卒慮るに三十万、反者を捕撃せしむ。詔して右金吾将軍曹懐舜に井陘に屯せしめ、右武衛将軍崔献に絳・竜門に屯せしむ。明年、行儉は黒山に戦い、大いにこれを破り、その下、泥孰匐を斬り、首を以て降り、温傅・奉職を禽えて還り、余衆は狼山に保つ。初め虜未だ叛かざりし時、鳴鵽群れ飛びて塞に入り、吏曰く「いわゆる突厥雀なるもの、南に飛べば、胡必ず至らん」と。春に比べて還るや、悉く霊・夏の間に墮ち、率ね首無く、泥孰果たして亡ぶ。狼山の衆は雲州を掠め、都督竇懐哲・右領軍中郎将程務挺これを逐い出す。

永隆年中、温傅部また頡利の族子伏念を夏州に迎え、河を走り渡り、立てて可汗と為し、諸部響応す。明年、遂に原・慶の二州を寇す。復た詔して行儉を大総管と為し、右武衛将軍曹懐舜・幽州都督李文柬を以てこれに副わしむ。諜者、紿きて言う「伏念・温傅は黒沙に保ち、飢え甚だし、軽騎を以て取るべし」と。懐舜独りこれを信じ、軽兵倍道して黒沙に至るも、乃ち虜を見ず、薛延陀の余部を得て、これを降す。引き還りて長城に至り、温傅に遇い戦い、殺すところ相い当たる。行儉の兵は代の陘口に壁し、反間を縦ち、故に伏念・温傅相い貳し、これにより兵を遣わして伏念を撃ち、これを敗る。伏念走り、懐舜に遇い、行きながら一日戦い、伏念に破られ、軍を棄てて雲中に奔り、士卒虜に乗ぜられ、死すること算うべからず、皆南首して仆る。懐舜は牲を殺し伏念と盟し、乃ち免る。伏念益々北し、輜重妻子を留めて金牙山に保ち、軽騎を以て将に懐舜を襲わんとす。会に、行儉、部将を遣わしてその輜重を掩い得、比べて還るに、帰する所無く、乃ち北に走り細沙に保つ。行儉、単于鎮兵を縦ちてこれを躡わしむ。伏念、王師の遠く至らざるを意い、備えを設けず、兵の至るに及び、惶駭して戦うを得ず、遂に使いを遣わし間道より行儉に詣り、温傅を執りて降る。行儉これを虜とし、京師に送り、東市に斬る。

永淳元年、骨咄祿また反す。

骨咄祿は、頡利の族人なり、雲中都督舍利元英の部酋、世襲の吐屯なり。伏念敗れて、乃ち亡散を嘯き、総材山に保ち、また黒沙城を治め、衆五千あり、九姓の畜馬を盗み、稍々強大に、乃ち自立して可汗と為り、弟の默啜を殺と為し、咄悉匐を葉護と為す。時に単于府の降戸部落を検校する阿史徳元珍なる者、長史王本立に囚われたり。会に骨咄祿来たりて寇す、元珍、諸部を諭して還りて罪を贖わんことを請う、これを許す。至れば即ち骨咄祿に降り、これと謀を為し、遂に阿波達幹と為し、悉く兵をこれに属す。乃ち単于府の北鄙を寇し、遂に并州を攻め、嵐州刺史王徳茂を殺し、分かれて定州を掠め、北平刺史霍王元軌これを撃ちて却く。また媯州を攻め、単于都護府を囲み、司馬張行師を殺し、蔚州を攻め、刺史李思儉を殺し、豊州都督崔知辯を執る。詔して右武衛将軍程務挺を単于道安撫大使と為し辺に備えしむ。

嗣聖・垂拱の間、連ねて朔・代を寇し、吏士を掠む。左玉鈴衛中郎将淳于処平を陽曲道総管と為し、将に賊を総材山に撃たんとす。忻州に至りて賊と遇い、鏖戦して利あらず、死者五千人。更に天官尚書韋待価を燕然道大総管と為してこれを討たしむ。明年、昌平に入る、右鷹揚衛大将軍黒歯常之これを撃ちて却く。復た朔州の地に入り、常之これと黄花堆に戦い、虜敗れ、奔るを四十里追い、磧を過ぎて遯る。右監門衛中郎将爨宝璧まさに追うべく、虜即ち破れんと意い、幸いに功を取りたるを欲し、乃ち諜を募りて塞を出ること二千里、虜の備え無きを間い、趨りてこれを襲わんとす。将に至らんとするに、軍に漏言し、虜整衆して出で、皆死戦し、大いに敗れ、宝璧跳ねて還り、挙軍没す。武后怒り、宝璧を誅し、骨咄祿を改めて不卒祿と曰う。俄にして元珍、突騎施を攻め、戦いて死す。

天授初め、骨咄祿死し、その子幼く、立つことを得ず。默啜自立して可汗と為り、位を篡すること数年、始めて霊州を攻め、多く士民を殺略す。武后、薛懐義を朔方道行軍大総管と為し、内史李昭徳を行軍長史と為し、鳳閣鸞臺平章事蘇味道を司馬と為し、朔方道総管契明・雁門道総管王孝傑・威化道総管李多祚・豊安道総管陳令英・瀚海道総管田揚名等、凡そ十八将軍の兵を率い塞を出で、華蕃の歩騎を雑えてこれを撃つも、虜を見ず、還る。俄に詔して孝傑を朔方道行軍総管と為し辺に備えしむ。

契丹の李尽忠等反す。默啜、賊を撃ちて自ら効わんことを請う、詔して可とす。左衛大将軍・帰国公を授け、左豹韜衛将軍閻知微を以て即ち部に冊拝して遷善可汗と為す。默啜乃ち兵を引いて契丹を撃つ。会に尽忠死し、松漠部落を襲い、孫万栄の妻子輜重を尽く得、酋長崩潰す。后その攻めを美しとし、復た詔して知微に節を持たしめ、默啜を冊して特進・頡跌利施大単于・立功報国可汗と為す。未だ命に及ばず、俄に霊・勝の二州を攻め、殺略を縦ち、屯将に敗れらる。また使者を遣わして謝し、後子と為らんことを請い、復た女有りと言い、諸王に女せんことを願い、且つ六州の降戸を求む。初め、突厥内属する者、豊・勝・霊・夏・朔・代の間に分処し、これを河曲六州降人と謂う。默啜また粟田種十万斛・農器三千具・鉄数万斤を請う。后許さず、宰相李嶠もまた不可と言う。默啜怨み、慢言を為し、使者の司賓卿田帰道を執る。ここにおいて納言姚璹等、これに与うることを建請し、乃ち粟・器・降人数千帳を帰す。これによりて突厥遂に強し。

詔して淮陽王武延秀にその女を聘して妃とせしめ、詔して知微に春官尚書を摂行せしめ、司賓卿楊鸞莊と共に節を持ち護送せしむ。默啜猥りに曰く、「我は女を唐天子の子に嫁せんとす、今は乃ち后家の子か。且つ我は世々唐に附す、今聞く其の子孫独り二人在るを、我当に之を立てん」と。即ち延秀等を囚え、妄りに知微を可汗と号し、自ら十万騎を将いて南に向かい静難・平狄・清夷等の軍を撃つ。静難軍使慕容玄崱は兵五千を以て降る。虜は媯・檀を囲み入る。後に詔して司属卿武重規を天兵中道大総管と為し、右武威衛将軍沙咤忠義を天兵西道総管と為し、幽州都督張仁亶を天兵東道総管と為し、兵凡そ三十万にして之を撃たしむ。右羽林大将軍閻敬容・李多祚を天兵西道後軍総管と為し、兵亦十五万。默啜は蔚州飛狐を破り、進んで定州を残破し、刺史孫彦高を殺し、廬舎を焚き、郷聚を空と為す。后怒り、詔を下して默啜を斬る者に王を購い、更に号して斬啜と曰う。虜は趙州を囲み、長史唐波若之に応じ、入りて刺史高睿を殺し、相州を攻む。詔して沙咤忠義を河北道前軍総管と為し、李多祚を後軍総管と為し、将軍嵎夷公福富順を奇兵総管と為し、虜を撃たしむ。時に中宗房陵より還り、皇太子と為り、行軍大元帥を拝し、納言狄仁傑を副と為し、文昌右丞宋玄爽を長史と為し、左粛政台御史中丞霍献可を司馬と為し、右粛政台御史中丞吉頊を監軍使と為し、将軍扶余文宣等六人を子総管と為す。未だ行かず、默啜之を聞き、趙・定の掠めたる男女八九万を悉く取りて之を坑い、五回道より去る。過ぐる所の人畜・金幣・子女を尽く剽掠し有つ。諸将皆顧望して敢えて戦わず、独り狄仁傑兵を以て之を追うも、及ばず。

默啜は勝に乗じて中国を軽んじ、驕慢の志有り。大抵兵は頡利の時と略等しく、地は縦広万里、諸蕃悉く往きて命を聴く。復た咄悉匐を立てて左察と為し、骨咄祿の子默矩を右察と為し、皆兵二万を統ぶ。子の匐俱を小可汗と為し、位は両察の上に在り、処木昆等十姓の兵四万を典とし、拓西可汗と号す。歳毎に辺に入り、戍兵休むを得ず。乃ち高く選び魏元忠を検校并州長史と為し天兵軍大総管と為し、婁師徳之を副え、屯を按じて以て待つ。又た元忠を徙めて霊武道行軍大総管と為し、虜に備う。

默啜は隴右の牧馬万匹を剽掠して去り、俄に復た辺を盗む。詔して安北大都護相王を天兵道大元帥と為し、并州長史武攸宜・夏州都督薛訥と元忠を率いて虜を撃たしむ。兵未だ出でず、默啜去る。明年、塩・夏を寇し、羊馬十万を掠め、石嶺を攻め、遂に并州を囲む。雍州長史薛季昶を以て持節山東防禦大使と為し、滄・瀛・幽・易・恒・定・媯・檀・平等九州の軍を節度せしめ、瀛州都督張仁亶を以て諸州及び清夷・障塞軍の兵を統べしめ、季昶と掎角せしむ。又た相王を以て安北道行軍元帥と為し、諸将を監せしむ。王留まりて行かず。虜は代・忻に入り、仍って殺略す。

長安三年、使者莫賀達幹を遣わして女を進めて皇太子の子にせんことを請う。后は平恩郡王重俊・義興郡王重明に盛服せしめて諸朝に立たしむ。默啜更に大酋移力貪汗を遣わし馬千匹を献じ、婚を許されたことを謝す。后は其の使を渥礼す。中宗始めて即位し、鳴沙を攻め入る。ここに於いて霊武軍大総管沙咤忠義之と戦い、勝たず、死者幾ばくも万人、虜遂に原・会に入り、牧馬を多く取る。帝詔して昏を絶ち、默啜を斬る者に国を以て王とし、官は諸衛大将軍を購う。默啜は我が行人鴻臚卿臧思言を殺す。詔して左屯衛大将軍張仁亶を朔方道大総管と為し辺に屯せしむ。明年、始めて三受降城を河外に築き、寇路を障絶す。久しくして、唐休璟を以て代わりて屯す。睿宗初めて立ち、又た和親を請う。詔して宋王成器の女を取って金山公主と為し降嫁せしむ。会に左羽林大将軍孫佺等奚と冷陘に戦い、奚の為に執られ、諸默啜に献ぜらる。默啜之を殺し、更に刑部尚書郭元振を以て休璟に代わる。

玄宗立ち、和親を絶つ。默啜乃ち子の楊我支特勒を遣わして宿衛に入らしめ、固く昏を求め、蜀王の女南和県主を以て之に妻せしめ、書を下して尉し可汗を諭す。明年、子の移涅可汗に同俄特勒・火拔頡利発石失畢の精騎を引きいれ北庭を攻めしむ。都護郭虔瓘之を撃ち、同俄を城下に斬る。虜奔りて解く。火拔帰るを敢えず、妻子を携えて来奔す。左武衛大将軍・燕山郡王を拝し、其の妻を金山公主と号し、賜賫優縟なり。楊我支死す。詔して宗親三等以上其の家を弔わしむ。是の時、突厥再び書を上りて昏を求む。帝未だ報ぜず。

初め、景雲中、默啜西に娑葛を滅ぼし、遂に契丹・奚を役属し、因りて其の下を虐用す。既に年老い、愈々昏暴にして、部落怨み畔く。十姓左五咄陸・右五弩失畢の俟斤皆降を請う。葛邏祿・胡屋・鼠尼施の三姓、大漠都督特進朱斯、陰山都督謀落匐鶏、玄池都督蹋實力胡鼻、衆を率いて内附す。詔して其の衆を金山に処す。右羽林軍大将軍薛訥を以て涼州鎮軍大総管と為し、赤水・建康・河源等の軍を節度し、涼州に屯し、都督楊執一之を副えしむ。右衛大将軍郭虔瓘を朔州鎮軍大総管と為し、和戎・大武・并州の北等の軍を節度し、并州に屯し、長史王晙之を副えしむ。新附を撫し、鈔暴を検す。默啜屡々葛邏祿等を撃つ。詔して在所の都護・総管に掎角して応援せしむ。虜の勢い浸く削がる。其の婿高麗莫離支高文簡、〓夾跌都督思太、吐谷渾の大酋慕容道奴、郁射施の大酋鶻屈頡斤・悉頡力、高麗の大酋高拱毅、合せて万余帳相踵いで辺に款く。詔して之を河南に内す。引きいれて文簡に左衛大将軍・遼西郡王を拝し、思太に特進・右衛大将軍兼〓夾跌都督・楼煩郡公を、道奴に左武衛将軍兼刺史・雲中郡公を、鶻屈頡斤に左驍衛将軍兼刺史・陰山郡公を、悉頡力に左武衛将軍兼刺史・雁門郡公を、拱毅に左領軍衛将軍兼刺史・平城郡公を拝す。将軍は皆員外に置き、賜う所各差有り。

默啜九姓を討ち、磧北に戦う。九姓潰え、人畜皆死す。思結等の部来降す。帝悉く之に官す。薛訥に朔方道行軍大総管を拝し、太仆卿呂延祚・霊州刺史杜賓客之を佐けしめ、辺に備う。詔して金山・大漠・陰山・玄池都督等に共に默啜を取るを図らしめ、賞格を班し、物を賜いて之を諭す。默啜又た九姓拔野古を討ち、独楽河に戦う。拔野古大いに敗る。默啜軽く帰り備え為さず、道大林の中、拔曳固の残衆突出し、默啜を撃ち、之を斬る。乃ち入蕃使郝霊佺と共に首を伝えて京師に至る。

骨咄祿の子闕特勒故の部を合し、小可汗及び宗族を攻め殺し略く尽くし、其の兄默棘連を立てる。是れ毗伽可汗と為す。