新唐書

巻二百一十四 列傳第一百三十九 藩鎮宣武彰義澤潞

劉玄佐

劉玄佐は、滑州匡城の人である。若い頃は放縦で、自ら生業に就かず、県の捕盗の役目をしたが、法を犯し、役人に鞭打たれて辱められ、ほとんど死にかけた。そこで逃亡して永平軍に従い、次第に牙将となった。大暦年間、李霊耀が汴州を拠りて反すると、玄佐はその無備に乗じ、宋州を襲って奪い取った。詔があり、その州を直ちにその軍に隷属させ、節度使李勉は即座に上表して刺史に任命した。

徳宗の建中初年、御史中丞を兼ねて進み、宋・亳・潁節度使を充任した。時に李納が叛き、李洧が徐州を以て帰順した。李納が急にこれを攻めたので、詔して玄佐に李洧を救援させた。李納の兵を大いに破り、首級一万余を斬り、東南の糧秣の漕運はようやく通じた。進んで濮州を包囲し、濮陽を巡って、皆これを陥落させ、再びその守将を降し、遂に濮陽の渡しを通じた。検校兵部尚書に遷り、曹濮観察使・淄青兗鄆招討使・汴滑都統副使を兼ねた。

李希烈が反すると、玄佐は李勉・陳少遊・哥舒曜と連合して兵を淮・汝に屯し、しばしば賊を窮地に陥れた。帝が奉天におられた時、関東に心を注がれ、そこで詔して検校尚書左僕射・同中書門下平章事とした。李希烈が陳州を攻めると、玄佐はこれを救援し、李希烈は逃走した。そこで進んで汴州を攻め取った。詔して汴宋節度使・陳州諸軍行営都統を加えた。玄佐は本名を洽といったが、この時に名を賜って以て尊寵した。朝廷に入り、再び涇原・四鎮・北庭兵馬副元帥を兼ね、検校司徒しととなった。

性質は豪放で、財を軽んじて厚く賞することを好んだので、部下はますます困窮した。汴は李忠臣以来、士卒が驕り、自ら省みることができず、玄佐に至ってはますます甚だしかった。その後、帥長を殺し、大いに掠奪したのは、利に慣れてそうなったのである。玄佐が貴くなっても、母はなお存命で、賢婦人であった。常に毎月絁一端を織り、本を忘れないことを示した。しばしば玄佐を教え諭して臣節を尽くさせた。県令が廷中を走って事を申し上げるのを見て、退いた後、戒めて言った、「長吏が恐れおののいて甚だ卑屈である。私はお前の父が県で吏をしていた時も、きっとこのようであったと思っている。お前が机に据えてこれに当たるのは、安んじていられるか」。玄佐は感銘して悟り、故に下を待遇することますます礼を加えた。汴に相国寺があり、ある人が仏像の体から汗が流れると伝えた。玄佐は自ら赴いて大いに金帛を施した。そこで将吏・商賈は奔走して金銭を輸送し、遅れまいと恐れた。十日後、玄佐はこれを止めるよう命じ、収入を記録すると巨万を得た。これによって軍を養った。その権謀術数はこのようなものであった。初め、李納が使いを汴に遣わした時、玄佐は女子を盛んに飾り立てて進め、厚く贈り物をした。皆その陰謀を知ったので、李納は最も彼を恐れた。寵愛した吏の張士南及び仮子の楽士朝の財産は皆巨万であった。ところが士朝は玄佐の寵妾と私通し、事が発覚するのを恐れ、玄佐を毒殺した。五十八歳で死去し、太傅を追贈され、諡して壮武といった。

軍中では喪を匿して後任を待ち、帝もまたこれを隠された。三日を過ぎてようやく発喪した。使いが至ると、帝は誰を立てたいかと問うた。言うには、「陝虢観察使の呉湊がよろしいでしょうか」。監軍の孟介・行軍の盧瑗はこれが適当であると考えた。そこで呉湊を節度使に拝した。汜水に至った時、玄佐の柩が遷されようとした。士卒は礼式を整えるよう請うたが、盧瑗は許さなかった。衆は皆怒った。夜明け前に、甲を着て騒ぎ立ち、喪中の玄佐の子の士寧を起こし、重ねた榻に坐らせ、その衣を墨で染め、留後として尊び、大将の曹金岸・浚儀令の李邁を殺し、これを肉醢にした。ただ盧瑗と孟介だけが免れた。士寧はそこで貯えた財を出して吏士を労った。孟介がこれを上聞すると、帝は宰相を召して計議した。竇参が言うには、「汴人は李納を頼みとして命を要求している。もし許さなければ、勢い合流し、解くことができなくなるだろう」。そこで士寧を左金吾衛将軍とし、節度使を嗣がせた。

初め、玄佐の養子の士幹と士朝は皆京師に来ていた。士幹は玄佐の死に不審な点があることを知り、奴に刀を持たせ、弔問と偽らせて入り、宿舎で士朝を殺した。帝はその専断を憎み、また士幹に死を賜った。

士寧は詔を授かる前、密かに人を遣わして王武俊・劉済・田緒らと結んだ。諸鎮はこれを正しからずとし、皆その使者を捕らえた。ところが士寧は残忍で暴虐であり、杯や机の間で手ずから人を殺すことがあった。また強いて父の諸妾を犯し、吏民の妻女を脅して乱し、あるいは裸にして観覧した。毎回狩猟に出ると、数日たってようやく帰還した。その下は苦しみに飽きて服従しなかった。

大将の李万栄は、かつて玄佐と同郷で親しく、寛厚で士心を得ていた。士寧はこれを忌み、その兵権を奪い、州の事務を代行させた。かつて衆二万を率いて城南で狩猟し、まだ帰還しない時、万栄は朝早く府に入り、残しておいた親兵を召して告げた、「天子に詔があり、大夫(士寧)を召され、私に節度使を代行させよとのことである。人ごとに銭三万を賜る」。兵士は皆拝礼した。そこで兵を分けて諸門を閉じ、士寧に告げさせた、「詔書により大夫を召されている。速やかに去るがよい。そうでなければ、事が急になれば、首を伝えて献上することになろう」。士寧は衆が自分に与しないことを知り、五百騎を率いて出奔した。中牟に宿泊した時、逃亡者はすでに半数に及び、東都に至ると、ただ僮妾数十人がこれに従ったのみであった。京師に到着すると、詔して邸宅に留め、出入りを禁じた。万栄はその支党数十人を斬り、二十万緡を以て軍を労った。詔して士寧の家財を没収してこれに与えた。万栄を兵馬留後に拝した。そこで驕兵数百人を籍没し、悉く西方の防秋に派遣した。当番の者はこれを怨んだ。大校の韓惟清・張彦琳らは行くことを請うたが、許さず、その子の李迺を将とした。出発しないうちに、彦琳らはその怨みに乗じて、誘って反逆させ万栄を攻撃させたが、勝てず、運搬中の財貨と民の資産を掠奪し、数千人を殺掠して潰走した。惟清は鄭州に奔り、彦琳は東都に走って自ら帰順した。詔があり、死罪を赦して悪地に流した。残った兵士は宋州に奔った。劉逸淮がこれを慰撫した。万栄はその妻子を悉く誅殺した。このため衆は安堵せず、ある者は市中で呼ばわった、「大軍が至り、城はまさに破られんとしている」。万栄はこれを捕らえて取り調べた。ある者が士寧に教えられたのだと言った。万栄はこれを斬り、状況を上奏した。故に士寧は郴州に斥け置かれた。

まもなく万栄を節度使に進めた。時に病が甚だ重くなり、兵を鄧惟恭に委ねた。惟恭は、万栄と同郷の者である。万栄は子の李迺を司馬に任命し、大将の李湛・張伾・伊婁涚らを外に出し、これを殺そうとしたが、果たせなかった。万栄が死ぬと、その夜、惟恭と監軍の俱文珍が李迺を捕らえて京師に送り、京兆府で杖死させ、董晋を以てこれに代えた。

呉少誠

呉少誠は、幽州潞の人で、世襲の恩蔭により諸王府の戸曹参そうしん軍事となった。荊南に客居し、節度使の庾準に器重され、留まって牙門将となった。従って朝廷に入り、襄陽を通った時、梁崇義が必ず叛くと推測し、密かに計画を練り、天子に献じようとした。ところが李希烈がその事を上聞したので、詔があり賞賛され、通義郡王に封ぜられて抜擢された。梁崇義が反すると、李希烈は少誠を前鋒とした。事が平定されると、実封戸五十を賜った。李希烈が叛くと、少誠は力を尽くし、李希烈が死ぬと、陳仙奇を推して後務を主とさせた。その後またこれを殺し、衆は乃ち共に少誠を推した。徳宗はこれにより申・蔡・光等州節度観察留後を授けた。

少誠は政治を行うに、倹約して損を減らし、軍備を充実させることができた。李希烈以来、申・蔡の人々は苛酷な法に脅かされて帰すべき所を忘れ、また長老が既に物故すると、壮年者は暴掠を常と見て、搏闘に慣れていた。土地は馬が少なく、騾に乗って戦い、「騾子軍」と号し、特に悍猛で鋭かった。甲冑には皆雷公星文を描いて厭勝し、王師を呪詛した。その配下の鄭常・楊冀は少誠を脅迫し、これを追放して命令に従おうとしたが、成功せず、鄭常・楊冀は害された。少誠は諸将を悉く赦し、以て衆心を結んだ。貞元五年、進んで節度使に拝された。

久しくして、曲環が卒し、呉少誠は陳許に元帥無きを窺い、兵を以て臨潁を攻む。戍将韋清は賊と通じ、留後上官涚は兵三千を遣わしてこれを救うも、悉く賊の俘虜となり、遂に許州を囲む。徳宗怒り、少誠の官爵を削り、十六道の兵を合わせて進討せしむ。於頔は襄陽の兵を以て呉房・朗山に戦い、その三将を擒る。王宗は寿州の兵を以て賊を秋柵に破る。時に師は衆多なりといえども、統帥無く、而して宦官の監軍は進退を専断し、互いに異見を為す。既に小溵河に戦い、諸道の師は未だ交わらずして潰え、輜重杖器を棄つること算うべからず。帝乃ち詔して夏州節度使韓全義を淮蔡招討処置使と為し、上官涚を副えしめ、諸将は皆その節度を受く。賊の呉少陽等と広利城に戦い、師また敗れ、退いて五楼に営し、賊の乗ずる所となり、遂に大いに潰ゆ。全義及び監軍賈英秀等は夜遁れて溵水を保つ。汴宋・徐泗・淄青の兵は陳州に走る。少誠は溵水に迫りて営し、全義懼れ、退いて陳を保つ。而して潞・滑・河陽・河中の兵は逃げ帰り、唯だ陳許の将孟元陽・神策の将蘇光栄のみ溵水に壁す。全義乃ち潞の将夏侯仲宣・滑の将時昂・河陽の将権文度・河中の将郭湘を斬り、以て師を振わんと欲すれども、能わず。少誠兵を引き去る。

全義の敗れしとき、少誠は帳中の諸公の書数百通を得、持って衆を欺きて曰く、「朝廷の公卿は全義に託し、蔡を破る日に将士の妻女を掠めて婢媵と為さんとす」と。以てその衆を激怒せしめ、向順の意を絶たしむ。少誠は王師の弱きを侮り、書を英秀に移して昭雪を求む。帝、大臣を召して議す。宰相賈耽曰く、「五楼の軍退きて、而して少誠は甲を巻きて追わず、自新の路有り」と。帝の意稍や緩み、少誠は復た固く巢穴に拠る。然れども猶お宦官を以て諸道の軍を監せしむ。剣南の韋臯上言し、以て重臣を択びて統帥と為すに如かずと為し、因りて渾瑊・賈耽を薦め、「陛下若し元老を重ねて煩わすを以てすれば、更に其の次を求めよ。然らば則ち臣、鋭士一万を以て順流に荊・楚に趨り、以て元憝を攘翦すべしと請う。然らずんば、其の請罪に因り、特に原洗を加え、両河の諸軍を罷むるも、亦た其の次なり。少誠をして禍盈ち悪周り、変を帳下に生ぜしめ、必ず其の賊党、又た官爵を以て之に与うれば、則ち一少誠死し、一少誠生ずるも、亦た何ぞ頼むに足らんや」と。帝遂に少誠を赦し、尽く其の官爵を還す。

順宗即位し、同中書門下平章事に進み、検校司空しくう、徙めて濮陽郡王に封ぜらる。元和四年に死し、司徒を贈られ、而して呉少陽之に代わる。

(附)呉少陽

少陽は、滄州清池の人なり。少誠と共に魏博軍に在り、相い善しみたり。少誠淮西を得て、多く金帛を出だして之を邀え、弟として養い、右職に署し、親近して間隙無し。少陽、少誠の猜忍なるを度り、且つ禍を畏れ、外捍と為らんことを請う。少誠乃ち表して申州刺史と為す。治を為すに寛易を尚び、挙軍附頼す。少誠病亟み、家奴単於熊児、矯りて少陽を召し至らしめ、副使を摂し、軍事を総ぶ。ここに於て少誠の子元慶を殺し、自ら留後と称す。憲宗、王承宗方に叛くを以て、故に詔して遂王を節度使と為し、少陽を以て留後を領せしむ。三年居りて、進みて節度使を拝す。

少陽は繇役の籍を立てず、日に随い人に賦斂す。地多く原沢有り、益々馬を畜う。時に時に寿州の茶山を掠め、商賈を劫し、四方の亡命を招き、以て其の軍を実す。朝せずと雖も、然れども屡々牧馬を献じて以て自ら解し、帝亦た因りて之を善しとす。

九年に死す。子の元済、匿して喪を発せず、病を以て聞こえ、偽りて表して元済の兵を主らんことを請う。帝、太醫を遣わして往きて視せしむ。即ち陽に言いて少愈すと、見ることを得ず。

元済は、其の長子なり。山の如き首に燕の如き頷、頤垂れ、鼻長さ六寸。始めて仕え、協律郎を試み、蔡州刺史を摂す。董重質と云う者あり、少誠の婿なり。勇悍にして、久しく将たり、兵を為すに善し。元済之に倚り、因りて元済を説き、精兵三千を以て寿の間道より揚州を取り、東に李師道を約して舟師を以て潤州を襲い、之を拠らんことを請う。奇兵を遣わして商・鄧を掩い、厳綬を取り、進んで襄陽を守り、以て東南を揺がしむれば、則ち荊・衡・黔・巫は一矢を伝うるも定むべく、五嶺は朝廷の所有に非ざらん。又た軽兵五百を請い、自ら領し三日にして東都を襲わば、則ち天下騒動し、横行すべしと。元済猶して用いる能わず。

先ず是れより、其の属蘇兆・楊元卿・侯惟清嘗て少陽を勧めて朝に入らしめんとす。或いは其の異志有りと言う。元済、兆を縊し、其の屍を帰し、而して惟清を囚う。帝、二人の者皆死せりと以て、故に惟清に兵部尚書を贈り、兆に尚書右僕射を贈る。時に元卿、事を奏するに長安ちょうあんに在り、宰相李吉甫に見え、具に淮西の事を言い、且つ蔡の使の道に在る者を、随う所に在りて之を系せんことを請う。少陽死して四十日、帝、為に朝を輟まず、将を易え戍を増して以て変を須う。

会に伝言有りて重質元済を殺し、其の家を族すと。吉甫因りて少陽の為に朝を輟め、使を遣わして吊賻し、尚書右僕射を贈らんことを請う。而して元済命を得ず、乃ち悉く兵を四出せしめ、舞陽及び葉を焚き、襄城・陽翟を掠む。時に許・汝の居人は皆榛莽の間に竄伏し、剽掠繫縛すること千余里、関東大いに恐る。吊使至るも、克く入らずして還る。乃ち詔して烏重胤に汝州刺史を兼ねしめ、軍を引いて其の境を圧し、寧州刺史曹華之を副えしめ、以て襄城を戍らしむ。李光顔を忠武節度使と為し、兵を総べて臨屯せしむ。山南東道を析き、詔して節度使厳綬を申・光・蔡等州招撫使と為し、中人崔潭峻を以て其の軍を監せしむ。詔を下して元済の官爵を奪い、諸道を趣して進討せしむ。時に大旱し、詔既に下りて、雨雪凡そ三日。田弘正・韓弘各々子を遣わし兵を率い綬・光顔の軍に隷す。綬は蔡の西鄙に屯し、師小勝す。備えを設けず、賊の襲う所となり、礠丘に敗れ、退いて唐州を保つ。寿州刺史令狐通戦いて数えず北し、賊乃ち霍丘を抜き、馬塘を屠り、通は城を嬰いて敢えて出でず。詔して左金吾衛大将軍李文通を宣慰せしめ、其の至るを度り、使して通に代わらしむ。

会に裴度政を輔く。賊始めて懼れ、而して元済能く指授する所無し。諸将趙昌・淩朝江・董重質・李祐・李憲・王覧・趙曄・王仁清等は便宜に因り人自ら戦いを為し、王師に抗し、少誠・少陽の旧風有り。而して李師道は塩を饋り、寧陵・雍丘の間を出入す。韓弘知りて肯て禁ぜず。文通兵を引き賊将王覧・董重質と史蔟岡に戦い、覧の首を馘る。光顔又た大いに賊を時曲に破り、復た重胤と合して賊を小溵河に撃ち、之を敗り、其の屯塹を夷す。天子、綬の律を失えるを責め、更に韓弘に都統を兼ねしめ、高霞寓を擢で唐・鄧・随節度使と為す。

十一年、諸軍大いに合す。光顔は掌河に壁す。文通は賊を固始に破り、𨫼山を抜く。霞寓は郎山に戦い、首千余級を斬り、其の壁を焚き、次で鉄城す。賊偽りて奔る。霞寓窮追す。伏発し、死傷略尽し、退いて新興を保つ。賊之を囲む。監軍李議誠馳せて唐州に入る。救兵至るを以て、囲み解け、還りて唐州を守る。

元済は霞寓が敗れたことを以て、憂うるに足らずとし、兵を併せて陳州に備えた。その秋、文通は兵を率いて枚を銜み夜に九女原より出で、保壁三十箇所を屠り、兵を分けて西北より安陽山に並び、屯邏数百人を破り、降る者万余、両将を捕らえた。光顔は郾城の兵二万を破り、六将を俘虜とし、重胤と合して再び凌雲柵を攻め、これを抜いた。帝は諸軍に大功無きを怒り、詔して内常侍梁守謙を遣わして宣慰せしめ、戦を督せしめ、詔書五百を付して功あるを待ち、金帛を斥けて死士を募らしめた。光顔を進めて検校尚書左僕射とし、重胤を右僕射とし、布を御史中丞とし、公武を御史大夫とせしめた。詔旨にて制約し、賞罰を厳しくし、諸将は恐懼した。霞寓を貶し、袁滋を以てこれに代えしめた。滋は懦弱にして軍を統べる能わず、更に李愬を唐・鄧・随節度使とせしめた。

元済の食糧尽き、士卒は菱・芡・魚・鱉を食らうも皆尽き、草根を斫りて供給するに至った。民は飢えに苦しみ、相率いて四方に潰え、元済もまたその食糧を惜しみ、再び禁じず、諸将は争ってこれを納れた。帝は初めて郾城・呉房を行営に僑置し、以て新たに附く者を綏撫せしめた。愬は兵を引きてその西を攻め、屯柵十余箇所を破り、丁士良・呉秀琳を捕らえ、皆賊のぎょう健なる者なり。賊帥張伯良は兵三万を以て光顔と郾城に戦い、大敗した。馬千匹・甲三万を獲、伯良は蔡に奔還した。曹華は青陵城を取り、郾城の帰路を断った。賊将鄧懐金懼れ、即ち款を送り、光顔これを受けた。愬はまた朗山を襲い破り、戍将梁希果を捕らえ、汶港等の三壁を平らげた。元済は衆数たび潰えるを知り、而して外に秀琳等を失い、因って表を奉りて身を束ねて北闕の下に至らんことを請う。帝は使者を遣わして以て死せざるを許した。元済は行営の馬三百を取らんとし、董重質は与えず、故に降ることを果たさず。愬は興橋を略し、守将李祐を得、殺さず、引いて帳下に至らしめて計議し、初めて蔡を襲うことを謀り、賊の勢い益々沮喪した。

少誠が蔡を盗み有してより四十年、王師未だ嘗て城下に傅かず、又嘗て韓全義・于頔を敗り、以て是れ兵驕りて憚る所無く、内に陂浸の重阻を恃み、故に天下の兵を合してこれを攻むるも、三年にして纔かに一二県を克つ。帝は既に霞寓・滋等を責めて罷めしめ、諸将乃ち命を用いる。詔して沙陀の梟騎を起こして師を済わせ、裴度を彰義節度兼申・光・蔡四面行営招撫使とせしめた。梁守謙は諸将と計り、先ず度の未だ至らざるに功を立てんとし、諸将亟に戦い、勝たず。度至り、大いに将士を労い、皆感激して戦を請うた。間を遣わして士を蔡に入れ、元済の降るを約すも、左右に劫われ、降るを得ず。光顔は毎戦に冠軍す、故に元済は衆を悉くして時曲に亢す。祐は愬に謀りて曰く、「蔡の守る者は、市人疲卒のみ、勁兵は皆外に在り、若し直ちに県瓠を搗かば、賊禽となるべし」と。愬これを然りとし、精騎を以て夜に蔡を襲い、垣を坎りてこれに入る、戍る者知らず。賊は董重質の兵の洄曲に在るを恃み、師の至るを虞れず、及び愬内城を攻むるに及び、防卒尚ほ千余ありて戦を接ぐ、元済始めて驚き、甲を被り城に乗りて重質を待つ。会に重質愬に降り、而して李進誠賊の庫兵を取り、即ちこれを攻む。明日、その門を焼き、民相率いて薪を抱き火を増し、王師は縦に射、城上の鏃拾うべし。二日を居て、門壊れ、元済を捕らえ、挙族を長安に伝えしめた。申・光の戍兵尚ほ三万、皆降る。

帝は興安門に御して俘虜を受け、群臣賀しを称え、元済を以て廟社に献じ、市に徇してこれを斬り、年二十五。夜にその首を失う。妻沈は掖庭に没入し、二弟・三男子は江陵に流し、皆これを殺す。その属官劉協庶・趙曄・王仁清等十余りを斬る。度還り、馬揔を留後とし、俄かに節度使を拝し、溵州を析いて陳許に隷せしむ。

初め度の出づるに、太子右庶子韓愈を行軍司馬とす、帝は度の功を美し、即ち愈を命じて『平淮西碑』を作らしむ。その文に曰く。

天は唐を以てその徳に克く肖る、聖子神孫、継継承承、千万年に於て、敬戒して怠らず、覆う所を全く付し、四海九州、内外有ること無く、悉く主とし悉く臣とす。高祖こうそ・太宗、既に除き既に治む。高宗・中宗・睿宗、休養生息す。玄宗に至り、報を受け功を収め、極めて熾にして豊なり、物衆く地大なり、孽牙その間にす。粛宗・代宗、徳祖・順考、勤め以て容れ以てす。大慝適去り、莨莠𧂭えず、相臣将臣、文恬び武嬉び、習熟見聞し、以て当然と為す。睿聖文武皇帝既に群臣の朝を受け、乃ち図を考へ貢を数へて曰く、「嗚呼、天既に全く予が家に付す、今伝次予に在り、予能く事に事えずんば、其れ何を以て郊廟に見えんや」と。群臣震懾して職に走る。明年、しょくを平ぐ。又明年、江東を平ぐ。又明年、沢潞を平ぎ、遂に易定を定め、魏・博・貝・衛・澶・相を致し、志に従わざる無し。皇帝曰く、「武を究むる可からず、予其れ少しく息まん」と。

九年、蔡将死に、蔡人その子元済を立てて以て請う、許さず、遂に舞陽を焼き、葉・襄城を犯し、以て東都を動かし、兵を放ちて四劫す。皇帝歴に朝に問う、一二の臣を外にし、皆曰く、「蔡帥の廷授せられざる、今に至るまで五十年、三姓四将を伝え、その樹本堅く、兵利にして卒頑、它と等しからず。因りて撫して有ち、順にして且つ事無し」と。大官臆決して声を唱え、万口和附し、併せて一談と為し、牢として破る可からず。皇帝曰く、「惟れ天惟れ祖宗の付任予する所以のもの、庶幾くは此に在らん、予何ぞ力を敢えてせざらんや。況んや一二の臣同じくするは、助け無きに非ざるなり」と。曰く、「光顔、汝は陳許の帥と為れ、是れ河東・魏博・郃陽の三軍の行に在る者、汝皆これを将せよ」と。曰く、「重胤、汝故に河陽・懐有り、今汝を以て益し、是れ朔方・義成・陜・益・鳳翔・鄜延・寧慶の七軍の行に在る者、汝皆これを将せよ」と。曰く、「弘、汝は卒万二千を以て属し、而して子公武をして往きてこれを討たしめよ」と。曰く、「文通、汝は寿を守れ、是れ宣武・淮南・宣歙・浙西・徐泗の五軍の寿に行く者、汝皆これを将せよ」と。曰く、「道古、汝其れ鄂嶽を観察せよ」と。曰く、「愬、汝は唐・鄧・随を帥とし、各その兵を以て進み戦え」と。曰く、「度、汝は御史を長とす、其れ往きて師を視よ」と。曰く、「度、惟れ汝予と同じくす、汝遂に予を相い、以て賞罰し命を用いる用いざるを」と。曰く、「弘、汝其れ節を以て諸軍を都統せよ」と。曰く、「守謙、汝は出入左右し、汝惟れ近臣なり、其れ往きて師を撫せよ」と。曰く、「度、汝其れ往け、衣服飲食を予の士に、寒き無く飢え無く、以て厥の事を既にし、遂に蔡人を生かせ。汝に節斧・通天御帯・衛卒三百を賜う。凡そ茲の廷臣、汝は従うを択べ、惟れ其の賢能を、大吏を憚ること無かれ。庚申、予其れ門に臨みて汝を送らん」と。曰く、「御史、予は士大夫の戦うこと甚だ苦しきを閔む、今より以往、郊廟の祀に非ざれば、楽を用いる無かれ」と。

顔、胤、武がその北を合わせて攻め、大戦十六度、柵城県二十三を得、人卒四万を降す。道古はその東南を攻め、八戦、一万三千を降し、再び申に入り、その外城を破る。文通はその東に戦い、十余度遇い、一万三千を降す。愬はその西に入り、賊将を得てはすなわち釈放して殺さず、その策を用い、戦うごとに功あり。十二年八月、丞相度が師に至り、都統弘は戦いを責めてますます急にし、顔、胤、武は戦いをますます用命す。元済はその衆を尽く併せて洄曲に備う。十月壬申、愬は得たる賊将を用い、文城より天の大雪に因み疾馳百二十里、夜半を用いて蔡に到り、その門を破り、元済を取りて献じ、その属する人卒を尽く得たり。辛巳、丞相度蔡に入り、皇帝の命を以てその人を赦す。淮西平ぎ、大いに饗して功を賫す。師の還るの日、因ってその食を以て蔡人に賜う。凡そ蔡の卒三万五千、その兵たるを楽しまず農に帰らんことを願うもの十に九、悉くこれを放つ。元済を京師に斬る。

功を冊す:弘は侍中を加えらる;愬は左僕射と為り、山南東道を帥る;顔、胤は皆司空を加えらる;公武は散騎常侍さんきじょうじを以て鄜・坊・丹・延を帥る;道古は大夫に進む;文通は散騎常侍を加えらる;丞相度は京師に朝し、進んで晋国公に封ぜられ、階を進めて金紫光禄大夫と為り、旧官を以て相たり;而してその副揔を工部尚書と為し、蔡の任を領せしむ。

既に還りて奏す、群臣聖功を紀さんことを請い、金石に被らしむ。皇帝臣愈に命じ、愈再拝稽首して文を献じて曰く:

唐は天命を承け、遂に万方を臣とす。孰れか近土に居り、盗を襲いて以て狂せん?往くに玄宗に在り、極まりて崇くして圮つ。河北は悍驕、河南は附きて起つ。四聖は宥さず、屡ひ師を興して征す。克つこと能わざる有り、益すに兵を以て戍らしむ。夫は耕して食せず、婦は織して裳を着ず。之を車に輸して、卒に賜る糧と為す。外は多く朝を失い、曠くして嶽狩せず。百隷は官に怠り、事その旧を亡う。帝時に位を継ぎ、顧み瞻ぎて咨嗟し:「惟れ汝文武、孰れか予が家を恤れんや?」既に呉・蜀を斬り、旋って山東を取る。魏将は首義し、六州降り従う。淮蔡は順わず、自ら強しと為す。兵を提げて叫び讙き、故常に事を為さんと欲す。始めて之を討つことを命ず、遂に奸隣を連ぬ。陰に刺客を遣わし、来たりて相臣を賊す。方に戦いて利あらず、内に京師を驚かす。群公上言す:「恵み来たらしむるに若くは莫し」と。帝は聞かずと為し、神と謀りを為す。及び相徳を同じくし、以て天誅を訖うす。乃ち顔・胤、愬・武・古・通を敕し:「咸に弘に統せられ、各おの汝が功を奏せよ」と。三方分かれて攻め、その師五万。大兵北に乗り、その数之を倍す。嘗て兵を時曲にし、軍士蠢蠢たり。既に淩雲を翦り、蔡卒大いに窘る。之に勝つこと邵陵、郾城来たり降る。夏より秋に及び、復た屯して相望む。兵頓して励まず、功を告ぐる時ならず。帝征夫を哀れみ、相を命じて往きて厘めしむ。士飽いて歌い、馬槽に騰る。之を新城に試み、賊遇いて敗れて逃ぐ。その有るを尽く抽き、聚めて以て我を防がしむ。西師躍り入り、道に留まる者無し。頟頟たる蔡城、その疆千里。既に入りて有り、順い俟たざる莫し。帝恩言有り、相度来たり宣う:誅するはその魁に止まり、下人に於いては釈すと。蔡の卒夫、甲を投げて呼び舞う。蔡の婦女、門を迎えて笑い語る。蔡人饑を告ぐれば、船粟往きて哺う。蔡人寒を告ぐれば、繒布を賜いて以てす。始めの時蔡人、往来するを禁ず。今相従いて戯れ、裏門夜開く。始めの時蔡人、進めば戦い退けば戮せらる。今眠りて起き、左に餐し右に粥す。之が為に人を択び、以て余れる憊を収む。吏を選び牛を賜い、教えて税せず。蔡人言有り:「始め迷いて知らず、今乃ち大いに覚ゆ、前の為すところを羞ず」と。蔡人言有り:「天子明聖、順わざれば族誅せず、順えば性命を保つ。汝吾を信ぜずんば、この蔡方を視よ。孰れか順わざるを為し、往きてその吭を斧せん。凡そ叛くこと数有り、声勢相倚る。吾強くして支えず、汝弱くして奚れを恃まん?その長に告げよ、而父而兄;奔走来たり階し、我と同じく太平せん」と。淮蔡乱を為し、天子之を伐つ。既に伐ちて饑うれば、天子之を活かす。始め蔡を伐つを議し、卿士随う莫し。既に伐つこと四年、小大並びに疑う。赦さず疑わず、天子の明に由る。凡そこの蔡の功、断る有りて乃ち成る。既に淮蔡を定め、四夷畢く来る。遂に明堂を開き、坐して以て之を治む。

愈は元済の平ぐるや、度の能く天子の意を固うし、赦さざるを得たるに繇り、故に諸将敢えて首鼠せず、卒に之を禽え、多く度の功に帰し、而して愬は特に蔡に入る功を以て第一に居る。愬の妻は唐安公主の女なり、禁中に出入りし、愈の文実ならざるを訴う。帝亦た武臣の心を牾ることを重んじ、詔してその文を斫ち、更に命じて翰林学士段文昌之を為さしむ。

李祐は功を以て神武将軍に遷り、田宅米粟を賜わる。帝董重質の元済を教えて乱さしめたる跡を尋ね、之を誅せんと欲すれど、而して李愬先に死なずを許せり、故に春州司戸参軍に貶す;淩朝江は潘州司戸参軍に貶す。是の歳、申・蔡州始めて貢物を輸す、戸部其の久しく至らざるを以て、元日に廷に陳ぜんことを請う。

祐は字を慶之と曰い、後に夏・綏・銀・宥節度使に擢で、涇原に徙る。李同捷を討つに当たり、滄徳景節度に改め、累ねて検校尚書左僕射に至る。重質の貶せらるるや、未だ幾ばくもせず、転じて太子少詹事と為り、武寧軍に隷し、左神武将軍に遷り、金幣を賫して功臣と等し。累ね擢でて左右神策剣南西川行営節度使に至り、歴て夏・綏・銀・宥を帥い、兵を訓うるに法有り、羌・戎畏服す。終に右龍武統軍に至り、尚書右僕射を贈らる。

劉悟

劉悟、その祖は正臣、平盧軍節度使、范陽を襲うも克たず、死す。叔父全諒、宣武を節度し、その敢毅なるを器として、牙将に署し、罪を以て潞州に奔る。王虔休復た将と為して署す、病に被り去り、東都に還る、全諒積みし緡銭数百万其処に在り、悟は滕鐍を破りて之を用う。悪少年に従い人を殺し狗を屠り、豪横にして法を犯し、河南の獄に繋がる、留守韋夏卿貸して免す。李師古厚く幣を以て之を迎う、始めは甚だ知らず、後に従いて撃球し、軒然として馳突し、師古の馬を撞いて仆す、師古恚り、将に之を斬らんとす、悟は盛気を以て語を以て師古に触れ、慴せず、師古その才を奇とし、後軍を将とせしめ、従姪を以て妻とし、牙門右職を歴る。師道は軍用屈するを以て、率いて賈人の銭を助けと為し、命じて悟に之を督せしむ。悟独り寛假し、人皆帰頼す。師道討たるるに当たり、将兵して曹に屯せしむ、法一にして信あり、士卒用いらるるを楽み、軍中刁斗鳴らず。

田弘正の兵は陽谷に屯し、劉悟は営を潭趙に移す。魏博の師は河を渡り盧県を取って、阿井に壁す。城中に飛語ありて、馮利涉と劉悟とが帥となるべきなりと言う。李師道は内に疑い、数たび劉悟を召して事を計らう。劉悟曰く、「今魏博と角力する者の如し、勢い既に交わり、先に退く者は負く。悟が還らば、魏博は踵を接して城下に迫らん」と。左右諫めて曰く、「兵の成敗は未だ知るべからず、大将を殺せば、誰か肯て用いられんや」と。師道は之を然りとす。或いは言う、劉悟は将に乱を為さんとす、速やかに去るに如かずと。師道は使者を両輩遣わして来たりて戦を責め、密かに其の副張暹に語りて劉悟を斬らしむ。使者と張暹と屏を隔てて語ること移時す。劉悟は之を疑い、張暹は情を以て告ぐ。劉悟乃ち使者を斬り、諸将を召して議して曰く、「魏博の兵強し、出でば則ち敗れ、出でざれば則ち死す。且つ天子の誅する所は、司空(李師道)のみ。吾が属は駆り迫られて死地に就く、何ぞ兵を還して鄆を取って大功を立て、危亡を転じて富貴と為さんに若かんや」と。衆皆唯唯す。而して別将趙垂棘其の行を沮む。劉悟因って之を殺し、併せて悪む所の三十人を殺し、屍を帳前にす。衆畏れて伏す。令を下して曰く、「鄆に入らば、人に銭十万を賞し、私怨を復するを聴し、財畜恣に之を取らしむ。唯軍帑を完うするのみ。違う者は斬る」と。因って報じて弘正に遣わし、兵を進めて潭趙にせしむ。劉悟夜半西門に迫り、黎明に啓いて入り、師道及び大将魏銑等数十人を殺す。即ち劉悟を拝して義成節度使とし、彭城郡王に封じ、実封戸五百。

元和十五年来朝し、検校兵部尚書に進む。穆宗立ち、昭義軍に徙す。朱克融乱す。議者は威名を仮りて其の乱を厭わしめんとし、盧龍に移して守らしむ。邢州に至り、会うに王廷湊の変にて、入るを得ず、還りて屯す。兼ねて幽・鎮招討使に進み、邢州を治む。臨城を囲み、観望して久しく抜かず。監軍劉承偕と叶わず、衆の前で劉悟を辱め、其の下を放って法を乱さしむ。劉悟其の忍ぶに堪えず。承偕は都将張問と謀り、劉悟を縛って京師に送り、張問を以て節度事に代えんとす。劉悟之を知り、兵を以て監軍を囲み、小使を殺す。其の属賈直言質して劉悟を責めて曰く、「李司空(李師道)死して知ること有らば、公の為す所此に至らしめん。軍中に将たる復た公の如き者有らん」と。劉悟遽かに謝して曰く、「吾李司空の字を聞くを欲せず。少選にして当に定まらん」と。即ち兵を撝して退き、承偕を匿して之を囚う。帝重ねて其の心に違うを憚り、承偕を貶す。然れども劉悟是より頗る専肆に、上書言多く恭しからず。天下罪を負いて亡命する者多く之に帰し、強いて其の冤を列す。累進して検校司徒・同中書門下平章事。

宝暦初め、巫者妄りに言う、李師道兵を以て鎦璃陂に屯すと。劉悟惶恐し、命じて禱祭せしめ、千人分の膳を具え、自ら往きて哀を求む。将に衣を易えんとし、血数斗を嘔き、卒す。太尉を贈る。表して其の子劉従諫を嗣がしむ。

子 劉従諫

劉従諫、母微賤、少くして狡獪なり。李師道の時、劉悟をして出でて屯せしめ、劉従諫を門下別奏に署す。劉従諫は師道の諸奴と日々戲博して交通し、悉く其の陰密の事を知り、悉く之を劉悟に疏す。故に劉悟功を立て得たり。劉悟卒す。劉従諫留後を知り、金幣を把りて当権者に賂る。朝議、上党は内鎮にして、河朔と異なり、許すべからずと言う。左僕射李絳奏言す、「劉悟死を匿せば、衆必ずしも同じく乱せず。劉従諫威恵未だ著わさず。若し詔して比鎮の大将に節度を領せしめ、馳せて軍に入り、其の未だ備えざるを笮し、軍情に属する所有らしめば、謀自ずから屈せん。拒命すること有るも、三州の勢い独り存し難く、数月にして覆すべし」と。時に李逢吉・王守澄其の賂を受け、数たび請う。敬宗乃ち晋王を節度大使とし、詔して劉従諫に留事を主せしめ、将作監主簿を起し、検校左散騎常侍とす。晋王は帝の愛する所、劉従諫饋献相望み、未だ幾ばくもあらずして節度使を拝す。大和初め、李聽館陶に敗れ、浅口に走る。劉従諫鉄騎黄頭郎を引いて之を救い、李聽免る。検校尚書左僕射に進み、司空を拝し、はい国公に封ぜらる。

昭義は劉悟の時より邢州を治む。而して人上党を思う。劉従諫還りて潞を治む。劉悟は苛擾、劉従諫は寛厚、故に下益々附く。方に年壮にして、功を立てんと思う。六年、入朝を請う。文宗待遇を加等す。明年、藩に還り、同中書門下平章事に進む。公卿多く私を托す。又事柄の一ならざるを見て、遂に心朝廷を軽んじ、驕色有り。李訓劉従諫と約し鄭注を誅せんとす。及んで甘露の事有り、宰相皆夷族せられ、伝言す死其の罪に非ずと。劉従諫平らかならず、三たび上書して王涯等の罪を請い、中人を譏切す。時に宦豎志を得、天子弱し。鄭覃・李石新に執政し、其の論執を藉りて権綱を立てんとす。中人憚りて之を怨む。又劾奏す蕭本は太后の弟に非ずと。仇士良積みて怒り、言を倡えて劉従諫の志は窺伺すと。劉従諫も亦妄りに君側を清めんと言い、因って朝廷と猜貳す。武宗立ち、兼ねて太子太師。性奢侈、居室輿馬を飾る。遠略無く、貿易の算に善し。長子道を潞に徙し、歳ごとに馬を榷し商人を征し、又塩を熬き、銅鉄を貨し、緡十万を収む。賈人の子口馬金幣を献ずれば、即ち牙将に署し、州県を行賈せしむ。所在暴横沓貪、子銭を貸して責む。吏命に応ぜざれば、即ち劉従諫に訴う。論奏せんと欲すれば、或いは客を遣わして遊刺せしむ。故に天下怨怒す。劉従諫馬を畜うこと高さ九尺、之を帝に献ず。帝納れず。仇士良の沮む所なるを疑い、怒りて馬を殺し、益々平らかならず。又聞く仇士良寵方に渥しと、愈々憂惑し、自ら入朝せんと欲すも、禍を脱せざるを恐れ、因って病に被り、卒す。年四十一。太傅を贈る。

初め、大将李万江なる者は、本退渾部なり。李抱玉回紇を送回る。道太原、帳を挙げて従い潞州に至り、津梁寺に牧す。地美しく水草有り、馬鴨の如くして健なり。世に所謂る津梁種なる者、歳に馬価数百万を入る。子弟姻婭軍に隷する者四十八人。劉従諫山東に徙す。其の重遷を懼れ且つ変を生ぜんとし、而して子弟も亦豪縱、劉従諫に少しく従い、甚だ礼せず。因って其の叛を誣い、三族を夷す。凡そ三百余家。姬妾微過有れば、輒ち之を殺す。人皆其の将に亡ぶを知る。

従子劉稹、父劉従素右驍衛将軍に仕う。劉従諫以て嗣と為す。病甚だしく、妻裴と謀り、軍事を主せしめ、大将王協・郭誼・劉武徳・劉守義等を置きて劉稹を佐けしむ。秘して喪を発せず。王協謀りて将姜岑を遣わし朝に医を請わしむ。中人と医至る。時に劉従諫死すること已に再旬す。劉稹曰く、「公困革して詔を受くるに任せず。稹請う代わって拝せん」と。中人曰く、「臥して視るも可なり」と。母夫人の侍するを以て辞し、屏うべからずと。中人直に入らんと欲す。劉武徳等戸す。中人変有るを恐れ、趨りて出づ。貺饋百万。後使者継いで往く。劉従諫の既に死せるを知る者、未だ数舍に至らざるに、衆懼る。劉武徳と将董可武兵万人を出して迎労し、牙門に至りて前進すべからず。諸将乃ち監軍崔士康に詣り邀説し、河朔故事の如くせんことを請う。崔士康懦くして敢えて拒まず。乃ち喪次に至り、劉稹を扶き出だし、為に絁巾を裹きて曰く、「更に勅使を殺さんと欲する毋かれ」と。諸将哄然として笑う。遂に出でて三軍に見ゆ。

帝怒る前に使者入らず。謫して恭陵に隷す。劉稹の遣わす所の姜岑・梁叔文・梁叔明三輩、皆京兆府にて杖死す。詔して劉従素に書をさせ劉稹に勅し喪を護りて東都に還らしむ。劉稹詔を奉ぜず。詔して群臣に議せしむ。李徳裕建言す、「劉稹の恃む所は、河朔のみ。若し大臣を遣わして上旨を諭し、山東の兵を出さば、之を破ること必せり」と。詔有り劉従諫・劉稹の官を奪い、諸軍に勅して進討せしむ。

ここにおいて河陽の王茂元は兵を率いて萬善に駐屯し、河東の劉沔は昂車関を守り、榆社に陣を構え、魏博の何弘敬は肥郷に柵を設け、平恩を侵し、成徳の王元逵は臨洺に駐留し、任・堯山・向城を攻略し、河中の陳夷行は冀城に営を置き、冀氏を侵した。茂元は別に将を遣わして天井関に営を設けたが、賊将薛茂卿に破られ、四将を捕らえられ、十七の柵を焼かれた。張巨は萬善を攻撃したが、陥落させられなかった。茂元は逃走しようとしたが、日暮れに遭遇し、賊は自ら潰走した。詔により忠武王宰が本軍を率いて懐沢行営に入り、陳許の兵士は勇猛で、賊衆は平素から畏れ憚っていた。ところが茂卿は戦勝に驕り、厚い恩賞を期待した。ある者が言うには、「その兵が王の領域を深く犯したので、朝廷は怒り、節度使の地位はますます得られないだろう」と。稹はこれを然りとし、故に茂卿は大いに失望し、宰と通じ、偽って挑戦し、急に敗北し、天井関を捨て去り、左右の七営は皆潰走した。茂卿は沢州に奔り、間者を遣わして宰に言わせた、「沢州は取ることができる、私は内応する」と。宰は疑って進まず、期を失い、茂卿は手を握りしめて悔しがった。稹は彼が二心を抱いていると聞き、召し出して誅殺した。宰は進軍して劉公直を破り、陵川を陥落させた。劉沔はまた石会関を奪取した。李石が沔に代わって河東を統領すると、稹は石の兄の洺州刺史恬を通じて書を送り降伏を乞うた。石はこれを上聞し、右拾遺の崔碣が表を奉ってこれを受け入れるよう請うたが、帝は怒り、碣を鄧城令に左遷し、詔して敢えて兵を止めることを言う者は賊の境内で処刑すると命じた。上は石に命じて返書をさせ、稹が自ら縛につくことを許した。石は馳せ往ってこれを受けようとしたが、稹は出てこなかった。やがて太原の将楊弁が李石を追放し、稹と連和した。稹の諸将は建議した、「我々は継承を求めており、彼は反乱兵卒である。もし彼と連合すれば、反逆者と同類となる」と。その使者を拘束して京師に送り、康良佺を鼓腰嶺に駐屯させ、太原兵を破り、兵卒七百を生け捕りにした。帝はなお赦さなかった。

初め、従諫が死の際に、稹に群奴を鞭打ち辱めぬよう命じたので、李士貴らと王協が特に権勢を振るい、兵士が戦って功があっても賞せず、下に闘志がなかった。府中の財貨はなお山のように積まれていたが、協は商人に課税することを請い、劉溪らを分遣して検査させた。ところが溪は平民もその財産を調べ、十のうち二を取ったので、百姓は初めて怨んだ。従諫の妻の弟裴問が邢州を守り、募兵五百があり、「夜飛将」と号し、多くは豪族の子弟であった。その家が財貨を納めるのが遅れたため、溪に囚われた。問がこれについて言上すると、溪は大いに怒り、問はそこで溪を殺し、刺史崔嘏とともに大将を斬り、自ら成徳軍に帰順した。王釗が洺州を守り、兵士に布一端を与え、稹が檄を飛ばして歳の給与を代えると命じた。釗は衆に言った、「庫の物はまだ多い、これを発して賞としたい、よろしいか」と。兵士は皆喜んだ。全ての所有物を与え、誠意を示して魏博軍に降った。礠州の将高玉、堯山の将魏元談らが順次成徳に降り、元逵は長く賊のために守ったとして、彼らを殺した。

稹は三州が降ったと聞き、大いに恐れた。大将郭誼と王協が初めて稹を除くことを謀議し、董可武に命じて稹を北の邸宅に誘い出し、酒宴を設け、酒が酣になったところで直ちに首を斬り、従諫の子で繈褓にある者二十余人をことごとく捕らえ、従子の積・匡周らを殺した。張谷・張沿・陳揚庭・李仲京・王渥・王羽・韓茂章・茂実・賈庠・郭臺・甄戈の十一族を誅し、殄滅し、軍中で平素から従わなかった者を皆殺した。稹の首を函に入れて王宰に送り、京師に献じ、宗廟社稷に告げ、帝は興安門に臨んでこれを受けられた。劉公直もまた宰に降った。

石雄が兵を率いて境を守り、軍は大いに掠奪した。誼は書を送ってこれを責めたので、雄は怒りを抱いた。稹の死後、誼は従諫の妻を挟室に追いやり、その財貨を収めて私物とし、大きな厩舎を建て、日々旌節の授与を望んだ。宰相の徳裕が建言した、「稹は凡庸で、乱は誼から始まった。軍が窮地に陥ってから、ようやく稹を除いて栄誉を求めようとした。誅殺しなければ奸臣を懲らしめることはできない。また兵が境にある今、逆党をことごとく捕らえて京師に送り、法に照らして論ずべきである」と。先に狂人が潞の市で叫んだことがあった、「石雄の七千人が来た!」と。従諫はこれを捕らえて誅殺し、そこで詔を請い、雄にその数だけ兵を率いて入らせた。雄が潞に至り、誼及び王協・劉公直・安全慶・李道德・李佐堯・劉武徳・董可武らを縛って京師に送り、皆死刑に処した。崔士康を杖殺した。白惟信という者は、潞の梟将で、数度雄と戦い、恐れて降伏できず、武郷で都将康良佺を殺し、盧鈞に降ろうとした。雄が人を遣わして降伏を呼びかけると、惟信はその者を殺し、ついに鈞に降った。詔があり、「従諫は死に臨み、なお稹に軍事を委ねた。棺を剖き屍を市中に三日さらすべし」と。雄が発掘して見ると、顔は生きているようで、一目はなお開いており、雄は三度斬りつけ、仇人がその骨を剔ることほとんど尽くした。

誼は、兗州の人である。兄の岌は悟に仕えて牙将となり、常に滏山の秀峻を楽しみ、「我が死すれば必ずここに葬らん」と言った。望気者が言うには、「その地は三世にわたり都頭異姓となるであろう」と。河北では都頭異姓を、最も貴い称としている。「しかし墓穴が二丈を過ぎれば不利である」。誼は岌が仮の刺史であったので、三丈を穿ったところ、石の蛇と三つの卵を得た。工人がこれを割ると、皆血が流れた。この時至り、誼及び岌の三子はともに誅殺された。

張谷・張沿・陳揚庭は皆文才があり、時に古今の成敗を説いて従諫を補佐したので、従諫はこの三人を厚遇した。谷は邯鄲の人李厳の女を侍人として納れ、新声と号した。従諫がひそかに脅威を窺う図を抱いていた時、新声は谷を諫めて言った、「初め天子が従諫を節度使としたのは、戦野攻城の功があったからではなく、ただその父が斉の十二州を率いて天子に還したからであり、去就の間にその嗣を奪うことができなかっただけである。沢潞を有して以来、一縷一蹄をもって天子の寿を祝うことを聞かず、左右は皆無頼の徒である。章武朝(憲宗朝)には、数鎮が顛覆したが、皆雄才傑器の士でさえ、尚天子の恩を固く保つことができなかった。まして従諫は児女の手から抜擢された者であり、もし法によって得たのでなければ、また法によらずに終わるべきである。君は一族を脱して西へ去るべきだ。大丈夫、一飯の恩に顧みて、骨肉を健児の食と腥くするなかれ」と。言い終わって悲しみ涙した。谷は三月決断せず、言葉が漏れることを恐れ、彼女を縊り殺した。

李仲京は、訓の兄であり、蕭洪の府判官となり、監察御史に抜擢された。王渥は、璠の子である。王羽は、涯の族孫である。韓茂章・茂実は、約の子である。賈庠は、餗の子である。郭臺は、行餘の子である。甘露の難が起こると、皆粗末な服を着て従諫のもとに奔り、従諫は衣食を与えた。

甄戈という者は、頗る任侠を以て任じ、従諫は厚く給与し、上座に座らせ、自ら荊卿と称した。従諫は定州の戍将と不和があり、戈に命じてこれを討たせた。戈は旅舎で謁見を求め、三日間飲み留め、隙をみてその首を斬った。他日、また仇人を討たせようとすると、戈はならず者十余りを引き連れてこれを襲った。従諫は悦ばず、「偽荊卿」と号した。

従諫の妻裴氏は、弟が功を立てたので、詔によりその死を赦そうとした。刑部侍郎劉三復が固く不可と主張したので、ここにおいて死を賜い、屍を裴問に還した。裴の父の敞は、冕の末裔で、悟の府に辟召され、悟は彼を異才と認め、故に従諫にその女を娶らせた。裴が十五歳の時、袿の下から火光が起き、家人は怪しいと思い、そこで婚を許した。燕国夫人に封ぜられた。寛厚にして謀あり、毎に従諫を諫めて入朝し子孫の計とすべきことを勧めた。従諫に妾の韋がいて夫人に封ぜられることを願い、従諫はこれを許した。詔が届くと、裴は怒り、詔を破り与えなかった。従諫が他日裴の一族と会した時、また詔を出したが、裴はこれを押しのけて言った、「淄青の李師古は四世にわたり朝命を阻んだが、側室が封ぜられたとは聞かない。君は朝廷の姑息を受けており、自ら官を削り、洗濯を求めるべきである。顧みて婢を夫人としようとは、一族滅びぬ日はない!」。従諫は恥じて止めた。韋が京師に至ると、言うには、「李丕が降った時、裴は大将の妻を集めて号哭し、『我が夫に語れ、先公の恩を忘れるな、子と母を託さんと願う』と言った。諸婦もまた涙を流したので、潞の諸将の反逆はますます固くなった」と。これによって禍に及んだ。

初めに、術者の李琢は禍福を言い当てることができ、劉従諫は重い礼を贈って招き、大将に任じた。会昌の初め、李琢は劉従諫に言うには、「往年、長星が斗宿を経過した時、貴公はその直下に生まれた。今また鎮星が至ったので、災いがあるであろう。」劉従諫は直ちに軍を山東に移し、球場を開き、柳泉を穿ち、大いに役事を興してこれを鎮めようとした。そして病に罹った時、李琢の興した造営はすべて歳に逆らうものであると言う者がおり、異謀を疑って、劉稹にその罪を数えさせてこれを殺させたので、府中は騒然となり、間もなく李丕が降った。

李佐之という者がいた。李兼の孫であり、累次転任して河南尉となり、強直と号された。かつて潞州に客居し、劉従諫に礼遇され、留められて去ることができず、遂に観察府支使に任じられ、その従祖妹を娶った。劉従諫は疏遠な縁者を軽んじ、付添いの資産も乏しかったので、李佐之もまたこれを軽んじ、あまり応じなかった。劉従諫が病んだ時、李佐之は力を尽くして諷諫し、東都に帰還するよう勧めた。劉従諫は従うことはできなかったが、その言葉に感服した。病が重くなると、王協らは李佐之の妻の母が何か言上することを恐れ、直ちに車で母を東都に帰した。ちょうど李佐之の奴隷が、李佐之が賓客と交わり、軍中の虚実を漏らしていると告げたので、劉稹はこれを囚禁した。妻が礼遇されていないと訴えたので、劉稹は遂にこれを殺した。

武郷県令の唐漢賓は、唐倹の裔孫であり、劉稹が命に逆らったので、固く諫めて帰朝するよう求めたが、聞き入れられず、一族皆殺しにされた。李師晦という者は、もと宗室の子であり、初め劉悟に召されて幕府に致され、劉従諫が次第に恣み横暴になるのを見て、長生の術を求めるという口実で、政事に関わらなかった。劉従諫は彼を東都に帰らせようとしたが、李師晦は谷・揚庭らに讒言されることを恐れ、渉県に居住することを請うたので、劉従諫はこれを疑わなかった。劉稹が敗れた後、帝に言上する者がおり、伊闕県令に抜擢され、また薛茂卿に博州刺史を追贈した。大中の初め、さらに唐漢賓に本県令を追贈した。

先に、河北の諸将が死ぬと、皆まず使者を遣わして弔祭し、次に冊書を贈り、次に近臣を遣わして慰問し、軍の情勢を考慮して節度使を与え、軍中では外に出ることを許さず、それから兵を用いた。大抵半年を過ぎなければ定まらないので、狡猾な将や逆子は皆備えることができた。劉稹は初め、帝が怒ってすぐに討伐されるとは思わず、王茂元が詔を写して劉稹に示すと、一族挙げて号泣し、自ら帰順しようとしたが、愚かで懦弱であり決断できなかったという。劉悟から劉稹まで三代、凡そ二十六年であった。

李丕という者は、長短の術に長け、劉従諫と厚く親しくし、大将に任じられた。劉稹が命に逆らった時、軍中ではその才を憎み、李丕は恐れて、遊弈として深く入り、営壁の様子を窺うことを請い、遂に自ら帰順した。議者は賊の遣わした者であると疑ったが、李徳裕は上奏して言うには、「賊を討って半年、初めて降る者が現れたので、賞して残りの者を勧めるべきである。」帝は召し出して、忻州刺史に抜擢した。李丕は榆社を取って、東に武安を経て賊を討つことを請うた。邢州・洺州が未だ下らなくても、兵は潞州を救うことができないというのである。聞き入れられなかった。楊弁が乱を起こすと、人を遣わして李丕を誘ったが、李丕はこれを斬り、兵をもって走集を扼した。李徳裕は帝に言うには、「度支戸部の物資は代州に積まれているが、今李丕がその路を塞いだので、賊は破れました。」そこで李丕に楊弁を討つよう促したが、兵が至らないうちに楊弁は既に捕らえられた。汾州・晉州の二州刺史に遷った。大中の初め、振武節度使に拝し、検校刑部尚書となった。党項が叛くと、鄜坊に移り、卒した。

【贊】

贊して言う。《伝》に「『易』を作る者は、盗を知るか!」とある。されば盗の情は、聖人でなければ知ることができない。唐の中衰に当たり、奸雄が睨みをめぐらして奮い立ち、魏・趙・燕の地を挙げて、莽々たる盗賊の区と化し、叛を引き継いで百年、その人を夷狄の如くにしたが、回復することができなかった。暗愚な主君と凡庸な補佐が、ただ盗を知らなかったからである。妖を引き寄せて暗きに就かせ、その明を奪うとは、まさに蕭俛・崔植らの言うところであろうか。