新唐書

巻二百一十五下 列傳第一百四十下 突厥下

巻二百一十五下 列傳第一百四十下 突厥下

毗伽可汗

原文毗伽可汗

默棘連は降胡を得てより、南に塞を盗まんと欲す。暾欲谷曰く、「不可なり。天子は英武にして、人和し歳豊なり。間隙なし。且つ我が兵は新たに集まる。動くべからず」と。默棘連また都を城し、仏・老の廟を起さんと欲す。暾欲谷曰く、「突厥の衆は唐の百分の一に敵せず。能く抗する所以は、水草に随ひ射獵し、居処常ならず、武事に習ひ、強ければ進取し、弱ければ遁伏するにあり。唐兵は多しと雖も、用ふる所なし。若し城して居らば、戦ひ一たび敗れなば、必ず彼の禽と為らん。且つ仏・老の教は人を仁弱ならしむ。武強の術に非ず」と。默棘連その策に当たり、即ち使者を遣はして和を請ふ。帝は情なしと以て、答へて許さず。俄に詔を下して之を伐たんとし、乃ち拔悉蜜の右驍衛大將軍金山道總管處木昆執米啜・堅昆都督右武衛大將軍骨篤祿毗伽可汗・契丹きったん都督李失活・奚都督李大酺・突厥默啜の子左賢王墨特勒・左威衛將軍右賢王阿史那毗伽特勒・燕山郡王火拔石失畢等の蕃漢の士を悉く發し、凡そ三十萬、御史大夫・朔方道大總管王晙を以て之を統べ、八年の秋に稽落水上に並び集まるを期し、拔悉蜜・奚・契丹をして分道して其の牙を掩はしめ、默棘連を捕へしむ。默棘連大いに恐る。暾欲谷曰く、「拔悉蜜は北庭に在り、二蕃と相去ること遠し。必ず合せず。晙と張嘉貞は隙あり。必ず相ひ執り異ならん。亦た必ず来たる能はざらん。即ち皆能く来たるとも、我れ前三日に当たり衆を悉くして北に徙らば、彼糧竭きて自ら去らん。拔悉蜜は軽くして利を好む。当に先づ至らん。之を撃てば取る可し」と。俄にして拔悉蜜果たして衆を引きて突厥の牙に逼る。晙等の至らざるを知り、乃ち引き却く。突厥之を撃たんと欲す。暾欲谷曰く、「兵千里を遠出し、士殊死しゅしに闘へば、鋒当つべからず。之に躡ひ、近きを邀へて之を取るに如かず」と。北庭より二百里を距りて、乃ち兵を分かちて他の道より其の城を襲ひ抜き、即ち急に拔悉蜜を撃つ。衆走りて北庭に趨るも、帰する所なく、悉く之を禽す。還りて赤亭を出で、涼州を掠む。都督楊敬述、官屬盧公利・元澄等をして兵を勒して討捕せしむ。暾欲谷曰く、「敬述若し城守せば、当に和すべし。兵出でなば、吾れ且つ決戦し、必ず功有らん」と。澄軍に令して曰く、「臂を裸にして満を持ち外に註せ」と。会ふに大寒膚を裂き、士手を以て弓矢を張ること能はず。是に由りて大敗し、元澄走る。敬述坐して白衣を以て涼州事を檢校す。突厥遂に大いに振ひ、默啜の余衆を尽く有つ。

原文默棘連既得降胡,欲南盜塞,暾欲谷曰:「不可,天子英武,人和歲豐,未有間,且我兵新集,不可動也。」默棘連又欲城所都,起佛、老廟,暾欲谷曰:「突厥眾不敵唐百分一,所能與抗者,隨水草射獵,居處無常,習於武事,強則進取,弱則遁伏,唐兵雖多,無所用也。若城而居,戰一敗,必為彼禽。且佛、老教人仁弱,非武強術。」默棘連當其策,即遣使者請和。帝以不情,答而不許。俄下詔伐之,乃以拔悉蜜右驍衛大將軍金山道總管處木昆執米啜、堅昆都督右武衛大將軍骨篤祿毗伽可汗、契丹都督李失活、奚都督李大酺、突厥默啜子左賢王墨特勒、左威衛將軍右賢王阿史那毗伽特勒、燕山郡王火拔石失畢等蕃漢士悉發,凡三十萬,以御史大夫、朔方道大總管王晙統之,期八年秋並集稽落水上,使拔悉蜜、奚、契丹分道掩其牙,捕默棘連。默棘連大恐,暾欲谷曰:「拔悉蜜在北庭,與二蕃相距遠,必不合。晙與張嘉貞有隙,必相執異,亦必不能來。即皆能來,我當前三日悉眾北徙,彼糧竭自去。拔悉蜜輕而好利,當先至,擊之可取也。」俄而拔悉蜜果引眾逼突厥牙,知晙等不至,乃引卻,突厥欲擊之,暾欲谷曰:「兵千里遠出,士殊死鬥,鋒不可當也。不如躡之,邀近而取之。」距北庭二百里,乃分兵由它道襲拔其城,即急擊拔悉蜜,眾走趨北庭,無所歸,悉禽之。還出赤亭,掠涼州,都督楊敬述使官屬盧公利、元澄等勒兵討捕,暾欲谷曰:「敬述若城守,當與和。如兵出,吾且決戰,必有功。」澄令於軍曰:「裸臂持滿外註。」會大寒裂膚,士手不能張弓矢,由是大敗,元澄走,敬述坐以白衣檢校涼州事,突厥遂大振,盡有默啜餘眾。

明年、固く和を乞ひ、父事して天子と為らんことを請ふ。之を許す。又た連歳使者を遣はし方物を献じ婚を求む。是の時、天子東に泰山を巡る。中書令張説、益々屯して以て突厥に備へんことを謀る。兵部郎中裴光庭曰く、「封禪は以て成功を告ぐ。若し復た調發せば、成功と謂ふべからず」と。説曰く、「突厥は和を請ふと雖も、信を以て結ぶこと難し。且つ其の可汗は仁にして人を愛し、下之を用ふ。闕特勒は戦に善くし、暾欲谷は沈雄にして、愈老いて智愈し。李靖・世勣の流なり。三虜方に協ひ、我が国を挙げて東巡するを知り、間隙に乗ずること有らば、何を以て之を禦がん」と。光庭即ち請ふて使を以て其の大臣を召し入衛せしむ。乃ち鴻臚卿袁振を遣はして往き帝意を諭せしむ。默棘連酒を置き、可敦・闕特勒・暾欲谷と帳中に坐し、振に謂ひて曰く、「吐蕃とばんは犬の出なり。唐之と為に昏す。奚・契丹は我が奴にして役するなり。亦た主を尚ぶ。独り突厥は前後請ふも、許さず。何ぞ云はん」と。振曰く、「可汗は天子の子なり。子にして昏せば、可ならんや」と。默棘連曰く、「然らず。二蕃は皆姓を賜はりて、主を尚ぶことを得たり。何ぞ不可と云はんや。且つ公主も亦た帝の女に非ず。我敢へて択ぶ所有らず。但だ屡請ふも得ざれば、諸国の笑ひと為らん」と。振請ふを許す。默棘連大臣阿史德頡利發を遣はし入献せしめ、遂に封禪に従ふ。詔有りて四夷諸酋皆仗に入り弓矢を佩かしむ。会ふに兔帝の馬前に起る。帝一發して之を斃す。頡利發兔を奉り頓首して賀して曰く、「陛下の神武超絶すること、若し天上に在らば則ち臣知らず、人間には有ること無し」と。詔問ふて曰く、「饑えて食を欲するか」と。対へて曰く、「弧矢の威を仰ぎ観れば、十日食せずと雖も猶ほ飽くが如し」と。因りて仗内に馳射せしむ。封に扈ひ畢りて、厚く宴賜して之を遣す。然れども卒に和親を許さず。

原文明年,固乞和,請父事天子,許之。又連歲遣使獻方物求婚。是時天子東巡泰山,中書令張說謀益屯以備突厥,兵部郎中裴光庭曰:「封禪以告成功,若復調發,不可謂成功者。」說曰:「突厥雖請和,難以信結也。且其可汗仁而愛人,下為之用,闕特勒善戰,暾欲谷沈雄,愈老而智,李靖、世勣流也,三虜方協,知我舉國東巡,有如乘間,何以禦之?」光庭即請以使召其大臣入衛,乃遣鴻臚卿袁振往諭帝意。默棘連置酒與可敦、闕特勒、暾欲谷坐帳中,謂振曰:「吐蕃,犬出也,唐與為昏;奚、契丹,我奴而役也,亦尚主;獨突厥前後請,不許,雲何?」振曰:「可汗,天子子也,子而昏,可乎?」默棘連曰:「不然,二蕃皆賜姓,而得尚主,何不可雲?且公主亦非帝女,我不敢有所擇,但屢請不得,為諸國笑。」振許為請,默棘連遣大臣阿史德頡利發入獻,遂從封禪。有詔四夷諸酋皆入仗佩弓矢,會兔起帝馬前,帝一發斃之,頡利發奉兔頓首賀曰:「陛下神武超絕,若天上則臣不知,人間無有也。」詔問:「饑欲食乎?」對曰:「仰觀弧矢之威,使十日不食猶為飽。」因令仗內馳射。扈封畢,厚宴賜遣之,然卒不許和親。

是より比年大臣を遣はし入朝す。吐蕃書を以て約し連和して辺を鈔せんとす。默棘連敢へて従はず、其の書を封じて上る。天子之を嘉し、使者梅録啜を引きて紫宸殿に宴す。詔して朔方西受降城に互市を許し、歳に帛数十萬を賜ふ。十九年、闕特勒死す。金吾將軍張去逸・都官郎中呂向をして璽詔を奉りて吊祭せしむ。帝為に碑に刻辞し、仍ひ廟像を立て、四垣に戦陣の状を図す。詔して高手工六人を往かしめ、繪寫精肖なり。其の国未だ嘗て有らざるが如し。默棘連之を視て、必ず悲梗せん。

原文自是比年遣大臣入朝,吐蕃以書約與連和鈔邊,默棘連不敢從,封上其書,天子嘉之,引使者梅錄啜宴紫宸殿,詔朔方西受降城許互市,歲賜帛數十萬。十九年,闕特勒死,使金吾將軍張去逸、都官郎中呂向奉璽詔吊祭,帝為刻辭於碑,仍立廟像,四垣圖戰陣狀,詔高手工六人往,繪寫精肖,其國以為未嘗有,默棘連視之,必悲梗。

默棘連婚を請ふこと既に勤し。帝許可す。是に於て哥解栗必を遣はして来り謝し、婚期を請はしむ。俄に梅録啜に毒せられ、死を忍びて梅録啜を殺し、其の種を夷し、乃ち卒す。帝為に哀を發し、詔して宗正卿李佺をして吊祭せしめ、因りて廟を立て、詔して史官李融に其の碑を文ならしむ。国人共に其の子を立てて伊然可汗と為す。

原文默棘連請昏既勤,帝許可,於是遣哥解栗必來謝,請昏期。俄為梅錄啜所毒,忍死殺梅錄啜,夷其種,乃卒。帝為發哀,詔宗正卿李佺吊祭,因立廟,詔史官李融文其碑。國人共立其子為伊然可汗。

伊然可汗立ちて八年、卒す。凡そ使者を三たび入朝せしむ。其の弟嗣ぎ立ち、是を星伽骨咄祿可汗と為す。右金吾衛將軍李質をして冊を持ち登利可汗と為さしむ。明年、使者伊難如を遣はし正月を朝し、方物を献じ、曰く「礼天可汗は天を礼するが如し。今新歳月を献ず。願くは万寿を以て天子に献ぜん」と云ふ。可汗幼し。其の母婆匐小臣飫斯達幹と乱し、遂に政に預かる。諸部協はず。登利の従父東西の兵を分掌し、左右殺と号し、士の精勁なるもの皆属す。可汗と母西殺を誘ひ斬り、其の兵を奪ふ。左殺懼れ、即ち登利可汗を攻め、之を殺す。

原文伊然可汗立八年,卒。凡遣使三入朝。其弟嗣立,是為星伽骨咄祿可汗,使右金吾衛將軍李質持冊為登利可汗。明年,遣使伊難如朝正月,獻方物,曰「禮天可汗如禮天,今新歲獻月,願以萬壽獻天子」雲。可汗幼,其母婆匐與小臣飫斯達幹亂,遂預政,諸部不協。登利從父分掌東西兵,號左右殺,士之精勁皆屬。可汗與母誘斬西殺,奪其兵,左殺懼,即攻登利可汗,殺之。

左殺は、判闕特勒なり。遂に毗伽可汗の子を立てるも、俄に骨咄葉護に殺され、其の弟を立つるも、旋にして又之を殺す。葉護乃ち自ら可汗と為る。天宝初め、其の大部回紇かいこつ・葛邏祿・拔悉蜜並び起りて葉護を攻め、之を殺し、拔悉蜜の長を尊びて頡跌伊施可汗と為す。是に於て回紇・葛邏祿自ら左右葉護と為り、亦た使者を遣はして来り告ぐ。国人判闕特勒の子を奉りて烏蘇米施可汗と為し、其の子葛臘哆を以て西殺と為す。帝使者をして諭し内附せしむるを令す。烏蘇聴かず。其の下与せず。拔悉蜜等三部共に烏蘇米施を攻む。米施遁亡す。其の西葉護阿布思及び葛臘哆五千帳を率ひて降る。葛臘哆を以て懷恩王と為す。

原文左殺者,判闕特勒也,遂立毗伽可汗子,俄為骨咄葉護所殺,立其弟,旋又殺之,葉護乃自為可汗。天寶初,其大部回紇、葛邏祿、拔悉蜜並起攻葉護,殺之,尊拔悉蜜之長為頡跌伊施可汗,於是回紇、葛邏祿自為左右葉護,亦遣使者來告。國人奉判闕特勒子為烏蘇米施可汗,以其子葛臘哆為西殺。帝使使者諭令內附,烏蘇不聽,其下不與,拔悉蜜等三部共攻烏蘇米施,米施遁亡。其西葉護阿布思及葛臘哆率五千帳降,以葛臘哆為懷恩王。

三載、抜悉蜜らが烏蘇米施を殺し、その首を京師に伝え、太廟に献じた。その弟の白眉特勒鶻隴匐が立ち、これが白眉可汗となった。ここにおいて突厥は大いに乱れ、国人は抜悉蜜の酋長を推して可汗とし、詔して朔方節度使せつどし王忠嗣に兵を以てその乱に乗じ、薩河内山に至り、その左の阿波達幹十一部を撃ち、これを破った。ただその右部は未だ下らず、而して回紇・葛邏祿が抜悉蜜可汗を殺し、回紇の骨力裴羅を奉じてその国を定め、これが骨咄禄毘伽闕可汗となった。明年、白眉可汗を殺し、その首を伝えて献じた。毘伽可汗の妻骨咄禄婆匐可敦は衆を率いて自ら帰順し、天子は花萼楼にて群臣を宴し、詩を賦してその事を美しめ、可敦を賓国夫人に封じ、歳ごとに粉直二十万を給した。

原文三載,拔悉蜜等殺烏蘇米施,傳首京師,獻太廟。其弟白眉特勒鶻隴匐立,是為白眉可汗。於是突厥大亂,國人推拔悉蜜酋為可汗,詔朔方節度使王忠嗣以兵乘其亂,抵薩河內山,擊其左阿波達幹十一部,破之,獨其右未下,而回紇、葛邏祿殺拔悉蜜可汗,奉回紇骨力裴羅定其國,是為骨咄祿毗伽闕可汗。明年,殺白眉可汗,傳首獻。毗伽可汗妻骨咄祿婆匐可敦率眾自歸,天子禦花萼樓宴群臣,賦詩美其事,封可敦為賓國夫人,歲給粉直二十萬。

初め突厥は後魏の大統年間に国を建て、ここに至って滅んだ。後に或いは朝貢するも、皆旧部の九姓という。その地は尽く回紇に入る。初めその族が西に分かれて国をなした者を、西突厥という。

原文始突厥國於後魏大統時,至是滅。後或朝貢,皆舊部九姓雲,其地盡入回紇。始其族分國於西者,曰西突厥。

西突厥

原文西突厥

西突厥、その先祖は訥都陸の孫の吐務、大葉護と号す。長子曰く土門伊利可汗、次子曰く室点蜜、亦た瑟帝米と曰う。瑟帝米の子曰く達頭可汗、亦た歩迦可汗と曰う。初め東突厥と烏孫の故地を分かちてこれを有ち、東は即ち突厥、西は雷翥海、南は疏勒、北は瀚海、京師の北七千里に直し、焉耆より西北へ七日行きて南庭を得、北へ八日行きて北庭を得、都陸・弩失畢・歌邏禄・処月・処蜜・伊吾諸種と雑居す。その風俗は大抵突厥に同じく、言語少しく異なる。

原文西突厥,其先訥都陸之孫吐務,號大葉護。長子曰土門伊利可汗,次子曰室點蜜,亦曰瑟帝米。瑟帝米之子曰達頭可汗,亦曰步迦可汗。始與東突厥分烏孫故地有之,東即突厥,西雷翥海,南疏勒,北瀚海,直京師北七千里,由焉耆西北七日行得南庭,北八日行得北庭,與都陸、弩失畢、歌邏祿、處月、處蜜、伊吾諸種雜。其風俗大抵突厥也,言語少異。

初め、東突厥の木桿可汗死に、その子大邏便を捨て、弟の佗缽可汗を立てた。佗缽死に、先に令してその子庵羅に必ず大邏便を立てしむと戒めたが、国人はその母賤しきを以て、肯って立たず、而して遂に庵羅を立てた。庵羅は後に木桿の兄の子摂図に譲り、これが沙鉢略可汗となった。而して大邏便は別に阿波可汗となり、自らその部に臣し、沙鉢略これを襲撃し、その母を殺し、阿波は西に走って達頭に至った。この時に当たり、達頭は西面可汗たり、即ち阿波に兵十万を授け、東突厥と戦わしめた。而して阿波は竟に沙鉢略に禽えられた。啓民可汗の時に及び、達頭可汗は歳ごとに兵を以て相加え、而して隋は常に啓民を助けた。故に達頭は敗れて吐谷渾に奔った。

原文初,東突厥木桿可汗死,舍其子大邏便,而立弟佗缽可汗。佗缽死,先令戒其子庵羅必立大邏便,國人以其母賤,不肯立,而卒立庵羅。庵羅後以讓木桿兄子攝圖,是為沙缽略可汗。而大邏便別為阿波可汗,自臣所部,沙缽略襲擊之,殺其母,阿波西走達頭。當是時,達頭為西面可汗,即授阿波兵十萬,使與東突厥戰。而阿波竟為沙缽略所禽。及啟民可汗時,達頭可汗歲以兵相加,而隋常助啟民,故達頭敗奔吐谷渾。

初め、阿波既に禽えられ、国人は鞅素特勒の子を立て、これが泥利可汗となった。達頭の奔るや、泥利も亦た敗れ、死に及び、その子達漫が立ち、これが泥橛処羅可汗となった。政は苛察にして忌み多し。大業中、煬帝に従い高麗を征し、号を曷薩那可汗と賜い、宗女を妻とし、その弟闕達度設を会寧郡に留めて畜牧せしめ、即ち自ら闕可汗と称した。江都の乱に、曷薩那は宇文化及に従い黎陽に至り、遁れて長安に帰る。高祖は榻を降りて共に坐し、帰義王に封じ、大珠を献じて帝に奉る。帝受けずして曰く、「朕の重んずる者は王の赤心なり、是れ用無きなり」と。闕可汗は馬三頭あり、武徳元年に内属し、号を吐烏過拔闕可汗と賜い、李軌と連和す。隋の西戎使者曹瓊、甘州に拠りてこれを誘う。俄かに瓊と合し、共に軌を撃つも、兵勝たず、達鬥抜谷に走り、吐谷渾と輔車相い、軌に滅ぼされた。

原文始,阿波既禽,國人立鞅素特勒子,是為泥利可汗。達頭之奔,泥利亦敗,及死,其子達漫立,是為泥橛處羅可汗,政苛察多忌。大業中,從煬帝征高麗,賜號曷薩那可汗,妻以宗女,留其弟闕達度設畜牧於會寧郡,即自稱闕可汗。江都亂,曷薩那從宇文化及至黎陽,遁歸長安,高祖降榻與共坐,封歸義王,以大珠獻帝,帝不受,曰:「朕所重者王之赤心,是無用也。」闕可汗有馬三,武德元年內屬,賜號吐烏過拔闕可汗,與李軌連和。隋西戎使者曹瓊據甘州誘之,俄與瓊合,共擊軌,兵不勝,走達鬥拔谷,與吐谷渾相輔車,為軌所滅。

初め、曷薩那が隋に朝した時、国人は皆欲せず、既に留められて遣わされず、乃ち共に達頭の孫を立て、射匱可汗と号した。廷を亀茲の北の三弥山に建て、玉門以西の諸国多く役属し、東突厥と亢す。射匱死に、その弟統葉護嗣ぎ、これが統葉護可汗となった。

原文初,曷薩那朝隋,國人皆不欲,既被留不遣,乃共立達頭孫,號射匱可汗,建廷龜茲北之三彌山,玉門以西諸國多役屬,與東突厥亢。射匱死,其弟統葉護嗣,是為統葉護可汗。

統葉護可汗は勇にして謀あり、戦えば輒ち勝ち、因って鉄勒を併せ、波斯・罽賓を下し、控弦数十万、廷を石国の北の千泉に徙し、遂に西域諸国を覇し、悉くこれに頡利発を授け、而して一吐屯を命じて監統せしめ、以て賦入を督めしむ。明年、射匱使いを遣わして来たり、曷薩那に世の憾み有るを以て、これを殺すことを請う。帝許さず。群臣曰く、「一人を存すれば、一国を失い、後且つ患いとならん」と。秦王曰く、「然らず、人来りて我に帰す、我これを殺すは祥ならず」と。帝また聴かず。禁中に宴し、酒酣に至り、中書省に至り、使者をしてこれを戕えしむ。宣べず。射匱も亦た連年条支の巨卵・師子革等を貢ぎ、帝厚く撫結を申し、約して力を併せて東突厥を討たんとす。統葉護可汗期を請う。頡利大いに懼れ、乃ち和し、約して相伐たざらんとす。統葉護可汗来たりて昏を請う。帝群臣と謀りて曰く、「西突厥我より遠く、緩急杖るべからず、昏すべけんや」と。封徳彜曰く、「今の便を計るに、遠く交わりて近く攻むるに若かず、請う昏を聴きて以て北狄を怖しめ、我既に定まるを待ち、而して後にこれを図らん」と。帝乃ち昏を許し、詔して高平王道立をしてその国に至らしむ。統葉護可汗喜び、真珠統俟斤を遣わし道立と還り、万釘宝鈿金帯・馬五千匹を献じて以て約を藉とす。会うに東突厥歳ごとに辺を犯し、西道梗澀し、又た頡利遣わして謂いて曰く、「若し唐の公主を迎えんには、必ず我が道を仮らん、我且つこれを留めん」と。統葉護可汗これを病み、未だ昏を克さず。方にその強を負い、恩を以て下を結ばず、衆怨み、多く叛き去る。その諸父莫賀咄これを殺す。帝玉帛を賫しその国を焚祭せんと欲す。会うに乱あり、果たさずして至らず。

原文統葉護可汗勇而有謀,戰輒勝,因並鐵勒,下波斯、罽賓,控弦數十萬,徙廷石國北之千泉,遂霸西域諸國,悉授以頡利發,而命一吐屯監統,以督賦入。明年,射匱使使來,以曷薩那有世憾,請殺之,帝不許。群臣曰:「存一人,失一國,後且為患。」秦王曰:「不然,人來歸我,我殺之不祥。」帝又不聽。宴禁中,酒酣,至中書省,縱使者戕之,不宣也。射匱亦連年系貢條支巨卵、師子革等,帝厚申撫結,約與並力討東突厥。統葉護可汗請期,頡利大懼,乃與和,約毋相伐也。統葉護可汗來請昏,帝與群臣謀:「西突厥去我遠,緩急不可杖,可與昏乎?」封德彜曰:「計今之便,莫若遠交而近攻,請聽昏以怖北狄,待我既定,而後圖之。」帝乃許昏,詔高平王道立至其國,統葉護可汗喜,遣真珠統俟斤與道立還,獻萬釘寶鈿金帶、馬五千匹以藉約。會東突厥歲犯邊,西道梗澀,又頡利遣謂曰:「若迎唐公主,必假我道,我且留之。」統葉護可汗病之,未克昏。方負其強,不以恩結下,眾怨,多叛去,其諸父莫賀咄殺之,帝欲賫玉帛焚祭其國,會亂,不果至。

莫賀咄立ち、これが屈利俟毗可汗となり、使者を遣わして来たりて献ず。俟毗可汗初め突厥を分統して小可汗と為し、既に大可汗と称すも、国人附かず。弩失畢部自ら泥孰莫賀設を推して可汗と為す。泥孰辞して受けず。会うに統葉護可汗の子咥力特勒、莫賀咄の乱を避け、亡れて康居に在り、泥孰これを迎え立て、乙毗鉢羅肆葉護可汗と為し、俟毗可汗とその国を分かちて王たり、挐鬥解けず、各使いを遣わして朝献す。太宗追いて曷薩那の罪無くして死せるを憐れみ、上柱国を贈り、礼を具えて以て葬る。貞観四年、俟毗可汗昏を請う。許さず、詔して曰く、「突厥方に乱れ、君臣未だ定まらず、何ぞ遽かに昏せん。各その部を勅して相侵す毋からしめよ」と。ここにより西域諸国悉くこれに叛き、国大いに虚耗し、衆悉く肆葉護可汗に附く。俟毗の部も亦た稍々去り、共に兵を以て俟毗を撃つ。俟毗走りて金山に保つ。泥孰に殺され、肆葉護を奉じて大可汗と為す。

原文莫賀咄立,是為屈利俟毗可汗,遣使者來獻。俟毗可汗初分統突厥為小可汗,既稱大可汗,國人不附。弩失畢部自推泥孰莫賀設為可汗,泥孰辭不受。會統葉護可汗子咥力特勒避莫賀咄亂,亡在康居,泥孰迎立之,為乙毗缽羅肆葉護可汗,與俟毗可汗分王其國,挐鬥不解,各遣使朝獻。太宗追憐曷薩那死非罪,為贈上柱國,具禮以葬。貞觀四年,俟毗可汗請昏,不許,詔曰:「突厥方亂,君臣未定,何遽昏為?各敕其部毋相侵。」由是西域諸國悉叛之,國大虛耗,眾悉附肆葉護可汗,雖俟毗之部亦稍稍去,共以兵擊俟毗,俟毗走保金山,為泥孰所殺,奉肆葉護為大可汗。

肆葉護既に立ち、即ち北に鉄勒・薛延陀を討つも、延陀に敗れらる。性猜愎にして、統下に狭し。小可汗乙利なる者、国に最も功有り。肆葉護讒を聴き、種を夷す。衆皆沮駭す。又た泥孰を忌み、陰にこれを殺さんと図る。泥孰亡れて焉耆に入る。未だ幾ばくもなく、没卑達幹と弩失畢部の諸豪謀りて執りて肆葉護を廃せんとす。葉護軽騎にて康居に走り、憂いて死す。国人泥孰を焉耆より迎え、これを立て、これが咄陸可汗となった。可汗の父莫賀設、本統葉護に隷す。武徳時に来朝し、太宗これと盟し、約して昆弟と為す。死して泥孰これに代わる。或いは伽那設と曰う。既に立ち、使いを闕に詣らしむ。敢えて可汗の号を当てず。帝詔して鴻臚少卿劉善因に節を持たしめ、号を吞阿婁拔利邲咄陸可汗と冊し、鼓纛・段彩巨万を賜う。泥孰使いを遣わして謝す。他日、太上皇使者を両儀殿に宴し、長孫無忌に謂いて曰く、「今蛮夷率服す、古にも亦た有るか」と。無忌千万歳の寿を上ぐ。太上皇喜び、酒を以て帝に属す。帝頓首して謝し、亦た觴を奉じて太上皇の寿を上ぐ。

原文肆葉護已立,即北討鐵勒、薛延陀,為延陀所敗。性猜愎,狹於統下。小可汗乙利者,於國最有功,肆葉護聽讒,種夷之,眾皆沮駭。又忌泥孰,陰圖殺之,泥孰亡入焉耆。未幾,沒卑達幹與弩失畢部諸豪謀執廢肆葉護,葉護輕騎走康居,憂死。國人迎泥孰於焉耆,立之,是為咄陸可汗。可汗父莫賀設,本隸統葉護者,武德時來朝,太宗與之盟,約為昆弟。死而泥孰代之,或曰伽那設。既立,遣使詣闕,不敢當可汗號。帝詔鴻臚少卿劉善因持節冊號吞阿婁拔利邲咄陸可汗,賜鼓纛,段彩巨萬。泥孰遣使謝。它日,太上皇宴使者兩儀殿,謂長孫無忌曰:「今蠻夷率服,古亦有乎?」無忌上千萬歲壽,太上皇喜,以酒屬帝,帝頓首謝,亦奉觴上太上皇壽。

咄陸可汗が死に、弟の同俄設が立ち、これが沙鉢羅咥利失可汗となった。唐は三度使者を遣わして方物を奉り、ついに婚姻を請うたが、帝は慰撫して許さなかった。可汗はその国を十部に分け、各部に一人を統べさせ、各人に一箭を授け、十設と号し、また十箭とも称した。左右に分け、右は五咄陸部、五大啜を置き、碎葉の東に居し、右は五弩失畢部、五大俟斤を置き、碎葉の西に居した。その下では一箭を一部落と称し、十姓部落と号した。しかし衆の悦服を得ず、その部の統吐屯が兵を率いて襲撃し、咥利失は左右を率いて戦い、統吐屯は勝てず去った。咥利失はその弟の歩利設とともに焉耆に奔った。阿悉吉闕俟斤と統吐屯は国人を召して謀り、欲谷設を大可汗に立て、咥利失を小可汗としようとした。ちょうど統吐屯が殺され、欲谷設もまたその俟斤に破られたので、咥利失はついに故地を回復した。後に西部はついに自立して欲谷設を乙毗咄陸可汗とし、咥利失と交戦し、殺傷数えきれず、そこで伊列河を境として諸部と約し、河以西は咄陸の令を受け、その東は咥利失が主とした。ここより西突厥はまた二国に分かれた。

原文咄陸可汗死,弟同俄設立,是為沙缽羅咥利失可汗,贈三遣使奉方物,遂請昏,帝慰而不俞。可汗分其國為十部,部以一人統之,人授一箭,號十設,亦曰十箭。為左、右:右五咄陸部,置五大啜,居碎葉東;右五弩失畢部,置五大俟斤,居碎葉西。其下稱一箭曰一部落,號十姓部落雲。然不為眾悅賴,其部統吐屯以兵襲之,咥利失率左右戰,統吐屯不勝去。咥利失與其弟步利設奔焉耆。阿悉吉闕俟斤與統吐屯召國人謀立欲谷設為大可汗,以咥利失為小可汗。會統吐屯被殺,欲谷設又為其俟斤所破,咥利失乃復得故地。後西部卒自立欲谷設為乙毗咄陸可汗,而與咥利失交戰,殺傷不可計,乃因伊列河約諸部:河以西受令於咄陸,其東咥利失主之。自是西突厥又分二國矣。

咄陸可汗は廷を鏃曷山の西に建て、これを「北庭」と称し、駁馬、結骨などの諸国はことごとく附き臣従した。密かに咥利失部の吐屯俟列発とともに兵を率いて咥利失を攻めた。咥利失は援軍窮し、抜汗那に奔って死んだ。国人はその子を立て、これが乙屈利失乙毗可汗となったが、一年余りで死んだ。弩失畢の大酋が伽那設の子の畢賀咄葉護を迎えて立て、これが乙毗沙鉢羅葉護可汗となった。太宗は詔して左領軍将軍張大師に節を持たせ冊命し、鼓纛を賜い、廷を雖合水の北に建て、これを「南庭」と称した。東は伊列河に迫り、亀茲、鄯善、且末、吐火羅、焉耆、石、史、何、穆、康などの国はみな隷属した。この時咄陸の兵は次第に盛んとなり、沙鉢羅葉護と数度交戦した。ちょうど両可汗の使者がともに来朝したので、帝は敦睦を命じて各々兵を罷めさせたが、咄陸は肯んじて聴かず、石国の吐屯を遣わして葉護可汗を攻め殺し、その国を併せた。弩失畢は服さず、叛いて去った。咄陸はまた吐火羅を撃ち取ると、ついに伊州を寇した。安西都護郭孝恪は軽騎二千を率い、烏骨より狙撃し、これを破った。咄陸は処月、処蜜の兵をもって天山を囲んだが陥とせず、孝恪は敗走を追い、処月俟斤の城を抜き、遏索山に至り、千余級を斬り、処蜜部を降して帰還した。咄陸可汗は性狠傲で、使者の元孝友らを留めて返さず、妄りに言う、「我は唐天子が才武に優れると聞く。我今康居を討つ。爾らは我を見て天子と等しいと思うか」と。ついに共に康居を攻め、途中の米国を襲って破り、その人を捕虜とし、財貨や人口を取っても下に与えず、その将の泥孰啜は怒り、これを奪い取ったので、咄陸は斬って衆に示した。泥孰啜の将の胡禄屋が挙兵して咄陸可汗を襲い、多くの士卒を殺し、国は大乱し、吐火羅に帰って保たんとしたが、大臣が本国に戻るよう諫めても従わず、衆を率いて去り、葉水を渡り、石国に至った時、左右はほぼ尽き去り、可賀敦城を保った。自ら軽く出て叛亡者を招いたところ、阿悉吉闕俟斤が迎撃し、咄陸は敗れ、白水胡城を襲い取って居を定めた。弩失畢は咄陸が可汗となることを望まず、使者を闕下に遣わし、誰を立てるべきか請うた。帝は通事舎人温無隠に璽詔を持たせ、国の大臣とともに突厥可汗の子孫の賢者を選んで授けさせ、ついに乙屈利失乙毗可汗の子を立て、これが乙毗射匱可汗となった。

原文咄陸可汗建廷鏃曷山西,謂之「北庭」,駁馬、結骨諸國悉附臣之,陰與咥利失部吐屯俟列發以兵攻咥利失。咥利失援窮,奔拔汗那而死。國人立其子,是為乙屈利失乙毗可汗,逾年死。弩失畢大酋迎伽那設之子畢賀咄葉護立之,是為乙毗沙缽羅葉護可汗。太宗詔左領軍將軍張大師持節冊命,賜鼓纛,建庭雖合水北,謂之「南庭」,東薄伊列河,龜茲、鄯善、且末、吐火羅、焉耆、石、史、何、穆、康等國皆隸屬。是時咄陸兵浸浸盛,與沙缽羅葉護數交戰。會二可汗使者皆來,帝敕以敦睦,令各罷兵,咄陸不肯聽,遣石國吐屯攻葉護可汗,殺之,並其國。弩失畢不服,叛去。咄陸又擊吐火羅,取之,乃入寇伊州。安西都護郭孝恪以輕騎二千,自烏骨狙擊,敗之。咄陸以處月、處蜜兵圍天山而不克,孝恪追北,拔處月俟斤之城,抵遏索山,斬千餘級,降處蜜部而歸。咄陸可汗性很傲,留使者元孝友等不遣,妄曰:「我聞唐天子才武,我今討康居,爾視我與天子等否?」遂與共攻康居,道米國,即襲破之,系虜其人,取貲口不以與下,其將泥孰啜怒,奪取之,咄陸斬以徇。泥孰啜之將胡祿屋舉兵襲咄陸可汗,多殺士,國大亂,將歸保吐火羅,大臣勸其返國,不從,率眾去,度葉水,及石國,左右亡去略盡,乃保可賀敦城。自輕出招叛亡,阿悉吉闕俟斤逆擊之,咄陸敗,襲取白水胡城以居。弩失畢不欲咄陸為可汗,遣使者至闕下,請所立。帝遣通事舍人溫無隱持璽詔與國大臣擇突厥可汗子孫賢者授之,乃立乙屈利失乙毗可汗之子,是為乙毗射匱可汗。

乙毗射匱が立つと、使者の館を改め、ことごとく長安に還し、弩失畢に将兵を率いさせて白水胡城を攻めさせた。咄陸は兵を率いて城より出て、鼓角を鳴らして薄く戦い、弩失畢は軍を成さず、殺獲甚だ多かった。咄陸はその勝に乗じて旧部を招き寄せたが、皆言う、「千人戦って一人生き残るとしても、我らはなお従わない」と。咄陸は衆の怨みを知り、吐火羅に走った。乙毗射匱は使者を遣わして方物を貢ぎ、かつ婚姻を請うた。帝は亀茲、於闐、疏勒、朱俱波、葱嶺の五国を割いて聘礼とするよう命じたが、婚姻は成らなかった。ここにおいて阿史那賀魯が反し、可汗の部落をことごとく得た。

原文乙毗射匱既立,改館使者,悉還之長安,使弩失畢將兵攻白水胡城。咄陸勒兵自城出,鳴鼓角薄鬥,弩失畢不能軍,殺獲甚多。咄陸因其勝招徠舊部,皆曰:「戰千人,存一人,我猶不從也。」咄陸自知眾怨,乃走吐火羅。乙毗射匱遣使貢方物,且請昏,帝令割龜茲、於闐、疏勒、朱俱波、蔥嶺五國為聘禮,不克昏。於是阿史那賀魯反,盡得可汗部落。

賀魯

原文賀魯

ちょうど帝が崩御すると、すぐに西州・庭州の二州を取らんと謀り、刺史の駱弘義がこれを聞かせた。高宗は通事舎人喬宝明を馳せ遣わして撫でしめ、ついでに賀魯にその子咥運を入れて宿衛させた。咥運は途中で悔い、勢いに迫られて去ることができず、右驍衛中郎将に拝された。帝が還すと、咥運はすぐに賀魯を勧めて西に引き、咄陸可汗の故地を取り、千泉に牙を建て、自ら沙鉢羅可汗と号し、ついに咄陸・弩失畢の十姓を統べた。咄陸には五啜あり、処木昆律啜、胡禄屋闕啜、摂舍提暾啜、突騎施賀邏施啜、鼠尼施処半啜という。弩失畢には五俟斤あり、阿悉結闕俟斤、哥舒闕俟斤、抜塞幹暾沙鉢俟斤、阿悉結泥孰俟斤、哥舒処半俟斤という。そして胡禄屋闕は賀魯の婿である。阿悉結闕俟斤が最も盛んで強く、勝兵数十万に至った。咥運を莫賀咄葉護とした。ついに庭州を寇し、数県を破り、数千人を殺掠して去った。詔して左武衛大将軍梁建方、右驍衛大将軍契何力を弓月道行軍総管とし、右驍衛将軍高徳逸、右武衛将軍薩孤呉仁を副とし、府兵三万を発し、回紇騎五万と合わせてこれを撃たせた。駱弘義が計を献じて言う、「中国を安んずるには信をもってし、夷狄を馭するには権をもってす。理に変通あり。賀魯は一城を保ち、寒さ厳しく積雪する折、唐兵は必ず来ないと思っている。この機に乗じて一挙にこれを滅すべきである。遷延して春に及べば、変が生じ、たとえ諸国を率連しなくとも、必ず遠く跡を絶って遁走するであろう。かつ兵は本来賀魯を誅するためであるが、処蜜、処木昆などもまた各々自ら免れようとしている。もし留まって進まなければ、彼らは賀魯と再び合するであろう。今は厳冬で風強く、兵は皸墳を苦しむが、また久しく留まって辺境の糧を費やし、賊に堅く党附し、死期を遠ざけることを得させてはならない。処月、処蜜などの罪を寛大にし、専ら賀魯を誅し、禍を除くには本を務め、先に枝葉を治めてはならない。射脾、処月、処蜜、契などの兵を発し、一月分の食糧を持たせ、急ぎこれを趨らせ、大軍は憑洛水の上に駐屯してその影助となすことを願う。これは戎狄を駆って豺狼を攻めしめるものである。かつ戎人は唐兵を羽翼と頼む。今、胡騎を前に出だし、唐兵を後に従わせれば、賀魯は窮するであろう」と。天子はその奏を然りとし、詔して弘義に建方らを佐けて経略させた。処月の朱邪孤註なる者が兵を率いて賊に附き、牢山に拠った。建方らがこれを攻めると、衆は潰え、五百里を追行し、孤註を斬り、首級九千を上げ、その帥六十人を虜にしたが、弘義の計った通りにはならなかった。

原文方帝崩,即謀取西、庭二州,刺史駱弘義以聞,高宗遣通事舍人喬寶明馳撫,因令賀魯遣子咥運入宿衛。咥運中悔,劫於勢,不得去,拜右驍衛中郎將。帝遣還,咥運即勸賀魯引而西,取咄陸可汗故地,建牙於千泉,自號沙缽羅可汗,遂統咄陸、弩失畢十姓。咄陸有五啜,曰處木昆律啜、胡祿屋闕啜、攝舍提暾啜、突騎施賀邏施啜、鼠尼施處半啜。弩失畢有五俟斤,曰阿悉結闕俟斤、哥舒闕俟斤、拔塞幹暾沙缽俟斤、阿悉結泥孰俟斤、哥舒處半俟斤。而胡祿屋闕,賀魯婿也。阿悉結闕俟斤最盛強,勝兵至數十萬。以咥運為莫賀咄葉護。遂寇庭州,敗數縣,殺掠數千人去。詔左武衛大將軍梁建方、右驍衛大將軍契何力為弓月道行軍總管,右驍衛將軍高德逸、右武衛將軍薩孤吳仁副之,發府兵三萬,合回紇騎五萬擊之。駱弘義獻計曰:「安中國以信,馭夷狄以權,理有變通也。賀魯保一城,方寒積雪,謂唐兵必不來,宜乘此一舉滅之。遷延及春,且生變,縱不率連諸國,必遠跡遁去。且兵本誅賀魯,而處蜜、處木昆等亦各欲自免,若留不進,彼與賀魯復合矣。今雖嚴冬風勁,兵苦皸墮,又不可久留費邊糧,使賊得堅黨附、賒死期也。請寬處月、處蜜等罪,專誅賀魯,除禍務本,不可先治枝葉也。願發射脾、處月、處蜜、契等兵,賫一月食,急趨之,大軍住憑洛水上為之景助,此驅戎狄攻豺狼也。且戎人藉唐兵為羽翼,今胡騎出前,唐兵躡後,賀魯窮矣。」天子然其奏,詔弘義佐建方等經略之。處月朱邪孤註者,引兵附賊,據牢山,建方等攻之,眾潰,追行五百里,斬孤註,上首九千級,虜其帥六十,不如弘義所計。

永徽四年、瑤池都督府を罷め、即ち処月に金満州を置いた。また左屯衛大将軍程知節を蔥山道行軍大総管として遣わし、諸将を率いて進討させた。この年、咄陸可汗が死に、その子の真珠葉護が賀魯を討って自ら効を請うたが、賀魯に拒まれて前進できなかった。明年、知節が歌邏禄、処月を撃ち、千級を斬り、馬万計を収めた。副将の周智度が処木昆城を撃ち、これを抜き、斬馘三万を上げた。前軍の蘇定方が鷹娑川において賀魯の別帳の鼠尼施を撃ち、斬首虜獲した馬は甚だ多く、賊は鎧仗を棄てて野に満ちた。ちょうど副総管の王文度が戦おうとせず、怛篤城を降し、その財を取ってこれを屠り、知節はこれを制することができなかった。

原文永徽四年,罷瑤池都督府,即處月置金滿州,又遣左屯衛大將軍程知節為蔥山道行軍大總管,率諸將進討。是歲,咄陸可汗死,其子真珠葉護請討賀魯自效,為賀魯所拒,不得前。明年,知節擊歌邏祿、處月,斬千級,收馬萬計。副將周智度擊處木昆城,拔之,斬馘三萬。前軍蘇定方擊賀魯別帳鼠尼施於鷹娑川,斬首虜獲馬甚眾,賊棄鎧仗彌野。會副總管王文度不肯戰,降怛篤城,取其財,屠之,知節不能制。

顕慶の初め、定方を伊麗道行軍大総管に抜擢し、燕然都護任雅相・副都護蕭嗣業・左驍衛大将軍瀚海都督回紇婆閏等を率いて窮討させた。詔して右屯衛大将軍阿史那彌射・左屯衛大将軍阿史那歩真を流沙道安撫大使とし、分かれて金山道より出で、俟斤嫩獨祿等万余帳を迎え降らしむ。定方精騎を以て曳咥河西に至り、処木昆を撃ちてこれを破る。賀魯十姓の兵十万騎を挙げて来り拒ぐ。定方万人を以てこれに当たる。虜兵少なるを見て、騎を以て唐軍を繞す。定方歩卒に命じて原に拠らしめ、槊を欑ねて外に註ぎ、自ら騎を以て北に陣す。賀魯先ず原上の軍を撃ち、三たび犯すも、軍動かず。定方騎を縦してこれに乗ず。虜大いに潰え、奔るを追うこと数十里、三万人を俘斬し、その大酋都搭達幹等二百人を殺す。明日北を躡い、五弩失畢皆降る。五咄陸賀魯の敗れたるを聞き、南道に趨りて歩真に降る。定方嗣業・婆閏に命じて邪羅斯川に趨り虜を追わしめ、任雅相降兵を提げて踵を後にする。会に大雪、軍中霽るを須うと請う。定方曰く「今晦風冽しく、虜我の師と為す能わざるを謂う。その不虞を掩うべし。緩なれば則ち遠し。日を省き功を兼ぬるは上策なり」と。ここに昼夜進み、過ぐる所の人畜を収め、双河に至り、彌射・歩真と会す。軍飽き気張り、賀魯の牙二百里に距る。陣して行き、金牙山に抵る。賀魯の衆適に獵す。定方の兵縱してその牙を破り、数万人を俘え、鼓纛器械を獲る。賀魯跳んで伊麗水を度る。嗣業千泉に次ぐ。彌射伊麗に至り、処月・処蜜諸部皆下る。双河に次ぐ。賀魯先に歩失達幹を以て柵に拠りて戦う。彌射これを攻め潰す。定方賀魯を追いて碎葉水に至り、その衆を尽く奪う。賀魯・咥運鼠耨設に奔らんとし、石国の蘇咄城に至る。馬進まず、衆饑う。宝を賫して城に入り、且つ馬を市わんとす。城主伊涅達幹これを迎う。既に入りて拘え石国に送る。会に彌射の子元爽と嗣業の兵至り、これを取る。乃ち諸部の兵を悉く散じ、道を開き駅を置き、露胔を収め、人の疾苦を問い、賀魯の掠めたる所を悉く民に還す。西域平ぐ。賀魯嗣業に謂いて曰く「我は亡虜なり。先帝我を厚くす。我は則ちこれに背く。今天怒罰を降す。尚何の道かあらん。且つ聞く、漢法は人を殺す必ず都市にすと。我願わくば昭陵に就き死し、先帝に謝罪せん」と。帝曰く「先帝賀魯に二千帳を賜いてこれを主とせしむ。今罪人既に得たり。昭陵に献ずること其れ可ならんや」と。許敬宗曰く「古者、軍凱還すれば則ち廟に飲至す。諸侯若しは、天子に馘を献ず。未だ陵に献ずるを聞かず。然れども陛下園寢を奉ずること宗廟と等し。行うべく疑うことなからん」と。ここに執して昭陵に献じ、誅せずして赦す。

原文顯慶初,擢定方伊麗道行軍大總管,率燕然都護任雅相、副都護蕭嗣業、左驍衛大將軍瀚海都督回紇婆閏等窮討。詔右屯衛大將軍阿史那彌射、左屯衛大將軍阿史那步真為流沙道安撫大使,分出金山道,俟斤嫩獨祿等萬餘帳迎降。定方以精騎至曳咥河西,擊處木昆,破之。賀魯舉十姓兵十萬騎來拒,定方以萬人當之,虜見兵少,以騎繞唐軍。定方令步卒據原,欑槊外註,自以騎陣於北。賀魯先擊原上軍,三犯,軍不動。定方縱騎乘之,虜大潰,追奔數十里,俘斬三萬人,殺其大酋都搭達幹等二百人。明日躡北,五弩失畢皆降。五咄陸聞賀魯敗,趨南道降步真。定方命嗣業、婆閏趨邪羅斯川追虜,任雅相提降兵踵後。會大雪,軍中請須霽,定方曰:「今晦風冽,虜謂我不能師,掩其不虞可也,緩則遠矣,省日兼功,上策也。」於是晝夜進,收所過人畜,至雙河,與彌射、步真會,軍飽氣張,距賀魯牙二百里,陣而行,抵金牙山。賀魯眾適獵,定方兵縱破其牙,俘數萬人,獲鼓纛器械,賀魯跳度伊麗水。嗣業次千泉,彌射至伊麗,處月、處蜜諸部皆下。次雙河,賀魯先以步失達幹據柵戰,彌射攻之,潰,定方追賀魯至碎葉水,盡奪其眾。賀魯、咥運將奔鼠耨設,至石國蘇咄城,馬不進,眾饑,賫寶入城,且市馬,城主伊涅達幹迎之,既入,拘送石國。會彌射子元爽與嗣業兵至,取之。乃悉散諸部兵,開道置驛,收露胔,問人疾苦,賀魯所掠悉還之民,西域平。賀魯謂嗣業曰:「我,亡虜也,先帝厚我,我則背之,今天降怒罰,尚何道?且聞漢法殺人必都市,我願就死昭陵,謝罪於先帝也。」帝曰:「先帝賜賀魯二千帳主之,今罪人既得,獻昭陵其可乎?」許敬宗曰:「古者,軍凱還則飲至於廟。若諸侯,獻馘天子,未聞獻於陵。然陛下奉園寢與宗廟等,可行不疑。」於是執而獻昭陵,赦不誅。

賀魯既に滅び、その地を裂いて州県と為し、以て諸部を処す。木昆部を匐延都督府と為し、突騎施索葛莫賀部を嗢鹿都督府と為し、突騎施阿利施部を絜山都督府と為し、胡祿屋闕部を塩泊都督府と為し、摂舍提暾部を双河都督府と為し、鼠尼施処半部を鷹娑都督府と為し、又昆陵・濛池の二都護府を置きて以てこれを統ぶ。その役属する所の諸国皆州を置き、西は波斯に尽き、並びに安西都護府に隷す。阿史那彌射を興昔亡可汗と為し、驃騎大将軍・昆陵都護を兼ね、五咄陸部を領せしむ。阿史那歩真を継往絶可汗と為し、驃騎大将軍・濛池都護を兼ね、五弩失畢部を領せしむ。各帛十万を賜い、光禄卿盧承慶を以て冊命を持せしむ。賀魯死す。詔して頡利の冢の旁に葬り、その概を石に紀す。

原文賀魯已滅,裂其地為州縣,以處諸部。木昆部為匐延都督府,突騎施索葛莫賀部為嗢鹿都督府,突騎施阿利施部為絜山都督府,胡祿屋闕部為鹽泊都督府,攝舍提暾部為雙河都督府,鼠尼施處半部為鷹娑都督府,又置昆陵、濛池二都護府以統之。其所役屬諸國皆置州,西盡波斯,並隸安西都護府。以阿史那彌射為興昔亡可汗,兼驃騎大將軍、昆陵都護,領五咄陸部,阿史那步真為繼往絕可汗,兼驃騎大將軍、濛池都護,領五弩失畢部,各賜帛十萬,以光祿卿盧承慶持冊命之。賀魯死,詔葬頡利冢旁,紀其概於石。

阿史那彌射も亦た室点蜜可汗の五世孫、世々莫賀咄葉護と為る。貞観中、使者を遣わし節を持たしめて彌射を立てて奚利邲咄陸可汗と為し、鼓纛を賜う。族兄歩真彌射を謀殺し、自立せんと欲す。彌射国と為す能わず、即ち処月・処蜜等の部を挙げて入朝し、右監門衛大将軍に拝す。而して歩真遂に自ら咄陸葉護と為る。衆厭わず、これを去り、亦た族人と来朝し、左屯衛大将軍に拝す。彌射帝に従い高麗を征して功有り、平壤県伯に封ぜられ、右武衛大将軍に遷る。賀魯を平ぐるに及び、乃ち歩真と皆可汗と為り、その部の刺史以下を補うを得たり。是の歳、彌射双河にて真珠葉護を撃ち、これを斬り、闕啜二人を殺す。

原文阿史那彌射,亦室點蜜可汗五世孫,世為莫賀咄葉護。貞觀中,遣使者持節立彌射為奚利邲咄陸可汗,賜鼓纛。族兄步真謀殺彌射,欲自立,彌射不能國,即舉所部處月、處蜜等入朝,拜右監門衛大將軍。而步真遂自為咄陸葉護,眾不厭,去之,亦與族人來朝,拜左屯衛大將軍。彌射從帝征高麗有功,封平壤縣伯,遷右武衛大將軍。及平賀魯,乃與步真皆為可汗,得補所部刺史以下。是歲,彌射擊真珠葉護於雙河,斬之,殺闕啜二人。

彌射・歩真綏禦の材無く、下怨み多し。ここに思結都曼疏勒・朱俱波・喝槃陀の三国を率いて叛き、于闐を撃ち破る。詔して左驍衛大将軍蘇定方をしてこれを討たしむ。都曼兵馬頭川に保つ。五年、定方その城に傅し、撃ちて降す。龍朔二年、彌射・歩真兵を以て〓海道総管蘇海政に従い龜茲を討つ。歩真彌射を怨み、且つその部を併せんと欲し、乃ち謀反を以て誣う。海政察する能わず、即ち軍吏を集めて計議し、先ず発してこれを誅せんとす。因りて詔を称して賫せし所の賜を可汗の首領に発す。彌射麾下を以て至る。悉く収め斬る。その部の鼠尼施・拔塞幹叛き走る。海政追いてこれを平ぐ。歩真幹封の時に死す。

原文彌射、步真無綏禦材,下多怨,於是思結都曼率疏勒、朱俱波、喝槃陀三國叛,擊破於闐,詔左驍衛大將軍蘇定方討之,都曼兵保馬頭川。五年,定方傅其城,擊降之。龍朔二年,彌射、步真以兵從〓海道總管蘇海政討龜茲,步真怨彌射,且欲並其部,乃誣以謀反。海政不能察,即集軍吏計議先發誅之,因稱詔發所賫賜可汗首領,彌射以麾下至,悉收斬之。其部鼠尼施、拔塞幹叛走,海政追平之。步真死幹封時。

咸亨二年、西突厥部の酋阿史那都支を左驍衛大将軍兼匐延都督と為し、以てその衆を安輯せしむ。儀鳳中、都支自ら十姓可汗と号し、吐蕃と連和し、安西を寇す。詔して吏部侍郎裴行儉をしてこれを討たしむ。行儉兵を発すること毋からんことを請う。計を以て取るべしと。即ち詔して行儉に波斯王子を冊送せしめ、並びに大食を安撫せしむ。両蕃に道するが若くせしむ。都支果たして疑わず、子弟を率いて謁を止め、遂にこれを禽す。諸部の渠長を執して召し、別帥李遮匐を降して帰す。調露元年なり。西姓是より益々衰え、その後二部の人日々離散す。遂に彌射の子元慶を擢て左玉鈐衛将軍と為し、歩真の子歩利設斛こく瑟羅を右玉鈐衛将軍と為し、尽く父の領する所及び可汗の号を襲がしむ。元慶累ねて鎮国大将軍・行左威衛大将軍に拝す。武后命を擅にす。諸蕃の長を率いて請うて睿宗の氏を賜いて武と曰わしめ、更に号して斛瑟羅を竭忠事主可汗と曰わしむ。長寿中、元慶坐して皇嗣を謁し、来俊臣に誣えられ、要斬せられ、その子献を振州に流す。

原文咸亨二年,以西突厥部酋阿史那都支為左驍衛大將軍兼匐延都督,以安輯其眾。儀鳳中,都支自號十姓可汗,與吐蕃連和,寇安西,詔吏部侍郎裴行儉討之。行儉請毋發兵,可以計取。即詔行儉冊送波斯王子,並安撫大食,若道兩蕃者。都支果不疑,率子弟止謁,遂禽之,召執諸部渠長,降別帥李遮匐以歸,調露元年也。西姓自是益衰,其後二部人日離散。遂擢彌射子元慶為左玉鈐衛將軍,步真子步利設斛瑟羅為右玉鈐衛將軍,盡襲父所領及可汗號。元慶累拜鎮國大將軍、行左威衛大將軍。武後擅命,率諸蕃長請賜睿宗氏曰武,更號斛瑟羅曰竭忠事主可汗。長壽中,元慶坐謁皇嗣,為來俊臣所誣,要斬,流其子獻於振州。

その明年、西突厥部阿史那俀子を立てて可汗と為し、吐蕃と寇す。武威道大総管王孝傑これと冷泉・大領谷に戦い、これを破る。碎葉鎮守使韓思忠又た泥熟俟斤及び突厥施質汗・胡祿等を破り、因りて吐蕃の泥熟沒斯城を抜く。聖暦二年、斛瑟羅を左衛大将軍兼平西軍大総管と為し、令して国人を撫鎮せしむ。是の時烏質勒兵甚だ張り、斛瑟羅帰るを敢えず、その部人六七万と内遷し、長安に死す。子懷道を擢て右武衛将軍と為す。

原文其明年,西突厥部立阿史那俀子為可汗,與吐蕃寇,武威道大總管王孝傑與戰冷泉、大領谷,破之;碎葉鎮守使韓思忠又破泥熟俟斤及突厥施質汗、胡祿等,因拔吐蕃泥熟沒斯城。聖歷二年,以斛瑟羅為左衛大將軍兼平西軍大總管,令撫鎮國人。是時烏質勒兵張甚,斛瑟羅不敢歸,與其部人六七萬內遷,死長安,擢子懷道為右武衛將軍。

長安年間(701-704年)、阿史那獻を右驍衛大將軍に任じ、興昔亡可汗を襲封させ、安撫招慰十姓大使・北庭大都護を兼ねさせた。四年(704年)、阿史那懷道を十姓可汗に封じ、濛池都護を兼ねさせた。間もなく、阿史那獻を磧西節度使に抜擢した。十姓部落の都擔が叛くと、阿史那獻はこれを撃ち斬り、その首を闕下に伝え、碎葉以西の帳落三万を収めて内属させ、璽書をもって慰労を嘉した。葛邏祿・胡屋・鼠尼施の三姓は既に内属していたが、默啜に侵掠されたため、阿史那獻を定遠道大總管とし、北庭都護の湯嘉惠らと掎角の勢いを成させた。この時、突騎施はひそかに辺境の隙を狙っていたので、阿史那獻は増兵を乞い、自ら入朝しようとしたが、玄宗は許さなかった。詔して左武衛中郎將の王惠に節を持たせて安撫させた。ちょうど突騎施の都督車鼻施啜蘇祿を順國公に冊封しようとしたところ、突騎施は既に撥換・大石城を包囲し、四鎮を取らんとしていた。折しも湯嘉惠が安西副大都護に任ぜられ、直ちに三姓葛邏祿の兵を発して阿史那獻と共にこれを撃った。帝は王惠に詔してこれと共に経略させようとしたが、宰相の臣(宋)璟・臣(蘇)颋が言うには、「突騎施が叛き、葛邏祿がこれを攻めるのは、夷狄が自ら相い残すものであり、朝廷が出兵することではない。大なる者は傷つき、小なる者は滅び、皆わが利となる。今、王惠が往きて撫慰しようとしているところに、兵事を交えてはならない」と。そこで止めた。阿史那獻は結局、娑葛の強暴を制することができず、やはり長安に帰って死んだ。

原文長安中,以阿史那獻為右驍衛大將軍,襲興昔亡可汗、安撫招慰十姓大使、北庭大都護。四年,以懷道為十姓可汗兼濛池都護。未幾,擢獻磧西節度使。十姓部落都擔叛,獻擊斬之,傳首闕下,收碎葉以西帳落三萬內屬,璽書嘉慰。葛邏祿、胡屋、鼠尼施三姓已內屬,為默啜侵掠,以獻為定遠道大總管,與北庭都護湯嘉惠等掎角。於是突騎施陰幸邊隙,故獻乞益師,身入朝,玄宗不許。詔左武衛中郎將王惠持節安慰。方冊拜突騎施都督車鼻施啜蘇祿為順國公,而突騎施已圍撥換、大石城,將取四鎮。會嘉惠拜安西副大都護,即發三姓葛邏祿兵與獻共擊之。帝將詔王惠與相經略,宰相臣璟、臣颋曰:「突騎施叛,葛邏祿攻之,此夷狄自相殘,非朝廷出也。大者傷,小者滅,皆我之利。方王惠往撫慰,不可參以兵事。」乃止。獻終以娑葛強狠不能制,亦歸死長安。

突騎施の吐火仙が敗れた後、初めて阿史那懷道の子の昕を十姓可汗・開府儀同三司・濛池都護とし、その妻の涼國夫人李氏を交河公主に冊封し、兵を遣わして護送した。阿史那昕が碎葉西の俱蘭城に至ると、突騎施の莫賀達幹に殺され、交河公主とその子の忠孝は逃れて帰還し、忠孝は左領軍衛員外將軍に任ぜられ、西突厥はここに滅亡した。

原文突騎施吐火仙之敗,始以懷道子昕為十姓可汗、開府儀同三司、濛池都護,冊其妻涼國夫人李為交河公主,遣兵護送。昕至碎葉西俱蘭城,為突騎施莫賀達幹所殺,交河公主與其子忠孝亡歸,授左領軍衛員外將軍,西突厥遂亡。

突騎施の烏質勒

原文突騎施烏質勒

聖暦二年(699年)、子の遮弩を遣わして来朝させると、武后は手厚く慰撫を加えた。神龍年間(705-707年)、懐徳郡王に封ぜられた。この年、烏質勒が死ぬと、その子で嗢鹿州都督の娑葛が左驍衛大將軍に任ぜられ、爵位を襲封した。この時、勝兵三十万を擁し、詔して十姓可汗阿史那懷道に節を持たせて冊命し、宮人四人を賜った。景龍年間(707-710年)、使者を遣わして入謝すると、中宗は前殿に御し、万騎・羽林の二つの仗を列ね、引見して労い賜物を与えた。間もなく、その将の厥啜忠節と怨みを交わし、互いに兵を加えて暴行した。娑葛は忠節の罪を訴え、これを京師に入れるよう請うた。忠節は千金を以て宰相の宗楚客らに賄賂し、入朝させないことを願い、吐蕃を導いて娑葛を撃ち、報復するよう請うた。楚客がちょうど国政を専断していたので、直ちに御史中丞の馮嘉賓に節を持たせて経略させた。嘉賓と忠節が書簡をやり取りしていると、娑葛の斥候がこれを得たので、遂に嘉賓を殺し、弟の遮弩に兵を率いさせて塞を侵犯させた。安西都護の牛師奨が火焼城でこれと戦ったが、師奨は敗れ、戦死し、娑葛は上表して楚客の首を求め、これを示衆にしようとした。大都護の郭元振が上表して娑葛の状は理に適っているとし、赦されるべきであると述べると、詔してこれを許し、西方の地は遂に平定した。

原文聖歷二年,遣子遮弩來朝,武後厚加慰撫。神龍中,封懷德郡王。是歲,烏質勒死,其子嗢鹿州都督娑葛為左驍衛大將軍,襲封爵。是時勝兵三十萬,詔十姓可汗阿史那懷道持節冊命,賜宮人四。景龍中,遣使者入謝,中宗為禦前殿,列萬騎羽林二仗,引見勞賜。俄與其將厥啜忠節交怨,兵相加暴。娑葛訟忠節罪,請內之京師。忠節以千金賂宰相宗楚客等,願無入朝,請導吐蕃擊娑葛以報。楚客方專國,即以御史中丞馮嘉賓持節經制。嘉賓與忠節書疏反復,娑葛邏得之,遂殺嘉賓,使弟遮弩率兵盜塞。安西都護牛師獎與戰火燒城,師獎敗,死之,表索楚客頭以徇。大都護郭元振表娑葛狀直,當見赦,詔許,西土遂定。

その後、遮弩とその部を分治したが、遮弩は自分の配下が少ないことを恨み、默啜に叛いて帰順し、嚮導となって兄を反撃するよう請うた。默啜は遮弩を留め置き、自ら兵二万を率いて娑葛を撃ち、これを捕らえた。默啜は帰って遮弩に言うには、「汝兄弟は互いに協力せず、どうして心を尽くして我に仕えることができようか」と。二人を殺した。

原文既而與遮弩分治其部,遮弩恨眾少,叛歸默啜,請為鄉導反攻其兄。默啜留遮弩,自以兵二萬擊娑葛,禽之。默啜歸語遮弩曰:「汝兄弟不相協,能盡心事我乎?」兩殺之。

突騎施の別種である車鼻施啜蘇祿は、余った衆をかき集め、自ら可汗となった。蘇祿はその配下をよく撫循し、部族は次第にまとまり、衆は二十万に至り、ここに再び西域に雄飛した。開元五年(717年)、初めて来朝し、右武衛大將軍・突騎施都督を授けられたが、献上物は受け取らなかった。武衛中郎將の王惠に節を持たせ、蘇祿を左羽林大將軍・順國公に拝し、錦袍・鈿帯・魚袋七事を賜い、金方道経略大使とした。しかし、詭弁で狡猾であり、唐に対して純粋な臣下ではなく、天子はこれを羈縻し、忠順可汗の号を進めた。その後、一、二年ごとに使者が貢ぎ物を納め、帝は阿史那懷道の娘を交河公主として彼に娶わせた。この年、突騎施が安西で馬を売り、使者が都護の杜暹に公主の教え(書状)を届けたところ、杜暹は怒って言うには、「阿史那の娘が敢えて教えを宣べるのか」と。その使者を笞打ち、返答しなかった。蘇祿は怒り、ひそかに吐蕃と結んで兵を挙げ、四鎮を掠め、安西城を包囲した。杜暹はちょうど入朝して国政を執っており、趙頤貞が代わって都護となっていたが、城に乗り込んで長く守り、出戦したがまた敗れた。蘇祿は人畜を略奪し、倉庫を開いて蓄えを発したが、徐々に杜暹が既に宰相となったと聞き、兵を引いて去った。直ちに首領の葉支阿布思を遣わして来朝させると、玄宗は召見し、饗応した。折しも東突厥の使者も来ており、席次の上下を争って言うには、「突騎施は国が小さく、かつて突厥の臣下であったから、上座に着くべきではない」と。蘇祿の使者は言うには、「宴は我がために設けられたものであり、下座には着けない」と。そこで東西に幄を設け、蘇祿の使者を西席に着かせ、ようやく宴を行うことができた。

原文突騎施別種車鼻施啜蘇祿者,裒拾餘眾,自為可汗。蘇祿善撫循其下,部種稍合,眾至二十萬,於是復雄西域。開元五年,始來朝,授右武衛大將軍、突騎施都督,卻所獻不受。以武衛中郎將王惠持節拜蘇祿左羽林大將軍、順國公,賜錦袍、鈿帶、魚袋七事,為金方道經略大使。然詭猾,不純臣於唐,天子羈系之,進號忠順可汗。其後閱一二歲,使者納贄,帝以阿史那懷道女為交河公主妻之。是歲,突騎施鬻馬於安西,使者致公主教於都護杜暹,暹怒曰:「阿史那女敢宣教邪?」笞其使,不報。蘇祿怒,陰結吐蕃舉兵掠四鎮,圍安西城。暹方入當國,而趙頤貞代為都護,乘城久之,出戰又敗。蘇祿略人畜,發囷貯,徐聞暹已宰相,乃引去;即遣首領葉支阿布思來朝,玄宗召見,饗之。會東突厥使者亦來,與爭長曰:「突騎施國小,且突厥臣,不宜居上。」蘇祿使者曰:「宴乃為我,不可下。」遂設東西幄,而蘇祿使者西席,乃克宴。

初め、蘇祿はその民を愛し治め、性格は勤勉で倹約家であり、戦いで得るものがあれば全て配下に与えたので、諸族はこれに附き喜び、力を尽くした。また、吐蕃・突厥と通交し、二国とも娘を娶わせたので、遂に三国の娘を並べて可敦とし、数人の子を葉護とした。費用は日増しに広がり、平素の蓄えがなく、晩年は貧窮して生活に困り、故に鹵獲したものを少しずつ留めて分け与えず、配下は初めて離反の心を抱いた。また、中風を患い、片足が攣り、政務を執らなかった。そこで大首領の莫賀達幹・都摩支の二部が盛んとなり、種人は自ら娑葛の後裔を「黄姓」、蘇祿の部を「黒姓」と称し、互いに猜疑し仇視するようになった。

原文始,蘇祿愛治其人,性勤約,每戰有所得,盡以予下,故諸族附悅之,為盡力,又交通吐蕃、突厥,二國皆以女妻之,遂立三國女並為可敦,以數子為葉護。費日廣而無素儲,晚年愁窶不聊,故鹵獲稍留不分,下始貳矣;又病風,一支攣,不事事。於是大首領莫賀達幹、都摩支二部方盛,而種人自謂娑葛後者為「黃姓」,蘇祿部為「黑姓」,更相猜讎。

間もなく、莫賀達幹と都摩支が夜襲して蘇祿を攻め、これを殺した。都摩支はまた達幹に背き、蘇祿の子の吐火仙骨啜を立てて可汗とし、碎葉城に居らせ、黒姓可汗の爾微特勒を引き入れて怛邏斯城を守らせ、共に達幹を撃った。帝は磧西節度使の蓋嘉運を遣わして、突騎施・抜汗那など西方諸国を和撫させた。莫賀達幹は蓋嘉運と共に石国の王莫賀咄吐屯・史国の王斯謹提を率いて蘇祿の子を共に撃ち、これを碎葉城で破った。吐火仙は旗を棄てて逃走したが、これを捕らえ、その弟の葉護頓阿波も捕らえた。疏勒鎮守使の夫蒙霊詧が精鋭の兵を率いて抜汗那王と共に怛邏斯城を急襲し、黒姓可汗とその弟の撥斯を斬り、曳建城に入り、交河公主および蘇祿可敦・爾微可敦を収めて還り、また西方諸国の散亡した数万人をかき集め、全て抜汗那王に与えた。諸国は皆降伏した。処木昆の匐延闕律啜ら諸部は皆上書して謝し言うには、「荒遠の地に生まれ、国は乱れ王は薨じ、互いに攻め屠り合いました。天子が蓋嘉運を遣わし兵を将いて暴を誅し危を拯ってくださったことに頼り、願わくば聖顔に稽首し、部落を率いて安西に附き、永く外臣となりたい」と。これを許した。翌年、闕律啜を右驍衛大將軍に抜擢し、石王を順義王に冊封し、史王を特進に加拝して、その功を顕著に報いた。蓋嘉運は吐火仙骨啜を捕虜として太廟に献じ、天子はこれを赦して左金吾衛員外大將軍・脩義王とし、頓阿波を右武衛員外將軍とした。阿史那懷道の子の昕を十姓可汗とし、突騎施の管轄する部を領させると、莫賀達幹は怒って言うには、「蘇祿を平定したのは、我が功である。今、昕を立てるとは、どういうことか」と。直ちに諸落を誘って叛いた。詔して蓋嘉運に招諭させると、遂に妻子及び纛官の首領を率いて降伏し、命じてその衆を統率させた。数年後、再び阿史那昕を可汗とし、兵を遣わして護送した。阿史那昕が俱闌城に至ると、莫賀咄に殺された。莫賀咄は自ら可汗となったが、安西節度使の夫蒙霊詧がこれを誅殺し、大纛官の都摩支闕頡斤を三姓葉護とした。

原文俄而莫賀達幹、都摩支夜攻蘇祿,殺之。都摩支又背達幹立蘇祿子吐火仙骨啜為可汗,居碎葉城,引黑姓可汗爾微特勒保怛邏斯城,共擊達幹。帝使磧西節度使蓋嘉運和撫突騎施、拔汗那西方諸國。莫賀達幹與嘉運率石王莫賀咄吐屯、史王斯謹提共擊蘇祿子,破之碎葉城。吐火仙棄旗走,禽之,並其弟葉護頓阿波。疏勒鎮守使夫蒙靈詧挾銳兵與拔汗那王掩怛邏斯城,斬黑姓可汗與其弟撥斯,入曳建城,收交河公主及蘇祿可敦、爾微可敦而還,又料西國散亡數萬人,悉與拔汗那王。諸國皆降。處木昆匐延闕律啜等諸部皆上書謝曰:「生於荒裔,國亂王薨,更相攻屠。賴天子遣嘉運將兵誅暴拯危,願得稽首聖顏,以部落附安西,永為外臣。」許之。明年,擢闕律啜為右驍衛大將軍,冊石王為順義王,加拜史王為特進,顯酬其功。嘉運俘吐火仙骨啜獻太廟,天子赦以為左金吾衛員外大將軍、脩義王,頓阿波為右武衛員外將軍。以阿史那懷道子昕為十姓可汗,領突騎施所部,莫賀達幹怒曰:「平蘇祿,我功也。今立昕,謂何?」即誘諸落叛。詔嘉運招諭,乃率妻子及纛官首領降,遂命統其眾。後數年,復以昕為可汗,遣兵護送。昕至俱闌城,為莫賀咄所殺。莫賀咄自為可汗,安西節度使夫蒙靈詧誅斬之,以大纛官都摩支闕頡斤為三姓葉護。

天宝元年(742年)、突騎施部はさらに黒姓の伊裏底蜜施骨咄禄毗伽を可汗とし、しばしば使者を通じて貢献した。十二載(753年)、黒姓部は登裏伊羅蜜施を立てて可汗とし、これにも詔冊を賜った。

原文天寶元年,突騎施部更以黑姓伊裏底蜜施骨咄祿毗伽為可汗,數通使貢。十二載,黑姓部立登裏伊羅蜜施為可汗,亦賜詔冊。

至徳の後、突騎施は衰え、黄姓・黒姓ともに可汗を立てて相攻い、中国は方々に事変多く、治める暇もなかった。乾元中、黒姓可汗阿多裴羅はなお使者を遣わして入朝することができた。大暦の後、葛邏祿が盛んとなり、碎葉川に移り住み、二姓は衰微し、ついに葛邏祿に臣役し、斛瑟羅の余部は回鶻に附した。その破滅に及び、特厖勒という者が焉耆城に居り、葉護と称し、余部は金莎領を保ち、その衆二十万に至った。

原文至德後,突騎施衰,黃、黑姓皆立可汗相攻,中國方多故,不暇治也。乾元中,黑姓可汗阿多裴羅猶能遣使者入朝。大歷後,葛邏祿盛,徙居碎葉川,二姓微,至臣役於葛祿,斛瑟羅餘部附回鶻。及其破滅,有特厖勒居焉耆城,稱葉護,餘部保金莎領,眾至二十萬。

賛して曰く、隋の末世、内を虚しくして外を攻め、生ける者は道路に罷み、死する者は原野に暴かれ、天下の盗賊共に攻めてこれを亡ぼす。この時に当たり、四夷侵し、中国微にして、而して突厥最も強く、控弦する者百万と号し、華人の失職不逞なる者皆これに従い、その謀を槊し、これを導いて辺に入らしむ。故に頡利自ら強大なること古に無しと為す。高祖初めに即位し、和し、因って数たび軍を出して賊を討つを助けし故、詭りてこれに臣し、贈予計るべからず。虜は利を見て動き、又賊と連和し、吏民を殺掠す。ここに於いて国を掃して入寇し、渭橋に薄し、騎壒京師を蒙う。太宗身を勒して兵し、顕に責めて陰にこれを間す。戎始めて内に阻まる。三年ならずして、頡利を縛り北闕下に献ず。霆掃し風除くが如く、その国遂に墟と為る。『詩』『書』以来、暴を伐ち乱を取る、帝の神且つ速きに如くは蔑し。秦漢これを比す、陋なり。然れども帝数たび師を暴して労を告げず、敵を料るに遁情無く、将を任ずるに善く、必ずその功を成す。蓋し黄帝の兵なり。而して突厥乃ち失徳を以て有道に抗し、衰え浸くは興り始むるに当たり。運の盛衰天に属すと雖も、その亡ぶるや信に由有り。

原文贊曰:隋季世,虛內以攻外,生者罷道路,死者暴原野,天下盜賊共攻而亡之。當此時,四夷侵,中國微,而突厥最強,控弦者號百萬,華人之失職不逞皆往從之,槊之謀,導之入邊,故頡利自以為強大古無有也。高祖初即位,與和,因數出軍助討賊,故詭臣之,贈予不可計。虜見利而動,又與賊連和,殺掠吏民,於是掃國入寇,薄渭橋,騎壒蒙京師。太宗身勒兵,顯責而陰間之,戎始內阻。不三年,縛頡利獻北闕下,霆掃風除,其國遂墟。自《詩》、《書》以來,伐暴取亂,蔑如帝神且速也,秦漢比之,陋矣。然帝數暴師不告勞,料敵無遁情,善任將,必其功,蓋黃帝之兵也。而突厥乃以失德抗有道,浸衰當始興,雖運之盛衰屬於天,而其亡信有由矣!