毗伽可汗
默棘連は降胡を得てより、南に塞を盗まんと欲す。暾欲谷曰く、「不可なり。天子は英武にして、人和し歳豊なり。間隙なし。且つ我が兵は新たに集まる。動くべからず」と。默棘連また都を城し、仏・老の廟を起さんと欲す。暾欲谷曰く、「突厥の衆は唐の百分の一に敵せず。能く抗する所以は、水草に随ひ射獵し、居処常ならず、武事に習ひ、強ければ進取し、弱ければ遁伏するにあり。唐兵は多しと雖も、用ふる所なし。若し城して居らば、戦ひ一たび敗れなば、必ず彼の禽と為らん。且つ仏・老の教は人を仁弱ならしむ。武強の術に非ず」と。默棘連その策に当たり、即ち使者を遣はして和を請ふ。帝は情なしと以て、答へて許さず。俄に詔を下して之を伐たんとし、乃ち拔悉蜜の右驍衛大將軍金山道總管處木昆執米啜・堅昆都督右武衛大將軍骨篤祿毗伽可汗・契丹都督李失活・奚都督李大酺・突厥默啜の子左賢王墨特勒・左威衛將軍右賢王阿史那毗伽特勒・燕山郡王火拔石失畢等の蕃漢の士を悉く發し、凡そ三十萬、御史大夫・朔方道大總管王晙を以て之を統べ、八年の秋に稽落水上に並び集まるを期し、拔悉蜜・奚・契丹をして分道して其の牙を掩はしめ、默棘連を捕へしむ。默棘連大いに恐る。暾欲谷曰く、「拔悉蜜は北庭に在り、二蕃と相去ること遠し。必ず合せず。晙と張嘉貞は隙あり。必ず相ひ執り異ならん。亦た必ず来たる能はざらん。即ち皆能く来たるとも、我れ前三日に当たり衆を悉くして北に徙らば、彼糧竭きて自ら去らん。拔悉蜜は軽くして利を好む。当に先づ至らん。之を撃てば取る可し」と。俄にして拔悉蜜果たして衆を引きて突厥の牙に逼る。晙等の至らざるを知り、乃ち引き却く。突厥之を撃たんと欲す。暾欲谷曰く、「兵千里を遠出し、士殊死に闘へば、鋒当つべからず。之に躡ひ、近きを邀へて之を取るに如かず」と。北庭より二百里を距りて、乃ち兵を分かちて他の道より其の城を襲ひ抜き、即ち急に拔悉蜜を撃つ。衆走りて北庭に趨るも、帰する所なく、悉く之を禽す。還りて赤亭を出で、涼州を掠む。都督楊敬述、官屬盧公利・元澄等をして兵を勒して討捕せしむ。暾欲谷曰く、「敬述若し城守せば、当に和すべし。兵出でなば、吾れ且つ決戦し、必ず功有らん」と。澄軍に令して曰く、「臂を裸にして満を持ち外に註せ」と。会ふに大寒膚を裂き、士手を以て弓矢を張ること能はず。是に由りて大敗し、元澄走る。敬述坐して白衣を以て涼州事を檢校す。突厥遂に大いに振ひ、默啜の余衆を尽く有つ。
明年、固く和を乞ひ、父事して天子と為らんことを請ふ。之を許す。又た連歳使者を遣はし方物を献じ婚を求む。是の時、天子東に泰山を巡る。中書令張説、益々屯して以て突厥に備へんことを謀る。兵部郎中裴光庭曰く、「封禪は以て成功を告ぐ。若し復た調發せば、成功と謂ふべからず」と。説曰く、「突厥は和を請ふと雖も、信を以て結ぶこと難し。且つ其の可汗は仁にして人を愛し、下之を用ふ。闕特勒は戦に善くし、暾欲谷は沈雄にして、愈老いて智愈し。李靖・世勣の流なり。三虜方に協ひ、我が国を挙げて東巡するを知り、間隙に乗ずること有らば、何を以て之を禦がん」と。光庭即ち請ふて使を以て其の大臣を召し入衛せしむ。乃ち鴻臚卿袁振を遣はして往き帝意を諭せしむ。默棘連酒を置き、可敦・闕特勒・暾欲谷と帳中に坐し、振に謂ひて曰く、「吐蕃は犬の出なり。唐之と為に昏す。奚・契丹は我が奴にして役するなり。亦た主を尚ぶ。独り突厥は前後請ふも、許さず。何ぞ云はん」と。振曰く、「可汗は天子の子なり。子にして昏せば、可ならんや」と。默棘連曰く、「然らず。二蕃は皆姓を賜はりて、主を尚ぶことを得たり。何ぞ不可と云はんや。且つ公主も亦た帝の女に非ず。我敢へて択ぶ所有らず。但だ屡請ふも得ざれば、諸国の笑ひと為らん」と。振請ふを許す。默棘連大臣阿史德頡利發を遣はし入献せしめ、遂に封禪に従ふ。詔有りて四夷諸酋皆仗に入り弓矢を佩かしむ。会ふに兔帝の馬前に起る。帝一發して之を斃す。頡利發兔を奉り頓首して賀して曰く、「陛下の神武超絶すること、若し天上に在らば則ち臣知らず、人間には有ること無し」と。詔問ふて曰く、「饑えて食を欲するか」と。対へて曰く、「弧矢の威を仰ぎ観れば、十日食せずと雖も猶ほ飽くが如し」と。因りて仗内に馳射せしむ。封に扈ひ畢りて、厚く宴賜して之を遣す。然れども卒に和親を許さず。
是より比年大臣を遣はし入朝す。吐蕃書を以て約し連和して辺を鈔せんとす。默棘連敢へて従はず、其の書を封じて上る。天子之を嘉し、使者梅録啜を引きて紫宸殿に宴す。詔して朔方西受降城に互市を許し、歳に帛数十萬を賜ふ。十九年、闕特勒死す。金吾將軍張去逸・都官郎中呂向をして璽詔を奉りて吊祭せしむ。帝為に碑に刻辞し、仍ひ廟像を立て、四垣に戦陣の状を図す。詔して高手工六人を往かしめ、繪寫精肖なり。其の国未だ嘗て有らざるが如し。默棘連之を視て、必ず悲梗せん。
默棘連婚を請ふこと既に勤し。帝許可す。是に於て哥解栗必を遣はして来り謝し、婚期を請はしむ。俄に梅録啜に毒せられ、死を忍びて梅録啜を殺し、其の種を夷し、乃ち卒す。帝為に哀を發し、詔して宗正卿李佺をして吊祭せしめ、因りて廟を立て、詔して史官李融に其の碑を文ならしむ。国人共に其の子を立てて伊然可汗と為す。
伊然可汗立ちて八年、卒す。凡そ使者を三たび入朝せしむ。其の弟嗣ぎ立ち、是を星伽骨咄祿可汗と為す。右金吾衛將軍李質をして冊を持ち登利可汗と為さしむ。明年、使者伊難如を遣はし正月を朝し、方物を献じ、曰く「礼天可汗は天を礼するが如し。今新歳月を献ず。願くは万寿を以て天子に献ぜん」と云ふ。可汗幼し。其の母婆匐小臣飫斯達幹と乱し、遂に政に預かる。諸部協はず。登利の従父東西の兵を分掌し、左右殺と号し、士の精勁なるもの皆属す。可汗と母西殺を誘ひ斬り、其の兵を奪ふ。左殺懼れ、即ち登利可汗を攻め、之を殺す。
左殺は、判闕特勒なり。遂に毗伽可汗の子を立てるも、俄に骨咄葉護に殺され、其の弟を立つるも、旋にして又之を殺す。葉護乃ち自ら可汗と為る。天宝初め、其の大部回紇・葛邏祿・拔悉蜜並び起りて葉護を攻め、之を殺し、拔悉蜜の長を尊びて頡跌伊施可汗と為す。是に於て回紇・葛邏祿自ら左右葉護と為り、亦た使者を遣はして来り告ぐ。国人判闕特勒の子を奉りて烏蘇米施可汗と為し、其の子葛臘哆を以て西殺と為す。帝使者をして諭し内附せしむるを令す。烏蘇聴かず。其の下与せず。拔悉蜜等三部共に烏蘇米施を攻む。米施遁亡す。其の西葉護阿布思及び葛臘哆五千帳を率ひて降る。葛臘哆を以て懷恩王と為す。
三載、抜悉蜜らが烏蘇米施を殺し、その首を京師に伝え、太廟に献じた。その弟の白眉特勒鶻隴匐が立ち、これが白眉可汗となった。ここにおいて突厥は大いに乱れ、国人は抜悉蜜の酋長を推して可汗とし、詔して朔方節度使王忠嗣に兵を以てその乱に乗じ、薩河内山に至り、その左の阿波達幹十一部を撃ち、これを破った。ただその右部は未だ下らず、而して回紇・葛邏祿が抜悉蜜可汗を殺し、回紇の骨力裴羅を奉じてその国を定め、これが骨咄禄毘伽闕可汗となった。明年、白眉可汗を殺し、その首を伝えて献じた。毘伽可汗の妻骨咄禄婆匐可敦は衆を率いて自ら帰順し、天子は花萼楼にて群臣を宴し、詩を賦してその事を美しめ、可敦を賓国夫人に封じ、歳ごとに粉直二十万を給した。
初め突厥は後魏の大統年間に国を建て、ここに至って滅んだ。後に或いは朝貢するも、皆旧部の九姓という。その地は尽く回紇に入る。初めその族が西に分かれて国をなした者を、西突厥という。
西突厥
西突厥、その先祖は訥都陸の孫の吐務、大葉護と号す。長子曰く土門伊利可汗、次子曰く室点蜜、亦た瑟帝米と曰う。瑟帝米の子曰く達頭可汗、亦た歩迦可汗と曰う。初め東突厥と烏孫の故地を分かちてこれを有ち、東は即ち突厥、西は雷翥海、南は疏勒、北は瀚海、京師の北七千里に直し、焉耆より西北へ七日行きて南庭を得、北へ八日行きて北庭を得、都陸・弩失畢・歌邏禄・処月・処蜜・伊吾諸種と雑居す。その風俗は大抵突厥に同じく、言語少しく異なる。
初め、東突厥の木桿可汗死に、その子大邏便を捨て、弟の佗缽可汗を立てた。佗缽死に、先に令してその子庵羅に必ず大邏便を立てしむと戒めたが、国人はその母賤しきを以て、肯って立たず、而して遂に庵羅を立てた。庵羅は後に木桿の兄の子摂図に譲り、これが沙鉢略可汗となった。而して大邏便は別に阿波可汗となり、自らその部に臣し、沙鉢略これを襲撃し、その母を殺し、阿波は西に走って達頭に至った。この時に当たり、達頭は西面可汗たり、即ち阿波に兵十万を授け、東突厥と戦わしめた。而して阿波は竟に沙鉢略に禽えられた。啓民可汗の時に及び、達頭可汗は歳ごとに兵を以て相加え、而して隋は常に啓民を助けた。故に達頭は敗れて吐谷渾に奔った。
初め、曷薩那が隋に朝した時、国人は皆欲せず、既に留められて遣わされず、乃ち共に達頭の孫を立て、射匱可汗と号した。廷を亀茲の北の三弥山に建て、玉門以西の諸国多く役属し、東突厥と亢す。射匱死に、その弟統葉護嗣ぎ、これが統葉護可汗となった。
統葉護可汗は勇にして謀あり、戦えば輒ち勝ち、因って鉄勒を併せ、波斯・罽賓を下し、控弦数十万、廷を石国の北の千泉に徙し、遂に西域諸国を覇し、悉くこれに頡利発を授け、而して一吐屯を命じて監統せしめ、以て賦入を督めしむ。明年、射匱使いを遣わして来たり、曷薩那に世の憾み有るを以て、これを殺すことを請う。帝許さず。群臣曰く、「一人を存すれば、一国を失い、後且つ患いとならん」と。秦王曰く、「然らず、人来りて我に帰す、我これを殺すは祥ならず」と。帝また聴かず。禁中に宴し、酒酣に至り、中書省に至り、使者をしてこれを戕えしむ。宣べず。射匱も亦た連年条支の巨卵・師子革等を貢ぎ、帝厚く撫結を申し、約して力を併せて東突厥を討たんとす。統葉護可汗期を請う。頡利大いに懼れ、乃ち和し、約して相伐たざらんとす。統葉護可汗来たりて昏を請う。帝群臣と謀りて曰く、「西突厥我より遠く、緩急杖るべからず、昏すべけんや」と。封徳彜曰く、「今の便を計るに、遠く交わりて近く攻むるに若かず、請う昏を聴きて以て北狄を怖しめ、我既に定まるを待ち、而して後にこれを図らん」と。帝乃ち昏を許し、詔して高平王道立をしてその国に至らしむ。統葉護可汗喜び、真珠統俟斤を遣わし道立と還り、万釘宝鈿金帯・馬五千匹を献じて以て約を藉とす。会うに東突厥歳ごとに辺を犯し、西道梗澀し、又た頡利遣わして謂いて曰く、「若し唐の公主を迎えんには、必ず我が道を仮らん、我且つこれを留めん」と。統葉護可汗これを病み、未だ昏を克さず。方にその強を負い、恩を以て下を結ばず、衆怨み、多く叛き去る。その諸父莫賀咄これを殺す。帝玉帛を賫しその国を焚祭せんと欲す。会うに乱あり、果たさずして至らず。
莫賀咄立ち、これが屈利俟毗可汗となり、使者を遣わして来たりて献ず。俟毗可汗初め突厥を分統して小可汗と為し、既に大可汗と称すも、国人附かず。弩失畢部自ら泥孰莫賀設を推して可汗と為す。泥孰辞して受けず。会うに統葉護可汗の子咥力特勒、莫賀咄の乱を避け、亡れて康居に在り、泥孰これを迎え立て、乙毗鉢羅肆葉護可汗と為し、俟毗可汗とその国を分かちて王たり、挐鬥解けず、各使いを遣わして朝献す。太宗追いて曷薩那の罪無くして死せるを憐れみ、上柱国を贈り、礼を具えて以て葬る。貞観四年、俟毗可汗昏を請う。許さず、詔して曰く、「突厥方に乱れ、君臣未だ定まらず、何ぞ遽かに昏せん。各その部を勅して相侵す毋からしめよ」と。ここにより西域諸国悉くこれに叛き、国大いに虚耗し、衆悉く肆葉護可汗に附く。俟毗の部も亦た稍々去り、共に兵を以て俟毗を撃つ。俟毗走りて金山に保つ。泥孰に殺され、肆葉護を奉じて大可汗と為す。
肆葉護既に立ち、即ち北に鉄勒・薛延陀を討つも、延陀に敗れらる。性猜愎にして、統下に狭し。小可汗乙利なる者、国に最も功有り。肆葉護讒を聴き、種を夷す。衆皆沮駭す。又た泥孰を忌み、陰にこれを殺さんと図る。泥孰亡れて焉耆に入る。未だ幾ばくもなく、没卑達幹と弩失畢部の諸豪謀りて執りて肆葉護を廃せんとす。葉護軽騎にて康居に走り、憂いて死す。国人泥孰を焉耆より迎え、これを立て、これが咄陸可汗となった。可汗の父莫賀設、本統葉護に隷す。武徳時に来朝し、太宗これと盟し、約して昆弟と為す。死して泥孰これに代わる。或いは伽那設と曰う。既に立ち、使いを闕に詣らしむ。敢えて可汗の号を当てず。帝詔して鴻臚少卿劉善因に節を持たしめ、号を吞阿婁拔利邲咄陸可汗と冊し、鼓纛・段彩巨万を賜う。泥孰使いを遣わして謝す。他日、太上皇使者を両儀殿に宴し、長孫無忌に謂いて曰く、「今蛮夷率服す、古にも亦た有るか」と。無忌千万歳の寿を上ぐ。太上皇喜び、酒を以て帝に属す。帝頓首して謝し、亦た觴を奉じて太上皇の寿を上ぐ。
咄陸可汗が死に、弟の同俄設が立ち、これが沙鉢羅咥利失可汗となった。唐は三度使者を遣わして方物を奉り、ついに婚姻を請うたが、帝は慰撫して許さなかった。可汗はその国を十部に分け、各部に一人を統べさせ、各人に一箭を授け、十設と号し、また十箭とも称した。左右に分け、右は五咄陸部、五大啜を置き、碎葉の東に居し、右は五弩失畢部、五大俟斤を置き、碎葉の西に居した。その下では一箭を一部落と称し、十姓部落と号した。しかし衆の悦服を得ず、その部の統吐屯が兵を率いて襲撃し、咥利失は左右を率いて戦い、統吐屯は勝てず去った。咥利失はその弟の歩利設とともに焉耆に奔った。阿悉吉闕俟斤と統吐屯は国人を召して謀り、欲谷設を大可汗に立て、咥利失を小可汗としようとした。ちょうど統吐屯が殺され、欲谷設もまたその俟斤に破られたので、咥利失はついに故地を回復した。後に西部はついに自立して欲谷設を乙毗咄陸可汗とし、咥利失と交戦し、殺傷数えきれず、そこで伊列河を境として諸部と約し、河以西は咄陸の令を受け、その東は咥利失が主とした。ここより西突厥はまた二国に分かれた。
咄陸可汗は廷を鏃曷山の西に建て、これを「北庭」と称し、駁馬、結骨などの諸国はことごとく附き臣従した。密かに咥利失部の吐屯俟列発とともに兵を率いて咥利失を攻めた。咥利失は援軍窮し、抜汗那に奔って死んだ。国人はその子を立て、これが乙屈利失乙毗可汗となったが、一年余りで死んだ。弩失畢の大酋が伽那設の子の畢賀咄葉護を迎えて立て、これが乙毗沙鉢羅葉護可汗となった。太宗は詔して左領軍将軍張大師に節を持たせ冊命し、鼓纛を賜い、廷を雖合水の北に建て、これを「南庭」と称した。東は伊列河に迫り、亀茲、鄯善、且末、吐火羅、焉耆、石、史、何、穆、康などの国はみな隷属した。この時咄陸の兵は次第に盛んとなり、沙鉢羅葉護と数度交戦した。ちょうど両可汗の使者がともに来朝したので、帝は敦睦を命じて各々兵を罷めさせたが、咄陸は肯んじて聴かず、石国の吐屯を遣わして葉護可汗を攻め殺し、その国を併せた。弩失畢は服さず、叛いて去った。咄陸はまた吐火羅を撃ち取ると、ついに伊州を寇した。安西都護郭孝恪は軽騎二千を率い、烏骨より狙撃し、これを破った。咄陸は処月、処蜜の兵をもって天山を囲んだが陥とせず、孝恪は敗走を追い、処月俟斤の城を抜き、遏索山に至り、千余級を斬り、処蜜部を降して帰還した。咄陸可汗は性狠傲で、使者の元孝友らを留めて返さず、妄りに言う、「我は唐天子が才武に優れると聞く。我今康居を討つ。爾らは我を見て天子と等しいと思うか」と。ついに共に康居を攻め、途中の米国を襲って破り、その人を捕虜とし、財貨や人口を取っても下に与えず、その将の泥孰啜は怒り、これを奪い取ったので、咄陸は斬って衆に示した。泥孰啜の将の胡禄屋が挙兵して咄陸可汗を襲い、多くの士卒を殺し、国は大乱し、吐火羅に帰って保たんとしたが、大臣が本国に戻るよう諫めても従わず、衆を率いて去り、葉水を渡り、石国に至った時、左右はほぼ尽き去り、可賀敦城を保った。自ら軽く出て叛亡者を招いたところ、阿悉吉闕俟斤が迎撃し、咄陸は敗れ、白水胡城を襲い取って居を定めた。弩失畢は咄陸が可汗となることを望まず、使者を闕下に遣わし、誰を立てるべきか請うた。帝は通事舎人温無隠に璽詔を持たせ、国の大臣とともに突厥可汗の子孫の賢者を選んで授けさせ、ついに乙屈利失乙毗可汗の子を立て、これが乙毗射匱可汗となった。
乙毗射匱が立つと、使者の館を改め、ことごとく長安に還し、弩失畢に将兵を率いさせて白水胡城を攻めさせた。咄陸は兵を率いて城より出て、鼓角を鳴らして薄く戦い、弩失畢は軍を成さず、殺獲甚だ多かった。咄陸はその勝に乗じて旧部を招き寄せたが、皆言う、「千人戦って一人生き残るとしても、我らはなお従わない」と。咄陸は衆の怨みを知り、吐火羅に走った。乙毗射匱は使者を遣わして方物を貢ぎ、かつ婚姻を請うた。帝は亀茲、於闐、疏勒、朱俱波、葱嶺の五国を割いて聘礼とするよう命じたが、婚姻は成らなかった。ここにおいて阿史那賀魯が反し、可汗の部落をことごとく得た。
賀魯
ちょうど帝が崩御すると、すぐに西州・庭州の二州を取らんと謀り、刺史の駱弘義がこれを聞かせた。高宗は通事舎人喬宝明を馳せ遣わして撫でしめ、ついでに賀魯にその子咥運を入れて宿衛させた。咥運は途中で悔い、勢いに迫られて去ることができず、右驍衛中郎将に拝された。帝が還すと、咥運はすぐに賀魯を勧めて西に引き、咄陸可汗の故地を取り、千泉に牙を建て、自ら沙鉢羅可汗と号し、ついに咄陸・弩失畢の十姓を統べた。咄陸には五啜あり、処木昆律啜、胡禄屋闕啜、摂舍提暾啜、突騎施賀邏施啜、鼠尼施処半啜という。弩失畢には五俟斤あり、阿悉結闕俟斤、哥舒闕俟斤、抜塞幹暾沙鉢俟斤、阿悉結泥孰俟斤、哥舒処半俟斤という。そして胡禄屋闕は賀魯の婿である。阿悉結闕俟斤が最も盛んで強く、勝兵数十万に至った。咥運を莫賀咄葉護とした。ついに庭州を寇し、数県を破り、数千人を殺掠して去った。詔して左武衛大将軍梁建方、右驍衛大将軍契何力を弓月道行軍総管とし、右驍衛将軍高徳逸、右武衛将軍薩孤呉仁を副とし、府兵三万を発し、回紇騎五万と合わせてこれを撃たせた。駱弘義が計を献じて言う、「中国を安んずるには信をもってし、夷狄を馭するには権をもってす。理に変通あり。賀魯は一城を保ち、寒さ厳しく積雪する折、唐兵は必ず来ないと思っている。この機に乗じて一挙にこれを滅すべきである。遷延して春に及べば、変が生じ、たとえ諸国を率連しなくとも、必ず遠く跡を絶って遁走するであろう。かつ兵は本来賀魯を誅するためであるが、処蜜、処木昆などもまた各々自ら免れようとしている。もし留まって進まなければ、彼らは賀魯と再び合するであろう。今は厳冬で風強く、兵は皸墳を苦しむが、また久しく留まって辺境の糧を費やし、賊に堅く党附し、死期を遠ざけることを得させてはならない。処月、処蜜などの罪を寛大にし、専ら賀魯を誅し、禍を除くには本を務め、先に枝葉を治めてはならない。射脾、処月、処蜜、契などの兵を発し、一月分の食糧を持たせ、急ぎこれを趨らせ、大軍は憑洛水の上に駐屯してその影助となすことを願う。これは戎狄を駆って豺狼を攻めしめるものである。かつ戎人は唐兵を羽翼と頼む。今、胡騎を前に出だし、唐兵を後に従わせれば、賀魯は窮するであろう」と。天子はその奏を然りとし、詔して弘義に建方らを佐けて経略させた。処月の朱邪孤註なる者が兵を率いて賊に附き、牢山に拠った。建方らがこれを攻めると、衆は潰え、五百里を追行し、孤註を斬り、首級九千を上げ、その帥六十人を虜にしたが、弘義の計った通りにはならなかった。
永徽四年、瑤池都督府を罷め、即ち処月に金満州を置いた。また左屯衛大将軍程知節を蔥山道行軍大総管として遣わし、諸将を率いて進討させた。この年、咄陸可汗が死に、その子の真珠葉護が賀魯を討って自ら効を請うたが、賀魯に拒まれて前進できなかった。明年、知節が歌邏禄、処月を撃ち、千級を斬り、馬万計を収めた。副将の周智度が処木昆城を撃ち、これを抜き、斬馘三万を上げた。前軍の蘇定方が鷹娑川において賀魯の別帳の鼠尼施を撃ち、斬首虜獲した馬は甚だ多く、賊は鎧仗を棄てて野に満ちた。ちょうど副総管の王文度が戦おうとせず、怛篤城を降し、その財を取ってこれを屠り、知節はこれを制することができなかった。
顕慶の初め、定方を伊麗道行軍大総管に抜擢し、燕然都護任雅相・副都護蕭嗣業・左驍衛大将軍瀚海都督回紇婆閏等を率いて窮討させた。詔して右屯衛大将軍阿史那彌射・左屯衛大将軍阿史那歩真を流沙道安撫大使とし、分かれて金山道より出で、俟斤嫩獨祿等万余帳を迎え降らしむ。定方精騎を以て曳咥河西に至り、処木昆を撃ちてこれを破る。賀魯十姓の兵十万騎を挙げて来り拒ぐ。定方万人を以てこれに当たる。虜兵少なるを見て、騎を以て唐軍を繞す。定方歩卒に命じて原に拠らしめ、槊を欑ねて外に註ぎ、自ら騎を以て北に陣す。賀魯先ず原上の軍を撃ち、三たび犯すも、軍動かず。定方騎を縦してこれに乗ず。虜大いに潰え、奔るを追うこと数十里、三万人を俘斬し、その大酋都搭達幹等二百人を殺す。明日北を躡い、五弩失畢皆降る。五咄陸賀魯の敗れたるを聞き、南道に趨りて歩真に降る。定方嗣業・婆閏に命じて邪羅斯川に趨り虜を追わしめ、任雅相降兵を提げて踵を後にする。会に大雪、軍中霽るを須うと請う。定方曰く「今晦風冽しく、虜我の師と為す能わざるを謂う。その不虞を掩うべし。緩なれば則ち遠し。日を省き功を兼ぬるは上策なり」と。ここに昼夜進み、過ぐる所の人畜を収め、双河に至り、彌射・歩真と会す。軍飽き気張り、賀魯の牙二百里に距る。陣して行き、金牙山に抵る。賀魯の衆適に獵す。定方の兵縱してその牙を破り、数万人を俘え、鼓纛器械を獲る。賀魯跳んで伊麗水を度る。嗣業千泉に次ぐ。彌射伊麗に至り、処月・処蜜諸部皆下る。双河に次ぐ。賀魯先に歩失達幹を以て柵に拠りて戦う。彌射これを攻め潰す。定方賀魯を追いて碎葉水に至り、その衆を尽く奪う。賀魯・咥運鼠耨設に奔らんとし、石国の蘇咄城に至る。馬進まず、衆饑う。宝を賫して城に入り、且つ馬を市わんとす。城主伊涅達幹これを迎う。既に入りて拘え石国に送る。会に彌射の子元爽と嗣業の兵至り、これを取る。乃ち諸部の兵を悉く散じ、道を開き駅を置き、露胔を収め、人の疾苦を問い、賀魯の掠めたる所を悉く民に還す。西域平ぐ。賀魯嗣業に謂いて曰く「我は亡虜なり。先帝我を厚くす。我は則ちこれに背く。今天怒罰を降す。尚何の道かあらん。且つ聞く、漢法は人を殺す必ず都市にすと。我願わくば昭陵に就き死し、先帝に謝罪せん」と。帝曰く「先帝賀魯に二千帳を賜いてこれを主とせしむ。今罪人既に得たり。昭陵に献ずること其れ可ならんや」と。許敬宗曰く「古者、軍凱還すれば則ち廟に飲至す。諸侯若しは、天子に馘を献ず。未だ陵に献ずるを聞かず。然れども陛下園寢を奉ずること宗廟と等し。行うべく疑うことなからん」と。ここに執して昭陵に献じ、誅せずして赦す。
賀魯既に滅び、その地を裂いて州県と為し、以て諸部を処す。木昆部を匐延都督府と為し、突騎施索葛莫賀部を嗢鹿都督府と為し、突騎施阿利施部を絜山都督府と為し、胡祿屋闕部を塩泊都督府と為し、摂舍提暾部を双河都督府と為し、鼠尼施処半部を鷹娑都督府と為し、又昆陵・濛池の二都護府を置きて以てこれを統ぶ。その役属する所の諸国皆州を置き、西は波斯に尽き、並びに安西都護府に隷す。阿史那彌射を興昔亡可汗と為し、驃騎大将軍・昆陵都護を兼ね、五咄陸部を領せしむ。阿史那歩真を継往絶可汗と為し、驃騎大将軍・濛池都護を兼ね、五弩失畢部を領せしむ。各帛十万を賜い、光禄卿盧承慶を以て冊命を持せしむ。賀魯死す。詔して頡利の冢の旁に葬り、その概を石に紀す。
阿史那彌射も亦た室点蜜可汗の五世孫、世々莫賀咄葉護と為る。貞観中、使者を遣わし節を持たしめて彌射を立てて奚利邲咄陸可汗と為し、鼓纛を賜う。族兄歩真彌射を謀殺し、自立せんと欲す。彌射国と為す能わず、即ち処月・処蜜等の部を挙げて入朝し、右監門衛大将軍に拝す。而して歩真遂に自ら咄陸葉護と為る。衆厭わず、これを去り、亦た族人と来朝し、左屯衛大将軍に拝す。彌射帝に従い高麗を征して功有り、平壤県伯に封ぜられ、右武衛大将軍に遷る。賀魯を平ぐるに及び、乃ち歩真と皆可汗と為り、その部の刺史以下を補うを得たり。是の歳、彌射双河にて真珠葉護を撃ち、これを斬り、闕啜二人を殺す。
長安年間(701-704年)、阿史那獻を右驍衛大將軍に任じ、興昔亡可汗を襲封させ、安撫招慰十姓大使・北庭大都護を兼ねさせた。四年(704年)、阿史那懷道を十姓可汗に封じ、濛池都護を兼ねさせた。間もなく、阿史那獻を磧西節度使に抜擢した。十姓部落の都擔が叛くと、阿史那獻はこれを撃ち斬り、その首を闕下に伝え、碎葉以西の帳落三万を収めて内属させ、璽書をもって慰労を嘉した。葛邏祿・胡屋・鼠尼施の三姓は既に内属していたが、默啜に侵掠されたため、阿史那獻を定遠道大總管とし、北庭都護の湯嘉惠らと掎角の勢いを成させた。この時、突騎施はひそかに辺境の隙を狙っていたので、阿史那獻は増兵を乞い、自ら入朝しようとしたが、玄宗は許さなかった。詔して左武衛中郎將の王惠に節を持たせて安撫させた。ちょうど突騎施の都督車鼻施啜蘇祿を順國公に冊封しようとしたところ、突騎施は既に撥換・大石城を包囲し、四鎮を取らんとしていた。折しも湯嘉惠が安西副大都護に任ぜられ、直ちに三姓葛邏祿の兵を発して阿史那獻と共にこれを撃った。帝は王惠に詔してこれと共に経略させようとしたが、宰相の臣(宋)璟・臣(蘇)颋が言うには、「突騎施が叛き、葛邏祿がこれを攻めるのは、夷狄が自ら相い残すものであり、朝廷が出兵することではない。大なる者は傷つき、小なる者は滅び、皆わが利となる。今、王惠が往きて撫慰しようとしているところに、兵事を交えてはならない」と。そこで止めた。阿史那獻は結局、娑葛の強暴を制することができず、やはり長安に帰って死んだ。
突騎施の吐火仙が敗れた後、初めて阿史那懷道の子の昕を十姓可汗・開府儀同三司・濛池都護とし、その妻の涼國夫人李氏を交河公主に冊封し、兵を遣わして護送した。阿史那昕が碎葉西の俱蘭城に至ると、突騎施の莫賀達幹に殺され、交河公主とその子の忠孝は逃れて帰還し、忠孝は左領軍衛員外將軍に任ぜられ、西突厥はここに滅亡した。
突騎施の烏質勒
その後、遮弩とその部を分治したが、遮弩は自分の配下が少ないことを恨み、默啜に叛いて帰順し、嚮導となって兄を反撃するよう請うた。默啜は遮弩を留め置き、自ら兵二万を率いて娑葛を撃ち、これを捕らえた。默啜は帰って遮弩に言うには、「汝兄弟は互いに協力せず、どうして心を尽くして我に仕えることができようか」と。二人を殺した。
初め、蘇祿はその民を愛し治め、性格は勤勉で倹約家であり、戦いで得るものがあれば全て配下に与えたので、諸族はこれに附き喜び、力を尽くした。また、吐蕃・突厥と通交し、二国とも娘を娶わせたので、遂に三国の娘を並べて可敦とし、数人の子を葉護とした。費用は日増しに広がり、平素の蓄えがなく、晩年は貧窮して生活に困り、故に鹵獲したものを少しずつ留めて分け与えず、配下は初めて離反の心を抱いた。また、中風を患い、片足が攣り、政務を執らなかった。そこで大首領の莫賀達幹・都摩支の二部が盛んとなり、種人は自ら娑葛の後裔を「黄姓」、蘇祿の部を「黒姓」と称し、互いに猜疑し仇視するようになった。
間もなく、莫賀達幹と都摩支が夜襲して蘇祿を攻め、これを殺した。都摩支はまた達幹に背き、蘇祿の子の吐火仙骨啜を立てて可汗とし、碎葉城に居らせ、黒姓可汗の爾微特勒を引き入れて怛邏斯城を守らせ、共に達幹を撃った。帝は磧西節度使の蓋嘉運を遣わして、突騎施・抜汗那など西方諸国を和撫させた。莫賀達幹は蓋嘉運と共に石国の王莫賀咄吐屯・史国の王斯謹提を率いて蘇祿の子を共に撃ち、これを碎葉城で破った。吐火仙は旗を棄てて逃走したが、これを捕らえ、その弟の葉護頓阿波も捕らえた。疏勒鎮守使の夫蒙霊詧が精鋭の兵を率いて抜汗那王と共に怛邏斯城を急襲し、黒姓可汗とその弟の撥斯を斬り、曳建城に入り、交河公主および蘇祿可敦・爾微可敦を収めて還り、また西方諸国の散亡した数万人をかき集め、全て抜汗那王に与えた。諸国は皆降伏した。処木昆の匐延闕律啜ら諸部は皆上書して謝し言うには、「荒遠の地に生まれ、国は乱れ王は薨じ、互いに攻め屠り合いました。天子が蓋嘉運を遣わし兵を将いて暴を誅し危を拯ってくださったことに頼り、願わくば聖顔に稽首し、部落を率いて安西に附き、永く外臣となりたい」と。これを許した。翌年、闕律啜を右驍衛大將軍に抜擢し、石王を順義王に冊封し、史王を特進に加拝して、その功を顕著に報いた。蓋嘉運は吐火仙骨啜を捕虜として太廟に献じ、天子はこれを赦して左金吾衛員外大將軍・脩義王とし、頓阿波を右武衛員外將軍とした。阿史那懷道の子の昕を十姓可汗とし、突騎施の管轄する部を領させると、莫賀達幹は怒って言うには、「蘇祿を平定したのは、我が功である。今、昕を立てるとは、どういうことか」と。直ちに諸落を誘って叛いた。詔して蓋嘉運に招諭させると、遂に妻子及び纛官の首領を率いて降伏し、命じてその衆を統率させた。数年後、再び阿史那昕を可汗とし、兵を遣わして護送した。阿史那昕が俱闌城に至ると、莫賀咄に殺された。莫賀咄は自ら可汗となったが、安西節度使の夫蒙霊詧がこれを誅殺し、大纛官の都摩支闕頡斤を三姓葉護とした。
至徳の後、突騎施は衰え、黄姓・黒姓ともに可汗を立てて相攻い、中国は方々に事変多く、治める暇もなかった。乾元中、黒姓可汗阿多裴羅はなお使者を遣わして入朝することができた。大暦の後、葛邏祿が盛んとなり、碎葉川に移り住み、二姓は衰微し、ついに葛邏祿に臣役し、斛瑟羅の余部は回鶻に附した。その破滅に及び、特厖勒という者が焉耆城に居り、葉護と称し、余部は金莎領を保ち、その衆二十万に至った。