李懷仙
李懷仙は柳城の胡なり。代々契丹に仕え、営州を守る。騎射に巧みで、智謀機略に敏速なり。祿山の反するや、裨将と為す。史思明河南を盗むに及び、次子朝清を留めて幽州を守らしめ、阿史那玉・高如震を以てこれを輔けしむ。朝義立つを殺し、檄を移して朝清を誅せんとす。二将乱れ、朝義は懐仙を以て幽州節度使と為し、兵を督して馳せ入らしむ。如震拒がんと欲すれど、計るに及ばず、乃ち出でて迎う。懐仙は外に寛容を示して士卒を安んじ、三日居て、大会を開き、如震を斬り、州部悉く平ぐ。朝義敗れ、将に范陽に趨らんとす。中人駱奉先間を遣わして鐫説せしむるに及び、懐仙遂に降り、其の将李抱忠をして兵三千を以て范陽を戍らしむ。朝義至るや、抱忠関を閉ざして内れず、乃ち縊死し、其の首を斬り、奉先に因りて以て献ず。仆固懐恩即時に表して懐仙を幽州盧龍節度使と為し、検校兵部尚書に遷し、武威郡王に封ず。時に懐恩反するに属し、辺羌挐戦解けず、朝廷方に西師に勤む。故に懐仙は田承嗣・薛嵩・張忠誌等と散亡を招き還し、城邑甲兵を治め、自ら文武の将吏を署し、貢賦を私し、天子制すること能わず。
朱滔
朱滔は性変詐にして端倪多し。希彩は同宗を以て之を倚愛し、帳下の親兵を主らしむ。泚節度を領し、滔を遣わして兵三千を将いて天子の為に西に塞に乗じ、諸軍の倡と為す。初め、安・史の後、山東は外臣順と雖も、実に傲肆にして廷せず。泚に至りて首めて款を効す。帝之を嘉し、殿中に滔を召し見る。帝問うて曰く「卿の材孰れか泚と多くする」と。滔曰く「士衆を統禦し、方略明辨なるは、臣泚に及ばず。臣年二十八、天子に謁することを獲たり。泚臣より五年長くして、未だ朝廷を識らず。此れ臣に及ばず」と。帝愈よ嘉し、特詔して兵を勒し王城を貫きて出でしめ、涇州に屯し、酒を置き開遠門にて之を餞る。戍り還りて、乃ち謀りて泚の兵を奪わんとし、詭説して曰く「天下の諸侯未だ朝する者無し。先ず至れば、以て天子の意を得べく、子孫安んず」と。泚之を信じ、因りて入朝す。稍々相平らかならず、泚遂に留まることを乞い、西して吐蕃を討つ。滔を以て権に留後を知らしめ、兼ねて御史大夫と為す。滔有功の者李瑗等二十余人を殺し、威軍中に振う。
李惟嶽命を拒ぐや、滔は成徳の張孝忠と再び之を束鹿に破り、深州を取り、進みて検校司徒と為り、遂に節度を領し、徳・棣二州を賜う。徳宗は康日知を深・趙二州団練使と為し、詔して滔に鎮に還らしむ。滔深州を失い、平らかならず、又た恒・定七州の賦を請うて軍に供せしむるも、復た許さず、愈よ怨む。時に馬燧田悅を囲み、悅窮す。間を滔と王武俊の同叛するに乗ず。滔の姑の子劉怦は涿州刺史たり、書を以て諫めて曰く「司徒身は節制を帯び、太尉位は宰相たり。恩遇極まりたり。今昌平に太尉郷・司徒里有り。不朽の業なり。忠順を以て自ら将と為す能わば、則ち済わざる無からん。上を忘れて戦を楽しみ、成敗を顧みざること安・史の如きは、今復た何か有らん。司徒之を図れ、悔いを貽す無かれ」と。滔従わず、兵を連ねて悅を救う。又た張孝忠の襲を懼れ、怦をして険に壁して軍せしむ。滔其の衆を激して曰く「士血を蹀して闘い、既に堅城を下すも、朝廷乃ち奪い見る。賞を奏するも報ぜず。君等疾く趨り、馬燧の軍を破りて以て貲糧を取らんこと、可ならんや」と。軍中応ぜず。三たび之を号す。乃ち曰く「幽人の南に死する者は、骸撐えて掩わず。痛み心髄に蔵る。奈何ぞ復た中野に暴骨せんと欲するや。司徒兄弟国寵を受け、士各官賞を蒙る。安んずるを願い、其の他を恤れず」と。滔罷み、潜かに乱を共にすべからざる者数十人を殺す。日知其の謀を燧に発す。天子聞き、悅未だ下らざるを以て、重ねて両寇を起こすを憚り、即時に滔を通義郡王に封じ、実封三百戸。
滔愈よ悖り、兵を分かち武俊と与に趙州に屯して日知を脅し、詔を矯りて其の糧貯を発し、即ち兵を引いて悅を救い、束鹿に次ぐ。軍大いに噪ぎて曰く「天子司徒に北還を令す。而るに南して魏を救う。寧ろ詔有らんや」と。滔懼れ、走りて伝舎に匿る。裨将蔡雄善く士を諭して曰く「初め天子成徳を取るを約し、得る所の州県は有功の者に賜う。深州を抜く者は燕なり。本鎮常に絲纊無きを苦しみ、深州を得て以て調率を佐けんことを冀う。今顧みるに得ず。又た天子帛を以て有功の士に賜うも、馬燧に掠め去らる。今南に引くは、自らの為に非ざるなり」と。軍中悔い謝し、復た曰く「然りと雖も、司徒南行は詔書に違う。還るに如かず」と。滔回りて深州に次ぎ、首変の者二百人を誅す。衆懼れ、乃ち兵を率いて南に寧晋に壁し、武俊と合す。帝馬燧・李懐光を命じて之を撃たしむ。滔に属する鄭雲逵・田景仙皆燧に奔る。已にして滔懐光の軍を破り、則ち王師と与に魏橋に屯し、久しく戦わず。
滔は幽州を范陽府と改め、子を府留後とし、元帥と称し、親信を用いて留守とした。滔らの居室は皆殿と曰い、妻は妃と曰い、子は国公とし、下は皆臣と称し、殿下と謂う。上書するを箋と曰い、下す所を令と曰う。左右内史を置き、丞相に視す。内史令・監を置き、侍中・中書令に視す。東西侍郎を置き、門下・中書に視す。東曹給事・西曹舍人を置き、給事中・中書舍人に視す。司議大夫を置き、諫議大夫に視す。六官省を置き、尚書に視す。東・西曹仆射を置き、左右仆射に視す。御史台を執憲と曰い、大夫より監察御史までを置き、驅使要籍官を承令と曰う。左右将軍を虎牙・豹略と曰い、軍使を鷹揚・龍驤と曰う。劉怦を以て范陽府留守とし、柳良器・李子千を左右内史とし、滔の兄瓊瑰・陸慶を東・西曹仆射とし、楊霽・馬寔・寇瞻・楊榮國を司文・司武・司礼・司刑侍郎とし、李士真・樊播を執憲大夫・中丞とした。その余は次第に補署した。処士張遂・王道を聘して司諫とした。
燧は李晟に兵を率いさせて易・定に至らしめ、張茂昭を率いて涿・莫を攻め、滔の援けを絶たんとした。明年、清苑を囲み、滔の将鄭景濟は固く守った。滔は馬寔に兵一万を率いさせ、武俊と共に燧を拒がしめ、自ら兵一万余を以て清苑を救い、晟の糧道を絶った。兵は定州に至り、晟は知らず、夜に兵を引いて還った。滔は伏兵有りと疑い、敢えて逼らず、急ぎ瀛州を保った。而して孝忠・晟は兵千人を合わせて萊水に城し、滔の驍将烏薩戒は兵七百を以て襲い城卒数百を殺し、晟は出でず。景濟は滔の軍を望み幟を立てて応とした。滔は進軍して晟の営に薄き、晟は戦いて利あらず、城中の兵も亦出で、晟は大いに敗れ、易州に奔った。茂昭は満城に走った。滔は既に晟を破り、則ち回って河間に屯して進まず。武俊は宋端をして趣きて譲らしむ。滔怒りて曰く、「孤は亟に戦い且つ病み、医薬に就く。而して王は已に復た云々す。孤は南して魏を救い、兄を棄て君に背くこと屣を脱ぐが如し。王必ず相疑わば、亦た為す所を聴け。」端還る。武俊、寔に謂いて曰く、「寡人は王の速やかに来り指縱し、勝負を決するを望む。復た何の悪しきことか有らん。王異日に天下を併せば、寡人は六七城を得て、節度と為るに足れり。」寔は遣わして具に然る所以を道わしむ。武俊も亦た使を遣わして滔に謝す。滔悦び、亦た報謝す。然れども武俊は内に之を銜み、益々悦ばず、田悦と潜かに謀りて滔を絶たんとす。
及び泚反す。燧等は皆班師し、武俊・寔も亦た還る。悦・武俊は使を河間に遣わし、泚の即位を賀す。武俊は詭りて寔に請い、趙州に於いて康日知を共に攻め、其の軍を覆さんと謀るも、克たず。実帰る。武俊之を餞し、厚く贈遺す。泚は人を遣わし密かに滔を召し、洛陽に趨らしむ。滔は書を発し、西に向かいて再拝し、檄を諸道に移して曰く、「今突騎四十万を発して洛陽に走り、皇帝と上陽宮に会わん。」王郅をして悦を説き連和して俱に西せしむ。滔は素より強く調斂し、武俊等堪えず。又た各に兵五千を以て従いて洛を攻めしめ、僭りて帝と称せんと欲し、乗輿・法従及び赦令皆具す。
初め、回紇は女を以て奚王に妻せり。大歴末、奚乱れ、王を殺す。女逃れて帰る。道平盧、滔は錦繡を以て道を張り、其の至るを待ち、婚を請う。女悦び、之を許す。既にして使を遣わし回紇に婿礼を修む。回紇喜び、名馬重宝を以て報ず。及び僭りて相王と為り、武俊・悦・納と四金鑰を回紇に納め、曰く、「四国願わくは可汗の命を聴き、謹んで金鑰を上る。啓閉出納、唯だ命のまま。」是に至り、師を乞う。回紇は二千騎を以て従う。而して武俊も亦た先に師を乞い、以て懐光の餉路を断たんとす。未だ至らずして王師還る。回紇は幽州を過ぐ。滔は使をして其の酋達幹を説きて曰く、「若し能く同しく河を度りて南せば、玉帛子女貲すべからず。計らば得べし。」達幹許諾す。滔は金帛を以て啖い、約して曰く、「五十里に舍し、以て悦の軍を須たん。」滔の兵五万、車千乗、騎二万、士の私属万余、虜兵三千、馬・橐它之に倍す。武俊の境を過ぐ。武俊之を労し、牛酒芻米皆具す。然れども悦は已に武俊の謀を用い、肯て出でず、儲峙を野に於いて以て待つ。滔は貝州に至る。悦の刺史邢曹俊上りて滔に謁す。即ち帰りて城を閉じて守る。滔之を疑い、永済に次す。武俊は陰かに客を遣わし滔を反間して曰く、「悦憾み有り。公の南するを須ち、兵を以て公の帰路を断たんとす。宜しく少しく備うべし。」滔聞きて怒り、永済に入り、悦の吏を執り掠め訊くも、其の情を得ず、之を殺す。回紇をして大いに掠めしめ、南は澶・衛に及び、老幼を系執して遺る者無し。悦大いに恐れ、城を闔いて自ら保つ。滔は将楊布を遣わし館陶を略定せしめ、平恩に屯し、官吏を置く。
滔は軍を整えて北に還り、馬寔をして冠氏に屯せしむ。悦の死を聞き、遂に魏州を攻め、貝州を囲む。是に於いて、武俊・李抱真は軍を合して滔を撃つ。滔は急ぎ寔を召して貝州に至らしむ。歩馬乏頓す。明日、輒ち戦を約す。寔は士を休め三日を請う。蔡雄・達幹等は武俊の堅壁難図を畏れ、戦を請う。楊布曰く、「大王将に東都を取らんとす。小敵に逢うや即ち怯む。何を以てか長く天下を駆る。」術士尹少伯も亦た必勝を言う。既に戦い、二軍の乗ずる所と為り、大いに敗る。大将朱良祐・李進皆執られ、杖を委ねること丘の如し。滔は德州に奔り入る。少伯・雄・布の謬を恨み、之を殺す。俄にして京師平らぐ。滔は已に敗れ、軍と為ること能わず、走りて幽州に還り、上書して罪を待つ。詔有り、武俊・抱真に大信を開示せしめ、若し誠心審固なる者は、当に釁を洗い勲を録し、更始に与えんとす。
劉怦
劉怦は幽州昌平の人。少くして范陽の裨将と為り、親老いて疾有り宜しく侍すべしと以て、輒ち職を去る。李懐仙節度使と為り、檄して召すも応ぜず。朱滔の時、功を積みて雄武軍使に至り、田を広く墾き、用度を節し、以て治め辨むるを称せらる。稍く遷りて涿州刺史と為る。滔の田承嗣を討つに、表して府事を知府せしめ、和裕にして衆心を得たり。李宝臣は兵を以て滔を瓦橋に劫う。滔走る。宝臣は勝に乗じて幽州を襲わんと欲す。怦は方略を設け、兵を勒して守りを完うす。宝臣敢えて謀らず。擢て御史中丞と為る。滔敗れて帰るも、終に貳せず、益々兵を治め、人は怦の奉ずる所に忠なるを嘉す。及び滔死し、軍中尽く怦を推す。乃ち軍事を総ぶ。俄に詔して節度副大使・彭城郡公と為る。鎮に居ること纔に三月にして死す。年五十九。兵部尚書を贈り、謚して恭と曰う。子は済。
済は字は済。京師に遊学し、進士に第し、歴て莫州刺史と為る。怦病む。詔して済に州事を仮せしむ。及び怦卒し、節度を嗣ぎ、累遷して検校尚書右仆射・同中書門下平章事と為る。奚数えず辺を侵す。済之を撃ち走らしめ、窮めて千余里を追い、青都山に至り、首二万級を斬る。其の後又た檀・薊の北鄙を掠む。済は軍を率いて室韋と会し、之を破る。
王承宗が叛くと、王済は諸将を集めて言った、「天子は我が趙を怨むを知り、必ず我にこれを伐たしむるであろう。趙はまた大いに我を備えるであろう。いかんせん」と。裨将の譚忠は王済を激して承宗を伐たしめんと欲し、疾く言うに、「天子は我を使わして趙を伐たしめず、趙もまた燕を備えず」と。王済怒り、これを繋ぐ。人をして趙を視させしむるに、果たして設備せず。数日にして、詔書下りて王済に出師せざるを許す。王済は忠を釈し、謝してこれを問う。忠曰く、「昭義の盧従史は外には燕に親しみ、内には実にこれを忌む。外には趙を絶ち、内には実にこれと与す。これ趙のために画策して曰く、『燕は趙に倚りて自ら固む。甚だ怨むと雖も、必ず趙を残さず。故に虞るるに足らず』と。趙は既に燕を備えず、従史は則ち天子に告げて曰く、『燕・趙は宿怨なり。今趙伐たるるを見て燕を備えざるは、是れ燕反って趙と与するなり』と。此れを以て天子の君を使わして趙を伐たしめず、趙もまた燕を備えざるを知るなり」と。王済曰く、「計いずくんか出づ」と。曰く、「今天子承宗を誅せんとす。而して燕に一卒も易水を済る者無し。正に潞人をして恩を趙に売り、忠を上に販わしめ、是れ君忠誼の心を貯えながら、私に趙に染むるの名を負わしめ、卒に趙に見徳せず、悪声徒らに天下に嘈嘈たるのみ」と。王済然りとし、兵七万を以て諸軍に先んじ、首級数千を斬り、又饒陽を抜き、瀛州に屯す。安平を進攻す。久しく抜けず。王済は次子の総に命じ、兵八千を以て先登せしめ、日中に其の城を抜く。赦して承宗を赦すに会し、中書令に進む。
王済の出師するや、長子の緄を以て留務を摂せしめ、総を行営都知兵馬使とす。王済病甚だ篤し。総は左右の張玘・成国宝及び帳内の親近と謀りて王済を殺さんとす。乃ち人をして詐りて京師より来たりし者あらしめ、曰く、「朝廷は公の前に瀛州に屯して逗留せしを以て、詔して副大使に節度を代わらしむ」と。明日、また人をして曰く、「詔節は太原に至れり」と。又人をして走り呼ばしめて曰く、「代を過ぎたり」と。挙軍驚く。王済憤り且つ怒り、なすべき所を知らず、主兵の大将数十人及び平素緄と厚く善き者を誅し、急ぎ緄を追い、玨の已に兄の臯を以て留事に代わらしむ。王済は朝より中昃に至るまで食わず、渇して酏漿を索む。総は吏の唐弘実に毒を寘かしむ。王済飲みて死す。年五十四。緄は涿州に至る。総は王済の命を矯りてこれを殺す。乃ち喪を発し、太師を贈り、謚して莊武と曰う。
総の性は陰賊にして、特に険譎なり。既に父を毒し、即ち軍政を領す。朝廷其の奸を知らず、故に詔して節度を嗣がしめ、楚国公に封じ、累進して検校司空に至る。承宗再び命に拒ぐ。総は兵を遣わして武強を取り、軍を按じて両端し、私に饋賫を以てす。憲宗之を知り、外には崇寵を示し、同中書門下平章事に進む。及び呉元済・李師道平らぎ、承宗憂死し、田弘正鎮州に入る。総は支助を失い、大いに恐れ、自ら安からんと謀る。又数たび父兄の崇るを見る。乃ち衣食する浮屠数百人、昼夜祈禳す。而して総祠場に憩えば則ち暫く安く、或いは臥内に居れば、輒ち驚いて寐ること能わず。晚年益々惨悸し、剔発を請い、浮屠の服を衣、祓除せんと欲す。
譚忠また総に説いて曰く、「天地の数は、合えば必ず離れ、離れば必ず合う。河北は天下と離ること六十年、数窮まれば必ず合わん。往時朱泚・李希烈自立し、趙・冀・齊・魏王を称し、郡国兵を弄び、低目相視す。危うきと謂うべし。然れども卒に事無し。元和以来、劉辟・李锜・田季安・盧従史・齊・蔡の強き、或いは首を都市にし、或いは身を逐客と為す。皆君自ら見る所なり。今兵駸駸として北来す。趙人は既に徳・棣十二城を献じ、魏を助けて齊を破る。唯だ燕のみ一日の労無し。後世事無きを得んや。君の為に之を憂う」と。総泣き且つ謝し、因りて上疏し、朝請を奉ぜんことを願い、且つ治むる所を割きて三と為さんと欲す。幽・涿・営を以て一府と為し、張弘靖を請いてこれを治めしめんとす。瀛・莫を一府と為し、盧士玫を以てこれを治めしめんとす。平・薊・媯・檀を一府と為し、薛平を以てこれを治めしめんとす。尽く宿将を籍し、諸朝に薦む。
時に穆宗沖逸たり。宰相崔植・杜元穎遠謀無し。弘靖を寵し、其の権を重んぜんと欲す。故に総の地を全く付す。唯だ瀛・莫を分かちて観察使を置くのみ。総を拝して検校司徒兼侍中・天平節度使とす。又浮屠の服を賜い、大覚と号し、其の第を榜して仏祠と為し、使者を遣わして節・印を偕に来らしむ。時に総は既に自ら髡祝し、節・印を譲り、遂に浮屠の服を衣る。行きて定州に及び、卒す。
初め、総は代わるを請い、馬一万五千匹を献ず。群臣或いは其の詐りを疑う。帝独り之を納れ、給事中薛存慶をして宣慰せしめ、部に給する所の復を一歳とし、緡銭百万を以て軍を労い、高年惸独にして自ら存すること能わざる者には、官吏就いて問い、粟帛を賜う。総遂に忠と倶に行く。軍中世其の恵を懐い、擁留して進むことを得ず。総は首謀者十人を殺し、節を張臯に付し、夜間道を去る。遅明、軍中乃ち知る。
詔して太尉を贈る。子の礎及び弟の約、長安に至る者十一人、皆刺史を擢てらる。忠は総の喪を護り至り、亦卒す。忠は絳の人、兵を喜び、事を謀るに善く、蓋し健男子と云う。
朱克融
朱克融は、朱滔の孫なり。偏校を以て劉総に事う。総将に朝に入らんとす。後変有らんことを慮り、其の軍の材勇と黠暴にして制し難き者を籍し、悉く之を朝に薦む。厚く爵位を与え、北方をして歆艶せしめ、乱を甘んずる心無からしめんことを冀う。克融は遣の中に在り。是の時に方たり、執政人に非ず。既に総の地を納るるを見、天下曠然として復た事無しと謂う。克融等京師に留まる。久しく調を得ず。数たび宰相に詣りて自ら試みんことを求む。皆聴かず。羸色敗服、饑寒して貣丐する所無し。内に怨忿す。会うに張弘靖鎮に赴くに因り、悉く還し遣わす。
明年、弓高を陥し、下博を攻め下し、王廷湊と共に深州を囲む。裴度は檄を以て譙諭す。克融乃ち還る。因りて進みて検校工部尚書と為し、表して馬万匹・羊十万を献じ、直に軍を賞せんことを請う。敬宗の初、遷りて検校司空と為し、辺屯に時服を賜う。克融は帛の疏悪を以て、詔使楊文端を囚えて以て聞かしむ。又上言して曰く、「陛下の東幸して雒せんことを聞く。願わくは匠丁五千を率いて宮室の営を助け、乗輿を迎え、且つ帛三十万を請い、一歳の費を備えん」と。帝怒る。裴度の謀を用い、忍んで問わず。好言を以て之に答え、其の謀を屈し、進めて呉興郡王と爵す。
是の年、軍乱る。克融及び其の子の延齢を殺す。詔して司徒を贈る。次子の延嗣立ち、留後を領す。大将李載義に殺され、代わらる。並びに其の家を族す。
李載義
李載義は、自ら恒山湣王の後裔と称す。性は矜蕩にして、豪傑と交遊を好み、力強く弓を引き、格闘に長ず。劉濟が幽州に在りし時、その才能を高く評価し、帳下に補して従軍征伐せしめ、功績を積んで牙中兵馬使となった。朱克融が死に、その子延嗣が叛命し、民を虐げし時、載義は衆の忍びざるに乗じ、これを殺し、その罪を朝廷に暴く。敬宗は直ちに検校戸部尚書・盧龍軍節度使を授け、武威郡王に封ず。
初め、張弘靖が幽囚された時、幕府の者多く害せられ、妻子は留め置かれて送還されず。ここに至り、載義は悉くこれを護送して京師に至らしめ、童僕に至るまで皆行かしむ。やがて李同捷が滄・景を拠り、襲封を求めし時、載義は賊を討ちて自ら効を請う。文宗これを嘉し、検校尚書右僕射に進む。斬首の功数多く、賊平らぎ、詔して同中書門下平章事とし、白玉の帯を賜い、殊礼を示す。
大和四年、兵馬使楊誌誠に逐われ、易州に奔る。即ち上言して曰く、「滄州の賊を破りてより、屡々朝請すれども許されず。今、妻子を率い身を以て入見せんことを願う」と。帝は使者をして太原に至り尉迎せしめ、袍笏装器を賜う。またその嘗て功有り、且つ恭順の意有るを以て、乃ち冊を以て太保を拝し、仍って平章事とす。やがて山南西道節度使となる。河東に移る。
初め、載義の母は范陽に葬らる。楊誌誠に掘り発かれたり。後、誌誠逐われ、太原を過ぐ。載義は奏請して其の心を剔き、母の怨みに償わんとす。許されず。又これを殺さんと欲す。官属苦しく救いて乃ち免る。然れども其の妻子士卒を尽く戕す。其の天資驕暴なること雲の如し。帝は法を屈して劾さず。
附 楊誌誠
誌誠は、載義に事えて牙将となる。載義が天子の使者を鞠場に宴する時、誌誠は其の党と噪りて起ち、載義は走る。因って自ら都知兵馬使と為る。文宗は更に嘉王を以て節度を領せしめ、誌誠を用いて留後と為す。やがて検校工部尚書に進み、節度副大使に擢でらる。一年を踰え、検校吏部に進む。詔下る。邸吏、宰相に白して曰く、「軍中は朝廷の儀を識らず、惟だ尚書の改めて仆射と為るを進秩と知るのみ。今、一府盛服して天子の命を待つ。若し復た尚書と為らば、則ち挙軍慚じ、使者勢い出ずるを得ず」と。既にして誌誠果たして怨望し、軍に謾言有り。中人魏寶義及び他の使者焦奉鸞・尹士恭を囚え、部将王文穎を遣わして入謝し、還命を譲る。帝復た之に賜う。文穎肯えて受けず、輒ち去る。帝は忍びて責めず、乃ち使者を遣わして検校尚書右僕射に進む。
八年、下に逐われ、部将史元忠を推して総留後と為す。誌誠が鎮に在りし時、密かに天子の袞冕を制し、其の被服皆乗輿に擬す。元忠表して朝に暴く。詔して御史に按治せしめ、嶺南に斥く。商州に至り、これを誅す。而して通王を以て節度を領せしめ、元忠に留後を授く。明年、検校工部尚書に進み、副大使と為る。会昌初、偏将陳行泰に殺さる。行泰は節制を邀う。報いず。次将張絳、行泰を殺し、起ちて帥軍を求む。武宗自ら張仲武を用いて之に代う。
張仲武
張仲武は、范陽の人なり。『左氏春秋』に通ず。会昌初、雄武軍使と為る。行泰、元忠を殺す。宰相李德裕計るに、河朔の帥を請うは、皆報下ること太だ速かなるを以て、故に軍安んずるを得。若し少しく下るを須ちば、且つ変有らん、と。帝之を許す。未だ報いず、果たして絳に殺さる。復た其の軍を誘いて請う。亦た置いて未だ報いず。是の時、回鶻は黠戛斯に破られ、烏介可汗は天徳塞上に托る。而して仲武は其の属吳仲舒を遣わし入朝し、本軍を以て回鶻を撃たんことを請う。德裕因って北方の事を問う。仲舒曰く、「行泰・絳は皆遊客にして、人心附かず。仲武は旧将張光朝の子、年五十余、書に通じ、戎事に習い、性忠義、願わくは朝廷に帰款すること旧し」と。德裕曰く、「即ち以て帥と為さば、軍復た乱るる無からんや」と。答えて曰く、「仲武は士心を得、命を受くれば必ず絳を逐う者有らん」と。德裕入りて帝に白して曰く、「行泰等の節を邀うるは許すべからず。仲武の自ら効を求むるは、之を用うるに名有り、軍且つ辞無からん」と。乃ち兵馬留後に擢で、而して詔して撫王に節度を領せしむ。詔下る。絳果たして軍中に逐わる。即ち仲武を拝して副大使・検校工部尚書・蘭陵郡公とす。時に回鶻の特勒那頡啜、赤心部七千帳を擁して漁陽に逼る。仲武は其の弟仲至と別将遊奉寰等をして鋭兵三万を率いこれを破らしめ、馬・牛・橐它・旗纛を獲ること勝え計わず。吏を遣わして状を献じ、検校兵部尚書に進む。
初め、回鶻は常に酋長をして奚・契丹を監せしめ歳貢を督せしめ、因って中国を诇刺す。仲武は裨将石公緒等をして厚く二部と結ばしめ、諜者八百余人を執りて殺す。回鶻は五原に入らんと欲し、保塞の雑虜を掠めんとす。乃ち先ず宣門将軍四十七人を以て詭りて好を結び歓ばんとす。仲武は其の下に賂し、尽く其の謀る所を得。因って逗留して遣わさず、師期を失わしむ。回鶻の人馬多く病死者有り、是れを以て敢えて五原塞を犯さず。烏介は勢を失い、往きて康居に依る。余種を尽く徙し、黒車子部に寄す。回鶻遂に衰え、名王貴種相継いで降る。捕ること幾く千人。仲武表して石を立て聖功を紀さんことを請う。帝詔して德裕に銘を為さしめ、碑を盧龍に掲げ、以て後世に告ぐ。大中初、又た奚の北部及び山奚を破り、雑畜を俘獲すること貲えず。累擢して検校司徒・同中書門下平章事に至る。卒す。謚して莊と曰う。
黄巢京師を犯すに及び、直方灞上に迎え、既にして亡命を納れ、謀りて巢を劫いて天子に報いんとす、公卿多く之に依る。賊覚り、其の族を屠る。
張允伸、字は逢昌、范陽の人。世々軍校を為す。直方出奔するに及び、都知兵馬使を以て衆に立てられて留後と為り、天子報可す。未だ幾ばくもあらず、検校散騎常侍、節度使と為り、累進して検校司徒・兼太傅・同中書門下平章事、燕国公に封ぜらる。
允伸性勤倹にして、下安頼す、未だ嘗て辺鄙の虞有ること無し。子十四人。簡会朝に入る、昆弟多く大将軍・刺史・郡佐に至る者あり、而して軍中張公素を推して留後と為す。
公素、范陽の人。列将として允伸に事え、擢て累ね平州刺史となる。允伸卒するに及び、兵を以て来たりて喪に会す、軍士素より其の威望に附き、簡会制す可からざるを知り、即ち出奔す。詔して公素を節度使と為し、同中書門下平章事に進む。性暴歴にして、眸子多く白く、燕人「白眼相公」と号す。李茂勛に襲われ、京師に奔り、復州司戸参軍に貶せらる。
李茂勛
李茂勛、本は回鶻阿布思の裔。張仲武の時、其の侯王と皆降る。資沈勇にして、善く馳射し、仲武之を器とし、将兵を任じて、常に辺に乗じて功を積み、姓及び名を賜う。陳貢言なる者は、燕の健将、納降軍使と為り、軍中素より信服せらる、茂勛之を襲殺し、因りて兵を挙げ、紿りて貢言の反と称す。公素迎撃して利あらず、走り、茂勛府に入る、衆始めて悟り、因りて州務を主るを推し、以て聞かしむ、詔して即ち節度使を拝す。俄かに病を以て自ら上り、詔して尚書右僕射を進めて致仕せしむ。表して子可挙を代わらしむ、遂に留後を領し、節度使に進めらる、擢て累ね検校太尉となる。
中和の末、太原の李克用始めて強大となり、定州の王処存と厚く相結び、可挙其の山東を窺うを己が患いと悪み、乃ち使を遣わして吐渾都督赫連鐸・鎮州の王镕と約し聯和し、揚言して易・定は本燕・趙の属、其の地を得て、且つ参有すと。即ち軍司馬韓玄紹を遣わして沙陀を薬児嶺に撃たしめ、首七千級を斬り、其の将朱耶尽忠等を殺し、牛・馬・器鎧数万を収む。又雄武軍に戦い、殺獲万人。鐸又沙陀を蔚州に破り、詔して鐸を雲州刺史と為し、可挙を検校侍中に進む。乃ち票将李全忠を遣わし衆六万を率い易州を囲ます。镕兵を以て無極を攻め、処存太原に援を求め、克用自ら将いて之に赴く、鎮人懼れ、新城に退き保つ、克用急ぎ之を攻め、镕引き去り、追いて之を九門に破る。易久しく下らず、盧龍将劉仁恭地を穴ぐらして入り、其の城を得る、士卒驕れる色有り。処存軽兵三千を以て羊皮を蒙り、夜之を野に布き、精騎を以て他の道に伏せ、全忠の軍望めて群羊と為し、争いて之に趨る、処存の伏騎発ち、大いに之を敗り、復た易州を取る。全忠遁れて還り、芻糧仗鎧を尽く失い、罪を得るを懼れ、乃ち余衆を裒めて反って幽州を攻む、可挙支えられざるを度り、其の族を引きて楼に登り自ら燔死す。
李全忠
子匡威嗣ぎ、留後を領し、使に進む。性豪爽にして、燕・薊の勁兵処に恃み、軒然として天下を雄にせんとする意有り。赫連鐸と共に太原を攻め、雲・代を争う。李克用安金俊をして鐸を攻めしむ、匡威鐸を救い、蔚州に戦い、金俊を射殺し、乃ち共に表して沙陀を討たんことを請い、而して朱全忠も亦上言して協力を願う、故に張浚因りて兵を用いんことを請う。浚敗れ、克用雲州を攻め、騎将薛阿檀を以て前鋒と為し、河上に伏を設く。鐸精騎を以て阿檀を追い、河に抵りて伏起こり、乃ち大敗し、其の将賈塞児を禽え、遂に雲州を囲み、塹して守り、兵を分かちて井陘より出で、常山に屯し、大いに深・趙を掠む。匡威歩騎万余を以て王镕を援けしむ、克用還り、因りて急ぎ鐸を攻む。会して食尽き、鐸州を棄てて匡威に奔る。克用雲州を取り、石善友を表して刺史と為す。鐸本は吐谷渾部の酋なり、開成中、其の父種人三千帳を率いて自ら帰し、雲州を守ること十五年。是に至り、其の地を失う。
景福初め、镕太原の将李存孝を誘いて之に降る、克用怒り、镕を伐つ。镕来たりて救いを求め、匡威将を遣わして之に赴かしむ、克用去る。明年、兵復た井陘より出で、匡威自ら将いて镕を援けんとす、将に行かんとし、酒を置き大会す。其の弟兵馬留後・検校司徒匡籌の妻張、国艷なり、匡威酒酣に及び、之に報ゆ、弟怒り、匡威軍博野に次ぐに及び、乃ち城を拠りて自ら留後と為る。天子即ち検校太保を授け、節度使と為す。匡威の麾下多く去り、屏営して帰る所無く、深州に留まり、其の属李抱貞を遣わし上書して願わくは朝に入らんとす。時に京師数寇難、人人危懼し、金頭王且に来らんとすと伝言し、皆山谷に亡竄す。抱貞還るに及び、而して镕已に鎮に迎えて館す。匡威抱貞を引きて城西の大悲浮屠に登り、顧み望みて流涕し、其の山川を美しみ、乃ち共に镕を図る。陽は镕の為に甲を繕い、城塹を治め、方略を授け、陰に施予し、以て士心を傾けんとす。鎮軍王氏に忠にして、皆之を悪む。匡威親の忌日、镕過ぎて慰む。匡威の士甲を衷て镕を劫いて牙城に入る、戦い勝たず、鎮人匡威を斬り以て徇す。匡籌表して諸朝に訴え、檄を以て镕の罪を暴き、楽寿・武強を攻めて以て報ゆ。
初め、劉匡籌が奪った時、燕人はこれを義としなかった。劉仁恭は太原に奔り、李克用はその謀略を頼みとして武州・媯州の二州を下し、居庸関で匡籌を破った。李存審と戦い、匡籌はまた敗れ、一族を率いて京師に奔り、景城に至った時、滄州節度使盧彦威がこれを殺し、車馬・僮僕・妓女を掠奪した。妻はちょうど乳児を抱いており、進むことができず、仁恭がこれを捕らえ、克用に献じて寵愛する夫人とした。初め、匡威が追放された時、嘆いて言うには、「兄が失い弟が得る、皆わが宗族なり、悔いるところはない。しかしその才は恐らく守るに足らぬであろう」と。果たして滅び、幽州の地は克用に帰し、仁恭を帥とした。
劉仁恭
劉仁恭は深州の人である。父の劉晟は范陽に客居し、李可挙の新興鎮将となったので、仁恭は軍中に仕えた。李全忠に従って易州を攻め、「窟頭」と号し、次第に裨校に昇った。人となり豪放で、智謀多く、大志あり、かつて自ら言うには、「大幡が指先より出る夢を見た。四十九歳の時、必ず旄節を執るであろう」と。李匡威はこれを憎み、景城県令に補した。
時に瀛州で乱が起こり、守吏を殺したので、仁恭は千人を募ってその乱を平定した。匡威はまた兵を率いさせ、蔚州を戍守させたが、期限を過ぎても交代がなく、兵士は皆怨んだ。時に匡籌が地を奪ったので、元の戍卒が仁恭を擁して幽州に向かい、匡籌が迎え撃ったが敗れ、遂に一族を率いて太原に奔った。李克用はこれを厚く遇し、田宅を賜い、寿陽鎮将に拝した。たびたび策を以て克用に干し、歩騎一万を請うて東に幽州を取り、かつ先導しようとした。克用が匡籌を攻めると、匡籌は逃げ去った。仁恭は苻存審と共に城に入り、府庫を封じて待った。克用は喜び、仁恭を留めて守らせ、親信を分けてその兵を統轄させた。
既に克用と絶つと、ますます兵を募った。光化初年、その子の守文をして滄州を襲撃させ、節度使盧彦威は城を棄てて走ったので、遂に滄・景・徳の三州の地を有し、守文を節度留後として用い、朝廷に命を請うた。昭宗は怒り、与えなかった。時に宦官が至ると、仁恭は欺いて言うには、「旄節は我自ら為すことができる。ただ長安の本物を借りたいだけである。何故拒むのか」と。これにより兵勢はますます張り、河北を図ることを明らかにした。幽・滄の歩騎十万を尽くし、三十万と声言して、南に魏・鎮を巡った。貝州に駐屯し、これを屠り、清水は流れを絶った。
羅紹威は朱全忠に救援を求め、全忠は李思安・葛従周をこれに赴かせ、内黄に屯した。仁恭は強さを恃み、命令して言うには、「思安は懦弱である。まずこれを破り、それから魏を取るべし」と。守文と単可及が精鋭の甲兵五万を率い、清水に沿って上った。思安は伏兵を設け、自ら兵を率いて逆らい戦い、偽って勝たないふりをした。守文は敗走を追って内黄に至り、思安は兵を整えて還り撃ち、伏兵が発し、可及を斬った。ただ守文だけが突き抜けて逃げ、兵衆は帰る者無かった。従周は邢・洺の兵を興し、魏将の賀徳倫らと館陶門より出で、夜に仁恭を撃ち、八つの屯を破った。仁恭は走り、魏から長河に至る数百里の間、屍が道を蔽った。鎮人は東境で邀撃してこれを破った。仁恭は遂に衰えた。
この時、中原はまさに多事であり、仁恭は燕の強さと遠さを恃み、憚るところなく、意自ら満ちた。方士の王若訥に従って長生術を学び、大安山に館を築き、子女を掠めてこれを充てた。また浮屠を招き、共に法を講じた。堇土を以て銭とし、真の銭を徴収し、山に穴を穿ってこれを蔵し、工匠を殺して口を滅ぼした。南方の茶を禁じ、自ら山を摘んで茶とし、その山を大恩と号して、利を邀えた。
子の守光が寵愛する妾と淫通し、事が発覚すると、仁恭はこれを貶した。李思安が攻めて来て、石子河に屯した。仁恭は大安山に居り、城中には備えが無かった。守光は兵を率いて出て戦い、思安が去ると、引き返して大安を攻め、仁恭を虜らえ、別室に囚え、左右の婢妾を殺し、遂に盧龍を有した。
【贊】
贊して言う。朱滔はその兄の朱泚を脅して朝廷に入らせ、及び兵を率いて東に向かい、帝を称して自ら尊んだ。名目は泚を助けると雖も、その志は知るべきである。至って朱克融が再び幽州を得ると、朱氏には遺種無く、その禍は泚と等しく、ただ族滅に先後があっただけである。