新唐書

巻二百一十一 列傳第一百三十六 藩鎮鎮冀

李寶臣

李寶臣、字は為輔、本は范陽に内属する奚なり。騎射に巧みなり。范陽の将張鎖高、養いて仮子と為す、故に其の姓を冒し、名は忠志と曰う。盧龍府果毅たり、常に虜を陰山に覘い、追騎及び、六人を射て尽く殪し、乃ち還る。安祿山の射生と為り、従いて朝に入り、留められて射生子弟と為り、禁中に出入す。祿山反す、遁れて帰り、更に祿山の仮子と為り、ぎょう騎十八人を将いて、太原尹楊光翙を劫し、挟みて出で、追兵万餘敢えて逼らず。又精甲を督して土門に軍し、以て井陘を扼す。安慶緒に事えて恒州刺史と為る。九節度の師相州を囲むや、忠志懼れ、朝に帰命す、肅宗即ち故官を授け、密雲郡公に封ず。史思明河を度る、忠志復た叛き、兵三万を勒して固く守り、賊将辛万宝恒州に屯して相掎角す。思明死す、忠志朝義に事うるを肯わず、裨将王武俊をして万宝を殺さしめ、恒・趙・深・定・易の五州を挈きて以て献ぜしむ。雍王東討し、土門を開きて王師を納れ、莫州を攻むるを助く。朝義平ぐ、擢て礼部尚書と為し、趙国公に封じ、其の軍を成德と名づけ、即ち節度使を拝し、鉄券を賜い死せずを許し、其の他の賫与は資に算ふべからず、姓及び名を賜う。是に於て遂に恒・定・易・趙・深・冀の六州の地を有ち、馬五千、歩卒五万、財用豊衍し、益々亡命を招来し、山東に雄冠す。薛嵩・田承嗣・李正己・梁崇義と相姻嫁し、急熱として表裏と為る。先ず是れ天寶中、玄宗金を冶して自ら象を為し、州率ね祠を置く、更に賊乱に遭い、悉く毀ちて以て貲と為す、而して恒のみ独り存す、故に寵異を見、実封を加えて賜う。

初め、寶臣と正己は素より承嗣に軽んぜらる。其の弟寶正、承嗣の婿なり、往きて魏に依る、承嗣の子維と球を撃つに、馬駭き、維に触れて死す、承嗣怒り、之を囚う、以て寶臣に告ぐ、寶臣教え謹まざるを謝し、杖を進め、責めを示さしめんと欲す、而して承嗣遂に鞭ちて之を殺す、是に由りて交悪す。乃ち正己と共に承嗣の討つ可き状を劾す。代宗其の自ら相図らんことを欲し、則ち勢離れて制し易からんとし、即ち詔して寶臣に朱滔及び太原の兵をして其の北を攻めしめ、正己に滑亳・河陽・江淮の兵をして其の南を攻めしむ。師棗強に会し、牛を椎きて軍を饗す、寶臣士に厚く賜い、而して正己頗る觳なり、軍怨望す、正己変有るを懼れ、即ち引き去る。惟だ滔・寶臣滄州を攻め、歴年下らず、宗城を撃ち、之を残し、二千級を斬る。承嗣の弟廷琳方に貝州を守り、高嵩巖に兵三千を将いて宗城に戍らしむ、寶臣張孝忠をして之を攻破せしめ、嵩巖を斬り、執へし将四十餘人を逸す。会に王武俊賊の大将盧子期を執る、遂に洺・瀛を降す。是の時に当たり、河南の諸将田悦を陳留に敗り、正己德州を取り、頗る窮討せんと欲す。承嗣懼れ、乃ち甘言を以て正己を紿し、正己屯を止め、諸軍も亦敢えて進まず。

是に於て天子中人馬希倩を遣わして寶臣を労わす、寶臣使者に百縑を帰す、使者恚り、諸道に抵す、寶臣左右を顧みて甚だ愧づ。諸将已に休み、独り武俊刀を佩きて所の下に立ち、之に故を語る。武俊計りて曰く「趙兵功有りて尚お爾り、賊平らぎしめば、天子一幅の紙を以て召し置きて京師にせば、一匹夫のみ」と。曰く「奈何」と。対えて曰く「魏を養いて以て資と為す、上策なり」と。寶臣曰く「趙・魏に釁有り、何に従いてか可ならん」と。対えて曰く「勢同じく患均しく、寇讎を転じて父子と為すは、咳唾の間のみ。朱滔滄州に屯す、請う禽えて魏に送り、以て信を取るべし」と。寶臣之を然りとす。

先ず是れ、承嗣寶臣の少くして范陽に長ずるを知り、心常に之を得んと欲す。乃ち石を勒して讖の若き者と為し境に瘞し、望気者を教えて雲う「王気有り」と。寶臣之を掘り得、文に曰く「二帝同功勢万全、田を将て伴と作り幽燕に入る」と。「帝」は寶臣と正己を以て二と為す。而して陰に客をして説かしめて曰く「公滔と共に滄を攻め、即ち功有りとも、利は天子に帰し、公何に於てか頼らん。誠に能く承嗣の罪を赦し、請う滄州を奉じて趙に入れ、願わくは范陽を取って以て報ぜん。公騎を以て前駆し、承嗣歩卒を以て従わば、此れ万全の勢なり」と。寶臣喜びて滄州を得、又見るに語と讖と会するを、遂に陰に承嗣と交わりて幽州を図り、承嗣兵を陳べて出で次して以て自ら験す。寶臣謬りて滔の使に謂いて曰く「吾聞く朱公の貌神の若しと、願わくは繪して観んこと可からんや」と。滔即ち図を以て之を示す。寶臣図を射堂に置き、諸将を大会し、熟視して曰く「信に神人なり」と。密かに精卒二千を選び、夜三百里を馳せて滔を劫わんと欲し、戒めて曰く「彼の貌射堂の如き者を取れ」と。時に二軍相虞わず、忽ち変を聞き、滔大いに駭き、瓦橋に戦い、敗れ、佗の服を衣て脱し、滔に類する者を禽えて以て承嗣に帰す。承嗣釁成るを知り、軍を還して堡に入り、人をして寶臣に謝せしめて曰く「河内方に警有り、暇あらずして公に従う。石讖は、吾戲れに為せるのみ」と。寶臣慚じて還る。俄に進みて隴西郡王に封ぜられ、又同中書門下平章事を拝す。德宗立ち、司空しくうを拝す。

寶臣晚節特に猜忌し、顧みるに子惟嶽且つ暗弱なるを、下の服さざるを恐れ、即ち骨鯁の将辛忠義・盧俶・許崇俊・張南容・張彭老等二十餘人を殺し、其の貲を籍没し、衆乃ち携貳す。寶臣既に異志を貯え、妖人を引いて讖兆を作らしめ、丹書・霊芝・朱草と為し、別室に斎し、壇を築き銀盤・金匜・玉を置き、猥りに曰く「内に甘露液の神酒を産す」と。玉印を刻し、其の下に告げて曰く「天瑞自ら至る」と。衆敢えて弁ずる者莫し。妖人復た言う「当に玉印天より下る有るべく、海内戦わずして定まるべし」と。寶臣大いに悦び、厚く金帛を賫す。既にして事の露はるるを畏れ且つ誅せられんとし、詐りて曰く「公甘露液を飲めば、天神と接す可し」と。密かに堇を液に置く、寶臣已に飲みて即ち瘖し、三日にして死す、年六十四。惟嶽悉く妖人を誅殺す、時に建中二年なり。遺表を以て惟嶽に軍を領せしむるを請い、書を執政に貽して家事を諉ね、節を朝に帰す、詔して太傅を贈る。

惟嶽少くして行軍司馬・恒州刺史たり、寶臣死す、軍中推して留後と為し、父の位を襲わんことを求む、帝許さず。喪を護りて還り京師せしむるを趣し、張孝忠を以て之に代う。田悦為に請う、聴かず。遂に悦・李正己と謀りて命に拒まんとす。府の小史胡震・私人王他奴等専ら反計を画す。府の属邵真泣いて曰く「先公位将相に至り、恩甚だ厚し、而るに大夫命に違い缞绖の中に在り、愚固より惑う。魏近く且つ国と与にし、遽に絶つ可からず、之を絶てば禍を速にす、請う厚礼を以て其の使を遣わし、徐に更に之を図らん。斉遠くして交疏なり、使者を械して京師に送り、且つ討致を請うに如かず。上大夫の忠を嘉し、請う所宜く許さるべし」と。惟嶇悟り、真をして奏を作らしむ。震将吏と議して不可とし、惟嶽又之に従う。其の舅谷従政、豪俊の士なり、切に諫むれども納れず。

ここにおいて張孝忠は易州を以て天子に帰順し、天子は朱滔に詔して孝忠と合兵して惟嶽を討たしめ、吏士をことごとく赦し、惟嶽の首級を購うに賞ありとす。惟嶽は滔と束鹿に戦い、大いに奔る。遂に深州を囲む。明年正月、兵万余りを率い、王武俊をして束鹿を争わしめ、田悦もまた孟祐を遣わして来たり助けしむ。武俊は精兵を以て先ず陣を陥とし、師は退く。滔は繒帛を繍りて狻猊と為し、壮士百人に蒙らせて噪がしめ、惟嶽の軍に趨らしむると、馬は駭き軍は乱れ、因って大いに敗れ、その営を焼きて去る。ここにおいて深州は日々急なり、悦もまた城に嬰る。惟嶽懼れ、邵真を召して議し、使を河東の馬燧に詣らしめ、その弟惟簡をして帝に見えしめ、大将を斬りて罪を謝し、兵を鄭詵に属せしめ、身は京師に朝せんとす。孟祐その謀を知り、走りて悦に告ぐ。悦は扈岌を使わして来たりて譲りて曰く、「敝邑の暴兵は、本より君が命節を索むるため、豈に叛逆のためならんや。馬燧に破らるるを見えども、感激の士大夫は城に乗りて拒ぎ守り、以て後図と為す。今君、邵真の讒間を信じ、悦の罪に帰せんと欲し、以て自ら湔蕩せんとは、何の負いかあって然る。さもなくば祐を遣わして軍を還らしめ、王師に禽らるるを遺すなかれ。若し能く真を誅して以て徇らば、請う公に事うること初めの如くせん」と。惟嶽懦にして決すること能わず、畢華見えて曰く、「大夫は魏と盟して未だ久しからず、魏は囲まるるも、彼は蓄積多く、下すべからず。斉の兵は勁く地は広く、山河を裾帯し、いわゆる東秦の険固の国、これと相持維すれば、以て天下に抗うに足る。夫れ義に背くは不祥、軽慮は禍を生ず。且つ孟祐は驍将、王武俊は戦に善く、前日滔を逐いしに、滔は僅かに免る。今両将を合せば、滔を破ること必せり。惟れ審にこれを図れ」と。惟嶽は深囲解けざるを見、祐の還るを畏れ、乃ち真を斬りて以て悦に謝す。明日また戦い、また大いに敗る。而して康日知は趙州を挙げて命を聴く。惟嶽益々困り、乃ち牙将衛常寧に兵五千を付し、而して王武俊に騎八百を俾して日知を攻めしむ。

武俊は才雄にして、素より惟嶽に忌まれる。師の行くに及び、常寧に謂いて曰く、「大夫は讒を信じ、我が朝は晏を図らず。是の行勝つと否と、我は復た恒に入らず。将に身を定州の張公に托さんとす、安んぞ頸を持して刀に就かんや」と。常寧と副の李献誠曰く、「君は詔書を聞かざるか。大夫の首を斬りてその官をこれに畀う。大夫の勢い終に滔に滅ぼさるるを見る。若し戈を倒して府に還らば、事実図り易く、もし捷たざる有らば、張公に帰すべし」と。武俊然りとす。惟嶽は要藉官謝遵をして武俊の壁に至らしめて事を議せしむ。武俊と謀り、内応せしむ。期に至り、城門を啓き、武俊入り、人を廷中に殺すに、亢ぐ者無し。乃ち令を伝えて曰く、「大夫は命に叛く。今且くこれを取らんとす。敢えて拒む者は族す」と。士敢えて動かず。武俊は裨校任越に惟嶽を牽き出さしめ、戟門の下に縊し、並びに鄭詵・他奴等数十人を殺し、子の士真をして首を伝えて京師にせしむ。帝はその府の将士をことごとく赦し、部中の租役を三年給す。

邵真は始め李宝臣に事え、文記を掌る。武俊その忠を表し、戸部尚書を贈る。その息の呂は冀州長史に擢げらる。常寧は武俊の時に用いられて事を為し、内史監と為る。その後乱を謀り、誅せらる。

惟嶽の異母兄惟誠は、儒術を尚び、謙裕なり。宝臣これを愛し、軍事を決せしむ。惟嶽正嫡なるを以て、固く譲りて肯て当たらず。その妹は李納に妻す。故に宝臣は惟誠に故姓を復せしめんことを請い、諸鄆に仕えしめ、納の営田副使と為し、四たび州刺史と為る。

初め、惟嶽叛くとき、弟の惟簡は家僮票士百余りを以て母の鄭氏を奉じて京師に奔る。帝は客省に拘う。奉天に出ずるに及び、惟簡将に難に赴かんとし、鄭氏に謀る。鄭氏曰く、「爾が父は河朔に功を立て、位は宰相、身は未だ嘗て京師に至らず、兄は人の手に死す。爾が朝に入り、天子を識らず、能く忠を効わずんば、我は汝を子とせず」と。その行を督して曰く、「而が能く王事に死せば、我は朽ちず」と。乃ち関を斬って出で、道にて更に七戦し、行在に及び得たり。帝これを見て厚く撫で、太子諭德を拝し、賊を討つに功有り。帝山南に徙るに、惟簡は三十騎を以て従う。夜道を失い、盩厔の西に馳せ至り、中人の語るを聞く。天子の所在を問うに、密かに語りて曰く、「上ここに在り」と。帝これを見て流涕し、その手を執りて曰く、「爾に母有り、乃ち能く朕に従うや」と。対えて曰く、「臣は誓いて死せん」と。比明、北方に塵起る有り。帝憂う。惟簡高きに登りて曰く、「渾瑊騎を以て来る」と。瑊至り、遂に決して興元に趨らんとす。惟簡前導す。帝の還るに及び、武安郡王に封じ、元従功臣と号し、形を淩煙閣に図し、鉄券を賜う。憲宗の時、左金吾衛大將軍と為り、長史の万国俊は興平の民田を奪う。吏畏れて敢えて治めず。是に至りて惟簡に訴う。即日国俊を廃し、地を民に与う。出でて鳳翔節度使と為り、耕牛佃具を市い農に給し、歳に墾る数十万畝を増す。卒す。年五十五。尚書右僕射を贈らる。

子の元本は、軽薄にして行い無し。長慶の末、薛渾とともに私に襄陽公主に侍り、事敗る。主は禁中に幽せらる。元本は功臣の子を以て、死を貸し、嶺南に流さる。弟の銖は、学を好み識多く、儒者の風有り。

王武俊

王武俊、字は元英、本は契丹の怒皆部に出づ。父は路俱、開元中、饒楽府都督ととく李詩等と五千帳を以て冠帯を襲わんことを求め、薊に入り居る。武俊甫だ十五、騎射に善く、張孝忠と斉名し、李宝臣の帳下に隷して裨将と為る。宝応初、王師井陘に入る。武俊宝臣に謂いて曰く、「寡を以て衆に敵し、曲直に遇い、戦えば離れ、守れば潰る。鋭師遠く闘う、庸ぞ禦うべけんや」と。宝臣遂に恒・定等五州を以て自ら帰し、共に余賊を平ぐ。武俊の謀なり。御史中丞を兼ねて奏し、維川郡王に封ぜらる。その子の士真もまた沈悍にして断有り。宝臣倚愛し、帳中に出入りし、女を以てこれに妻せしむ。宝臣は疑いを以て許崇俊等を殺す。士真密かに左右を結び、故に武俊は難を免る。

惟嶽命に拒ぐとき、或いは武俊に他志有りと言う。武俊これを知り、出入りの導従一二に過ぎず、未だ嘗て賓客に接せず。惟嶽内に疑うと雖も、然れどもその屈損を見、又善く闘うを惜しみ、未だ殺すに忍びず。康日知は趙州を以て降る。惟嶽これを伐たんと謀る。皆曰く、「武俊は故に心膂、先君これに命じて大夫を佐けしめ、而して士真は又大夫の女弟婿、今事急なり、宜しく猜嫌を去りてこれを任すべく、然らずんば、尚誰をか使わん」と。乃ち衛常寧とともに兵を将いて往かしむ。因って惟嶽を執らんと謀る。而して日知もまた人を遣わし邀え説きて禍福を以てす。武俊乃ち兵を還し、人をして惟嶽に謂わしめて曰く、「大夫は斉・魏とともに悪を同じくす。今魏の兵は已に敗れ、斉は趙州に限らる。幽州の兵は近く定に在り、三軍且く死を救わんとす。詔有りて大夫を召すと聞く、宜しく亟に帰るべし」と。惟嶽惶遽して出で、遂に縊す。即ちその属の孟華を遣わして天子に奏す。華の弁対旨に称す。徳宗これを兵部郎中に擢げ、武俊に検校秘書監兼御史大夫・恒冀観察使を授く。

是の時、惟嶽の将の楊政義は定を以て降り、楊栄国は深を以て降る。朱滔これを受けて戍る。帝は定を賜いて張孝忠とし、而して日知は深趙観察使と為る。武俊は節度を得ずして趙・定を失うを怨み、滔もまた深州を失うを怨む。二人相結ぶ。武俊即ち使者を縛して滔に送り、これとともに叛く。帝聞き、詔して華に諭解せしむ。聴かず。

時に馬燧、李抱真、李芃、李晟が田悦を討つ。悦は困窮し、武俊と朱滔がこれを救い、連篋山に屯す。帝は李懷光に詔して神策兵を督し賊討伐を助けしむ。軍は宿営に就き、気鋭甚だしく、燧に謂ひて曰く、「詔を奉じて寇を養ふことなかれ。壁壘未だ成らざるに及びて之を撃てば、滅すべし」と。乃ち兵を縱して滔の壁に入り、千餘人を殺す。悦軍既に屢北し、陣をなす能はず。懷光は轡を緩めて之を觀る。武俊其の怠に乗じ、趙萬敵等をして二千騎を以て横突せしめ、而して滔軍踵いて馳す。王師亂れ、相蹈藉して死し、屍河を梗めて流れず。懷光還り走りて壁に歸る。武俊夜に河を決して王莽渠に注ぎ、燧の餉路を斷つ。燧計窮まり、而して滔と素より姻家なれば、乃ち使を遣はし謾りに滔に謝して曰く、「老夫自ら量らず、諸君と遇ふ。王大夫善く戰ひ、天下に前に無し。吾固より敗るべし。幸ひに公之を圖り、老夫をして河東に還らしめ、諸將も亦兵を罷めしめよ。吾天子に言ひて、河北の地を公に付せん」と。滔も亦陰に武俊の勝ちて且つ制せざるを忌み、即ち武俊に謂ひて曰く、「王師既に敗れ、馬公卑約此の如し。人を迫めて險に陥るべからず」と。答へて曰く、「燧等皆國の名臣、兵を連ねて十萬、一戰にして北す。國家に羞を貽す。何の面目を以て天子に見えんとするかを知らず。彼行くこと五十里に及ばず、必ず反って我を拒がん」。滔固より之を許す。燧魏縣に至り、壁を堅くして自ら固め、師復た振ふ。滔慚じて謝し、嫌隙始めて構はる。武俊張鐘葵をして趙州を攻めしむ。日知其の首を斬りて以て聞かす。是に於て武俊田悦等と擅に相王す。武俊國號を趙とし、恒を以て真定府と爲し、士真に命じて留守兼元帥と爲さしむ。畢華、鄭儒を以て左右内史と爲し、王士良を司刑と爲し、王佑を司文と爲し、士清を司武と爲し、並びに尚書と爲す。士則を司文侍郎と爲し、宋端を給事中と爲し、王洽を内史舍人と爲し、張士清を執憲大夫と爲し、衛常寧を内史監と爲し、皇甫祝を尚書右僕射と爲し、餘は次第に封拜す。

建中四年、抱真客賈林をして詐りて武俊に降らしむ。既に見えて曰く、「吾詔を傳ふるに來る。降るに非ず」と。武俊色動く。林曰く、「天子大夫の壇に登り國を建て、膺を撫でて左右を顧みて曰く『我本忠義なり。天子省みず、故に此に至る』とせるを知る。今諸軍數たび表して大夫の至誠を上ぐ。上表を見て色動きて曰く『朕前誤るも及ぶこと無し。朋友失意すら尚ほ謝すべし。朕四海の主、毫芒の過失、返りて自ら新たにするを得ざらんや』と。今大夫親しく逆首を斷ち、而して宰相事宜に闇し。國家と大夫と細故有らんや。朱滔利を以て相動かす。公何をか取らん。誠に能く昭義と同心し、曠然として圖を改め、上は君臣の義を失はず、下は子孫の爲に計らばん」と。武俊曰く、「僕虜人なり。尚ほ百姓を撫づるを知る。天子固より人を殺して以て天下を安んずるを務めず。今山東兵を連ねて比戰ひ、骨盡く野に暴く。勝つと雖も尚ほ誰とか居らん。今憚らず國に歸らんとす。業と諸軍と盟す。虜性樸強、曲我に在るを欲せず。天子若し恩を以て之を蕩刷せば、我首めて命に歸するを倡ふ。從はざる者有らば、辭を奉じて之を伐たん。河北五十日に滿たずして定まれり」。會に帝奉天に出ず。抱真將に澤潞に還らんとす。悦武俊・滔を說きて踵いて之を襲はしむ。林曰く、「夫れ軍を退くは、前に輜重、後に銳師、人心固より壹なり。圖るべからず。使ひ戰勝ちて地を得ば、利魏に歸し、不幸にして師を喪へば、趙其の災を受く。今滄・趙は乃ち故地なり。故に之を取らざるか」と。武俊遂に引きて北す。林復た之を激して曰く、「公異邦の豪英、中夏を謀るべからず。燕・魏幽險、彼王室強ければ則ち公の援を須ひ、削るれば則ち已に吞併せんと欲す。且つ河北に惟だ趙・魏・燕有るのみ。滔乃ち冀と稱す。心公の冀州を圖る。滔能く山東を制せば、大夫當に之に臣事すべく、然らずば攻め見えん。能く滔に臣ならんや」と。武俊袂を投げて曰く、「二百年の天子猶ほ事ふること能はざるに、安んぞ豎子に臣たらんや」と。乃ち計を定めて抱真に通好し、而して馬燧と盟を約す。

是の時、滔幽・薊の兵を悉くし回紇と貝州を圍み、將に白馬津を絕ちて南し洛に趨かんとす。李懷光河中に據り、李希烈汴を陷れ、南し江淮を略し、李納叛き、唯だ李晟軍渭上に在り。羽書天下の十の三を調發し、人心惴恐す。田緒悦を殺すに及び、林復た武俊を說きて曰く、「滔素より魏博を得んと欲す。會に悦死し、魏人氣索む。公救はざれば、魏將に下らん。滔甲數萬を益し、張孝忠將に北面して滔に事へんとす。三道連衡し、回紇を以て濟けば、長驅して南せん。昭義軍必ず山西を保たば、則ち河朔舉げて滔に入らん。今魏尚ほ完く、孝忠未だ附かず。公昭義と合兵して之を破らば、聲關中に振ひ、京邑坐して復すべし。天子反正し、不朽の業、誰か公と參らん」と。武俊大いに喜び、抱真と相聞かしめ、自ら將りて南宮に屯し、抱真經城に屯す。兩軍十里を距てて舍す。武俊潛かに抱真と軍中に會し、陳說忼慨、抱真も亦意を傾けて結納し、約して兄弟と爲り、遂に俱に東し貝州に壁し、城三十里を距てて止む。滔迎へ戰はんと欲す。武俊士に飽食せしめて戒めて曰く、「軍未だ合せず、妄りに動くこと毋れ」と。趙琳・趙萬敵に兵五百をして林を蔽ひて以て待たしむ。滔票將馬寔・盧南史をして陣して西せしめ、李少成回紇を引いて之を翼はしむ。日中兵接す。武俊子士清と精騎を引きて少成の軍を望み、抱真之に次ぐ。滔騎二百を馳せて武俊の東南に出で、高きに乗り鼓噪す。武俊步兵をして決戰せしめ、而して自ら騎を以て回紇に當たり、兵を勒して其の銳を避く。回紇馬怒りて突きて過ぎ、未だ返らざるに、武俊急擊し、琳等の兵も亦出づ。回紇驚き、中斷し、遂に先づ奔る。初め、滔兵武俊の軍を蹙めども、傷つくる能はず。回紇既に卻くや、即ち引き還らんと欲す。因りて囂ぎて止むること能はず。軍大いに奔り、滔走り還りて壁に歸る。武俊流矢に中る。抱真に謂ひて曰く、「士少しく衰ふ。盍く騎を以て師を濟はしめて、巢穴を覆さばん」と。抱真來希皓をして勁騎を率ひて滔の營に薄からしめ、盧玄真其の後に乘ず。滔懼れ、眾を引いて去る。希皓之を迫る。武俊隘に邀ふ。滔大いに敗れ、免るる者八千人。會に夜なり、各屯を按ず。武俊營す滔の東北、抱真營す西北。滔支へざるを知り、夜半車糧を焚き、遁れて幽州に歸る。火晝の如く、師大いに噪き、其の聲地を殷はす。抱真山東蝗有りて食少なきを以て、潞に歸る。武俊も亦還る。

會に詔有りて滔の官爵を復す。武俊上りて幽州盧龍節度を還す。又詔して恒州を以て大都督府と爲し、即ち武俊に長史を授け、德・棣二州を賜ひ、士真を以て觀察使・清河郡王と爲す。天子梁より至り、武俊に遇ふこと益厚し。子弟繈褓と雖も、悉く之を官す。俄に進みて檢校太尉兼中書令と爲り、京師に廟を建つるを得、有司供擬す。

武俊善く射る。嘗て賓客と獵り、一日に雞兔九十五を射る。觀者駭伏す。貞元十七年死す。年六十七。群臣天子に奉慰し、渾瑊の故事の如し。太師を贈る。有司謚して威烈とす。帝更めて忠烈と爲す。士真位を襲ぐ。

子 士真

士真はその長子なり。少時に父を佐けて功を立て、患難を更めしむ。節度を得てよりは、兵を息め善く守り、吏を擅に置き、賦入を私すと雖も、歳貢数十万緡をなし、燕・魏に比して恭順なり。元和初、即ち同中書門下平章事を拝す。四年に死し、司徒しとを贈られ、謚して景襄と曰う。軍中其の子承宗を推して留後とす。

初め、河北三鎮は自ら副大使を置き、常に嫡長を処す。故に承宗は御史大夫を以て之を為す。留事を総ぶるに及び、憲宗久しく報ぜず、其の変を伺う。承宗数たび上疏して自ら言う。帝、劉済・田季安俱に大病せりと聞き、議して更に節度を建てんとす。翰林学士李絳曰く、「鎮州は世相継ぎ、人の狃習する所、惟だ命を拒めば則ち之を討つ。且つ諸道の賞饋は百万の士を養い、又燕・魏・淄青は勢同じければ必ず合す。方に江・淮水潦あり、財力刓困す。宜しく即ち詔して承宗に嗣ぎ領せしむべし。季安等病と雖も、徐に図る所宜し。四方を定むるに天時あり、速にすべからず」と。帝之然りとし、鎮を析き分ちて節度を建て、承宗をして歳賦を輸せしめて李師道の如くせんと欲す。絳曰く、「仮令承宗詔を奉ずとすとも、諸道は地を割くを以て同怨し、是れ官爵虚しく出でて当たる無きなり。使者をして之を諭さしめ、上意を出さざるに如かず」と。帝乃ち京兆尹裴武を詔して慰撫せしむ。承宗詔を奉じて恭甚だしく、徳・棣二州を上ることを請う。遂に検校工部尚書を以て節度を嗣ぎ領し、徳州刺史薛昌朝を以て保信軍節度使とし、徳・棣を統せしむ。

昌朝は嵩の子なり。承宗と故に姻家なり。帝因りて其の親将を離さんと欲し、故に之を命ず。詔未だ至らざるに、承宗騎を馳せて劫し帰り、之を囚う。詔して更に棣州刺史田渙を用いて二州団練守捉使と為し、中人を遣わして詔を伝え昌朝を帰せしむ。承宗命を拒む。帝怒り、詔して官爵を削り、中人吐突承璀を遣わして左右神策を将い、河中・河陽・浙西・宣歙の兵を率いて之を討たしむ。趙万敵なる者は、故武俊の将、健闘を以て聞こえ、士真時に朝に入り、之を討てば必ず捷つと上言し、承璀と偕にせしむ。詔有り、「武俊忠節茂著なり。其れ実封を以て子士則に賜い、墳墓を毀つ毋れ」と。

承璀軍に至り、威略無く、師振わず。神策大将酈定進は驍将と号し、劉辟を禽らえたる功を以て、王陽山郡に封ぜらる。是に至りて戦いに北けり。馳して僨ゆ。趙人曰く「酈王なり」と。之を害す。師気益々折る。呉少誠の死するに及び、李絳奏す、「蔡には四隣の援無く、攻討の勢易し。承宗を赦し、専ら淮西に事ふるに如かず」と。帝聴かず。昭義節度使盧従史は承宗を市い、外は自ら固くし、内は実に之と与す。太常卿権徳輿諫めて曰く、「神策兵は市井屠販、戦陣を更めず。労に因り遠を憚り、潰れて盗賊と為るを恐る。恒冀は騎壮兵多し。之を攻むれば必ず時月を引き、西戎間に乗ずれば、則ち禁衛頓に虚しきを得ず。山東は疥癬なり。京師は心腹なり。深く念わざるべからず。且つ師出でて半年、費う所緡銭五百万。方に夏甚だ暑く水潦あり、疾疫将に降らんとす。誠に潰橈の変有らんことを慮う」と。又言う、「山東諸侯は皆息を以て自ら副とす。人心遠からず。誰か肯て陛下の為に尽力せん。又盧従史は寇を倚りて援と為し、承璀を訹して寵利を邀わしむ。宜しく行営の善将を召し、倍驛して馳せしめ、半道に至るを度り、之に沢潞を授け、而して従史を徙して它鎮と為し、其の奸図を破り、然る後に承宗を赦せば、衆情必ず服す」と。帝未だ許さず。

五年、河東軍其の一屯を抜き、張茂昭之を木刀溝に破る。帝従史の詐を患い、卒に計を以て縛し送りて京師とす。劉济又安平を抜く。承宗懼れ、其の属崔遂を遣わして上書し謝罪し、且つ言う、「往年地を納るるは、三軍に迫られて専らに得ず。而して盧従史に売られて以て利を求めしむ。願わくは吏を請い賦に入りて自新を得ん」と。是の時宿師久しく功無く、餉属せず。帝之を憂う。而して淄青・盧龍数たび表して赦を請う。乃ち詔して浣雪し、尽く故地を之に畀え、諸道の兵を罷む。昌朝京師に帰り、右武衛将軍を授かる。承宗兵の境に薄するを見、已にして罷む。従史に帰罪し、詰めらるるを得ず。自ら計得たりと謂い、謷然として顧憚無し。

七年、軍庫火す。器鎧殆んど尽き、守吏百余を殺す。自ら安からず。呉元済の反するに及び、承宗李師道と上書して宥すことを請い、其の将尹少卿を教えて蔡の為に遊説せしむ。宰相に見えて語恭しからず。武元衡怒り、叱して之を遣わす。承宗怨み甚だしく、師道と謀り、悪少年数十曹を遣わして河陰に伏せ、昏に乗じて吏を射る。吏奔潰す。因りて漕院に火す。人火の所に趣く。闘いて死する者十余輩。県大いに民を発して盗を捕う。亡去して獲ず。凡そ銭三十万緡・粟数万斛を敗る。未だ幾ばくもせず、張晏等宰相元衡を賊す。京师大いに索す。天子旰食を為す。承宗嘗て元衡の過咎を疏し、中に留す。是に至りて帝表を出して群臣に示し大いに議す。咸に其の罪を声して之を伐つことを請う。詔して乃ち承宗の朝貢を絶ち、其の弟承系・承迪・承栄を遠方に竄す。博野・楽寿は故范陽の地なるを以て、劉総に帰せしむ。而して遣わしし盗処処に窃に発し、建陵の門戟を断ち、献陵の寝宮を燔き、甲を伏して洛陽らくように反せんと欲す。克たず。承宗数たび兵を出して隣鄙を掠す。田弘正上言して承宗誅すべしとす。帝して師を率いて境を圧せしむ。承宗詔旨の兵即ち進まずと揣り、即ち肆に滄・景・易・定の間を剽し、人之を苦しむ。

十一年、詔して爵を削り、実封を以て土平に賜い、武俊の後を奉ぜしむ。河東・義武・盧龍・横海・魏博・昭義六節度の兵をして進討せしむ。大抵数十万、地数千里を環らし、以て其の勢を分つ。然れども営屯離置し、主約一を得ず。故に士観望す。独り昭義郗士美賊の境に薄し。賊敢えて犯さず。初め、承宗諸父に葉わず。皆京師に奔る。士則は神策大将軍と為り、其の叛くを聞き、数に占めて京兆せんことを請う。裴度用いて邢州刺史と為さんことを請い、昭義に隷せしめて以て趙人を傾けしむ。王怡なる者有り。武俊の従子、承宗の為に南宮を守る。士則之を招き、帰命を約す。謀泄れて害に遇う。子元伯奔り還る。監察御史に擢げらる。詔して怡に尚書左僕射を贈る。

明年元済平ぐ。承宗大いに恐れ、牙将石泛をして二子を奉じて魏博に至らしめ、田弘正に因りて入侍を求め、且つ徳・棣二州を帰し、租賦に入り、天子の吏を署するを待たんとす。弘正知感・知信を遣わして闕下に詣りて命を請わしむ。此に先立ち、帝尚書右丞崔従をして詔書を賜い自新を許さしむ。承宗素服して罪を待つ。是に及びて乃ち詔して官爵を復し、華州刺史鄭権を以て横海節度使と為し、徳・棣・滄・景等州を統せしめ、承宗の実封戸三百を復し、以て所部飢するを以て、帛万匹を賜う。李師道平ぐ。法を奉すること益々謹み、表して領する所の州の録事・参軍・判司・県の主簿・令は、皆王官を丐う。

十五年死す。侍中を贈らる。軍中其の弟承元を推して留後とす。承元敢えて鎮に世せず。詔して用いて義成軍節度使と為す。事本伝に見ゆ。

王廷湊

王廷湊は、本は回紇阿布思の族、安東都護府に隷す。曾祖五哥之は、李宝臣の帳下にあり、驍果善く闘い、王武俊養いて子と為す。故に姓を王と冒し、世裨将と為る。

廷湊は生まれつき肋骨が一つに連なり、沈着で猛々しく言葉少なく、『鬼谷子』や兵家の諸書を読むことを好んだ。王承宗の時代、兵馬使となった。田弘正が鎮州に至った時、詔により度支の緡銭百万を以て軍を労うこととなったが、時を過ぎても届かず、廷湊はその遅滞を暴いて衆の心を観ると、兵衆は果たして怨み、これにより弘正を害し、自ら留後を称し、監軍を脅して表を上らせ節鉞を請わしめた。また冀州を奪い、刺史王進岌を殺した。穆宗は怒り、弘正の子の布を以て魏博節度使とし、軍を率いて進討させ、更に横海・昭義・河東・義武の諸軍に力を合わせるよう命じた。ここにおいて大将の王位らが廷湊を捕らえようと謀ったが、成らず、死者三千余人を出した。時に朱克融が張弘靖を囚え、幽州が乱れたため、乃ち合従して王師に抗した。

詔があり、攻討の先後を議するに、剣南東川節度使王涯は「范陽の乱は予てからの謀ではなく、先ず鎮州を事とすべし、また魏博の怨みあり、これに晋陽・滄徳を加え、掎角の勢いで進む。夫れ兵を用いることは闘うが如く、先ず喉頸を扼す。今、瀛莫・易定は実に賊の咽喉なり、重兵を屯すべく、死生相聞かず、間諜入らしめざるに至らしむ、これ勝ち易き策なり」と為した。帝は乃ち義武節度使陳楚に境を閉ざすことを詔し、諸軍を督して三道より攻めさせた。而して滄徳の烏重胤は最も宿将にて、一面を当たる。裴度は河東節度使を以て兼ね幽・鎮招撫使と為り、承天軍に屯した。重胤は時機ならざるを知り、兵を案じて肯えて進まず、帝は聴受に浮かされ、討伐に鋭く、更に深冀行営節度使杜叔良を以てこれに代えた。叔良は平素より中人と結び、入って帝に謁し、大言して曰く「賊は破るに足らず」と。時に裴度が会星にて廷湊の兵を逐い、また元氏に入り、柵壁二十二を焚いた。叔良は諸道の兵を率いて深州を救い、博野に戦い、大いに奔り、持する節を失い、身をもって免れ、帰州刺史に貶せられた。叔良は、将家の子にて、本来附会を以て霊武節度使に至り、職を尽くさざるに坐して罷免され、再び貴近の階を経て、滄景を帥いた。廷湊はその怯懦を知り、故に先ずこれを犯し、師はここにより敗れた。

この時、帝は賜賚に藝なく、府庫の財は空しく、既に諸道の兵を集め、調発は火の如く馳せ、民はその労に堪えず。度支に仰ぐ者は大抵兵十五万、有司は給せざるを懼れ、南北供軍院を置いた。既に賊の鄙に迫り、餉道は梗棘し、樵蘇続かず、兵は番休して芻蒸を取った。廷湊は間を乗じて転運車六百乗を奪い、食は愈々困窮し、須いる所の衣帛に至っては、半道に至らず、諸軍が強奪し、有司は制することができなかった。その県師深入する者は、衣食を得ず。また監軍の宦人は、悉く精鋭の兵士を自らに随え、疲弊瑣末なる者を行陣に備え、戦えば即ち潰えた。二賊の衆は万余人に過ぎず、王師は統制一ならず、遂に功無し。宰相は兵を知らず、異議に揺さぶられ、裁報は乖戾し、深州の囲みは益々急であった。

明年、魏の牙将史憲誠が叛き、田布の衆は南宮にて潰えた。帝は已むを得ず、乃ち廷湊を赦し、検校右散騎常侍さんきじょうじ・成徳軍節度使とした。時に牛元翼が出奔し、廷湊は遂に深州を取った。詔して兵部侍郎韓愈をしてその軍を慰撫せしむ。

廷湊は既に赦されると、稍々挺然とし、克融・憲誠と深く相結び、輔車の援と為った。滄州の李全略が死に、子の同捷が襲封を求めたが、文宗は許さず、更に兗海節度使を授けた。同捷が命に逆らい、乃ち珍幣子女を以て厚く廷湊と結んだ。帝はその変を憂い、故に検校司徒を授けた。及んで幽・魏・徐・兗の兵が同捷を討つに当たり、廷湊は魏の北鄙を撓めて以てこれを牽制し、而して滄景に塩糧を饋り、隣道の使者を囚えて遣わさず。帝は怒り、詔してその輸貢を絶たしめた。ここにおいて易定の柳公済が新楽に戦い、三千級を斬首した。昭義の劉従諫が臨城に戦い、これを破り、漳水を引いて深・冀に注がしめた。詔有り「同捷乱を為し、廷湊は同悪なり、官爵を削るべく、諸道兵を以て進討し、能く廷湊を斬る者有らば、銭二万緡を賜い、優にこれに官を畀えよ。州鎮を以て降る者あれば、等差を以て比と為せ」と。公済は再び行唐に戦い、皆克ち、柵十五を焚いた。廷湊は蠟書を射て幽州に救いを求めしも、行営の李載義がこれを獲たり。また魏の叛将丌志沼を納れた。時に同捷が平らぎ、廷湊は稍々畏れ、表を上って景州を献じ、而して弓高・楽陵・長河の三県は固守し、復た上書して謝した。帝は正に兵を厭い、これを赦し、悉く官爵を復し、献上した州を還した。久しくして、進みて兼太子太傅・太原郡公と為す。

鎮冀は李惟嶽以来、天子の命に拒みしも、然れども隣好を重んじ、法を畏れ、稍々屈すれば則ち自新を祈った。廷湊に至りては、兇悖を資とし、毒を肆にして乱を甘んじ、臣ならず仁ならず、夷狄と雖も若かざるなり。大和八年に死し、太尉を贈られた。軍中にて元逵を以て命を請わしむるに、帝は襲封して節度使と為すことを聴した。

子 元逵

元逵はその次子なり。礼法を識り、歳時の貢献は職の如し。帝は悦び、詔して絳王悟の女寿安公主を尚ばしむ。元逵は人を遣わして聘を闕下に納れ、千盤の食・良馬・主の妝沢奩具・奴婢を進め、議者その恭しきを嘉した。その後、劉稹が叛き、武宗は詔して元逵を北面招討使と為す。詔下るや、即日師を引いて道を行き、宣務壁を抜き、援軍堯山を破り、邢州を攻めて降し、累遷して検校司徒・同中書門下平章事と為る。稹平らぎ、加えて兼太子太師と為し、太原郡公に封ぜられ、実封戸二百を食み、進みて兼太傅に至る。大中八年に死す、年四十三、太師を贈られ、謚して忠と曰う。

子の紹鼎が襲封す、字は嗣先、累擢して検校尚書左僕射。その人となり淫湎自放、性暴にして、厚く裒斂し、楼に昇りて路人を弾射して以て楽しみと為す。衆その虐を忿り、これを逐わんと欲す。時に病にて死す、司空を贈られる。

子幼くして事を為す能わず、宣宗は元逵の次子紹懿を以て留後と為し嗣がしめ、俄かに節度使と為り、累封して太原県伯、加えて検校司空。政簡易にして、咸通七年に死す、司徒を贈られる。紹鼎の子景崇を以て嗣がしむ。初め、紹懿病篤く、景崇を召して曰く「先君、政を我に属す、爾の長ずるを待ち、将にこれを授けんとす。今疾甚だし、爾少なきと雖も、勉めて軍務を総べ、藩隣を礼し、朝廷に奉ずれば、則ち家業墜ちず」と。監軍状を上るに、懿宗悦び、景崇を擢て留後と為し、尋いで節度使に進む。

景崇、字は孟安、公主の嫡孫として、尤も寵を被る。龐勛の反に、景崇は兵を遣わして王師と会し賊を平らげ、進みて検校尚書右僕射。主薨じ、謚して章恵と曰う、景崇は喪に居るに礼の如し。母張氏卒す、号慕羸惙、当時にこれを称せらる。政を賓佐に委ね、親属を検戒して与からしめず。嘗て母の昆弟を引いて牙将と為さんと欲す、その佐の張位曰く「軍中に人を用うるは、労有り能有り、若しその人を私せば、厚く田宅禄食を畀うるは可なり、何ぞ必ずしも官を以てせん」と。景崇謝す。進みて同中書門下平章事・検校太尉兼中書令、趙国公に封ぜらる。乾符五年、進みて常山王と為る。

黄巢反し、帝西に狩す、偽使詔を賫して至るも、景崇は斬りて以て徇し、因りて兵を発し馳檄諸道し、定州の処存と連師して西に関に入り、行在を問い、貢輸相踵ぐ。毎に宗廟園陵に語及び、輒ち流涕す。

蔚州刺史蘇祐が沙陀に攻められ、幽州に師を乞う、美女谷に屯すも、兵利あらず。祐将に出奔せんとす、時に詔有りて濮州刺史に徙す、兵を擁して之に之く、鎮を道とす、景崇これを霊寿に館す、その下の剽奪を肆にす、景崇これを殺す。

節度使を嗣いで凡そ十四年、十三度の遷任を経て検校太傅に至る。中和三年に死す、年三十七、太傅を贈られ、諡して忠穆と曰う。子は鎔。

鎔は年十歳、軍中に推されて留後と為り、検校工部尚書を授かる。李克用・楊復光が黄巢を攻むるに、鎔は凡そ再び粟を饋して師を済す。僖宗しょくより還るに、馬牛戎械万計を献ず。

是の時に克用方に孟方立を邢州に撃たんとし、鎔は芻糧を帰す。邢州平らぎ、克用遂に山東を謀り、常山西に屯し、軽騎を引きて滹沱を渉り軍を諜る。会うに大澍有り、平地水出で、鎔の兵奄に至る。克用林の中に匿れて以て免る。是の時、幽州の李匡威も亦た易・定を取らんと謀り其の地を分かたんとす。王処存方に克用を厚く事へ、克用の寵将李存孝既に邢を抜き、則ち鎔の南鄙を略し、別将李存信等井陘より出でて之に会す。鎔堯山を侵す、存孝之を撃ち破り、遂に深・越に至る。鎔匡威に求救む。存孝方に臨城等数県を攻む、匡威の鄗に屯するを聞き、師を引いて去る。存信素より存孝を忌み、妄りに曰く「賊を撃つ意無し」と。克用之を信ず。存孝は飛狐の人、所謂安敬思なる者、騎射に善く、葛従周を攻め、張浚・韓建を破り、数々奇功有り。是に至り讒を懼れ、邢州を挈ちて朱全忠に帰し、並びに鎔を結びて助けと為す。天子詔して鎮・幽・魏の兵を出だして之を援けしむ。景福元年、克用鎔に仮道して、以て存孝を討たんとす。鎔答えず、乃ち処存と連兵して鎔を侵し、堅固鎮を抜き、新市を攻む。鎔克用の将薛万金を禽す。匡威兵三万を以て鎔を救う。克用自ら常山を攻め、滹沱を渡る。鎔騎十万を引きて夜礠水を済し、襲ひて之を破り、二万級を斬り、鎧器三百乗を奪ふ。克用退きて欒城に壁す。天子詔有りて三鎮を和解せしめ、克用還る、然れども未だ志を得ず、故に復た鎔を伐つ。匡威五千騎を以て克用を元氏に破る。鎔牛酒を具し匡威と槁城に会して饗し、金二十万を餉ひて以て謝す。

俄にして匡威は弟の匡籌に逐はる。鎔其の己を助けたるを徳とし、迎へて之を館す。匡威の親忌日に、鎔往きて弔ふ。伏兵起り、其の府属楊洽及び親吏淡従を殺し、甲を着ける者鎔の袖を牽く。匡威曰く「我に四州を与へよ、死せずとも可なり」と。鎔之を許す。将に鎔を牙城に入れんとす、鎮軍噪きて左門を闔ひ、垣を坎りて出で戦ふ。会うに大雨風有り、木抜け瓦飛ぶ。兵相接するに、屠者の墨君和袒して薄く賊に当たり、衆披靡す。乃ち鎔を挟みて城を逾えて入る。既に免るるや、千金を賞し、第一区を与へ、十死を宥するを約す。匡威東園に走る、兵之を囲み、従事李抱貞と倶に死す。明日、鎔礼を以て匡威を斂め、素服して諸廷に哭し、使を遣はして匡籌に告ぐ。匡籌怒り、書を移して兄の死する所以の状を詰め、天子に表して鎔を討たんことを請ふ。詔して之を止む。又詔して朱全忠に幽・鎮の怨を平げしむ。

克用匡威の死を聞き、自ら兵を率ひて城下に傅く。鎔大いに驚き、縑二十万を納む、乃ち退く。匡籌楽寿・武強を攻む。克用縛馬関より出で、鎮兵を平山に破り、因りて進みて鎔の外壘を攻む。鎔内に幽州の助を失ひ、因りて盟を乞ひ、幣五十万を進め、糧二十万を帰し、兵を出だして存孝を討つを助けんことを請ふ。乃ち解くを得。

克用欒城に屯し、存信琉璃陂に屯す。邢人の夜其の営を襲ふに為り、存信の軍乱れ、追ふこと克たず。克用進みて邢に薄る。城を環らして溝堞と為し、久しく囲まんとする者を示さんと欲す。城中の兵数出で、溝壘成ること可からず。裨将袁奉韜存孝を紿して曰く「君の畏るるは唯王のみ。王溝堞成れば則ち西に帰らんと欲す。公何ぞ之を聴かざる」と。存孝兵出でず、壘成る。攻むること益急、城中食尽く。存孝城に登りて哭して曰く「我誤りて計る、我をして生けて王を見しめよ、死すとも恨み無し」と。克用家嫗を遣はして之を招く。存孝出で、泥首して存信の誣構するを言ふ。克用曰く「爾鎔に与ふる書、我を罵ること多し」と。軒して屍を市にす。

光化中、全忠幽州の劉仁恭を討つ。鎔兵を遣はして蓚城に屯せしむ。俄にして仁恭敗れ、其の帰を撃ち、十八を得。全忠既に邢・洺・礠を取り、又潞を得、因りて河東を図る。羅紹威をして鎔を諷して太原を絶ち、共に全忠を尊ばしむ。鎔猗違す。全忠悦ばず。会ふに克用の将李嗣昭洺州を攻む。全忠自ら将ひて之を撃ち走らしめ、鎔と嗣昭との書を得る。全忠怒り、軍を引きて鎔を攻め、元氏に次ぐ。鎔其の属に謂ひて曰く「国危し、奈何」と。周式全忠に見ゆるを請ひ、口舌を以て罷むべしと。之を許す。全忠迎へて折して曰く「爾が公は朋附して太原す、今赦無し」と。即ち書を出だして式に示し曰く「嗣昭在らば、宜しく速かに遣はすべし」と。式曰く「王公の和する所は、人の鋒鏑の間を息ます耳。況んや継いで天子の詔を奉じて和解し、能く一番の紙を北路に墜さざらんや。太原と趙は本より恩無し、嗣昭庸ぞ肯て入らん。公は唐の桓・文たり、方に仁義を以て覇業を成さんとし、寧ろ人を険に困らせんや」と。全忠喜び、式の袂を把りて曰く「吾特だ戯れんとす」と。帳中に延し入れて、好を脩するを議す。鎔幣二十万を以て師に賂ひ、子の昭祚を遣はして質と為し全忠の府に仕へしむ。全忠因りて之に妻す。鎔の判官張澤謀りて曰く「火を失へる家は、遠き救ひを恃むべからず。今定は密邇し、太原と親し、宜しく全忠をして之を図らしむべし」と。鎔式を遣はして全忠に使はしむ。全忠乃ち定州を取り、王郜遂に太原に奔る。

鎔の母何氏は、婦徳有り、鎔を訓ふること厳し。母亡するに至り、鎔始めて貨財を黷し、姫侍千人、儀服上を僭す。又房山に西王母祠有り、数たび遊覧し、妄りに長年の事を求め、月を逾へて還らず。

初め廷湊賤微の時、鄴に道士有りて卜ひ、『乾の坤』を得たり。曰く「君将に土有らん」と。鎮を得るに及び、迎へ事ふること甚だ謹みたり。復た問ふ「寿幾何、子孫幾何」と。答へて曰く「公三十年の後、当に二王有らん」と。已にして廷湊立ちて十三年にして死す。蓋し廋文なり。景崇・鎔皆王たり。廷湊嘗て使をして河陽に至らしむ。路に酔ひて寢す。其の所を過ぐる者有りて之を視て曰く「常の人に非ず」と。従者以て廷湊に告ぐ。馳せて之に及び、其の故を問ふ。曰く「吾君の鼻の息を見るに、左は龍の若く、右は虎の若し。子孫当に百年王たらん。家に大樹有り、堂に覆ひ及ぶ。公興らん」と。弘正を害するに及びて、樹適ひに寢を庇ふ。廷湊より鎔に訖るまで、凡そ百年。

【贊】

贊に曰く、朱滔・王武俊南面して王と称し、地連りて交昵す。及んで泚天子を僭すに、滔将に之に応ぜんとす。当時危し。賈林一語を以て武俊を寤ます。兵を軋して相仇し、幽・薊の鋭を折り、泚其の朋を失ひ、孤城を出でず、終に覆夷に底す。林の功を用ふるに、賞身に及ばず。徳宗明ならざるかな。